少正卯を誅す
おこんばんはです。豊臣亨です。
昨今、我らが(今のところ)すがっちに「教養レベルが露呈した」などと申している輩がおるそうな。
教養?
ウケる。どの面下げてその単語が言えるか。
ガンダムユニコーンのカーディアス・ビストの言葉を借りるなら、
「ひとつ事にこだわる狭隘な主義者」
風情が教養を語るか。よかろう、主義者風情には教養という言葉の意味など分からんであろうから教えてしんぜよう。wikiで調べますとこうでてくる。
「一般に、独立した人間が持っているべきと考えられる一定レベルの様々な分野にわたる知識や常識と、古典文学や芸術など質の高い文化に対する幅広い造詣が、品位や人格および、物事に対する理解力や創造力に結びついている状態を指す」
独立した?
常識?
質の高い文化に対する幅広い造詣?
品位や人格?
物事に対する理解力や創造力(想像力?)?
ハッ! どいつもこいつも狭隘な主義者風情にはかけらも存在しないものばかりではないか。狭隘な主義者にあるのは、まさしく真逆。
中共に媚びへつらい、
非常識で、
質の高い文化を有する文明国に対し、変質的な敵意を示し、
下劣で愚劣な品位や人格しかなく、
まともな物事に対する理解力や創造力・想像力を根幹的に欠如する、もしくは凶悪に捻じ曲げる、
のがお前らではないのか。
また、無教養で狭隘な主義者風情にはかけらも理解できんでしょうが、「どの面下げて」というのは剴切(非常に重要なこと)な問題であります。人間の顔というのはその人の考え方、生き方、思想、そういうものが如実に反映される。
目は口ほどに物を言う、という言葉もあるように、人間の顔というのは人間性が非常に表に出てきやすい。言うなれば、露骨に出てくる。無教養な人間にはそれが皆目見当もつかないが、バレていない、分かるはずもない、などと思っておるようですが顔をみればちゃんと出ている。それを昔から、「面構え」と言いました。
かつて、米国大統領リンカーンも、
「人間四十にもなれば自分の面構えに責任がある」
と言ったとか。
東洋思想が日常生活に息づいてなかった米国人ですら、教養ある人間からすれば人間の「面構え」は重要な問題であった。多分、誰でもそうだと思いますが、相応の苦労と、学問があれば人間の顔を見ただけで大体その人間が分かる。すべてとは言いませんけど、人は見た目では判断できない、などというのは、ただ単に人を見る目がないか、その人が超弩級の役者か、どちらかであります。そう考えた時に、いま日本にいる「ひとつ事にこだわる狭隘な主義者」共の面構えを思い返した時、見るに値するだけの面をしたものがどれほどいるか、考えてみるといいです。まあ、すぐに答えはでますけど。
ちなみに、わたしが今のところ前為政者ほどにすがっちを嫌っていないのは、前為政者は為した悪事もさることながら(すがっちが無関係なわけもないのですが…)、面構えが最悪であったからであります。どうにもあの面構えは見るだに虫唾が走った。しかし、今のところすがっちはそこまで凶悪な面構えではない。とはいえ、善人の面構えでもないですけどね。政治家に善良を求めすぎても仕方なし。
さらにちなみに、わたしが数ある政治家の中で面構えが好きな人が、原口一博さんですね。TVタックルの頃から好きでしたね。昨今あまりニュースで伺わないのでwikiを伺いますと、大病を患っているとかでご自愛いただきたいですね。昔から密かに期待しておりましてご発言を伺うと内容に一本、筋があると思います。立憲民主党が馬脚を現す前はわたしも投票したほど前政権打倒に夢を託したものですが、馬脚を現した後の立憲を抜けられたのは慧眼、と申すべきでしょうか。まともな人間ならあんなところにいられるはずがありませんからね。その点だけでも素晴らしいと言えるでしょう。かくいうわたしも、生涯で唯一投票した政党が共産党も霞むほどの極左政党でした~。てへぺろ~。
あと、TVタックルつながりで、昔から好きなのが河村市長ですね。あの泥臭さがいい。
