『ツチヤ教授の哲学講義』を読む
おこんばんはです。豊臣亨です。
今回の読む読むシリーズはこちら。
『ツチヤ教授の哲学講義』
人生初の電子書籍での購入です。
基本的にこういった電子書籍媒体には興味がなく、今の今までこういったものには手を出さなかったのですが、つい購入してしまいますた。
なんでかと申しますと、仕事場でカントとか読んでおりましたら、仕事場の人がアカデミックな本読んでますなぁ、なら土屋賢二の本とか面白いよ、などと言われまして。fmfmなるほど、と当初は書店を巡っては見たものの、エッセイ的な本は売ってはあるもののこういう哲学に関する書籍はまったくない。
書店によっては検索機能もないところもあるし、膨大な書籍の中から土屋さんの本を探すのは一苦労。
しかもご時世なので、あまり出歩けない✕ 引きこもりで出歩く気がかけらもない◎
となると、と必死こいて宣伝してくる「レンタ」とかどんなもんかいなと見てみるものの、レンタ、の名の通りレンタル的な商売なのだが、漫画一冊一冊が異様に値段が高い気がする。無制限レンタルとか、いやいやそれだったら本買ったほうが精神的にいいよね!? って言いたくなるような値段設定なのでなんか腹たって、宣伝量控えめな「シーモア」で購入決定。
土屋さんの本の値段はやはりそれなりにはするものの、他の漫画とかは無料で試しに読めたり、安めで購入できたりとやはりなんか過剰な広告で値段高めに設定してそうなレンタよりは安い気がします。
で、生まれて始めて電子書籍を読んでみますと、やはりメリットは軽さ、でしょうか。
わたしなんか、買うときは一冊2000円の本とかぽんぽん買うのですが、そこそこ重いので読んでいると手がプルプルしてきますが、さすがにスマホを片手で持っててプルプルはしない。
しかも、スマホでもパコソンでも共有できるので読みたいもので読める。しかも場所を取らない。わたしの場合本棚で結構部屋のスペース取るのでこれらを電子化できれば相当な圧縮になりますね。場所的にも重量的にも。
デメリットとしましては、この本特有なのかも知れませんが、ページ数が記入していないので総ページ数が分からずどこまで読み進んでいるのかさっぱり分からないこと。また、わたしはこうしてブログで取り上げる気で読んでいるので付箋が欠かせませんが、パコソンでは付箋が貼れないっぽい。スマホではブックマークってのがありますが。でもやはり「モノ」として存在していないので感覚として把握しにくい。まあ、何でもかんでも慣れ、なのでしょうけど。
今の御時世的に、いちいち出歩いて本を探すより、目的の本が瞬時に電子で買えて読める、というメリットは計り知れないでしょうね。万引とかを常に警戒しないといけない大型書店などが衰亡するわけだ。
とはいえ、古本屋さんに入ったときの、恐ろしく古い、昭和初期とかの文献が見つかったときの面白さ。古本特有のあの、カビ臭いんだかなんだか言えないあの香りは、やはり捨てがたい。何とか共存していってもらいたいものです。
それはさておき、さて中身のお話でございます。
この本は土屋教授の、大学での講義の一コマを切り取ったもののご様子。大学生に、哲学とはなんぞや、というのを講義したものの文字起こしですね。中身は平明で非常に分かりやすい。まず、冒頭からして面白い。
「本書の目的は、哲学を知らない人に、哲学がどんなことをするものなのかを理解してもらうことである。本書を読むのに予備知識は不要である。先入観も偏見も腕力も負債も不要である。ふつうの判断力と常識があれば十分である。
なぜこういう本を出すかと言うと、哲学が十分に理解されているとは思えないからである。事実、一般の人の哲学観は混乱しているように見える。
多くの人は、「いかに生きるべきか」とか、「生きることにどんな意味があるか」とか、「自分とは何か」といった哲学的問題が重要な問題であることは認めている。それなのに、そういう重要な問題に取り組んでいる哲学者を、うさんくさいと思っている。
たとえば、わたしが「哲学をやっている」と言うと、よく「どうして?」という問いが返ってくる。「どうして万引きしたのか」と聞くときの口調だ(もしも物理学や経済学をやっていたら、「どうして?」と理由を聞かれたりはしないだろう)。
また、ある人が親に「ツチヤという人は哲学をやっているんだよ」と言ったところ、その親は「哲学って、若いころは誰でもハマるものなのよ」と言ったという。このように健全な人間は哲学をやるものではないと考えられている。
それなら、哲学者をすべてうさんくさいと思っているかというと、混乱することに、ソクラテス、プラトン、デカルトなどの大哲学者は、尊敬の目で見られているのである。わたしのような哲学研究者は、人間的に問題があるという理由で信頼されないかもしれないが、ほとんどの人は、哲学の中身を十分知らないまま、こういう判断を下しているのである。
哲学を重視しているのか軽視しているのかと聞くと、「重視している」という答えが返ってくる。重視しているのなら、もっと哲学のことを知ろうとしてもいいはずだが、実際にはそれほど知りたがっているようにも思えない。
わたしの知り合いが「哲学者は何を考えているのか」と聞くので、わたしが正直に「今晩はラーメンにしようか、カツカレーにしようか考えている」と答えると「ふざけるな」と怒られる。それなら研究の内容を知りたいのかと思って説明を始めると、「用事を思い出した」と言って立ち去ってしまうのである。
だから、一般の人が何を考えているのか、混乱するばかりである。しかし中には、哲学に関心をもち、哲学のことを理解しようと思っている好感のもてる人もいる、とわたしは信じている。本書はそういう人のためのものである。哲学を理解した結果、哲学者あるいはわたしが、さらに信頼を失うことになるかもしれないが、たとえそうなったとしても、今とたいして違うわけではないから気が楽だ」
この一文に満腔の共感を覚える次第でありまして。
