「創造主」「被造物」に見る精神性
おこんばんはです。豊臣亨です。
と、題して妄想をつれづれ。
やほーニュースを見ておりますと、こういった記事が。ということで、ぺたり。
「上馬キリスト教会」というツイッターアカウントをご存じだろうか。
名前から、教会の情報発信をこぢんまりと行っている……と思ったら大間違い。実際は、「『アーメン』を現代語訳すると『それな』、関西弁訳なら『せやな』ではなく『ほんまそれ』」といった、キリスト教を面白く伝えるツイートを連発する人気アカウントなのだ。
“中の人”は「まじめ担当」と「ふざけ担当」の二人組。牧師や司祭ではなく、この教会に通うふつうのキリスト教徒だ。日本ではタブー視されがちな「宗教」を面白く伝えるつぶやきがたちまち話題となり、NHKニュースなどの各種メディアで紹介された。フォロワー数はうなぎ上りに増え、今や10万を超える。
そんな“中の人”の「まじめ担当」が「キリスト教の入門書ですら敬遠してしまう、超入門者」に向けて書いたのが『上馬キリスト教会ツイッター部の キリスト教って、何なんだ? 本格的すぎる入門書には尻込みしてしまう人のための超入門書』(MARO著)だ。現代の必須教養であるキリスト教について、基本知識からクリスチャンの考え方、聖書の大まかな内容にいたるまでを1冊で網羅した。
本稿では、特別に本書から一部を抜粋・再編集して紹介する。
● 聖書を読んだつもりになるために
キリスト教を理解するには、聖書を読んでいただくのがいちばんなのですが、しかし聖書は分厚い! 長い! 読破には年単位の時間がかかります。
そこでまずは、長い聖書のストーリーをざっっっっくりとダイジェストしてみます。今回ご紹介するのは、「アダムとイブ」のエピソード。
詳しくは知らなくても、何となく聞き覚えがある方も多い話かもしれません。
● 人間の「罪」は、アダムとイブから始まった
神様が天地をつくり、動植物をつくり、そして最後につくったのが人間、すなわちアダムとイブです。私たち人間の始まりであるアダムとイブがどうやってつくられたのか、聖書には詳しく記されています。
アダムとイブは同時につくられたわけではなく、神様はまずアダムをつくりました。
そしてご自身がつくったほかのあらゆるものを見せて、その一つひとつに名前を付けさせました。アダムはその仕事を見事にやってのけましたが、ほかの動物にはみんな仲間がいて助け合って生きているのに、自分だけ仲間がいないことを寂しく感じました。
そこで神様は「人がひとりでいるのは良くない」と言って、アダムを深い眠りに落とし、あばら骨を1本とると、その骨からイブをつくりました。
「人がひとりでいるのは良くない」って、現代にまで通じる真理ではないかと思います。寂しいときや困ったときに助けを求めること。これは決して「弱いこと」でも「情けないこと」でもなくて、人間として当たり前のことなんです。
人間は「助け手」と一緒に生きていくように神様につくられているということです。
さて、アダムとイブはこうして生まれ、苦労も憂いもない「エデンの園」という楽園で何不自由なく暮らしていました。
そこがどんな場所であったかは聖書に詳しく記載はありませんから想像するしかないのですけれど、綺麗な水と美しくてしかもおいしい実のなる木々がたくさんあったようです。
彼らに課せられたルールはたった一つ。「この園の中央にある樹からは実を食べてはいけない。食べたら死んでしまうよ」だけでした。
しかし悪魔の化身である蛇がイブをそそのかしました。「この実を食べると死んでしまうと神様が言ったそうですが、死にはしませんよ」「むしろこの実を食べると賢くなって、神様のようになれますよ」と言葉巧みに誘惑し、最初は拒んでいたイブもついにこの実を口にしてしまいます。
そしてイブに勧められたアダムも、この実を食べてしまったのです。
すると、二人は急に自分たちが裸であることを恥ずかしく思いはじめ、イチジクの葉で腰巻きを作って身につけました。
「羞恥心」はこのように、「罪=神様のコントロールから外れること」によって生まれたのです。人は本来、人の目を気にして生きるようにはつくられていませんでした。だってほかの動物を見回してみても、人間以外には他者の目を気にして羞恥心を抱く動物はいないでしょう?
