新年につれづれ思うこと
あけましておめでとうございます。
と言いながら去年は特にめでたい出来事もなく、また、新年への明るい展望も感じることもなく、能天気におめでとうと言っておってよいのか分からない新年でございます。豊臣亨です。
わたしも、世の中にさしたる出来事もないのでたわ言ほざくこともなく、また最近は『7Days to Die』というゲームにどっぷりとハマっておりまして中共肺炎があろうがなかろうが関係なしに部屋に引きこもる毎日でございます。わたしのような引きこもりにちょうど見合った、自分で作った拠点に引きこもって戦ったりするゲームでして、非常におもしろいので動画などで気になった方は遊んでみることをオススメします。わたしも動画を見て始めたので。
しかし、予想通りに変異中共肺炎も現れ、世界中が中共肺炎の猛威に怯える昨年となってしまったわけで、今年、オリンピックが開催できるのかどうかも不透明な状況。熱中症対策云々、などといっておる状況ですらなくなってしまいましたね。
さらに、米国の大統領選挙がここまでごたつくとは予想の斜め下であったわけで、この大統領選挙のごたつきを見ておりますとこのままでは本当にまずい状況になってしまう気がいたします。
本来なら新年と言うことで明るい、前向きな話題を述べるべきなのでしょうが、つれづれ妄想しておりますとどうにも嫌な連想しか湧いてこない。新年早々ではありますが、たわ言をもって挨拶にかえたいと思います。
気になったので今年の干支は何かいな、と調べますと今年の干支は、
「辛丑」
wikiでは、辛丑(かのとうし、しんきんのうし、しんちゅう)。
昨今は干支、などと申してもそこに意味も意義も感じないかもしれませんが、安岡先生は著書『干支の活学』 プレジデント社の中でこう申されています。p12
「干支は周代に始まり、戦国から漢代にかけて整ったものであります。
もともと殷の時代人は狩猟民族で、家畜を養い牧草を追って転々としておりました。のちに漢民族が黄河の流域に定着して農耕生活をするようになって初めて規則的に生産生活にはいったわけです。そこでその支配者、指導者、政府が計画的になり、年頭正月一日(正朔)に、在来の実績に徴して一年の生産計画とそれに伴ういろいろの注意を予告するに至ったものであります。
即ち人間の世の出来事、変化、推移というものを干支六十の範疇に分けて、経験的に帰納して結論をだしたものであります。これは人の世の長い年月にわたる体験と思索を次第に会得した結論でありますから、単なる抽象的理論などと違って意味の深い厳粛なものがある。
つまり経験哲学というべきもので、俗に言えば、ばかにならぬものです。ところが現代は、干支などというと、浅薄な近代学問をやった者は古くさい迷信的・非科学的なもののように考えたり、そうでなければ吉日だの凶日だのといったたわいもないことばかり偏解して、干支本来の意味がだんだんわからなくなっておる。これは国民・大衆にとって実に惜しいことであります」
何年何月何日何時に生まれたかによって人間はどういう人生を生きる、ということを易学で解明した、巨大な人生の統計学を大成させた古代漢民族の作り上げたものでありますから、この干支学も実に立派な統計的、体験的結果によって生み出された偉大な学問であるわけですね。
では、辛丑、かのとうし、この二字にどんな意味があるか。p116
「この「辛」という字は丄と干と一とを組み合わせた文字である。丄は上を表し、干は求める・冒す意味である。今まで下に伏在していた活動エネルギーが、いろんな矛盾、抑圧を排除して上に発現するという文字であり、したがってそこに矛盾、闘争、犠牲を含むために、つらい、からいということも出てくるわけです。
後漢の名高い「白虎通」という書に、辛は「殺傷」の意を含むということが書いてあります。よって、これは前年の庚(庚の意味は主に三つ。第一は継承・継続。第二は償う。第三は更新。前年からのものを断絶することなく継続して、いろいろの罪・汚れを払い浄めて償うとともに、思い切って更新していかねばならないということ)を受けて、
「更新することを断々乎として実行してゆかなければ、必ず殺傷を含む、からい目・つらい目に遭うぞ」
ということです。そこでどうしても斎戒自新しなければならないのです」
丑の字は、p151
