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出師表



 日々、感ずることは、ますますこの国は生きづらくなってゆくなということ。


 上を見ればとんでもない不善が威風堂々と行われ、下をみれば、わたしの仕事はサービス業でして毎日接客しておりますが、なんでこいつはこうも戦闘民族なんだろうなと思うようなのをよく見ます。というか年を追うごとに激増しておる気もする。


 多くの日本人が、この国を地獄にしてやろうと躍起になっておるのであろうな、と感ずる次第。


 で、その、自分たちで作り上げた地獄に、自分たちで生んで育てた子供たちにも生きるように仕向けておるのであるから、これはなんとも素敵な配慮であろうかと思う。


 自分の子どもに同様の生き地獄を味わわせねばやまないというのであるから、親の慈悲、慈愛もここまで極まったか。恐らく、下衆に生まれついたからには自分の子供も同じ下衆にせずんばやまない、蛙の子はカエル、決して鷹になどしてやるものか、という怨念じみた貴い思いやりなのでありましょう。


 楞伽経(りょうがきょう)(大乗経典で禅で特に重視された)にはこうあるそうな。




【貧家に珍宝あるも家人知らざるが如く、貧賤醜陋の女、転輪聖王(てんりんじょうおう)を孕みながら下劣賤子の想をなすが云々】




 転輪聖王とは、仏の智慧や三十二相という有難い特徴、金輪、銀輪、銅輪、鉄輪という宝を持って、人々を迷いから救って煩悩を打破し、人々を悟りへと誘う存在であります。転輪とは、煩悩とか邪魔なものを回転することで打破し、人々を済度する乗り物のことで、それを法輪という。その法輪を転ずることを転輪というそうな。赤子が本来もっている尊いものをよく育ててやりさえすれば、これはあらゆる煩悩を打破して人の世を理想の天地にする、菩提の尊い存在のことであります。


 素晴らしい宝があっても、その家のものがまったく理解できず粗略に扱っているように、貧しくいやしく、醜く頑固な女が転輪聖王を産みながら、また小汚いガキができやがった、などと云う。


 古今な~~んも変わらぬ人のありようであります。



 おこんばんはです。豊臣亨です。


 本日は唐突ですが諸葛孔明さんが奉った「出師表すいしのひょう」を読んで学んでみたいと思います。


 出師表とは何かといいますと、出陣するにあたっての所信表明演説のようなものですね。北征、魏に対する侵攻作戦を展開するにあたっての胸中を申し開いたものであります。


 この時すでに劉備玄徳は崩御。蜀の国力といえば、魏の十二州、呉の四州に比べてわずかに一州に過ぎない。国力において単純に十倍以上の国を敵として戦うにあたって、人心の戦意を鼓舞するべく表明したわけです。


 では、今回は安岡先生の書、




『三国志と人間学』 福村出版 から○っと丸写ししてみましょう。p258




【先帝創業いまだ半ばならずして、中道に崩殂ほうそしたまう。


 今天下三分し、益州疲弊せり。これ誠に危急存亡のときなり。


 しかれども侍衛の臣、内におこたらず、忠死の士、身を外に忘るる者は、けだし先帝の殊遇を追うてこれを陛下に報いんと欲すればなり。


 誠に宜しく聖聴を開帳して以て先帝の遺徳をかがやかし、志士の気を恢弘かいこうすべし。宜しく妄りに自ら菲薄ひはくし、を引き義を失うて、以て忠諫ちゅうかんの路を塞ぐべからざるなり。


 宮中・府中(とも)に一体となり、蔵否ぞうひ陟罰ちょくばつして宜しく異同すべからず。もし奸をなしとがを犯し、及び忠善をなす者有らば、宜しく有司に付してその刑賞を論ぜしめ、以て陛下平明の理をあきらかにすべし。


 宜しく偏私して、内外をして法をことにせしむべからざるなり。


 待中、待郎の郭攸之かくいうし費褘ひい董允とういん等、これ皆良実にして志慮忠純なり。是を以て先帝簡抜(かんばつ)して以て陛下に遺したまう。われ以為おもえらく、宮中の事、事大小と無く、ことごとく以て之にはかり、然る後に施行せば、必ず能く闕漏けつろう婢補ひほして、広益する所有らん。


