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『武士の娘』を読む



 やっつけ感ド満載で緊急事態を宣言しました今日この頃。食料品を買い占めるに至った初期からすでに人々も中共肺炎に飽きたと言いますか慣れたと言いますか、そこまで自粛ムードというほどでもないご様子。でも、夜も8時になるとお店を半ば強制的に閉めるから仕方無しに人々も帰路につく、といったところでありましょうか。


 お上も、中共肺炎が終息しないのは民草が自粛もしないで街中をブラブラしておるからだ、とでも言いたいのでしょうか。


 でも、思い出してみたら、確か中共肺炎初期の頃、その発生源中共では超急ピッチで病床を増やしておったような? あの中共ですら病床を増やそうと躍起になっておったのに、日本は一年間何をしておったのでしょうね。スガノマスクとかすらな~~んも手立てを講じもしないで、それで家にちょびっと閉じこもっていさえすればそれで世界的疫病が終息するとでも本気で思っておるのでしょうか。


 ちなみに、わたしが仕事しておる会社でも中共肺炎対策として、食堂の飲食禁止。というお達しが出ました。昼食は仕事場の自席で取るか、外で食え、とのことです。


 わたしは一切気にしないので、弁当の匂いを周囲に撒き散らしながら自席で取りますが、それをはばかる人は外でご飯を食べておられるご様子。


 中共肺炎対策として、その中共肺炎がどこに漂っておるか分からんのに外に出てご飯を食べる、というのは一体どういう対策なのか。いよいよ日本人はオツムのレベルが中共以下になってきたのかな、と思う豊臣亨です。おこんばんはです。これもいまさらかな。




 さて、今回読みましたのは『武士の娘』


 これは、杉本鉞子(すぎもとえつこ)さんという、幕末越後は長岡藩で国家老であった稲垣家の六女として生まれたお人の回想録です。


 武家の息女として厳しい躾と教養を叩き込まれ、やがて兄の友人の杉本松雄氏と結婚するために渡米。二人の娘を授かります。しかし、夫に先立たれいったん帰国するも(wikiでは帰国後松雄氏が亡くなった、ということになっていますね)やがて娘たちのたっての願いでまた渡米する。『武士の娘』は再渡米後に書かれた回想録で、その当時、幕末と明治維新の武家の女性の生活様式や倒幕、佐幕と分かれて戦う人々の緊張感、その周囲の人々の息吹を伝える非常に面白い本でして、最初から最後まで考えさせられる内容でありました。


 まず最初にびっくりさせられるのがこちら。p10




「その名も「山の後方」を意味するこしの国は蜿々(えんえん)とつらなる三国山脈に隔てられていますので、封建時代の初めまでは、ここは氷にとざされた僻地と考えられ、地位も高く権勢ある人々で、罪人扱いしにくいものを流すには格好の地とされたものでした。


 こうした人々の中に、その時分の改革者があったわけでした。


 当時の日本は、政治上にも、宗教上にも、革新ということに対しては、仲々きびしく、ことに大宮人の中で、進歩的な考えを持つ人々や、覇気のある僧侶たちは、一様にいとわしい汚名を被せられ、何処か僻遠の地に送られ、永久にその志を挫かれたものでありました」




 佐渡ヶ島が島流しの地であることを歴史好きなら知らない人のほうが少ないと思いますが、実は、越後の国も島流しに近い性質を与えられていたのだ、というのはわたしも初耳でありました。


 配流された人々は、周囲から煙たがられたいわゆる、KYな人々が送られたそうで、つまりこういう、自分たちになじまない独歩の気風をもつ人間を遠ざけんとするのは、日本人の大昔からの性質なのだな、と思う次第です。


 ある意味、協調性のない、周囲と軋轢を起こしかねない人間を忌み嫌うのは日本人の民族性ともいうべきでしょう。この点は大昔から何も変わらない。現代に至るも、周囲から少し変わっているだけで変人扱いされ、いじめだ、疎外だ、と排除される。


 個性個性とたわごとほざいたところで、日本人は永劫、本当に個性ある人間を排除し続けるのでしょう。良くも悪くも日本人は変わらない、変われない。根っこの部分はずっとそのままでありながら、システムだの仕組みだのを変えればそれで良くなると思っている。看板だけすげ替えても中身は何も変わっていないのに。


 とまあ、冒頭初っ端から考えさせられる本書。


 その当時の人だからこその考えや日常を少し、伺ってみましょう。p29




「私の幼い頃には、幼稚園などはありませんでしたけれども、小学校にあがる前に、ほんの手ほどきではありましたが、歴史や文学の基礎となるべきものを、かなり学ばされました。私の祖母は大変な読書家でしたので、雪に振り込められた冬の夜長には、私達子供は打ち揃って炬燵こたつをかこみ、祖母の話に耳を傾けたものでした。


 我が国に伝わる神代の物語、宮本武蔵、田宮坊太郎、小栗判官、岩見重太郎など英雄豪傑のお話、八犬伝や弓張月などの小説のお話、それからまた、むかしのお芝居のお話なども、この祖母の口から聞かれたものでした。


 姉は女としての、あたりまえの教育を受けましたが、私は、尼となるべきさだめをうけたものと家中の人々に信じられておりましたので、すっかり異なった教育をうけました。


 と申しますのは、私が生まれた時、お坊様のお数珠のように、へその緒が頸の周りにまきついていたとのことで、当時のこのようにして生まれた子は、仏さまからのじきじきの御しめしを受けているのだと信じられたていたものでした。祖母も母もこの事は真面目に信じておりましたし、日本の家庭の常として、家事は、とりわけ、女の子の教育は、一切女の手にゆだねられておりましたので、父は、私に尼としての教育をするという祖母の熱心な望みに対しては、黙って従っておりました。


 父は自分が信頼していた家の菩提寺の僧を、私の師匠として迎えました――この方は博学な方で、私に仏事の形式を教えては下さらず、孔子の教えをこまごまと説いて下さいました。この孔子の教えは、当時一切の学問の根柢と考えられておりましたし、父は、それを道徳の最高のものとも信じておりました」




 本書では鉞子さんは周囲の人々から、エツ子、ではなく、「エツ坊」と呼ばれていたそうですが、それももとから尼にするつもりで、漢籍など教えを受けていたからそんな呼び方になってしまったのだそうな。その当時、漢籍を教え込まれた女の子などそういないでしょうから。