どこぞの、表現の不自由でもめた知事とは面構えからしてえらい違いであります。この両者の面構えを見比べて、どちらに嫌悪感を感じるか、で人間の善し悪しが別れる、と申しても過言ではないのではないでしょうか。教養をきちんと積んでいれば、それは自ずと顔に出ます。見れば分かる。
教養という意味から180度真逆の人生を生きておるくせに「教養」を語るとは、さすが極左はブーメランが大好きだ。
まあ、わたしの好き嫌いはともかくとしまして。
「ひとつ事にこだわる狭隘な主義者」
風情には死んでも身につかぬ教養を、身につけるのも良いでしょう。というか、あんなのと同じになりたくなければ、教養を身に付けなければ自分自身に対して申し訳ないし、恥ずかしいのであります。もっと言うなら、死後、泉下のご先祖様に合わせる顔がありません。ここまで連綿と命をつないでいただいたご先祖様に対して感謝の念があるのなら、学問をするべきでありましょう。
ということでいつものように、孔子様にお伺いいたしましょう。
【子曰わく、その為す所を視、その由る所を観、その安んずる所を察すれば、人焉んぞ捜さんや、人焉んぞ捜さんや】
その人間の、日々の言動を注視し、
その人間の言動の根っこ、由来を観察し、
その人間が、何に得々としておるかを伺えば、
何者であろうと隠しようはない。必ず分かる。
とはいえ、狭隘な主義者はすぐに分かりますけどね。この度の「日本学術会議の会員候補の任命を拒否した」で、主義者の芸能人も騒いでおるとか。黙っておればいいのに、阿呆のごとく騒ぎ出すからすぐバレる。雉も鳴かずば撃たれまい……。
総括、の名のもとに壮絶な内ゲバやるような連中ですから、日々の言動からしておかしいのは当たり前。
ちょいちょい言われることですが、「ひとつ事にこだわる狭隘な主義者」の家庭からは凶悪な犯罪を犯す子が出てくるそうな。女子高生コンクリ事件にて、加害者の親は狭隘な主義者だった、というのはつとに有名なお話であります。
「子曰く、由、汝にこれを知るを誨えんか。これを知るをこれを知ると為し、知らざるを知らずと為せ。これ知るなり」
由(子路さんのこと)や、お前さんに、知るということを教えようか。
知っていることを知っているとし、
知らないことを知らないとする。
これこそが、知る、ということだ。
知ったかぶりをしない、というのも人間として生きるにあたって重要なことであります。
北が拉致を認める前、狭隘な主義者共は、北が拉致なんてするはずがないじゃん。とほざいておったのは周知の事実。知っていることを知っているとなし、知らないことは知らないとする。こんな常識すら捻じ曲げるのが狭隘な主義者というもの。非常識という単語を人間にしたら極左が出来上がります。
で、こいつら主義者共は、「死者や遺族たちに詫び」たことが一度でもあったでしょうか。
犯罪国家の犯罪を幇助し、助長し、応援した連中が、どの面下げて「教養」などとほざいておるのか。この一事を捕まえるだけでも主義者とは決して相容れてはならない存在であるということが分かるでしょう。
【或る人曰わく、雍や、仁にして佞ならず。子曰わく、焉んぞ佞を用いん。人に禦るに口給を以てすれば、屡々人に憎まる。その仁を知らず、焉んぞ佞を用いん 】
ある人が雍(仲弓さんのこと)さんを評価してこう言った。彼は思いやりがあるが、しかし弁舌さわやかではないね、と。
その事を知った孔子様はこうおっしゃられた。
どうして弁舌を用いる必要があろうか。人に対するに口先だけであたれば、しばしば人から嫌われるものだ。
彼が思いやりに満ちた人かどうかはともかくとしても、どうして口達者になる必要があろうか。
仲弓さんは孔子様のお弟子さんのお一人。彼のことを孔子様は「南面すべし」とそう評したとか。南面、とは古代チャイナでは君主の別の表現ですので、王者の価値があると認められたわけですね。
その仲弓さんのことで孔子さまが「その仁を知らず」とおっしゃった箇所を、「彼が仁者かどうかは知らないが」という訳文を当てるのはわたしには違和感がありますのでこういう言葉になった次第。
