『切支丹研究』を読む ~後編のニ~
ビニール袋が有料になって久しい今日この頃。
有料自体はまあ、どうでもいいのですが、しかし、思うところがあるます。
コンビニとかでは最近はジャパニーズではない方々も多い。しかも、こちとらマスクをしている。だって、マスクをしてない奴は入るんじゃあねぇ(ジョジョ風)、って言ってるし、老子にも「人の畏るる所は、また以って畏れざるべからず」とあるのでマスクをしないわけにはいかないわけですが、この、「ビニールください」がどうにも伝わりづらい。
「買い物袋いりますか?」
「ください」
っていってるのに、店員さん、会計すませてぼへー。「え? 袋いるんですか?」って後から言い出す。いや、だからいるって言ってんじゃん! そっちがマスクしろって言って、しかもレジ回りはビニールで遮蔽して聞き取りづらいんだったらもっとちゃんと聞けよ! って本当に心の底から思う。店員に分かりやすくするために、子供みたいに大きくうなずかないといけないのかしらん。じゃまくせぇ。
しかも、会計すませているのに、その後から買わされた袋代をまた財布だして買うのが恐ろしくめんどくさい。ストレスでマッハ。
でも、最初から「袋いりますか?」って聞くのはまだましな方。上級者、スーパーとかになると、そもそも聞かない。そう、聞きゃーしないんすよ。買い物して、会計すませて、袋くれないから、「いや、袋ください」っていうと露骨に嫌そうな顔しやがるんすよ。
いやいや、「買い物袋いるんだったら先に言ってください」って先に言えよ! さすがに温厚を詐称するおっさんもイライラしますよ。ストレスでフォトン。
無料だった頃はむしろいらないくらいくれたのに、有料になった途端お高く留まるのは何?w 袋も商品になったんだったら無人レジみたいに最初から棚に陳列しとくとか、店員だけじゃなくて客側にもマイクを用意するとか、何か方法あるだろ。考えろ! って思いながら今日もこの暑い夏を乗り切るおっさんです。おこんばんはです。豊臣亨です。暑さのせいか愚痴から入ってしまいました。
では、
『切支丹研究』を読む。
引き続いてまいりませう。
さて、戦国の世になって、日本に数多の宣教師や商人たちがやってきて、様々な珍しい文物に日本人たちも目を輝かせたわけですが、その中にあって逆に迎えるだけではない、こっちから西欧にいってやろう! という若者たちがいたわけですね。今回はそんなお話。
「天正使節を歓迎した女性たち」 浜田青陵
「今日ならば猫でも杓子でも出かける欧州ではあるが、数ヶ月で一週することも出来る世界であるが、今から三百五十年ほど前、日本開闢以来はじめて欧州へ足を踏み出すのは、決して容易なことではなかった。
天正十年といへば、足利の季世(終局、終末)、織田信長が活躍してゐた時代で、ちょうど正親町天皇の御代である。その頃盛んに拡まった吉利支丹に帰依した九州の三人の大名から、ローマ教皇やスペイン皇帝に、布教の御礼かたがた、日本人の標本として、耶蘇会の巡察使ワリニャーノが帰国の序に、連れ出された五六名の青年は、実に日本最初の渡欧者、かつ遣欧使節だった。
今日こそ彼等に関する事蹟はだいぶん世間にも知れ渡ってゐるが、西教禁遏(禁止し押しとどめること)の三百年を通じて明治の初年までは、西洋の書物にこそ出て居ったれ、日本人の間には殆どまったく忘れられ、明治六年岩倉、木戸両公等が欧州巡遊の際、ヴェネチヤで彼等の書いた手紙を見て、支倉以前にそんな日本人が居ったかと、非常に驚かれたことであった。
(中略)
使節中の主席格は、豊後候大友宗麟ドン・フランシスコの使者として派遣せられた伊東祐益ドン・マンショで、宗麟の甥の子に当たる。次は有馬大村両候の使者である千々石清左衛門直員ドン・ミカエル、彼は有馬晴信プロタヂヨの叔父の子で、同時に大村純忠ドン・バルトロメオの従弟にも当たる。
この二人を正使として随員には肥前の侍、中浦ドン・ジュリアンと原ドン・マルチノとがあり、なほ無名の従者両名も居ったが、いずれも年の頃十五六歳の青年であった。
戦国時代のことゆえ彼等はすでに元服もすんだ一人前とは云へ、やはりいまだ子供には違ひない。彼等は天主のため君侯のためとは云へ、ただ名にのみ聞く遠西の旅に出かける決心は蓋し悲壮なものがあったに違ひない。