 この僧は相当に厳しいお方であったようで、わずか六歳の鉞子さんに論語はもちろん、四書、大学や中庸、孟子などを教えたそうな。当然、ちんぷんかんぷんであった鉞子さんが意味を尋ねますと、p31


「まだまだ幼いのですから、この書の深い意味を理解しようとなさるのは分を越えます」


 とおっしゃったとか。


 今どきだったら、だったら押し付けんじゃね~よ、と言われそうですがこれが当時の武士の教育だったようです。そもそも、自らの教えを自らに体得したような僧であったからこそ、自ずと威厳が溢れていた。p32




「このお師匠様は四書を教えて下さるにも、仏教を説く時と同じに、恭しい態度をもってせられ、肉体の安逸ということを一切避けておられました。辞退なさりながらも、教授の間だけは、女中のすすめたお座蒲団に座っておられました。これというのも、師は弟子より一段上に席をとらねば、師弟両方とも礼をなみすることとされていましたので、無理にお願いしていたわけであります。


 お稽古の二時間のあいだ、お師匠さまは手と唇を動かす外は、身動き一つなさいませんでした。私もまた、畳の上に正しく坐ったまま、微動だもゆるされなかったものでございます。


 唯一度、私が体を動かしたことがありました。


 丁度、お稽古の最中でした。どうしたわけでしたか、落ち着かなかったものですから、ほんの少し体を傾けて、曲げていた膝を一寸ゆるめたのです。すると、お師匠さまのお顔にかすかな驚きの表情が浮かび、やがて静かに本を閉じ、きびしい態度ながら、やさしく「お嬢さま、そんな気持ちで勉強はできません。お部屋にひきとって、お考えになられた方がよいと存じます」とおっしゃいました。


 恥ずかしさの余り、私の小さい胸はつぶれるばかりでしたが、どうしてよいものやら判りませず、つつましくその部屋を退き、何時もお稽古が終わると父のところへゆくことにしていましたので、この時もそろそろと父の居間へ参りました。時間が早いので、父は驚きましたが、事情を知らないままに「おや、随分早くおすみだね」と申しましたが、きずついた私にはまるで死刑をつげる鐘の音のように響いたものでした。あの時のことを思い出しますと、今もなお打ち傷の痛みのように、私の心を刺すものがございます」




 これが、本当の教育というものでしょうね。


「そんな気持ちで勉強ができない」のなら、わたしなどほぼ一生まともに勉強もできないでしょうが、昔の日本人が偉大であったのは、こういう日常の所作、振る舞いにこそ、決して手を抜いて、気持ちを緩めていい加減にしないで、己を厳しく律していたからこそ、正しく、立派な人間になれたのでしょう。この僧が、今どきの学級崩壊など聞けば子どもたち全員警策で滅多打ちでしょうね。


 よく言われるのですが、江戸幕府がそっこうで堕落し、奢侈、放逸遊惰に流れても、日本が堕落しなかったのはこういう地方の武士が己を厳しく律していたからだ、とされます。この描写をちらりと伺うだけでも、その当時の人々の精神力、自己陶冶力を思い知らされる気がいたします。


 そして、こうして厳しい師の教えが、ある意味トラウマとなって己の心を責めさいなむからこそ、弟子は一生をその師の教えを心に刻んで生きることができた。


 教科書に書いてあるものをただ、だらだらとスピーカーのように流すだけの教育が、結局どれほど子の心を毒し、有限なる時間を無駄に消耗しているか。教える側も側なら、教えを受ける側も側なので、結局、トラウマになるほどの鮮烈な教えの体験、寸鉄に刺されるような衝撃はそこにはなく、大切な教えを反芻するような反省もない。


 だから、いい年こいて意味不明な犯罪に手を染められるし、いかがわしいことだって何だってできる。


 峻厳な師をもたぬものの悲しみです。せめて、書の中におわす師に教えを請うだけの精神力があれば、少しは救われるかも知れません。


 では、次に食べ物に関連して。p39




「初めて私が肉食というものを口に致しましたのは、八歳の頃でございました。殺生を禁ずる仏教が伝わってから千二百年間というものは、日本人は獣の肉はいただきませんでした。でも近頃では、信仰も習慣もずいぶんと変わりまして、どこの料理屋でも旅館でも、お肉を出すようになりました。ところが、私の幼い頃には、牛肉といえばいみきらわれたものでございました。


 今でもよく憶えておりますが、ある日、私が学校から帰って参りますと、家中いえじゅうのものがみな心配そうな顔をしておりました。玄関に入りますと、すぐに、何か重苦しい空気が感ぜられました。母が女中になにか申し付けている声も低く、調子もぎごちなく、唯ならぬ気配でございました。廊下に立っていた召使いたちも皆、小声でささやき合っております。


 まだ家族の誰にも挨拶をしておりませんでしたので、訊いてみるわけにもゆきませんでしたが、何かまがごとのあることの不安が感ぜられました。


 廊下づたいに祖母の部屋へ参りますのに、静かに歩こうとしても、仲々に心が落ち着けませんでした。畳に手をついて、小さな声で「お祖母さま、ただいま帰りました」と、いつものように挨拶いたしました。祖母は、やさしく微笑しましたが、いつになく厳しい顔つきでした。祖母と女中とは金と黒漆とで塗られたお仏壇の前に坐りました。傍には障子紙を載せた大きなお盆があり、女中はお仏壇の扉にめばりをしているところでありました。


 日本の家庭の常として、私の家にも仏壇と神棚とがお祀りしてありました。家の内に、病気とか、不幸がありますと、穢れを忌む意味から、神棚はすっかりめばりをするのでございました。けれども、お仏壇はこんな時には、扉はすっかりあけひろげられてありました。これはお釈迦様が悲しむ者をお慰め下さり、極楽へ旅立つ死人を案内して下さると信じていたからでございます。


 私はこれまで、お仏壇にめばりをするのをみたことがありませんでしたし、時刻も丁度、夕方のお燈明とうみょうを上げる頃おいでありましたから、不審に思ったのでした。いつもこのお燈明の時刻は、一日の中でも楽しい時でありました。と申しますのは、出来上がった夕げのご馳走を先ずもりわけ、小さいお膳にのせてお仏壇にお供えし、それから、家中のものが銘々に箱膳の前に坐り、ご先祖様もご一緒に居合わせて下さるのだと思いながら、話し合い、笑い交わして食事をする慣わしだったからでございました。


