後出師表
緊急事態いまだ解除されず。
ここまでだらだら長引いて、何が緊急なのか、もはやよく分からぬ。緊急とは、読んで字のごとく、即座に対応を求められる状況、と言うが、その緊急事態を長引かせてどんな対応をとっておるのやら。医療機関はもはや戦場と化しているとは伺いますが、飲食店などを多少早めに店じまいをさせたからといって、それが即座に医療機関への援護となっておるのやら。
よほど海外渡航などを全面的に停止したほうが効果は高い気がしますが如何。
わたしの仕事は夜の8時に終了するもので、もはや多くのお店が閉まっておる事態。仕事帰りにラーメン屋によることもできん。もはやことここに至っては、中共肺炎より、この緊急事態の方に怒りを覚える。言われたからやりました、的なおざなりな対応の緊急事態宣言とやらの意味・意義に激しく疑問を覚える今日このごろ。
仕方ないから近所のスーパーによって袋の生麺を買うも、有名ラーメン店の名を借りてはおるものの、大概の袋麺は名前負けしてたいして美味しく感じないものがほとんど。「佐野ラーメン」は美味しいな、と思いますが。
とはいえ、インスタントラーメンを食べるとあの油に負けてしまって、おっさんのポンポン(腹)はゆるゆるになってしまう。生麺はほとんど美味しくないが、インスタントラーメンの完全に完成された味は至高。
そこで閃いた。
乾麺はもったいないが、それを捨ててしまって至高のスープで生麺を食べれば美味しいんじゃね??
勝ったな。がっはっは。
早速、天下無双のサッポロ一番の味噌ラーメンと生麺で試す。
…うん。
コレジャナイ…… _ノ乙(、ン、)_
ストレート麺が絶望的にスープと絡まない……。あの美味しい味噌スープが借りてきた猫のようによそよそしい……。乾麺のあの縮れ麺が旨さの秘訣のようで。で、そもそも、体には悪いがあの乾麺の油こそが旨味になっているのだから、その油がないと圧倒的に旨味が足りない……。あの至高のスープを別売りにすればうっはうはじゃね? とか思ってましたがそううまくはいかないようで。
自宅ではんまいラーメンはそうそう食べられませんのう。
おこんばんはです。豊臣亨です。
まあ、せっかく「出師表」を見たことですし、その後に出されたとされる、「後出師表」でも学んでみましょう。後、というだけあって続編的な立ち位置かと思いきや、どうやらさにあらず。
『三国志と人間学』 福村出版にはこうありますね。p270
「いわゆる「後出師表」は『蜀志』の本伝にも『諸葛丞相集』にも出てこない。それでこれが果たして孔明の作であるかどうかということで古来議論も多い。読んでみると、「前出師表」とは文章の格調も明らかに違っております。しかし孔明の苦衷を察するにはたいへん参考になる。一緒に読んでみましょう」
とあるように、蜀の歴史書にも出てこないようなもの。出陣するにあたっての所信表明なのに、蜀の歴史書に出てこない。また、wikiを見ましても「後出師表」が出された時点では存命中のはずの趙雲さんがすでに亡くなっていたことにされているとのことで、色々と矛盾もある様子です。ですが、安岡先生が孔明さんの胸中を伺うに値すると思われたわけで、まあ、物語として受け取るには良いのやも知れません。では、本文。p271
【先帝、漢・賊両立せず、王業は偏安せざるを慮りたまう。故に臣に託するに賊を討ずるを以てしたまえり。
先帝の明を以て、臣の才を量る。故に臣が賊を討つに、才弱く敵の彊きことを知れり。しかれども賊を伐たずんば、王業もまた亡ぶ。ただ坐して亡ぶを待つは、これを伐つに孰与ぞ。
この故に臣に託して疑いたまわざりしなり。