殊に伊藤、千々石両人は父はすでになくなって母のみ残ってゐたので、これを手離す母達の悲しみは一入であり、その一人の母は嘆きのためほとんど死なんばかりであったのを、ワリニャーノ師は、自分が彼等と旅行を共にし、必ず共に帰国することを誓って漸くのこと承知せしめたと云われてゐるのは、洵にさもあるべきことである。
(中略)
さてもポルトガルのリスボンに著ついた彼等は、やがて日本布教区の官長であるエヴオラのテオトニヨ大僧正に謁見し、心からの歓迎を受けたが、それより大僧正の実家である葡国第一の名族ブラガンサ公に招かれて、その山荘ヴィラヴィソーサに赴くことになった。
公家の当主はいまだ二十前後のテオドシヨ、二人の弟とその母公カテリナとが総出で一行を歓待した。
カテリナはスペイン皇帝の従姉で、昨年夫君と死別していまだ涙も乾かぬ四十前後の優しい女性であった。山荘に三日間の滞在は、いままで三年間耶蘇会の学林などばかり泊まり歩いた使節一行にとって、いかばかり家庭的の暖かい感を与へたか想像に余りある。城内は一切解放せられ、朝夕の食事も常に一緒にするほか、公は弟や家臣と共に一行を猟場へ案内し、野猪狩りを催し、また馬上槍的衝きの遊戯なども見せたりした。
殊にカテリナ母公はこの四人の青年を、肉親の兄弟か実子が遠い東洋の果てから帰って来たかの如き母性愛を以って待遇し暇あればそに手元に招き寄せ、自分の部屋も所持品もすべて気儘に使用せしめられたが、母公が愛情に満ちた一つの挿話が、真面目くさった耶蘇会の師父の記録にも残ってゐる。
それは母公が使節等に日本の衣装姿を見たいとの事に、これを著用して見参した処が、その一着を暫く借用したいと云はれ、それを借り受けて大急ぎで一日の中に、金襴の切れ地か何かで同じ様な著物を仕立てられ、これを使節等と同じ年頃の第二子エドアルドに著せ、前から所持の日本の太刀を佩かせ、次の日使節等に「日本の士人が来てゐるから御出であれ」と彼等を自分の室に招かれた。
これは意外と行って見ると、エドアルド公子が威儀を構へてゐるのであったので、一同驚きかつ興じたとある。
こんな戯れにも畢竟母公の彼等青年に対する切なる愛情を物語るものに外ならない。三日ののち彼等は名残を惜しんでこの地を出発し、愈々スペインに向かったのであるが、帰途にも是非立ち寄る様にと堅く契られ、一行も自分の家か母の許に帰る思ひをして、翌年十月下旬、ここに立ち寄ったのであるが、彼等が一年も立たぬ間に、見かはすばかりに成人し、まったく欧州の貴公子の様にリファインした有様を見て如何ばかり欣ばれたことであろう」
この時一行は重度の熱病に犯されたりもしましたが、スペイン皇帝フェリペ二世らの心からの看病で全快し盛大な謁見式を催されるに至ります。
「彼等はこの時白の薄絹に花鳥の模様を麗しい色で織出した上衣と同じ色の袴を着け、なほ上に羽織を被り足には革の足袋、草履をうがち、腰には螺鈿黒漆の鞘に大小二刀を佩びていた。
フェリペ二世は彼等を「従兄弟」と呼び一人々々を抱擁し、深い親愛を示されたが、当時王は四番目の后アンを喪ひ孤独であり、この式にも王后は現れてゐないが、王子フェリペ(後の三世王)と皇女イサベラ(十八歳)カテリナ(十六歳)はその式に列し、同じく一行を抱擁した。
この二人の皇女はかのコエリヨの筆になる可愛らしい肖像画に描かれてゐる姉妹であるが、恐らくはこの色の黒い東洋の公子の抱擁には聊か面喰ったことであろう」
可愛らしい肖像画、とあるからどんなもんかいな、とwikiを覗いてみますと、
「イサベル・クララ・エウヘニア」
「カタリーナ・ミカエラ・デ・アウストリア」
お二人とも髪が黒く描かれている……………………………
(´・ω・`)
(´・ω・,';,';,',
(´・ω,';,';,',
(´,';,';,',
(,';,';,
';,,
は、ともかく、スペイン皇帝への謁見式後、当時出来たばかりのエスコリアル離宮や、アルカラ大学、アリカンテの港などを見学後、イタリアに出発したそうな。