そして二人は神様の目をも避けました。約束を破ってしまった自分たちが後ろめたかったんです。
しかし当然神様に見つかり、「君たちは食べちゃいけないと言ったのに、あの実を食べてしまったんだね?」と問いつめられました。
するとアダムは「イブが勧めたから食べたんです」と、イブは「蛇が勧めたから食べたんです」と、お互いに責任転嫁を始めました。
自分の非を認めずに人に責任を押し付けるというのは私たちの社会でもよくあることですが、これも「罪」から来る行いなんです。
もちろん、そんな言い訳が神様に通じるわけもなく、二人はエデンの園から追放されてしまいました。さらに神様は、アダムには「食べるためには汗を流して働かねばならない」、イブには「子どもを産むには苦しまなくてはならない」という罰も与えました。
そして何よりの罰は「いつか必ず死ななくてはならない」ということでした。
しかし神様は同時に優しさも見せます。「裸で恥ずかしいのはあの実を食べちゃったせいだけど、恥ずかしいままでもかわいそうだから」と、二人に皮の服をプレゼントしてあげたのです。
罪を犯してしまったことは叱ったし罰も与えた。
それでも神様は二人を愛していたんですね。
この文章を読んでおって、それからそれへと、妄想が超加速したので今回はこの「創造主」「被造物」についてたわ言ほざいてみたいと思いまする。
まずもって言いたいことは、この文章において、「まじめ担当」さんは、デウスを、神様、という名称を使っておられますが、この言い方はあんまり、というか実はまったく正しくないのです。何故なら日本の神様と、唯一神であるデウスはまったく別個の存在だからです。だって、マリア像に向かってかしわ手打ってたら、いやいや違うだろw って思うでしょう。
だから、戦国時代に日本にやってきた宣教師たちはこのことを正しく認識しこれを明確に分け隔て、『デウス』と呼んだのですが、何でも明治以降、そういうことに鈍感な連中が、GODを神、と訳してしまったのだとか。日本人にとって神と仏は別々の存在なのにキリスト教におけるGODを神、と訳すのは無神経この上ないですね。なので、我々もデウス、またはそのままゴッド、という方がよいでしょう。
まあ、まずは小手調べとしまして、
「それでも神様は二人を愛していたんですね」
最後に「まじめ担当」さんはこういう言葉を残されています。ですが、このお話には色々考えざるを得ない要素があるのではないでしょうか。
昨今、我々は様々なニュースにおいて、親の子に対する虐待を聞きます。
その中の言い訳でもっとも多いのが、「しつけでやった」「言うことを聞かないから腹が立った」がダントツでしょう。しつけで子供を殺してどうやってその成長を見守るのかと、激詰めしてやりたいところですが、こういう親としての情も愛も感じられない人非人が、現代に当たり前のようにありふれる世界になって、このデウスの追放話は、本当に愛していたものの取る行動と言えるでしょうか。親、としての責任はあるのか、そこに大きな疑問を感じるわけです。
他にも、こういう話はごまんとありますよね。
ノアの方舟とか、ヨハネの黙示録とか。
こういうのを見ますと、キリスト教におけるデウスはそれこそ結果論だけで判断するものなのだな、と考えざるを得ませんね。ものすごく簡単です。逆らったものはとりあえず虐殺。アダムとイブを殺しては話が進まないのでとりあえず追放ということになりますが、それ以外は粛清、粛清、また粛清。wikiとかみますと「第六のラッパ:四人の天使が人間の三分の一を殺した」と、さっくり殺しまくりです。デウスからすれば自分を拝まない人間なんぞハエほどの価値もないのでしょう。
神話のようにキリスト教におけるデウスは虐殺スキーです。逆らったら粛清、悪い奴は粛清。他の神を拝んだら粛清。いい子ちゃんだけは救うけど、と。