まあ、言うまでもないことでありますが、口先ばっかで行動がまったく伴わない。昨今、この国にはうっじゃうじゃいます。
【子曰わく、富にして求むべくんば、執鞭の士と雖も、吾れまたこれを為さん。もし求むべからずんば、吾が好む所に従わん】
金持ちになること、これが人間の最大の理想であるのなら、馬車の御者となろうともわたしもそれを求めよう。
しかし、そうではないというのならば、わたしはわたしの好きなことをするさ。
安岡先生はかつて、ロシアや中共に媚びへつらう連中に聞いたことがあるそうな。
どうしてお前さんは奴らのお先棒を担ぐのか、と。そうするとその人はまだ幾分素直な性質であったと見えて、
「その方が得だからさ」
と言ったそうな。
わたしも、中共の手先になることが人間の最高の徳ならばそうするでしょう。あとは、以下略。
【子曰わく、蓋し知らずしてこれを作る者あらん。我れは是れ無きなり。多く聞きてその善き者を択びてこれに従い、多く見てこれを識るは、知の次なり】
どうやら世の中には、きちんと学問を修めずして自論を立てて先生面するものがいるようだが、わたしはそんなことはしない。
わたしがするのは、たくさんのことを伺ってより良いものを選択し、たくさんの書から学んで見識とすることで学問を修めるための準備段階とするのだ。
この孔子様のお言葉の続きは、準備段階をきちんと踏んで、そして初めて、先生として自論を述べるのだ。ということでありましょうか。わたしは中途半端なことはしない。間違いのない下積みを経て、物を言うのだ。ということでありましょう。「かの佞者を悪む(先進第十一)」にあるように、孔子様は中途半端を嫌われます。
学問が出来上がってもいないのに大慌てで世に褒めそやされることを期待し、で結局馬脚を現して遁世するのが、古今たくさんおわす気がします。
一応、わたしは自分の学んだ学問が自分の中で腑に落ちるまで待って行動を起こしたわけで、それから物を申しておるので、そこまでおかしなことは言ってないツモリであります。もっとも「幸運の女神には前髪しかない(絵面を想像すると壮絶ですが)」と言う通り、そこまで待っておったら老いてしまって世にいでようがないわけですが、一時の軽薄な成功を望むか、永劫の安寧を望むかは、その人の好むところに従えばよいかと思います。
では最後に、タイトルにもなっておる一文を。
【孔子大司寇と為るや、朝すること七日にして少正卯を誅す。門人進みて問うて曰く、「かの少正卯は魯の聞人なり、夫子政を為して始めに之を誅す、失無きを得んや」と。
子曰く、「居れ、吾れ汝にその故を語らん。人、悪あしき者五有りて、盗窃は與らず。
一に曰く、心達にして険。
二に曰く、行い辟りて堅。
三に曰く、言偽りて辨。
四に曰く、記すること醜しくして博。
五に曰く、非に順がいて沢。
此の五者は人に一つ有るも、すなわち君子の誅を免るるを得ず、しかるに少正卯は兼ね之を有せり。 故に居處は以て徒を聚めて群を成すに足り、言談は以て邪を飾りて衆を營すに足り、剛は以て是れに反して独立するに足り、此れ小人の桀雄なりて誅せざる可らざるなり】
孔子様が魯の国で大司寇(警察庁長官と最高裁判所長官を兼ねたような最高位の職)になられた時、政治をおこなって七日目にして少正卯という者を処刑された。
それで、お弟子さんが伺った。
「少正卯は魯の有名人、人気者です。その者を治世そうそう殺してしまうのは悪評が立ちませんか」と。
孔子様がおっしゃった。
「よかろう、お前さんに訳を話そう。人間にはおよそ、悪人というものがおる。しかし、盗賊なんてのは実は大したことではない。本当に許すことができない悪が五つある。
ひとつ、色々と目端が利くくせに、心根が性悪である。
ひとつ、やることなすこと偏屈で捻じくれ曲がっておるくせに頑固だ。
ひとつ、何かと言えば嘘偽りが多い、そのくせ口達者で言い逃れをする。