その道すがらではベルモンテの町を過ぎたところ、レオン夫人という耶蘇会の熱心な信者から歓迎を受け、アルコルサという糖果を送られたそうで、そのアルコルサは、ギターや鏡、聖フランシスコの胸像、ミサの書物を形にしたものだったとか。
日本でもめでたい場で、砂糖で鯛をかたどった「金花糖」を作りますがそのようなものであったとか。「金花糖」の元は「有平糖」という南蛮渡来のお菓子でwikiには、
「ポルトガル語のアルフェロアとする説とアルフェニンとする説」
があるそうですから、このアルコルサも、その親戚でしょうね。
また、一行はイタリアはピサにつきますと、
「イタリアでも最も勢力のあるトスカナ大公の領地であり、この時丁度メヂチ家のフランチャスコ大公は、その国都フィレンツェからピサに来て居ったので、さっそく謁見することになったが、その妃は文芸復興期時代における妖艶で名高い美人カペルロ・ビアンカである。
使節一行はこの一代女に見参し、その接吻を頂戴することになったのは有り難い仕合せである」
とか。
やがて花の都フィレンツェからシエナ・ヴィテルボを過ぎ、「老教皇グレゴリヨ十三世に盛大を極めた謁見式」があったが、急に教皇が崩御し、その後を嗣いだシスト五世の即位式にも参列した時には、「欧洲君主の使節同様の格式を以って歓待せられた」のだとか。
やがて二ヶ月あまりのローマ滞在をすませ、カムパニヤの野をよぎり、聖フランチェスコの聖跡アシジに参詣し、ペルーヂヤでは歓迎門を立てる騒ぎであったとか。そしてアドリア海の沿岸、ロレートのお寺に聖母の家を拝み随喜の涙を流したのだとか。さらに、各地を巡りいたるところ大歓迎を受ける一行に、ヴェネチヤ共和国では、お祭りを延期して一行に見せるほどであったとか。
帰途の途中も歓迎を受け、約束通り「彼等はもちろんヴィラヴィソーサに慈愛深いカテリナ母公一家を訪問することを忘れず、リスボンに著いた」が、船の出発まで数ヶ月かかるので、今度はコイムブラの大学、バタリアの僧院などを見学し、
「悲喜こもごもの情に満たされ、名残惜しい欧州を後にして帰国の途についたのは、一五八六年四月十三日のことであった。
再び喜望峰を廻って、モザムビクに五ヶ月滞在して臥亜に著いた時には、ここで待って居たワリニャーノ師はいかに喜んだことであろう。しかるに十一ヶ月船を待ってワ師と共に漸く媽港に著いた時には、思ひがけない悲報をここで受け取らねばならなかった。
と云ふのは、彼等の主君大友宗麟、大村純忠は使節等の帰着をも待たず、残念にも昨年すでに病没したこと、また秀吉が関白になって以来吉利支丹の迫害が始まり、耶蘇教師の入国はかえって不利なるべきことなどを伝へた情報であった。
それでマカオで待機してゐること十八ヶ月、漸くワ師は葡萄印度太守の使節として、四使節と共に愈々(いよいよ)マカオを出発して恋しい母国の港長崎に帰著したのは一五九○年七月ニ十一日、すなわち我が天正十八年六月十八日のことであった。
八年の長旅を無事に終わって、故国に帰った使節一行と十四五歳の子供が、二十三四の青年になり、しかもハイカラな洋服姿にかわって帰朝した使節等を長崎の港に出迎へた親戚故旧の驚愕と喜びとは果たしてどうであったか、実に我々の想像に余あるものがある。
千々石の母はその子を見分けることが出来ず、僅かにまづ千々石の方が大村喜前を思ひ出したとある。原、中浦の場合もこれと同じである。伊藤の母が遥々日向から一番遅れて馳せつけた時も、もとよりそのとおりであった」
恐らく、日本の風土にずっと住んでいた者と、八年もの間、日本を離れて欧州を見て参った者とでは、風貌からして相当な変化をしておったのではないか、と想像する次第であります。
時々、戦前の映像などがTVなどで流れますが、その当時の、赤ちゃんを背中に負うて授業を受ける子や鼻垂れ小僧と、現在の子供たちの風貌が、同じ血筋を受けた、同じ大和の血が流れる民族かと思うくらいに違って見えるのも文化の違いから人相にまで変化があったのであろうと予想する次第であるからです。でなければ、ある意味、たった八年経ったくらいで我が子の顔が見分けがつかない母がおるものか、と思うからであります。
また、彼等の語学力はどんなものであったのでしょう?