結果だけがすべてですね。結果しか見ません。結果だけが判断材料です。そうして、現代社会を見ますといかにもこの世界はキリスト教的社会だなぁ、と思うわけです。明治開府ともなって日本は大喜びで西洋文明を取り入れたわけで、このデウスのごとき結果主義は当然の帰結なわけで、日本人としても大満足でしょうね。江戸幕府の暗黒時代から素晴らしい文明の光に浴することができたわけで、結果しか求めないブラック企業も日本人が心から欲した西洋文明の産物なので、文明人として誇ってほしいなと思うところではあります。諭吉さんどうもありがとう。ちなみに、この虐殺スキーの考えは後のわたしの妄想にも出てくるので覚えていてほしいところではあります。
こうして見てみますと、
「人間の「罪」は、アダムとイブから始まった」
を見て、反社会人間でひねくれ者のわたしとしましてはこう言いたくなりますね。
「そんな人間を作ったお前に「罪」はないんかい」
と。子供を殺しても親には何の責任もありませんよ、と言われているようでわたしは虫唾が走るんですよね。
こういう、俺様に従うやつだけが可愛い。逆らうやつは絶対許さん、という考え方。つい最近も実例を見た気がしませんか? ほら、超大物女芸能人がユーチューバーになった芸人を散々叩いてぶっつぶしたしたやつ。あれと同じ精神性なんですよ。これ。
つまり、キリスト教における、デウスの愛、とは、支配者の所有欲の愛なんです。
そこに、親としての愛情とか、東洋的な慈悲、という感情や概念はかけらもありません。親として、子供を生んだらその子を育てるという責任が人間には生じるはずですが、デウスにはそんなもんはありません。
虐待する親と、どこぞの超大物女芸能人と精神性がまったく一緒。なついている間は猫可愛がりするけど、少しでも逆らったり敬意を見せなくなると途端に大激怒する。この子を育ててあげようとか、慈悲をもって教え導こう、なんていう高度な精神性は皆無です。ただ、自分さえよければそれでいい、というだけです。
そういう風に考えますと、古来、西欧における王侯貴族がどうしてああも支配者ヅラしていたのか、と言えば何のことはない、デウスのマネごとをしていたに過ぎないわけです。民衆は家畜、という接し方も楽園を追放されたアダムとイブと同じなのです。皆々、小デウスなのです。まあ、そりゃそうです。神話に堂々と、はっきりとここまで支配者の心構えを説かれれば、そりゃそうなるでしょう。西洋にとって、デウスこそが理想なのですからね。
翻って、東洋は真逆です。
東洋精神、なかんずく、日本は慈悲という精神において究極。古来皇室、天皇陛下が民草の安寧を神々に祈ってくださっているのです。支配しようとか、所有しよう、などという傲岸さはありません。
さらにすごいのが、明治になって明治大帝は真っ先に西洋文明を取り入れられた。洋服を着、洋食を召し上がられた。しかし、であるにも関わらず、今に至るも今上陛下は民草の安寧と幸福を神々に祈ってくださっているのです。
民草が無責任にも、小デウスを大量生産しているにも関わらず、です。
これが東洋と西洋の根幹的な差異です。
ちょいと前も取り上げました、「遠戎賓服するを得たり」これは、「貞観政要」にある言葉でして、遠くの蛮族ですら唐の文化に憧れて、唐の服を着て友誼を結ぶに至った、という話でして、自分たち民族の衣服、文化を脇に追いやってでも唐の文化に憧れた、ということです。押し付けることなく無理強いすることなく、周辺の人間が、思わず知らず憧れて近づいてしまうような存在になることが大事なのであって、それが自然なのです。それが理想なのです。
