『先哲が説く 指導者の条件』 で読む 熊沢蕃山 一、
今晩は『現代活学講話選集⑥ 先哲が説く指導者の条件』 PHP文庫 から学んでみたいと思いまして、その中から熊沢蕃山先生を学んでみたいと思います。今回も○っと丸写し回でございます。
どうも、おこんばんはです。丸写マイスター豊臣亨です。
これは、蕃山先生の語録である、『集義和書』を安岡先生が説かれたものでございまして、蕃山先生が門弟などからの質問に対して、Q&A形式であれこれと説かれたものを、さらに安岡先生が昭和四十二年当時の世界情勢や日本の状況と照らし合わせて縦横に説かれたものであります。
古典は当然として、欧米の識者の言葉や思想、その当時の先進的な科学知識などを引用したり、日本の現状に対し厳しく指摘する内容はまさしく安岡教学の面目躍如というべきでありまして、これはそのまま現代の問題であると言っていいでしょう。
それはつまり、昭和に説かれた内容がそっくりそのまま現代に当てはまるという、色々と考えさせられることでありますが、しかし、本書を通じて、学問することの意味・意義を改めて学べるかと思います。
では、さっそく伺ってみましょう。p176
<span style="font-size:large;">熊沢蕃山の風格</span>
「備前藩主・池田光政の知遇を得て、岡山の藩政に優れた経綸の才を発揮した熊沢蕃山先生(一六一九~一六九一)は林政に、治水に、租税の改革に、風教に、目覚ましい政績を上げた経世済民の偉人であります。
彼はまた、いわゆる威あって猛からざる才徳兼備の風格の持ち主であり、その心術において、学問風流において、出処進退において、敬慕すべき大自由人であった。
静かに冴える灯の影に彼の『集義和書』を読んでいると、いかにも沈着いて容姿の整った、そしてどこか秀傑の気のつつみ切れない立派な蕃山その人の姿が彷彿として浮かんでくるのである。ここではその『集義和書』を通じて、指導者としての道、そして日本人としての立派な在り方を探ってみようと思うのであります。
さて、世間では普通、熊沢蕃山と申しておるが、しかし、蕃山というのは先生の本当の号ではない。むしろ先生の引退後の雅姓とでも言うか、池田藩の藩政に携わった後に、自分の領地であった寺口村というところに隠棲された。そのときにかねて愛誦しておった『新古今和歌集』の恋の部にある源重之の、
筑波山葉山蕃山しげけれど
思ひ入るにはさはらざりけり
という歌から寺口村を蕃山村と名づけ、そこに隠棲したことから蕃山了介と言ったものである。それで村の人々も蕃山の先生、蕃山の先生と呼ぶようになり、いつの間にか蕃山先生となったもので、本人が「蕃山」と号されたのではありません。だから本当は名前が白継だから熊沢白継とか、雅号で言えば熊沢息遊軒、あるいは蕃山了介というのが正しいけれども、事実として、熊沢蕃山で通っているものだから、そう読んでも一向に差し支えありません。
人間を見るのに四つの見方があります。いや、要約すれば三つ、あるいは二つにもなるけれども、まず人間の本質的要素は何と言うても「徳性」というものである。これに属性・付属的要素として「知性・知能」と「技能」がある。もう一つは「徳性」に準じてよい大事な「習慣」というものがある。この四つの観点から人間を考察すると、一番良く把握できる。
そこでまず、「徳性」という点から蕃山先生を見ると、これくらい立派なゆかしい人は少ない。およそ先生に親炙(親しく付き合って感化されること)した者で、先生のその徳性、その風格に心酔しなかった人はいないと申してよろしいのであります。
また蕃山先生は良い習慣をつけるために努めた人であります。例えば、ごく若い時には太っておったので、どうしても動作が機敏でない。これは武人としてはなはだ不都合であると気づくと、身体を引き締めるためにいろいろの習慣をつけられた。ときには夜間に、人が寝静まってから、屋根の上をまるで忍者ように走る、という芸当さえやって努力されておる(天狗かな? と疑われたのだとかw)。このように先生は良い習慣を身につけるということを始終考えておられた。
