浪人考
おこんばんはです。豊臣亨です。
と題して考えてみませう。
いまどきの日本で、浪人とか正気の沙汰ではないですがかつての幕末~明治にはこの浪人がわんさかといらして、実際に日本に多大なる影響を与えたことは事実であります。
今日はそんな浪人について安岡先生よりうかがってみたいと思います。
今回もただただ抜粋するだけですけどね(笑)
では、老荘思想家のおっさんは語りたい。
書は「経世瑣言」致知出版から。
p54 名士と浪人
「蜜柑を剝きながらふと明の劉基の売柑者言を思い出した。
杭州の有名な蜜柑屋から高い代金を払ってわざわざこの蜜柑を買って帰ったところが、その美事なやつを剝いて見ると、これはしたり中は敗絮の様になっている。とんでもない誤魔化しものを売る奴だと大いに憤慨した挙句、出かけて詰問すると、蜜柑屋先生、平然としてそんな筈はないという。よしんばそうであったとしても、お前さんは蜜柑だけ怒ってすむか。
今の世、大臣でも大将でも皆見てくれは立派だが、果たして中身の確かな者があるか。民は困んでも救うことが出来ず、部下が悪くても禁ずることを知らず、穀潰しの恥知らずが沢山いるではないかと怪気炎だ。蜜柑を食いながらこれを考えて苦笑した。
何時の世も大官名士に案外見かけ倒しが多いことは事実である。とにかく普通者では大官名士になれるものではないが、大官名士になってしまうと普通者以下に返らぬとも限らぬ。朝早くから面会人がつめかける、来翰書類は山積する。その多くが鶏鳴狗盗の徒であり、油断のならぬ駆引であり、求田問舎の話である。
顔が広ければ広いほど、病気見舞だ、葬儀だ、結婚式だ、歓迎会だ、送別会だ、慰労会だ何だかだと日毎夜毎に忙しい。
静座深省することもなく、巻を開いて語る暇もなく、道人雅客と閑談する余裕もない。余程自ら警めて、平生修養に心がけ、良友に交わる様につとめていなければ、たちまち堕落は免れないであろう。たとえその間職とする所の事柄に精通しても、畢竟一小事務的智識才腕に過ぎない。国家の大義に関しては茫々然として得る所なく、人生の深処などに一向触れるものがない。
ここに浪人なる者がある。世を挙って官庁会社銀行商店等の何かに属して肩書きを着け棒禄を得ようと焦るなかに、これを潔しとせず、汎々然として遊行し、口を開けば天下国家を論じ、大官名士を歴訪しては放論高言し、青櫓に相会しては時勢を憤り権貴を罵って快とする。
不可思議にも彼らの或者は、働けど働けど尚食えぬを歎ずる世の中に無職無産にして大廈高櫓に住し、傲然自家用自動車を駆り、或いはまた陋巷に窮居しながら、壮志常に大臣大将を夢みている。
妻妾に衒い、部下に驕る大官名士もこの種の浪人は頗る苦手である。或いは青蠅の如くこれを厭い、或いは蛇蝎の如くこれを忌むもさて如何することも出来ない。
しかし静かに思うに、名士と浪人はこれ実に天の配剤である。驕慢無知なる名士を惊然として省みさせ、懼然(たぶん笑)として慎ませる者は浪人である。
『一犬形に吠ゆれば百犬声に吠え、一人虚を伝えて万人実に伝う』これ浪人界の常事である。
戦国策にも説く通り、市中に虎のおらぬことは明らかであるが、二人三人と言いふらせば到頭市に虎でも出してしまう。
その半面にまた、無為無策な名士に何か情報を齎し、経綸を授けるのもやはり浪人である。彼等の多くはとにかく一片の気骨を備え、仮にも天下国家を念としている。
彼等には蝟集する俗客もなければ、煩瑣な部下もない。事が無くて、閑がある。故に悠々と国事を謀り、策略を運らすことが出来る。自由自在に活躍することも出来る。且つ彼等といえども衣食の計を講ぜねばらなぬ。但し公然衣食の為に生活することを愧ずるが故に、何か国事に奔走してその間に衣食しようとする。ここに於て益々真剣に国事を講究し、これが為に奔走する。堂々たる大官名士の晴れの芝居の楽屋裏にとんだ人物のおる所以もこの処に在る。
名芸術家は一切の裡より美を現ずる。名政治家は浪人を活用せねばならぬ。浪人を活用すると否とは政治家として人物の大小を決定し、時に大いに国運に影響する。
しかしながら炯眼なる士にはもはや言うを須いぬことではあるが、浪人と交わり、浪人を用うるには、あくまでも道を以てせねばならぬ。世の為政者に告ぐ。かかる時静かに戦国策を論語を併せ読んで省発せられよ」
p84 浪人
「この次いでに附記したいのは浪人のことである。
近来著しい社会現象或は政治現象の一は浪人の不振である。以前は警視総監や警保局長、内閣書記官長を始め、そういう方面の役人は浪人との応接に余程心身を使ったものである。