臣受命の日より、寝ぬるに席に安んぜず、食うに味を甘しとせず。北征を思惟するに宜しくまず南に入るべし。故に五月濾を渡って、深く不毛に入り、日を併せて食う。
臣、自ら惜まざるに非ざるなり。顧うに王業は蜀都に偏安するを得べからず。故に危難を冒して以て先帝の遺意を奉ず。しこうして議する者謂いて計にあらずと為す。
今賊たまたま西に疲れ、また東に務む。兵法に労に乗ず。これ進趨の時なり。謹みてその事を陳ぶること左の如し。
高帝、明・日月と並び、謀臣、淵深なり。しかれども険を渉り、創を被り、危くしてしかるのちに安し。今陛下未だ高帝に及ばず。謀臣は良・平に如かず。しかも長策を以て勝を取り、坐して天下を定めんと欲す。これ臣の未だ解せざるの一なり。
劉繇・王郎各々州郡に拠る。安を論じ計を言い、動もすれば聖人を引く。群疑腹に満ち、衆難胸に塞がる。今歳戦わず、明年征せず、孫策をして坐して大に、遂に江東を併さしむ。これ臣の未だ解せざるの二なり。
曹操、智計人に殊絶す。その兵を用うるや、孫・呉に髣髴たり。しかれども南陽に困しみ、烏巣に険く、祁連に危く、黎陽に偪られ、ほとんど北山に敗れ、ほとんど潼関に死せんとす。しかる後一時を偽定す。况んや臣の才弱くして、危うからざるを以てこれを定めんと欲するをや。これ臣の未だ解せざるの三なり。
曹操五たび昌覇を攻むるも下らず。四たび巣湖を越ゆれども成らず。李服を任用すれどもしかも李服これを図る。夏侯に委任すれどもしかも夏侯敗亡す。先帝、毎に操を称して能と為したまいしも猶この失あり。况んや臣の駑下なるをや。何ぞ能く必勝せん。これ臣の未だ解せざるの四なり。
臣・漢中に至りしより中間朞年のみ。然るに趙雲・陽羣・馬玉・閻芝・丁立・白寿・劉郃・鄧銅等、及び曲長・屯将七十余人、突将無前・賨叟・青羌・散騎・武騎一千余人を喪えり。
これ皆数十年の内糾合せし所の四方の精鋭にして、一州の有する所に非ず。もしまた数年ならばすなわち三分の二を損ぜん。当に何を以て敵を図るべきや。これ、臣の未だ解せざるの五なり。
今民窮し兵疲る。しかも事は息むべからざる。事息むべからずんばすなわち駐まると行くと労費まさに等し。しかるに蚤きに及んでこれを図らず、一州の地を以て賊と久しきを持せんと欲す。これ臣の未だ解せざるの六なり。
それ平め難き者は事なり。昔先帝楚に敗軍したまう。この時に当たって、曹操手を拊って謂えらく、天下已に定まると。しかる後、先帝東のかた呉越を連ね、西のかた巴蜀を取り、兵を挙げて北征し、夏侯の首を授く。これ操の失計にして、漢の事将に成らんとするなり。
しかる後、呉さらに盟に違い、関羽毀敗す、秭帰に蹉跌して曹丕帝と称す。およそ事かくの如し、逆め見るべきこと難し。臣、鞠躬尽瘁、死して後已まん。成敗利鈍に至りては、臣の明の能く逆め覩る所に非ざるなり】
したらば安岡先生による解説。p274
「先帝、漢・賊両立せず、王業は偏安せざる(帝と称しても統治権が全国に及んでいない)を慮りたまう」先帝は劉備のこと。「漢・賊両立せず」漢は蜀に拠った劉備の蜀漢、賊はもちろん曹操の魏のことである。
先帝は、漢と賊(魏)とは両立せず、天下を平定し漢王朝を再興するという大事業は、蜀のように辺鄙な片田舎に苟安を貪っていてはとうていおぼつかないということを常々仰せられていた。
「故に臣に託するに賊を討ずるを以てしたまえり。先帝の明を以て、臣(孔明)の才を量る。故に臣が賊を討つに、才弱く敵の彊きことを知れり。しかれども賊を伐たずんば、王業もまた亡ぶ。ただ坐して亡ぶを待つは、これを伐つに孰与ぞ。この故に臣に託して疑いたまわざりしなり」