 それですのに、お仏壇にめばりをしてしまうというのですから、不思議でたまらず、恐る恐る声を震わせながら尋ねました。


「お祖母さま、どなたか、どなたかお亡くなりになりそうなのでございますか」


 祖母は半ばおかしそうな、半ばびっくりしたような顔をいたし、


「エツ坊や、そんな思い切ったもののいいかたは、まるで男の子のようではありませんか。女の子というものは、そんな不作法な口の利き方をしてはいけません」


 と申しましたので、私は、


「相済みませんでした」


 とは申しましたものの、やはり気になりますので、もう一度


「でも、お仏壇にめばりがしてあるではございませんか」


 と尋ねました。祖母は「そうですよ」と溜息まじりに申したきり、後は黙ってしまいました。私も黙って女中に紙をほぐしてやられる祖母の曲がった背の辺りをみつめたまま、坐っておりました。幼心にも心配でたまらなかったのでございます。やがて祖母は腰をのばして、私の方へふりむき、ゆっくりとした口調で、


「お父さまが家中で牛肉を食べようとおっしゃったのでね。何でも、異国風の医学を勉強されたお医者様が、お肉を頂けば、お父さまのお身体も強くなり、お前たちも異人さんのように丈夫な賢い子になれるとおっしゃったそうでね。もうじき牛肉が届くという事ですから、仏様を穢してはもったいないと、こうしてめばりをしているわけなのです」


 と申しました。その夜、私達一家は、肉の入った汁をそえた、ものものしい夕食を頂きましたが、お仏壇の扉はすっかり閉ざされており、ご先祖様とご一緒でなかったことは、ものさびしゅうございました。いつも上座につかれる祖母も見えず、歯の抜けたような空席が、奇妙な感じでございました。その夜、私は祖母に、何故、みんなと一緒に召し上がらなかったのですか、と尋ねますと、


「異人さんのように強くなりたくもないし、賢くなりたくもありません。ご先祖様方が召し上がったものを頂くのが祖母ばばには一番よろしいがの」


 と悲しそうに申しました。


 姉と私は二人で、そっとお肉の美味しかったことを話し合いましたが、他の誰にもこんなことは申しませんでした。二人とも、幼いながらも、大事なお祖母さまの心にそむくことはいけないことだと思っていたのでございましょう。


 日本人が肉食をするようになりましてから、西の世界から久しくわたくしどもをきりはなしていた伝統の壁も、随分と打ち壊されました。そして、こうした急激な変化には、大きな代償が支払われたのでございます。が、これも致し方ないことでしょう。御維新後は、多勢の武士が、それまで扶持されてまいりました制度からきりはなされ、一朝にして零落してしまいました。


 そればかりか、金銭にかかわらないことを根強く教えられた武士達は、当世には全く水を離れた魚同様でございました。この人々のうちには、年若く青雲の志に燃えて一旗挙げようとした方も多勢ございましたが、世に申す武士の商法で、失敗だらけでございました」




 この短い文章に込められた意味合いは非常に重いですね。


 日本人の信仰、宗教観、ご先祖様に対する思い、食生活という伝統、文化に作法。


 肉食という欧風の食事が、ついに東京だけでなく新潟にもやってきた(近江牛が戦国時代から食されていたことに関しては何もいいますまいw)。そして、その変化を受け入れる風と、拒絶する風が家中に吹き荒れた。家中の多くのものが牛肉を美味しくいただく中、祖母だけが進取の気風を厭わしく思った。白色人種のように、賢くなりたくもないし、強くもなりたくもない。ただ、ご先祖様と同じでありさえすればよい。文明の衝突による、一方の発展と一方の消滅という、人類史において、常に繰り返されてきた事例の一つであるとはいえ、考えさせられます。


 また、儒教にがんじがらめにされて商売を忌み嫌い、時代の激変に取り残された武士。


 覇権主義が世界を席巻し、急速に国力と武力を進展せねばならなかった日本にとって、経済的発展は絶対であった。そうでなければロシアをはじめ列強は続々とやってくる。白色人種にとってそれ以外の人種は奴隷と同義であり、手をこまねいておれば屈従の日々しかない。今でこそ中共の非人道的行為を非難しておりますが、しかし、その非人道的行為を率先し、主導しておったのが欧米であり、人種平等を国連に訴えた日本に対し、反対を唱えたのが米国であるという事実を決して忘れてはならない。


 しかしそれでも。致し方ないこととはいえ、それによって払った代償、犠牲は、あまりにも深甚に過ぎます。旧弊たる儒教を捨て、欧米の思考、システムをただ鵜呑みにしたありようが本当に絶対の正しさであったのか。まあ、誰もそんなこと気にもしないのでしょうが。


 続きまして、話はばびゅっと飛びまして、鉞子さんはすでに渡米しご結婚。その中で当然、日本と米国の文化や歴史、考えの違いに悩まされるのですが、こういった興味深い描写も。p213




「アメリカに来て、どうしても馴染めないものの一つは、婦人と金銭に対する不真面目な態度でありました。


 あらゆる階級の男女、新聞、小説、講演、時としては教会の講壇から諧謔(かいぎゃく)(ユーモアのこと)まじりであったにせよ、女が靴下の内にお金を貯えるとか、夫にねだったり、友達から借りたり、何か秘密の目的でそっと貯金をしたりするような、おかしい話を暗示されました。おそらく貯えたお金でカーテンを買ったり、夫の誕生日の贈り物を購ったりするのでありましょうが、こんな冗談が、私には合点がゆきませんでした――そして、時が経つにつれて、色々のことから、この冗談の中に、きびしい事実が根柢に横たわっているのではないかと思いつき、ますます判らなくなるばかりでございました」




 とありまして、内容的には米国婦人は、自分の自由にできるお金というのがほとんどなく、多くの婦人が夫からもらっている。とのことで、時にはお金が必要ともなると旦那の財布から抜き取ってくる人もあったそうな。しかし、そんな話を婦人会で集まって笑い話として語り合っていることに、鉞子さんは激しい違和感を憶えたそう。p216




「婦人が自由で優勢な、このアメリカで、威厳も教養もあり、一家の主婦であり、母である婦人が、夫に金銭をねだったり、恥ずかしい立場にまで身を置くということは、信じられそうもないことであります。