人はこうして日常を生きているわけです。
なら、こうして生きるにあたって何をすべきか、なにをすべきでないか、何が良くて何が悪いかというのが当然あるわけですが、人々は日常の中に埋没し、常識やら習慣やら世の流れにそのまま流され、せっかくの自分のオツムをほとんど使うことなく一生を終える、というのが人の世の常です。
現代で言うなら、ワイドショーの戯言に流され、自粛警察まで出てくる始末。ゲバ文字とか使ってる時点で完全に全共闘時代の遺物の仕業じゃねぇか、とすぐに分かりますが、自分の中の確固たる正義ではなく、世の、なんとはなしの空気やら雰囲気に流されてそれを己の正義にすり替え、それで他者を罵って自分のくだらん人生を何とか糊塗した気になって無為な日々を生きておるところなどは、いかにも一般人というものの有り様、と思うところです。
とはいえ、こういうのは今に始まったことではなく、人の世があるところ過去から未来永劫続くことでしょう。
仏教でも十二因縁の始まりが「無明」なのも、明けること無し、と言って人は放っておいたら、欲だの業だのの迷いの中で一生をさまよい歩くだけであるから、本当の教えを学んで、そういう迷い、惑いから、脱却、解脱しなければいけないのだ、というのが仏教の教えなわけで、人のすることに未来永劫なんの変わりはないということです。
だからこそ、哲学的なアプローチで、日本人の大好きな尊欧卑亜で、西洋白色人種の哲学でも身につけて、人生に活かせば、と思いますが土屋教授はそうではない、とおっしゃる。小難しいことになると逃げ出して、哲学なんぞはハシカか水疱瘡くらいに思っておるのでしょう。ちなみに、「今晩はラーメンにしようか、カツカレーにしようか考えている」と答えて、ふざけるな、と怒る人間か、それとも真面目に付き合ってくれるか、で人間を試している部分もあるわけですね。怒る人間はしょせん、知り合い程度の存在です。そもそも質問が悪い。何を考えておるのか、などと人を小馬鹿にした質問がどれほど失礼なことか、こんなことすら想像する能力もない時点でお話にならない。手塚治虫先生に、「なんでベレー帽かぶっているんですか?」と聞くくらいの無意味な質問です。
では、そも、哲学とはなんぞや、が本書の中身であります。一度全部読んでから、土屋教授の「哲学者あるいはわたしが、さらに信頼を失うことになるかもしれないが」という一文を改めて伺いますと、何とも言えないものがありますが、それはともかくまず、哲学とは、
「哲学は実験するわけでも、観察するわけでも、調査するわけでもない。自分で考えてみて納得するかどうかが哲学のすべてである。ゼロから考えて納得するという要素がなければ、哲学とは言えないと思うのである。だから学生によく言っているのだが、教師のいうことや教科書に書いてあることをノートに書き写して暗記しても、哲学について理解したことにはならない。このことは非常に重要なことである。ぜひ、これをノートに書き写して暗記してもらいたいと思うほどだ。
(略)
かりに、「いかに生きるべきか」という問題に大哲学者が答えたとしよう。そして、その答えにすべての哲学者が賛成したとしよう。それでも、無反省にその答えの通りに生きようとする人がいるだろうか。自分で納得しない限り、哲学者の意見に従う人はいないはずだ。「人生にはどんな意味があるのか」「自分とは何か」といった問題についても同じである。
それを研究するのを他人にまかせて、自分は出てきた結論だけを鵜呑みにすればいいと考える人は、ほとんどいないと思う。だが哲学は、他人任せにできないものなのだ。そして、それは自分で考えて納得するということが哲学の生命だからである」
兄より優れた弟など存在しねぇ!!
という箴言が世界には存在しますが、少なくとも、キリストより優れた弟子、孔子様より優れた弟子、お釈迦様より優れた弟子、というのは世界には存在しないようであります。
芸事の世界でも師事というのがありますが、どうして弟子が師匠を超えることがないかといいますと、安岡先生の本のどこかにあった気がしますが、弟子というのは、師匠の背中を見ていますが、だからといって良い面だけを見ているのではなく、女にだらしないとか、金に汚いとかそういう悪い面をよく見ている。だからといって、師匠を師匠たらしめる厳しい下積みや修行の場面などはそうそう見ないから、弟子というのは結局、師匠を超えることはないのだ、とのことです。
こういう偉大な人たちの、偉大たらしめる部分というのはあんまりパッとしませんので、どうしても派手な部分ばかりが脚光を浴びますが、でも、本当の、偉大な人を偉大にした部分というのは地味な修行や勉強の部分です。偉大な人が遺した一言や出来事というものは、その、余人が到底、理解も予想も及ばないような下積みの中から、徐々に磨き上げられていった思想の中からの、まろみなわけですね。
ドラゴンボールとかでもそうですが、厳しく大変で、大切な修行のシーンはすっぱりとばしていきなり数年後の天下一武道会になるのも、そういう分かりやすさ重視の故ですね。まあ、結局ただの人間はサイヤ人には永劫勝てないわけですが…。何だよその、死にかけのほうが強くなるって、チートだろ…。今更ですけど。あと、関係ないですけど、このチートって言葉、本来はプログラムを不正にいじって強くなる、とかの意味のはずですが、最近は強すぎて卑怯だろ、くらいのニュアンスで使ってる気がしますね。まあ、これもどうでもいいんですけどね。
また、「売り家と唐様で書く三代目」というのも、偉大な親、初代、次代を理解できない、与えられた地位におごった三代目が落ちぶれるという人の世のお決まりのパターンも、こういうことですね。三代将軍家光で早くも徳川の屋台骨がきしみ始めたのもわかりやすい一例ですね。確かに、自分で納得する、というのがものすごく大事なのですが、しかし、これほどわかりにくいものもないのも事実。「若いうちの苦労は買ってでもしろ」というこの言葉に納得できる時は、すでに手遅れなのも、人の性です。