そう見ますと、アダムとイブが、デウスの言いつけに背いたということは、簡単に言ってしまえばデウスなんぞ裏切ってしまえるような存在だということです。本当に尊敬している人の言葉は簡単に疑いません。まあ、だからこそ邪悪な蛇がそそのかした、ということになるのでしょうが、ですが、簡単にそそのかされてしまう程度のものなのです。アダムとイブにとって、デウスの言葉なんてそこまで大事にするほどの価値もなかった、ということになりうるのです。
また、こういう記述がありますね。蛇はこう言ったとか。
「むしろこの実を食べると賢くなって、神様のようになれますよ」
これこそが、デウスが怒り狂ったところでしょうね。
キリスト教における立場は絶対でありまして、「創造主」「被造物」は絶対。それ以外などあり得ないわけです。デウスはすべてにおいて超越者で、被造物は未来永劫、被造物。
人間に「罪」はあっても、デウスに「罪」などありません。
すべてにおいて超越的ですべてにおいて免罪的な存在。それがデウスです。そのデウスに並び立とうとしたアダムとイブを、許すわけにはいかなかった。これこそが楽園追放の最大の根拠となるわけですが、ここのところも東洋と西洋の根幹的差異のなせるわざですね。
東洋ではむしろ、
「心仏衆生是三無差別」
または、
「即身成仏」
我々はやがて、神や仏になる存在であり、実は生まれながらにして、生きながらにして我々は仏なのだ。
これが東洋の思想、東洋の宗教精神です。
これを言い換えるのなら、自分の子供が成長したとして、お前は永劫子供なのだ! 俺と並び立とうなど百億年早い! という親と、お前もいつかわたしのようになってくれよ、むしろ、わたしより立派になってくれよ、という親がいたとして、どちらに慈悲があるといえるでしょうか。
言うまでもないですね。
東洋の宗教精神は、この、俺のようになってくれよ、の精神なのです。これが本当の慈悲の心なのです。子供の成長を望めばこそ、その子が不憫で、可哀想で、愛おしくてしょうがない、これが親の愛です。
そういうことに気がつけば、この、「創造主」「被造物」という概念がどれほど無慈悲なことを言っているか分かるでしょう。そして、それは取りも直さず、子たるキリスト教徒たちが親たるデウスに向かってこういうことを言っていることになるのです。
わたしが親になどなれるはずがない。わたしが親になるなど不遜もいいとこ、不敬の極みです。
と。わたしは、だから、自分のラノベではこの考えを真っ向から否定しているのです。こんな概念などあり得ません。こんなことを真面目に言っている宗教など正気の沙汰ではないと思うからです。はっきりいいますと、
神や仏というものは、自分の子供に、自分が生み出した子らに、わたしのようになりなさい、と言わねばならないのです。あなた方はわたしと同一の、同質の存在なのですよ、だから、頑張ってわたしのようになりなさい、と言わねばなりません。言わねば嘘です。それが宗教の慈悲というものなのです。宗教というものの本質なのです。この慈悲というものを欠いてしまえば、それは宗教ではありません。慈悲というものがなければそれはただの集金システム、権力、暴力システムに過ぎません。
極論を言ってしまえば、デウスのようになるなど不遜の極み、と言い出してしまう考えは、実は、
デウスを否定している考えに他ならないんです。
だってそう思いません? 子供は、自分の親を憧れるからこそ、お父さんのようになりたいです! お母さんのようになりたいです! というはずでしょう。それが、子供の方から、
いえいえ、滅相もない、わたしにお父さんのようになるなど無理ですよ。
とか、
わたしにそんな能力などないですよ、お父さんは偉大すぎます。
とか言われては、生み育てた親としてどんな気になります? あれ、こんなポンコツに育てたかな? とか、育て方間違えたかな? と思うでしょう。もっと言うなら、はっきり落胆するでしょうし、大いに失望するでしょう。孔子様もこうおっしゃっておいでですよ。
