中野正剛と朝日新聞発禁処分に見る明と暗
と、今回は一風変わったところから題しておこんばんはです。豊臣亨です。
この度は、
『宰相の指導者哲人安岡正篤の世界』 神渡良平著 講談社+α文庫
を読んでおって色々考えるところがあったもので、この度はこれに関連してつれづれ。
さて、
中野正剛、とイキナリ言われても今どき誰知るもののないお人かと存じますが、wikiによりますと、
中野 正剛 1886年~1943年 日本のジャーナリスト、衆議院議員。号は耕堂。
幼名は甚太郎、家は質屋を営んでいるも、質屋の甚太郎、と呼ばれるのがいやで、自分で自分の名前を「生涯を正しく剛毅に生き抜こうと」正剛と改名したのだとか。でも、まさかた、と読んでくれたのは母親だけで周囲はせいごう、呼びだったのだとか。自らその名を負った通りのお人で、14歳で福岡の市内に土地を買って仲間と一日柔道に明け暮れるような子供であったとか。
弱冠14歳で、土地が買える、というのもなかなかもって我々の常識を超えた剛毅さですが、本書にもありますが、その当時(明治時代)安岡先生は四條畷中学(現・四條畷高校)に通われたそうですが、とある人などは剣道部主将にして、二回留年し、妻帯し二十歳を超えていた「中学生」とかいたそうですから、我々の常識で測れる時代ではないようです。
ちなみに、この主将は天才肌の安岡先生が気に食わなかったらしく、仲間を集めてボコボコにしてやろうと計画しておったところ、それを事前に察知した安岡先生によってたちまち物陰に引きずり込まれ、p122
「オレを襲うちゅう話を聞いたが、お前がやるいうんなら、オレもとことんやったるでぇ」
と、自家の秘蔵の短刀を突きつけた、というからそんじょそこらのなまっちろいインテリ風情とは次元が違います。まさしくこの、やるんならやれこっちも死物狂いで反撃するぞ、という根性こそが、キューバ危機で米国が平和を勝ち取った理由なのでありまして、孔子様が、
【文治あるものは必ず武備あり】
とおっしゃられたことなのですが、GHQやら左翼やらに洗脳、どころか染脳された現代日本では理解できないでしょうね。
まあ、それはともかく、この中野正剛、早稲田大学を卒業し、やがて朝日新聞に入社、周囲とは隔絶した才覚を発揮するので周囲から浮いた存在であったそうです。p232
「朝日新聞に入社した緒方竹虎(朝日新聞社時代「大正」の年号をスクープ、後に国務大臣、情報局総裁、内閣書記官長、内閣官房長官、副総理などを歴任)は、
「ところで入社してすぐ感じたところは、中野君が嶄然(一段高く抜きん出ている様)儕輩(同僚)の間に頭角を抽ん出てはいるが、何とはなしに皆と遊離した特異の立場にいることである」
と記しているそうで、才気走った中野正剛にとっては、朝日新聞の他の社員は大した存在ではなかったようで、やがて政界に進出、張作霖爆殺事件においては舌鋒鋭く、その当時の田中内閣を総辞職に追い込んだほどの実力の持ち主で、反軍政治家として活躍した。しかし、世はその軍人が跳梁跋扈する時代であり、やがて東條内閣の登場にあたって、衝突は避けられなかった。p233
「昭和十八年元旦、中野は朝日新聞に「戦時宰相論」を書いた。諸葛孔明の出師表を思い浮かべ、
「先帝臣が謹慎を知る、故に崩ずるに臨んで臣に託するに大事をもってす」
にいたってこれだと思い、一気に東條に謹慎を求める論文を書いた」
とか。
これを東條英機は元旦の食卓で知り、大激怒して発禁処分を下したとか。ちなみに、本書では発禁、wikiでは差し止めを命令したとありますね。差し止めはどちらかといえば発行される前に出すものでありますので、すでに発売されているものを差し止めるのは非現実的に見えますので、発禁処分でありましょう。