「「丑」は又と丨の合字で、右手を挙げた形、事を始めんとする義を表すとされ、「はじめ」と読み、また丑は紐で、結ぶ意とし、やしなう(畜養)意ともする。子に発生したものが、やや長じ、これを整え、養うものである。
(中略)
説文学から言うと、母のお腹の中におった嬰児が体外へ出て、右の手を伸ばした象形文字です。今まで曲がっておったものを伸ばすというところから、「始める」「結ぶ」「摑む」という意味をもっておる。丑に糸偏をつけると紐であります」
とあります。
この二字に共通するのは、どちらも水面下にあったものが芽を出し始める、というところでしょうか。いままで表面化することがなかったものが、いよいよ萌芽し始めるということ、そして、どうしても新しく始めるとそこにいろいろな問題も一緒に噴出してしまうからそれをきちんと対処しないと、辛、からい、つらい目にあう危険性を孕んだ年になる、ということでしょうか。
どうやら一筋縄ではいかない年になるかも、です。
そう考えますと、わたしはこの米国大統領選のゴタゴタが、今年の問題の端緒に見えるのですよね。これこそが実は大きな問題であって、この大きな問題の前では、実は中共肺炎のごときは大した問題ではないかもしれない。
だいたい、ウイルスだの病原菌だのというのは、古来、生まれては変質を繰り返してきたものであって、風邪にしたって永劫に変質を繰り返すものであって、人類はそういうウイルスだの病原菌だのにずっと付き合ってゆかざるを得ない。
しかし、大統領選にみるゴタゴタはそれをはるかに凌駕するゴタゴタに発展しかねない、と思う。そして、その最大の脅威とは、やはりそれは中共であろう、と思います。
そう考えて、今年の干支「辛丑」の意味を見ますと、ただのこじつけであったとしてもどうにも中共のことを示しているようにわたしには思えるのであります。
今回の選挙の混乱は、明らかに中共の仕業であるとか。
しかし、かの米国が、まさかここまでごたつくとは思いませんでした。謀略だの陰謀だのをたくましくすれば世界でもっとも悪辣をほしいままにした米国をここまでごたつかせ、民主政治の最大の弱点、選挙に魔の手を伸ばしたところは、敵ながらあっぱれ、と言いたいところではありますが、やはり、中共は脅威である、ということをまざまざを見せつけたと言っても良いでしょう。
選挙の何が民主政の弱点と言えるか。それは、建前が必要だということです。
民主政には、この、幻想にも似た建前が必要です。
つまり、正しい、という建前が、です。
王制や帝制、共和制、世界史にいろいろな政治制度があっても、民主政とはもっとも進んだ制度であってもっとも正しい方法である、そして、その正しい選挙によって選ばれた指導者も、やはり正しくあるであろう。たとえ、指導者が間違いを犯しても、それが分かったのなら、前非を悔い、刷新して、自身を正しく律することができるであろう。民衆が欲する正義を、理想を、実現してくれるであろう。
実質はどうであれ、内実がどうであれ、この正しい、という建前がどうしても必要です。だから米国の大統領選挙も、何が間違っていて誰が正しいのか、をいまだにやっておるわけです。
ですが、中共に、んなもんは必要ありません。
選挙もないし、建前も必要ありません。
どんな悪事、悪逆非道も、悪辣な謀略も、非人道的行動も、やってできないことはありません。
ただ、バレなきゃいいだけです。
ただ、中共としてはいま戦争やったら負けるかもしれないからバレないようにやっておるだけで、世界を敵に回して勝てる算段がつけば、それこそ堂々とやり始めるでしょう。事実、国内に関しては内政不干渉を放言し、好き放題やっておるわけですから、これが国内だけにとどまらず、世界中でやるかどうか、ということです。
もはや中共はかつての、人民のことごとくが自転車乗ってチリンチリンやっておった時代とはもはや別国です。経済力、軍事力はもはや米国に比肩し、科学技術にしたって5Gを主導する、先進国の一角です。もはや、中共の影響力は世界を席巻し、国連ですら中共の走狗と化してしまったことは記憶に真新しい。
一帯一路、新シルクロードを掲げ、世界を経済的に支配下に置こうとする野心を隠しもせず、米国並みの大型空母の建造計画を着々と進めるなど、その野心はとどまるところを知りません。
