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『木を見る西洋人 森を見る東洋人』を読む



【風邪】を引きました豊臣亨です。おこんばんはです。


 ええ、【風邪】です。


 とは申せ、さすがに37.4℃の熱を計ってしまった時にはまさか、中共肺炎かしら? と心配になってネットで調べますと、中共肺炎による発熱かどうかの「定義」というのはなんと、37.5℃が四日以上、解熱剤を用いても出てしまった時、なのだそうで。


 別のネット記事を読みますと後でこの定義は撤廃されたそうですが、その時は、な~んだ、じゃあ風邪じゃんw と出勤いたしましたとさ。


 で、ネット記事を調べると、色々書いてある。


 そもそもこの発熱の定義についてもそうですが、中共肺炎時の症状についても、筋肉や関節痛、倦怠感、味覚の低下、こんなのは別に中共肺炎でもなくても出てくる症状だ! とか書いてあるから、おお、なるほど、と。


 まさしくこれは、上見て暮らすな下見て暮らせ、の教えでして。


 中共肺炎と思うな、風邪と思え!


 ということで、はい、それがしは【風邪】です。病院にも行っていませんが何か? だって、大した症状でもないのにほいほい病院いくな! とか書いてあるしw


 わたしの自覚症状は、微熱、筋肉関節痛、倦怠感、味覚の低下、あと頭痛くらいなので。肺炎、と言う割には咳もなし、気管支の悪影響もなし、重症化は一切なかったもので。仕事休もうかなぁ、と朝六時頃ネットで調べてて、こんなこと書かれてたら休むのも気が引ける、ということで出勤いたしました。最近人がごっそり減って忙しいもので。


 しかし、簡単に検査受けられると思うな! とか書いてあって、しかも当初は混乱していたのか保健所で、検査に四万円かかるぞ! とか脅された人もいたとかで、何かこういう記事を見てますと、別にこちとらお前らが中共肺炎にかかっていようがどうでもいいんだよ! ってことなんだろうなぁ、と思います。後でうぜぇから、死にそうなら面倒見てやるけどさぁ! 的に入院を認めているかのような。


 パンデミックのど真ん中で、こんな中共肺炎対応で日本人はよくも黙っているもんだなぁ、と思いますね。


 まあ、「空気の読める」民族はさすが一味違う、というところでしょうか。未知の病原菌に対して、みんなで立ち向かおう! というより、臭い物に蓋して知らんぷり、って感じで。ああ、こりゃいつもの日本だw 一安心w 日本に生まれてよかったおw


 ちなみに、もう治りつつあります。家と仕事場を往復するだけの毎日でも、珍妙な流行性感冒には罹患するものであります。皆様もお気をつけあそばせ。八割くらいは軽症で終わるそうですが、重症化するとインフルエンザの数百倍苦しい、そうなので。



 それはともかく、


 最近読んだのがこちら、



『木を見る西洋人 森を見る東洋人』 リチャード・E・ニスベット ダイヤモンド社



 発行は2004年のことで、わたしも大昔にTVか何かでちらっとタイトルを伺った気がしないでもありません。年を食うとこういった東西文化比較というのが面白く感じるので、古本屋によった時にまとめて買った時の一冊です。筆者のリチャード・E・ニスベットとやらはミシガン大学の心理学教授だそうな。


 結論としましては、まあ、タイトル通り、西洋人と東洋人はこういった違いがあります、的な本で、ならばこの東西両文化を橋渡しするにはどうするべきか、とか、この両文化の相違をさらに活かすにはどうすべきか、といった建設的な結論はかけらも見られない程度の、思ったほど感慨深いものはありませんでしたが、意外と現代の状況にも当てはまる部分も散見できて面白い部分もわずかにはありました。程度。


 少なくとも、この西洋社会、西洋文化が規定となっているこの世界で、東洋人がどうあるべきか、どう行動すべきか、くらいは感想として抱ける本です。つまり、海外にいかないわたしには何の価値もない本でした、というところですが。


 今回も気になるところだけ見てみるスタイル。わたしからすると冒頭いきなり、まぢか、と思う一文から始まります。p1 




世界に対する見方はひとつではない




「何年か前に、中国から来たある優秀な学生が、社会心理学と推論に関する研究を私と行うようになった。われわれがまだ知り合って間もないある日のこと、彼がこう言った。


「いいですか、先生。先生と私の違いは、私はこの世界を円だと思っていて、先生は直線だと思っていることです」


 私の顔には驚きの表情が浮かんでいたはずだが、彼は平気な様子で話を続けた。


「中国人というのは、ものごとはたえず変化しながら、結局はもとのところに戻ってくると考えます。さまざまな出来事に広く気を配り、物と物との関係を探ろうとします。全体を見ずに一部だけを理解することはありえないとも思っています。それに比べて、西洋人が生きているのはもっと単純でわかりやすい世界です。中国人とは違って、彼らは全体の状況ではなく、目立つ物や人に注目します。対象の動きを支配する規則さえわかれば、出来事を自分の思いどおりにできると思っているのです」