「臣受命の日より、寝ぬるに席に安んぜず、食うに味を甘しとせず。北征を思惟するに」、北方の魏を征伐しようとすれば、「宜しくまず南に入るべし。故に(建興五年)五月濾(水)を渡って、深く不毛(の荒地)に入り、日を併せて食う」。食料も欠乏して、数日に一回食うという困難な討伐をいたしました。
それというのも、「臣、自ら惜まざるに非ざるなり」、我が身を惜しまないわけではございません。しかしながら「顧うに王業は蜀都に偏安するを得べからず」。王道を天下に宣布するほどの大業は、成都のような片田舎に安んじていては成就するものではありません。「故に危難を冒して、以て先帝の遺意を奉ず」このたび再度の北征を行おうとしているわけでございます。
「しこうして議する者謂いて計にあらずと為す」。再度の北征について、いろいろと批判する者や異論を唱える者がある。「今賊たまたま西に疲れ、また東に務む」。建興六年、孔明が魏の大軍を祁山に攻めたとき、南安・天水・安定の三軍が魏に叛いて孔明に應じた。すなわち魏は西、蜀との戦に疲弊しておる。また東は呉の将軍・陸遜と戦って敗れ、兵力をその方面に投入し、行き詰まっている。「兵法に(敵の)労に乗ず。これ進趨の時なり。謹みてその事を陳ぶること左の如し」
「高帝(漢の皇祖皇帝)、明・日月と並び、謀臣、淵深なり。しかれども険を渉り、創を被り、危くしてしかるのちに安し」。漢の高祖とその臣下たちでさえ、あれほど大きな犠牲を払って、やっと天下を取っております。しかるに「今陛下未だ高帝に及ばず。謀臣は良・平(張良・陳平)に如かず。しかも長策(優れた策略)を以て勝を取り、坐して(いながらにして)天下を定めんと欲す。これ臣の未だ解せざるの一なり」。
「(揚州の太守)劉繇・(会稽の太守)王郎各々(その根拠地の)州郡に拠る。(しかるに群臣は)安を論じ計を言い、動もすれば聖人を引く」。今日の言葉でいえば、いわゆる平和共存政策の美名を借りるというもので、安易に彼らを懐柔することを論じ、いたずらに高尚な聖人の言を引用して北征を避けたがる。そのために「群疑腹に満ち、衆難(難は詰。なじる)胸に塞がる」。かくして「今歳戦わず、明年征せず、孫策をして坐して大に、遂に江東を併さしむ。これ臣の未だ解せざるの二なり」。
「曹操、智計人に殊絶す」くらべる者がなく優れている。「その兵を用うるや、孫(武)・呉(起) に髣髴たり。しかれども(その軍略の天才にして、なお流れ矢にあたって)南陽に困しみ、(袁紹と官渡に戦った時は)烏巣に険く、(匈奴を攻めて)祁連に危く、(袁譚に)黎陽に偪られ、(趙雲とたたかって)ほとんど北山に敗れ、(馬超の反乱により)ほとんど潼関に死せんとす。
しかる後一時を偽定す」。一時を糊塗して、仮にしばらく安定しているにすぎない。「况んや臣の才弱くして、危うからざるを(危険を冒さずして)以てこれを定めんと欲するをや。これ臣の未だ解せざるの三なり」。
「曹操五たび昌覇を攻むるも下らず。四たび巣湖を越ゆれども成らず。李服を任用すれどもしかも李服これを(亡ぼそうと)図る。夏侯(淵)に委任すれどもしかも夏侯敗亡す。先帝、毎に操を称して(有)能と為したまいしも猶この失あり。况んや臣の駑下(才能鈍く劣る)なるをや。何ぞ能く必勝せん。これ臣の未だ解せざるの四なり」。
「臣・漢中に至りしより中間朞年(満一年)のみ。然るに趙雲・陽羣・馬玉・閻芝・丁立・白寿・劉郃・鄧銅等、及び曲長(部曲の長、班長)・屯将(駐屯部隊長)七十余人、突将無前(向かう所敵なき突撃隊長)・賨叟(南蛮兵の隊長)・青羌(西南夷人の隊長)・散騎・武騎(騎馬部隊)一千余人を喪えり。これ皆数十年の内糾合せし所の四方の精鋭にして、一州の有する所に非ず。もしまた数年ならばすなわち三分の二を損ぜん。当に何を以て敵を図るべきや。これ、臣の未だ解せざるの五なり」。