この頃はそれが非常に少なくなった。これは大変進歩である。世の中が善くなったのであるという観察も少なくない。然し私は決してそうは思わない。
いかにも昔から鶏鳴狗盗といって、つまらぬ思いつきや芸当で面倒をかける浪人が真面目な政治家や事務家を悩ますことは困りものであろう。そういう者を無くするのは善いことに相違ないが、その為に浪人を一般に嫌って、政治社会を事務化してしまうことは鶏鳴狗盗的浪人の排除ぐらいと相殺されない重大な政治的損失である。
浪人はとにかく物に捕らわれない自由さ―――不羈の精神を持っている。
これはやはり国民元気の一現象である。
そうしてこれが局部的事務と形式主義の人々の企て及ばない色々の名案名策(時に迷案であり迷策でもあるが)に想到し、勤務の束縛もないままに、自由に飛び廻って、その実現に努力し、その間に折衝する官吏や有志家を忌憚なく賞揚したり、激励したり、罵倒したりして、一種の政治的風雲を作りもすれば、時に当局と気合がかかると、とても官吏の出来ない、それこそ活動を演じて、微妙な官民の融合を成し遂げる。
場合に依っては国と国との間にも偉大な業績を揚げることもある。こういう浪人の効用を解する国士が官ばかりではない、あらゆる方面にいなくなった。これは一寸人の気のつかぬことではあるが、政治の萎縮だと思う。今後の日本にはもっと浪人の使える為政者が出ねば駄目だ。肩書きがなければ安心して面会もようせぬ様な眼識も度胸もない人間ではとても活きた政治をやれるものではない」
p100 時世と人物
「おしなべて現代政治家の根本的弱点は、その余りに人を知らぬこと、人を持たぬこと、人を見ぬこと、人の使えぬことに在ると思う。
政治は畢竟人を動かし、世を動かすことである。従来久しく個人主義流行の世の中であったから止むを得ぬが、今出世して居るのは特別に心がけの善かったような人々ならばいざ知らず多くは要するに、試験に及第すること、何かの職に就くこと、職に就けばその中の儕輩を泳ぎ抜けて出頭すること、その職のエキスパートつまりは熟練工乃至技師たるより以上の努力をしたものではない。だから下積みの間はよいが、上になるに随って困ったことになる。
平生己を虚しうして勝れた人物を物色し、これと道交を結んで置くようなことをして居らない。そういう心がけも養われて居らず、それだけにそういう目が明いていない。
そこで、一旦、顕要の地位に就いても、大切な補佐役はおろか、使令の役に供すべき秘書役一人心から許せる者を持っていないということになる。それで如何して世と戦って、真に事を成就してゆけるであろうか。
そこで自然取巻きに舁がれるようになる。佞人に取り入られるようになる。正しい、気骨の有る人物は遠ざかって、本当のことが分からなくなる。自分は焦って努力するが、効果は一向上がらないばかりか、却って逆に失敗を招くに終るというのが常である。
過日も、明治天皇が御愛読になったという『宋名臣言行録』を耽読して、人物を鑑識するに長けていた名相の張詠が薦用した者は皆、方廉恬退の人物であったという条に今更ながら肝銘した。
つまり、事に当ってきまりのある、物を欲しがらぬ、平気で浪人の出来る人物のことである。彼は、人と出世を競うて奔り廻るような人物は自分で何か獲得するだろうから、何もわしが薦用することもない。こういうものは己れを曲げて事え、媚び諂い、人に知られようとする。もし之を挙用すれば、必ず才に誇り、利を好み、推薦者に累を及ぼすことも少なくない。
人を用いるには好く身を退く者に限る。そういう者は必ずや廉謹で恥を知る。之を挙用すれば忠節愈々堅く、失敗がないと語っている。
有名な諫官の劉贄の上奏に、人才は得難し。臣嘗て士大夫の間を歴観するに、能否一ならず。性忠実にして才識あるは上なり。才高からずと雖も、忠実にして守り有るは次なり、才有れども保し難く、借って以て事を集すべきは又其の次なり。邪を懐いて観望し、勢に随って改変するは小人なり。終に用うべからずと云っている。卓見である。
今の世も流行の転向者など、果たして幾人が信を置くに足る人物であろうか。多くは此れ小人ではあるまいか。それにも拘らず、功を好んで思い上り易い。当路者が軽々しく迎合した転向者を自己の功績のように錯覚して、漫りに之を挙用するようなことがあれば、国家のために危険この上もない。