 私はにわかに彼の言葉が信じられなかったが、同時に興味も引かれてもいた。私はそれまで一度も人間の思考の普遍性に疑ったことなどなかった。


(略)


 私は心理学者として、これらの主張が革命的な意味をもっていると感じた。もし彼らが正しければ、認知科学者は間違っていたことになる。つまり、人間の認知はどこでもみな同じ、ではないのだ」




 もう、この序文を伺っただけで、この教授のオツムの程度を伺うことができる気がいたします。


 東西の両文化は別々の思考を有していて別々の物の見方があるのだ、とかたったこの程度ことを、革命的、などほざくなど、シュペングラーが聞いたら、もしも~し、誰か入ってますかぁ~!? って頭コンコン叩かれますよ。


 これが1800年代とか、1900年代の本だったらともかく、2000年代でこんなことを言っている時点でがっかり感が半端なかったですね。まあ、筆者が心理学者ということで、そもそも論でいいますと、心理学ってフロイトやユングから始まるわけで、フロイトといやぁ、wikiで「男根期」で調べればでてきますが、




「フロイトによればこの時期の小児性欲の中心は性器( )(ペニス・クリトリス)である。子供は自分の器官の性器としての役割を知り、男女の性的違いに気づいていく(精通がある、自慰をするなど)。この気付きには個々人によって、また男児と女児で発達に違いが出てくる。時期については諸説あるが、おおむね3歳から6歳頃までとされる」




 おおむね三歳や六歳程度でもう精通や自慰に目覚める、とか、考えられないんですけど。それとも、白色人種にとってはごくごく当たり前のことなのですかね。わたし、三歳の頃なんて人としての自覚もなかったような…。


 もし、これが仮に西洋白色人種の通常の姿なら、もうこの時点で東洋人と西洋人は永劫わかり合えない気がしないでもない。少なくとも三歳で自慰を覚えるような輩と友達なんてなりたくもない。


 他にもwikiの内容を伺っておると、こんなことを書いておる奴のオツムは完全に腐っているとしか思えない、というのが心理学とやらです。まあ、白色人種の書いたものだからまともに取り扱っておるのでしょう。もし、「女児は男根が無いことに対する違和感を覚え」などというトチ狂ったことを日本人や漢人が論文として書けば鼻で笑われた可能性を否定できないでしょう。


 心理学、なんてのはこういうのから出発しておる以上、このリチャード・E・ニスベット心理学教授、とやらもその程度、という視点から出発するのは自然でしょう。


 で、ある意味当然のことながら、東西両文化の比較を歴史から尋ねるわけですが、しかし、その内容の薄っぺらさに慄然といたします。


 西方の文化の優たるギリシャ文化ではアリストテレスが哲学的思考を発展していったわけですが、それに比べると東洋の漢人では、儒教、道教、仏教という教えが根付いていた。そのなかで、p28




「孔子(紀元前五五一~紀元前四七九年)は、宗教的リーダーというよりはむしろ倫理学者であった。彼は、人間関係の正しいあり方に関心を抱いていた。それは階層的で厳密に規定された関係を指していた。


 孔子の考える人間関係の体系のなかでは、重要な関係にある二者(たとえば夫と妻)が、互いに相手に対して明確な義務をもっていた。


 孔子を開祖とする儒教は、常識の宗教などと呼ばれる。その支持者たちは「中庸」の教えを守ることに努めている。中庸の教えとは、何ごとも極端にならず、二つの主張や二人の論者の両方に真実があると考えよ、ということである。


 とはいえ、実際のところ、儒教は道家思想と同様、真実を見出すことよりも、この世の中を生きる「道」を見出すことのほうに、より多くの関心を払っている」




 ん?w


 孔子様の説明はこれだけ?w


 ってか、儒教の開祖を孔子様というんじゃね~よ! とこんなのに言っても仕方ないのはともかくとして、孔子様の教えは、「中庸」に帰すの?w


 なんだろう、隔靴掻痒(かっかそうよう)(靴の上からかゆいところをかくまどろっこしさ、という意味)感がはんぱないw


 お笑いの面白さは、ツッコミの角度、すなわち35°にあるのだ、とか説明されたような、大間違いでもないけど、そうじゃね~よ! と言いたくなるような感じ。確かに、孔子様は中庸を大事にはされましたが、他に大事すべきものがわんさかある。


 大体、中庸というのはある意味ただのバランス感覚であって、身につけていて当然の感覚であって、これを最高の道徳にするようなものでもない。蜀の諸葛孔明はこういったとか。




