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『切支丹研究』を読む ~前編~



 おこんばんはです。豊臣亨です。


 いつもの読む読む回です。ある日古本屋さんに入って、本書が棚にあったのですが、タイトルをみただけでテンション上がりましたね。迷うことなく手に取りました。別の言い方をすれば、タイトル見てから即買い余裕でした。んむ。イミフ。




『切支丹研究』 山田野理夫編者 鷺ノ宮書房 




 昭和43年発行とありまして、なかなか古本として香ばしい香りがします。


 日本に切支丹、キリスト教、別名基督教、もしくは耶蘇教、さらに天主公教が伝来したのがwikiにありますように、「1549年にカトリック教会の修道会であるイエズス会のフランシスコ・ザビエル」によって。


 戦国時代の幕開けともなってしまった応仁の乱が起こったのが1467年、応仁元年のこと。全国に影響力を及ぼした室町幕府も義輝公あたりになりますと、もはや権威も地に落ちた、の言葉通りで細川氏、三好氏の戦いでは京を捨てて落ち延びねばならないほど。そして、今川義元公が「今川仮名目録」に二十一条を追加して、守護大名であった今川氏が守護職、室町幕府の権威を根幹から否定し戦国大名への転身を宣言したのが1553年とのことで、日本にキリスト教がやってきたのがまさしく戦国時代のど真ん中、と言えるでしょう。


 キリスト教は様々な大大名が帰依したこともあって急速に戦国の世の日本に広まりますが、太閤殿下の伴天連(バテレン)(司祭を意味するパードレの和訛りなのだとか。はがれんではない)追放令を嚆矢としまして、豊臣家を攻め滅ぼした江戸幕府にあってもキリシタン排除を継承しキリシタン禁教令が発布。日本においては自家で拝むことも禁じられ、隠れキリシタンと言われる表面は仏教徒を装いつつも本心はキリストを拝む、という信徒まで現れ、幕末、改めて西洋から宣教師がやってきますと隠れキシリタンたちは涙を流して喜んだとか。


 当然、江戸時代にあっては迫害に次ぐ迫害。


 信徒たちはえげつない拷問を受けて棄教を迫られるわけですが、なんで日本においてはキリスト教はここまで苛烈に迫害されたのか。日本人といえば、舶来ものなら何でもかんでもありがたがって受け入れる性質があるのですが、何故為政者はキリスト教を危険視したのかという疑問は当然わきますね。


 また、真偽不明ながら、日本にやってきたバテレンは、何でも怪しげな黒魔術を駆使していたとか、日本人を人体実験に使っていたとか、などというウワサ話もあってそういうネタもあるのなぁ、とわくわくしながら読み始めたのですよね。


 結論から言いますと「切支丹研究」の中身としましては、様々な研究家の論文などから一部分を集めた真面目な一冊でありましてそんなイロモノネタはなかったのですが、江戸時代にあって隠れキリシタンたちはどんな信仰生活を生きていたのかとか、信長公は実はキリシタンだった!? みたいなのとか、日本にやってきて極悪な拷問に耐えかねて棄教してしまった管区長のお話とか、はてまた、「南蛮船の大きさ」とか、ん?w それキリシタンと関係ある?w みたいな内容もありまして実に楽しく読ませていただきました。最後の方の一文には、思わずニヤリとさせられるところも。


 では、早速ではございまするが、その中身を少々伺ってみませう。




「切支丹の小唄と伝説」 大庭耀




「茶講といって、ひそかに宗門役人の目を掠めて、月に両三度づつ大和尚(お水方。洗礼を授ける役)の家に会合し、聖像の前に祈祷を捧げた。ことに十一月冬至前後のキンタ(Quinta)に当たる日を、ナタリア(Natala)と唱へ、その前夜から、(とぎ)(お世話)をし、聖母マリア像の前に、生魚や酒などを備え、飼牛のある家では牛に米麦などを与へ、御子誕生の日を祝った。