「最後に、彼等は欧洲旅行中言葉も分からず、定めし唖(またはあ。しゃべれないこと)の旅をしたことであろうと思ふ人もあらうが決してさうではない。
すでに日本にいる間多少外国語を学び、往航マカオ滞在中にはラテン語をはじめ、ポルトガル、スペインの言葉を習ひ、音楽をも修め、イタリヤに行った頃にはイタリヤ語も少しは話したとあるから、今日多くの洋行者とはよほどましである。最も彼等もやはり日本人で、食事はできるだけ日本風に近いものを取って居ったらしく、「一行は葡萄酒は飲まず、常に湯を飲んでゐる。肉はごく僅か食するのみで、鶏肉を最も好む」と報告したものがあり、「彼等は葡萄酒を飲まぬから接待費が安くつく」と本国へ手紙をやった外国使臣もあった」
とか。
さらにこんな一文も。
「この天正使節の後六十年ばかり、伊達政宗の使節支倉六衛門が、メキシコ廻りでローマへ行った時は、第一主君がいまだ奉教者でないため、ペルシヤやエチオピヤの使節同等の待遇を受けた上、通商のことを使命として居た中老の支倉、しかも多数の家来をつれて行った彼は、同行者ソテロに対する関係もあり、あちこちで内心嫌がられ袖を振られた風でもあり、この可憐な年少使節が到るところ可愛がられて、その歓迎は旅行中あとになるほどますます盛んになったのとは大した違ひであった」
とか。
熱心なキリスト教信者であり、将来有望な伝道者たるべき紅顔の美少年(?)たちと、キリスト教に対して敵対的で、キリスト教は禁止するが商売だけはしたいというてめえの都合だけを振りかざすおっさんとでは、そりゃ対応も心象も全然違ったものになったのは当然といえるでしょうか。
しかし、欧州の、世にときめく王者たちから熱烈な歓迎を受けた彼ら若者は、その後に華々しい活躍をなすこともなく、遣隋使や遣唐使などとははるかに隔絶した扱いを受けるのでありまして、日本はキリスト教を禁止するようになり、彼等は寂しく歴史に没することになるのです。
この時の、東洋日本と、欧州とが、確かに友好の架け橋をつないだにも関わらず、それがあっさりと断ち切られてしまったという事実を知りますとやはり、そこは物寂しい気も致します。ですが、この閉鎖的状況下での江戸時代の三百年近くが、近代における日本文化の隆盛に大きく影響したことは事実であり、明治以後、まるで欧州の出来の悪いイミテーションに成り果ててしまった、もっと言うなら東洋人だか西洋人だかさっぱり分からぬどっちにもなりそこなった現状を見ますと、日本文化の隆盛のためには、この戦国時代での西欧との途絶は、大きな意味があったのだと思うところではあります。
とは申せ、ラノベ的な妄想をたくましくするのなら、信長公以後、開港して世界に勇躍した日本が、東洋に対して、西洋に対していかに活躍したか、もしくは没落し西洋の一部となり果てキリスト教的悲劇の後に、いかなる文化を生んで極東に新たな歴史をつむいだか、例えば、イギリス領江戸の領主、トクガワ関八州伯爵とロシア領大阪の領主、トヨトミ近畿子爵の激戦などという妄想もラノベ的には楽しいかも。
戦国時代以降、西洋と関係を維持する、ということはこういう危険も多分にあったわけで、キリシタン大名というのはてっとりばやく言うのなら、日本にいるキリスト教徒の尖兵ということに他ならない。そのキリシタン大名がイスパニアなどの支援のもとにキリスト教国を建国しようと武装蜂起をする歴史も、危険性としてはあったわけで、この時、日本が世界の頂点にある鉄砲生産国である、大陸軍国でなかったらどうなっていたことか。
信長公が長篠の合戦で鉄砲の有用性を日本人に指し示していなかったら、世界の歴史もどうなっていたか。
さらに、日本人はその優秀さをもって欧州に驚愕を持って知られた民族であり、極東支配に当たって欧州がどれほど日本という島国に興味をそそいでいたか。「日英同盟」という世界史の奇跡は何も故無きことではないのです。
最強の武士を束ねる徳川家が、強固に西洋を排除しなかったら今頃日本はどうなっていたか。明治となった途端、我らが父祖が細心の注意をはらってえいえいと築き上げてきた文化や思想にツバ吐いて、隣の芝生を羨む如く西洋様に額づいてその後光をありがたがった人間が確かにいた(る)以上、いま以上に日本文化が地に塗れた危険性も、否定できないところであります。
とはいえ、日本史上初めて西洋に出向き、素晴らしい歓待を受けた若者がいた、という事実を我々は忘れるべきではないでしょうね。少なくとも、極東の島国からやって来た日本人を、同じキリスト教徒として、同胞として遇するだけの器量がこの当時の白色人種にはあったのだ、という事実を知っておくことは悪いことではないでしょう。
では、最後にこんな一節を。