 将軍の向寵しょうちょうは、性行淑均(しゅくきん)にして、軍事に暁暢ぎょうちょうせり。昔日に試用せられ、先帝之を称して能と曰いたまう。是を以て衆議寵を挙げて以て督と為す。愚以為(おもえ)らく、営中の事、事大小と無く、ことごとく以て之にはからば、必ず行陣をして和睦し、優劣所を得しめん。


 賢臣に親しみ小人を遠ざけしは、此れ先漢の興隆こうりゅうせし所以ゆえんなり。小人に親しみ賢臣を遠ざけしは、此れ後漢の傾頽けいたいせし所以ゆえんなり。先帝(いま)せし時、つねに臣とこの事を論じて、いまだかつて桓・霊に嘆息痛恨せずんばあらざりき。待中・尚書・長史・参軍、これ悉く貞亮死節の臣なり。陛下之に親しみ之を信ぜば、漢室の隆、日をかぞえて待つべきなり。



 臣(もと)布衣(ふい)みずから南陽に耕す。性命を乱世に苟全して聞達を諸侯に求めず。先帝・臣が卑鄙ひひを以てせず、みだりに自ら枉屈おうくつして三たび臣を艸蘆そうろの中に顧み、臣にはかるに、当世の事を以てしたまえり。是によって感激し、先帝に許すに駆馳くちを以てせり。後傾覆(けいふく)い、任を敗軍の際に受け、命を危難の間に奉ず。


 爾来じらい二十有一年なり。先帝・臣が謹慎を知る。故に崩ずるにのぞんで、臣に寄するに大事を以てしたまえり。


 命を受けて以来、夙夜しゅくや憂慮し、付託の效あらずして、以て先帝の明を傷つけんことを恐る。故に五月()を渡って、深く不毛に入る。今、南方(すで)に定まり、兵甲已に足れり。まさに三軍を奨率しょうそつし、北して中原ちゅうげんを定むべし。


 ねがわくは駑鈍どどんくし、姦凶かんきょう譲除じょうじょし、以て漢室を興復して、旧都へかえさんことを。


 これ臣が先帝に報いて、陛下に忠なる所以の職分なり。


 損益を斟酌しんしゃくし、進んで忠言を尽くすに至っては、すなわち攸之いうしいんの任なり。願わくは陛下臣に託するに討賊・興復の效を以てし、效あらずんば、すなわち臣の罪を治めて以て先帝の霊に告げ、もし徳を興すの言無くんば、攸之、褘、允等のとがを責めて、以てその慢をあらわせ。


 陛下もまた宜しく自ら謀って以て善道を諮諏ししゅし、雅言を察納さつのうして、深く先帝の遺詔いしょうを追いたまうべし。臣・恩を受けし感激にえず、今、遠くを離るるに当たり、表に臨みて涕泣ていきゅうし、云う所を知らず】




 では、その解説。p260




「先帝創業いまだ半ばならずして、中道に崩殂ほうそしたまう。今天下三分し、益州疲弊せり。これ誠に危急存亡のときなり。しかれども侍衛の臣、内におこたらず、忠死の士、身を外に忘るる者は、けだし先帝の殊遇(格別の待遇)を追うてこれを陛下に報いんと欲すればなり。誠に宜しく聖聴を開帳して以て先帝の遺徳をかがやかし、志士の気を恢弘かいこうすべし。宜しく妄りに自ら菲薄ひはくし」、菲・薄ともに薄いという意味。俺なんか徳が薄くて、とてもだめだというように自ら捨てないで、「を引き義を失うて、以て忠諫ちゅうかんの路を塞ぐべからざるなり」喩はおしえる、さとすという字です。を引くというのは、自分に都合のいいような言葉や例を引いて、自分の考えや自分の立場、行わんとすることに理屈をつける。歴史の先例を引っ張ってきてこれを立てても当たらない。これを「を引き、義を失う」という。