ひとつ、様々なことを記憶しているが邪なことを世に広める。
ひとつ、悪事をなして悪人どもに恩恵を与える。
この五つは人間にひとつあっても君子の処刑を免れない。にもかかわらず、件の少正卯はこの五つを兼ね持っておった。だから、屋敷ともなれば手下が群れ集まり徒党を作る。言葉を発すれば人々を幻惑する。非常に剛強な性格をしておるから独立勢力を保持することができる。これは、つまらぬ人間の頭領となりうる者であって処刑しないでいられるわけがないのだ。
これは論語ではなく「荀子」、または「孔子家語」から。
これは実に恐るべきことでありまして。
少正卯はどうやら、無実の罪でとっ捕まって処刑されたかと思います。だからお弟子さんが、少正卯は魯の国の「聞人」、有名人、人気者であってこれをいきなりとっ捕まえて殺すのはマズいんじゃないっすか!? と言っておるわけですね。
それに対する孔子様のお言葉がすごい。
「人、悪あしき者五有りて、盗窃は與らず」
盗人だのは別段、どうでもいい。人間にとって許すべからざるものがある。これを少正卯は五つすべてもっておった、だから殺したのだ。と。
いわく、
色々と気配りができる、細かく神経を使って物事を円滑にすすめることができる、しかし、そのくせ性根が腐っておって行いが邪である。また、行いはすべて偏見と邪推に満ちて人の揚げ足とって喜ぶような性質で、容易に改めるということがない。また、口達者で虚説をたくましくし、舌先で言い逃れをして非難をかわす。また、様々なことを知っておって博識ではあるが、悪いことばかり広める、例えばジャーナリストとかTVや新聞を使って自分に都合の良いことばかり世に拡散する。また、徒党を組んで人を集めては悪事に邁進し利益をあげる。その数が多ければ多いほどその利益も大きくなって余計に勢力が膨れ上がる。
これは間違いなく極左イデオロギー国家、狭隘な主義者そのものであります。
だから有無を言わさずぶち殺してやったのだ、と。
これがどこまで真実かどうかはわたしにはわかりかねますが、ここで孔子様が行ったのは間違いなく、
「悪・即・斬」
であります。
明明白白な悪、国家を毒する姦賊に対して、ボロを出してから~とか、段階を踏んでから~とか、法の裁きを受けさせる~とか、そんな手続きだの建前だの一切無視し、すべてをぶっ飛ばして、いきなりとっ捕まえてぶっ殺しておられるようです。
これを、法治の概念もないような大昔だからこんな野蛮なことをできたのだ、と解釈する現代人は多いでしょう。ですが、これと同じことをやった物語がありまして知っている人も多いはず。「ダーティハリー」がそうですね。法とか組織とか規律とか、そういうのにこだわって悪を放置することのどこが正義か、とハリー・キャラハンはマグナムぶっ放したわけで、「必殺仕事人」だってこの考えですね。こういう考えは実は多い。
孔子様は許しがたい悪に対して、更生を期待して~とか、悔い改めることを願って~とか、人の命の尊さをわかってくれれば~とか、たわけた寝言はおっしゃらず、有無を言わさずぶち殺したわけです。何が善で何が悪か、きちんと見極められたからこその「悪・即・斬」なわけでして、現代人のように寝言ほざいていい子ちゃんぶっているから悪が改心などするはずもなく今日もぬくぬくとして、世を、人を、害しておるわけです。
さらに、いま見たお話が実際にあったことかどうかは分かりかねますが、次のお話は歴史的に実際にあったことと思われます。これは、「夾谷に会す」という、斉国と魯国の二ヶ国間外交でのお話。
斉の国の景公はこの会談で、魯の国の定公をどさくさに紛れて殺してやろう、と企みます。で、部下に命じさせて、
「請う四方の楽を奏でん」
地方の音楽をお聴きください、として「矛戟剣撥、鼓噪して至る」武装した集団がガヤガヤ太鼓だのラッパだの吹き鳴らしてやってきたわけです。それを見た孔子様は、
「吾が両君、好会を為す。夷狄の楽、何為れぞここにおいてせん」
両国の王が会談する神聖な場に、なにゆえ蛮族の騒音を撒き散らすか!