これは筆者である長与善郎氏と、「私の母の末の妹の主人(煩を避けてただ叔父と書くことにするが)」とある松添慎一氏との会話がメインとなる一節なのですが、非常に知の香りのする文章でありけっこう楽しい文章です。
「切支丹屋敷」 長与善郎
「今日の東京文京区茗荷谷町九ニ番地という所の某家の門前に小さな石碑があり、それに「都史跡切支丹屋敷」と彫ってある。その文字の上に銅板か何か嵌めこまれてあったのが剥ぎ取られた跡が見えるが、ふと足を停めると、その傍にもういい加減古びた立て札が立っており、それにはこう記してある。
「もと宗門奉行井上筑後守正成の下屋敷で、正保年間に獄舎を設けて禁教である切支丹の信奉者を監禁したが、享保九年焼失して後、寛政四年に廃された。今も切支丹坂の地名が遺ってゐる。
大正七年五月指定 東京都教育委員会」
説明を加えるまでもないことだが、正保年間とは徳川三代家光の代、例の御前試合や、天草、島原の乱(一揆ともいわれる)などのあったことで有名な寛永二十年間の次の四年間の年号である。
すなわち今から約三百年前で、その島原の乱の平定と、切支丹(耶蘇教のカトリック宗徒)の徹底的とも見えた根絶、処分の手柄によって禄高四千石の目付役から一躍一万三千石の宗門奉行(最初の切支丹奉行)に取り立てられたのが井上筑後守である。
その飛躍的栄達を見ても、彼がいかに将軍家光の覚えめでたかったかが窺われるが、その井上筑後守なる人物の名前を、私はてんで知らなかった。それを初めて私に教えてくれたのは、私の母の末の妹の主人(煩を避けてただ叔父と書くことにするが)松添慎一だった。
叔父はもと東北大学で史学を教授していた変わり者で、二三の著書があり、それらの題名から推しても、彼の本当に専攻として打ち込んでいたのは、比較宗教史とでもいうようなものだったらしく想像される。幸い、そこばくの資産があったのと、零細な恩給とで、どうやら停年の後も食いつないでいたが、本は売れるわけがなく、実は私も全然読んでいないにひとしい。
しかし歴史には私もまんざら興味がないこともないので、歳の隔たりの大きさと仕事の違いにも拘わらず、親類の中では唯一といえる話し相手だった。殊に男女二人の子供がそれぞれ家を持ち、そのお袋であった私の叔母に先立たれてからは。身の回りの世話をやく代わりの人はいたものの、やはり淋しいためか、私が稀に顔を出すと大いに喜んで、好きな酒の相手に引き止めるのであった。
ただ彼の家が、私の住居とは同じ東京の中ながら端から端のように離れた巣鴨にあり、いくらか遠慮の気味と、――というのは、彼は余裕もないくせに、何ごとによらず妙に贅沢で、奢る癖があったからだが――私の無精とから、特に何か書きものに必要なことを字引き代わりに訊ねに行く位のほかは、無沙汰になり勝ちだった。
しかるに――もう十数年も前のこと――或る時、駒込へ能を見に行った帰途、私はふと思い出し、時間が悪いと思いながら、彼の所へ立ち寄った。叔父は「珍しいな」といって、相変わらず歓んでくれたが、その時床の間もない書棚ばかりの書斎の壁に、何か古ぼけた短冊の細軸がかかっている。何気なく近寄って見ると、
高麗ぶねの寄らですぎ行く霞かな
という句の下に、蕪村とあるのが読める。
「蕪村らしい洒落た句ですね。ちょっと絵みたいだ」
と私が評すると、
「まだ見なかったか。なに、書は本物じゃなかろうと思うが、古本屋が持って来て、存外廉いんで買ったんだ。それ、どういうところを詠んだものかと思うかい。君」
という。叔父のそういう調子には、私は子供の時から慣れている。
「どういうところって、これだけの叙景でしょう。ただ蕪村は画人だから、叙景にもどこか画人らしいところが出るでしょう」
「まあ、どうせ句だから、叙景と見ればそれだけで、後を問うことは要らぬわけだろうが、……その高麗ぶねというのはいわゆる南蛮の船で、朝鮮の船のことじゃなかろうね。それが、こっちの船着き場か漁港かに、普通なら寄りそうな所を寄らずに、すっと沖を通り過ぎてしまった。そういう叙景のつもりだろうとわしは思うのだが……」
叔父はそんなことをいった。
「なるほど、蕪村の時代はまだ鎖国がきびしかったから、南蛮船は寄りたくも寄れなかったわけですね」
「そうさ。そして、こっちの海岸の住民たちはまた、それが寄らずに行ってくれたんで、まあよかったと、胸を撫で下ろした。飲み水一杯でも呉れてやれば、すぐ役人にとっつかまって調べられるっていう厄介なことになるから」
「しかし、信者たちの頑固さはまた驚くべきもんですね。ぼくは日本人があんなに信仰に凝り固まれる国民だとは思わなかった」
私は以前切支丹関係の本を一つ書いたことがあるので、その位のことはその当時調べて知っていた。そのことが叔父には意外だったと同時に嬉しかったと見えて、急にお饒舌りになった。