わたしなどは、生まれついての老荘思想的人格であることを除いても、物心付く前から苦労ばっかで、わたしの人生から苦労をのけると他は語るようなものはないだろう、ってくらいで、この納得する、というのは骨身に沁みてよく分かっておりますね。もう、分かりすぎて(?)わたしの人生は苦労するためだけにあるのだ、と思っておる次第。だから、様々な書籍から学んでおりますし、学んだことを日々、実践できるように生きている。様々な事柄について思索を重ね、すでに了解しているので、そういう意味では袁了凡先生のように、凡を了えているけれども、先生と違って、凡で了わる、のも分かっているので、のんびりしたものであります。
納得する、の意味であります。
とまれ(ともあれ)本書の続き。
「哲学者の間では、どんなことが哲学の問題であるかについてほぼ共通の認識がある。しかし、どうすればその問題を解決できるかという点になると、哲学者の意見は、大きく二つに分かれている。大まかにいうと、哲学の問題はこの世界の深遠な真理を解明することによって解決されると考える立場と、そういうやり方では解決にならないとする立場がある。驚くかもしれないが、同じ問題を考えているのに、研究の方向が一八○度違うのである。
(略)
それぞれの主張に納得できるかどうか、自分の頭で考えることができるように努めたつもりである。自分で考えた結果、わたしの言っていることが納得できないという結論に達してもかまわない。個人的には喜べないが、自分の頭で考えて納得するという経験をしてもらえば、本書の目的を達したことになるからである」
わたしの結論に関しては、本書を読みながら申してゆこうかと存じます。
では、これから土屋教授の講義の内容に入ってゆきます。
「ふつう、哲学というと、深遠な真理を解き明かすものだと思われていますよね? 深遠な真理とはどういうものかというと、たとえば、(略)「この世界は何のために存在しているのか」とか、「神は存在するのか」とか、「存在とは何であるか」とか、「時間とは何か」とか、そういう問題になると深遠そうな感じがしませんか? 「自分とは何か」「昨日の自分と今日の自分はどうして同じ人間だと言えるのか」といった問題も深遠に思えます。こういう問題は哲学の問題と考えられてきました。
(略)
哲学者の中には、もうひとつ別の立場があって、哲学が解明するのはそういうものとはまったく違うものだと考える人たちがいます。じゃあ、哲学はどんなものを解明するのかというと、たとえば、ことばであると。哲学の問題はことばの使い方みたいなものを解明しないと解決できないと考える立場があるんですね。
ことばをきちんと理解すれば哲学の問題は解決できると考えるんです。
どうしてそんなことを考えるのか不思議に思われるかもしれないんですけども、ぼく自身はこの立場の方が説得力があると思っています。でもぼくは間違っているかもしれません」
fmfm
哲学的な問題の解決のアプローチはことばの使い方である、と。
でも、この考えがあっているかどうかは、絶対の確証はない、と。
なるほど。
その、ことば使いの哲学者に、ゼノンという人がいて、このゼノンはパルメニデスという人の弟子だったようですが、このパルメニデスの主張を補強するために、こういうパラドックスを展開したそうな。
「「飛ぶ矢は飛ばない」というパラドックスがあります。
パラドックス(paradox)というのは、ギリシア語でね、paraは「何かに反する」という意味で、doxはもとはdoxaという単語で、「人々の意見」とか「一般の常識」といった意味です。だから、パラドックスというのは「常識に反したこと」なんですよね。
ふつうに考えると、飛ぶ矢は読んでいるのが当たり前なのに、ゼノンはその常識に真っ向から挑戦して、「飛ぶ矢は飛ばない」と主張しました。たんに主張するだけじゃなくて、証明しています。どういう証明かというと、たとえば、矢を放って矢が飛んでいるとします。そうすると、ある瞬間をとってみると一点では止まっていますよね。
で、次の瞬間をとってみても止まっていますよね。どの瞬間をとっても矢は止まっています。たとえば一分間でこっちから向こうへと到達するとして、その間のどの瞬間にも止まっています。どの瞬間も止まっているわけだから、止まっている状態をいくら集めても運動は出てきません。わかりますか? わかりますよね?」
わかりませんw
証明した、っておっしゃいますけど、そのゼノンとやらは時間でも止めて、矢が止まっていることを証明でもしたんでしょうかね?w その時は、観察する人たちも一斉に止まっているはずですが、そこをどうやってクリアしたのか?w
これ、東洋でもこういうの、ありましたね。
白馬非馬といって、白いとは、色の概念であって、馬とは形の概念である、この二つによってできている白馬は馬という概念とは別個のものである、という古来有名な詭弁ですね。
こういう詭弁学派というのがちょっとイキっていたそうですが、すぐに皆から見下されるようになったそう。東洋では幸いにして、こういうたぐいの論法はすぐに廃れたようですが、西洋では結構勢いがあったみたい。また、これに関連してわたしはとあるお話を思い出しました。
ある時、足利義満将軍が、一休さん(年代的に一休さんが世に出たときには義満公はすでに将軍職を息子の義持公に譲っていたんだとか ><)に、屏風に描かれたトラを捕縛せよ! とトンチをしかけました。
一休さんは一時頭を捻って、わかりました。わたしがトラを捕まえますから、将軍様は裏に回ってトラを驚かせて屏風から追い出してください! というもの。ゼノンのパラドックスというのは、まさしく一休さんのトンチ程度にしか見えません。
で、アリストテレスは、このゼノンの主張を間違っていると言ったのだとか。