「今民窮し兵疲る。しかも事は息むべからざる。事息むべからずんばすなわち駐まると行くと労費まさに等し。しかるに蚤きに及んでこれを図らず、一州の地を以て賊と久しきを持せんと欲す」。勝負を決しないで、いつまでも相対峙している、「これ臣の未だ解せざるの六なり。
「それ平め難き者は事なり。昔先帝楚に敗軍したまう。この時に当たって、曹操手を拊って謂えらく、天下已に定まると。しかる後、先帝東のかた呉越を連ね、西のかた巴蜀を取り、兵を挙げて北征し、夏侯の首を授く。これ操の失計にして、漢の事将に成らんとするなり」。
「しかる後、呉さらに盟に違い、関羽毀敗す、秭帰に蹉跌して曹丕帝と称す」。蜀の秭帰県は作戦に失敗して劉璋に奪回され、曹丕は帝と称した。「およそ事かくの如し、逆め見るべきこと難し。臣、鞠躬尽瘁、死して後已まん。成敗利鈍に至りては、臣の明の能く逆め覩る所に非ざるなり」。成敗を超越し、難曲にあたって鞠躬尽瘁する孔明の苦衷は、今日なお惻々として胸を打つものがあります」
では、拙いながらもそれがしの現代語訳。
今は亡き、劉備皇帝陛下は、簒奪者と、正統なる漢皇室の後継者たる我が蜀が並び立つことなどありえないと申されましたが、しかし、蜀のような僻地においては劉備皇帝陛下の威光が中原全土に及んでいないことを苦慮されておいででした。
よって、このわたしに、賊軍を討伐するように命を下されたのです。
劉備皇帝は、わたしのような非才の身では強大なる敵を討ち滅ぼすには足らないことを案じておられました。しかし、このまま賊を野放しにしておれば、王道もまた滅ぼされるのみ。ただ、黙って指をくわえて滅びを待つくらいなら先んじて制すことを決し、わたしを信じてすべてを託してくだされたのであります。
わたしが大命を受けたその日から、寝ても熟睡できず、食事をしても美味しいと思ったことはありません。よって、北方を攻めるにあたっては、まずは南方濾水を渡り、そこで数日に一度食事にありつけるような困難な討伐をしました。
我が身の安泰を思ってのことではありません。それもこれも、王道を復興するに、蜀の地で気炎を吐いてなしうるものではないからであります。だからこそ、万難を排してでも、先帝の遺命を完遂すべく北征を行うのであります。されど、一部の論者はこの使命を否定的にみるものがいるようです。
いま、賊軍は、祁山を攻められ南安・天水・安定の三軍に叛かれ、また呉の陸遜と戦って敗れ、兵力をその方面に投入し、行き詰まっております。そして、敵の弱目を攻めるのが兵法の常法にして、それをいま論じようと思います。
漢の高祖皇帝は、その智謀、太陽や月のように偉大で比べ物がないほどであり、謀臣の深謀遠慮も大海のごとしでした。しかし、そんな彼らであっても幾多の危険を乗り越え数多の傷に苦しみ、やっと天下を平定しました。恐れながら、今のところ劉禅陛下は高祖に及ばず、臣下も張良・陳平のような才もない。にもかかわらず、策略で敵が崩壊し、棚ぼたで天下が己の手に転がり落ちてくるかのように考えておられるのはどういうことなのか。わたしには理解しかねるその一であります。
揚州の太守劉繇・会稽の太守王郎と、各々その根拠地の州郡にその戦力を扶植しておりました。しかるにその家臣たちは身の安全ばかりをはかって無難に敵を丸め込むことを謀略と思い、何かといえば聖人君子の言動を引き合いに出した。こんなことで大丈夫かと、皆々疑い、困難が山積。そんな次第で今年も戦わず、年が開けても出征せず、結局孫策に江東を取られてしまい(袁術が揚州の支配をめぐって劉繇と対決していた時、孫策は劉繇と対峙している叔父の援軍に向かうと策し、叔父の軍と合流。そこに親友の周瑜が駆けつけ江東制覇に乗り出した)、いながらにして孫策を強大にしてしまった。劉繇・王郎ともに局所的に勝っていても、大局で敗亡したのであります。同様のことが蜀においても起こるのではないかと、わたしが納得できないその二であります。