「あの時分の民間の切支丹にはこういう迷信があったんだ。自分たちはたとえ殺されても、七代目か八代目の子孫の頃には、ばてれんやいるまん(同胞とか修道僧とか訳される)を一杯に乗せた黒船の船団が西洋からやって来て、日本を切支丹ばかりの天国にしてくれる、っていうね。
それっていうのはあのペテロやポーロが逆磔刑に遭ったりして殺されてから七、八代の後に、耶蘇教が公認されたばかりか、あんな立派なお堂がローマに建って、ローマ法王が各国の帝王以上の支配者になったっていう史伝を説き聞かされたためだろう、と思うがね」
「ちょうど今の共産党騒ぎとそっくりですね。今の左翼の連中はいくらかインテリだけに、あの当時の切支丹ほどの気概はとてもなさそうに思うけど、一方、特高課の役人たちの気ちがいじみているところも……」
私がそういったのは、叔父の一粒種の男の孫で、当時の帝大法学部の学生だった昇というのが、その少し前、「赤」と睨まれていた仲間と付き合っただけで、大学が警察から注意をうけて調べられたことがあったからでもあった。
「まったくそっくりだ」
叔父は一言答えて一寸席を外したが、すぐ戻ってくると、話をつづけ、
「それはまあ国の主権者ってものの気持ちは、たいていいつでも現状維持の保守的なものだというのがひとつの理由だな。ことに徳川の天下がようやく落ち着いたばかりのあの当時の幕府当局が、なんでも何か凶いこと、不祥な椿事が起きると、ソレ、また切支丹だと騒いで、みなばてれんや信者の仕業に帰しちまったのとまさにそっくりだ。せめて今の役人に井上筑後守だけの才覚と学問のあるやり手があれァいいんだが……」
それで、その筑後守とは何者か。逆さ吊りという残酷極まる拷問の苦しさに遂に降参して、幕府の目明かし役となり、沢野忠庵という日本名を名乗ったキリシトファ・フェレラというポルトガルの転びばてれんとは時代がちがう人かと、私が訊ねたことが、さらに叔父の膝を乗り出させる結果となった。
「ほう、沢野忠庵を知ってるのか」
(中略)
そして、ただそのフェレラが萩原という主人公に鋳物の踏絵を造らせることを考え出して、それが意外に神々しく出来すぎたために、萩原がとんだ誤解をうけて、信者と一緒に殺されたことは事実らしいが、と付け足した。
「……というと、それはフェレラが『顕偽録』を書いたよりおそらく大分後だな」
流石に詳しい叔父は頭をひねって、すぐさういった。で、ケンギロクとは何かと、私が訊ねたことから思ひがけない長談義になってしまったので。
「ケンは『顕はず』ギは『偽り』だ」
叔父はちゃぶ台の上で指で字を書いて見せ、
「耶蘇教は原始未開の古代ユダヤ人の迷信から発したもので、文明な今日から見れば、まるで荒唐無稽な嘘偽りで人心を惑わす邪宗だと譏った本なんだ」
「そんなものを書いたんですか」
私はおどろかざるを得なかった。
「フェレラ自身が、本心で……」
「まあ本心に咎めずに譏れる範囲で書いたんだろうな」
叔父はきざみ煙草を吹かしながら語を継ぎ、
「いや、転んだばてれんで、耶蘇教の神――デウスを否定した背教の書物を書いたのは、何もフェレラが最初じゃない。しかしフェレラは果たしてどの程度まで読みこなしたか。ともかく『太平記』を読んだというんだから、或るいはところどころ口述したのを例の有名な通詞の西吉兵衛(wikiによりますと、江戸幕府の世襲役人で公式の通訳者のこととか。歴代、西吉兵衛を名乗ったのだとか)あたりが書き写したもんかも知れんがね。もちろんさう書かなければまた拷問の責め苦だと脅されて、転んだ証文に書かされたんだろうが……」
「キリストは嘘を説いたと言ったわけじゃないんですか」
「まあ一寸読むと、そう言っているようにも見える。キリストその人は崇拝していながら、その教えは国を滅ぼすものだと非難しているような頗る微妙な書き方なんで、よほど疑い深く裏を読まんことには、芯底の所は判らんけれども、フェレラは天文、地理や医学などの自然科学の他に、アリストテレスの哲学や、儒教についても一応は研究した学者だったらしいから、旧約の神の天地創造とか、アダム・エヴァの原罪についてはもちろん、キリストの伝説の神秘化されている部分は理に合わぬ迷信だとしているのは、あながち心にもない嘘ばかりだったとも思えない。それでもぎりぎりの所の信仰は棄てずにおれるわけだからな」
「一見耶蘇教の誹謗と見せかけて、その実宣伝になるように書くことだって出来たでしょう」
叔父はそれに答える代わりに眼鏡をかけ、書棚を物色していたが、やがて古い日本古典集の中の一冊を見出すと、「たしかこれにあったと思うが……」と呟きながら、あちこちページを繰り、「うむ、これだ」といって、その『顕偽録』の序の終りを読んで聞かすのだった。