いくら、「どの瞬間にも静止している」と言っても、わずかでも位置を変えれば運動しているに決まっている。「瞬間」とは、幅のない時間のことで、幅が少しでもあれば、矢は移動していることになる。矢を放てば確実に位置を変える以上そんな瞬間的な時間の幅をもってきても意味はない、別の言い方をすれば、時間の幅がない、とは時間が完全に停止していることであるから、そもそもそんな議論は意味がない、と。
この一見、不毛に見える、てか、不毛にしか見えない論争に関して土屋教授はこうおっしゃいます。
「ここで注意してもらいたいのは、ゼノンの主張に対して、アリストテレスがどうやって反論したかということです。アリストテレスは事実を突きつけて反論したんじゃなくて、ゼノンのことばづかいは間違っている、と指摘することによって反論したんです。
ゼノンのパラドックスは典型的な哲学的問題だし、アリストテレスの主張も哲学的解決です。
そんなに深遠な感じはしないかもしれないし、小さい問題かもしれないんですけれども、典型的な哲学の問題です。哲学の問題をどうやったら解決したことになるのかということを、この例がよく示しています。矢や運動体を観察して、未知の事実や法則を発見して反論しているんじゃないんですよね。たんにことばの使い方が間違っているよと言って反論しているんです。そしてことばづかいを間違えなければ問題はなくなるよと指摘しているんです」
哲学的な問題提起や解決法が、一休さんのトンチのような、言葉遊び、概念のお遊戯のごときものであるとしたら、わたしは永劫、哲学に関わらなくてよかった、と思えますが。そう思うと、カントを読んだときの不快感、ってこういうことかなぁ、一応、真面目に読もうとしたらトンチで返された、みたいな感覚を覚えたのかも。カントとしては、純粋理性とか、自分のなかですごく納得して言っているんでしょうけど、他の人間には一切理解できない、神から与えられた先天的叡智、とかトンチに類するものだったから、バカじゃねぇの、と思ったのかも。東洋では、トンチ、という概念があるから、こういう屁理屈、詭弁を、トンチ、と理解できるけれども、西洋では、哲学、として立派に扱われているのかも。
また、土屋教授の講義で、形而上学が出てきます。
「哲学はいったい何を明らかにするのかということです。哲学は、問題を立ててそれに答えるもんだということ、それを厳密に緻密にやっていくということ、観察可能な事実を明らかにするのでもないことはわかりました。じゃあ何を明らかにするんでしょうか。自然に出てくる答えは、哲学は観察の可能な事実を超えた形而上学的な事実を明らかにするんだ、というものです。
「形而上学」ということばは、聞きなれないことばですよね。説明は省きますが、このことばは非常に数奇な運命をたどった上に、哲学者がそれぞれ勝手にいろんな意味で使ったりしたために、ますます意味がはっきりしなくなっています。でもこの講義では、この言葉を特定の意味に使います。世界は、手で触ったり、目で見たり、感覚で捉えることのできるものから成り立っていると思えますよね。でも、そういうものや、観察できる事実をさらに超えたものが存在すると考えられることがあります。それを「形而上学的なもの」と読んでいます。
この形而上学的なものを研究するのが形而上学です。ちょうど科学が観察可能な事実を研究するのと同じように、形而上学は観察可能な領域を超えた事実を研究するんです。哲学史上、かなり有力な考え方は、この形而上学の仕事こそ哲学の仕事だという考え方です。だから「哲学」を「形而上学」とほとんど同じ意味で使っている人が、哲学者の中にかなりいます」
ここらへんが、東洋と西洋の違いをみる気がいたします。
西洋では、基本的になんでもかんでもかっちりしていないと気がすまないようです。でも、そんな観察不可能な領域を、各々好き勝手に定義し初めたら、収拾つくわけがない。
でも、東洋だったら、たとえば、易学がありますね。
卜易は、これも形而上学的な、世界の本質に迫ろうとする学問で、人間を占ったりしますが、人間を占うとはどういうことか、これは何度も申していることですが、統計学で、何年何月何日何時に生まれた人間は、こうこうこういう人生をたどることが分かっているから、あんたさんはこうこうこういう人生ですよ、と言う。
でも、人間には、運命と宿命というものがあって、宿命はこの、何年何月何日何時に生まれた人間は統計としてこうこうこういう人生を生きる、というのが決まっている、分かっているのだけれども、運命ともなればその後のその人の考え方次第、生き方次第でいか様にも変化が可能であるから、だから、当たるも八卦当たらぬも八卦といって、きっちりなにがし、とは決められないし、言えない。
観察可能な部分で、宿命がでているけれども、観察不可能な部分で、運命でもってどうとにでも変えられる。良くも悪くもきりかえられる。これらはぶつ切りにこの時この時で切り替わるものではなく、何がどう影響しているのか、分かり難いものであるから、断定的なことは何も言えない。
そういうことが東洋では古来分かっておるから、こういう、形而上学、などという学問がついぞ起こらなかったのであろう、と思えます。つまり、分からないということが分かっていたから何も言わなかった東洋と、分からないということが分からなかった西洋は、こういう学問を打ち立てた。これは、後々にも出てきます。
それはともかくとしまして、プラトンは、こう言ったそうな。
「僕らがふつうの事実についてどんなに知ってたとしても、「われわれはいかに行動すべきか」とか、「何が本当に自分のためになることなのか」「ためになるということはいったいどういうことなのか」ということがわからなければ、何の役にも立たないと。たとえば水爆やミサイルをもっていても、あるいは何億もの金をもっていても、それをどういうときに使うべきなのか、どう使えば自分のためになるのかということを知らなければ、何にもなりません。