しかし、この発禁処分や、その後の倒閣運動もあわせて、言論統制を強める当時の東條内閣にあってはこの中野正剛の動きは、利敵行為に等しいものであったと見えて、特高、特別高等警察に命じて逮捕、後、世論の反発を受けて釈放するものの、憲兵が監視する中、中野正剛を割腹自殺に追い込んだとか。
wikiには、「自決の数時間前、四男泰雄に「千里の目を窮めんと欲し更に上る一層の楼」と色紙に書き、憲兵の目の前で渡している」とありますね。
これは、『鸛鵲楼に登る』という、王之渙、唐の時代の詩人の五言絶句という漢詩の後ろの二句ですね。
【白日、山に依りて尽き
黄河、海に入りて流る
千里の目を窮めんと欲し
更に上る一層の楼】
落日が山の稜線をなぞるかのように没してゆく
眼下に広がる黄河の流れは海にたどり着くまで滔々たる流れをやめない
これら、遠大なる光景をさらに目に収めたいと思い
さらに、さらに、たかどのを登るのだ
という塩梅。鸛鵲というのは人様のブログによるとなんでもコウノトリのことで、鸛鵲楼は三層のやぐらで、コウノトリの巣があったのでその名がついたとか。なので、この詩は二層目で読んだのだろうとのこと。その当時の人は、人間様のやぐらにコウノトリの巣があっても撤去しないでいたみたいですね。
それはともかく、中野正剛は他にも、「俺は日本を見ながら成仏する。悲しんでくださるな」と言ったように、死ぬことによってさらなる高い次元に登ることを期していたようであります。
と、この一連の流れだけを追うと、東條英機許すまじ、と東條の非を鼓を鳴らし攻めたくはなるところではありますが、しかし、わたしはこれまで様々な歴史書をちょびっと見開ておりまして、この東條英機、東條閣下が実は、結構好きなのであります。
で、この度にあたりましてwikiなども眺めておりまして、つれづれ妄想しておりますと、なにゆえ東條閣下が好きなのか分かりました。
この人、石田三成公とそっくりなんですよね。そう思い当たって考えれば考えるほど、このお二方は似通っている。
まず、第一に職務に精励であること。
石田三成公は、西軍の事実上の大将として、権現様、家康公と戦って関ケ原で大敗、処刑されますが、刑場に引っ立てられた時、のどが渇いたと言って干し柿を差し出され、柿は体に悪いといったところ、もうすぐ殺される人間が己の体の心配かよ、と哄笑を浴びるも、お前ら雑兵にはわからんだろうが、大命を帯びたものは一時といえどもその使命を忘れぬものだ、と言い放ったとされ、また、逸話として、大阪城に台風がやってきたときなど、被害を調べるべき役人が朝になって出勤したときには、三成公はすでに太閤殿下に報告をすませていた、とか。恐るべき勤勉さです。
東條閣下も、衆寡敵せず、極東軍事裁判という、戦勝国による敗戦国リンチの場で刑場の露と消えましたが、サイパンに続いてグアム島、テニアン島と陥落と、いわゆる絶対防衛圏の要なるマリアナ諸島を失っても、それでも辞職など考えもしなかったことから、その精励さを伺うことが出来るでしょう。
第二に、忠誠心。
石田三成公は亡き太閤殿下、秀吉公のために己の人生すべてを捧げたようなお方でありまして、そういう意味ではわたしは、我に七難八苦を! と叫んだ山中鹿之介さんよりも忠義の志では三成公にかなうものはない、と思います。豊臣政権ナンバー二の重職にあって、ワイロもとらないし資財も蓄えない、あくまでも職務に精励し、自分のことなど二の次三の次であった。鹿之介さんが同じ立場にあって、ここまで清廉でいられたかどうか。人間、苦労を耐え忍ぶのはなんとかできますが、権威権力を得て堕落するのはものすごく簡単なことであります。
東條閣下も、敗戦によってピストル自殺を図るものの、一命をとりとめますと今度は敢然、極東軍事裁判においては、敗戦のすべての責は自分にある、として昭和聖帝陛下に類が及ぶことを防がれた。また、wikiによりますと、近衛内閣時代、陸軍大臣時代は近衛の、米国に譲歩しようとする姿勢を惰弱と罵って総辞職に追い込むも、陛下から直々に総理指名が下ると、
