正論と情
かつて。
粒ガムを食べすぎて腸内の善玉細菌が死滅しました。
その原因は人工甘味料。糖分を削減した代わりに、腸内の善玉細菌を殺すという悪夢の化学製品です。おかげさまで体調は不調がデフォ。その悪影響は今もあって、夕方にもなると腹の中で凶悪にガスが大量発生する始末。随分と苦しみました。
そしてようやく、善玉細菌を増やすのはオリゴ糖と知りまして、バナナを一日一本食べるようになりました。おこんばんはです。豊臣亨です。ウッキー!
また、ヨーグルトに含まれる細菌は実は腸内にとどまらない、ということが分かったようで、飲むヨーグルト等は止めました。事実、飲むヨーグルトをず~っと飲んでましたが腸内環境が改善された感じは一切ないですね。しかし、バナナを食べ始めたとたん、夕方からの凶悪な腸内ガスの発生が一気に減りました。バナナオヌヌメ。ウッキー。他にも目覚めが良くなったりと色々改善されます。腸内環境の良し悪しは人生に関わると言われるので、皆様もお気をつけくだされ。-人-
さて。
今回は正論と情、として題してみました。
わたしは以前の戯言で、荘子は未熟者、と論断しました。
これは「鼓盆而歌」というお話。
荘子の女房が亡くなった時のこと、親友でありライバルでもある恵子がお悔やみに行った時、荘子は楽器を鳴らして歌っていたといいます。そのことに恵子は愕然とし、
【人と與に居りて子を長ぜしめ、身老ひしめ死す、哭せざるは亦足れり、又た盆を鼓して歌ふは、亦甚だしからずや】
夫婦共に子を育て、老いて亡くなってしまった自分の妻の死を、涙を流さないのはともかくとしても歌を歌うとは何事か! と難詰します。
しかし、荘子は平然として、こう言ったとか。
【然らず。是れその始めて死するや、我独り何ぞよく概然なからんや。その始めを察するに本より生無く、 ただ生無きのみに非ずして、本より形無し。ただ形無きのみに非ずして、本より気無し。芒芴の間に交りて、変じて気有り。気変じて形有り、形変じて生有り。今又、変じて死に之くのみ。是れ相與に春夏秋冬の四時の行を為すなり。人まさに偃然として巨室に寝ねんとするに、しかも我、噭噭然として、随ひて之を哭するは、自ら以て命に通ぜずと為す。故に止めたるなり】
そうではない。わたしも最初は妻が亡くなった時は悲しかったさ。だが、考えてもみたまえ。何もないところから人間というものは現れるではないか。そもそも無から生じたのだ。混沌という根源の中から、そこから何らかのエネルギーが生まれ、その何らかのエネルギーがさらに変化して物質を成し、物質からさらに生命が生まれた。人もその混沌から産まれた。そしてまた、いままさに混沌へと帰るのだ。
これはまさしく春夏秋冬の一巡りと同じことなのだ。我が妻は、いま冬にいたりてこの雄大なる大地を永劫の住処として安らかに眠りについたのだよ。それなのに、ここでわたしが大声を上げて泣き叫んで妻を求めるのは、その大自然の循環を乱すことになるのだ。そのことに気がついた時、わたしは泣くのを止めたのだ。
と、言い放ったとか。
この発言を簡単に言ってしまえば荘子とは出家僧のごとき存在と言って良いのでしょう。荘子は、人を超越し、超俗し、神や仏、神仙の領域に踏み込むものなのです。
人としての感情とか肉親の情とかよりも、より本質的、根幹的な境地に至ることを目指すものなのです。
そのことは良いのでしょう。神や仏を目指す。古来、多くの人が目指した道ですから。自分ひとりが出家し、神や仏の道を目指したとしても何も責める理由はありません。かくいうわたしも、最終的には悟れればいいなぁ、と常日頃ほざいておるのですから、荘子も立派な先達であります。
ですが。
思想家として、世に戯言をほざく今においては、神や仏になることは、やはり今はやめねばなりません。
情を捨ててはいけません。人をやめてはいけません。