【冉求曰わく、子の道を説ばざるに非ず、力足らざればなり。子曰わく、力足らざる者は中道にして廃す。女は今画れり】
冉求という人が言った。先生の言葉が嬉しいわけではないのですが、わたしの力が及ばないのです。
孔子様はこうおっしゃった。
力が及ばないものは途中でやめてしまう。いま、お前は自分で自分を線引したのだ。
「創造主」「被造物」
という概念はまさしくこの、画れりであり、線引したのです。自分で自分を線引して、限界を設定し自分はそこまでしかできない人間です、と決めつけたわけです。
確かに、ダメ人間がこう言ってしまうのも仕方はありません。そういう気持ちになることだってあるでしょう。
わたしだって、安岡先生からわたしのようになりなさい、と言われたら、ムリムリムリムリ! 無理に決まってるじゃないっすか! って言いますよ。でも、ダメ人間がこういうのと、システムとして、組織として、機構としてこれを設定するのはまったく話が違います。大違いです。
唯一神として、すべてを支配し所有しないと気がすまないデウスを「創造主」、持ち物たる自分たちを「被造物」と別け隔てるというシステムにしたことは、まさしく、デウスの言いつけに背いたアダムとイブとまったく一緒なのです。禁断の果実がどれほどの価値があるにせよ、言いつけに背いたらそっこう追放処分を下すという無慈悲な存在に対して反旗を翻しているのです。わたしは絶対に「創造主」になりません、永劫「被造物」です、というのはデウスを真っ向から否定しているという概念なのです。まかり間違っても「創造主」になんかなりたくもない、という決別の概念なのです。そういうシステムなのです。
うがった見方をする(いつもですけどね☆)のなら、子にだけ「罪」を押し付けて、親たる自分だけは「罪」から逃れるデウスに対する反逆、とも言えるのです。
まあ、わたしのたわ言と思うでしょうが、つまり、結論を言えば、キリスト教はシステム的に無神論なのです。本来、イエス・キリストがまったく想像もしなかったであろう姿に、シュペングラー曰く、
「キリスト教がファウスト的人間を改造したのではなく、ファウスト的人間がキリスト教を改造したのである」
という言葉の通り、キリスト教は、根幹的に欠陥のある宗教に作り変えられてしまったのです。だから、急に言われるとなんかすごい言葉のような気がする、
「父と子と聖霊のみ名において」
も、冷静に考えますと、何言ってるのかさっぱり分からないんですよね。試しに、「聖霊」をwikiしてご覧なさい。その説明文には、
「キリスト教において、三位一体の神の位格の一つ。広く「第三の位格」とも説明される一方で、「第三の」といった数え方をせずに「ペルソナ(位格)の一者」「個位(のひとつ)」「神格(のひとつ)」とだけ説明される場合もある」
ほら。何言ってるんだかさっぱりわからんでしょ。そもそも本質的な説明なんてなんにもしてないですよ、これ。言い出した連中からして何言ってるんだか分かってないじゃないかと思いますよ。
だから、わたしのラノベでは「父と母と子」に言い換えてます。父と母と子、というひとつの家族です、と素直にこう言っておけばよかったのを、トチ狂ったカソリックは母、マリアをしょせん女で売春婦だろ、ということで忌避して除外したわけですが、その苦しい言い訳に聖霊、なんぞ意味不明なものをもってくるからますます意味不明になっておるのです。
まさしく、シュペングラーの言葉の通り、ファウスト的人間によって、キリスト教は根幹的に欠陥だらけの組織に作り変えられてしまったわけです。
そういうことに気がついたとき、むしろ、理解できるのですよね。何がかといいますと、何で、イデオロギーなどというものが生まれたのか、ということに。
イデオロギーはどこで生まれました? インドで生まれました? アジアで生まれました? イスラム圏で生まれました?