かつて、魏を率いた曹操の智謀は他者よりはるかに抜きん出、一度用兵するや、軍略の祖、孫子や呉子を思わせるほど。しかし、それほどの天才であってもなお、流れ矢にあたって南陽で危困にあい、袁紹と官渡に戦った時は烏巣に危険な目にあい、匈奴を攻めて祁連に危機に陥り、袁譚によって黎陽に圧迫せられ、趙雲とたたかって北山に敗北し、馬超の反乱により潼関でほとんど死ぬほどの目にあった。
いまの魏の安定も一時のものに過ぎません。かの曹操ですら数え切れないほどの危難を乗り越えて、仮初めの安定を手にしているに過ぎないのに、その曹操の才に及ばぬわたしに、より安全な方法でこれを制覇せよ、など、わたしの腑に落ちぬその三であります。
曹操は五回も昌覇を攻むるも成功せず、四回も巣湖を越えようとしましたが失敗。李服という者を任用しましたが、しかし李服に裏切られました。また、夏侯淵に軍を任せましたがその夏侯淵も敗北し戦場の露と消えました。亡き劉備皇帝陛下は、つねに曹操のことを英雄と褒められていましたが、それでも曹操をしてこれほど失敗しました。ましてや曹操に劣るわたしにおいて、どうなるかは言うまでもありません。どうしてわたしが魏を相手取って勝利を得るでしょうか。わたしの承服しかねるその四であります。
わたしが漢中に参ったとき、その間一年にすぎないにも関わらず、趙雲・陽羣・馬玉・閻芝・丁立・白寿・劉郃・鄧銅等、また有力部将、駐屯部隊長七十余人、その前に立てる者無しと称えられる突撃隊長・南蛮隊長・西南夷人の隊長・伝令隊長・騎馬隊長一千余人と、名だたる名将や家臣を失ってしまいました。これらは数十年という長い年月を経て得られるべき精鋭であり、我が一国ではもったいないぐらいの大戦力であります。それなのに、また数年も建てば三分の二の戦力を喪失してしまうでしょう。これでどうやって敵と渡り合いましょう。これも、わたしの不可解なその五であります。
いま、民衆は困窮し、兵は労役に疲弊しております。しかし、漢皇室復興をやめることなどできるはずもない。やめることができないのなら、もはや攻めるも守るも、それに費やす費用も労苦も大差はない。にもかかわらずグズグズと決めかねて、我が一国で大国と持久戦が出来るなどと考えるのは、わたしの断じかねるその六であります。
世の中の事は図り難いものです。かつて、先帝劉備皇帝陛下は楚に敗れ、敗走しました。それをかの曹操は手を叩いて喜び、これで天下はワシのものだと言いました。しかし、その後先帝は呉と連携し、西の蜀を興し、兵を集めて北を攻め夏侯淵の首を取りました。これは曹操の失策の最たるものであり、漢皇室復興の良い兆しと思えました。ですが、呉は我が国との盟約を破棄し、関羽将軍を討ち取り、秭帰は奪われ、曹丕が帝を僭称するに至りました。
およそ、世の中の動きはこれこの通りで、これらを予見するなど不可能に近い。わたしが死するその時までこの身を粉にして、その持てる限りの力と能を用いて復興に尽くしたとしても、成功するかどうかは、我が非才にはわかりかねるところであります。
と言ったところでしょうか。
こうして文章全体を伺いますと、妙に女々しいといいますか、これから出陣する時に本当にこんなことを言うのかな? と疑問を感ずるような弱気が横溢しているような気がします。
勝つか負けるか、勝負は時の運でよぐわがんね。オラが来てから名将うんさか死んでまったけど、死ぬ気でやるからその時に判断すればいいんじゃね?