「和平だっ、和平だっ、聖慮は和平にあらせられるぞっ」
と、これまでの対英米強硬姿勢をくるりと手のひら返し、陛下のお心を遂げるべく、和平に狂奔する様子は、間違いなく尊王のお方であります。また、だからこそ、この東條閣下の必死の努力にも関わらず、ハル・ノートを突きつけ、自害を迫った米国に対していよいよ開戦を決意せざるを得なくなり、
「対米開戦決定を上奏した東條は、戦争回避を希望し続けていた天皇の意思を実現できなかった申し訳なさから上奏中に幾度も涙声になったといわれる」
の記述には惻々として心情に訴えるものがあります。
そして、第三にお二方も事務方であったこと。
有名なお話ですが、三成公は事務方の筆頭、文治派で能吏でありながら、そのほとばしるような忠誠心によって西軍のまとめ役になりますが、そもそも事務方であって、戦国時代の綺羅、星の如き錚々たるメンバーを取りまとめるような求心力、指導力はなく、関が原において内部分裂を起こすことは有名であります。
また、妻子を人質に取ろうと、細川ガラシャを自死させる結果となってしまい武断派の武将のさらなる怒りを買ったことも、つとに有名であります。
そして東條閣下も同様、なんでも右翼思考家の筆頭格、大川周明は東條を評して「下駄なり」と言ったとか。意味合いとしては縁の下の力持ちといった風合いで、指導者としての力量に欠ける、というもの。
その他にも歴史書やらwikiを眺めておりますと、戦中という重大局面を乗り切れるような指導者ではない、という場面がいろいろ伺えますが、どだい、あの状況下でうまくやれるような人間が、そうそういるはずがないのでありまして、それこそ、織田信長公か、楠木正成公、西郷隆盛公でもない限り、あの局面を乗り切れるお人がそうそういるはずはないのであります。
しかし、陛下の直々のご指名とあればその職責を放擲することなどできるはずもなく、東條閣下は自身のもてる限りの力を尽くされたと思いますが、それが言論弾圧や憲兵を使った独裁政治につながるのは悲しむべきであります。
第四に、お二方とも超がつく、クソがつく真面目人間であって、しかして融通がきかず敵を多くつくったこと。
これは、職務の精励とも、事務方とも関連しておりますが、己の信じた使命をとげんがためその、自論を押し通す、不器用なやり方をゴリ押ししたため、周囲に敵をつくり、それで自分も苦しめられるのは、このお二方に共通しておるような気がいたします。
ちなみに、東條閣下はその真面目さゆえ、wikiによりますと、旅先で民家のゴミ箱を見て回り、きちんと配給がなされているかどうか、調べたとか。そして、
「私がそうすることによって配給担当者も注意し、さらに努力してくれると思ったからである。それにお上におかせられても、末端の国民の生活について大変心配しておられたからであった」
と、秘書官に語ったとか。他にも、
「飯米応急米の申請に対応した係官が居丈高な対応をしたのを目撃した際に、「民衆に接する警察官は特に親切を旨とすべしと言っていたが、何故それが未だ皆にわからぬのか、御上の思し召しはそんなものではない、親切にしなければならぬ」と諭したというエピソードや、米配給所で応急米をもらって老婆が礼を言っているのに対し、事務員が何も言おうとしていなかったことを目撃し、「君も婆さんに礼を言いなさい」といった」
とあるなど、ここまで民衆の統治に心を砕いた総理が幾人いたか、と考えますと、東條閣下はもしかすると北条氏康公並の稀有な民政家だったのかも知れませんし、さらに民草への配慮を何時でも忘れない陛下のお心を伺うことができ、とてもありがたいことでございます。
ちなみに、西尾寿造大将というお人は、関西方面視察の際に記者からの質問に対して「朝っぱらからゴミ箱漁っとる奴に聞け」などと言って東條閣下の激怒を買い、予備役に回されたのだとか。