それから頭脳や技能、智慧・才幹という点になると、実に複雑でありまして、特に見識において勝れておられた。さらに普通の儒者と違って、天下の経綸、国政を料理するという面においても抜群であったのであります。
したがって、そういうさまざまな観点から考察して、人間としては最も立派な人と申してよかろうと思います。しかしその生涯は、運命に恵まれないというか、せっかく池田光政公に用いられて、国政に当たられたのだけれども、いろいろな妨害・排斥に遇って、その職を退いておられる。しかし、辞し方もまことに悠々たるもので、そうして蕃山村に隠棲されて、その後は優遊自適の生活、風流隠士の生活を送られた。しかも至る所人に慕われ、学を講じ、芸術を楽しみ、大きな感化を自然自然に周囲に及ぼされておるのであります。
ことに私なんかが羨ましく思うことは、独り学問・教養のみならず、その趣味の点においてであります。琵琶をよくし、笛を吹いて、優にゆかしいものがある。京都におられたとき、ある笙の名手が散策しておると、どこからともなく楽の音が聞こえてくる。思わず足を止めて、これは世の常の人ではない、音律に心の粋が伝わっておる、というので、主は誰かとだんだん聞き合わせてみると、それは蕃山先生であったという逸話も残っている。実にゆかしい風懐の人であったのであります」
<span style="font-size:large;">融通無碍のその学問</span>
「先生の学問・見識は本当に解脱しておる。
何らこだわりというものがない。型に嵌まるところがない。実に自由自在です。したがって学派についても、先生を陽明学派と称しますけれども、中江藤樹先生の因縁や、また先生の人格・識見・気宇などを考えて、たしかに陽明学に通じるものがあるが、しかし、決して先生自身は陽明学派などと考えておった人ではない。また、そういう主張をした人でもない。まことに自由自在であります。
それから、当時これだけの人として実に特異なことは、文を漢文で書かずに、ずべて当時の俗文で自由に書いておられることである。漢文で書かなければ、何か学者の権威にかかわるように思われておった時代なのに、これは本当に珍しいことである。道元禅師が『正法眼蔵』をこつこつと書き下しで発表されておるのとよく似ておる。達人の一つの面目でありましょう。実に屈託のない、息遊軒という号によく似合う人柄・見識であります。
息遊という言葉は『礼記』の一篇である「学記」の中に、
「君子の学におけるや、焉(焉は学問のこと)を蔵め焉を修め焉に息し焉に遊ぶ」
とあるところにより採ったもので、いわゆる優遊自適ということであります。
道徳もその通りで、無理に押しつけて型に嵌めることでは決してない。いろいろのものにぶつかり、争い、苦しんで、まごまごするのではなくて、いつもゆったりと、自然に進んで往く、これが道徳の真諦であります。学問でも何単位を取らなければとか、何点取らねばならぬとか、卒業証書をもらったら何にならなけれなならぬとか、そういう目的や手段でやるのは本当の学問ではない。本当の学問はまさに優遊自適、学問の中にゆったりと遊んで、自然に進んでいくのでなければならないのです。
戦争をしても、漢民族は激戦・激突などを本領としない。中国の兵学・兵法というものは敵と正面衝突しないで、敵と遊ぶ、敵と優遊自適すると言うとおかしいけれど、決して正面切って衝突するようなことをしない。敵が突撃してくれば引き退がり、敵が止まればこちらも止まる。そして敵が退却すれば追撃し、反撃すると引き退がる。いわゆるゲリラ戦・遊撃戦というものである。ゲリラ戦の大家が司馬仲達です。これに引っ掛かった諸葛孔明はへとへとになって、とうとう参ってしまった。孔明は生真面目な人で、その上いろいろと内情もあって、どうしても早く片付けなければならぬ、というので急いだのが一期の不覚であったのであります。
しかしこれは、何も司馬仲達に始まったわけではない。中国の兵法というのは元来そういうものなのである。学問も道徳も同じことで、みな優遊自適にある。だから中国の大人というのはどこかゆったりとしておる。