「宮中・府中(とも)に一体となり、蔵否(ぞうひ)(よしあし)を陟罰(ちょくばつ)(陟はのぼる。官位を昇せる)して宜しく異同すべからず」宮中と府中のあいだに偏頗(へんぱ)(どちらかを贔屓してかたよりが出ること)があってはいけない。善を善とし、否を否とする。善きを抜擢し、悪しきを罰する。



「もし奸をなしとがを犯し、及び忠善をなす者有らば、宜しく有司に付してその刑賞を論ぜしめ、以て陛下平明の理をあきらかにすべし。宜しく偏私して、内外をして法をことにせしむべからざるなり」これは簡潔にして公正、要を得ておる。宮中は宦官・女官のおる禁中。府中は大臣・宰相のおる政府です。



「待中、待郎の郭攸之かくいうし費褘ひい董允とういん等」、これみな先帝没後、孔明が抜擢登用した人々です。郭攸之かくいうしは孔明と同じ南陽の出身ですから、よほど古い老友・親友でしょう。費褘ひい董允とういんともに歴史に現れておる名高い人物です。これも故郷の襄陽じょうよう出身で、皇帝に侍して政治の諮問にこたえる地位(侍中)に就いた人物であります。


 ここには出てきませんが、孔明がこの時に光武皇帝を偲ばせるような独特の人事をいくつかやっておる。その一つは杜微とびという人で、彼は劉備の時代は(ろう)(聴覚障害者)と称して仕えなかった在野の隠者であります。秦宓しんふつも野に隠れた賢者で、彼は政治や軍事に通暁(つうぎょう)(精通すること)した識見の高い人であります。学問もあり、人格も優れて、あたかも光武皇帝に対する厳子陵(げんしりょう)(後漢の初代である光武皇帝の親友。光武帝が帝位についたあと、召されるが一向に地位や身分に無頓着で野に帰った)を思わせる。前代、つまり劉焉りゅうえんの時代から劉璋りゅうしょうの時代、天下の形勢を達観して、どうしても出なかった。


 その杜微とび秦宓しんふつを孔明が輿くるまをやって迎えて懇々と説得し、劉禅のために杜微を諫議大夫(かんぎたいふ)(皇帝のそば近くにあって皇帝の実行する政策に直言する地位。前出の厳子陵もこの地位を与えられようとしたが受けずに帰った)に、いわば唐の太宗に対する魏徴(ぎちょう)(太宗にズバズバと諫言した人。太宗はこの魏徴を失って、人は鏡をみて己を正すが、わたしはその鏡を失った、と嘆いたとか)のようなもの、秦宓を中郎将というのですから軍の首脳として引き出すことに成功しております。これは孔明の人事の中であまり知られてないが、注目すべき人事行政の一つであります。



「待中、待郎の郭攸之かくいうし費褘ひい董允とういん等、これ皆良実にして志慮忠純なり。是を以て先帝簡抜(かんばつ)して以て陛下に遺したまう。(われ)以為(おもえ)らく、宮中の事、事大小と無く、ことごとく以て之にはかり、然る後に施行せば、必ず能く闕漏けつろう婢補ひほして、広益する所有らん。将軍の向寵しょうちょうは」、向寵は襄陽の人で、近衛師団長に挙げられた。「性行淑均(しゅくきん)」自分を売らない、控え目で人柄が美しい、均というのは公平な依怙ひいきのない性格であった。


「将軍の向寵しょうちょうは性行淑均にして、軍事に暁暢ぎょうちょうせり。昔日に試用せられ、先帝之を称して能と曰いたまう」。あれはできると仰せられた。「是を以て衆議寵を挙げて以て督と為す」。師団長にした。「愚以為(おもえ)らく、営中の事、事大小と無く、ことごとく以て之にはからば、必ず行陣をして和睦し、優劣所を得しめん」。