「我が心、(はかり)の如し。人の為に軽重する能わず」




 私の心は天秤のようなもの。


 誰それのために罪を重くしたり、軽くしたりなどできない。




 というもの。


 縁故やワイロなどでわたしを動かせるなど大間違いだ、ということで、これぞ、中庸的な実例なのであって、虚心坦懐、真心をもってことに当たれば、それはすなわち中庸なのであります。なので孔明によって罰せられたものは、孔明を恨むことはなかったとか。


 中庸とは、学あるものが当然のごとく身につけるべきものであって、それを目指すものではありません。


 自分の罪を誰かに着せて責任者が自殺しても平然としているとか、無理が通れば道理が引っ込んで警察まで忖度するとか、まともな為政者なら、中庸のあるものなら絶対に起こらないような世の中で、そのことを特段マスコミも知識人も指摘もなければ政権が揺らぐこともないのも、すべての現代人に学がないからであります。


 だから、ヤホーニュースなどをみておれば、誰ぞが殴っただの蹴っただの女子高生を触っただの殺しただの、そんなのばかりなのも、中庸どころか、まともな学がなにもない、そもそもまともな人間が幾人いるやら分からないのが現代社会。そんなのが「常識」になってしまったから、誰もこのことをいぶかしむこともなければ、嫌悪感も感じない。それどころか、一人は寂しい、つながりがないと怖い、などと称して区々たる機器に人付き合いを担保しようとするのですから、どうぞどうぞ頑張って朱に交わって真っ赤っ赤になってくだちい、と言ったところであります。


 中庸が少しでもある人間は、孤独死も現代日本における立派な選択肢の一つであることが理解できるでしょう。


 かのシュペングラーも仏教的涅槃を「不気味な深奥な概念」」と言ったように、どうにも白色人種というものは東洋の学問を理解できないらしく、この教授(笑)の東洋に対する理解力のなさは結構わらわら出てきますが、


 一番読んでいてひどかったのはこれかな? p157




「事実、当時の中国人は、ものごとを属性にもとづいて分類することを明らかに嫌っていたと思われる。古代の道家哲学者の莊子は、


「言葉や属性の境界をいかにして定めるべきか……という問題は、間違いなく人間を人を誤った方向へと導く。知識を分類したり限定したりすることは、より大きな知識を打ち砕くものである」


 と言う。『道徳経』のなかには、分類に頼ることをよしとしない考え方が以下のように述べられている。




五色は人の目をして盲ならしむ

五音は人の耳をして(ろう)ならしむ

五味は人の口をして(たが)わしむ」




 は?w


 いや、おまえ、正気か?w っていうレベルです。


 この一文は、つまり、極彩色は色の感覚をおかしくする、という意味合いでもって使われているものです。


 他にも、




爽口(そうこう)の味は、皆、腸を(ただ)らせ、骨を腐らせる薬だ」




 と『菜根譚』に言うように、古来、東洋では何事においても「過ぎたるはなお及ばざるが如し」という考えが至るところにあることに気付かされます。現代でも、美味いものほど体に悪いことが分かっておりますが、実は東洋人なら大昔から把握していた事実なのであります。ちなみに、やり過ぎと、やらなさ過ぎ、は同じ程度と思いがちですが、やはり、やり過ぎの方が悪いとのことです。


 また、関係あるようなないような、で申しますと、戦国時代、海道一の弓取りと武田信玄公ですら恐れた今川義元公の下にあった虜囚、松平元信、後の徳川家康公の処遇についてこういったことを言ったとされます。


「うまいもん食わせて、豪華な衣服を与えてやれ」


 と。


 これを優しい大名様、と思うでしょうか。今までの流れで明らかでしょうが、真逆の考えですね。真意を問うた家臣に続けて申されたとか。


「うまいもんばっか食べて、豪華な衣服で生活すれば、人間必ず堕落する」


 と。


 さすが、戦国最初期の戦国大名、義元公です。虜囚の扱い方が分かっておられるw


 こんなすごいことをおっしゃるお方である義元公をイメージする時に雲上眉のマロなイラストが合うはずがないわけでありまして。ただ、義元公にとって不幸であったのは、義元公をはるかにしのぐ「化け物」が、尾張にいたということ、でしょうね。


 二万をもってする今川軍に対して、総大将義元公がどこにいるのか、を必死こいて「情報」をかき集め、場所が特定し次第、


 敵本陣中央一点突破


 などという恐ろしい戦法をとってしまうような化け物と対峙してしまったことが、義元公のご不幸であったでしょう。そしてだからこそ、この桶狭間の合戦における戦功第一は、義元公の首級をあげた毛利新助ではなく、義元公本陣の位置を特定したとされる簗田政綱であった、とされるのも「情報」の重要性を何より示すものとされます。