この前は大停電に陥った、などという情報も流れましたが、これにしたってどこまで信用してよいか分かりません。停電しておるのは中共からすれば取るに足らぬところかも知れません。一番大事なところで燃料がなくなるような事態にまで逼迫しておるようにはどうしても見えない。自分の弱みをあえて見せることで敵を油断させるのも戦術のいろはです。
日本だって、その中共の謀略の影響を戦後ずっと受け続けたわけです。
南京大虐殺、従軍慰安婦、日本軍の暴虐。
民主政と言ったって、その民衆が、中共の活動家によって長年洗脳され続けておればどうなるかは、日本人が一番よく分かっておるはずです。平和、友好、経済協力の美名の下に、どれほど左翼イデオロギーが瀰漫したか。マスコミや教育機関、政党と様々な場所に中共の活動家は潜り込み、戦中の日本軍の糾弾を隠れ蓑に、どれほどの虚報、流言飛語を垂れ流したか。
そういう意味でも、この戦後左翼イデオロギーによる言論空間の支配、洗脳を、木っ端微塵に打ち砕いてくれたのは、実に皮肉なことに、とある半島であることを我々は本当に感謝すべきであります。
本当に、我々が想像できる以上に、とある半島による「NO JAPAN」のおかげで、左翼イデオロギーアレルギーの高まりは日本を救ってくれたかもしれません。これによってとある半島を擁護する連中はもれなく左翼であり、反日であり、敵であると認識できたわけですから、このまま中途半端に、平和友好、経済協力の名のもとに活動家の洗脳を受け続けなければならなかったことを思えば、日本の歴史がどれほど好転したか、我らがムンムンには救国の英雄として、愛国者として国を上げて掲揚すべきかも知れません。
それはともかく。
とある半島には感謝を感じる次第ですが、さらに、中共において一番恐ろしいのは、やはりその無尽蔵ともいうべき人的資源でありましょうか。有能で実行力に富んだ人材が、掃いて捨てるほどあるわけですから、何が一番恐ろしいと言って、人海戦術を平気でやれる国ほど恐ろしいものはない。更に言うのなら、漢民族は古来、周辺民族からの襲撃、支配、抑圧にさらされ続け、しかもそれを跳ね返してきた民族です。強靭さでいうなら、日本人とは比べ物にならないほど強い。
それに、世界最高レベルの経済力、科学力、軍事力、悪、が加われば怖いものなど何もない。これらが揃っている時点で、実は世界最強の悪の枢軸なのです。
もっというなら、選挙のない中共において、指導者、になった時点でその人間性などお察しでしょう。超々実力社会、多分、米国をすら凌駕するような強烈な実力社会、そして雲霞の如き人間の渦の中から這い上がってきた人間です。思考力、実行力、人間性、これが並の人間であるはずがない。
土下座すればこれで万事うまくゆく、などと思っておる政治家が日本にいる時点で、もはや次元が違いすぎる。
そんな、究極の成り上がりが、世界最高レベルの経済力と軍事力をもてば、何を考えるか、もすでにお察し。というか、その野心、野望を、隠しもしないでどんどん実行に移しておるわけです。…あれ俺、世界をとれるんじゃね? と思っていたってなんの不思議もない。ってか、誰だって同じ立場にあっては同じことを考えるでしょう。
どだい、正義と悪が戦えば、どっちが強いかなんて言うまでもない。悪が強いに決まっているんです。
悪党という言葉があっても、善党という言葉は決してないように、正義とは、内省的であり克己的なものであるからしてどうしても孤独になりやすい。悪とは、猛進的であり、排他的なので、利益を同じくする人間が相集まって徒党を組み、敵対勢力を徹底的に排除する。法だの倫理だのといった障害も葛藤も自省もなにもないから、やってできることならなんだってやる。
欲望を追求するのと節制するのとでは、どちらに苦痛を感じるかで言えば、節制する方に苦痛を感じるのが当然の人間心理でして、追求するほうに全力をあげるものです。そして、それを留めるべき制度も、倫理も正義も存在しない国が世界最高レベルの経済力と軍事力を獲得するに至る。これがどれほどのことか、わたしでも分かる。
だから、ここ数年が、重大な分水嶺になることは間違いない。
つまり、中共と戦って勝てるか、否か、の決定的な分かれ目こそが今年を含む数年にかかっていると言ってよいでしょう。
かつて、ナチス・第三帝国を打倒したのも結局戦争であったように、悪を叩き潰す方法は、結局戦争しかない。しかし、このまま手をこまねいて中共を放置すれば、世界を敵に回しても勝てるだけの戦力を中共が保持しかねない。この数年で、中共を叩き潰すか否かが、世界の歴史の大きな分岐点となるでしょう。