名相李沆は真宗皇帝に、浮薄新進、事を好むような輩をお用いなってはいけませぬと切言している。人物の若さということと浮薄を混同してはならぬ。維新の志士など多くは若いが、断じて浮薄新進、事を喜むような輩ではない。皆案外なほど人間の実際に達している」
また、p395では、
「役所の事務は日増しに複雑繁忙である。それだけにまず智識や才能が要求せられて兎角心術は顧みられない。如何にすれば役人はこの欠点を匡救することが出来るであろうか。その一番好い方法は適当の時機にいつでも潔く浪人することである。
浪人することはその頭脳手腕の運転を一時休止して、しんみりと静思し、内訟し、枯渇した心源を復活させることが出来る。それの出来ないような者は到底談ずるに足りない。
政党時代の末期のように官吏の身分を不正不安に措くことも固より善くはないが、其の後のように、管理の身分を安定させすぎるのも決して当を得たものということは出来ぬ。国民の利害休戚に最も関する所の大きい役人こそ、能を勧め、不能を斥け、信賞必罰を正しうして、きびきび取り扱わなければならぬ。それがまた役人の為になるのである」
難しい言葉ばかりでわたしもわかっておりませんが(笑)
乱暴に要約いたしますと、
つまり、浪人とは、
世の人々が官庁、会社、銀行、商店など、何がしかに所属して肩書きを着け給料を得ようと焦るなかに、これを潔しとせず、のんびりとして遊びまわり、口を開けば天下国家を論じ、大官名士を歴訪しては口角泡を飛ばし、志を同じくするものと会えば時勢を憤り権貴を罵って快とする。
不可思議にも彼らの或者は、働いても全然給料が上がらない中、これといった職や資産もなしに、豪邸に住み高級車を駆り、或いはまた陋巷に窮居しながら、壮志常に大臣大将を夢みている。
彼等には煩わしい俗人との応対もなければ、手間のかかる部下もない。仕事が無くて、閑がある。故に悠々と国事を謀り、策略を練ることが出来る。自由自在に活躍することも出来る。
そして、枝葉末節的な業務に翻弄され、前例主義で何事かもなせない人々には考えることもできないような名案名策を考え、勤務の束縛もないままに、自由に飛び廻って、その実現に努力し、その間に折衝する役人や有志家を忌憚なく賞揚したり、激励したり、罵倒したりして、一種の政治的風雲を作りもすれば、時に当局と気合がかかると、とても役人の出来ない、それこそ活動を演じて、何ともいいがたい官民の融合を成し遂げる。
事に当ってきまりのある、物を欲しがらぬ、平気で浪人のできる人物のことである。
浪人することはその頭脳手腕の運転を一時休止して、しんみりと静思し、内訟し、枯渇した心源を復活させることが出来る。
ということですね。
幕末の志士とは、こういう方々だったわけですね。とうてい軽々しく真似できるものではありませんが、その志の崇高さに惹かれるからこそ、いまもって人は志士を憧れるわけですね。
いまどき、一瞬でも浪人でもしようものならあっという間に時流から取り残され、役立たずになって脱落人生まっしぐらであることは間違いないでしょうね。
一瞬でも脱落したくないから、必死こいてその職にしがみつき、スキルを磨き、資格を取る。
実に涙ぐましい努力のお人ではありますが、その果てに何を獲得なされるのか。
今の日本で必死こいて仕事をされ、自分を、家族を、ただ経済的に養って、その後に得るものとは何なのか。
いまどきの日本では、理想だの正義だのまったく存在せずちり紙のように捨てられて顧みられることもないですけど、自分もちり紙のように捨てて、顧みなくてもよいのでしょうか。
浪人をすることで、省みることで、本当に大切なものは何か、本当に捨て去ってはいけないものは何か、自分という人間に、本当に必要なものは何なのか、気がつくきっかけになるかも知れません。
浪人はとにかく物に捕らわれない自由さ―――不羈の精神を持っている。
これはやはり国民元気の一現象である。
あえて一息入れることで、かつてあった元気を取り戻す。
浪人にはそういう意味があるような気がします。
逆に言えば、浪人にすらなれないとは、何ともまた面白くもない時代に成り果ててしまったものではありませんか。明治の志士がたぎらんばかりにほとばしらせた天下国家を語る気概もなくなり、不正や不忠に慷慨する気力もなくなり、国家建て直しのために奔走するエネルギーすら摩滅してしまった。
時代だからと、ただ冷笑を浮かべるだけでよいのでしょうか。
せめて、浪人して、自分のために書を紐解いて、のんびりと己の内側を養う。欲を節し、廉恥を知る、本当の自分を作るというのも、できる人間はしたほうがいいですね。
幸いにも(?)