「賢臣に親しみ小人を遠ざけしは、此れ先漢の興隆こうりゅうせし所以ゆえんなり。小人に親しみ賢臣を遠ざけしは、此れ後漢の傾頽けいたいせし所以ゆえんなり。先帝(いま)せし時、つねに臣とこの事を論じて、いまだかつて桓(帝)・霊(帝)に嘆息痛恨せずんばあらざりき。待中・尚書・長史・参軍、これ悉く貞亮死節の臣なり」。節に死する臣である。この時の侍中に、先にありました費褘ひいがなった。これは孔明が抜擢登用した人であります。尚書、すなわち詔書を司る大臣、これは孔明と同じ南陽の人で、陳震ちんしんがなっておる。長史、これは王公室に属する人事の長官であるが、これは張裔ちょうえい。それから後しばしば重用され、活躍しております蒋琬しょうえん、これが参軍、軍事参議官であります。これ悉く貞亮死節の臣なり。「陛下之に親しみ之を信ぜば、漢室の隆、日をかぞえて待つべきなり」。



「臣(もと)布衣(ふい)みずから南陽に耕す。性命を乱世に苟全して」、この所をよく「いやしくも性命を乱世に全うし」と読むのですが、これをいやしくもと読んでは何にもならない。かりそめに全うする、よく考えて立派にという意味の反対。自分でもわからん。どうやってここまで生き長らえてきたのかよくわからんが、まあ何とかかんとか全うしたという意味で、これは「かりそめ」という意味に読まなければ、したがって苟全と熟語にしなければ味が出ない。



「臣(もと)布衣ふいみずから南陽に耕す。性命を乱世に苟全して(名)聞(利)達を諸侯に求めず。先帝、臣の卑鄙ひひなるを以てせず、みだりに自ら枉屈おうくつして三たび臣を艸蘆そうろの中に顧み、臣にはかるに、当世の事を以てしたまえり。是によって感激し、遂に先帝に許すに駆馳くちを以てせり。後傾覆(けいふく)い、任を敗軍の際に受け、命を危難の間に奉ず。爾来じらい二十有一年なり。先帝・臣が謹慎を知る。故に崩ずるにのぞんで、臣に寄するに大事を以てしたまえり」。



「命を受けて以来、夙夜しゅくや憂慮し、付託の效あらずして、以て先帝の明を傷つけんことを恐る。故に五月()を渡って、深く不毛に入る」。いわゆる南方の平定、濾は濾水です(いわゆる、七縦七擒といってそこの実力者孟獲を七回戦って七回捕まえてついに心服させた地)。濾水は清朝時代には金砂江という地名で知られております。「今、南方(すで)に定まり、兵甲已に足れり。まさに三軍を奨率しょうそつし、北して中原ちゅうげんを定むべし。ねがわくは駑鈍どどんくし、姦凶かんきょう譲除じょうじょし、以て漢室を興復して、旧都へかえさんことを」。旧都というのは洛陽、あるいは長安のことです。

 


「これ臣の先帝に報いて、陛下に忠なる所以の職分なり。損益を斟酌しんしゃくし、進んで忠言を尽くすに至っては、すなわち攸之いうしいんの任なり。願わくは陛下臣に託するに討賊・興復の效を以てし、效あらずんば、すなわち臣の罪を治めて以て先帝の霊に告げ、もし徳を興すの言無くんば、攸之、褘、允等のとがを責めて、以てその慢をあらわせ。

陛下もまた宜しく自ら謀って以て善道を諮諏ししゅし、雅言を察納さつのうして、深く先帝の遺詔いしょうを追いたまうべし。臣・恩を受けし感激にえず、今、遠くを離るるに当たり、表に臨みて涕泣ていきゅうし、云う所を知らず」




 文章が真心と、純情にあふれている。


 さすが昔から出師表を読んで泣かざる者は忠臣にあらず。李令伯(りれいはく)(李密と言って蜀に仕えた)の陳情書(90歳の母を残して遠方に赴任できないと、普の初代皇帝司馬炎に送った)を読んで泣かざる者は孝子にあらず。と、二つ並んで人口に膾炙した名分であります。


 孔明の甥である呉の諸葛恪(しょかつかく)(諸葛瑾の子)も、「近ごろ家叔父の賊と争競するの計を表陳せしを見て、いまだかつて喟然(きぜん)(溜息をつくこと)として歎息せずんばあらず」と言っております。いかにも感激に富んだ立派な文章であります。