そう思ったればこそ、イギリスは久しぶりに空母を極東に派遣するのでしょうし、ドイツも親中路線の変更を模索するのでしょう。
日本の政治家に期待することはまったく何もありませんが、よろしく米国の金魚のフンとなって間違った道だけは歩まないようにしてほしいと思います。
そうして安岡先生のお言葉をもう一度振り返りますと、
「更新することを断々乎として実行してゆかなければ、必ず殺傷を含む、からい目・つらい目に遭うぞ」
今年が中共の大躍進になるか、民主政国家の安堵の年になるか、大きな岐路に立っていることは疑いようもありません。
しかし、わたしは改めて米国大統領選挙を見ておって思うことがありました。
かつて、戦後日本人はマ元帥の子供が産みたい、などという人間を生み出すほどに米国をご主人様と思い定め、米国にあるものならなんでもかんでも受け入れてきました。それこそガバガバま(ピー) イエローキャブと化して入れざるなし、という有様。ただ回るだけの器具を喜んでいるのを見た時はなんとも言えないものがありましたが、しかし、そんな日本でも受け入れなかったものもあった。
何か。
それはネガティブキャンペーン。
他者を貶めることで自身をアゲる。米国の選挙戦の日常風景ですが、決して日本では定着しなかった。そう考えますと、米国の通販番組の通常である、他社製品を貶め自社製品を持ち上げるようなことは、決して日本人の志向には合わないと言われるのを思い出しました。
ここまで敬も礼も崩壊し、家族が壊滅し、歴史も伝統も壊乱し、日本人という呼称すら怪しくなってきた現代にあってすら、日本人は和を乱すことが嫌いなのです。
やはり、日本人はやまと、大和の民族なのだな、と改めて気付かされるわけです。和があって初めて成り立つ民族なのです。和がなくてはならない民族なのです。
そう考えますと、鬼滅の刃が流行ったのも、そううなずける部分もあります。みんながみんな、それに向けば自分も向かざるをえないのが日本人です。
ある意味、没個性な、無個性な、自分よりも全体を大事に思う民族性こそ、和を以て貴しとなす日本人の証明なのです。
そう思えばこそ、いま、日本の資本主義が沈滞しているのも理解できますね。
かつて戦後日本の会社は、家族であった。仲間であった。
社長は社員を思い、社員は会社を思う。そういう、家族みたいな一体感でしゃにむに頑張った、頑張れる社会であったからこそバブルという大躍進があった。松下幸之助のように、どんな危機でも誰一人首を切らぬ、という人を何よりも大事に思ってくれる指導者がいれば、日本人は欣喜してがむしゃらに働けた。無個性だからこそ、全体のために生きられる民族であった。
それが、人間を資産ではなくいらぬ経費、無駄なコストだと会社は判断し、そのコストを削減するために派遣とか、契約社員という制度に舵を切った。
いらなければいつでも首を切り、全社員がリストラ対象という社会になった。それによって、社員は家族という一体感を失った。会社のために己を捧げて構わぬ、という一体感を失った。あるのはただ己の、我が身の保身のみ。だったら、副業だろうがなんだろうが、打てる手はすべて打たねば、己の身を、女房子供を養うことすらできぬ。
そういう、和もクソも何もない社会に成り果ててしまった。だから、日本は沈滞しておるのでしょう。
ゲーム好きなら知っているのでは。かつて、日本中に素晴らしいゲームを大量に送り届けた偉大なゲームメーカーが、人材を無駄な経費と見た瞬間、クソゲーメーカーに成り果てた事実を。何とか自身で生み出した遺産で食いつないでおりますけど、もはやかつての威光は見る影もない。
この会社に限らず、今や日本のいたる所の会社が、和を捨て、目先の利益だけに汲々として、そして、結果として会社をすら人間をすら捨てようとしているのです。
大和、やまと民族から、和を取ったら何も残りはしないのに。
中共の脅威がひしひしと迫っている昨今ですが、日本はこの、和、という根幹問題、民族の問題を解決しない限り日本に未来など決してこないということを肝に銘ずべきでしょう。
せめて、丑、紐の字のごとく、
人と人を結ぶ年でありますように。
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