中国人の好きな言葉に「蕩」という語がある。『書経』を読むと「王道蕩々」と書いてある。「蕩」という文字に三つの意義があって、第一はスケールが大きいこと。第二は柔軟で、弾力性があって角がない、ぎくしゃくしないこと。そして、これが悪く転じて第三には「だらしない」「とろける」という意味になる。この三つの意味を渾然と一つに含んでおるのが「蕩」という語であります。そこで、よく熟れた酒を「蕩酒」と言い、スケールが大きくて、少しもぎくしゃくしたところがない練達の士を「蕩子」と言う。「蕩人」「蕩子」と言うと、日本ではもっぱら悪いほうに使って、酒や女にだらしない人間の意味になっているが、決してそうではないのであります。
これに対して日本人は「稜々」という言葉が好きである。
これは研ぎすまされた矛の角であって、「稜角」「気骨稜々」などと使う。天皇陛下のご威光を「稜威」と申すのであります。「稜」は大変よく切れる。鋭くて、光り輝いて、立派である。しかしその反面、それは折れやすく、傷つく危険性がある。そこで「蕩々」と「稜々」とがうまく調和すればよいので、日本民族と漢民族が本当に調和すれば、アジアは必ず治まる。その両方が喧嘩をしてしまったのですから、これはアジアの大損失、世界の損失であります。
それはさておき、蕃山先生は一面「稜々」たるところもありますが、しかし、元来は「蕩々」たる人に属すると思う。ゆかしいと言えば、これほどゆかしい人は徳川三百年の中でもあまり多くはいないのであります」
<span style="font-size:large;">「法」なるものの本質</span>
「熊沢蕃山先生の思想・学問の魅力は、単なる理知的なもの、つまり大脳皮質あるいは前頭葉的なものではなくて、実に深く情緒化されており、いわば大脳皮質と気海(へそから指一本分下にあるツボ)、丹田までがまことに統一されて、思想となり業績となっておるというところにある。『集義和書』をしみじみ読むにつけ、私たちが生きておるいまの時代・環境、そこの中におる自分というものを省察させるのに、大変いいものであります。
幸いにこの時局になって、いままで無視され排斥されておった歴史・伝統に関する興味や関心が続出してきて、伝記ものが流行し、これに伴って古典が出版されるようになってきた。これは日本の国民にいまだ良心や生命が衰えない、尽きないという一つの証拠である。孔子の言葉を借りて言えば、
「天未だ斯文を喪さず」
天はいまだ聖人の教え、本当の学問を滅ぼそうとはしない。
というのはこのことで、これを正しく、力強く培養すれば、大変いい救いの薬、診療・治療・医療になるのであります」
<span style="font-size:large;">道と法</span>
【来書略。政令法度は人情をよく知りて、時処位に応ずるものなりと承り候。もっともの儀に候。昔たまたま道を以て政をせんとおぼしめしたる君もおわしまししかど、時の学者唐流を以て日本に行わんとせしかば、つかえとどこおる所おおく、やめ給いぬとうけ給わり候。おしき事にて候。
返書略。道と法とは別物にて候を、心得ちがいて、法を道と覚えたるあやまり多く候。法は中国の聖人といえども代々に替り候。いわんや日本へ移しては、行いがたき事多く候】
来翰の大略。
政府の命令や法律・掟というものは、人情をわきまえて、しかもそれぞれの時代や環境、身分や立場といったものに適応したものでなければならないものであると聞き及んでいます。至極もっともなことかと存じます。ところが昔、道――宇宙人生の根本原理をもって世の中を治めようと考えた君主もおられましたが、その時代の学者がシナ風、唐の時代の流儀をそのまま日本にあてはめて実施しようとしたので、障害や停滞が多く、ついに中止されたと聞いております。これはまことに惜しいことであります。
返書の大略。
道と法とは別のものでありますのに、両者を混同して、道の外面的・社会的な表現様式であるところの法を道と錯覚した過誤が多く見られます。法というものは、中国の聖人といえども、時代時代によって替わるものであります。まして中国の法をそのまま日本に移し行おうとしたのでは、行われがたいのは当然であります。
