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「創造主」「被造物」に見る精神性 ~付記~



 おこんばんはです。豊臣亨です。


 付け足し。


「創造主」「被造物」という(かぎ)る、という線引き、区別による精神性。これは西洋を根幹から貫くものであるようです。


 人間と、自然を画然と分け隔てる。たとえば西洋における公園といえば人為的な作為をふんだんに巡らすことで有名です。これみよがしに豪華な噴水を作り、整然と区画を分け、樹木を真四角に切りそろえて時には迷路を作り出す。


 東洋ではそうではなく、東洋古来の公園にあるのは噴水ではなく滝や川。樹木や巨石の配置にいたるまで、いかに人為的作為を消し去るか、に心を砕きます。自然の一部を切り取るのが大好きでして、盆栽にしたってコケを配しその一鉢に自然そのものをいかに表現できるか、がとても楽しかったりします。


 田園風景にしたって、自然と人家を画然と切り取るのが西洋式ならば、自然と人家を融合させるのが東洋式。


 この、画る、というのが西洋の性質ですね。


 たとえば、学問。


 学科の一覧というwikiをのぞいてみますと、



「健康心理学科

人間心理学科

人間発達心理学科

心理人間学科

心理臨床学科

臨床心理学科

発達臨床心理学科

心理・社会学科

社会臨床心理学科

心理情報学科

心理カウンセリング学科

心理・社会福祉学科

美術学科

美学芸術学科

美学美術史学科」



 ずらっと並びますがこれでもたった一部です。なんでもかんでも分け隔て、細かく分類する。画然の最たるものでしょう。医学にしたって、その人体の部位や症状ごとに科目が分かれ、



「内科

消化器科 - 循環器科 - 呼吸器科 - 腎臓科 - 内分泌科 - 糖尿病科 - 膠原病科- リウマチ科 - アレルギー科 - 血液内科 - 神経内科 - 心療内科 - 感染症科 - 腫瘍科」



 とあるように内科、だけでもわらわらありますね。


 これら、ありとあらゆるものをカテゴリー化して区別したがるのが西洋式といえるでしょう。


 東洋では真逆の精神作用が働きます。


 太極図をみれば明らか。wikiにも、



「太極(=無極)から陰陽、五行、乾坤男女、万物と生成される過程が描かれている」



 とありますように、すべては根幹から生ずる、という認識です。アニメでもちょいちょい出てくる、一は全、全は一、という考え方もこの東洋古来の考え方ですね。ちなみに、人様のブログをみておりますと、この一は全、全は一、という考えはキリスト教的な考え方だ、と書き出しながら中身を伺うと神とわたしは同一、といいだしてどうにも仏教的な説明に入ってゆくのはおもしろいところではあります。


 東洋ではむしろ、分けない。区別しない。すべてを同一、すべてを同質と考えます。陰と陽が巡り巡ってこの世界を、万物を構成している、と考える。


 論語や仏典にしたって、そこに政治学だの、経済学だの、文化哲学だの、民族学風俗学だの、薬学だの、分けようと思えばなんぼでも分けられるが、分けない。論語を人によっては円珠経といったように、円かに、珠のごとくすべてを照らす教えだとしたように、何でもかんでも画ればよいのだ、という風には考えない。すべてを包み込む、すべてを飲み込む、そういう器の大きさを古来東洋では大事にしてきました。


 陽と陰にしたって、実は東洋では陰の方がよいと考える。氷山の一角、というように影に隠れたるものこそが本質であり、陽は有限にすぎないが、陰は見えない分無限、と考える。


 そして、春夏秋冬が巡るように、すべては巡ると考える。


 種が春には芽吹き、夏に最高潮に進展し、やがて花をつけ、種となって冬を越すように、すべては連環する、巡ると考えた。


 だから、東洋では心も体も一体のもの、ひとつのもの、同じものだと考えられた。


 だから、その考えはやがて、神も仏も我々も一緒。即身成仏、という考えに至った。


 神や仏という、超越的、超俗の存在が世界を、人類を(うしは)く(支配する)、知召(しらしめす)(統治する)、と考えるのではなく、




【天地の為に心を立つ】




 我を生んでくださった天地への御恩、天が行う創造化育、慈悲に報いんがためにも、心を立てるのだ。我が心を天地のごとく磨き上げるのだ。という一体感、精神向上をなさしめた。


 つまり、悟り、という考えも、この天地万物との一体感を表すものなのでしょう。


 凶悪な生物であり、未来には「じょうじ」と言い出すGにおびえるわたしには一生悟りは無理っぽいですが、古来、東洋人は神や、仏、天地万物との一体感、一は全、全は一、という統一、混融、同化という考えがあったわけです。


 天地と我は一体、と考えるからこそ、天と地の創造化育の力が偉大で、無限の慈悲があると考えるからこそ、そこから生まれたる我を同等のものにせねばならなかった。天地の偉大なる徳に比べて、我が身がどれほど情けなく、劣った存在であるのか、と考えるからこそ、東洋人は古来、精神を磨き上げてきました。