「ワレ若年ノ時ヨリ鬼支丹宗旨ノ教ヘヲノミ業トシテツイニ出家ヲ遂ゲ、長ラクコノ道ヲ日本ニ弘メント思フ志深クシテ、数万里ヲ遠シトセズ、日域――日本のことだ。――ニ至リ、コノ法ヲ万民ニ教ヘンガタメ多年ノ間、飢寒労苦ヲ厭ハズ、山野ニ形ヲ隠シテ不惜身命、法制ヲ怖レズ、コノ法ヲ弘ム。シカリトイエドモ日本ノ風俗ヲ見、儒釈(儒教に仏教)ノ理ヲ聞イテ……わが非を悟った。よって過って切支丹となりし者の戒めにこれを書くと……」
そう後を端折って、手渡された所を見ると、天川(支那媽港)のばてれんで、禅宗に帰依した沢野忠庵誌す。寛永十三年九月吉旦(吉日のこと)、とちゃんと筆で自署してある。
その序文だけ木盤のオフセット(wikiでは、平版印刷の一種。版からゴム布などに転写した原版で印刷するもの、とか)になっているが、キリシタンの「キ」は「鬼」の字、ばてれんの「ば」は「罰」という漢字を自分であてたりしている。
「何だか哀れですね」私はいった。「哀れだなんて思うのは、宗教と縁のない凡俗な感じ方かも知れないけど……」
「転んだことは哀れだ。ことにフェレラはたしかに教区管長という重職にあったばてれんの大物だから、その彼が拷問の責め苦に堪えかねてころんだばかりか、そんな怪しからぬものを書いたというニュースは、媽港や呂宋にいた同じ耶蘇会派の者はもちろん、あらゆる耶蘇教徒にとってでんぐり返るような大恐慌だったわけだ。それで天主教の名誉恢復と、信徒の激励慰撫の決死隊となって、さっそく続々長崎へ乗り込んで来ては、飛んで火に入る夏の虫と片端から吊るされたり、殺されたり、転ばされたりした殉教者の中に、アントニオ・ルビノなんという豪ら物(豪の者、かと)もいたんだ。ルビノから痛烈にやっつけられ、悔悛をさとされて、ひどく参ったというが……」
「それにしてもフェレラにその『顕偽録』を書かせて、通訳にまで利用したというのは、こっちの役人としてなかなか大出来は大出来ですね」
「それさ。それをやったのが今の話の井上筑後守なんだ。フェレラなんかは井上の手掛けたばてれんの中では皮切りの方だが……」
話し好きの叔父の話は、まるで堰が切れたようであった」
話はまだまだありますが、さすがに長いので失礼しまして。
こうして転向、棄教させられたバテレンの中には、イタリアはシチリア生まれのジョセフ・キャラ、wikiでは「ジュゼッペ・キアラ」もいて、もとシナ人の豪商の寡婦だった日本婦人を細君にして(wikiでは死んだ下級武士の妻を娶った、とありますね)岡本三右衛門と名乗り、東京文京区茗荷谷の切支丹屋敷で一生を過ごしたのだとか。またこの時、切支丹として処刑された日本人の遺児に長助、お春という官奴がおりまして、キャラの世話役につけられたそう。そして、このキャラもキリスト教にとって都合の悪い文章を命令によって書かされ、後、新井白石がそれを読んでいたのだとか。
で、その新井白石の尋問にあったのが、ヨワン・シドッチ、wikiでは「ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティ」でキャラも筑後守も死んだ後1708年に日本にやってきたのだとか。
そして、キャラの遺した本で勉強した新井白石とこのシドッチとの対談は『西洋紀聞』『采覧異言』として残っているのだそう。で、先ほどの長介、お春はこのシドッチから洗礼を受けて真の切支丹になったのだとか。
与謝蕪村の話からすごいところへ話が転がるものでありまして、こんなマニアックな話が尽きることなく後から後から湧いて出る、というのもさすが大学教授といったところでしょうか。筆者の長与善郎氏も白樺派の作家として活躍された方のようで、wikiをみますと一族そろって傑物ぞろいのご様子です。
で、やがて時代は戦中のことで、戦火が迫り長与氏は疎開されるわけですが、叔父、松添氏の疎開も気になされるのですが、いとこに当たる、「慎蔵、早苗」という兄弟二人が疎開を計画していたとか。
やがて、慎蔵と芳子夫妻と仲良くなった長与氏夫妻とで晩御飯を食べた時のことです。
「主人はお喋りで困りますわ」
ある日夫婦で来て、わたしたちが晩飯を共にするように引き止めた時のことだった。細君がメソジストの教会に行くことを私に話した慎蔵を怨むように、こう顔を赮らめてほお笑むところはまだ若いひとのようだった。
「南無阿弥陀仏を唱える代わりにアーメンというわけだな」
ちびりちびりとカストリ(wikiでは、粗悪な密造焼酎の俗称。酒粕を原料に蒸留して製造する「粕取り焼酎」が語源だが、本来の良質な粕取り焼酎とはまったく別のもの、とか)を傾けながら慎蔵が呟いた。
「昔だったらおたずね者だ。それもお前一人じゃなく、神、仏の信心とはおよそ縁のないこっちまで、亭主だというんで挙げられちまったろう」
「でも人が心の中で思ったり、信じたりすることを、国の政府の都合でご法度だ、と罪にされたり、殺されたりしちゃたまりませんわね」