 彼らは、信徒外のものを、ゼンチョ(Gentio)――異端者と呼びいやしみ、この世を楽むより、来世を(たの)んだ。


 正月には、必ず踏絵をさせられたが、踏絵後は水をもって足を洗い、この水をいただき飲んで贖罪を詫びた。また、絶対に市中へ花売りに行かなかった。花を売ればそれを倭仏に供える、それは、本尊マルヤ(マリア)さまに済まないといふのが、その理由である。また、死者の髪は、剃るのを嫌ひ、他見をはばかって、襟元をいささか剃り残し、葬式の後、死者の頭陀(ずだ)(頭陀袋のこと。修行僧が首から下げた。ツィマッド社のMSのことではない)を取り捨てた。頭陀袋をさげては、パライソ(Paraiso 天国)に入れないといふのがその理由である。そして、夜陰ひそかに、吉利支丹の儀礼によって、葬儀を営みなほすのが常であった。



 かうして彼らは、内密に吉利支丹の教へを信奉しつづけたが、その間にも、秘められた寂しい慰めとして信じてゐたのは、信仰の復活であった。


「七代の後には、かならずパーパ(Papa ローマ法王のこと)の船が、長崎に入って来る。その時は、縁先に出て、公然と大きな声で、祈祷ができる」


 彼らは、かう云った伝説を深く信じ、吉利支丹の復活を憬れ待ちつつ迫害を忍んだのである。


 さうした信徒たちの、憬れもとめるこころが、この小唄を生んだのである。


 彼らの信じてゐた伝説は、真実となって、文久(wikiでは1861年から1864年までの期間。慶喜公が後見職に就任するほどの幕末)に至ってに至って吉利支丹の教へは、日本に復活した。が固陋な一部の吉利支丹は、復活した旧教を信ぜず、昔ながらの言ひ伝へによる儀式をまもってゐるものが、まだ浦上地方に多く残ってゐる。「離れ」と呼ばれる信徒たちが、それである」




 実に興味深い文章ですね。


 聖母マリア像に、生魚供えるのがキリスト教徒として正しいのか、とか色々考えさせられる部分はありますが、一番驚かされるのが、幕末に、彼等が待ち望んだ、それこそ夢にまで見たであろう、まことの西洋からの宣教師がやってきたにもかかわらず、その教えを否定し、自分たちの独自の信仰を営んだものたちがいて、「離れ」と呼ばれていたとのこと。


 また、自分を愛するがごとく他人を愛せよ、という教えはともかく、自分たち信徒以外の人々を、異端、としていやしんでいたこと。


 長い長い迫害生活を生きるにあたって、そうやって自尊心を保たねばやってられなかったのでしょうが、なかなか興味深い内容であります。また、隠れキリシタンをあぶり出すために使われたのがかの「踏絵」でありますが、なんとなれば、どうして「絵を踏む」ことが罪なのか。なかなか摩訶不思議な次第ではありますが、これを考案した、とされる人物についての記述も。




「踏絵雑考」 松崎実




「パピノ師(Pere E. Papinat)の日本地歴辞典には、寛永十年(一六三三)穴吊の刑に堪へかねて転宗したChristovao Ferreira(転宗後禅門に入って沢野忠庵と称す。キリシトワン・フェレイラ。穴吊りという逆さにして吊るすという拷問を受け、あまりの苦しさに五時間で根をあげて棄教を宣言してしまったとか。同じようにとっ捕まり、拷問に処された中浦ジュリアンという神父はなんと、四日間も苦しんで死んでしまったそうな)が踏絵を発案したものの如く述べ、かつ享保元年(一七一六)に至って踏絵が制度として布かれたと記してある。


 この説はその根拠いづれにあるかが明示されていないので、にわかに真偽を判じ難いが、キリシトワン・フェレイラすなわち沢野忠庵が発案したと云ふ説には多少もっともらしい所がある。


 と云ふのは、前述した如く、切支丹は聖物尊敬の信条(十字架や聖像聖画を尊ぶのは七八七年の教会公会議、第七回会議でカトリックにおける動かすべからざる信条となっている)を固く守ってゐるために踏絵が最も有効な転宗証明あるいは宗門改めの手段となるわけだから、切支丹の信仰内容を理解してゐる者でなくてはこんな簡便有効な妙案はちょっと考へ出せない。そして信仰内容の理解と云ふことばかりは、外部から如何に探求してもせいぜい概念的知識を得るぐらゐに留まり、少なくとも一度はその門を潜って来た者でなくてはそんな妙案を考え出す源泉となるような活きた理解を持ってゐるはずが無い。