出陣する時にそんなこと言われて、よし、やるか! ってなるかぁ!
「今賊たまたま西に疲れ、また東に務む。兵法に労に乗ず。これ進趨の時なり。謹みてその事を陳ぶること左の如し」
と、敵が疲弊している今こそ攻め込む絶好の機会ですぜ! って言っときながら、これはわたしには不可解だ、これは納得しかねる、これは承服しかねる、と、四の五の言ってるのが、文章の流れ的にブサイクすぎてなんかイライラするw
前の「出師表」だと、こいつはこれこれで優れてますよ、あいつはあれあれで忠義の将ですよ、みたいなのがあって兵士のやる気を引き出し、さらにわたしは劉備皇帝に返せないほどの恩義をうけました、という、北条政子夫人のような、「頼朝の恩義を受けし者よ立ち上がれ!」と同じような論調もあったりして実に名文でしたが、「後出師表」は皆無。むしろ真逆。
漢皇室復興、という聖なる使命、いわゆるマニフェスト・デスティニー(?)がもはやただの呪縛に成り果てている。
「事息むべからずんば」がまさにそう。
劉備皇帝の御恩と奉公に応える、のではなく、やりたくはないけどやらざるをえんのだから、だったらもう少しマシにしようぜ、って言ってるようで、これを作った人間は、忠義とか愛情とか何にも理解できない人間なんだろうか、という気がします。まず間違いなくこれは孔明さんの作ではないですね。
劉備の遺言「君の才は曹丕に十倍す。必ずよく国を安んじついに大事を定めん。もし嗣子輔くべくんばこれを輔けよ。もしそれ不才ならば、君自ら取るべし」に、
「臣あえて股肱の力をつくし、忠貞の節を効し、これに継ぐに死を以てせん」
劉備から、あなたは曹丕に比べれば十倍の才能がある。必ず蜀を安定させ、大国にしてみせるであろう。また、我が子劉禅を、助けられるのであれば助けてやってほしいが、凡夫ならばとっとと見捨ててあなたが君主となれ、と言われ、
孔明さんは、どうしてそのようなことができましょう。わたしは臣下として、あくまで忠実にその力を尽くすのみであり、それは死ぬその時まで絶対に変節いたしません。
とまで言い切ったのです。
「事息むべからずんば」
これは、蜀を背負う絶対の使命を負った人がいえるセリフではないですね。
と、ここで終わったらなんかイヤなのでまごうことなき孔明さんのお言葉を拝聴しましょう。
これは45歳で授かった我が子、諸葛瞻さんに宛てた手紙。瞻さんはなかなか立派なお子さんだったようで、孔明さんもその成長を期待しておられたとか。p300
「孔明の子を戒むる書『戒子書』というのは諸葛瞻のことです。この子供はたいへん良くできたらしい。孔明が兄の瑾に宛てた手紙が残っていますが、その中に「瞻今すでに八歳、総慧愛すべし。その早成、恐らくは重器たらざるを嫌うのみ」とある。あまり早くからできすぎて、つまり早熟で、これではおそらく大した人物にはなれないのではないかと心配している。が、しかし幸いに彼は大成しましたが、三十七歳で戦死した。
子を戒める書(戒子書)
【君子の行いは静以て身を修め、倹以て徳を養う。澹泊に非ずんば以て志を明らかにするなし。寧静に非ずんば以て遠きを致むるなし。それ学はすべからく静なるべきなり。才はすべからく学ぶべきなり。学に非ずんば以て才を広むるなし。静に非ずんば以て学を成すなし。慆慢なればすなわち精を磨く能わず。険躁なればすなわち性を理むる能わず。年・時とともに馳せ、意・歳とともに去り、遂に枯落を成す。窮盧に悲嘆するも、将復何ぞ及ばんや】
「君子の行いは静以て身を修め、倹以て徳を養う」。
