『学問のすゝめ』を読む
おこんばんはです。豊臣亨です。
はて、のらりくらりと生きておりまして気がつくと一月更新していない。まあ、のんびり生きておるということで。
とはいえ、世はのんびりともしていられず、陰謀論か事実かは知らねど、チャイナ産の細菌兵器のせいで世界中が死滅の危機に。ある日ぶらりとスーパーにゆくと食料品の様々が品切れ状態。卵にパンに冷凍食品と、ことごとくがない。冷凍食品はともかくパンとかそんな日持ちせんだろう、とか思いますが。まあ、パンも冷凍しておけば焼き立ての風味が閉じ込められるとか聞きますし、冷凍しておるのかしらん。
もはや首都閉鎖、などという事態にも至りかねない状況。ロックダウンとか、初めて聞きましたね。落石注意とかではないようですが。
まあ、こちとら引きこもりのぷろへっしょなるなので、引きこもるのは大歓迎ではありますが、とはいえ仕事も食うものもなくなってしまうのは困りものではあります。
自分が細菌兵器にやられてしまうと自分だけではすまず、仕事先にまで迷惑をかけてしまうとなると、普通に生活することすらはばかられるような有様で、あまり好きではないものの自粛自粛と言わざるを得ないような世の中に。
みんなで頑張って乗り切ろう! などと迂闊に発言するのもはばかられるほどの危機的状況。どうなることやら。
それはともかく、今回読みましたのは『学問のすゝめ』 福沢諭吉著 伊藤正雄氏校注 講談社学術文庫
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」
で名高い。
これまた、日本人なら誰知らぬものはない、有名な書。ある意味、有名すぎてあまり顧みられることのないような書。わたしもこれまできちんと読んだことがなかったのですが、書店に並んでいるのを見つけてこういう時代がかった書を読むのもまた一興、と読んでみました。
読み始めますと、子供向けに平易に書いた、とある通り明治に書かれた文献であるにも関わらず非常に読みやすい。8割くらいはそのまま読めますね。また、校注伊藤氏の適宜の翻訳もあって読めない箇所はない。とはいえ、時代がかった文章なので全体をぱっと理解するのは大変ですがw
この前まで西欧の、頭がいいんだか悪いんだかわからない妄想家のよぐわがらん書を読んでいたから、非常に嬉しくなりまして、
やった、和の本だ、やっふい!
これでようやく面白い本が読めるぞい!
と、思っていた頃がわたしにもありました……。
ええ、はい。
そうなんです。
もうまず、読んだ感想としましては、すごい、の一言でした(語彙力)。
ほんと、すごいとしか言いようがない(語彙力)。
なので、大慌てでwikiを確認した次第でして。だがしかし。wikiの記述を伺いますと、それこそ偉人としか言いようがない。
五歳で漢書や剣術を習い始めるも、初めは読書嫌いであったが、十五歳あたりからそれではいかんと、真面目に取り組むようになるとたちまちの内に四書五経やら、老荘の書物を修め、通っていた塾では塾頭を務めるほどメキメキと頭角を表し、居合術でも優れた腕前を誇ったとかで免許皆伝。
世にい出ては蘭学、オランダ語を学ぶも、時代はすでに英語が最先端であることを知り、苦学しながらオランダ語も英語も通訳ができるほどに熟達し、幕府の命で米国や欧州に渡るほど活躍する。
明治維新後は、幕府に忠義を尽くしたのか新政府を嫌悪してか、官職につくことは一切なく、慶應義塾の塾長として活躍する。それこそ、どこの孔子様ですか、と言いたくなるほどの人生です。そして『時事新報』という新聞社を立ち上げ、時に新政府の方針に共鳴して日清戦争においては盛んに国威発揚の記事を出す。
明治の日本において、諭吉の活躍のほどは図りしれず、この『学問のすゝめ』にしたって日本の人口3000万の時代に累計300万部売れたとも言われ、明治のご維新における日本人に、どれほど深甚の影響を与えたか計り知れない。
と、wikiを読む限りにおいては間違いなく大偉人。ですが、wikiの内容と本文を併せて伺うと、興味深いといいますか、無視できぬ、座視できぬ箇所もありまして。