いくらそれが正論であれ、正しくあれど、人をやめてしまって俗世間に大上段から問いかけたところで、「御説ご尤も」と拒絶されるのがオチでしょう(盛大なブーメランをひしひしと感じないわけではないですが)。
変な例えを言えば、葬式に僧侶を呼んだとして、その僧侶が、「我が宗派では人は死ねばただちに仏になる。なのになにゆえ読経が必要か?」と言われて納得できる人が何人いるでしょうね。「いや高い金払ってんだから、説教ほざいてないでとっととお経あげろや!」と憤慨する人のほうが多いのでは。
荘子の発言は、これに近いと思いますね。
恵子がお悔やみにやってきて、人はいつか死ぬのだ。それが真理なのだ。などと言われたところで、いまその発言必要か? となるわけで、いわゆる、空気が読めてない、配慮のできない半端者、という判断をせざるを得ないわけです。思想家たるもの、秩序を乱さぬよう人情に即した発言をすればよいものを、いらぬ御高説に、ごもっとも、と言いたくなるわけです。
今宵はそこんところをもう少し語ってみたいと思いまする。
まず、いつも取り上げさせていただきます、孔子様の「直す」ここから見てみましょう。
【葉公、孔子に語りて曰わく、わが党に直躬なる者あり。その父、羊を攘みて、子、これを証す。孔子曰わく、吾が党の直き者は是れに異なり。父は子のために隠し、子は父のために隠す。直きことその内に在り】
葉公(楚の国の家臣)が孔子様に自慢気に語った。我が領国に躬なる正直者がおる。父が羊を盗んだと知ったら、その父を告訴したのだ、と。
それに対して孔子様はこうおっしゃられた。
我が領国の正直者は、それとはおもむきが大分違います。父が罪を得れば子はそれを隠し、子が罪を得れば父が隠す。本当の正直とはそこにこそあるのです、と。
ここにあるのは、明らかに肉親の情ですね。
肉親が罪を犯したら、それを正直に告訴するのが人としての本当の義なのであろうか。それよりは、父が罪を得たら子は隠し、子が罪を得たら父が隠す。本当の義、真心とはそこにこそあるのです、とおっしゃるのです。それが罪であろうと、悪であろうとなんだというのか、と。
本当の、人としての正直な気持ちを申せば、罪を得た肉親を、非情冷酷に獄舎に縛すことを良しとするか、それとも、同じ輩と落ち果てようとも肉親と同じ境涯に生きんと欲するか。どっちがより人としての情を感じるか。孔子様はそこに人としての価値を見いだされるわけであります。
ちなみに、秦の始皇帝は激烈な法体制を布き、密告を奨励したそうな。漫画のキングダムの贏政からは想像もできないような激変ぶりですが、信長公、弾正忠様も覇王となって激変したといいますし、独裁者というのは激変するものなのでしょう。ヒットラーも独裁者にならなかったらもっと幸せな人生だったかも知れません。
また、中共も密告を奨励しておりますし、戦前の日本も「隣組」で監視体制を取りましたね。どうやらイデオロギーにかぶれるとどうしても情を捨てたくなるものなのでしょう。
そうして情を捨てた先に何があるのか、歴史が教えてくれています。
また、孟子にはこういうお話があります。
【公孫丑曰く、君子の子を教へざること、何ぞや、と。孟子曰く、勢、行われざればなり。教ふる者は、必ず正しきを以てす。正しきを以てして行われざれば、之に継ぐに怒を以てす。之に継ぐに怒を以てするときは、則ち反りて夷ふ。夫子、我に教ふるに正しきを以てす。夫子未だ正しきに出でず、と。則ち是れ父子相夷ふなり。父子相ひ夷ふときは、則ち惡し。古は子を易えて之を敎ふ】
公孫丑(孟子の弟子)が、君子においては、我が子に教えることはできないとされますが、どうしてでしょうかと問うた。
孟子はこう答えた。
どだい、やれるわけがないのだよ。いいかね、教え諭す立場の者は、必ず正しいことを教えようとする。しかし、きちんと教えたのにそれができてないとは何事か、と激怒する。もし、親子の間と言えど、怒りを以てすれば必ず親子の間はギクシャクする。
