8月14日のおっさんのたわ言
おこんばんはです。たわ言退屈男です。
「ええい、この右手の陰徳線が目に入らぬか」
的な。
まあ、かくいうわたしも、あんまり「旗本退屈男」ってしっかり観た記憶ないんですけどね…。どれどれ、とwikiを見ますとほとんどわたしが生まれる前の作品なのですね。そりゃ観てないはずだ。
「無役ながら1200石の大身」
「身長五尺六寸(約170cm)というから当時としては容貌魁偉な大男」
「剣術の達人で「諸羽流正眼崩し」という無敵の技を習得している」
「武芸十八般に通じ、軍学にも明るい。しかし太平の元禄の世にあっては自慢の技を振るう機会に恵まれず、「退屈で仕方ない」が口癖」
「清廉潔白な性格で、権力の腐敗を憎み、相手が将軍でも直言を厭わない。一方で下々には慈悲深く、庶民とも気さくに交わるため、江戸っ子からは「退屈のお殿様」と呼ばれ親しまれている」
とありますように、ラノベに出て来そうないい主人公っぷりですなぁ。まあ、物語に求められる主人公像は古今かわりなしということでしょうね。しかし、無役、つまり無職で1200石って相当の高給取りでして、一石=¥75000とかいう情報もありまして、つまり、9000万の年収? ちょっと設定としては恵まれすぎ?w
まあ、それはともかく。
今回のたわ言はごく一部方々へ向けたたわ言です。なのでお読みいただく価値はほぼないので、お時間もったいのう存じますのでそのまま閉じることをオヌヌメいたし候。
と、トチ狂った断りの言葉を入れたところで。
昨今、「ゴー宣ネット道場」を見ておりますと、高森明勅先生意外はほとんどコロナネタしか取り扱っておられませんね。いい加減な情報を垂れ流し、人々の恐怖を煽り視聴率だけ稼げればそれでよい、という昨今の玉川徹らごときが妄言垂れ流す「羽鳥慎一モーニングショー」に怒りを覚えるのは、確かに十二分に首肯しうるところではあります。
ですが、あえておっさんは思う。諫言する次第であります。
このご時世、そんな雑魚相手にしている状況であろうか?
と。
どだい、マスコミが妄言垂れ流すのは今に始まったことではない。マスコミ、という存在それ自体が妄言の権化のような存在であるからして、マスコミから妄言を取り除くともはや何も残り得ない、と言い切っても過言なような、過言ではないような、といったところであると現代人は痛感するところでありましょう。
さらにいいますと、他所様はともかく、もはや日本においてはコロナとは風邪以上インフルエンザ未満といった、流行性感冒の親戚といった存在に成り果ててしまった以上、ネタとしてはパンチが弱いところでしょう。まあ、これが例によって例のごとく突然変異を繰り返し致死率50%以上とかになったらなんですが。
こういう、妄言垂れ流す存在というのは、古くは老子でも、
【下士は道を聞きては大いに之を笑う】
下らぬ人間は大いなる本質を目の当たりにすれば、バカにして笑うものだ。
と、老荘思想家は理解しておられる。だから、続けて、
【笑わざればもって道と為すに足らず】
下らない人間に笑われるくらいでないと本質とは言えない。
と言われるのであって、そういう存在はそういう存在なのであって、未来永劫、絶対に変わることがない世界の本質のひとつなのであります。未来永劫、妄言垂れ流すことしかできない存在なのであります。
だから、孔子様もこうおっしゃったわけです。
【民はこれに由らしむべし、これを知らしむべからず】
民衆に本質を理解させるのは難しい。だからこそ、本当の為政者たるもの、信頼によって導くのだ。
とおっしゃる所以なわけです。民草というのは確たる定見もなければ思想も、学問もない。だから、妄言垂れ流されればそれに流されてしまうのも仕方のないところ。だから、為政者たるもの、民が、あの人の言う事なら間違いはない。ついてゆこう、と思われるような存在にならねばならない、とおっしゃるわけです。情報というものはどうしたって虚実が入り混じってしまうが、為政者として確固たる人間性を養っておけば、情報ごときに惑わされることはない、ということであります。
2500年前も、今も、妄言垂れ流す人間、
【巧言令色、仁鮮し】
言葉巧みに飾り、上辺だけ糊塗する。そういう人間に思いやりはまずない。
【祝鮀の佞ありて宋朝の美あらずんば、難いかな、今の世に免れんこと】
衛の国の神官の佞言か、宋の国の貴公子の美貌がなければ、今の世で出世するのは難しいだろう。
という人間は消えることはない。絶えることはない。
そういう人間が現れるのも世界の本質であると理解できるのであります。アリにしたって働きアリと働かないアリが存在するのも、働かないことによってもしもの時の交代要員となるのだそうで、いろいろな存在があるのも世界の本質からすると何らかの意味があるのでしょう。そう、理解したときに、そういう存在を相手取るのは思想家としての正しい方途であろうか、為すべき職務であろうか、と愚考するのであります。
かくいうわたしも最近ニダ星人のことをネタにするのも嫌になりまして。
もうもはやど~でもいい存在であります。むしろ最近は、寄生虫に脳みそ乗っ取られたカタツムリ程度の存在だなぁ、くらいの認識です。キモさがどっこいどっこい。反日という寄生虫が中でブニブニ蠢いているのでしょう。
その位置にいる人間は、その位置にいる人間にしかできないことがある。
だからこそ、古来、偉人はその思想を書として残されたわけです。書、とは、ゲーム的にたとえますと、経験値なのです。