「来書略」、向こうからきた手紙の大略にこういう質問がある。「政令法度は人情をよく知りて、時処位に応ずるものなりと承り候」、抽象論や形式論では駄目で、その時その処、その位置に応ずるものでなければならない。政令とか法度とかいうものはごもっとものことであります。
これに対する返書の大略。つまり道と法とは元来別のものだ。人間で申しますと良心、平たくいうならホルモンとか抑制機能というものすべて道であり、これあるによって生命が進展・向上する。これによって表現され、感覚的・外面的・社会的に発するものが法であります。単に作為されたものでは本当の法ではない。法というものは成るべきもので、為すべきものではない。成るべきものがすなわち道であり、これに基づいて為すことができるのであります。日本は明治以来、ドイツ法学がずっと中心をなしておりました。ドイツ法学者が、
「法はゲマッハト(作られた)ものではだめで、ゲボーレン(成りたる)ものでなければいけない」
と言う。技術的なものではなく、自然にそうなってきた、もっと生命的なもの、形成し、表現するものでなければならない。そういう意味において、敗戦の結果、占領軍によって急にアメリカン・デモクラシーが押しつけられ、ここに民主主義政治体制というものを作ったというのは、これは明らかにゲマッハトであり、決してゲボーレンではない。
「道と法とは別なるものにて候を、心得ちがいて、法を道と覚えたるあやまり多く」
日本の例で言えばつまり本当の道でない。にわか作りの押しつけられた民主主義、そういう政治体制を真理であり、本当のものだというふうに日本人は間違って考えた。
だいたい押しつけたアメリカ人自身がびっくりして、日本人は一字間違えて、
「デモクラシー(democracy)をデモ狂(democrazy)にしてしまった」
とアメリカ人が驚いたくらい妙な法ができてしまった。ここに蕃山先生の言うことがよくわかります。
「法と道と覚えたるあやまり多く候。法は中国の聖人といえども代々に替り候」、
法というものはその時代時代、その時と所に従って、だんだん変化していかなければならん。小学校・中学校・高等学校・大学と変わってゆくに従って、学科も変わってゆく、訓練もかわってゆく、これが法である。
「況んや日本へ移しては、行いがたき事多く候」、
向こうでうまく行ったからといって、それを日本へ持ってきてもうまく行くとは限らない。ソ連の共産主義政治が成功したからといって、そっくりそのまま日本に持ってきても、うまく行くものではないのであります。
【道は三綱五常これなり。天地人に配し、五行に配す。いまだ徳の名なく、聖人の教えなかりし時も、この道は既に行われたり。いまだ人生ぜざりし時も、天地に行われ、いまだ天地わかれざりし時も、太虚に行わる。人倫天地無に帰すといえども、亡ぶることなし。いわんや後世をや。法は聖人時処位に応じて、事の宜しきを制作し給えり。故にその代にありては道に配す。時去り、人位かわりぬれば、聖法といえども用いがたきものあり。合わざるを行う時は、かえりて道に害あり。今の学者の道とし行うは、多くは法なり。時処位の至善に叶わざれば、道にはあらず】
道は三綱(君臣・父子・夫婦)、五常(仁・義・礼・智・信)がこれであります。道は天地人に割り当て、五行、すなわち木・火・土・金・水という民衆の思考律に該当するものです。古代の、まだ道徳の自覚にともなう聖人の教えがなかったときも、この道は潜在的に無自覚のうちに行われていたのです。まだ人間というものが出現しなかったときにも、道は宇宙に存在し、この地球ができる前から周流していたものです。
そしてたとえ人間の道(人倫)とか、地球が消滅したときでも、永遠に消え去ることはありません。ましてこれから後の時代においても絶えることはないでしょう。しかし法は、聖人がそれぞれの時処位に対応して適宜に作られたものでありますから、その当時にあっては道に相応して妥当なものでありました。ところが、時が去り、人の地位・立場が変わってしまえば、聖人の制作した法といえども、適用しがたいところが出て参ります。時勢に適合しがたい法を実施すれば、かえって道を害うものです。いまの学者が道と思っているものは、多くは道ではなくて法であります。時処位にぴったり適合したものでなければ、それは道とは申せません。