 私がこちらへ参ります頃は、日本はまだ大方、古い習慣に従って、女は一度嫁しますと、夫にはもちろん、家族全体の幸福に責任を持つように教育されておりました。


 夫は家族の頭であり、妻は家の主婦として、自ら判断して一家の支出を司っていました。家の諸掛かり(費用のこと)や、食物、子供の衣服、教育費を賄い、又、社交や、慈善事業のための支出を受け持ち、自分の衣類は、夫の地位に適わせるように心がけておりました。


 それらのための収入は、いうまでもなく、夫の働きにより、妻は銀行家になるわけです。


 ですから、夫は自分でお金の居る時には、妻からもらい、夫に、地位相応の支給ができるのを、妻は誇りとしていました。夫が外に出て、どれ程のものが必要であるかを知ることも、妻の教養の一部なのであります。時に、夫が肩をすくめて「それじゃ、都合が悪い(意味合いとしては小遣いが少ないということでしょう)」などという事はありましても、家族全体とその地位とが夫の誇りであるからには、全体を傷つけては、夫自身の損失になるわけでありますから、先ず必要なものは、一家を支えてゆく為の入費です。男の結婚は、第一には神様と祖先に対する義務であり、第二には、その家と夫のために、上手にきりもりする主婦を得ることであります。


 ですから、妻が上手に一家を納めれば、夫は周囲の人々から賞められ、もし妻が妻の務めに失敗すれば、夫は軽蔑されるわけであります」




 ここでみて明らかなのが、そもそも米国と日本では夫婦における地位が全然違う、ということですね。


 そもそも、一家を切り盛りするためのお金を管理しているのが、米国で夫であり、日本では妻であった。


 さらにそもそも、白色人種という生き物は、義務と権利という、徹底的個人主義で社会を醸成してきた生き物なので、自分が稼いだ金を妻とはいえ他人に任せる、という概念が少ないということであります。妻とはいえ、しょせんは他人であり、金の管理はそもそも別個で行うもの。そういう認識が非常に強い。


 フェミニズム、というwikiを見ればこういう記述がすぐ出てくる。




「郊外住宅の主婦、これは若いアメリカの女性が夢に見る姿であり、また、世界中の女性がうらやんでいる姿だといわれている。 しかし、郊外住宅の主婦たちは、密かに悩みと戦っていた。ベッドを片付け、買い物に出かけ、子供の世話をして、 1日が終わって夫の傍らに身を横たえたとき、『これだけの生活?』と自分に問うのを怖がっていた」




 なにゆえこのような考えに至るか。


 単純なことですね。米国では女性とは夫の付属物であり、その主婦となるということは、その実、奴隷や家政婦となることと何ら変わらない立場におかれることであり、そして、実はこの付属物、というありようこそがキリスト教の根本でもある。


 デウスが、アダムの肋骨からイブを作り出した、という記述そのものが、女を付属物として認識していることの疑いようのない証拠であり、明治維新となって、もっとも先進的であるはずの米国にやってきた日本人がまずもって目を疑ったのが、女は夫の付属物、という歴史であったということです。この時代の白色人種の女性ともなれば、非常に立場も強いし男に対しても決して引けは取らない。にもかかわらず、一旦家庭におさまろうものなら、女性は夫に金をせびるような立場にあって、しかも多くの主婦たちはそれを甘んじて受け入れていた。


 鉞子さんの驚愕のほどが容易に伺われます。


 それにひきかえ、東洋、なかんずく、日本では権利や義務という概念も存在しなかったので、夫婦という有りようそもそもが、欧米とは隔絶されたものであった。


 そこにあるのは、家向きの一切を主婦が取り仕切るという役割の分担、といか役割の絶対。


 夫はその家にあって、家長として立ちながらも家のことには関わることができなかった。鉞子さんが当初は尼となるべく教育をされていたことに、男は口をだせなかったことも、祖母や妻の、家庭内における発言力の強さから伺えます。


 つまり、夫は家の中においては、


君臨すれども統治せず


 であり、逆にいえば、家庭内における妻は、


統治すれども君臨せず


 という立ち位置であった。


 権利と義務、という概念がなかった日本人にとって、まずもって重要だったのが、お師匠様も口にされた「分」であります。


 分、とは全体に対する一部分を指し、その全体、家庭とか社会とかの中にあって、一部分たる自分はどのように振る舞うべきか、どのような役割を果たすべきか、ということを自ずと、当たり前のように考え、行動し、力をつくすべき。という考えであります。


 自分、という言葉に実にそれが如実に現れているそうで、自分の自、は当然己のことを指し、分が、周囲の中における己の立ち位置を指す。自分、という言葉の中に、日本人は、己のいるべき場所、いるべき立ち位置において当然の行動、役割、そしてまた、その中での節制や抑制、バランス感覚、仕事、使命を果たすべきだと考えていたわけであります。


 だからこそ、日本における男女差別とは、白色人種のそれとは別次元の話であったのですが、悲しいかな、それをまったく理解できない福沢諭吉などを始めとする左翼軽薄才子が、ただただ欧米化すれば日本の旧弊は改まる、と無計画に、無思想に欧米の思考、システムを導入したからこそ、今の日本と相成ったわけであります。


 そしてさらに、その奴隷や家政婦から開放されることを望んだ米国からの活動家が、日本においても主婦が開放されることを画策した。


 確かに、日本の主婦は開放されました。



「ベッドを片付け、買い物に出かけ、子供の世話をして、 1日が終わって夫の傍らに身を横たえたとき、『これだけの生活?』と自分に問うのを怖がっていた」



 という生活から、自分も社会に出て働き、男と同じように金銭を得る生活を享受できるようになりました。その結果、鉞子さんがおっしゃるように、



「女は一度嫁しますと、夫にはもちろん、家族全体の幸福に責任を持つように教育されておりました」



 そういう己の分に応じた教育、責任は完全に放擲され、家庭といってもそこにいるのはただただ赤の他人よりは縁が近い程度の同居人風情。といっても昨今は赤の他人よりたちが悪いのがうじゃうじゃいる始末。 


 妻が家庭から開放されことによって、日本の家庭は見事に崩壊しました。


 夫は夫としての分を、妻は妻としての分を放擲し、てめえさえよければよい、で、さらに悪質なことに義務はこれに対しては最大限無視をするが、権利だけは声高に主張するようになった。