君子の行は静修、じたばたしてはいかん、がさがさしてはいかん。静以て身を修める。すべて物事はよく調和がとれ、統一がとれ、生命にしても精神にしても、深々とした味がでてくると、深淵と同じことでシーンとしてくる、これがいわゆる静です。
これに反して雑駁だとがさつになる。騒がしくなる。人間でもできてくるとしーんと落ち着いてくる。それは音楽でも芸術でも、人格でも同じことです。倹というのは、末梢的な欲望に走らない、それを引き締める、いわゆる節する。そこで節倹という。これに反していろいろの雑駁な欲望に走ると浮躁になる。
次に「澹泊に非ずんば以て志を明らかにするなし」。
淡白つまり物欲にとらえられない。あっさりしていないと志・理想を明らかにすることができない。志とか理想というものがどっかへ行ってしまって享楽的になる。
「寧静に非ずんば以て遠きを致むるなし」。
人間がしっくりと落ち着いてこないと、遠大なる見識はできない。遠きをきわむるなし。そこで気がつくのですが、孔明の子、諸葛瞻の字(本名を補うかたちでのもう一つの名)は思遠です。これは孔明先生がつけたに相違ない。”遠きを思う”、遠大なる志操というか、発達というか、「思遠」。こうしてみますと孔明がこういう字を選んだということが『戒子書』からもわかる。
私の友人に「致遠」という人がある。
曽我の五郎が時致、やはりこの致です。これはその親父さんが『三国志』から採ったに相違ない。そこである時に私が、「これ何と読むんだ。五郎時致の致か」と聞いたら「その通りです。むねとおです。こんな七難しい名前を親父がつけて……」というから、「それでは、君のお父さんは諸葛孔明の崇拝者だ、『三国志』の愛読者だろう」と言ったら、「はあ、親父は涙を流して、よく『三国志』のことを申しておりましたというから、ここから採ったに相違ない。しかし倅によく説明しておかなかったと見える、惜しいことである。
「それ学はすべからく静なるべきなり。才はすべからく学ぶべきなり」。
才物が学ばんと駄目ですね、薄っぺらになって……。
「学に非ずんば以て才を広むるなし。静に非ずんば以て学を成すなし。慆慢なればすなわち精を磨く能わず」。
慆慢という場合は、慆も慢も自慢の慢と同じ意味であります。いい気になってフワフワしていると、精をみがくあたわず。
「険躁なればすなわち性を理むる能わず」。
険しい、さわがしい、じきに、何をッ、と角だってくる。険躁なれば、持って生まれた人間の個性・本質をおさむる能わず。
「年・時とともに馳せ、意・歳とともに去り、遂に枯落を成す」。
ついに枯れ落ちてしまう。
「窮盧に」
貧乏住居に、
「悲嘆するも、将復何ぞ及ばんや」。
取り返しがつかん。若いうちに勉強しておけという訓戒です。次は外甥、兄弟の子供達を戒めた書です。
外甥を戒める書(戒外甥書)
【それ志はまさに高遠を在し、先賢を慕い、情欲を絶ち、凝滞を棄つべし。庶幾の情をして、掲然として存する所あり、惻然として感ずる所あり、屈伸を忍び、細碎を去り、咨問を広め、嫌吝を除かしむれば、何ぞ美趣を損ぜん。何ぞ済らざるを患えん。もし志・強毅ならず、意・忼慨ならず、いたずらに碌々として俗に滞り、黙々として情に束ねられなば、永く凡庸に竄伏して下流を免れざらん】
「それ志はまさに高遠を在し、先賢を慕い、情欲を絶ち、凝滞を棄つべし。庶幾(こいねがう)の情をして」、
あるいは情が一本志になっておるものもある。ああしたい、こうしたいという庶幾の情(あるいは志)をして、