しからば道とは何であるかといえば、三綱(君臣・父子・夫婦)、朋友あるいは兄弟長幼といういろいろ人間生活の成立する関係がある。その一番の大本は君臣・父子・夫婦、これが三綱、五常はそれに基づく五常仁・義・礼・智・信がそれだ。それを天地人に配し、五行に配す。木・火・土・金・水という五行、これは東洋民族のほとんど民衆的考率になっておる。
いまだ道徳の自覚、それに伴う聖人の教えもないときでも、この道はすでに行われておった。この道は人間にちゃんとポテンシャル(潜在的)に、無自覚的・無意識的に行われておった。その道があったから、その内容があったから、だんだんそういう自覚が発達したのである。無から有は出ないので、無とは全有である。だから、人間が生ぜざりしときも、天地にはちゃんと道というものがあった。この天地別れざりしときは、いわば太虚、宇宙に行われておったのであります。
「人倫天地無に帰すといえども、亡ぶるなし」これは現象の世界の栄枯盛衰にかかわらず、本質的に存在するもので、「況んや後世をや」であります。そこでそういう本質を元来在しておった道に基づいて、現象世界に処して、聖人がその時代、その場所、その地位に応じて、どうすることがよいかと、事の宜しきに従って作り上げたものが法である。
「故にその代にありては道に配す」それゆえにその時代において、その法はその道としっくり配合されておった。しかし、時が去り、人位が変わったならば、「聖法といえど用いがたきもの」である。法と道とが良く配合されなければかえって道に害が出る。「今の学者の道とし行うは、多くは法なり。時処位の至善に叶わざれば」本質の善に叶わなければ、「道にあらず」であるのであります。
例えば選挙問題、これが今皆さんのご覧の通り、議会政治、代議政治の運命を決する問題です。選挙といえば選挙法のことを皆考える。小選挙区制がいいか、中選挙区制がいいかとか、金のかからん選挙だとかを考える。これはこのいまの学者の道とし行うは、多くは法なりということである。ところが問題は、そんな中選挙区と小選挙区とがどう違うかと、どっちがいいかというようなことではない。もっと選挙というものが道に入らなければ駄目であります。
デモクラシー(民主主義政治)というものは、その国民全般の進歩を遂げるために、国民のすべてを通じて最も勝れたエリートを選出して、東洋流の言葉で言うなら、いかなる野にも遺賢なからしめて、それによって国民全般の進歩を図っていく。これが選挙というものの根本精神、本義である。したがっていろいろの意味、つまり大きく分ければ、人間的にも善であり、能力的にも優秀である人間が選ばれなければならん。優れておるだけ、ただ善良だけではいかん。善良で愚でもよくない。お人好しとか馬鹿とかでもいかん。能力的には大変できるけれど人間性が卑しくてはなおいかん。
熊沢蕃山先生は「道徳の世界では、少々能力がなくても、善人である方が良い、徳がある方が良い。しかし政治はそれではいけない。それに才・能力というものが加わらなければならん」(『大学或門』)ということを論じておる。実は、これが幕府にちょっと睨まれたのであります。
政治というものは、蕃山先生の説を待つまでもなく、徳と才が揃わなければならん。これをエリートという。それを選出するということである。それを偏頗(片寄って不公平なこと)なく国民のあらゆる階層から選出することによって、国民全般の進歩を図るのがデモクラシーの本義である。そこでその選出方法を規定するのが選挙法であり、選挙法の前に選挙道というものがなければならない。選挙道なき選挙法なんていくらやってもデモクラシーにはならない。ところが、道を忘れてしまって法ばかりになるものだから、例えば自分が出やすいように選挙区を作ろうとすると、既選代議士が自分の都合のいいように線を引く。そうすると、今度は都合の悪いやつが逆に引こうとする。これを英語ではゲリマンダーという。このゲリマンダーの争いで、どうしたって小選挙区が成立しない。これは自民党も社会党も皆同じ。道に基づかん法などというものは成り立たないのであります。