また、教えを受ける立場の子供だってこう考えるだろう。オヤジよ、俺に正しくせい正しくせいと口うるさいが、お前だって大したことはできていないじゃないかと。
このように、親子で教育すると親子関係がギクシャクすることが多いので、大昔から君子といえど別の子を教えるようになったのだ。
実にねんごろな人間観察であります。
これを伺えば、しつけと称して子供を殺す親がどれほど度し難い阿呆であるか分かるでしょう。子は親の背を見て育つというように、親のバカさ加減も子はきちんと見ておるのです。子が、親に反発する時はまず間違いなく、親が仰ぎ見るに値しない阿呆であることを身を以て知っている時です。
また、偉大なる師匠を超える弟子というのがそうそう現れないのも、これでわかってきますね。弟子というのは、師匠の偉大な面、偉大を偉大たらしめる修行時代や苦渋に満ちた時代をあまり知らず、ある程度成功してから弟子入りし、ある程度堕落した姿も合わせて見るから、弟子というのは師匠を尊敬しつつも内心バカにしておるから、結局師匠を超えることがない。
古典に出てくる思想家というのは、実に真心こもった篤実な学問を修めた方々ばかりなわけです。現代人を観察しておりますと、心が冷めきった人が少なからずおりますが、こういう人たちが本当の学問を修めた親の中から出ればどれほど人生違ったのかなぁ、と思うところであります。毒親、という単語が人口に膾炙して久しいですが、こういった親がどれほど子の人生を殺しておるか、冷静に観察すると恐ろしいでしょうね。むしろ、大きくなる前に殺してくれたほうが、まだマシだったかもと言えるかも知れないほどに。ヒットラーしかり、贏政しかり。
では、続きまして、これも多年に渡り伺っておりますが、王陽明先生のお言葉も伺いましょう。
【天下の事万変すと雖も、吾が之に応ずる所以は喜怒哀楽の四者を出でず。此れ学を為すの要にして而して政を為すも亦その中に在り】
人の世が、どれほど千変万化しようといえど、わたしがこれに対処するのは、つまるところ喜怒哀楽の四つである。これは、学問をすることの枢要であり、結局の所、政治もこの喜怒哀楽にあるのだ。
古来名高い名文であります。
何に対して喜び、何に対して怒り、何に対して悲しむ、何によって楽しむのか。
世の中がどのように変化しようと、どのような状況下にあろうと、この人としての感情からはみ出るものなど何もないのだ、ということであります。そして、畢竟、政治とはこの民衆の感情、民衆の喜怒哀楽に沿うことが肝要なのだ、と。
そういう意味では、すがっちがとある半島に対して強硬姿勢を続ける限り、国民の信頼は小揺るぎもしないでしょうね。
どこぞの、朝鮮学校無償化、などと言い出す連中に再び政権が移ってしまうくらいなら、森友・加計問題がなんだ、桜がなんだ、となるでしょう。もしかすると、田中角栄ですら頓挫したロッキード事件クラスの大スキャンダルでも乗り越えられるかも知れません。それほど現在の共産主義者に対する反感は強いでしょうね。
また、お釈迦様、ゴータマ・シッダールタ、も情を捨てて出家に邁進した人であります。
何でも、行かないでくれと泣いて懇願する妻や子を捨て、王としての立場、民衆も捨てて、出家得度したとされます。また、釈迦、とは一族の名であって、しゃか、シャーキヤ族のシャーキヤ国ということなのですが、その一族が敵に攻め滅ぼされる時、家臣たちが還俗して王として戻ってくれ、という懇願を結局聴きいいれず、複雑な胸中で釈迦一族の滅亡を見ておったとか。
こういう、情を捨てる、というところに、インドで仏教が滅んだ原因があるのではないか、と思う次第です。まあ、お釈迦様寂滅後500年後に、仏教経典を捏造することがブームになったそうで、インドで仏教が滅んだ理由もそれこそいっぱいあるのでしょうが。