「掲然として存する所あり」、
掲というのは、掲げるという意味です。これは忘れまいとか、拳拳服膺したいと思うような時には、よく額に掲げたりする、あれが掲然です。かくしたい、かくありたいという志、あるいはその情を常に掲げるように、忘れない・失わないようにして、そして、「惻然」というのは、いたむ、実感することです。
「惻然として感ずる所あり、屈伸を忍び、細碎を去り」、
こせこせ、くだくだしいことを去り、つとめて教えを求め
「咨問を広め」、
あれも嫌だ、これは面白くないというような吝な狭い気持ち、そういう、
「嫌吝を除かしむれば、何ぞ美趣を損ぜん」、
人それぞれに立派な趣・風格ができる。
「何ぞ済らざるを患えん。もし志・強毅ならず、意・忼慨(嘆き憤ること)ならず、いたずらに碌々(何もできない様子)として俗に滞り、黙々として情に束ねられ(手をこまねく、みたいに何もしないこと)なば、永く凡庸に竄伏(隠れること)して下流を免れざらん」
なかなか手厳しい。こういう手紙をもらったら甥っ子たちも襟を正さざるを得ないでしょう。
お口直しに丁度良いのでは。
といったところで今宵はここまでしたらばな~。
ふ。
わたしが一回の失敗でめげるものかいな。
ストレート麺が駄目なら縮れ麺を買えばいいじゃまいか。
油がないなら油を足せばいいじゃまいか。そうだ、時々やってる、フォーリー軍曹も大好きな(?)メヨネーズをぶっかけ。これに卵焼きを乗っけるのも好きなのでせっかくなので焼いてのっけよう。
で、さっそく実食。
…うん。
んまいw
サッポロ一番味噌ラーメンの乾麺を捨てて生麺を茹でて、メヨネーズぶっかけて卵焼きを乗せる、という色々と物議を醸しそうな有様ですが、美味しければよかろうなのだ!
よし、勝ったな。風呂入ってくる。
この後メチャクチャ胸焼けした。 _ノ乙(、ン、)_
「ANGERANGER」を聴きながら。
思うと、MYTH & ROIDさんを知ったのはこのブブキ・ブランキのEDがわたしにとって初めてだったかな。万流礼央子様のスタイリッシュカチカチ山とあわせて、一発で惚れました。
しかし、ブブキ・ブランキもそれなりに面白いアニメでしたがあんまり人気がなかったかも。「炎帝」も明らかに「極振り」のほうが有名な気もする。とはいえ、まだブブキ・ブランキは全然見られましたが、昨今のアニメは続きが見たくなる作品が減った気がします。
非常に懐かしい作品をアニメ化したものの、これまでのあらすじとか一切なしで、はい続き、と続きを始める。もはや、原作をもってる人向けのアニメ化なのでしょうね。自ら拡散を封じ込めるスタイル。
まあ、今どきはスリップ一発で神獣をひれ伏せさせたり、
せっかくの世界的コンテンツを、原作者の思惑通りに「ギスフレ2」にするご時世ですし、もはやアニメの質をどうこう言うこと自体が愚の骨頂なのでしょう。つまり、宮崎パヤオの言う通り、日本のアニメはもはや終わっているのでしょうね。頭では理解していても、感情では分かりたくなかったことですが、もはや隠しようもありません。
アニメを作る人達は「後出師表」のように何が大切なことなのか、ということすら見失ってただ発注したから流れ作業でアニメを製造しているだけなのでしょうかね。
堕落の先にあるのは自滅しかないというのに。
「窮盧に悲嘆するも、将復何ぞ及ばんや」
先人は自身の全人生をもって教えてくれていますが、学ぶものはほとんどいない。これもまた人の世であります。
したらば。