「兵站」の重要性をいち早く理解した石田三成さんもすごいですが、「情報を制するものが世界を制す」ということを何より理解し、堺の重要性を理解し、戦国時代にあってすでに西洋的な「重商主義」を採用した、信長公はことごとく日本人とは異質の存在であることを思い知らされます。


 それはともかくとしまして、


「五色は人の目をして盲ならしむ

五音は人の耳をして(ろう)ならしむ

五味は人の口をして(たが)わしむ」


 って、ぱっとみ簡単な意味、内容ですよねぇ。


 具体的なイメージはつきにくくとも、こう言われれば、まあそうですよね~、と言ってしまいそうなことを、この教授(笑)はカテゴリー化したくなかった東洋人の一つの発言だ、的なことを言うわけで、東洋学問に対してこんな壊滅的な理解力しかないお笑い程度の人間が、東西の両文化を比較しようとか、その点はさすが、白色人種(笑)と言いたくなるところではあります。


 とまあ、結構最初の段階でこの本のレベルが分かってしまいましたし、西洋人と東洋人の思考の差異を実験によって明らかにしてゆくのが本書の目的ですが、そもそも東西の両洋が違えば人間の思考も違っているのが当たり前なわけで、それを改めて指摘したって何の意義や価値も感じられませんでしたが、やはり、それでもこの東西両文化人の違い、という面白い箇所は見られるわけで。p68




「社会心理学者のヒジャン・キムとヘーゼル・マーカスは、韓国人とアメリカ人にいくつもの図形が並んでいる絵を見せて、好きな図形を選ぶように求めた。その結果、アメリカ人はめずらしい図形を選び、韓国人は最もありふれた図形を選んだ。


 また、調査協力のお礼としてペンを一本選ぶようにいうと、アメリカ人は最も数の少ない色のペンを選び、韓国人はたくさんある色のペンを選んだ。


 西洋人は東洋人に比べて、自分を高く評価したり他者から高く評価されることについての関心が高い。アメリカ人が自分について好意的にコメントする傾向は日本人よりもはるかに高い。アメリカ人とカナダ人に対して自己評価尺を用いると、彼らはまるで「レイク・ウォゴビン※」の子どもたちのように、こぞって自分が平均より上だと応える」




※ギャリソン・キーラーの小説「レイク・ウォゴビンの人々」に出てくる町で、そこでは女性は最も強く、男性は誰もがハンサムで、子どもたちは誰もが平均以上の学力をもつとされている、のだとか。アメリカ人がゲームプレイを動画に配信する時、きったない自分の顔を同時に垂れ流すのも、この褒めて褒めてw の思考のたまものでありましょう。また、p112




「中国人とアメリカ人の実験参加者に二分割されたコンピュータ画面を見せた。まず、画面の左側にひとつの図形が一瞬表示され、その直後に、画面の右側に別の図形が映し出された。表示される図形は、左右それぞれ、二種類のイラストのうちのどちらかひとつと決まっていた(たとえば、左側は「メダル」または「電球」のいずれか、右側は「人差し指」または「コイン」のいずれか)


 また、左に表示される図形と右に表示される図形の間の関連の強さは、三段階のいずれかに設定されていた。まったく関連がない条件、ある程度の関連がある条件、非常に強い関連がある条件である。


 関連がある二つの条件においては、たとえば左側に「メダル」が出れば右側には「コイン」が出る可能性が高く、左側が「電球」ならば右には「人差し指」の出る可能性が高かった。


(略)


 中国人参加者はアメリカ人参加者よりも、左に来る図形と右に来る図形の関連の強さを大きく認識する傾向があった。また、アメリカ人よりも自分の判断に自身をもっており、関連の強い条件であればあるほど、ますます自身を深める傾向があった。


 さらに興味深いことに、アメリカ人の場合には、最初に見た組み合わせによって判断が過度に左右される傾向が見られた。たとえば、早い段階で「電球」と「メダル」の組み合わせを多く目にすると、(実際にはそうでなくても)この規則が最後まで見られたと報告した。


 この種の研究(「共変検出課題」と呼ばれる)では、アメリカ人はいつもこういった傾向を示すのである。しかし中国人参加者は、こうした誤りをあまり犯さなかった」




 p121




「第二研究において、ジ、スーと私は、北京とミシガンの参加者に一ニのグラフが載った冊子を見せた。それぞれのグラフは、経済成長率や、世界のがん死亡率など経時的なトレンドらしきものを表していた。


 たとえば、世界の経済成長率(実際のGDPの変化)は一九九五年、一九九七年、一九九九年にそれぞれ三・ニ%、ニ・八%、ニ・〇%となっていた。


 われわれは、ニ○○一年の世界の経済成長率が上がるか、下がるか、現状維持かについて、参加者に意見を尋ねた。


 トレンドには上昇(プラス成長)と下降(マイナス成長)とがあり、また、変化が加速しているものと減速しているものとがあった。図7は、加速しながら上昇するカーブと、減速しながら上昇するカーブを例示したものである。