出家とは、俗を捨てることであり、人を止めるということなのであります。
しかし、日本では出家することと同時に俗を捨てない、在家仏教も認めたことは特筆すべきことかと思います。有名なところでいいますと、道三入道とか、信玄入道とか。
日本人は、出家して、俗を捨て、家も縁もすべてをかなぐり捨てて我が身の安泰を一心に願うのではなく、家にあって、家人や家臣とともに仏道に邁進するという方法も取ったのであります。つまり、日本人は情を捨てなかった。仏道に入りながらも、それまでと同じように影響力を発揮したわけですね。
まあ、変なことを言い出せば、信玄公が本当に出家してしまえば、もしかすると信忠公と松姫の婚姻もありえたのかなぁ、と思うわけで、そうなりますと織田・武田・徳川の新三国同盟という世界線もありえたのかなぁとか、そんなものが成立した日にゃ上杉なんて鎧袖一触だなぁとか、と妄想がはかどって仕方がないです。そりゃもう。ええ。
それはともかく、実はここまでは盛大な前フリでありまして。
今回の中共肺炎に関して、一部ではマスク不要論を唱える人がいます。あえて、誰とはいいませんが。マスクをしたってエアロゾルは100%防げないし、だったらマスクなどしたって無駄、ということのようです。
御説ご尤も。
確かに、マスクをしたところで中共肺炎の蔓延は止められぬし、極論を言ってしまえばここまでくれば後は野となれ山となれ、で放っておく他なさそうです。だったら、マスクをしようがしまいが、大勢に影響はありますまい。それでマスク警察が騒ごうと、それが何だというのか。そういう、かつてゲバ棒もってヘルメットかぶって活動しておったような連中の成れの果てが騒ごうが何だというのか。その手の人間はどこにでも湧いて出るものです。
マスクをすることが正しいか、間違っているか、ははっきり言ってしまえばどっちゃでもいい。
間違っていても良い。
なんでかと言えば、人間のやることに完全な正しい行動なんて、歴史上ほとんどないからです。やったはいいけど間違っていた、だったらやめよう、それでよい。
そういう、良かれと思って始めたはいいけど、結局最悪の結果を招いた、などというのは世界中にうっじゃうじゃあると思う。それこそ、ごまんとある、いえ、ごおく、ごちょう、とあると思う。
人工甘味料だって、これを開発した科学者、技術者も何も最初から毒薬作ろうと思ってこしらえたわけでもありますまい。糖分が体に悪いことが分かった、だったらその代替物質は作れないか、で作ったはいいけど、出来上がったのは腸内善玉細菌を死滅させる恐怖の物質であった、ということであって、結果、駄目だったというだけのこと。もう一つ言えば、わたしがウッキー! になっただけと言うことです。
そういうのはホントきりがないと思う。
そう思った時に、俗世間でマスクをしていることを、声高に、
「マスク原理主義」
「マスク全体主義」
と騒ぎ立てることがどれほど意味があるのか、物事をきちんと考えられる人間だったら気がつくと思う。人間のやることに完璧、絶対などありえない以上、それがたとえ間違いであったとしても、最悪の間違いでもなければ生暖かい目で見ておれば良い。
今回の鬼滅の大ブームだって、わたしもアニメは見ましたがまさかここまでのビッグウェーブになるとは想像も出来ませんでしたね。確か、放送が開始された当初のコメは「脱税w」で溢れかえっていたはずですし。しかし、それが気に食わないからってキメハラだの何だの言い出すのもみっともないったらありゃしない。
同様に、マスクをしない俺が正しいんだ! 世の中が間違っているんだ! という発言がどれほどみっともないか、キメハラと大差ない発言だと、どうして周囲の誰も気が付かないんだろう。
マスクを強要するのは全体主義に通じる!