 で、そんな家庭に生を受けた子どもたちは、生まれた時から心に甚大なダメージを受けるに至った。分を放擲したおかげで妻は子どもに対する責任をほぼ捨て去り、子どもたちは人間としての尊厳を授かる前に、ただただ資本主義社会の中で経費として認識されるようになった。教育費、養育費、様々な経費が一人の人間が生きるにあたって必要であり、分も何もかも理解できない、権利だけを声高に叫ぶ現代にあって、金のかかる子どもとはただちにただの足かせに過ぎなかった。


 人としての、家庭における暖かさや、尊厳、礼儀を欠いた現代人は子どもたちに、さすがに虐待しないまでも、精神的に非常に冷遇する。ただの同居人に過ぎない親は、子どもを、無知で無能な厄介者としてバカにする。


 そうして、物心付く前に冷遇された子どもは、心に甚大なダメージを負う。


 さらに、その子が成長するに従って、心の傷が癒えるどころか、その傷はさらに深く、大きくなってゆく。心に傷を負ったもの同士が社会に出て、傷をなめ合うような仲になるか。ほぼ、そんなことはない。お互い嫉視し排擠し、角逐しあい、その傷を取り返しのつかないレベルまでひどくしてゆく。


 で、そんな人間が時たまたま恋人だの夫婦だのとなったところで、急に分を守るような人間になるはずもない。


 子供の頃に植え付けられた心の傷は、てめえさえよければそれでよい、という親の姿であった行動心理をそのままデッドコピーする。よって、浮気だの不倫だの離婚だの、その時その時の、刹那の行動をとる。そうして、劣化と悪化がスパイラル化し、永劫に救い出せない境地に子どもを追いやる。現代はここらへんであり、そのスパイラルは国が破滅するまで止まらない。


 では、続きまして、ご主人である松雄さんが営む商品を持って帰った際のお話。p236




「ある時持って帰った小さい漆塗りの箱は、昔の人が腰につけて歩いた印籠のような格好で、外側には仕切りが入っていましたが、開けてみますと、重ね箱ではなく、縦二つに分かれて、歌留多が入るようになっていました。塗りもよくないし、細工も雑なものでしたが、遊び道具のいれものを印籠に似せて作ったところが、仲々面白い考えだと思われました。


「アメリカ人はとても独創的な国民ですこと。でも、ここで漆ができるとは、今まで知りませんでした」


 と申しますと、松雄がその小箱を裏返ししましたので、見ますと「日本製品」と書いた貼り紙がありました。二、三日経ちましてから、私は街のお店へ行ってみました。松雄は棚を埋め尽くした日本品を見せてくれましたが、日本の人がこれを見たら、珍しい欧州の品々だとびっくりなさるでしょう。が、みな「日本製品」のしるしが入っていました。


 松雄が申しますのに、これは、アメリカ人が自国向きに考案して、日本の工場へ注文し、そこからすぐに船に積んでこちらへ運ぶので、日本では誰もこれを見る人はないのだとのことでありました。私は聞いていて、ずいぶん変なことだと思いましたが、松雄は肩をそびやかして、


「アメリカ人が欲しがって考案し、注文し、手に入れて満足する限り、これを供給する商人があるわけさ」


 と申しました。


「でも、これは日本のものじゃございませんわ」


「そうだよ。だが、今は、生粋の日本のものだったら売れないのだ。余りもろいし、見た眼にも派手でないから」


 といってから、ゆっくりと


「唯一の対策は、アメリカ人に日本文化を吹き込むことだよ。やがて、それも始まるだろうがね」


 その夜、私はいろいろ考えつづけて、眠れませんでした。緑や金色のあくどい花瓶や、安い漆塗りの箱や、花簪をさした女の笑顔の絵のついた扇を好む大衆に比べれば、芸術的な眼のある人は数える程しかないでしょう。


「でも、もし日本が、その芸術的な標準を下げてしまったら、日本は世界に向かって、何を求めたらよいでしょうか。今、日本が持っているものや、今の日本の姿は、その理想と誇りとから生まれ出たものであり、高いのぞみも技倆も礼儀作法も、みなこの二つの言葉にたたみこまれているのではないでしょうか」


 と、溜息まじりに、独り言をいったことでありました。


 私の知っている庭職人に、時間払いではなく、一仕事ごとに賃金を貰う人がありました。


 この人が半日がかりでした仕事を、それも庭石をほんの二、三寸動かすだけのことでまたやり直しをいたしました。でも、気に入ったところへ石を据えると、汗をふきふき、その傍に腰を下し、お金にもならない時間を空費することなど、気にもとめず、庭石を眺めながら、煙草をふかしているのですが、その顔には、喜びと満足の色があふれているのでした。


 この年老いた職人のことを思い出しますと、自分の芸術を誇り得る喜びを捨てて、何の価値があろうかと思ったことでありました。私は庭師から職人、教師、政治家のことへと思い及びました。


 それは皆同じことなのです。誇りをきずつけるということ、努力の結果として到達し得た最高、最善なるものをも支え得なくなるということは、個人にとっても国家にとっても、その精神の発達を死に導くものでございます」




 大丈夫。


 こういう言葉もあるではありませんか。


「いい米国先住民は、死んだ米国先住民だ」


 いい日本人は、とっくの昔にし(略


 そう考えますと、将軍様によって常に死と隣り合わせの北の人民と、社畜大国の現代日本人と、その本質的な意味においてどれほどの差があるのか。じっくり検討したら面白い結論になるのでは?