そうまじめにいう芳子に私はつい馬鹿正直な学校の先生のような答え方をしないではいられなかった。つまり、それはむろん無茶ことだけれども、思想とか信仰とかってものは、自分一人だけのことならだれにもかれこれ干渉されることはないわけだが、それは自分だけではおさまっていられずに、何か他に働きかけたい性質を持っているからだろう、というような。
「おのれの欲するところを人に施せ、って言葉があるからな」
慎蔵が笑い顔でいった。「それに自分一人だけ救われればそれでいいっていうのは、キリスト教の精神に反するだろう」
「殊に政治が悪かったりして、苦しむ領民が多いとき、それに冷淡であり得ない人たちが大勢集まって、その信仰する神の名によって団体行動をおこすとすると、それはもともと時の政治に不満でおこった運動ですから、政府の方でも黙っていないで、弾圧処分に出るっていう……」
「社会の安寧秩序をみだすものどもだといってね」
私の言葉に慎蔵が註を入れた。
「ことに暴君ていうものは、時分のきめた法令に従わない者が一人でも国内にいるというだけで我慢が出来なくなるものらしいですからね」
「面子が傷つけられた気がするんだな。ことに家光なんかはそれがひどかったらしい。家光は馬鹿ではなかったらしいけど、極端にわがままで、思い上がった坊っちゃんだったから、天草の乱後、徹底的に征伐しつくしたつもりのばてれんがまだ二人江戸に潜んでいたことが判った時なんか(先の長助、お春のお二人かは不明です。お二人が洗礼を受けたのは家光没後のことですし)、日本全国が謀反しても、これほどには驚かないといって、怒り狂った。それでまた取り調べと検挙が一段とひどくなったらしい」
「しかし実際の所、どうだったんでしょう。ばてれん達はまったくただのキリスト教の伝道で日本国民を救おうという以外に、果たして何の他意もなかったのかどうか……」
「さあ、そこがこっちの一番疑い怖れた点だったわけですがね。ばてれんの中にはその国の政府の侵略主義に反対して、まったくひとえに異教国の住民達を救うことを自分の使命として実行して殺された立派な殉教者のいたことは確かに疑いない事実だけれども、中にはまた、いわゆる大の虫を活かすために小の虫を犠牲にすることをやむを得ない必要悪として、胸に十字を切りながら政府の侵略行為を支持した者も全然いなかったとも僕には信じられないんですが……」
「だって全人類が切支丹になるってことが彼等の理想でなければならないはずでしょう。ちょうどマルクシストが全世界を共産党の赤一色にしたいとのぞむのと同じで……」
ふふり。
ですよねー。期せずしてそういう結論もでますよねー。
まあ、ここにいうのは、キリスト教がやっていること、共産主義がやっていることは、期せずして同じことであった、と言っているだけで、キリスト教も共産主義も同じ! と言っているどこぞの主張とはまた少し違うわけですけれども。
ですけれども。少し考えれば、あれれ~おかしいぞ~?
やってること、結局一緒じゃね~?
と言いたくなる人も出てくるに決まっているんですよ。ええ。
しかしまあ、外にも、この文中で、聞き逃すわけにはいかない箇所が。
「神、仏の信心とはおよそ縁のない」
チミ、さらりと末恐ろしいことを言ってないかい?w
まあ、かつてのインテリのほぼ100%が共産思考に染まったといいますから、こういう発言があったとしても何の不思議もないわけですが。わたしは生まれた時から老荘思想家だったのでこういったイデオロギーのごときには何の魅力も感じませんが、幕末から、日本のインテリはイデオロギーが大層ご立派に見えたようです。
とまあ、日本におけるキリシタンの歴史などは信長公に保護されたとか島原の乱くらいしか知らなかったわたしにとりましてもこの本書は実に興味深い知の魅力に溢れた知識の宝庫でありました。
と言ったところで、
『切支丹研究』を読む ~後編のニ~
おしまい。
電脳コイル OP EDを聴きながら。
AIRは、もはや夏の風物詩と言ってよいと思いますし、夏の季語でもあると言い切ってよいかと思います。だからといってAIRで一句詠めや、とか言われますと困りますが、電脳コイルもわたしの中では夏の作品、というイメージがありますね。放送時期は5月~12月と、けっこう長かったのですけれども。作中が夏っぽかったかしらん?
しばらく「ボクサッチー、ヨロシクネ」が自分の中で鳴り響いてましたね。縦割り行政の弊害を教えてくれた傑作です。放送当時には内容が難しくて(たぶんいまでも理解できない)途中からホラー要素マシマシになって電脳世界コエー、が印象に残っております。あと、デンスケがまさかあそこまで重要な立ち位置にあったとは。ー人ー。
したらば。