 こういうことからしみじみ考えまするに、たとえばヒットラー、ムッソリーニ、あるいはスターリン、毛沢東など、彼らの伝記を読んでも、彼らにはこういう本当に肝胆相照らすというような交わりがない。みな形勢を観望して功利的に結合し、離合集散、あしたゆうべを計るべからずというような者です。ここになるとやはり漢の光武皇帝だとか、あるいは『三国志』の英雄たち、唐の太宗、清の聖祖(康熙帝(こうきてい)のこと。wikiでも、「歴代皇帝の中で聖の文字を含む廟号がこの康熙帝と、宋と澶淵の盟を締結させた遼最盛期の皇帝聖宗の2人にしか与えられていない」とあるように中華史でも最高の皇帝)なんていう人々が出てくる。


 人間的感激というのは大きな魂のこもったドラマである。これでないとやっぱり本当の政治はできない。真の民族の勃興はないということは、これは千古不磨の心理であると思う。


 やっぱりいずれの時か、必ずこういう人間関係のまた復活することがあろうということを私は信じて疑わないのであります」




 では、拙いながらも現代語訳。




「先帝、劉備皇帝は、漢皇室復興という漢民族の悲願を達成すべく勇猛邁進されましたが道半ばでお隠れあそばされました。


 いま、天下は三大勢力に分かれ相争い、ために我が国益州の疲弊は目を覆うばかりで、これは、実に国家存亡の危機であります。


 さりながら、防衛にあたる臣下たちは日々、尽力をおこたらず、先帝の格別の恩義に報いねば、と一朝事あらば命すら捨てる覚悟であります。恐れ多くも、陛下におかれましても、皆の声をすくいたまいて、先帝の遺風は今も健在であることを内外に明らかにし、皆の忠誠を集めねばなりません。盲目的に卑屈になったり、もっともらしい故事をもってきて大義を見失い、忠臣のお諌めに耳を塞いでしまうことこそ避けるべきであります。


 宮廷の、上は宰相から下は女官にいたるまで皆が一体となって、善悪を正しく裁定し、決して間違えてはなりません。もし、賄賂や不正を働いて罪を犯し、もしくは、忠義や善行を行うものがあるのなら、きちんとその所轄官に申し出て理非を調べ、間違っても色眼鏡や依怙贔屓で法を捻じ曲げてはならず、劉禅陛下の治世の公明さを満天下に知らしめねばなりません。


 近臣である郭攸之かくいうし費褘ひい董允とういんらはみな、行いが正しく忠義の士であります。これらのものは先帝が取り上げて劉禅皇帝陛下のために遺された臣下であります。


 そして、わたしは思います。それが大事であろうと小事であろうと、彼らに裁決させてそれから決定すれば、欠陥も見落としもない広く国家の利益となるでしょう。


 また向寵しょうちょう将軍はその性格、常に控え目でそれでいて依怙贔屓、身内を猫可愛がりするようなこともなく、さらに軍事に関しては並ぶものがありません。かつて、先帝が彼の戦ぶりをみて、奴は人物だ、と認められたものであります。よって彼を近衛師団長にまで抜擢されたのであります。


 わたしは思います。軍事においては事の軽重にかかわらず彼に任せれば、必ず全兵士が心を一つにできるでしょうし、適材適所、兵士一人ひとりの適性に合わせた軍を作り上げることでしょう。


 名臣を用いて、おべっか使いなどを遠ざけたのが前漢が発展した理由なら、おべっか使いを近づけて、名臣を疎んじたのが後漢が敗亡した原因であります。わたしは先帝とは常々、桓帝・霊帝の過ちに痛憤したものでありました。


 近臣である郭攸之かくいうし費褘ひい董允とういん、詔書を司る大臣である陳震、人事長官である張裔、軍事参議官である蒋琬しょうえん、これらことごとく、死を恐れぬ忠臣であります。恐れ多くも、陛下が彼らを重く用いることがあれば、漢皇室の復興も遠い未来のことではありますまい。


