孔孟って?
おこんばんはです。豊臣亨です。
暑いやら何やらで異世界に思考を遊ばせる気にならない今日この頃でございます。
壷中の天に避退する気にならないので、今回は現実的な話題、孔孟についてみてみたいと思います。
ラノベを妄想できないから孔孟を論ず、とはまた恐ろしいことを言い出したものですが、どうも最近は思考が現実に沿っていないと面白く感じないようで、気が向いたらまた妄想に思考を遊ばせませう。
こんなわたくしのラノベを読んでいただいているお人には大変申し訳ありませんが、どうにも思考がそちらに飛んでゆかないもので、のんびりお待ちいただけたら幸いでございます。代わりと申してはなんですが、たまには学問に触れてみるのも一興かと。一応言い訳をしますと、最近TVを見ておりますと(夜はほとんど見ませんが、朝だけは仕事行く前にみております)巫山戯た人間が多くていらいらするのです。そうでなくとも暑くていらいらしておるのに。と、言い訳したところで、
また、老荘って? で老荘を少しは語った以上、語っておきたいのがこの孔孟思想であります。特に、東洋人なら『論語』は読んでおいた方がいいですね。『論語』は実践を重んじる教えが満載であり本当の自分の基礎を作るうえでも必ず役に立ちます。『論語』を読んでおきながら人生に訳に立たないとすれば………(以下略。
本当に人生を生きたい、と思うのなら学びたい『論語』これをみてみたいと思います。孔孟、というからには孟子も少しは見ますが、基本は『論語』を重視で。老荘思想家のおっさんは語りたい。
さて、孔孟思想。
その始まりはもちろん孔子様からですが、しかし儒教的思想、天の意思を人に下して人倫を正し、己を律する、己を律してひいてはそれを世に及ぼす、という考え方自体は昔からあります。
孔子様はこういう言葉を遺されています。
「子曰わく、甚だしいかな、吾が衰えたるや。久しく、吾、また夢に周公を見ざるなり」
先生はおっしゃられた。
はなはだしいものだ、わたしの衰えも。
ここ最近、周公旦の夢を見なくなってしまった。
と。
周公旦とは、周を興した武王の弟で、魯の国の王に封じられて武王の死後、武王の子である成王を補佐し、周の国を安定させた名政治家であり、周の国の法律や文化である、礼楽の基礎を定めた聖人とされます。
礼楽とは、礼儀作法や音楽のことで、古来中国では人間社会を形作る秩序とは、礼と楽にあると考えられていました。
礼は、日常生活のありかたから、国家的な公式儀礼までを含み、人間として正しい生き方を規定する大切な教えとされました。知識人ならこれにのっとって生きて当たり前、くらいに重要視されました。
また、
楽は、楽器を奏でることによってその人の心の内容を如実に表現するものとされ、これまた、日常生活から国家的な式典に至るまで奏でられ、音楽は心を表し和らげる大事な要素として、国家を統治する為政者にとって欠かすことの出来ないものとされました。
それらを記した書物が、『礼記』や『楽記』とされます。これをもって、礼楽は国家秩序の根幹にあるもの、天下を治めるための根本、とされたのです。
その周公旦の治めた魯の国に孔子様は生誕され、孔子様が魯の国で政治を行われた時は国内は王の一族である三桓氏の専横によって王の地位は低く、孔子様は高い地位にあってもその能力を十全に振るうことができませんでした。また国外でも魯の国は弱兵で周辺国からの圧迫に悩まされていたわけですが、それでも魯の国には周公旦時代の偉大な学問がまだまだ残っており、その学問を復興させることで魯の国を復興させよう、という大理想があったわけです。
古来、今は無き、古き良き中国人にとって、本当の理想郷、ユートピアとは未来に建設されるものでも、実現されるものでもなく、はるかな過去に、すでに、人類は実現していたのだと考えるのです。この、理想郷は過去にあった、という考え方は孔孟も、老荘も考えることで、東洋人ならば皆一様に過去に想いをはせるものみたいです。だからこそ、孔子様はその過去の理想郷、アルカディアを復興させようと、復活させようとまさしく命を削って懸命に働かれたわけです。
その大理想を実現すべく懸命に学問し、懸命に政治を行い、しかし、王の一族でありながら王をないがしろにする三桓氏とよばれる勢力の排除に失敗し、それどころか自身の身の危険にまで至り孔子様は各地を放浪し、人生の最後で自国に戻って政治的には無力なままお弟子さんを教えられる日々を送られた。つまり、私塾の塾頭程度で世を終えられたわけです。