そして、第五にお二方とも、金にも女にも恬淡としていたこと。
三成公は、若い時分から漁色家としてつとに有名な太閤殿下のナンバー二でありながら、おなごに関してあっさりしていたのも有名であります。
また、関ケ原の敗戦により、東軍が三成公の居城佐和山城になだれ込んだ時、城内にはめぼしい宝はおろか、ろくなものがなくそれどころか、城壁の漆喰が剥がれたまま放置されている有様だったといいます。
そして、東條閣下も女遊びを全然やらなかったそうで、ある時、酒に酔って、
「芸者遊びにうつつを抜かす者などダメだ! オレは若い時も今も女房一筋だ!」
と言い放ったとか。
また、世田谷に私宅を立てるも、配給をやりくりした建坪三十坪程度の質素な家で、閣僚がその家を探すも、あまりの粗末さにどこにあるかさっぱり分からずたどり着くのに一苦労したとか。
こうして、お二方のことをつれづれ眺めてみておりますと、どうにも三成公のほそっこい目つきの肖像画と、東條閣下のはげつるちょび髭のお写真がどうにも似通って見えるのですから面白いものであります。
それはともかく、世の人々は東條閣下を日本を戦争に引きずり込んだあげく、そのお粗末な戦争指導で地獄の敗戦に導いた、極悪の独裁者と認識しておられる人が少なくないと思われます。
しかし、それは数々の誤解と、GHQによる染脳などが錯綜しているのであって、事実はそうではない、と思うところであります。そもそも、先程も申しましたが、あの状況下で日本の戦争を指導する、ということ自体がありえないほどの困難な状況であったことは有名な話でありまして、かの統帥権干犯問題。
統帥権とは、天皇大権であってどこの誰も犯すべからず、というものですが、それを時の軍部が悪用し独善と独走を強め、政府の指示を無視し、前線において暴走し各国の侮蔑と怒りを買ったというものでありますが、そもそも天皇大権といっても陛下が直々に一軍を指揮なさるものではないから、それを直接輔弼する政府が主導すべきものを、この統帥権を持ち出し、陸軍も海軍も好き勝手をはじめたものでありまして、東條閣下は陸軍大臣ではあるが、海軍に命令すべき権限がない、ということで、この未曾有の国難にあっても、日本軍を統括する人間が誰もいない、という悪夢のような状況で、東條閣下は総理を務められたのであります。
指導力のあるなしに関わらず、すでに日本という国家制度に根幹的致命的欠陥を抱えて、さらに米英を筆頭にオーストラリア、ニュージーランド連合軍、カナダ、オランダ、さらに末期には恐怖のソ連が殴り込みと、全方位敵だらけという状況なのですから暗澹たるものです。
さらにさらに、国外だけでもすでにアップアップなのに、国内も大変なものでして。
昭和生まれでしたら、戦後の日本は左翼テロが横行したことは知っていることでしょう。浅間山荘事件に象徴されるように、左翼による事件がそれこそ山のようにあるわけで、こういうイデオロギーが蔓延して日本を毒しておった。
もはや平成生まれには別世界のように聞こえるのではないかと思いますが、かつての日本はテロ大国であったわけです。子供の頃、TVをみておって改めてその事実に気がつかされて愕然とした覚えがいまだにありますが、暴力によって秩序を転覆せしめ己の野心を遂げよう、などという思考形態の人間が戦後うじゃうじゃおったわけですが、しかし、こういう人間は実は戦前、戦中にこそもっとたくさんいた。
「二・二六事件」や「五・一五事件」という、陸海軍若手将校を首魁とする右翼連中が、尊崇措く能わざる高橋是清さんを弑逆し、その他数々の重臣を殺害するというテロどころではない、クーデターを起こした。しかも、これを世の人々は政府の惰弱を正す、聖なる義挙、と同情的にみる始末であった。