ちょっと何言ってるのか分からないですね。
イデオロギーに脳みそ毒されて天皇陛下のお写真燃やして得々としておるような連中と、中共肺炎に怯えてマスクをしている人々を同列に論じようとか、もはやただのレッテル張りにしか見えない。
かつて、わたしが尊敬した渡部昇一氏も、最後には保守論壇とかいう連中の一つ穴のムジナに収まって、畏れ多くも上皇陛下に対して「死ぬまで天皇やっとれや」と言い放つ老害に成り果ててしまった。渡部氏は、自らの書物の中で西郷隆盛は年を食って耄碌したのだ、などと妄言ぬかして失望しましたが、耄碌したのは渡部氏の方だったと思います。昨今の日本人というのは年を食うと耄碌するものなのでしょうか。
わたしも気をつけたいところではありますが、そもそも耄碌するほどの才覚もないので何も気にすることはありませんでした~。
では、最後に。
日本においては、仏の信仰もさることながら、お地蔵様の信仰のほうが民間レベルで広まっているのは誰しも町中を歩けば目にすることと思います。お地蔵様は、仏のように立派なお堂もお寺もなく、簡単なやしろの中に鎮座されていることがありますが、このお地蔵様の本願こそが、我々民衆がありがたいと思う教えであります。
お地蔵様、地蔵菩薩の願いは、
「一斉衆生済度の請願を果たさずば、我、菩薩界に戻らじ」
というもので本来で言うのなら菩薩ではなく、より位の高い仏になれる資格、悟道を十二分に有しながらも、一切衆生を済度、すくい上げねば私一人仏になってなんになろう、という教えであります。
自分一人仏になればよい、という教えではなく、すべての人々を救わずして何が仏か何が仏道か、とすべての衆生、民衆を助けねばならないと発願されるお地蔵様を、日本人はなによりもありがたく思い、仏よりも身近な存在として古くから拝んで参ったのであります。
ちなみに、度し難い、というのはこの済度、から来ているのであり、済度し難い、つまり、救いがたい、ということですね。
日本人の民衆が古くから求めるのは、この、情による救いであり、自分たちに寄り添ってくれる存在にこそ、ありがたいと思うのであります。そういう意味で言えば、武士が禅を求め自力信仰に生きたのに対し、民衆のことごとくが浄土宗・浄土真宗、他力信仰に生きたのも、自分たちを救ってくれる存在を心から欲したからであります。
そしてそれは、今も本質的には変わっていないと思う。
自力で悟りを開けるものは、自分で行えばよろしい。剣や槍がきらめく戦場にあって、眼尻開いて躍りかかる精神で勇躍せしめればよろしい。
ですが、日本人の多くは、正論より、正義より、情によって救ってくれる存在をこそありがたいと思う、そういう存在を待ち焦がれているのだ、ということを忘れてはならないと思います。
「政を為すも亦その中に在り」
と思うのであります。
大阪都構想の中身はわたしはまったくわかりませんが、この構想が、一切衆生を済度せんと心から願うものであったのならば、話はまた変わったかも知れませんね。まあ、現実の社会でそんな発願をする政治政策など皆無でしょうけど。
政治家ならいざしらず、思想家というものは、お地蔵様の教えを無視してはいけないと思うのであります。
と言ったところで今宵はこれまで。
したらば。
11/8 付け足し
そもそもで言うなら、俺が正しい。なんて言っている時点で噴飯ものであります。古来、偉大なる東洋人で、俺が正しい。などと言い出したものが何人いたでしょう。