と大喝された。
一旦は引き下がった景公ですが、懲りずに部下に命じさせた。
「請う宮中の楽を奏でん」
雅な音楽はいかがでしょうか、といって「優倡侏儒、戯を為して前む」楽団だの、サーカス団だの、芸人だの、そういった集団をよこした。それを見た孔子様がまた、
「匹夫にして諸侯を營惑する者は、罪当に誅すべし」
つまらぬ連中ごときが地位ある我らを幻惑しようとは、その罪万死に値する!
として「手足処を異にす」
どうやら手足をぶった斬ったようです。それを見た斉の国の景公は、孔子ヤベーと震え上がってしまい、以前奪った領土を返還したそうな。
これを伺うと、やはり孔子様は明白な悪、謀略に対して寝言のようなヌルいことはおっしゃらず、果断に対処されたわけで、だから国を守ることができたし、魯の国の定公を守ることができた。
国を守る、国防、ということがどういうことか、分かるでしょう。
敵が明白に攻撃を、謀略を仕掛けているさなか、北は拉致なんてしませんよw などとほざくのがどれほど国を害しておるか。人間を、人心を惑わしておるか、明らかでしょう。これらを法治の名のもとに放置、するのがどれほど国家に対して害悪となっておるか、獅子身中の虫どころの話ではありません。敵国に破れたら、首をはねられるのは自分なのです。
孔子様がいまの時代の政治の舞台におわしたら、間違いなくこういった狭隘な主義者は「誅した」でしょうね。
もっと言うなら、こいつらが大好きな中共こそ、明確な敵を殺しまくっておるわけで、この日本が中共のような国だったら、真っ先に殺されるようなのが狭隘な主義者共なのであります。そう考えたら、天皇陛下のお写真燃やして気炎を吐いたって殺されることのない平和な日本に生きておることがどれほど幸せなことか。北で金日成の写真燃やしたらどうなるか、ちょっと考えたら分かるでしょう。天皇陛下のお写真を燃やしたって誰一人とっ捕まって殺されることのない、
「一定レベルの様々な分野にわたる知識や常識と、古典文学や芸術など質の高い文化に対する幅広い造詣」
を誇るこの国を、後々の世にも残すべく、手をこまねいていてはいけない、ということを孔子様は教えてくださっているわけです。とはいえ、軽薄な人間が迂闊に真似をすれば五・一五、二・二六の青年将校の二の舞となる、危険なことであることはもちろんであり、孔子様だからよく為し得たことであることは確かです。だからこそ、
「多く聞きてその善き者を択びてこれに従い、多く見てこれを識る」
きちんと学問をして孔子様の気概を、とっくりと学んでほしいです。この国と、自分自身を守るためにも。
と言ったところで今回はここまで。
したらば。
たびだちのうた・生きてくれ・本命盤 恨み舟 を聴きながら
高校生の頃狂ったように聴いたものですが「ふしぎの海のナディア」の歌も数あれど、年食って改めて聴きますと、この三曲が一番好きですねぇ。
たびだちのうた は純粋に歌がよい。
特に 生きてくれ の大塚明夫さんの美声はしびれますね。
本命盤 恨み舟 は30年経ったいまでもほぼ完璧に歌えますねぇ(見るならニコ道がオヌヌメ)。
悪いやつだと思いでしょうが~
したらば~