 まあ、絶望して首くくりたくなるか、もしくは、本当に革命おこしたくなるかも、ですけど。革命って、こういう鬱屈した社会から醸成されるのですよね。しかも、昨今の日本人は見事な社会と家庭と教育によって、長生きに価値を見いだせない、そもそも生きていることに意義を感じられない、つまらぬ犯罪に手を染める人間がわらわらでる始末です。悪い意味でいつ死んでも構わぬ、という人間がたくさんいる国です。日本の未来が実に楽しみですね♫


 では、最後に、一旦帰国された時のお話。p352




「旧宅はもうありませんでした。


(中略)


 爺やもいし(いしさんという女中さん)もそれぞれ我が家に帰ってしまい、優しい思い出の数々を秘めた、萱葺かやぶき屋根の傾きかけた、だだっぴろい家の跡には余り見栄えもせぬ洋風の学校が建っていました。


「白」のお墓(飼っていたわんこの名)の傍にあった栗の古木も、父と戸田氏(藩の武士)とが片肌脱いで笑いながらも熱心に業を競い合った的場も、あとかたもなく消え、今は三々五々と袴をつけ、靴を穿いた女生徒に行きあうのでした。


 全く奇妙な思いが致しましたが、心の奥底では、疼くような痛みを覚えずにはいられませんでした。


 私はこうした変遷が将来の希望と利益を意味していることは判りましたし、それをさまたげようとも思いませんでしたが、過去の静かな喜びと絵のような生活が、手薄でやすっぽいものの中にかき消されてしまったように思えました。懐かしい故郷に逗留していました数日間、美しい昔の習慣や理想の思い出が、これから歩まなければならない新しい道に少しの影をもなげかけることなきようにと努めることは、私にはつろうございました」




 そして、代々伝えられた、重代の家宝も、家から運び出されそれは姉の家にありました。それを鉞子さんは「死蔵の宝」と題しておられます。p370




「姉が狭い引き出しを開けますと、中には里の定紋(家紋)のついた紫の袱紗ふくさ包みの長さ一尺ばかりの細長いものがありました。私の胸は躍り上がりました。これこそ私の家の三つのお宝の一つで、関ケ原の戦でご先祖が家康公から賜った采配だと言い伝えられたものです。


 私は采配をおし頂き、子ども達に頭を下げさせて、静かに包みを開きました。


 皆静かに坐っていますと、姉は勇敢なご先祖が危急の折りに主君の一命を救い、そのため家康公は自らの血に汚れた鎧下と一振りの銘刀、それに家康公ご自身戦場に振りかざして三軍を指揮したこの采配を褒美として賜ったということを子ども達に語り、終わりに「この三つの品は家宝として家に伝わったのですよ」と結びました。


(中略)


 私はかぶせ蓋の白木のひつの傍に立停まりました。その櫃にはお寺の経机のように曲がった脚がついており、一段高いところに置いてありました。私は子どもの頃、虫干しの日にこの櫃を見たことがありましたが、いつも注連縄がはりめぐらされていました。ためらいつつも私は姉を呼び戻しました。


「お姉さま、ずいぶん思い切ったことを申しますが、この桐の箱をあけて下さいませんか。昔とは心持ちも変わりましたし、子どもに見せてやりたいと思いますので……」


「まあ、エツ坊も勿体ないものを見たいって――」と姉はちょっと思案した後で、「どうせ女の人で見た人もあるし、この頃では皆だんだん敬いの心も薄くなってきたことですもの」


 といい足しました。


 そこで、姉と私がその箱の両側にひざまずき、蓋をとりあげました。中を覗いてみた私はさすがに何か恐れ多い感じに打たれました。鎧下と刀とは分家に伝わり、家の系図は兄が持っていましたので、目の前には一枚の衣が経帷子きょうかたびらか何かのように静まり返っており、白かった色も時代を経て黄ばんで見えました。その上に烏帽子と薄造りの扇子が載せてありました。


 これは祖先が廟所で祭司をつとめる時に着る祭服で、霊験あらたかなものと信じられていました。


 祖母に聞いたことですが、祖父がこの衣を着ました時、その広袖の蔭で不思議なことが起こったとかいうことでした。


 私達はほんの一瞬櫃の中をかいま見ただけで、黙々として又蓋を覆うてしまいました。姉も私もこのことについては二度と話し合ったことはありませんでしたが、私ども子どもの時にはこの櫃を納めた部屋の入口にさえ、女は穢れたものとして一歩も踏み入れることができなかった程のものを、その中に覗いてみるなどとはずいぶん時代が変わったことだと、姉も心の中では感じている様子が、私にはよく判りました。


 私は、子ども時代にこうした品々に対して抱いていました信仰を失っていましたけれども、当時の記憶から抜けきっていませんでした。美しくも厳かな思いがひたひたと胸に湧き上がってきました」




 この記述はほぼ最後にあった部分ですが、不思議な気が致します。


 どうして、子供の頃は近づくことすら恐れはばかられた父祖伝来の祭服に対する信仰を失ってしまったのでしょう。鉞子さんがキリスト教徒になってしまったことも無関係とはいえないでしょうが、しかし、そうでなくても、この畏れ敬う、姉も申される通り、



「この頃では皆だんだん敬いの心も薄くなってきたことですもの」



 とあるように、明治という新時代を迎え、古き伝統がどんどん破壊され消えてなくなってゆく中で、敬いの心も消えてなくなってゆく。それも仕方のないことなのでしょう。また、一つには米国の影響が大きいようには、わたしには感じられます。


 米国には、歴史も、古き良き伝統も、文化も風習もさしたるものはなかった。あったのはただ、開拓精神。新しいものを切り開き、作ってゆくという精神。アメリカという国土を、そして世界を、己の手で開拓し、平らげずんばやまないという精神。その影響が鉞子さんにあったと見るのは不自然ではないでしょう。


 そして、日本は、その欧米の影響をもろにかぶった最初の国です。


 白色人種による支配と搾取と圧政ではなく、その仲間入りを果たした有色人種です。


 その影響がどれほどのものであったか、現代を振り返ったら誰でも分かる。わたしも、少し昔、近くに和服のお店があったので戯れに浴衣を買ってみまして着てみたことがあるのですがまったく帯の締め方がわかりませんでしたね。添えられていた説明文ではちんぷんかんぷん。帯を締める動画をみてようやく着られました。で、二回ほど夏に着て、いまではタンスの肥やしです。


 いまさら東洋に、古に戻ることなどできっこない。


 しかし。


 それでもなお、欧化を無批判に、無思想に、無配慮に、鵜呑みに受け入れる現代に対して考えるものがあります。


 そう考えて色々wikiを見ておりましたらこういうのがありました。ポリティカル・コレクトネス。いわゆるポリコレの記述にはこういう興味深い部分があります。丸々ぺたり。