 ……わたしは、本来、卑しい身分でありました。召使いもいないので自ら畑を耕すような身分でありましたが、さりとて、一山いくらの成り上がりたちに一時の出世栄達を求めることなど致しませんでした。


 そこに現れたのが、先帝、劉備玄徳皇帝でありました。


 わたしが農民と大差ないのを、まったく気にもせず腰を曲げて藁葺のあばら家に赴き、なんと、わたしに世の経綸をお尋ねになったのであります。


 わたしは感激いたしました。そして、先帝のためならばと、どんな犬馬の労もいといませんでした。そして、国を追われて敗亡の身となり生きるか死ぬかの最中に一生お仕えいたすことを決め、それから早くも二十一年となりました。先帝は、わたしが軽率な行動を取らないことを承知してくださり、ご遺言として、この国の命運を任せてくだされたのであります。


 それ以降、わたしは先帝のお志を完遂すべく、日々懊悩煩悶しましたが、国家の大事を任されたにもかかわらず目立った働きができず、先帝の名声に傷をつけてしまうことを恐れました。


 よって、国力を高めるために南征を行ったのです。


 いま不毛の地と言われた南蛮の民は我が国の臣下となり、兵の数も武具も揃いました。いまや三軍を整え、北上して天下を平定するは、この時をおいて他にありません。


 非才の身ですが、簒奪者を平らげ、漢皇室を復興して洛陽に凱旋せんことを。


 これは、わたしが亡き先帝のために、また劉禅陛下に我が忠義を示す職責なのであります。


 利益や損害を勘定し、進言するにあたっては郭攸之かくいうし費褘ひい董允とういんの仕事です。


 陛下におかれましては、是が、非であろうとこのわたしに簒奪者討伐と皇室復興の任をお任せ下さい。もし、その責務を全うできぬ時は、我が罪過を先帝陛下にお告げ下さい。


 もし、徳を厚重させる進言もできないようなら、それは近臣の怠慢でありますからその罪をお責めください。


 また、陛下におかれましても、ご自身自ら、臣下にご下問くださり、仁政を成し遂げるの方策を伺い、臣下に発言ある時はそれをすくい上げ、深く先帝陛下のご遺言をお守り下さいませ。


 臣、受けた御恩を思って感動し打ち震え、いま、遠く出征するに、この上奏にあたり落涙し言葉もありませぬ。




 と言ったところでしょうか。ここまで惻々と心情に訴えかける所信表明も古今ないでしょう。


 さて。○っと丸写してみましたが、いかがでしょう。出陣するにあたって、懇々と劉禅に説諭するなど、孔明さんの苦衷を察するに余りあるではありませんか。


 ちなみに、wikiによると、蜀滅亡後、招かれた宴席において劉禅は、



「宴席で蜀の音楽が演奏されて、蜀の旧臣が落涙していたときにも劉禅は笑っていた。それを見た司馬昭は、「人はここまで無情になれるものなのか。諸葛亮が補佐し切れなかったのだから、姜維には尚更無理だっただろう」と賈充に語った。賈充はそうでなければ殿下はどうして蜀を併合できましたでしょうかと答えた。また、司馬昭が劉禅に「蜀を思い出されますか?」と尋ねたところ「いいえ、ここは楽しく、蜀を思い出す事はありません」と答えた。これには家来のみならず、列席していた将たちさえも唖然とさせられた」



 で、



「傍に居た郤正は、「あのような質問をされたら、『先祖の墳墓も隴・蜀にありますので、西の国を思って悲しまぬ日とてありませぬ』とお答えください」と諫めた。司馬昭は再度同じことを質問したところ、これに対し劉禅は事前に言われた通りに答えた。「これは郤正殿が言った事と全く同じですね」と司馬昭に言われ、劉禅は驚いて「はい、仰る通りです」と答えて大笑いになった。この逸話から「どうしようもない人物」を指す「扶不起的阿斗(助けようのない阿斗)」ということわざが生まれた」