自分の理想を実現できる能力も努力も、十二分以上にあったのにも関わらず、様々な問題によって阻まれ、無情に時間は流れ、自身の老いと衰えと、実現できなかった理想に、この言葉を遺されたわけです。
かの孔子様であってもよる年波には勝てず、後戻りできない現実の前にかつての理想が薄れてしまった。かの周公旦の偉大なる政治を実現し本当の王道楽土の建設、民衆が心から安心して暮らし、日々に心配も不安も無い世界の復興、という情熱や理想が薄らいでしまった、実現できる道筋を思い描くことができなくなった、理想が高ければ高いほど、現実に打ちのめされるのでしょう。その事を改めて自覚され、このお言葉となったのでしょうが、どれほどの心情であったのでしょうね。
こういう言葉もあります。
一説には孔子様が編纂されたという「詩経」という書にある言葉。
「周は旧邦といえども、その命、維れ新たなり」
周はすでに滅びた国であるが、しかし、そこに息づく天命は、常に新しい。
周という、すでに滅亡し影も形もない国家にあったその生命、息吹、教えは、現代を生きている我々が受け継いでも決して古臭いものではなく、それどころか十二分に新しい問題である。そこにある本質的価値、意義は何百年たとうとも失われることは無い、ということです。日本人の大好きな維新はここから来ているのですね。
孔子様が大理想に燃えて復興しようとされた礼楽、本当の教えとは、古いとか新しいとか、一過性とか時代や年代によって変化するとか劣化するとかそういう次元の問題ではなく、人である限り、人としてこの世界に生きている限り、存在している限り、絶対に必要なものである。この天命が無いと人としてまっとうな人生を育めない、というのが、周公旦の遺したものであり魯の国に残り火としてくすぶっていて、それを復興させようとした孔子様が命がけで追い求められたものなわけですね。
その天命を取り戻すことなく、結局、時の流れにゆだねるしかない、時の流れに埋もれさせるしかないというのは、これほど偉大なる人物だからこそ、言いようの無い感慨深いものがあったことでしょう。
余談ですが、五世紀頃から日本に伝来した宮廷音楽たる、雅楽があります。wikiを見ますと、世界最古のオーケストラ、と書いてありますね。古代中国で発祥しながら、その中国では国が興っては滅ぶという歴史を幾度も経て、とっくの昔に雅楽など滅び去ってしまったんですが日本だけはそういった古来の伝統を滅ぼすことなく今に伝えているわけです。かつて、中国人が日本にやってきたとき、はるか昔に滅び去った雅楽が日本に息づいているのをみて、本当に驚いたそうです。
必死に伝統を守り、伝統を復興しようと命を削られた孔子様が、この日本にはその伝統がいつまでも守り伝えられている、という事実に接したら、どういう感興を催されたでしょうね。伺ってみたい気はいたします。
さて、
そもそも、洋の東西を問わず、何でこうして世界は存在しておるのか、何で人は生きておるのか、何で人として正しく生きることが求められるのか、という、普遍的、根幹的疑問というのは、大真面目に、真剣に人間を生きようと思うと必ず沸き起こってくる問いであり、これに答えを見出すか否か、こそが自分の人生を大きく分けるといっても決して過言ではないわけですが、この問題に老荘思想家だって取り組んだわけですが、この哲学的問題に対して、最も大きく思惟をなしたのが孔孟であります。
老荘はどちらかといえば遁世的、厭世的部分がありますので、国家を治めるとか民衆を率いるなどまっぴらごめん。大体、できもしない奴がそういう無理をするから駄目で、無為自然が一番、と思っておる、そういった事実も多分にあるわけですが、だからといってそれで、はいそうですか、とすませないのが孔孟の偉大なるところ。孔孟はそれこそ大使命、大理想に燃えて、国家を治め、民衆を導きたい、天下も国家も民衆もそれらすべてを救わねばならぬ、と思っておりますから、この哲学的問題にそれこそがっぷり四つで取り掛かったわけです。
それによって今は無き、古き良き古代の中国人はこう考えた。
天にはそれこそ無限のエネルギー、万物を育む創造化育の力に満ちておるわけで、これを道、と呼んだ。この道を人の身に宿すことを徳、と呼んだ。
創造化育、とは万物を万物たらしめる、進化や発展、成長をもたらしたものです。樹は樹として、動物は動物として、人は人として、あるべき姿形や生き方をしているのも、すべてこの道、が影響しているに他ならない。
それを人の身に宿すことはすなわち、人とはなんぞや人とはつまり、道を宿し徳を身につけ、あるべき生き方をあるがまま生きることである。では、そのあるべき生き方とは何ぞや、
それは人を傷つけ、殺してすべてを奪うことか?