「1980年から1982年に掛けて、フランスの対外諜報機関である対外治安総局( )(DGSE)に勤務したドミニク・ポワティエ(Dominique Poirier)に依ると、DGSEは1980年代初頭からソビエト連邦のソ連国家保安委員会( )(KGB)が対外情報工作指針として用いていた積極的措置(英語版)と呼ばれるドクトリンを解析し、自らの行動指針に取り入れていったが、DGSEが入手したKGBの内部資料の中に1968年3月頃に概念が誕生した「сенсибилизация(Sensitization、感作)」と呼ばれるメソッドが存在したと記述している。「感作」の主目的として「従来から存在する言葉の意味を変容させ、一種のステレオタイプを大衆に刷り込む」という心理操作が含まれており、一例を挙げれば「右は悪、厄介、危険だが、左は善良、愛情があり、思いやりがある。」「明るく光沢のある派手な色彩の食材は見た目に反して味が悪く、薄暗く茶色い色調の食材は味が良い」といった、エビデンスの無い思い込みを国の東西を問わず広く大衆に植え付けていく事で、その国が従来から伝統的に持つ観念を破壊する意図が存在したという。ポワティエは「ロシア人は西側諸国に対して「ポリティカル・コレクトネス」という概念を定着させる事に成功した。その国の言語が本来持つ意味を変え、可能な限り暴力的な意味と関連付けて「毒」化させる事によって、国内に不和の種をばら撒き、この概念を信じない者から見れば文化的な自己破壊や自殺を誘発しているように見える事態を招いた。」と指摘している」




 フランスの対外治安総局のドミニク・ポワティエという人が言うには、ソ連の謀略の一つとして、


「「従来から存在する言葉の意味を変容させ、一種のステレオタイプを大衆に刷り込む」という心理操作」


 というものがあり、


「ロシア人は西側諸国に対して「ポリティカル・コレクトネス」という概念を定着させる事に成功した。その国の言語が本来持つ意味を変え、可能な限り暴力的な意味と関連付けて「毒」化させる事によって、国内に不和の種をばら撒き、この概念を信じない者から見れば文化的な自己破壊や自殺を誘発しているように見える事態を招いた」


 ということを申しているのだそう。


 わたしからすると知ってた、という程度の内容ですが、左翼という生き物をよく知らない人には興味深い記述では? ありとあらゆるものが破壊された日本ですが、こういう左翼によってどれほどの破壊が行われたのか。


 明治維新として世界に門戸を開放した日本ですが、諸外国からこぞってやってきたものの中に、こういう左翼思考がまっさきにやってきたことは決して忘れてはならない。そして、左翼思考は今もなお、日本を破壊し尽くそうと策謀を練り続けている。


 ポリティカル・コレクトネスとは、性別・人種・民族・宗教などに基づく差別・偏見を防ぐことを目指すのだとか。それによって、看護婦とかスチュワーデスという言葉が抹殺されたわけですが、しかし、看護婦という名によって、看護婦さんがどのように性別的な差別を受けたというのでしょうね。このように、事なかれ、臭いものに蓋、で左翼のたわ言を鵜呑みにすることによってどれほど既存の伝統が破壊されたことか。


 いじめをするものも悪で、それを見て見ぬ振りするものも悪なら、間違いなく日本人のほとんどは悪です。


 そもそも、左翼というのはどういう生き物か。


 ものすごくわかりやすい一例としてあげますと、道交法ジジイがあげられますね。


 何かといいますと、お店の置き看板が道路に一センチでもはみ出しておれば道交法違反だとして、そのお店に猛然と食って掛かるという精神異常者のことであります。


 これをみれば、左翼という生き物がよく分かる。


 こういう生き物は、何も世の中の悪を正そうとか、世の中をよくしようとか、人々に正しい教えをもたらそうとか、そんな崇高な考えも使命も誇りもな~~んもあるわけがありません。


 ただ、下らない自分でもいちゃもんつけられるものが目の前にあったから噛み付いただけ。


 それだけです。


 それ以下はいっぱいあっても、それ以上は一切ない。ある訳がない。


 そこに山があったから、レベルのオツムで、文句つけられるものがあったから、とりあえず噛み付いただけです。だから、左翼政治家も同様。


 噛み付けるものがあったから、とりあえず噛み付く。でも、そこに反省、自分を振り返るとか、我が身をかえりみるとか、崇高な志も人としてあって当然の思想もないから、噛み付いたはいいけどそっこうでブーメランになる。逆に自分が指摘されようものなら総力をあげて無視する。誠意も真もな~~~~んもない。


 普通の人間だったら、さすがに恥ずかしいとか我が身や家名を汚す、家族に迷惑がかかるという感情、羞恥心があるからそんなことしませんが、左翼にはもはや人としてのまともな考えも感性も理性も知恵もないから、ただただとりあえず噛み付ける。自爆を恐れない。そもそも、自爆ということも理解できない。


 だから逆に恐ろしい。


 どこぞの土下座元総理のように、周りを盛大に巻き込んで自爆できる。自身の人生を盛大に自爆させてなお、自分の国をも巻き込んで自爆して地獄に道連れにしようとする。自分の国をぶっ潰すためなら、自身の人生を盛大にぶっ潰して何の後悔も反省もない。


 非常にたちが悪い。


 間違いなく、左翼とは比喩でも何でもなくガン細胞であり、見つけ次第叩き潰さねばならないのです。それを、文明とか法治とかほざいて見逃しているからどんどん増殖している。左翼は、そういう文明を悪用し、その文明をぶっ潰そうとしておるわけです。


 何のために。


 自滅するために。


 道路に一センチ看板がはみ出しておる程度で普通、噛み付けます?? 普通の、当たり前の人間だったらそんなこっ恥ずかしいことはできないです。冷静に振り返ればそんな人生生きられるはずがない。でも、それが出来る。


 それが左翼という生き物です。


 そもそも、戦中の日本も含めて、社会主義、共産主義の国は結構ありますが、その中で幸せになった国がどれほどありますか。それに、中共がもし、最悪の世界線として全世界を支配するようなことがあったとしても、どうせ漢民族だって幸せになれるはずがないとわたしは思う。


 秦の始皇帝の頃から、全然政権が安定しないのが中華の歴史です。


 もっと言えば、中華で安定した歴史といえば唐とか清があげられますが、清の支配者が漢民族ではなく女真族であるのは有名ですし、唐にしたって太宗といえば鮮卑という北方騎馬民族出身です。どこぞの半島人のように、漢民族が自力で平定した歴史なんて実質明くらいのものでそれ以外はほとんど漢民族が蔑視した異民族による支配であったことを考えますと、中華の歴史のほとんどが暗澹たるものであったことは見逃せない。