ぼくらが生きている状態をプラトンはどう考えたかというと、人間はいったいどうすれば自分のためになるのかということもわからないで生きている。たとえば、お金を儲ければ自分のためになるのか、長生きすれば自分のためになるのか、ということさえわからないもの、とにかく何か目標を定めて生きていくしかないわけですから、あてずっぽうで生きているほうなものだとプラトンは考えるんです。
(略)
少なくともプランとは欲望のままに生きるのは人間本来の生き方とは言えないと考えていました。何が本当に自分のためになるのか、何が善なのか、何が価値あることなのか、を知って、それに従って生きるべきだと考えたんです。何が自分のためになるかという問題の答えは、いくら世界を観察しても見つかりません。観察可能な事実をいくら集めても、その中には見いだせない。答えは、形而上学的なものの中にあるとプラトンは考えました。
ですから、プラトンにとっては、この形而上学的な世界、これこそが人間の生き方に関わる根本的に重要なことなんです。これを誰が明らかにするのかといったら、科学者でも宗教家でもなく、哲学者だと彼は考えました。もし形而上学的世界にある善とか価値とか、「いかに生きるべきか」の答えとかを知らなければ、人間はただあてずっぽうに何が善いのか、何が自分のためになるのか、わからないまま一生を終えるしかありません。それほど悲惨なことはないと彼は考えています。そしてこういう形而上学的世界を明らかにするのが哲学の役割だと考えました。
(略)
プラトンの考え方は、かなり極端なところがあります。そこまで極端じゃなくても、同じような考え方をもった哲学者はかなりいるとぼくは思います。ふつう形而上学者だと考えられていないような哲学者の中にもいると思っているんです。そして、そういう考え方は全部間違っているとぼくは思っています」
えー。
全部間違ってます?w
プラトンをwikiでみますと、
「プラトンの思想は西洋哲学の主要な源流であり、哲学者ホワイトヘッドは「西洋哲学の歴史とはプラトンへの膨大な注釈である」という趣旨のことを述べた」
ってありますけどw
プラトンのこの考え方は、東洋思想にかなり近くて、なので、哲学や形而上学というよりは、思想、というべきでしょう。だから、プラトンは世界の本質を明らかにしようとか、謎を解明しようという方向ではなく、無明の世界をただ闇雲にさまよい歩いている一切衆生を済度せんと欲している仏教の考えに近いと言えます。
また、正しい教えを打ち立てることによって、人々に指針を示すべき、という考え方は儒教そのもの、といえるでしょう。プラトンの主唱した哲人政治は、まさしく孔子様の目指された、王を補佐する儒家、という立ち位置に近いといえるでしょうし。
ただ、儒教や仏教は、まず、自分自身がその教えを実践し、実行し、自分がその教えそのものとなり変わって、自覚覚他、自分が悟ることによって他者も悟らせる、という、行いが主軸です。プラトンのwikiをみる限りにおいては、プラトンの主張と、プラトン自身がどれほど合致していたのかはさっぱりです。時代的には孔子様とプラトンはだいたい同じ時代を生きていて、孔子様の言動はかなり残されていますが、プラトンの言説を伺うことはできますがその動きを伺うことはできません。言うことは立派なれど、行いはまったく別、となれば、さすがに諭吉も侮蔑することになります。
この、己を、己の思想と一致させるか、できないか、はかなり死活問題ですが、こここそが、東洋と西洋の根幹的にして決定的な違いなのかもしれませんね。
それはともかくとして、土屋教授の講義はその後も概念のお遊戯のごとき他の哲学者のトンチの解説が続きます。ベルクソンとかいう人は、「時計を使って測るような時間は本当の時間じゃない」とか、デカルトは「変化の前に知覚されていたものは変化の結果、すべて失われる。蜜蝋(ミツバチの巣を精製したもの、とか)そのものは変化を通して失われない。ゆえに蜜蝋そのものは知覚されない」とか、結構な紙幅を費やして文章がなされますが、すでにトンチ、と思っているわたしにはこれらはすべてどうでもいいものに見えましたが、あと気になった部分としましては、デカルトの有名な一言。
「われ思う、ゆえにわれあり」
これは、すべてを疑って物事を見始めたとして、しかし、決定的に疑えないものがある、というもの。それは、いま自分が考えている、思考している、という事実だけは疑えない、というもの。この不確定な世界において、確実に成り立つもの、絶対に疑いようのないもの、すなわち、いま自分が思考している、という感覚だけは疑うわけにはいかない、というものだそうな。
で、土屋教授が、「われ思う」が疑いようのない事実なのは、言語規則によるから、なのだとか。
デカルト自身は、究極の真理を発見した、と思っているのだけれども、実際は、「われ」「思う」という言語を使っているに過ぎない。この言葉が正しく運用されているから、「われ思う」が確実なのである、と。「われ」を示す単語が曖昧で、「思う」を示す言葉がいい加減なら、「われ思う」という主張すら意味不明になってしまう、とおっしゃる。
う~ん、噛んで含めるようにトンチの種明かしされているような気分w
さて、そろそろ本書も大詰め、とある哲学者が出てきます。その名もウィトゲンシュタイン。土屋教授は珍しく(?)ウィトゲンシュタインの家族構成やら生い立ちやらおっしゃっています。相当高貴のお生まれらしく、小学校になんかいかないで家庭教師に学んでいたとか。で、ケンブリッジ大学のラッセル教授に哲学的才能はあるのか問うたのだとか。で、ラッセルから認められて数年間彼のもとで学んだ。それまで、家庭教師について、高専みたいな学校に通って、哲学についてはまったく知らないはずが初めて哲学を学ぶこととなる。
そのウィトゲンシュタインの基本的な考え方は、「すべての哲学的な問題はナンセンスであるというもの」だとか。
ほほう。
