7/22のおっさんのたわ言
おこんばんはです。たわ言屋のおっさんです。
何でも、黄金のカメさんが発見されたらしいですね。
昨今、ツノのあるカメさんだの、カラフルなカエルさんだのが出現し、いよいよ黄金のカメさんですか。さすがにここまで見事なカメさんの登場にはわたしもたわ言ほざいてみたくなりますね。
これが世が世なら、瑞祥なり!
と大騒ぎするところではありますが、今の世の中はそこまで騒いでいないですかね??
現代では、そういった出現をただの突然変異や、アルビノで片づけてしまうのでしょうが、昔の人はそれこそ気になさったわけで、論語にはこういうのがありますね。
【子曰わく、鳳鳥至らず、河、図を出ださず。吾やんぬるかな】
ああ、瑞祥たる鳳凰は現れず、黄河は図を出さない。わたしにはどうしようもない。
という孔子様の慨嘆があります。
鳳鳥とは天下を平らかにすべき、聖君子の出現を預言する鳳凰のことで、
河図とは黄河から出現せし竜馬の背にあったという図で、八卦の元となったのだとか。
いくら孔子様でも瑞祥が出ないことには天下から争いを拭い去ることはできない、と嘆かれたわけですね。確かに、古来、戦乱を平定するのは英雄にのみできることですから、その英雄誕生を知らせる瑞祥が起こらないことには孔子様と言えど血で血を洗う争乱の最中にある人々への説得力が欠けてしまう、ということでしょうか。
そう考えますと、孔子様に待望の英雄が表れてその補佐となられた孔子様がどのように活躍なされたか、とか妄想しますといろいろはかどりますが、しかし、そうなりますと孔子様の意味合いががらっと変わってしまいそうです。
世が世なら、あんな見事な黄金のカメさんが現れれば、すわ英雄のご誕生じゃ! と大騒ぎしてしまいそうです。
しかし、孔子様の編纂したとされる「春秋」にはこういう一文もあります。
【哀公十四年春、西に狩りして麟を獲たり】
魯の国の王が狩りに出かけ、そこで珍妙な獲物を捕まえた、とか。
それで孔子様が調べてみると、それは麒麟だとか。
本当なら、瑞祥じゃ! と孔子様も欣喜雀躍して小躍りしそうですが、そうではなかったとか。何故か。本来、瑞祥であり、めでたい、ありがたい生き物であるべき麒麟を、その当時の人々は気味悪がってとっと殺してしまったことから、
そんなことで英雄が現れるものか!
と春秋編纂の筆を折ったしまった、というもの。そこから、「獲麟」といって、物事の終わり、を意味するものになってしまったといいます。また「公羊伝」という孔子様のお弟子さんの子夏さんのお弟子さんの公羊高というお人が著したものに、
【麒麟は仁獣なり。王者あれば至り、王者なければ至らず。以って告ぐる者ありて曰く、麏にして角あるものだと。孔子曰く誰の為に来たか、誰の為に来たか。袂を反し面を拭い、涕袍を沾す】
麒麟は仁獣だ。王者がいれば現れ、王者がなければそもそも現れない。
この獣は麏(のろ、とか、きん、と読んでキバノロという鹿の一種だとか)のようで角があります、と告げるものがいた。
いったい、誰のために来たのか、誰のために来たのか。
孔子様はそうおっしゃられて、袖で顔を覆って涙で濡らされた。
この春秋戦国時代の世にあって、聖君子がどこにいるというのか。世を平和に導く王者がどこにいるのか。どこにもそんな聖王などいないではないか。
どこにも聖王など存在しないのに、麒麟よ、いったい、誰の為に、何の為に現れたというのか。
そうこぼされて、ただただ泣かれた。
ようやく、待ちに待った瑞兆なのに、孔子様はあまりにも時期外れの麒麟の登場に、落胆のあまり袖を濡らされた、とか。
トランプを筆頭(?)に、アベ、習、金、文、プーチン、他にもいろいろ、石を投げつけたくなるものはわんさかいても、王者と誉め称えたくなるようなものはどこにいるのか。
黄金のカメさん出現は現代における聖王出現の瑞兆か、それとも時期はずれの獲麟か。我々も孔子様のように、袖を濡らすことのないようにと、祈りたいところではあります。
戦国時代や源平合戦、明治維新と、戦乱の世には英雄が現れるのも歴史の示すところ。いよいよ、事態はのっぴきならぬところに至っておるのやもしれませぬ。
まあ、いろいろはかどった妄想家のたわ言と、一笑に付してくだされ。