(略)


 アメリカ人は中国人に比べて、示されたトレンドと一貫した予測を行う傾向が強かった。その傾向は一ニのグラフすべてにおいて見いだされた。上昇トレンドが見られればアメリカ人は中国人以上に、上昇が続けばそのまま続くことを予測した。



 下降トレンドが見られれば、アメリカ人は中国人以上に、下降がそのまま続くことを予測した。また、(略)アメリカ人と中国人のこうした違いは、トレンドが減速しているときよりも加速しているときのほうが大きかった」




 これらをみておりますと、どうしても考えざるをえないのが、


 米国人というものは、直線的に、一方的に、単純に、ものごとを見る傾向が非常に強い民族なのであるのかな、と類推するのであります。


 例えば、現代でも、黒人の首に脚をおいて窒息死させた事件。


 そしてその後に続く、黒人贔屓の引き倒しにおける大混乱。


 米国というものが興って300年ほど。白人というものは、黒人という存在を、いつまでたっても犯罪者風情、という視点から変えることはなかったと考えられるし、また、裏面からいうなら、黒人は、自分たちが犯罪者である、という位置からてこでも動かなかった人種である、ということを、我々に示した事例である、と言えるかもです。


 この白黒問題は、アジア人が思っている以上に根深い、困難な問題であろうことは類推できますが、一番の問題が、今見てきたような、そもそも米国人は、ものごとを、直線的に、一方的に、単純に、考えておるから、この問題は永遠に解決できない問題に成り果てているのかな、とも思う。


 もし、これが米国移民の漢人や、日本人なら、いまもこんな犯罪者としての扱いを受けておるであろうか。と思う。


 漢人や、日本人なら、どれほど迫害されても、嫉視にあっても、排除されても、それでも状況を、お互いの立場を改善をしようと、白人社会に溶け込もうと、努力した、頑張った、のではないかと歴史から類推できる。にもかかわらず、300年あっても、キング牧師のような指導者があっても、黒人は、「犯罪者」という立ち位置から一歩も成長することができなかった、と考えるのであります。


 まさしく、これはいかにも米国人らしい、


 直線的に、一方的に、単純に、


 という民族性の一つの証明なのかな、などと考えたり。


 もし、そうであるのならこの白黒問題は、それこそ、白人だけの町、黒人だけの町、というように、完全なる区切りを設けるまで永劫なくならない問題なのであろう、と思えるのであります。どちらも、直線的に、一方的に、単純に、白人は黒人を犯罪者風情と蔑み、黒人は白人を圧制者と罵る限りは、永劫になくならない問題なのであろう、と。


 こういう記事がありました。





「警官がまた黒人殺害


 とある黒人がハンバーガー店のドライブスルーエリアに停車し、居眠りしていたところを通報され、飲酒運転の疑いがあるとして、警官2人が現場に急行しました。


 最初、抵抗せずアルコール検査に応じていましたが、手錠をかけられようとしたところでもみ合いとなり、警官1人が抜いたスタンガンの一種「テーザー銃」を奪って逃走。追う警官1人が、今度は拳銃を発砲したため、病院に運ばれた後に死亡しました。


 アトランタ市のボトムズ市長は翌日の会見で、黒人が逃走時に警官に向けてテーザー銃を撃ったもようだとしつつ、「そのことが警官による殺傷性の高い武器使用を正当化すると思わない」と過剰な武器使用を認めました。発砲した警官を免職、もう一人の警官も休職とした」




 と。


 通報されたから警官がやってきたわけで、手錠をかけられそうになって抵抗した、ということは公務執行妨害にあたるし、スタンガンである「テーザー銃」を奪って、の段階ですでに犯罪者です。さらに、警官に向けてスタンガンを撃った、時点で今後どういった状況に悪化するかは分からない以上、それで逃走した犯罪者に対して発砲するのは、米国ならある意味当たり前の行動に過ぎないし、発砲するほうが正しいと思われる。それが、この市長は過剰な武器使用だとして警官を免職にした、と。


 テーザー銃は殺傷能力のないものだ、とかほざいてますが、相手を麻痺させる能力はあるわけで、イコールとしてそれを犯罪者が奪った時点で拳銃を奪ったのと大差はない。警官に向かって撃っている以上最悪、拳銃を奪うことだって起こりうるし、民間人に向けて撃てばその後はやりたい放題です。


 警官を悪、としたいからこんなたわごとほざいていられるのでしょうが、明らかに中庸がない妄言でしかありません。


 ポリコレとかいうファッションショーもどきの単語がはやっているように、どうにも米国というのは、直線的に、一方的に、単純に、ものごとを考える傾向が非常に強い気がいたしますね。