 当時の役人などはほとんど切支丹の信仰内容などには無知であった。たとえば彼等は切支丹を撲滅するにはただ伴天連や信徒を殺しさへすればいいと考へてゐた如き、明らかにその無理解を示すもので、身を殺して魂を殺し得ざる者を怖れずかえって基督の名のために命を致すことを喜ぶ切支丹は、教友が殺されればますます信仰に熱しますます伴天連の渡来を促すのみである。


 やっとこれに気がついて方針を変へ、殺すよりもヂリヂリと長く苦しめて背教させんとする手段を採るに至ったのは、長谷川権六(長谷川藤正。長崎奉行)や水野河内守(水野守信。wikiによると踏絵を考案した人物だとありますね)などを経て竹中采女正(うぬめのかみ)(竹中重義。府内藩主。竹中半兵衛さんの親戚)が長崎奉行に任ぜられて(寛永六年)からの事である。


 こんな大事にしてすでに然り、こまかい信仰内容に至っては彼等門外漢にはつひに暗中模索であったらう。


 それを考へると、踏絵が背教者沢野忠庵によって発案されたと云ふ説は、事実の徴すべきもの無くとも、さもあるべきが如く思はれる。


 もしさうとすれば、忠庵すなわちフェレイアの転宗したのは寛永十年(一六三三)であるから、踏絵が一般に行はれ出したのはその年あるいはその年以後からで、その後さらに享保元年(一七一六)に至って公式の法制となったものであろうか。ただし享保元年説は常識上から考へて遅すぎるやうに思へるが、今の所考証の便がない。

 

 ――ともかくかうして踏絵は以後毎年型の如く行はれて来て安政年間(1855年頃)にまで及び、安政四年正月の踏絵を最後として以後廃止された。廃止せられたのは、一方には在留外人等の抗議あり、一方には当路者がこの制度のすでに無効力なる事をようやく認めたからである。


 前述せる如く踏絵は後年に至っては全然その当初の意義効力を失却してゐたのである。


 さて踏絵が始めは切支丹転びの証拠に用ゐられて、後に切支丹改めの方法として用ゐられるやうになったと云ふ事は、長崎市史の記す所に間違ひあるまい。いったい切支丹はその信仰を偽って故意に切支丹たる事を秘したりあるいは背教を言明したりする事は、単に虚言の罪ならずまた贖聖の罪であるとしてゐる。


 前掲明治五年版「聖教初学要理」中の十誡の第一誡の解説の所に、


問。信徳 (ひです)(fides ヒーデス)の条々につきて何をして罪科つみとがに落ちるか。


答。ひですの条々につきて疑ひを起こし我は信徳ひですの御教をみな受けずして少し捨て奉れば罪科に落ちるもの也。


問。心のなかにひですの御教を信じて口にて計り捨てる事は如何。


答。外面ばかりにても信徳の御教へを捨て奉れば大きなる罪科なり。


 特に最後のいましめは潜伏切支丹を響導する上の編者プチジアン師の用意の程がうかがわれるが、と云って決してこの誡めはその当時だけのものではなく、今も昔も変わりはない。


 マテオ福音書第廿六(にじゅうろく)章の終りに、使徒ペトロが偽って己はナザレットのイエズス徒輩に非ずと三度衆人に公言して「かくてペトロ、イエズスが鶏鳴く前に汝三度我を否まんとのたまひし言を思ひ出し、外に出でていたく泣けり」とある。


 この中にすでに如上誡律の精神が現れてゐる。だから当初切支丹を判別すると云ふ事は決して困難な事ではなく、もちろん迫害に際しては隠れてはゐる事はあろうが、発見されてもなほ信仰を秘すると云ふ事はないので、まして表面仏徒を装ってひそかに切支丹を信ずると云ふ事は、信仰の堕落せぬ当初はまったく無かったと云ってよい。