いまの党の首脳部やそれに言わされて、総理までもが「金のかからん選挙」ということを看板にする。これは私は非常に浅薄だと思う。日本の議会政治の名誉のためにも、あんなことは言うべきではない。たとえそれが事実であったとしても、言うべきではない。もっと立派な国民の代表者を出すための選挙と言わなければならん、賢人を、真のエリートを、国民の満足するような人が得られるような選挙体制を作ると言わなければいけない。そこに今日の政治家が道を学んでおらんことが現れてくる。惜しいことであります。
【しかのみならず、今の法に泥みたる学者は仁義をしらず。争心利害の凡情逞しく、ただ己の気質の近きが為に、事を勤め法を用い、経学の文理をいうを以て、道者なりとおもえり。世の中の人、この徳あればこの病あり。寛仁なる生まれ付きの者は、行事に非なる事あり。大意をみるものは、細行を顧みず。篤実なる者は、才知不足なり。作法よくつとめて、争心我慢なる者なり。人にたかぶるを悦びて、学を好む者あり。初めの三は徳についての病なり。後の二は凡心を根として外をよくする者なり。然れどもその生まれ付き文理にさときか、事を勤めるに得たるかの処あればなり】
それだけでなく、いまの法に凝り固まった学者は、人間の践み行うべき仁義の道を知りません。むやみに人と争い、利害に惹かれる俗っぽさがひどくて、自分の気質が世俗の情に近いために、何かといえば法を用い、儒学、すなわち人間の根本問題を追求する学問の文脈を議論することをもって道者、道の実践者だと錯覚しておるのです。
世間の人は皆長所もあれば欠点もあるものです。お人好しで寛大な人は、生き馬の目を抜くような世間のことにはうといので、失敗しがちですし、大まかな人間はこまごまとした世事を顧みないものです。律儀な人間は智慧・才覚に欠けています。形式的な世間のしきたりはよくつとめるが、何かといえば人と争って我の強い者もある。そうかと思うと、他人に自慢したくて学問を鼻にかける者もあります。最初の三つは徳についての弊害で、後の二つは、根は俗っぽいくせに外面を飾ろうとするタイプである。しかしこの二者には、人間の根本的な道理に聡いか、外面的な俗世間のことに勝れているかという大きな違いがあります。
しかのみならず、いまの法に泥みたる学者は仁義を知らない。争う心、争心利害の凡情ばかり逞しくて、ただ自分の気質に近きがためにそこに引っ張ってゆく。「事を勤め法を用い、経学の文理をいうを以て」、そういう下心で経学、人間の根本問題の学問の筋道、すなわり道をいうことで、道者だと思うておる。実は道から離れておる。
「世の中の人、この徳あればこの病あり。寛仁なる生まれ付きの者は、行事に非なる事あり」、どうもゆったりとした心の寛い人は、どうかすると油断も隙きもならないこの世の中に事に処しては抜ける、間違うことがあるのであります。
ときどき善人というものは、利口なやつからは馬鹿だということになる。「作法よくつとめて、争心我慢なる者なり」とは、外面的なしきたりはよく勤めるが、内心は争心我慢、非常に人と争う心、自分は偉いと非常に我意のいっぱいな者、我慢なる者がある。このへんの文章は創作のための創作ではないから、文章がときどきたどたどしいことがあるが、やむを得ない。初めの三つは徳についての病である。後の二つは凡心を根として外をよくする者である。「然れどもその生まれ付き文理にさときか、事を勤るに得たるかの処あればあり」、しかし、この二者には、人間の根本的な道理に聡いか、外面的な俗世間のことを行うに勝れているか、という大きな違いがあるのであります」
ここらでよかろうかい(久しぶりw)。
非常に長い文章なので一旦一区切り。あと二~三回はこんな調子で○っと丸写しする予定でございまする。