 漢の高祖が支配者になったとたん部下を疑いだして粛清したり、宦官が実質支配したり、クーデターやら謀反、黄巾だの、紅巾だの、反乱も多いしこの前も猛威を奮った蝗軍だの、漢民族が実質九割死滅するほどの飢饉やら疫病やら戦災やらが発生するのが中華の歴史。まともに安定するはずがない。中共が全世界を支配したっていつなんどき内部闘争始めるかわからないし、支配者になったって部下の誰も信用できない。誰一人として幸せになることがない。


 で、日本だって社会主義時代は国家総動員体制で、人間ですら弾丸や燃料と同等とみなして可なり。という考えだったわけです。


 ミッドウェー海戦を見て下さい。

 

 あの作戦は、兵士をただの消耗品としてしかみていないという思考の持ち主が立案した作戦です。


 その当時、世界最強であった空母機動艦隊の熟練搭乗員を、いつでも補充がきく弾丸や燃料と同等とみなしていたのです。で、ご自分はもっとも安全であろう戦艦の艦橋から高みの見物です。真珠湾奇襲で、たった一回勝ったごときで、国力において二、三桁くらいは差がある米帝をなめられるとはどういう精神であったのか。正気を疑わざるを得ない。


 あの時代、軍人とはそうであったかも知れませんが、左翼思考にかぶれた人間から出てくる考えなぞこんなものです。そして、現代資本主義においては派遣だの契約社員だの、かつての日本軍人と同様、人間を消耗品とみなしている。戦中の日本を悪と断じて罵るくせに、やっていることは戦中日本とまったく同様。もはや乾いた笑いもでてこない。


 異人さんのように、賢くも強くもなりたくない、ただ、ご先祖様と同じでありさえすれば良い、そういう人間を見捨て、その変化に対応できない人間を見殺しにし、何でもかんでも仕方がないで、新しいものは礼賛し、古いものはともかく蔑視する。『学問のすゝめ』のごときが大ベストセラーになったように。


 100年も前から、日本民族のほとんどが自滅の道を邁進することに決めたのです。現代の姿は、当然の末路でしょう。


 さて。では最後に、生きる価値もないが死ぬ意味もないので、とりあえず生きている程度の現代にあって、それでも生きる意味を見出さんと欲するこれからの若者に、思想家のおっさんとして一つのアドバイスを。


 この度、「蜘蛛ですが、何か?」がアニメ化されましたね。前になろうで読みましたがせっかくなので読み返しておりますと、実に興味深い記述が。


 それは、「153 黒との対話」にて、蜘蛛子ちゃんと黒の、確か二度目の邂逅の一幕。黒は蜘蛛子ちゃんに紳士的な対話を呼びかけます。それに対して蜘蛛子ちゃんは、




「こう誠実に来られると、こっちもちゃんと答えたほうがいいかな」




 と考えます。


 これですね。


 敵対されればこっちも容赦なく攻撃、反撃するが、紳士的に出られるとこちらもそれに応じざるを得ない。紳士的に出てきた相手に対して礼を欠くということは、人として恥ずかしい。これが人としての、普通の、当たり前の心理です。


 他者を敬えるものは自分も敬える。


 他者を敬わないものは自分も敬わない。だから自爆できる。


 これが左翼と、普通の人間を根幹的に、決定的に分け隔てる違いです。左翼に、人を敬う、などという高尚な精神はない。普通の人間であればこそ、人を敬う、という精神がある。そして、この敬う、という精神性が、人を救い、己を救う。


 なろう小説にだってきちんと教えはある。


 これこそが、人と人との関係を作る、己を作る本質。


 しかし残念ながら、現代人はそんなことすら分からない。


 こんな簡単なことすら、


 こんな当たり前のことすら、


 こんな大切なことすら、


 分からない。


 だから、人を害し、自分を害し、世を害している。もったいないことですが、全力で地獄へ向かってダイブしている人を救う価値など、神も仏も認めていない。神も仏も、自分で自分を救える人だけを救うのです。


「天は自ら助くる者を助ける」


 のみです。


 まずは自分で自分を敬わねばならない。自分で自分を誇らねばならない。自分で自分を助けねばならない。


 かくいうわたしも現代人の一人です。子供の頃に親兄弟から敬われた記憶もないし、愛されたという記憶すら疑わしい。物心つく頃にはこう悟っていましたね。こんな連中と一緒にいるくらいなら独りでいたほうが百億倍マシ、と。で、この歳に至るも、幸か不幸かこの考えを後悔するようなことはないです。


 でも、わたしはわたしを敬った。


 それは、東洋の学問があったから。正しい教え、正しい学びがあったから、自分を律することができたし、宮崎勤のごときには決してならなかった。だから、こうして思想家と自称してたわ言ほざける。自分で自分を敬えるから。区々たるものでも胸を張って生きていける。


 これからも、自分の親兄弟、その周囲の人間に対して決して相容れない嫌悪感を抱く子どもたちはそれこそ際限なく出てくるでしょう。


 だからこそ、そういう人には気がついてほしい。しょうもない人間を敬う必要性は必ずしもないが、しかし、敬われたら敬える人間に、自分で自分を敬える人間にはなってほしい。そうなるように、自分で自分を導いてほしい。


 そして、それをもっとも確実に、着実に身に着けられるものこそが、古代から偉人たちが遺してくれた東洋の学問である、ということを分かってほしい。


 その事に気がついて、日々、気をつけられる人間になれれば、




「誇りをきずつけるということ、努力の結果として到達し得た最高、最善なるものをも支え得なくなるということは、個人にとっても国家にとっても、その精神の発達を死に導くものでございます」



 

 この一言が痛烈に胸に響く人間になれるやも。

 

『武士の娘』


 非常に勉強になる本なので、気になる人は読んでみるといいです。


 といったところで、今夜はこんなところで。したらば。



「ムカムカパラダイス」を聴きながら。


 しかし、昨今のアニソンを聞いておりますと、こういう元気がでる歌はとんと聴かなくなった気がしますね~。少なくとも今期、耳に残ったのは進撃の巨人のOPくらいかな? 元気がでるかどうかはともかく、あの曲はなんか、すごいw

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