 犯罪者風情の取り扱いにそこまで気を使わねばならないなら、いつ銃口向けられるかわからない警官なんかやってられないわけで、ますます治安紊乱を招くでしょうね。理不尽な警察権力に怒りを燃やすのも分からないでもないですが、そうなる過程はほんとうに白人だけが悪なのか、という歴史を見たほうがいいのでは。


 まあ、白色人種、なかんずく、米国人は全体を眺める能力がない、ということを本書でも書いているわけですけどね。


 さらに、こういった興味深い一文も。p235




「ニ、三年前のこと、スタンフォード大学で心理学を学ぶ韓国人大学院生のヒジャン・キムは、アメリカ人の教授からクラスでの発言を繰り返し求められて辟易していた。


 キムは常に、


「意見を述べることができないのは、教材を十分に理解していないことの証だ」


「いかなる場合でも自分の意見を述べ、それに対する教師やクラスメイトの反応に耳を傾けることが、よりよい理解の助けになる」


 と聞かされた。キムにはそれが信じられなかった。発言したからといって何かが得られるとは思えなかったし、友人のアジア人やアジア系アメリカ人学生にとってもそれは同じだろうと思われた。彼らは基本的に、教材を理解する際に言語に頼っていなかったからである。


 たしかに東洋人は伝統的に、話すことよりもむしろ沈黙と知を同等視する。紀元前六世紀に老子が述べたように、「知者は言わず、言う者は知らず」である。


 キムはこうした違いを、われわれが提唱する分析的思考と包括的思考の区別を用いて説明する。分析的思考では世界を有限個の各々独立した対象物に切り分けて捉える。個々の対象物がもっている属性は明確にカテゴリーに分類することができる。


 したがって分析的思考はそれ自体、言語によって表現することが可能である。一方、包括的な思考では多くの対象物とその関係の集合を問題にする。さまざまな属性やカテゴリーの間に明確な区別がなされることは少ない。したがって包括的思考を言語的に表現することは難しい。


 アジア人やアジア系アメリカ人は思考を言語で表現することに困難を感じるのか。この可能性を検証するため、キムは実験参加者にさまざまな種類の問題を与え、自分の考えを大きな声で口に出しながら解くように求めた。


 この操作はヨーロッパ系アメリカ人の成績には何の効果ももたらさなかった。しかし、考えを口に出すように言われると、アジア人やアジア系アメリカ人の成績は大きく落ち込んだ。


 本書で紹介した他の研究と同じく、アジア人と西洋人の思考の性質が異なっているというキムの知見には説得力がある。この研究の実践的な意義は非常に大きい。アメリカの教室でアジア人やアジア系アメリカ人の教育するにはどうすべきか。彼らに発言を求め、自分の考えをクラスメイトと共有することを強いるのは一種の「植民地主義」ではないか。


 知らないうちに、世界に対して包括的にアプローチするためのスキルが損なわれてしまうのではないか。それとも、今後彼らが言語的表現スキルを重視する世界で生きていく以上、たとえ大変でもそれに対する準備をさせるのが当たり前なのだろうか」




 討論、というものを米国ではやたらと重視しますが、アジア人にはそういった、討論によって物事の理解を促進するという思考形態はあまりない、ということがここで分かります。


 また、


「知者は言わず、言う者は知らず」


 はさすがに理解できたようですけれども。


 しかし、この教授は、アジア人に対して、米国流教育を押し付けるのは「植民地主義」ではないか、と、一方ではいいつつも、しかし、「今後彼らが言語的表現スキルを重視する世界で生きていく以上、たとえ大変でもそれに対する準備をさせるのが当たり前なのだろうか」というように、


 郷に入っては郷に従え的な、米国で生きていくんだったら、米国に合わせるべきなんじゃね? ということを言い出すわけですね。


 訳者の村本由紀子女史も末尾で言うように、p263




「皮肉なことに、「西洋vs.東洋」という二分法的なモデルを用いることは、ニスベット自身がやはり分析的な思考の持ち主であることの現れである」




 というように、上から目線で指摘するこの教授自身が、実際の所、米国人の視野から一歩も抜け出せていないことを示しているわけで、もっと大局的な視野、文化融合を推し進めるような価値あることを言えるだけの理解力、などをもった人物ではないことが、本書を読んでいればそれこそ色々と分かることでありましょう。


 当然、この教授の結びの言葉も、p253




「一方から他方へ、他方から一方へという双方向な変化の力によって、「両者が交わることはある」と私は信じる。洋の東西が交じり合うことで生まれるかも知れない新しい世界は、両方の社会や認知の特徴が生かされているものの、いずれも以前のままではない。