人を騙して人を落としいれ、己さえよければそれでよいという生き方か?
怒り、疑い、さげすみ、見下し、妬み、僻み、自分以外の他者を排斥し、阻害し、邪魔するという生き方か?
否である。
人は助け合い、慈しみあい、教えあい、導きあい、自分と他者を、すべてを、よりよくしてゆく、より、今より良い生き方、ありかたを求める生き方である。
これが孔孟の根幹的考えですね。
そのために、儒家は、そのための秩序をもたらす礼楽を重んじ、人々に、こうすれば正しい生き方が出来る、こうすれば正しい国家のありようが出来る、こうすれば天下が円満に治められる、ということを唱導したわけです。
修身斉家治国平天下
これは「礼記」大学にある言葉。
己を修め、それをもって自分の家族を導く。それがなされれば国家は治められ、それがさらに長ずれば天下は平らかに歴史を寿いでゆく。展開が大げさ、と思われるかもですが、根幹は己にある、ということを理解していただければいいです。
すべて基本は己から出発するのであり、自分を棚上げにして、自分をないがしろにして成り立つものは何一つも無い、ということです。これがものすごく重要なところ。
これこそが近代のイデオロギーのごときと本当の思想の根幹的、決定的な相違、なわけです。
ここしばらく妄想する気力といいますか思考を遊ばせる気力がなかったので、かの「ゆっくり解説動画」で「ポル・ポト」というのがあってみておったのですが、
このポル・ポト。相当にオツムがイデオロギーにしてやられた人物で、いわゆる「純粋まっすぐ君」の成れの果てのような存在。国家を衰退させる一番の原因は知識人にあると決め付け、指導者、知識人や教師はたまた俳優や、メガネをかけた人や手が綺麗な人も隠れ知識人であるとしてことごとく虐殺したそうで、子供は純粋だからよい、だから兵士も子供にやらせた。親を笑って殺せるほどにまで子供を洗脳して大人を大虐殺させ、はたまた医師も子供にやらせた。体が悪いからと病院行くと子供が医療をやってた、などと漫画のような悪夢の世界が本当にあったそう。その当時800万いたカンボジアの自国民を、一説によると300万殺し、現在にいたるまでとんでもない大禍根を残した人類史でもおよそ類を見ないほどの阿呆。
しかし、知識人が国家衰退の原因なら何でおまえは生きとるんじゃい、となりますが、これがイデオロギーの恐ろしく分かりやすいところで、自分を完全に棚上げにし物事を論ずるのがイデオロギーですね。どだい、フランス革命に代表されるイデオロギー闘争にしたって、本当に言うに値するほどの英雄がどれほどいたのか。カール・マルクスにしたって、言ってることと自分がどれほど一致しておるか。
自分を省み、自分をまず修め、自分からすべての問題を出発させるのが本質的思想であり、孔孟です。
近代西洋思考が世界を蔓延して、この、頭だけで考えて、首から下につながっていない、自分の思考が頭から自分の体と連結していないっていうのがものすごく多い。
そりゃ、人間という生き物はその思考を発展させてここまで文明やら思想やらを発展させてきたわけですけれども、近代以降西洋の思考に毒されまくって、己を棚に上げて、己を空虚のままほったらかしにして、頭だけで何とかなると思っているのが多すぎるのです。
そうではない。
すべては自分から。
世界は、自分を通して、見、聞き、感じ、知るのです。
そして、その上で、考え、行動するのです。
世界の存在は、自分があるから初めて知覚されるのであって、自分がそもそも何もないのならそこに世界があるかどうかすら分からないし、大げさに言うなら世界がどうであろうとどうでもよろしい。
近代以降、この自分、をおろそかにしすぎなんですよ。
自分をほったらかしにして、自分を異世界転移させて、現実に対処しようとしすぎなんです。
ポル・ポトは極端すぎますけど、TVみていても一杯でてきませんか?