 従って宗門改めの法として踏絵などを行ふ必要はなく。信徒が呵責かしゃくに堪えかねて転宗した場合、役人が口先の転び誓言だけでは満足出来ないので、信徒の平生尊崇する御影御像を足に踏ませてその背を立証せしめた、ここに踏絵の発端があると見るのは極めて至当な見解である。また旧記に載する所もこれを裏書してゐる。


 それが伴天連(司祭)や伊留満(イルマン)(修道士)が追放あるいは虐殺に遭って国内に影を断つに至ってからは信徒がまったく響導者を失ひ、文章の教ふべきものもなく、加ふるに迫害はますます厳しいのでようやくその本来の信仰が退化して来て、つひに少なくとも表面だけは仏門の帰依者を装って内にひそかに禁制の宗門を奉ずるまでになった。


 ここにおいて転宗証明のための踏絵は転じて宗門改めの法となったと云ふ事は、極めて自然の径路であらう。


(中略)


 ここで疑問の起こるのはこの祐佐作踏絵(ネット記事によれば作者は鋳物師の萩原祐佐とあります。真鍮製で薄肉彫で耶蘇あるいはマリアの聖像で二十枚作った所、あまりの出来の良さに祐佐は切支丹ではないかと疑われ殺されたとか)の宗教的価値である。


 信者の所有してゐた聖像聖画類ならたいてい司祭(伴天連)の祝福によって聖別されてあるはずで、従って単に聖影を表すから尊いと云ふばかりでなく、天主の代理者たる司祭の祝福があると云ふ上からも尊いとされ得べく、そこに二重の宗教的価値を持つわけになるが、祐佐が踏絵を作った頃はすでにまったく伴天連のおらぬ時代だから、その踏絵が祝福によって聖別される道理はないので、字義通りに聖別としての全価値をもつかどうかは疑問である。


 と云ってもちろん、それだから踏んでもいいと云ふわけではない。


 故意に踏んだり汚したりすれば贖聖の罪となるは云ふまでもなからう。けれども彼等潜伏切支丹の場合は、己が意志から出るのではなく、事情止むを得ず苦盃を呑むの思ひをしつつ踏むのである。したがって、踏むことそれ自身が贖聖の罪とはにわかに断定出来ない。もちろんそれを踏む事は自分が切支丹ではないと云ふ意思表示を意味するわけだから、その点ではすでに天主に対して罪を負うてゐる。


 けれどもそう云へば、すでに表面仏教信者を装って平生己が信仰を隠してゐる事が罪なのだから、踏絵によって新しく罪を得るとは考へられない。


 では何故に浦上あたりの潜伏切支丹は踏絵の後にコンチリサンの祈を誦へたり、踏んだ足を洗った水を呑んだりしたか。前述せる如く彼等はすでに長い間信仰生活の教導者を全然失ってゐる。島原乱後はまったく伴天連は刈り尽くされ、頼むべき宗門の書籍とてなく、あっても用ゐる事はできず、ただ父祖の口伝へによって維持して来た信仰なのだから、教義に対する知識も理解も分別も退化するを免れなかった。


 ゆえに、踏絵に使ふ聖牌が聖別されてあるか否かを考へる分別のあらうはずもなく、すでに仏徒を装ふ事に背信の罪を負ふべき事は顧みないで、ただ伝統的に踏絵だけを悪い事と考へてゐたのも無理はあるまい。踏絵の後にコンチリサンと行ふと云ふ如きも、そこになほ信仰の活きて働いている証左は見るべくも、教理の上から考へると、随分をかしな話である。


 云ふまでもなく、コンチリサンは葡語 Contricao で、「完全なる痛悔」といふ意味、例の明治五年版の聖教初学要理にも、「これを略して、こんちりさんと云ふは、犯したる罪科をば、真実に深き後悔と以後再び罪科を犯すまじくと堅く思ひ定むる事なり」


 と説明してある如く、二度と犯さぬと云ふ覚悟がなければコンチリサンにならない。


 所が踏絵は毎年の事で年に一度はどうしても避け難く、従ってこれぎり犯さぬと云ふ保証も決心も出来るはずはないから、踏絵の後のコンチリサンは意義をなさぬ事になるのである。


 話はだいぶ岐路に入ったが、要するに踏絵は信者から没収した聖牌を板にはめ込んだものと、祐佐が新たに作った真鍮板のものとだいたい二種に分かたれ、その多くは今なほ博物館に保存されて、ありし日の悲しいしかし美しい詩を物語ってゐる。