 シチューの具も同じである。それぞれの具は確かに見てそれとわかるが、どれももとのままではなく変化している。だからこそシチューなのである。このシチューの中に、あらゆる文化のいちばん美味しいところが入っていることを望むのは、あながち過ぎた願いとはいえないのではないだろうか」




 などと小器用にまとめた感はでているけれども、結局の所、西洋、という鍋の中で、西洋の文化・文明をさらに発展させるためにお前らアジア人ともども多種文化の融合を果たしてくれよ、すなわち、わしらが喰ってやるからお前らよく煮込まれてくれよ、と言っているように聞こえるのはわたしだけでしょうかね。


 少なくとも、わたしはこうして、白色人種の書いた文章をつれづれ読んでおって思うことが一つあります。


 もし、今後、世界が何らかの異変を起こし、西洋的文化・文明から逸脱し、インド的、アラビア的、アジア的な文化・文明が世界の共通、グローバルスタンダードになった時に、真っ先に無能の烙印を押されるのは、実は白色人種にあるのではないか、と。


 かのシュペングラーですら仏教の悟り、というものを理解できなかったように、白色人種という生き物は、根幹的に他文化に対する理解力に欠如があるように思えてなりません。今は、西洋文化・文明が世界の主役ですから幸いにして馬脚を表してはいないものの、これがもし、何らかの異変によって他文化が世界の主役になった時に、この白色人種の壊滅的な理解力のなさは致命的な欠陥となって露呈するのではないか、と思うところであります。


 それこそが、シュペングラーの唱えた、西洋の没落、ということになるのでしょうか。


 もっとも、そんな世界線は今の所、ほとんどないに等しいでしょうが。それこそ、「スター・トレック」の時代にまでならないと起こり得ないでしょうね。地球人どころか、惑星連邦にまで交流が拡大し、多くの他星系の人種と交流が始まった時に、どういった事態が起こるのか。まあ、それまで人類が生き残れば、が大前提でしょうけどね。



 さて。


 話はすごいぶっ飛びますが、ここ昨今の米国の人種問題や、中共の覇権主義にからむ米中対決にまで世界史は至って、こういう文化比較の文献などを見ておりますとしみじみと考えさせられるのですが、文化の力は偉大だな、と思うのです。


 何かといいますと、米国が誕生して300年間、その間に行ってきた悪事をいちいち羅列すれば、それこそ現在の中共すら凌ぐような悪事のオンパレードを米国は行ってきたのであろう、と思うのです。


 しかし、一貫として米国は世界にとって憧れの国であった、とも思うのです。


 建国から300年、米国が造り上げた文化、映画だの、芸能だの、歌だの、ジーンズだの、マクドナルドだの、それ以外にも多種多様な文化が米国から世界に向けて発信されたわけで、世界中の人間が、米国を憎みながらも敵視しながらも、その文化に対して憧憬と羨望の念を抱いていたことは隠しようのない事実。


 大東亜戦争で、血みどろの殺し合いを演じてきた日本人が、戦争に負けた瞬間コロッとやられたのも、もともと日本人は米国に対する羨望があったからであろう、と思うです。


 だから、世界は米国を中心に回ってきた。


 もちろん、それが経済だの、政治だの、軍事だの、という大きな要素はありつつも、文化的な影響力というのは、それらを大きく上回る影響を世界の人々に与え続けていたのではないか。米国の金や、武器に対するよりも「スーパーマン」に対する憧れのほうが実は、深甚な影響を世界に及ぼしていたのではないか、それこそ、意識しない、無意識レベルで世界中の人々を魅了していたのではないか。


 そして、いま、米国の敵として認識された一方である中共はどうか。

 

 経済、軍事、政治、それなりの位置にはいるでしょう。


 しかし、文化、としてはどうか。


 中共の文化、って何でしょうね? このまえ、ジャッキー・チェンさんが中共の指導に従います、って言ったばっかで、中共の影響下にない独自の文化というのはあまり聞こえてこない気がします。


 しかしそれこそ、東洋文化でいうとチャイナに眠る文化的遺産というのはそれこそ山のようにある、歴史の深みや厚みはもちろん、易学や風水に陰陽五行、儒教、道教、神仙、少林拳法や太極拳と、房中術まで加えると、ほんとうに山のようにありながらも、現在、中共は自国の文化にまったく目を向けない。もっというなら孔子学院に至っては、ただの中共の出先機関と化しているのだとか。


 それもこれも、この中共、中国共産党が政治や軍事や経済の発展には血道を上げながらも、文化に関してはまったくもって無視しているからに他ならない。文化の影響などまったくないと思っておるのでしょう。