「つまり、問題自体が間違っていて、問題として成り立たない、問題を立てることが間違っているということなんです。たとえば、「人間はなぜ八本足か」という問題は、問題自体が間違っていますよね。哲学の問題はすべて、これと同じように間違っていると考えました」
ほほう。ウィトゲンシュタインは言語ゲームという考え方を提唱したとかで、たとえば、喫茶店でウエイトレスにコーヒー、と言えばコーヒーが出てくる。これは、コーヒーというと、ウエイトレスがコーヒーを持ってくる言語ゲームだと考えられる。
だから、コーヒーと言って紅茶が出てきたり、チキンライスがでてきたら規則違反。
また、コーヒーと言って、ウエイトレスがコーヒーを飲んだら規則違反。コーヒーという特定の飲み物を発言者のもとにもってゆく、というのがルールである、と。実際に間違えて紅茶を持ってゆくこともありえますが、その場合は「間違えた」と言う。その「間違えた」というのも規則の一部。何故なら、コーヒーと言われたらコーヒーを持っていかないといけないという規則があるから。
これが何をやっておるかというと、コーヒーという記号を、音声や文字を通して他者に伝達しているのだということ、自分がコーヒーを認識していて、それを相手に伝達すれば、相手もコーヒーを認識していて、それを規定通りにもってきてくれる、そういう言語でのゲームというルールの中で生きている。コーヒーといってウエイトレスがチキンライスをもってきて、それを客が黙々と食べ始めたら、どちらもコーヒーというものを認識していない、ということになる。
言語には、真偽と、意味があるかないか、があるという。
たとえば、「地球は丸い」とか「地球は平たい」とも言える。大きくみれば地球は丸いし、小さく見れば地球は平たい。こうして事実と照合してあっていることばが真である、決して「地球は四角である」とか「地球は存在しない」とはいえない。
また、「丸は地球い」とか「平地球はたい」ではことばとして意味がない。
ことばとは、それが何語であれ、宇宙公用語であれ、きちんと機能してたとえ記号を用いてでも、たとえば、「地球は○い」とあっても変換できることがことばである。しかし、そこにあるのは、あくまで事実を写しているに過ぎない、とウィトゲンシュタインはいう。
「本質というのは、「何であるか」と問われたときの答えになるものです。定義によって明らかにされるもののことだと言ってもいいし、あるいは、対象の不可欠の性質だと言ってもいい。(略)たとえば水を例にとってみると、水は透明だとか、喉をうるおすとか、一〇〇度で沸騰するとか、一ミリリットルで一グラムの重さをもつとかいろいろな性質をもっていますね。でもどれも水の本質じゃありません。水の本質は、「H2Oという分子構造をもつ物質」と考えなくてはいけないと思うんですね。というのは、水と同じ性質をもったものがあっても、分子構造が違っていたら、ぼくらはそれを「水」とは呼ばないでしょうからね。
(略)
たとえば水の分子は水素原子二個と酸素原子一個が特定の構造で結びついたものです。これが水の本質です。これを理科の時間でみせられるような模型で表すこともできます。その模型は、水と同じ構造をもっています。つまり、機械的に模型から水に変換できます。模型から水の構造が分かるんです。その模型をH2Oという記号で置き換えても、この構造は保持されます。つまり、この記号から模型や実物の水に変換できます。ちょうど音楽を楽譜に変換するようなものです。この「H」とか「O」とか「2」をどう組み合わせれば、どういうものに変換できるかを科学的に決めておけばいいんですね。
このように、本質を取り出そうとしても、水の構造そのものを取り出して明らかにすることはできません。水と同じ構造をもった模型とか化学記号のような模型を作ることができるだけです。つまり、同じ構造をもったものを追加するだけです。そういうものを追加しても、哲学的に本質を解明したとは言えません。ただ複製を作っているだけなんだからね。
(略)
だから当然なんですけど、事実の本質というものも明らかにすることはできません。前に言ったように、文を作るということは、事実を作るということです。だから、事実の本質を明らかにしようとして、どんな文を作っても、結局は事実をもうひとつ作るだけの結果に終わってしまうんですね。そうやっていくら事実を追加しても、事実とは何かということを明らかにしたことになりません。
われわれは、事実とは何かということを前提にして、事実の実例を作ることしかできないんです。
(略)
だからどんなものについても本質を文の形で述べることはできません。それだけじゃないんです。さらにウィトゲンシュタインは、美、善悪、人生や世界の意味などについても知ることはできないと考えています。これは事実を超えているからです。なぜ事実を超えていると言えるのはか説明していませんけどね。ぼくもそういう問題は普通の事実を超えていると思っています。でも、ここではそれを説明する余裕がないので、かりにそうだと考えてくださいね。それで、彼は、ふつうに知られる事実を超えるものについては、すべて語ることはできないと考えて、
「語りえないものについては沈黙しなくてはならない」
と言っています。
われわれにできるのは、せいぜい、いろいろな事実を追加して、ものごとの本質や、事実が成り立っているとはどういうことかを、「示す」ことだけだというんですね」
fmfm
つまり、われわれが知覚するいろんなもの、木とか石とか、これらを定義し、解説し、理解することができて、木という文章や言語にはできても、ことばというものの性質上、本質を明らかにすることなどできない、と。
あくまで本質をコピーし続けるしかない、と。
そして、講義を終えた土屋教授は学生からの質問に答えます。
――哲学の研究結果は、世間に還元できるものなんですか。