わたしのように、貧乏で結婚もできないような人間が、これからもますます増産されるでしょうし。国はありがたいことに低能は放置してくださるとのこと、そこまで生活やら他の物事に追われ沈思黙考する余裕もない、という人ばかりではなくなります。
そう考えますと、幕末の志士のようではありませんか。
そういえば、志士たちも下級武士の出がたくさんいらっしゃったし、勝海舟も、貧しくて米を炊く燃料がなく家の柱を削って炊いて、その、あまりの貧窮ぶりに逆に感激した、という話もあります。
無情な世に心を殺している場合ではありません。
感激に生き、感動して、心を躍動させれば多少の貧乏とて何の障害でもない。たとえ陋巷にあってひじを枕にする生活であっても、志を高く、想いははるかに天上にはせ、古に教えをこう。
浪人だからこそ、志を持って生きることができるはずなのであります。否、たとえ、天下に志を得ることができず一生を不遇に終ったとしても、そこに養われた心、精神は、本質を求める。
悟りや、阿耨多羅三藐三菩提、阿羅漢果を求める心に到れば、逆にこの不遇の生涯こそ、現代の出家行者といえるかもしれません。
浪人を苦ととるか、むしろ、ありがたい果報ととるか。ひとえに、日頃の学問、生き方、考え方にかかっているといっても過言ではありません。
今ほど、本当の心底を問われる時代も、ないのかもしれません。
実は、わたしは、この『なろう』の世界こそ、現代の浪人の求める世界のひとつなのではないか、とも思うのであります。
現代の、寂寞とした、未来も夢も希望も何もかも枯れ果ててしまった現代だからこそ、そこに人は壷中の天を求める。小説という世界に、生きる希望を見出さんと欲する。
そして、与えられる物語にだけでは満足せず、自分という扉を開けてその深奥に沈潜した志をほとばしらせる。現代社会に何の夢も希望も、活路が見出せないからこそ、自分の手でつかみ取れる志を求める。
その求める先が名声でも富でも出世でもよいのです。浪人とて、それらをないがしろにしたいわけではない。
ただ、己の志のおもむく世界を求めるのであって、腐敗政治だの汚職だのブラックだの、そんな世界に生きたいわけではない。そんな世界で自分をすり減らすくらいなら、野垂れ死んだ方がまだましである。しかし、まだ少し新たな世界が開けるのなら、自分の快とする世界に希望があるのなら、どうせならそこで生きたいと思う。
『なろう』世界に生きる一人の作家として、志を遂げんとする。
現代に浪人がいるのなら、冷笑し、無気力に生きるくらいなら、せめて、少しは、己を信じて、己を鼓舞して、己を養い育み、幅を広げ厚みをもたせ味わいを濃くし、己から沸き出ずる言の葉に、力を、魂を込め、世に覇を唱えたい。そう思うはずであり、そして、それが許される場がここにあるわけです。
こんなに奮い立つことはないではありませんか。
こんなにありがたいことはないではありませんか。
せめて、生きているこの時ばかりは、志を同じくする志士と、切磋琢磨したいものであります。
ほとんど語ってなどいませんし、無理やりこじつけましたが、本日はこれまで。
日々学問。