その時代の、その世界の、その人だからこそ、起こったこと分かったこと、体験し思考しその果てに昇華しえた思想の精髄を、残したものが書、なのであります。だから、書を読むということは、少なくともその書を書いたお方の経験値を得ることができるということなのであります。
書を多く読めば読むほど、その時代の人々の経験をいただけるというわけです。
だから断言できますが、ラノベなんて万巻読んだって人生にはゴミほども役には立ちませんが、古典を読んでおけば人生の様々な場面で脳裏にひらめきます。わたしもラノベが好きなので高校生あたりから、「スレイヤーズ」やら「無責任艦長」やら大喜びで拝読させていただきましたが、我が人生経験上、ここぞという時に脳裏に蘇ったことなどほぼないです。創作物は永劫現実には関与できません。
ですが、古典ならその時がくれば脳裏に蘇ります。その一節そのままではなくても、そういえばあんな言葉があったなぁ、という風に思い出して、その時の言動に大きな指針となります。特に論語は言葉が簡単で覚えやすいから、何かと脳裏をよぎります。小なりと言えど、その時の孔子様の経験をいただけるのだ、と思えばこれほど嬉しいことはありません。
例えばでいいますと、わたしはこれこの通りの性格なので、よく世にあって孤立するのですがw ですが、孔子様のお言葉が脳裏に閃くわけです。
【郷人の善き者これを嘉し、その善からざる者これを悪むに如かざるなり】
村にいる、善人からは好かれなさい。悪い者からは嫌われなさい。
これを読んだ時、どれほど我が意を得たりと膝を打ったことかw それ以降、誰に嫌われても気にしないようにはなりましたね。少なくとも、善人に嫌われたことはないはずですし、善人に嫌われるかも? と思いながら行動したことはないです。
本当の学問とは、人生の要所要所で指針となりうるものなのです。
思想家とは、「これに由らしむ」存在であらねばなりません。「信」の一字です。マスコミには、この「信」の一字という概念すらない。だから、嘘も垂れ流すし捏造もするし、真偽不明な情報だって得々として流せる。そんなことばかりしておるからもはや現代においてマスコミを重要だと思うものがいなくなってしまった。
真偽不明という点では大差ないネット記事の方がまだ心情として許せる、といえるほどに。
だから、このようなワイドショーのごときを相手にするのはニダ星人を相手にするのと同じくらい不毛な行為だと理解してほしいですね。
むしろ、朱に交わって赤くなる、
ミイラ取りがミイラになる、
くらいに認識すべきかと存じます。
「下士」をいくら相手にしたところで、「下士」は永劫「下士」であり、それが成長して「中士」になるわけもなければ「上士」になるなどありうるはずがない。
時間の無駄。ほどほどで論破しておいて、自分のなすべきをなさねばなりません。孔子様が、
【斉、一変せば魯に至らん。魯、一変せば道に至らん】
斉の国が心を入れ替えればわが国、魯と同じになれるだろう。魯の人々が心を入れ替えれば本質に至れるであろう。
とおっしゃったのは理想を謳われたのです。
現実が必ずしもそうではないからこそ、その大理想をおっしゃられたのであります。
確か、ゴー宣道場は同志を国政に送る、ということを大目標として掲げられていたはずでして、その大目標を成し遂げるにあたって為すべきことはそれこそうじゃうじゃあるはずであり、それなのにワイドショーのごときを相手にしておる余裕があるのか、と伺いたいとことであります。そりゃ、仕事として金儲けもある程度はなさねばならないでしょうが、マスコミの虚偽、いい加減を暴いたところで、いまさら感満載な気もしないでもないですしね。マスコミがいい加減なのは万古不変のマスコミの宿業でありましょう。
それこそ、NHKだの朝日だの会社ごとぶっつぶすくらいの勢いでやるのならともかく、ただワイドショーのいい加減さを責めたところで何も変わりなどしますまい。
いまこそ、大局的見地に立って、国家の大方針を指し示すほどの見識を発揮せねばならない。
日本人が欣然として仰ぎ見、「これに由らしむ」ようになる存在になることのほうがよほど重大であり、よほど建設的な仕事であるとわたしは確信するのであります。そして、それを為しうるだけの能力はあるはずであり、それに邁進することなくコロナごとき、「下士」ごときにかかずらっているようでは言っていることとやっていることが真逆ではないか、と諭吉も白眼視しかねません。
アベノマスク二世誕生か!? のニュースが流れた時にはさすがに全日本人が唖然呆然となったこのご時世だからこそ、確固たる見識を具えた思想家の登場がまたれるのであります。
イソジンと言われて大慌てて買いに走ったり、ちょいと昔はロックダウンと言われて都内の食料がごっそり消えたりと、為政者の発言で人々は動くものなのであります。だからこそ、確固たる定見あってさらに影響力あるものがこの国には必要なのであります。
どうか、ご自身が掲げたはずの大使命を今一度把握し、物事の軽重を今一度見つめ直していただきたいとたわ言退屈男はそう直言いたしますが、如何。
ちなみに、以前胸囲を計ったら98cmでしたが最近は大台の100cm
腹囲は以前の104cmが健康診断時、大台割って98cm
体重は83.4kgですが筋繊維もそれなりの%を占めておるはずです。
分厚い皮下脂肪のその下に、確かにシックスパックは息づいているのです。ぐへへw