頭だけで考えて、机上の空論で実現できると考えている人。
この間処刑された麻原だってそうですし、昨今のスポーツ界にはびこっている思考だってそう。自分はまるで神にでもなった気なのでしょうか。自分はまるで異世界チートのように、絶対無敵だとでも思っているのでしょうか。
すべての問題が、まるで都合よく解決できる、まるで自分の存在だけは都合よく見逃される、とでも思っているのでしょうか。
そういう、傲慢、学のなさ、唯物的思考、こういったもの、一切合財、孔孟思想にのっとればすべて無意味だとわかるはずです。
いつの時代でもそうですけど、本当の生き方をしよう、本当の人生を生きよう、と思うとまず間違いなく天はその人に苦労を授けます。授けてくれます。苦労をすることで、苦労を乗り越えることで、人間としてさらに成長し立派になることを天は望まれるわけです。
そういう、人間としての成長ということをさらに敷衍したのが孟子という人物です。
孔子様は、ただただ実践道徳を重視されたのですが、それに哲学的考察、哲学的視点を求めたのが孟子、といえるでしょう。
孟子はこう言っております。
「天のまさに大任をこの人に降さんとするや、必ずその心志を苦しめ、その筋骨を労せしめ、その体膚を餓えしめ、その身を空乏にし、行うこと、そのなさんとする所に払乱せしむ。心を動かし、性を忍ばせ、その能くせざる所を曾益せしむる所以なり」
天が、まさしく天命をその人に下さんと欲するのなら、必ずその精神を苦しめ、肉体を疲労させ、金銭的にも窮乏の状態においやり絶望、失望のどん底においやる。
何もやってもうまくいかないし失敗するし、さんざんな目にあわせる。
そして、その状態から脱すべく必死こいて考え這い上がり、辛抱し苦労窮乏に耐え忍び、その軟弱だった精神、肉体を鍛え、今までだったら到底できなかったことを考えたり、行動したりする。そのためである。
歴史に名を残した偉人で、何の苦労もなく成功した人などいないでしょう。
そして、歴史に名を残した儒家もその例外ではなく、孔子様や孟子、王陽明先生にいたるも、苦労の連続。よくここまで苦労を耐え忍ばれたものだ、と思えるほどに苦労ばかりの人生を歩まれました。
それを現代人が学んでいれば、実際に苦労に直面しても、偉人の必ず通った道である、と納得し苦労に真正面から立ち向かえるでしょうしその苦労に、よもや心身ともに疲れうち負けることはないはずです。わたしの経験上言えることですが、天は、その人が克服できる苦労を下すはずです。振り返ると、昔の自分だったら絶対に乗り越えられないような苦労でも今の自分だから乗り越えられた、ということに気がつくはずです。
少なくとも、かつて戦時中までの、学のある日本人ならこの一言は必ず頭の片隅にはあって、困難苦難を乗り越える、耐え忍ぶ一助になさっていたはずです。
そうして、苦労を経験するうちに、辛酸をなめまくっているうちに、この歌の意味がわかってくると思います。
人は悲しみが 多いほど人には優しく できるのだから
苦労を経れば経るほど、そこに精神が養われ、仁、真心が養われる。そうして、同じように頑張っている人を応援したいと思えるようになります。
逆に、苦労をして、ただ精神が摩滅し世間ずれをおこしている人は、行わなければいけなかった学問をしなかった人なのでしょう。哀れなことですが、自分で自分をまず救うのが正しい順序であり、学問とは、自分を救うための強靭なる意志や覚悟を養うためのものなのです。自分すら救えなかった人を救い上げるのは至難を極めるでしょう。それが例え、神や仏であったとしても。
「孟子曰く、その心をつくす者は、その性を知るべし。 その性を知らば、すなわち天を知らん。 その心を存し、その性を養うは、天に事うる所以なり。 殀寿違わず、身を修めて以てこれをまつは、命を立つる所以なり」
孟子は言う、我々に備わった心というものを本当に解明すれば、物事の個性や本質が見えてくる。
それらを集めて、万物の個性や本質が究明されれば、それらを作り、育んだ万物の創造者の意思、天の意思がわかる。
天によって育まれた我々の心をないがしろにしないように注意し、自身の個性やその本質を大切に扶植すれば、それこそすなわち造化の意思、天の意思に従う、天の意思に沿うことになる。それは、早死にするとか天寿を全うするとか、そんな寿命の長短をいうのではない。
己のこの、たった一度きりの人生を、わが身をいとおしんで、いつくしんで、大切に修めて、この世界の正しいありように順じて生きれば創造主の意思を、自分のものとすることができる、ということである。