 とか。阿斗、とは劉禅の幼名のようでして、救いようのない阿呆、とは少しだけ違うようですw まあ、こんな人物が劉備の子であったのですから、いくら孔明さんが骨身を削ってもそりゃ蜀の滅亡は回避できないですよね。


 それはさておき、何のことはない、人間、赤心、至誠が一番、ということの再確認にほかなりません。


「我が心秤のごとし」


 とおっしゃられたように正しいことを正しいとし、間違っていることを間違っているとする。そんな当たり前のことを国家において、日常において行うのみであります。


 これから、我々は蜀と同じく、国力においてはどうかは分かりかねますが少なくとも人口においては十倍以上という国を相手取らねばならないわけで、そうそうに降伏して奴隷でも性奴隷でもいいのでいかようにでも処してください、と言い出す人間ならいざしらず、白村江の戦いか元寇、いや、日露戦争をすら凌駕する国難になることは言うまでもない。


 そんな時にようつべなどを見ておりますと、どこぞの半島を小馬鹿にした動画がいくつかあるようですが、そんな場合ではないなどと思ってしまいますね。いえ、決してどこぞの半島と手に手を取り合って、などと言うつもりは毛頭、微塵も、金輪際ありませんが、対中華を睨んだ提言とかあってもよいとは思うわけで、そんなザコにかまっている時ではない。ブリタニア皇帝のように、「些事」と見向きもしないくらいでちょうどよい。


 ましてや、蜀は人心を一致させて未曾有の国難に挑もうとしたわけで、戦う前から敵国のスパイにいいようにぐちゃぐちゃにされておるなど目も当てられない。ほんと、日本人は日本の国土を他国に蹂躙されたがっているのであろうな、と嘆ずる。


 多分、こういう連中はこういった甘っちょろい状況が未来永劫続くものであるのだ、と信じて疑わないのであろうと思う。いままで一度も滅んだことがないのであるからして、日本は絶対に滅亡もせず、他国に蹂躙されることもなく、自分たちにとって都合の良い毎日があと数万年は続くのだろうと、信じて疑わないのであろう。


 …閻魔あいのかわりに言ってみよう。



「いっぺん、ちんでみる?」



 そういえばと振り返ってみれば、総理経験者の幾人かに、「救いようのない阿斗」が確かにいる気がするのは、なんでだろうなぁ。


 そう考えますと、現代日本に孔明さんがいてもど~しようもない、ということが分かるわけですね☆ミ


 といったところで今宵はこれにて。


 したらば。





「BULLDOG ANTHEM」を聴きながら。


 オペラップがずっと聴きたかったから、検索してようやく見つけた時は嬉しかったなぁw


 他にもピョートルの「DANCE TONIGHT」アンジェラの「LIGHT A FIRE」と、「キャロル&チューズデイ」には名曲が多いですが、わたしはこれが一番好きですね。当たり前ですが、これに比べますとキャロチューの歌は線が細すぎる。あと、ピョートルは声優さんと歌手さんのギャップがでかすぎてずっこいw 


 また、「DANCE TONIGHT」とか「LIGHT A FIRE」とかは間違いなく名曲なのですが、ある意味だからこそ名曲という枠の中に収まるものであって、「BULLDOG ANTHEM」なんてのはオペラップという、既存の枠を超越した、古きと新しきの混融というべきか、伝統と革新の融合というべきか、突き抜けた面白さがあるなぁ、と、そこまで考えて気が付きました。


 それってつまり、どこぞの、ラノベに論語ぶっこんで喜んでるのと方向性一緒なのかな? と。ああ、だから好きなんだなぁ、と一人で気がついて腑に落ちたw さーせんw


 しかし、キャロチューももう少し脚本を練り上げれば名作の仲間入りしたんでしょうけどね。多分、多くの人がミンメイ・アタックっぽいものを予期していたでしょうに。まあ、チューのあの雑な凍傷騒ぎで化けの皮が剥がれていたわけですが。さんざん奇跡奇跡と煽っておいて、で「We Are The World」もどき歌って終わりとか。大山鳴動してネズミ一匹。起こらないから奇跡というんだ。奇跡なめんなw



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