「諭吉は自伝の中で「私はただ漢学に不信仰で、漢学に重きを置かぬだけではない。一歩進めていわゆる腐儒の腐説を一掃してやろうと若い頃から心がけていた。そこで尋常一様の洋学者・通詞などいうような者が漢学者の事を悪く言うのは当たり前の話で、あまり毒にもならぬ。ところが私はずいぶん漢学を読んでいる。読んでいながら知らぬ風をして毒々しい事をいうから憎まれずにはいられぬ」「かくまでに私が漢学を敵視したのは、今の開国の時節に古く腐れた漢説が後進少年生の脳中にわだかまっては、とても西洋の文明は国に入ることができぬと、あくまで信じて疑わず、いかにもして彼らを救い出して我が信ずるところへ導かんと、あらゆる限りの力を尽くし、私の真面目を申せば、日本国中の漢学者はみんな来い、俺が一人で相手になろうというような決心であった」とその心境を語っている」
と、ことに儒教に敵意を剥き出しにしていることが、本書でも色々見受けられます。諭吉は、儒教を、封建社会の諸悪の権化とみているところがありまして、何でも、諭吉の父、福澤百助は儒学者でもあったのだそうですが、身分が下なので随分な扱いを受けたそうで、そういったもろもろがあって、儒教を「親の仇」とみていたそう。
とはいえ、本人も申す通り、
「ところが私はずいぶん漢学を読んでいる」
と、儒教を知悉した上で、儒教に噛み付いておるのならば仕方なし、と思えるのですが、
さにあらず(そうではない)。
また、当人も孔子様の真似事のようなことをしておるのであるから、さぞかし孔子様のことを理解しておるのかと思いきや、
さにあらず(そうではない)。
「読んでいながら知らぬ風をして毒々しい事をいうから憎まれずにはいられぬ」と、当人も述懐している通り、本文中に出てくる、孔子様に対する独断と偏見、ある程度は知ってはおるのであろうが、知らぬ風の論語理解を伺うにあたっては、苛立ちを通り越してもはや殺意を覚えるほど。わたしも、多少のことなら別段気にもしませんが、儒教を逆恨みするがあまりの根拠のない暴言、事実を糊塗しての妄言の数々にさすがに我慢しきれぬ、のでありまして。これを黙っておるのは論語を学んだものとして許されぬ。
まあ、本文内容もそれなりに見るところもあるのですが、まあ、内容といいましても、明治の頃の内容ではありますし100年も経てば状況もそれなりに変わってしまって、はっきり言って安岡先生の書のほうがはるかに内容も、思想も懸隔があります。安岡先生の書を読んで育ったつもりのわたしとしましては、そこまで唸るほどの内容ではありませんでした。だよねー、程度。
読み終わって色々と考えておりますと、そういえば同時代にラフカディオ・ハーン、小泉八雲氏がいたなぁ、と思い出しまして読み返してみると改めてびっくり。ハーンの、日本人への温かい視線、とはいえ冷静に、真摯に日本人の行く末を案じている、そして思想的にも文学的にも非常に深く美しい文章や素晴らしい卓見に改めて唸らされます。
それに比べますと諭吉の駄文は数段は劣る……。日本人を、非文明的だ、野蛮だ、無知無能だ、と散々詰ってばかりで、同時代を生きたハーンとはまるで別世界にいるかのような文章が多い。他の人にも読んでほしいと丸移すほどでもないので、必要な箇所だけを適宜抜き出すに留める所存でございます。
まず、諭吉の文章でをや? と思ったのが、「楠公権助論」p113
諭吉は何を言うかと言えば、忠義の士、主君のために一命をなげうって奮戦せし武士を、己の命の捨てどころを知らぬ不文不明の野蛮なるもの、と吐き捨てる。権助(名無しの権兵衛みたいなもので下男の俗称とか)、召使いが、主人から預かった大切な一両をどこぞに紛失してしまい、申し開きができぬとて帰るに帰れず切羽詰まって己のふんどしで首をくくって死んでしまうのを、世の役に立たぬ無駄死で、この両者は同等の価値しかない。と言う。文中でははっきりと楠木正成公、と断定はしてはいないものの、