若手将校たちは、奸臣を誅戮し天皇親政を実現すれば、政の腐敗は一掃し、農村の困窮は解消される、などという、何の根拠もない妄言を主唱した。さらに、物事の本質を捉えず、煽るしか能がないマスコミはこれに賛同し、同様に煽られるしか能がない民衆はこれを賛成した。しかし、重臣を殺された昭和聖帝陛下の怒りは収まらず、逆賊を誅せよ! と厳しいお言葉で処断を決定され、下らない英雄思考に浮かされた連中の幻想をぶち壊された。
確かに、その当時の「通州事件」にも見られるように、諸外国、諸勢力の横暴は猖獗を極め、それにも関わらずあくまで他国との協調を図る政府の有り様は、民衆を守らずに他国を利する行為であり、まったくの惰弱と罵られても仕方がないかも知れませんが、盧溝橋事件を発端とし日支事変が勃発したように、いつ何時戦端が開かれ、戦争状態に突入するか誰にもわからないのが、その当時の常識です。
しかも、米国による圧迫、圧力は日に日に露骨になるも、米国と戦えば必ず負ける「必敗」を知っていた政府としては必然、慎重にならざるを得ない。
そんな最中に、第四十代内閣総理大臣を指名された東條閣下の胸中たるや、いかほどでありましょう。もし、わたしが同じ立場に立てば一晩で胃がでろでろに溶けてなくなってしまうことは間違いがありません。
国内国外、すべてにおいて問題だらけの当時の日本において、戦争の責任者となるのは、間違いなく貧乏くじを引かされたわけで、ある意味間違いなく、一番イヤな所、誰もやりたがらないところを押し付けられたことは否めない。それが陛下による指名ともなれば、尊王の志と、職務に精励して誰にも負けない東條閣下にあってもどれほどの重責であったか、計り知れません。
しかも、極東軍事裁判という、戦勝国による敗戦国によるリンチの場にまで立たされて、全責任を負って処刑されなければいけないという運命まで背負わされたわけですから、一体、天はどれほどこのお人に貧乏くじを引かせるのであろうか、という気にもなります。
そういう風に考えておりますと、最初に戻って、中野正剛のような人間に批判されますと、さすがに東條閣下ならずとも、軽々しく批判してくる人間に対して、腸が煮えくり返る思いになるのも、これは人の子ならば仕方がない気もいたします。
孔子様も、
【其の位に在らざれば、其の政を謀らず】
とおっしゃられるように、その立場だからこそ分かること、身にしみることがあるはずでありまして、その職責、重責にもないようなお気楽な立ち位置から、陛下によって指名された神聖なる職務に当たる人間を、無能だ阿呆だと面罵されれば、それこそぶちころがしてやりたくなるものでしょう。
それこそわたしなら、
「お前がやれ!!」
と、言いたいところではありますがしかし、真面目で責任感が人八倍強い実直な東條閣下に、そんな放言はありえません。すべてにおいて自身の双肩で担い、ただ、たんたんと職務を行うだけであります。
恐らく、自分の許容範囲を遥かに超脱した重責にあったにも関わらず、刑場の露と消えるまで、己の責務を全うし得た東條閣下に、わたしは心中密かに敬意を表し、安眠をお祈りするのであります。皆様も、お時間の許す時に東條閣下のwikiを覗いてみるとよろしいでしょう。その人となりを伺えます。
では、題名に戻りまして、何が明と暗であるか、でありますが、
中野正剛の朝日新聞の発禁処分にあたり、その中野正剛から電話で苦衷を聞いた安岡先生は、また、同様に東條内閣に対する意見書を読売新聞で出すのでありまして、それが「山鹿流政治論」であります。p234
「安岡は東條の検閲を十分意識して、「年頭ふと国民の誰知らぬものはない哲人・山鹿素行を想起して、試みにその政治論を約説する」と書き出した。
政治の要諦は、威、愛、清、簡、教の五治であると強調し、つぎのように人の上に立つ者の心構えに警告を発した。
威――上に立つ者はそれだけの品格、威厳があること
愛――民を愛すること、官僚は自分も民であることを忘れ、特別な存在であると錯覚し、民と別け隔てをしがちだが、これはまちがっている。