ではまず、そもそも熊沢蕃山という人はどういうお人であったか。江戸初期、戦国末期に生まれられた人で、最初、備前国岡山藩主は池田光政公の小姓として仕えたそうな。で、島原の乱が起こったので出陣を願ったけれどもそれは叶わなかった。やがて、近江、滋賀県は小川村、(現・滋賀県高島市)におわした中江藤樹先生の下に参じ、必死の願いで門下にしてもらいます。
なんでもこの時、藤樹先生は学問に非常に迷いのあった時で、容易に蕃山先生の門下願いを許さなかったとか。自分自身が非常に中途半端な状態であるのに、新たに門下を教えることができるのか、という迷いのあった時で、蕃山先生は一度帰国するも、二度目に訪れた時には二夜も門前で立ち尽くして弟子入りを願ったのだとかで、まずその姿に心動かされた藤樹先生の母がとりなしたのだそうな。
その後、藤樹先生の教えを受けて帰国するも、父は仕事を求めて江戸に立つと、蕃山先生は母親や、幼い兄弟を養いながら学問をしたそうで、そのあまりの貧苦に一家そろって餓死するのではないかと周囲が心配するほどであったとか。しかし、そんな中にあっても蕃山先生は学問おさおさ怠りなかった。むしろ、文章を読むというより、心を練った、そうな。
やがて再度光政公に仕え、諸藩の疲弊著しい参勤交代を三年に一度とすべしと献策し、幕府に入れられます。
また、非生産身分である武士を救うべく、いわゆる屯田兵的な施策をもって農業政策を実施し林政、治水にと着々と業績をあげられたのだとか。しかし、いつの世にも華々しく活躍すればするほど人の嫉妬を買うもの。蕃山先生の令名が周囲に轟ければ轟くほどに、その嫉視排擠は激しく、彼を愛する京都所司代の板倉重宗などは密かに忠告したほどだったとか。
その後、狩りの最中誤って谷に落ちてしまい体を痛めてしまい、逆に、好機とばかりに隠居してしまいます。
そして隠居してから京都にあって音楽や和歌をもって数多の公家と交わったとか。しかし、そうして朝廷の人材と親しく交わるほどに幕府の疑いの目が向き、林羅山の弟子などから盛んに誹謗中傷を受けることになり、彼を由比正雪の同類とみなし、妖術をもって人を惑わし、言うところもキリスト教の亜種とまで言い出すような次第であったとされます。さらに、蕃山先生の自由な学風を、藤樹門下からも非難の声が上がった。さらに幕府の忌避に触れ蟄居謹慎を命ぜられるなど、その後も誹謗中傷が止むことはなかったとか。しかし、蕃山先生の学問は、もはやそこらのつまらぬ人間の区々たる範疇を超えていた。
陽明学から発してやがて神道に入り、何学だの何派だの、こだわらずにはいられぬ次元を超え、自由の境地に至った。
先生は言います。
【愛しては生きなんことを欲し、悪んでは死せんことを欲す。すべて命を知らず】
【己より富貴なるをうらやみ、或はそねみ、己より貧賤なるをあなどり、或はしのぎ、才知芸能の己にまされる者ありても益をとることなく、己にしたがふ者を親しむ。人に問ふことを恥ぢて一生無知なり】
こだわりを捨てて、一段と高い所に進めば、はるかに眼下を見下ろすことができるでしょう。
といった塩梅で続きます。
「ヤナト田植唄」 を聴きながら。
好評なのは知っておりますが、すいません、まだ『天穂のサクナヒメ』はプレイしたことがないですね。しかし、ようつべで朝倉さやさんの歌があったので聞き惚れてしまいました。ってかごく自然と泣けました。
特に、
天穂のサクナヒメ 歌 - 朝倉さやLIVE | ヤナト田植唄・巫
https://www.youtube.com/watch?v=WbdTHCA6JG4
は、もはや祝詞のレベルですね。
柿本人麻呂の、
敷島の大和の国は 言霊の幸わう国ぞ ま幸くありこそ
をここまで完璧に体現した歌をいままで聴いたことはありません。
令和に至って、日本が崩壊した現在にあってもなお、日本の心は滅びない。まさしく本文にある、孔子様のお言葉、
「天未だ斯文を喪さず」
はこの歌のことをおっしゃっている、と言っても決して寝言ではないでしょう。日本は滅びん! 何度でも蘇るさ! 日本の力こそ人類の夢だからだ!! と、ムスカ大佐のマネしたくなります。
大和民族なら聴いてほしい歌であります。
神仏もご照覧あれ!
したらば。