「いづれも忠臣義士とて評判は高しといへども、その身を棄てたる由縁を尋ぬるに、多くは両主政権を争ふの師に関係する者」
「忠臣義士が一万の敵を殺して討ち死にする」
とあるように、
両主政権といえば日本では南北朝くらいしか考えられぬし、万の敵を相手にして討ち死にするような烈士ともなれば楠木正成公、楠公くらいしか想像できないわけですが、何を言うかと思いきや、この、お金を紛失して自殺した阿呆と、主人のために命がけで戦った忠義の士を、ともに命の捨てどころを間違えた者、と吐き捨てるわけです。
諭吉が言うには、
「元来文明とは、人の知徳を進め、人々身みづからその身を支配して、世間相交はり、相害することもなく、害せられることもなく、おのおのその権義を達して、一般の安全繁昌を致すをいうなり」
と。平和であることが文明的である、にもかかわらずその平和を乱すのは、それがたとえどんな忠勇の士であろうが主人の仇を討つ義士であろうが、この、一両を紛失して首をくくった権助と同等の死である、という。びっくりさせられることに、お国のため大義のために一命をなげうって戦ったものに、命の捨てどころを誤ったもの、と言う暴論にまず面食らいました。
この両者を混同できる阿呆さ加減にも驚かされますが、しかし、そのくせ、p50では、
「フランスでは報国の士民多くして」
「自ら本国のために戦ふ者あるゆゑ」
と、王族を抹殺したフランス国民の愛国心を称賛する。もちろん、このフランス国民を称賛するのとはいまの論議は別の論議ではありますが、一方では忠勇の士を無駄死にといい、一方では王族を害したフランス国民を認める。
何よりおかしいのが、これから明治の新国家として大きく体制が変わり日本人も、フランスと同じく愛国心を養って戦わねばならない時に、日本でも最上級に称賛される楠公を、無駄死にと言ってしまえることの矛盾はない。
これまでの江戸時代では、戦、戦争とは武士の所有物、特権であり庶民とは何の関係もなかったわけですが、日本も新国家になって、徴兵制度を導入してこういう忠義の士をどんどん養成していかねばならないわけです。一庶民を兵士に仕立て上げなければいけないわけです。
日本の国民も、フランス人と同じく報国の士となって、お国のために戦わねばならないその劈頭にあって、まず第一に参考にすべき忠義の烈士、楠木正成公を無駄死にといってしまう、その思考のおかしさは正気とはとうてい思えない。大体、楠公だって、死ななくてすんだのならば、平和の世ならば死にたくなどなかったでありましょう。世は南北朝動乱、鎌倉幕府滅亡につながる戦乱の世であり、暴虐な幕府に、皇室を推戴してゆけばどうしても戦端を開かねばならなかったはずであり、楠公の戦ぶりは鬼神のごとしと讃えられるもの。明治以降は、「大楠公」と激賞置くあたわざるものがあるのに、まさしく諭吉の暴論は時代と逆行する愚論、と言わねばなりません。
ましてやフランスは世界で初めて王族をギロチンにかけて国を乗っ取った、革命の国です。その、フランス人の愛国心を褒め称えて、皇室のために戦った楠公を無駄死に、というその思考に、わたしはこの時点で随分と諭吉に失望させられるのですが、それでも、全部読んでみないことには結論は出せん、と思って読んでは見たものの、まあ、半分も読まないうちに疑念は確信に変わりましたけれどもね。
で、この学問のすゝめが世に出た当初からこの、楠公権助論は世の保守派から轟々たる非難を浴びたようで、さすがに諭吉も弁明せねばならなかったらしいのですが、「五九楼仙万」、ご苦労千万というふざけた名前で釈明文を出したのだとか。
はぁ。
さて、続きまして許すべからざる一文。p185
「聖人の愚痴は因果応報
昔孔子が、「女子と小人は近づけ難し。さてさて困り入りたることかな」とて嘆息したることあり。今をもって考ふるに、これ夫子自ら事を起こして、自らその弊害を述べたるものといふべし」
とあります。また、
「小人とは下人といふことならんか」
と、言い出し、