 遊女の足に踏もまれ、非人乞食の足にも踏まれ、背信の徒の足にも踏まれて、しかも今は国宝として珍蔵されてゐるこの踏絵は、馬小屋に生まれて三十三年の生涯を卑賤と迫害との中に送り、最後に盗賊と共に十字架に磔殺たくさつされて、しかも復活して今は全世界にその光輝を遍照しつつある基督その者の運命と何んらか一脈相通ずる神秘があるやうに思へて面白い」




 これを読んでまず一言。


 煽りおる。


 といったところでしょうか。これを見ておって明らかなのが、表面は仏教徒を装い、たとえば観音菩薩をマリアに重ねて拝む、などという行為は、そもそも背教的行為である、ということですね。


 しかし、教えを受けるはずの宣教師も、司祭も、経典もすでにそのすべてを欠いてしまった隠れ切支丹に、そういった理非曲直を判断するだけの基準すらあるはずもないのであるから、父祖伝来の教えを行事化して行うほかはなかった。それらを罪の意識として攻めるべきではない。さりながら、彼等は自分たちの犯している罪を自覚し、コンチリサン、もう二度と罪は犯しません、と宣言しながらも毎年の行事として踏絵は行う。「教義に対する知識も理解も分別も退化」してしまった隠れキリシタンの悲しむべき行いということでありましょう。


 そうして、様々なものに足下にあった踏絵、きちんと聖別すらなされていないような程度の、どこぞの鋳物師が真鍮でつくった程度の代物がいまや博物館に国宝として珍重されている。一体、どこの誰がそんな代物を「国宝」にしようなどと言い出したんでしょうかねぇ。


 という凶悪なまでの皮肉を感じるのはわたしだけではないでしょう。しかし、そう考えますとこんな末恐ろしい筆致の文章をよもやこの「切支丹研究」に収めようなどと思ったなぁ、と思う次第であります。では、なにゆえそんなキリスト教が江戸幕府から嫌われるに至ったのか、もありますので見てみませう。




「南蛮貿易と吉利支丹宗門」 村上直次郎




「慶長元年(一五九六)の八月下旬、イスパニア( )(今のスペイン)の大船が一隻、土佐の裏度に漂着した。


 同船はサン・フェリペ号と称し、ルソンからメキシコに航海の途中屢々(しばしば)暴風に会ひ、大破したので修繕を加へるため針路を変じ我国に来たのである。


 同船漂着の報が秀吉の許に達した時、某ポルトガル人からイスパニア国王の領土の広大なのは、まづ宣教師を派遣して土人を基督教に帰依させ、しかる後兵を出し内外あい応じてその地を征服するによるものであるとの密告があり、またルソンの使節として渡来したフライ・ペドロなどが京阪に布教してゐるのも、今回船の来たのも、みな慣用手段に出る準備であると聞いて大いに怒り、船及び載荷は没収し、宣教師などは京阪の市街を引き廻した上長崎に送ってはりつけの刑に処しなほ各地の宣教師の退去を命じた」




 というところから始まるわけですね。その後、太閤殿下は交易は許可するも、宣教師がやって来ることは固く禁止することになります。で、太閤殿下になりかわって天下を差配した権現様、家康公は当初はメキシコとの通商を求めておられた。


 で、紆余曲折を経て、独眼竜正宗公の家臣である支倉はせくら六右衛門常長がフライ・ルイス・ソテロと共にメキシコに渡ることとなる。そして、通商の許可を得るべくイスパニア、今のスペイン、次いでローマに行き、法王パウロ五世に謁見、通商の便宜を図ってもらえるようにお願いします。ですが。




「法王パウロ五世も亦非常に之を歓迎し、希望通りに通商を許し宣教師渡航の途を開くことをフェリペ三世に依頼したが、耶蘇会が激烈な反対運動をなし、又マニラ及びマカオの商人からも反対の陳情があったので、イスパニア政府はついに貿易を許さぬことに決し、家康に送る書翰も商船派遣の条を削りただ両国の親交を喜び、宣教師の保護を請ふことに改めた。