悟り、という言葉を孟子的に解説した、と言えるでしょうね。
何も、悟りとか大悟徹底、というのは仏教の専売特許というものではないのであります。
物事の本質を徹見し、それに随順して生きてゆこう、というのはこれは古今や洋の東西を問わない。思想の違いを問わないのであります。物事の本質を見極め、それを追求しようというのは人という生き物の本質的要求なのであります。その、本質を徹見し随順して生きる、ということを、古来「宗教」と呼んだわけですね。自分が心の底から偉大だと思う、偉大だと思いひざまずく、額づく存在に、自分も近づきたい、自分もそうなりたい。だから勉強するのだ、だから修行するのだ、これが太古より不変の人類の「信仰」なわけです。
その本質が、人によっては神になって、仏になって、デウスになった、というだけであります。
イデオロギーにオツムをしてやられた人には未来永劫理解できないでしょうが、人類は古来、こうして本質を追い求め、本質に自分を沿わして生きることを求める存在なのであります。だから、人という存在は貴いものなのであります。
「孟子曰く、万物皆我に備わる。身に反りて誠ならば、楽しみこれより大なるはなし。恕を強めて行う、仁を求むることこれより近きはなし」
孟子は言う、天地万物の諸要素は、すべて我が身に備わっているのである。自分という存在を究明していって、天地の造化の法則を自分の個性や本質の内に認識する。
つまり、悟りに至って、天地、世界と自分がひとつになれば、本当の楽しみ、これより大きいものなど無い。
すなわち、出来うる限り恕、思いやりの心を自分の手近から周囲に及ぼしていければ、それこそ、天の意思、創造化育の意思と一つになるという、これこそ最も確実な方法なのである。
これは、即身成仏の孟子的説明、と言ってもいいかもしれません。
即身成仏とは、その身は即ち、仏と成る、ということ。
何か、ものすごい修行とか苦行の果てに、仏という超越的、超常的、はるかな高みの存在になるのではなく、自分は、すでに仏なのだ、生まれながらにこの身は仏だったのだ、と気がつくことが即身成仏であります。
とはいえ、様々な煩悩だの欲望だのに制約せしめられた自分でそこに気がつくのはなかなか大変ではありますが、孟子は、少なくとも、思いやりの心をもって日々を生きれば、天地の、世界の偉大なる存在と一致する最も確実な方法なのだ、と教えてくれているわけであります。
嫌なこと、腹の立つこと、空しくなること、人生は様々な困難、苦難に満ち溢れておりますが、学問をすればするほど、それらを乗り越えるための活力となり、恕、思いやりをもって日々を生きることが出来るようになってゆくのであります。
孔孟思想とは、こういった人生を何とかかんとか生きてゆくための、自分の血となり肉となり、骨となる、自分という人間を新たに再創造するための教えに満ち満ちているわけです。
彼らは、まず、自らが実践し、率先して過酷な道を切り開いた上で、自分の実体験、実経験の上で、誠の言葉、血の通った誠、血誠の言葉を、思いを、人々に教え、導いたわけです。
それこそ、お釈迦様のいうように、自覚覚他。
自分がまず、己の心、己の体、己のすべてで理解、会得するからこそ、その本質的悟性を、他者にも分かりやすく教えることができるわけです。
では、それほどにいう孔孟思想の聖書『論語』とはどれほどのものなのか、みてゆきましょう。
実際にみればわかりますが、『論語』の結構な部分が、平易な文章でできています。孔子様がお弟子さんたちに、ここはこうしなさい、あそこはこうしてはいけない、という教えがほとんどなので平易なのはもちろんなのですが、その教えが小学生でも分かるような内容に、初めて読む人はびっくりするかもです。
そして、さらに驚かされるのが、こんな小学生でもわかりそうなことを、現代人はまったくわかっていない、ということに吃驚仰天するはずです。
では、今回は誰でも出来そうなお言葉をみてみましょう。
「過ちては改むるに憚ることなかれ」
「過ちて改めざる。これを過ちとなす」
過ちを犯した、とわかったのなら、身分だ体裁だ、体面だなど気にせず判然と正すべきである。
過ちを犯したのに反省もしないし変更もしない。これこそが過ちである。
この言葉だけで人類の諸問題は語りえる、と言い切ってもいいかもです。