「ぼくの考えでは、哲学は役に立たないとも言い切れないと思うんですよ。哲学的問題が解けないと不幸になってしまうケースもあります。たとえば、「いかに生きるべきか」という問題はちゃんとした問題で、どこかに正解があるはずだと考えたままだと、「本当はどこかに正解があるのに自分は知らないんだ」と思い続けて一生を送らなければいけないことになりますよね。
(略)
哲学はものを知るというか、理解する営みです。われわれはいろんなことを知らないし、様々な誤解にすぐ陥ってしまうんですけれど、それに逆らってものを知ろうとするのが人間です。役に立とうが立つまいが、ものを知りたいし、誤解から開放されたいと思いませんか? この点ではぼくはプラトンと同じ考えです。何も知らないまま、誤解したまま、一生を終わりたくない、と思っているし。多くの人もそう考えるんじゃないかと思います。そういう気持ちに応えるのが哲学だと思います。いいですか? ほかに質問ありますか? じゃあ、この講義はこれで終わります」
fm
土屋教授の講義をわたしも受けてみて、わたしの結論を一言。
「いかに生きるべきか」
この質問に応えるのは、哲学の仕事ではなく、思想の仕事でしょうね。土屋教授は、哲学の役割とは正解を解明するのが役割だ、とおっしゃいますが、実は思想的には答えなんてとっくの昔に出ているわけで。何度も申しますが、「いかに生きるべきか」という問題の答えは、結局、キリストや孔子様や、お釈迦様の真似をする、以外にありません。孔子様のコピーを作る、ことしかできないわけです。
そういう意味では、思想とはすでに決まったものであるし、答えがわかっているものであります。これ以上発展のしようはない、とも言える。
人類史が始まった瞬間に、世界ではすでに最高の答え、最良の師範がそこにおわしたのですから。
それを受け入れるか、無視するか、の違いでしかありません。そういう意味において、哲学の出番なんぞまったくない、とわたしは思います。
でもまあ、気になったのが、「語りえないものについては沈黙しなくてはならない」といったウィトゲンシュタインが、禅の、
「不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏」
というものに触れていたらどんな反応を示したのか、興味がありますね。
初めの方でも申したとおり、
わからないということがわかった、という西洋に比べて、東洋ではすでに大昔から分かるから黙っている、というものがありました。老子にはこうありますね。
「知る者は言わず、言う者は知らず」
古代ローマやギリシャから続く、こういう白色人種たちが、東洋の思想に早くから触れていたら、どういう反応を示したのでしょうね。すごく興味があります。わたし、気になります!
そもそも、です。
お釈迦様が悟りに至られたのが孔子様と年代的に大差ない紀元前500年前、いまから2500年前。
それから、東洋では数多の人間が悟りに至られたわけです。数多の僧や、時には山岡鉄舟さんのような剣術家が悟りを開かれて、
では、悟りとはなんぞや?
と、誰か一人でも明らかにされたことがあったでしょうか。
例えば、若いころ、俺ほどの天才はこの国にはいねぇ、と増上慢であったかの白隠禅師。頭の良さなら誰にも負けないというお方で、「大悟十八度、小悟数知らず」というほどでしたが、では、悟りとはなんぞや、ということを少しでも明らかにされたことがあったでしょうか。
この白隠禅師はその増上慢を、正受老人に喝ッ! とくらって自分の非を悟り、それから必死の修行をして、コオロギの声に悟りを開かれたとか。カラスの鳴き声に悟りにいたった一休宗純さんを彷彿とさせる面白いお話ですが、悟りにいたったお人というのは、古来、すごい天才だっていらしたし、いうなれば新カント学派のヘリゲル先生だって悟りに至られたわけです。
でも、ヘリゲル先生は、悟りとは? は決して明らかにされなかったわけですよね。では、あえて以前は取り上げなかった、弓道の奥義を極められたときのヘリゲル先生の言葉を見てみましょうか。『弓と禅』 福村出版 p109
「私はもはや全く何も理解しないように思います。もっとも単純なことですら私を惑わせます。いったい弓を引くのは私でしょうか、それとも私を一杯に引き絞るのが弓でしょうか。的にあてるのは私でしょうか、それとも私が的にあたるのでしょうか。あの”それ”は肉眼には精神的であり、心眼には肉体的なのでしょうか――その両者でしょうか、それともどちらでもないのでしょうか。これらのすべて、すなわち弓と矢と的と私とが互いに内面的に絡みあっているので、もはや私はこれを分離することができません。のみならずこれを分離しようとする要求すら消え去ってしまいました。というのは私が弓を手にとって射るや否や、一切があまりに明瞭で一義的であり、滑稽なほど単純になるのですから……」
と。
「今やまさしく」師範はその時私を遮っていった、「弓の弦があなたの肺腑を貫き通りました」
と」
うん、やはり分かりませんw
まあ、分かった気になって申し上げると、部外者的には、悟りとはこういう、一切が渾然一体となって分離不可、一切が混沌の向こう側になってしまうのでしょうね。老荘思想家が、「道」と言うわけです。
この、悟り、というものがついぞなかった西洋は、
「分からないことが分かった」
という発言こそ、悟りの外側にいることを如実に示すものであり、
「分かるものは黙るしかない」
という、悟りを明らかにしなかった東洋は、内側にいるのでしょう。
そういう意味で、ヘリゲル先生の存在は、ある意味唯一のチャンス、最後の希望だったのかもしれませんね。弓道の奥義を極められた時のヘリゲル先生の言葉は、いかにも西洋哲学家らしい、分析的な発言ではありました。ヘリゲル先生は、ほぼ唯一、西洋哲学と東洋思想の橋渡しとなりうる存在であった。
小泉八雲氏、ラフカディオ・ハーンもそれに近い存在でありましたでしょうが、新カント学派の哲学者であり、悟りを目指されたヘリゲル先生のほうが明瞭に東西の思想の融合を期すものであった。これによって、人類は初めて、
悟りとはなんぞや?