 耶蘇会が反対した理由は始め日本宣教は法王の命令で耶蘇会に限られてゐたのを、フランシスコ派が使節の名を借りてマニラから入国し、宣教師の殉教後法王に請願して布教の公許を得たことがすでに面白くなかったのに、メキシコ貿易開始のあかつきには斡旋者たるフランシスコ派が家康の信用を受け耶蘇会を凌ぐ勢力を得るに至るを恐れたからであった。


 支倉なども大いに努力したが、イスパニア政府はついに通商の許可を与へなかったのでメキシコに渡りルソンを経由して元和六年(1621年)に帰朝した。メキシコ貿易開始の計画はついに失敗に帰したが、この間に日本船が四回太平洋を横断したことは忘却すべからざる壮挙である。


(中略)


 フィリッピン諸島長官が家康の希望に応じて浦賀に船を出したのも、ドン・ロドリゴがメキシコ貿易開始運動を引き受けたのも、家康の歓心を買ってオランダ人を放逐させるのが主たる目的であった。


 オランダ商館設立後、慶長十八年(1614年)には英国東印度会社の使船が来て幕府に請ひ有利な条件で通商を許され、これまた平戸に商館を設け、葡西両国( )(ポルトガル、スペイン)の競争市場に蘭英両国( )(オランダ、イギリス) 人が加わり、本国が互いに疾視し、宗教上にも相敵してゐた国柄であったから、幕府は再びイスパニア政府の野心を疑ひ、基督教の根絶を期するに至ったが、豊臣時代二回の追放令はほとんど効なく宣教師はキリシタン大名の領内に隠匿されたに鑑み、慶長十八年全国に禁令を発し、各地の宣教師を長崎に集め、これをマニラとマカオに送り、また元高槻(たかつき)城主高山南坊(なんぼう)(高山右近)内藤如安(にょあん)(昨今はじょあん、と読みますね)など有力なキリシタンをマニラに流した。


 次いで宣教師が商人に仮装して入国することを防ぐため、従来江戸、京都、大阪、堺などで直接取引を許してあった蘭英商人を平戸長崎に押込めたが、フランシスコ派の宣教師は殉教の栄冠を得るため公然布教しまた競って入国する有様で、マニラ市においても、我国との貿易断絶を恐れ長官大司教などから同派に渡航見合わせを説いたがその甲斐なく、渡来する者が絶えなかったので、幕府は寛永元年(一六ニ四)ついにルソンの通商を禁じた。


 幕府はこの断固たる手段を取ると同時に、基督教の盛んな地に仏寺を建て名僧を招いてキリシタンを改宗させ、如何に勧めても信仰を捨てない者は厳刑に処したが、耶蘇会の方でも対策を講じマカオやマニラのコレヂヨ(宣教師育成学校)で日本の青年を教育したうえ本国に送って布教させてゐたので、寛永八年(一六三一)には特許の奉書船以外海外に渡航することを禁じ、寛永十年にが外国に居住した者は、五年以内に帰朝した場合に限り十分詮議のうえ入国を許し、その他はことごとく死刑に処することとしたが、なお十分な取締が出来ないので、寛永十二年には日本船の海外渡航を全然禁じ、また外国から帰朝するものは悉く死刑に処することにした。


 ついで寛永十三年には長崎にいた西葡(せいほ)(スペインとポルトガル)両国人とその血族あわせて二百八十余人を放逐し、貿易に従事するポルトガル人少数を残し、新たに港内に築いた出島に置き、厳重に監視することにした」




 で、さらに言いますと、かの島原の乱の背後に耶蘇会やポルトガルの影響が疑われ、ついに幕府はポルトガルとは断絶、耶蘇会は諦めきれず宣教師を送り込むも発見即死刑、の有様だったとか。


 まあ、ここで見ますと、耶蘇会とフランシスコ派の足の引っ張り合いがついに元も子もなくしたという感無きにしもあらずですが、こういうのは歴史を伺いますとそれこそうじゃうじゃ出てくる事例でありまして、古来、人間のやることに何の変化もないということでありましょう。