世界的な問題、それらが過ちである、と気がついて、判然とそれを改めることができたのなら、世界はどれほど救われたでしょうね。フランスで革命が起こって王朝が打倒されました。フランスから王族がいなくなってしまったわけですが、フランス人は革命の事実をもって、イギリスの王族や、日の丸もって「天皇陛下万歳」と敬える日本人をみてどう思っていることでしょうね。
朝鮮戦争。ソ連やチャイナの侵攻を、遠い異国である米国が受け止めることとなったこの戦い。もし、米国が満州建国の意味、重要性を理解していたのなら、よもや自国民を朝鮮などという地で失うことも無かったでしょうに。
いまあるイデオロギーだってそうですね。ポル・ポトを嗤っている人はわたしも含めて多いでしょうけど、この20世紀を蔓延したこのイデオロギーがどれほど人類を毒したか、心ある人はポル・ポトと目くそ鼻くそであることを分かっているはずです。
「子貢問うて曰く、一言にして以って終身これを行うべきもの有りや。子曰く、それ恕か。己の欲せざる所を人に施すこと勿かれ」
子貢さんが質問されました。自分の人生これだけを行っていればよい、そんな一字はありますか、と。孔子様はこうおっしゃられました。それは、恕、思いやりです。自分がされたら嫌だな、そう思ったのなら、人にはしないでいればよいのです。
これこそ、小学生でもわかる論語の筆頭、と言ってもいいかも知れません。
そして、わかっても誰もしていないことの筆頭、とも言いえるかも知れません。
人類が、この言葉を胸に刻んで日々を生きるだけで、どれほど世界が救われるか。人類が論語を知らないことの分かりやすい証明でもあります。もちろん、儒教国、とかほざいてる国に、論語の理解などあるはずもありません。デウスだの何だのと、分かりにくい信仰に生きるより、孔孟、儒教を真剣に学んだ方が、よほど人類は誠実に生きられるはずですけどね。
一応わたしも人と相対している時は、この言葉にのっとって行動をとっておりますが、どこまできちんとできているかはわかりません。日々精進であります。
「曾子曰く、吾日に我が身を三省す。人の為に謀りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか、伝えるを習わざるか」
曾子さんがおっしゃいました。わたしは常々、自分を振り返るのです。人のために考え行動し努力しきれなかったのではないか。友達と一緒にいて誠実でなかったのではないか。せっかくの先生の教えを、十二分に身につけることが出来ていないのではないか。
三省、とは三回反省する、ではなく、この三はたびたび、常々、という意味ですね。
自分を常に批判し、第三者的視野を確保して自分を冷静に見つめる、というのは重要です。
特に、わたしもけっこう怒りやすい人間なので、こういった客観的視野は助かります。怒っている自分を冷静に観察するとけっこう平常心を取り戻せるものですよ。そして、この第三者的視野、というのは物事を分析するにも役立ちます。
物事は、多角的に、全体的に、長期的に見ないといけません。近視眼的視野ほど、物事を害するものはありません。論語のこんな一文にも、教えられるものはたくさんあるのです。
「由や、 なんじに之を知るを教えんか。之を知るを之を知るとなし、知らざるを知らずと為す。これ知るなり」
由、子路や、お前に知る、ということを教えてあげよう。知っていることを知っているとなし、知らないことは知らないとするのだ。これこそが、知る、ということなのだよ。
由、とは子路さんのこと。孔子様初期のお弟子さんですね。
まあ、この言葉は現代人なら、何でもは知らないわ知っていることだけ。でも言い表すことができるでしょうね。
確かに、生きておると知りもしないことを知ってると言ってしまうことがありますが、孔子様にこういわれた子路さんはよっぽどでかい知ったかぶりをしてしまったのでしょうか。これはいくつになってもありうることなので、注意が必要です。わたしも、見栄だの体裁だの気にせず素直に、しりまへん。ということにはしておりますが。
「子曰く、巧言令色、仁すくなし」
孔子様がこうおっしゃられた。言葉が巧みで、自分を飾るのがうまい人間は、どうやら真心はあんまりないようだ。
言うまでもないですね。
「子曰わく、もし周公の才の美ありとも、驕にしてかつ吝ならしめば、その余は観るに足らざるのみ」
孔子様はおっしゃられた。もし、周公旦のような麗しい才能を誇っていたとしても、驕り、しかもケチならば、もはや見る価値はない。
これは、巧言令色、仁すくなしと同じです。どれほど勝れた技術や知識、スキルや資格があろうと、性格が傲慢で不遜、つまり不仁であったのなら、さらにドケチな性分であったのなら、もはや周公旦ほどの才能があってもこんな人間は下らない、という孔子様にしてはばっさりと切り捨てている断案であります。