清――上に立つものが腐敗堕落すれば天下は治まらない。清廉こそ旨とすべき。
簡――事務は簡素にすること。煩雑は政治の失敗と知れ。
教――古くから、上の徳を風にたとえ、万民を草になぞらえて、草は風のままになびくもので、民の堕落は上の教え(教化)がないからだと説いている。
素行の「勝心(慢心)を去れ」「高理(理屈ばること)もよくない」「人を用いるに才と徳を鑑識して、似而非者に欺かれてはならぬ」「賞罰を正しくせよ」「一時の快をむさぼるな」
という教えと五治についての安岡の論文を、東條は自分への批判ととり、ただちに今松警保局長を呼んで怒鳴った。
「これを発禁処分にせよ」
赤鉛筆で新聞を叩きながら、すごい剣幕である。しかし、今松治郎は安岡の論文まで発売停止にするのはまずいと思った。
「総理、命令ならば自分はそうしますが、それでは安岡の弾圧にとどまらず、為政者の心構えを説いている山鹿素行まで弾圧することになってしまいます。それでもよろしいでしょうか」
東條は今松にそう念を押されて、返事に困った。
「もういい。下がれ」
そう言うと、東條は赤鉛筆を投げ出して、席を立ってしまった」
とか。
同じ政権批判でも、方や一方の中野正剛は割腹に追いやられ、安岡先生は不問となったわけですね。正剛、との名の通りの人生を歩まれたわけですが、ただただひたすら、己の正義を実行するだけの正義が本当の、誰にとっても間違いのない正しさかどうかは、これはちょっと迂闊には言えないところであります。
わたしはこの逸話に、この東條閣下の学問の高さに感服するのであります。少なくとも、その当時の日本人は皆、山鹿素行を知っていたし、山鹿素行を弾圧することは非道であった。
ちなみに、山鹿素行とは誰ぞやと言いますと、『中朝事実』を著した江戸時代の学者、軍学者であります。チャイナを中華と呼ぶのなら、我が国は中朝と呼ぶべき、としたもの。
易姓革命によって、王朝も、人種も常に切り替わっているチャイナごときが、中華、華、とは何事か。我が国は万世一系、神代から絶えることなき王朝をいただく無類なき誉れ高い民族であって、我々こそが中華、中国である、ということですね。さらにちなみに、中朝事実の中身は、日本書紀をづらづらと解説し我が国の正当性を主張するのがメインなので、わたしも一回読みましたが、いにしえの神々や人物の名前を読むだけでも非常にきつかったことを覚えております。
しかし、そう考えますと、東條閣下にも揺るがせにはできない、これだけはいい加減にはできない、という一線があるのが分かりますね。安岡先生を弾圧することはできても、山鹿素行は、為政者の要諦を伝える偉人は弾圧できなかった。
ここに、あの、というと何ですが、あの昭和にあってすら、きちんと学問が息づいていたことを感じるのであります。
そう思うと、今はどうであろうか。
山鹿素行や偉人を引き合いに出されて、己の行動を思いとどまるような学問が根付く為政者がどれほどいるであろうか。
自分の中にある、これだけは譲れない、この一線を超えてしまったら自分が自分でなくなってしまう、という確固たる信念、絶対の正義を宿す為政者が幾人いるであろうか。
世の中を広く見渡しても、この人がいれば大丈夫だと思えるような為政者は、一人として見当たらないような気がいたします。しかし、もっと恐ろしいことは、これが底に当たる、とは思えないことであります。
今後、もっともっと、最低最悪、愚劣卑劣な為政者が、登場しないとは、まったくもって言い切れない。今後も、何が起こるかまったくもって予断を許さないのであります。
未来に向かって後ずさりするばかりの人類が、奈辺に向かうのか。
後はくたばるだけのわたしは気楽なものですが、これから未来を生きる人々には、正しい選択を選んで欲しいと思うところであります。
あずまんが大王のOP を聴いて、すかさず 人類は衰退しましたのED を聴きながら