 しかし、こうしてキリスト教は日本からその影響を駆逐されたわけですが、某ポルトガル人とやらが太閤殿下に密告したのも、事実を述べたことでありますので、戦国末期の日本においてイスパニアのスパイが駆逐されるのも当然といえば当然でありましょう。この頃は周辺国に配慮しないんですか? と聞かれなかったわけですからうらやましいお話ではあります。明治以降配慮しまくりなわけですからね。


 また、「殉教の栄冠を得るため」とか、「如何に勧めても信仰を捨てない者は厳刑に処した」とありますように、日本にやってきたキリスト教徒たちはまったくもって死を恐れなかったし、キリスト教徒になった民草が、信仰を捨てるぐらいなら死を望む! とか言い出すのはやはり厄介なわけです。その恐ろしさは権現様だって骨身にしみてご存知であったわけで、かつて信長公が、


「進者往生極楽 退者無間地獄」


 進めば極楽、引けば地獄の旗印で、死を恐れぬ一向宗に苦しめられたのはとみに有名です。ってか、信長公が一番苦戦したのが一向宗門徒との戦いであったことを考えれば(対武田戦は慎重の上にも慎重を期したものの、対一向宗戦はちょっと相手をなめていた感はなきにしもあらずですが)、一向宗門徒に劣らぬ武闘派の宗教が新たに興ることの恐ろしさは改めていうまでもない。三河一向一揆で「友」と呼んだ本多正信さんを一度は失った経験がある権現様に分からぬはずはありませんし、危惧しておったらいきなり島原の乱で証明されてしまった以上、そりゃ徹底的に弾圧するでしょうね。


 では続きまして、信長公は切支丹だった!? 的な文章を。




「切支丹伝承」




「日本の築城法は、切支丹伝来当時我国に伝えられたもので、現に「シロ」なる語はドイツ語Schlossを移した言葉なるべく、その以前には「キ」と云った。(渡辺修二郎氏『内政外教衝突史』)」




 どしょっぱな興味深い文章から始まります。一応、名誉のために筆者の名は出しませんw 城をシロといったのはドイツ語からきているのだ、というのもなかなか興味深いですが、日本の近代築城は西洋からやってきたのだ、というのも素晴らしい。その割には西洋の築城と日本の築城で似通った部分はこれっぽっちも感じないのはわたしだけでしょうか。




「信長すでに京畿近傍十余国を領し、近江に安土城といふを築きて、城の中央に天主と名付けたる櫓を設けたり。楼閣の高さは九丈余(1丈は約3.0303メートルなので約27メートル?)、下には七層の石垣をめぐらし、その結構誠に土木の美を極めし程に、築城の制是より一変して四方の武人みな城中に天守閣を建てたり。天主閣とはもと天主といふを祀りたる楼閣にして、天主とは西洋諸国にて祀る神の名にて、その神を説く宗門を天主教ともまたは切支丹宗とも呼べり」(高見博士『日本文明史』)」




 日本でデウスを天主、と言い始めたのは明治以降であったかと聞き及んでおりますが、戦国時代にもうその呼び名があったとは、驚きであります。ならどうして宣教師たちはデウスと言っておったのかその訳をその博士とやらに伺いたい気はいたします。




「信長は起工に先立ってフロイスを奈良に迎へ、松永久秀をして築城上の意見を質せしめた天主閣の内部は金銀朱泥を施し、本丸に大天主、小天主を祀ったが、これはキリストやマリア像を掲げたものと推定される」




 信長公は切支丹だった!?


 …ここらでよかろうかい。


 他にも、江戸城開城のさい、官軍は江戸城の宝を接収したが、そこにはメッキの十字架があった。それは、キリスト教禁令の幕府にあってすら天主櫓には十字架を安置していたのだ。しかもそのメッキの十字架は燦然と輝いて目を射抜くようであった、とかありまして、200年間死蔵したであろうメッキがその輝きを失わなかった、とかどんなオーパーツかと思いますね。


 まあ、至極真面目な本書においては、なかなか素敵な妄想も収められてあるわけで、たわ言師のおっさんも顔負けです。


 と、今宵はこれまでにしまして、続きは次回に。


 したらば。





 松平直子 - 今日から友達 


 中司雅美 - わたしのつばさ


 を聴きながら。

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