つまり、人間の根幹は仁、真心であって、知識だの才能だのは付属的要素にすぎない、とはっきりおっしゃっているわけですね。わたしが何度も言う、神や仏になるために人は生きているのだ、というのもこういった孔子様の断案に根拠をなすわけであります。
「子貢、君子を問う。子曰く、まずその言を行い、しかる後にこれに従う」
子貢さんが君子のありようというものを質問された。孔子様がおっしゃるには、まず、行うこと。その後に発言するべき。と。
不言実行でも有言実行でもなく、行ってから、その結果をもって言えばよい、と。
確かに、堅実なありようです。
「葉公孔子につげて曰く、吾が党に直躬という者有り。その父羊を攘みて、子これを証せり。孔子曰く、吾党の直き者は、これに異なり。父は子の為に隠し、子は父の為に隠す。直きことその中に在りと」
葉公という有力者が孔子様に言った。我が地には直躬という正直者がいる。父親が羊を盗むと、子はその罪を告発したのだ、と。すると、孔子様はこうおっしゃられた。我が地の者はそうではないですね。もし仮に、羊を盗んだとして、父は子の罪を隠しますし、子は父の罪を隠します。本当の正直とは、真心にもとづくものなのです。
密告大好き隣組。とは真逆なこの一文。
本当の正直とは、罪をあからさまにすることではなく、家族の情、家族の思いの方を重視し、その罪を隠すことなのだ、と。
これはとても考えさせられる一文であります。
家族の中にすら情もなく、連帯、紐帯もない、家族同士で殺しあっているこの現代。
家族のなかくらいは、家族の罪をひたかくしにするくらいでいいじゃないか。家族の情を優先させるくらいの方が、人間として素直じゃないか。罪だの罰だの世間的な倫理より情を優先させる方が家族として正直じゃないか。孔子様の真心が伺える一文であります。
「子、四を絶つ。意なく、必なく、固なく、我なし」
孔子様はこの四つをなくされた。それは、意地を張ること。必ず物事を成し遂げようと肩肘を張ること。固執するかたくなな心。我執。
つまり、素直に生きる、ということですね。
論語などを色々学問し、人生苦労し、それでものんびり生きておればこういう心境にはなれるかもです。
現代人はこういった学問、本当の教養がないくせに、無駄知識や無駄思考だけはあって、我執だの何だのが肥大化しまくっています。これも、現代人をみておればどうかは、面構えをみておればすぐわかることであります。可哀想に、こういう人々は一生涯論語など読みもしないのでしょう。そして、大事な大事な自分の人生を、ものの見事に台無しにしてしまうのでしょう。そして、台無しになった自分の人生なのに、まったく気づかずに死んでしまうのでしょう。
偉人や大切な言葉、教えはたくさんあるのに、聞く耳も、受け入れる心もない。
そのくせ、俺を救え、と神様やら仏様やらに偉そうに願う。
自分すら自分で救えないくせに、どうやって他者が自分を救えると思えるのか。
学のないものの悲しさであります。
「ただ、仁者のみよく人を好み、よく人を悪む」
「子曰く、いやしくも仁に志ざせば、悪むこと無きなり」
ただ、本当の仁、真心をもった人だけが、正しく人を好きになれるし、正しく人を憎む。
孔子様はおっしゃられた。少なくとも仁、真心をもとうと思うのなら、我執に満ちて人を憎んだりはしない。
一見するとあべこべっぽく見えますが、そうではありません。
この場合の仁の者、真心の人とは、先にもみた我執だの固執だのがない人のことであります。色眼鏡で人を見分ける人のことではありません。
例えでいいますと、諸葛孔明のような人であります。
孔明さんはこうおっしゃいました。
「吾が心秤の如し、 人の為に軽重をなす能わず」
わたしの心ははかりと思って欲しい。お金だ、縁故だと、人によって軽んじたり重んじたり決してしない。
ということです。事実、孔明さんによって糾弾され職を追われたような人ですら、孔明さんの死を心の底から悲しんだと言われます。こういう孔明さんのような人であって初めて、私心なく色眼鏡なく人を見て裁くことが可能で、だからこそ素直にこの人は良い、この人は悪い、とわかったし、色眼鏡で人を排除したり差別するようなことは絶対なかった、ということです。
「子曰わく、群居終日、言義に及ばず、好んで小慧を行う。難いかな」