というものに一定の答えを得ることができるかもしれなかった。東洋の深遠な思想と、西洋の怜悧な思考の両輪が、ついに円満なる融和を果たすかも知れなかったわけです。
でも、帰国されたヘリゲル先生は、その後記述した文章を燃やしてしまうなど、結局、それ以降思想を明らかにされなかったとされます。
そういう分析的な要求すらなくなっていった、という言葉の通り、悟りにいたってしまったヘリゲル先生は、何かを発しようとか、言葉を遺そう、という要求すらなくなってしまったのかもしれませんね。結局、多くの東洋人と同じく、悟りというものを明らかにされることなく亡くなってしまわれます。人類は、永劫、悟り、を文章化する機会を喪失してしまった。もし、悟りを知りたければお前も悟るがいい、ということになってしまったわけです。
畢竟、悟りとは、修業によって身につけるのみであり、言葉で語れるようなものではない。
東洋人は、古来、それを己が身で実践してきたし、体験してきた。会得、体得してきた。しかし、自身で身につける、という実践がない西洋では、悟りとは無縁であった。だから、言葉でしか語れななかった。
そう考えると、不思議な気がします。
お釈迦様の仏教は、世界の真ん中にあったわけで、仏教の悟りは東西両方に持ち込まれる可能性はあった。でも、悟りは東洋には行ったけれども、西洋ではキリスト教に阻まれてたどり着けなかった。
でも、そのキリスト教の影響力が衰えたからこそ、哲学思考が発達した西洋で科学が勃興したわけで、何事も、善悪ではなく一長一短で考えるべきなのでしょう。いまや、その科学の恩恵にどっぷり浸っているわれわれ東洋人のごときも、悟りとは無縁の存在であり、悟りとは無縁の西洋を笑えるような存在ではなくなってしまいました。
そういう意味では、わたしはアホなのではなく、オツムをあえて使わないことで、東洋的叡智を発達させているのだと言えるのであります(キリリ
それはともかく、最近とみに思うことがあります。
本書でも神は存在するのか、みたいな文章がちらほら出てきますが、この、自身の中にどのような神を想像するか、想定するか、ってものすごく重要じゃないかな、と思うのです。
神を想像する、思い描く、というのは、間違いなく自分にとっての理想像を思い描くことです。尊敬するもの、敬うものを自身の中に保持することです。自分がこうなりたい、自分はこうあるべきだ、という理想を、自身の中に保持することになるのです。
たとえば、いとけない子供が親の真似をするように、人という生き物は意識下でも無意識下でも、自身の尊敬するものになりたいと思うものです。わたしが、安岡先生の語調を真似しておるのも、そういうことです。
自身が思い描く神が偉大であればあるほど、自身の成長はそこにあるのだ、と思うことになる。自分の人生のゴールをそこに設定していることになると思うのです。自身の人間としての成長率を、自身で想定するのです。そう考えれば、共産主義者だの、無神論者だのがどういう人生を生きるのか、これだけで分かった気にはなります。
無神論ですが、何か? などと臆面もなく言えるような存在が、どの程度の人生を生きるのか、歴史をほじくり返すことなく分かる気がします。こういう存在は、何百年、何千年、それこそ科学が進んで寿命が無限になったって、永劫、人間にしかなりえない存在なのでしょう。それこそ、昨今のゲバ文字書いているような連中が、無限の寿命を手に入れたって今後どのようになるか、など、簡単に想像できるでしょう。無神論ですが、何か? などという連中は、ゲバ文字書いている人間が理想とでもいうつもりでしょうか。
自分で自分を見殺しにして、見捨てて、何が嬉しいのかわたしにはさっぱり分かりかねますが、自分の人生なので好き勝手に生きるのでありましょう。なむなむ。
とまあ、土屋教授の本に触れて、はっきりと分かりました。今後、西洋哲学の本は触れないことにします。一応、カントの第二批判、実践理性批判も買ってはいたのですが、無駄なことだと理解しました。それよりはもっと東洋思想の本を読むべきでありましょう。ってか、できればヘリゲル先生のように、何かに一心不乱、それこそ思考能力もなくなってしまうほど何かに熱中すべきなのでしょうが、今の所そんなものはわたしの周りにはありませんし、まあ、死ぬ間際にでも、それこそ、孤独死で、朽ち果てる直前にでも悟りに至れたら、上々でありましょう。
最初に戻りますと、土屋教授が、
「哲学を理解した結果、哲学者あるいはわたしが、さらに信頼を失うことになるかもしれないが」
との言葉の通り、少なくともわたしは哲学の興味が皆無、絶無になりましたが、これも、自分のオツムを使って得た結論でありますので、土屋教授も胸を張ってほしいのであります。
といったところで、『ツチヤ教授の哲学講義』を読む、これにて。
したらば。
……あと、せっかくの電子化なんだから、検索機能もつけてくれぃ……