別に、これは日本人に限らない。チャイニーズ、コリアンでも誰でも良い。誰がいました? 偉大な東洋人は、間違っても俺が正しい、などと言わぬものであります。言えるはずがない。
何故か。
古来、偉大な東洋人は、偉大な先達の存在を知っていたからであります。
偉大にして、慈愛の精神に溢れ、世界のすべてを知り尽くした英霊たちが自分を見守っているのに、どうして俺が正しい、などと言えるでしょう。
わたしが尊崇してやまぬ安岡先生だってそうです。
安岡先生は、かつて若い頃、囲碁の先生、師範代クラスの先生だったと思いますがその先生に初めて囲碁を教わったとか。で、じゃあ実際にうってみましょうか、と勝負をしたらその先生を打ち負かしたとか。その先生もさすがに、そんなはずはない、ともう一度うったら、また負かしたそうな。また確か、高校生にして英語をマスターし、大学生でドイツ語をマスターしたのだとか。
なろう作家ですら、ねぇよw って思うほどのチーターです。
安岡先生がなした偉業は本当に凄まじい。安岡先生がいなかったら昭和の日本がどうなったか分からない。戦前、戦中、戦後の指導階級、軍人、官僚、政治家、企業家、ありとあらゆる階層の人々が安岡先生を師と仰いだのです。先生が日本に与えた思想の深甚さは、正当に理解できるものの方が少ないでしょう。
また戦後すぐ、ヤスオカがいるなら、と、世界の偉人達が安岡先生を慮って日本に対して配慮したのです。先生がA級戦犯に指定されかかった時、かの蒋介石がヤスオカを処刑してはいけない、とマッカーサーに電報を打ったのはつとに有名であります。
そして、安岡先生はそのチーターな能力をもってこの日本を救おうと、冗談でもなんでもなく魂を削りながら大活躍をなされたのです。しかし、そんな安岡先生をもってしても、かの日本は救えなかったのであり、言い方をかえれば、安岡先生がいたから日本はこの程度ですんだのだ、と言い切っても決して過言ではないでしょう。戦後、影の総理だの、黒幕だのと揶揄されながらも、指導階級の精神的支柱であり続けた偉大さは、古今に比類ないでしょう。
多分、あの大西郷ですら、安岡先生の前ではシャッポを脱ぐでしょうね。
そんなすごい方がかつて、日本におわした。
安岡先生だけではない、日本には、東洋には、神や仏にも匹敵する偉人たちが綺羅、星のごとくいらしたわけです。
それを思えば、俺が正しい、などと言えるはずがない。これが言えるのは、人の歴史を理解できぬ極左ぐらいなものです。
そんなことすら理解できぬとは、哀れなものであります。
我々にできることは、この偉大なる先達を忘れぬこと、偉大なる教えを受け継ぐこと。いわゆる、
【往聖のために絶学を継ぐ】
くらいなのであります。
まっこと、イデオロギーは恐ろしい。だからこそ、極左は滅ぼさねばなりません。
と言ったところで、付け足しはこれまで。
ラストピリオドのOP EDを聴きながら。
違法アニメサイトが悪であることは重々承知なのですが、こういうものの何が好きって、コメントがあることですよね。
このラストピリオドもなかなか風刺の効いたアニメで、「先行者」とか出てくるわけですが、悲しいかなわたしの知識では先行者とか全然分からない。でも、コメントで「先行者ww」とか教えてくれるからようやく分かる。正論としては違法アニメは駄目なのでしょうが、情としてはこういうのがないと昨今のアニメを見ておってもその面白さがよくわからない。dアニメとかでもコメント機能を実装してくれればいいのですが、そういう気は利かないんでしょうねぇ。
まあ、コメントつきの違法アニメサイトある限り見続けますけどね。
ほっほ~い。