孔子様はおっしゃられた。日がな一日、群れ集まって何をやっておるかと思えば、正義や人倫に対する議論は一切行わず、くだらない猿知恵を働かせ喜んでいる。度し難い。
孔子様からみて、本当に議論に値するものが現代にどれほどあるのか、伺ってみたい気はいたします。
「人の己を知らざるを憂えず、己を知らざるを憂うるなり」
他人が自分を知ってくれないことを悲しむより、自分が、自分を知らないことを憂えなければならない。
これは多くは、人を知らざるを憂うる、となっていて、自分こそ他人を知らないんじゃないか、という解釈ですが、安岡先生は己を知らない、と解釈した方が面白い、とおっしゃってますね。
確かに、自分を知る、って簡単にいいますが、これこそ難題、至難なことでありまして、かくいうわたしも、本当に自分がわかってきたと思えたのが29歳の頃でした。何で自分はこうなってしまったのか、そうか、こういうことか、と分かったのが29。それから25歳頃からやっていた学問がそろそろわかってきたかも。腑に落ちてきたかも。と思えたのが39歳。まあ、わたしは迂愚な生き物なので比較にはなりませんが、常に自分と一緒にいながら、分かりづらいのが自分というものであります。
では、どうやって自分を知るか、といいますと、まず先程申した、第三者的視野をもつ、ということ、これは仁に志せば人を悪むことないのと同様、自分の心を素直にし、我執や偏見、固着した概念を少なくする、ということ。
自分こそ絶対、なのではなく、自分も相対のひとつであり、絶対のものさし、ではなく、数多あるものさしの一種なのだ、と理解すること。その上で、この自分というものさしを、常に最新の状態に、常に最良の状態にしよう、と心がける。
素直に、我執なく、偏見なく、固執なく。
そうして、自分というひとつのものさしであるのだ、という理解のもと、自分を計る。
客観的に、第三者的に、自分を計る。
そうすれば、広く学問をし、柔軟に色々な意見や思考を取り入れないといけなくなりますし、そうして色眼鏡がないから正しいもの、間違ったもの、というのがぼんやりとわかってきます。よく人を好み人を悪むように、ことの善悪が見えてきます。良い書物、悪い書物、というのが読んでれば分かる。すごい人になると手にとった瞬間、その本の良し悪しがわかるそうな。
そうした事実の蓄積の上に自分を立脚させれば、やがて真心の自分というものが見えてくる。何ができて、何ができなくて、何が好きで、何が嫌いか、何をしたくて、何がしたくないか。
色眼鏡がなく、アシタカのように曇りなき眼で見定めることができてくるからこそ、きちんと自分を正しく導くことが出来る。
我執や、偏見、固着した概念をある程度払拭したからこそ、そこに真心の、本当の自分というものが見えてくる。本当に自分はこうあるべきじゃね? という気持ちが見えてくる。
まあ、ここまで申した時点で、それでもやはり相当難儀であることは事実ですけれども。
でも、世の偉人は、皆々、こういった心理的葛藤といいますか、己を真摯に見つめる、という過程をくぐって人生を生きているはず。それでなければ、本当の自分、本当の意見、本当の思想など、でてくるはずがない。今ではあんまり聞かなくなりましたが、悟りとか大悟徹底とか、そういう人がでてくるはずがないのであります。
こうして、自分自身を本当に大事に出来る人だけが学問をし、修行を行い、不動の自分をつくりあげることができるのであります。
何よりも大事な自分のために、学問をしてみてはいかがでしょう。
それこそ、孔子様の教えに従うということなのであります。
最後に、いつまでたっても続刊が出ない伝説的漫画「バスタード」の第26巻に、ティア・ノート・ヨーコはこう言ってますね。
「「戦いをやめる」事
戦わない事を皆が選ぶ事 ただ それだけ…
助けを求めている人がいれば助けてあげて…
苦しみにもがいている時は 人に助けてもらって…
相手が… んーん 全ての人が
自分と等しい存在なんだって事 思い出した時
世界中の どんな飢餓も
貧困も悲惨も残虐も
ボク達は一瞬で終らせることが出来るんだ
いつかじゃなく……
今
この瞬間に」
人類は、未来に向かって後ずさりしてゆくだけなのでしょうか。
少なくとも、孔子様や孟子は、人として生まれたのならこうすべき、という、永劫変わらぬ燦然と輝く人類の明るい手本、見本なのであります。
それを真似するか、知りもしないかは、自分の、選択いかん。
孔孟を少しは語りえたかと思いますので、これにて終了といたします。
余談ですが、バスタード続刊、謹んでお待ち申し上げております。
ー人ー