違いますよね。キリスト教圏で生まれたんです。
慈悲という概念そのものがない、システム的無神論キリスト教という胎盤と、
西洋哲学という、腐った羊水から、
産み落とされたものこそ、イデオロギーなのです。
そう妄想すると、すんなりわたしには首肯できるものがあるのです。
実はキリスト教と、共産主義は、そこにある根っこ、根底が同じだ、ということに。
共産主義がしたことはなんですか? 虐殺、粛清、弾圧、拷問、洗脳、ですよね。
でも、これ、共産主義の専売特許ではない、ということに気がつくのです。つまり、これらを嬉々としてやっていたものこそ、その大本こそがキリスト教である、ということに。
ノアの方舟や、黙示録にあるように、デウスからして虐殺、粛清が大好きで、歴史をみれば十字軍遠征などを見れば明らかなように、「異端は皆殺しでOK」という有り様は、実に正しいキリスト教徒の有り様なのです。デウスの考えをそのまま実行しているに過ぎないのです。
そして「魔女狩り」による、弾圧、拷問。
また、キリスト教における布教も、はっきり言ってしまえば洗脳ですよ。デウスだけが唯一の正しい神なのであって、それ以外の神、仏は邪神に過ぎないのだ、とか。わたしからすれば何様、って思います。
こうしてみれば、共産主義が行う、はるか前に、キリスト教がとっくの昔にやり尽くしてきたことなんです。それもこれも、キリスト教は根幹的に無神論である、と考えればすんなりつながる気がするのです。
実は、イデオロギーとは、システム的無神論キリスト教の亜種、一宗派、成れの果てなのです。
そう妄想しますと、結局の所、この自由主義対共産主義、という世界情勢もキリスト教の一面の現れに過ぎないのだと妄想しうるのです。アメリカのように多くの移民を受け入れ、自由と正義を標榜するのも、共産主義のように民衆を虐殺し粛清し弾圧し、世界に共産主義を輸出しようとするのも、すべてキリスト教の中にあるんです。大昔からキリスト教が得々としてやってきたことなんです。そう考えてみれば、自由主義対共産主義の戦いとは、ある意味、宗教戦争なのです。
つまるところ、世界はこのシステム的無神論キリスト教によって覆われているのであり、はっきり言ってしまえば、このシステム的無神論キリスト教こそ世界の悪の根源なのだ、と言えるのであります。
そうすると不可思議なのが、どうしてこんな宗教が恐ろしい破綻もなく今のいままで平然と存在しているかといえば、根幹的に欠陥はありつつも、それを支える信者が熱烈な信仰心を具えているからこそ、この恐ろしい欠陥宗教は糊塗されてきた、と言えるのです。
例えば、わたしが尊敬する熱心なキリスト教徒であるカール・ヒルティの書いた本を御覧ください。
彼こそ19世紀における西欧の司馬温公なのだ、と言えるでしょう。司馬温公はかつてこういったそうです。
「自分は平凡な人間だ。ただ、自分には、人には言えないようなことは何もない」
と。
ヒルティはまさしく温公の言葉の通りのお人であったと思えるのです。人には言えないことはない、つまり、わたしには後ろ暗いことなどなにもない、という宣言です。キリスト教は、こういう熱烈な人々によって今の今まで続いてきたのでしょう。システム的に根幹から恐ろしい欠陥はありつつも、純朴な、素朴な人達によって支えられてきた、糊塗されてきた、というのがキリスト教の歴史なのだ、と見て良いと思います。
なので、これからもずっと、この根幹的欠陥を内包したまんま、キリスト教は何の変革も革新もなく、信者によって支えられてゆくのでありましょう。世界に害悪を垂れ流したまんま。
ただ、この西洋思考によって、脳みそを小デウスに毒された日本人の増殖は、さすがに止めて欲しいと思いますので、このたわ言をもって警句とするのであります。今上陛下によって、自分たちの安寧秩序を祈ってもらっていながらその事をへとも思っていないという事実に、少しでも「羞恥心」を感じるのなら、まだ、手遅れではないと思います。
と、言ったところで、今宵のたわ言はこれまで。
したらば。
トップをねらえ2! OP ED を聴きながら