 しかし、わたしはこの、文化の裾野を拡げるか否か、こそが、国家としての重大な生命線となるような気がします。


 何故なら、不買! 不買! と、まるで羽毛布団のCMのように(若い人は知らないよなぁw 羽毛布団のCM 2倍 で検索検索♪)大騒ぎするどこぞの半島民族までもが、何と「どうぶつの森」の発売には大勢詰めかけたと言うからです。まるで敵国のように大騒ぎをしつつも、それが文化になったらそれまでの敵対心もどこかに鳴りを潜め、買い求めてしまう。それが、文化というものなのです。


 しかし文化的関係でないと、たとえば、中共とオーストラリアのように、蜜月の貿易関係にあった両国ですら、この度の中共肺炎にあっては破綻寸前にまで至ってしまったように、文化は国と国を結びつける大きな意味を持っている気がいたします。


 いくら政治や軍事、経済の発展に血道を上げようとも、文化の発展に何らの関心も払えないようなイデオロギー生物は、結局の所、他の人々から尊敬も、羨望も、憧憬の眼差しも向けられることがない。金の切れ目が縁の切れ目と言うように、薄っぺらい関係しか築けないのではないでしょうか。


 米国がそれでも世界の中心的存在でありながら、中共は世界の敵として認識されているのも、この文化があるかないか、が死活的な問題となっている気がします。


 だからこそ、この豺狼のごとき、餓狼のごとき連中がうごめく世界にあって、日本は政治も、経済も、軍事も、そのすべてにおいてまったく期待できない指導者不足の国だからこそ、民間人の生み出す文化だけが、この国を最後の最後で守る、数少ない方途なのであろう、と思うのであります。


 まさしく、


「無敵」


 の正しい意味なのでありまして、ただ一人最強だから無敵、なのではなく、敵無し、初めから敵を作らない、ということこそが無敵の本来の意味なのであります。


 中共とは違って、日本は昔からの文化・伝統だって今に受け継いでいます。剣道・弓道・柔道・空手に、華道・茶道・日舞、伝統工芸や伝統芸術、アニメや漫画にゲームと、世界中に様々な文化を発信できる能力があるわけで、日本に憧れ、日本を尊敬する人たちは世界には大勢いる。


 そういった文化的交流こそが、日本を破滅から救う、日本を援護してくれる国を増やすことに繋がるでしょう。


 まあ、そんなことわたしごときが言うまでもなく、日本人は大昔からやっているわけですけれどもね。新しい冷戦構造、または、第三次世界大戦に向けた、日本人の取りうる選択肢。それは、頑張って文化を布教するのみ、と。


 らしい、っちゃ~らしいw


 試しに、平成元年である1989年を検索してみるといいです。



2月2日 - ソ連、アフガニスタンから撤退開始。



2月3日 - パラグアイで発生した軍事クーデターにより、1954年より35年間独裁政権の座にあったアルフレド・ストロエスネル大統領が失脚。



2月6日 - ポーランドで政府と反体制勢力による円卓会議はじまる。4月5日まで。



4月26日 - リクルート事件渦中の竹下登日本国内閣総理大臣の秘書が自殺。



6月4日 - 北京で天安門事件が起きる。中国では1989及び64はネット検閲対象の数字になっている。



6月18日 - ミャンマーの軍事政権が同国の英語国号を「Burma」から「Myanmar」に改称。



6月 - ポーランドで、自由選挙実施。非労働党政党「連帯」が上院過半数を占める。東欧革命のさきがけ。



9月19日 - UTA航空772便爆破事件。



10月23日 - ハンガリー人民共和国が社会主義体制を完全に放棄し、ハンガリー共和国に。



11月10日 - ベルリンの壁崩壊。ブルガリアで共産党書記長のトドル・ジフコフが失脚。これを機にブルガリアでも民主化が始まる。



11月24日 - チェコスロバキアでビロード革命。共産党政権が崩壊。



12月3日 - アメリカのジョージ・H・W・ブッシュ大統領とソ連のミハイル・ゴルバチョフ最高会議議長がマルタ島で会談し、冷戦の終結を宣言(マルタ会談)。



12月20日 - 米軍パナマ侵攻。



 世界は革命だの紛争だの侵攻だのベルリンの壁崩壊だの天安門だの、激動の最中にあって、日本でもリクルート事件もありつつも、



4月21日 - 任天堂の携帯型ゲーム機「ゲームボーイ」(GAME BOY) が日本で発売開始(北米では7月、欧州では翌年発売)。


8月14日 - セガ・エンタープライゼスが“Sega Genesis”(前年に発売された日本のメガドライブに相当)を北米で発売。



 どんだけ平和やねん _ノ乙(、ン、)_



 もう何をどう間違っても日本は軍国だの軍拡だのありえないんで、そのままいくしかないですw



 と言ったところで、この度はこれまで。


 したらば。




 夢のクレヨン王国のOP・EDを聴きながら



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