 (あきた)らない、自慊(じけん)す、という思想こそが東洋思想の本質といえるでしょう。




()も人なり我も人なり】




 孔子様の第一の愛弟子である顔回さんはこういって、自分を常に叱咤激励されたとか。


 ()、古代の名高い偉大なる帝王も、つまりは人ではないか。ならば、同じ人であるわたしにだって同じことができるはずだ。


 という血を吐くようなこのお言葉は、まさしく、東洋人の精神性といえるでしょう。



 しかし、西洋ではついに、悟りという精神性は現れなかった。それを気がつくことはなかった。


 心と身体は一体のものである、という認識も現れなかったし、


 やがてすべては循環し、根に戻る、という概念も現れなかった。


 だから、西洋では武道と宗教はついに一体のものになることはなかった。


 子供の頃、ドラクエなどをやっていたから、モンク、という武闘僧もキリスト教には普通にあるのだと思っていましたが実はそんなものは西洋にはなかった、と知った時にはすごい意外に思ったものでした。言葉の意味としてはモンク、とはキリスト教における修道士のことですが、しかし、修道士といわれてモンクを連想することは難しいかと思います。特に日本人には。


 武闘僧と言われれば、おっさんは少林寺という映画が印象深いです。


 少林寺拳法とはインドから禅をチャイナにもたらしたお貴族様である達磨大師が開山した少林寺でおこった武術でして、何で禅から武術になるのかはさっぱり不明とのことですが、ことの成り行きはともかく、またTVや動画などを見ておりますと大道芸まがいのものが多い気がしますが、心技体の一致を目指す仏教修行であります。


 西洋では、ついに今に至るもこの、心と身体は一体である、という考えは現れなかった。


 だから、剣はあっても道はないし、弓はあっても道はない。紅茶はあっても道はありません。


 日本人は、どこから入ってもそれはやがて道に至る、本質に至ると考えたし実際、剣禅一如という悟道に至りましたが、西洋ではついに、剣や、槍、弓や茶、華道に書道と、所作、ひとつの流れから本質に至る。本流にたどり着く、という認識は現れなかった。フェンシングというスポーツはあってもそれは精神修行などでは到底あり得なかった。まあ、フェンシングの剣豪はおわしたでしょうが、剣聖は現れなかったのでは。


 心も体も、武術も宗教も、すべてを画る西洋では、これらを一体とする見方は今に至るも発達しませんでした。


「創造主」「被造物」と画るという精神性は、つまり、東洋的な、


 天地万物と我を一体化し、天地無限の創造化育、無限の慈悲に己を同一化せしめるという精神を、ついに醸成することはありませんでした。


 天地と我が同じもの、同質のものである、と思えるからこそ、天地が万物を生み、そだて育み、進化させる、生命の進化がやがてそれが人に至ったのだ、という、天地がありがたいからこそ我も天地のごとくならねば申し訳ない、情けないという、天地の為に心を立てる、心を磨き上げるという精神性を確立することは叶わなかった。


 だから、あっさりとデウスは自らが生み出した原初の子、アダムとイブをさくっと追放する、などという神話を想像してしまった。そう、想像する精神性であってしまった。


 気に食わない人類なら粛清して可なり。


 という創造神を想像するに至ってしまった。


 そう考えるのなら、これがどれほど哀れなことで、どれほど可哀想なことか。そんな精神性がどれほど惨めで危険なことか、と思うべきであり、慈悲として武士の情けとしてそれを諭すなり諌めるなりするべきでしたが、何故か、西洋に詣でた東洋人たちは、そういう本質的な部分ではなく、西洋の表面。


 絢爛豪華な文化や、陸蒸気に興奮し、電気に狂喜した。金儲けに血道を上げる金満主義に感奮興起した。


 そういう日本人の有様に落胆したのは、その当時では西郷隆盛公他、ごく少数であった。


 そして、今に至るも東洋人は、己のご先祖様が磨き上げた精神性や純粋さを唾棄し、西洋様を遥拝し心の底までそれに染まった。米国様というご主人様の命令なくては朝鮮民主主義人民共和国を、北、とはついに言えなかった。



 この有様に、なんとも思わない。



 のが今の精神性であります。



 「きみたち日本人は腹が立たないのか」ってチェ・ゲバラでなくても言いますよ。そりゃ。





 AIR 「鳥の歌」「青空」「Farewell Song」を聴きながら。


 う~ん。わたしの中ではこのAIRこそが人生最高の物語なのであり、ハリウッドが何十億ついやしたってAIRの足元にも及ばないのですが、そもそもの認知度が低い気がしますね。


 考えますと、AIRの最大の失敗は、やはりPCのエロゲ出発であった、ということでしょうね。それだけで相当色眼鏡がかかりますし、もっと言えば、製作者さんたちは最高の感性を込めたことは確かなのですが、その分、かえってそれを受け取る側にもそれなりの感性を要求する作品になってしまったのも、認知度が低い原因でしょうね(なろう小説に古典の一節をぺたりと貼り付けるくらい物好きがいるのと同じくらいアンバランスなものとなってしまったことは否めないと思いますw)。


 まあ、知る人ぞ知る、という名作も味わい深いものですが…。


 では、今宵はこのあたりで。したらば。

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