「女子と下人とに限りて取り扱ひに困るとは何ゆゑぞ。平生卑屈の旨をもって周く人民に教へ、小弱なる婦人、下人の輩を束縛して、その働きに毫も自由を得せしめざるがために、ついに怨望の気風を醸成し、その極度に至りて、さすがに孔子様も嘆息せられたることなり。元来人の性情において、働きに自由を得ざれば、その勢ひ、必ず他を怨望せざるを得ず。
因果応報の明らかなるは、麦を蒔きて麦の生ずるがごとし。聖人の名を得たる孔夫子が、この理を知らず、別に工夫もなくして、いたづらに愚痴をこぼすとは、余り頼もしからぬ話なり。
そもそも孔子の時代は、明治を去ること二千有余年、野蛮草昧の世の中なれば、教への趣意もその時代の風俗人情に従ひ、天下の人心を維持せんがためには、知ってことさらに束縛するの権道なからべからず。もし孔子をして真の聖人ならしめ、万世の後を洞察するの明識あらしめなば、当時の権道をもって必ず心に慊しとしたることはなかるべし。
ゆゑに後世の孔子を学ぶ者は、時代の考へを勘定の内に入れて取捨せざるべからず。二千年前に行なはれたる教へをそのままにしき写して、明治年間に行なはんとする者は、ともに事物の相場を談ずべからざる人なり」
この一文を読むに至って、わたしのなかで諭吉が分かりました。
孔子様が、
「子曰わく、ただ女子と小人とは養い難しと為す。これを近づくればすなわち不孫。これを遠ざくればすなわち怨む」
とおっしゃられたのを、愚痴、と捉えるところの愚昧さには呆れ返る。呆れる以上に殺意すらおぼゆる。
これは愚痴ではなく、ただの所見を表したに過ぎない。それに関しては諭吉だって似たようなことを言っている。p170
「人の見識品行は、ただ聞見の博きのみにて高尚なるべきにあらず。万巻の書を読み、天下の人に交わり、なほ一己の定見なき者あり。古習を墨守する漢儒者のごときこれなり。
ただ儒者のみにあらず、洋学者といへどもこの弊を免れず。
今西洋日新の学に志し、あるいは経済書を読み、あるいは修身論を講じ、あるいは理学(哲学のこと)あるいは智学(科学のこと)日夜精神を学問に委ねて、その状あたかも荊棘の上に坐して刺衝(刺激)に堪ゆべからざるのはずなのに、その人の私につきてこれを見れば(私生活を観察すればくらいの意味)、決してしからず、眼に経済書を見て一家の産を営むを知らず、口に修身論を講じて一身の徳を修むるを知らず。その所論とその所行とを比較するときは、まさしく二個の人あるがごとくして、さらに一定の見識あるを見ず」
この箇所は、諭吉の独断でも偏見でもなんでもなく、恐らく、その眼にしたこと、その耳にしたことでありましょう。
安岡先生も、儒学者、漢学者が今の世に滅びたのも自身の責にある、とおっしゃられる通り、その当時の儒学者たちは、口に天下国家を論じながらも、己の身を修めることを知らない輩が多かったのでしょう。
儒教とは、修身斉家治国平天下、まずは己の身を修めて、そこから初めて天下を修めることを目指すにも関わらず。
そういう経験があるのならば、孔子様のこの女子と小人は養い難し、も、愚痴でもなんでもなく、その眼、その耳で見、聞き、感じた正直な吐露であるのであろうとただちに分かる。
さらに言うと、偉そうに、「ゆゑに後世の孔子を学ぶ者は、時代の考へを勘定の内に入れて取捨せざるべからず」などとほざいてますが、「夫子自ら事を起こして」と言って、まるで孔子様が儒教を起こしたかのように言うが、それこそ妄言と言わねばならぬ。
お釈迦様のwikiを読めば、仏教の開祖、と出てくるように、世は勘違いも甚だしいが、仏教とは、お釈迦様が生まれるはるか前からあったインドの宗教に他ならない。アーリア人種がインドの大地に渡って、その雄大荘厳な大自然から自然と起こった宗教観念、宗教哲学こそが仏教であります。
しかし、インドはカーストという強烈な階級差別があったから、お釈迦様はそういった階級差別を打破し、すべての人は修行次第で誰でも仏になれる、という真理を解き明かされたに過ぎないわけです。
孔子様も同様で、儒教とは、東洋に古来から存在する理想精神に過ぎない。
論語のなかではっきりと、
「子曰わく、甚だしいかな、吾が衰えたるや。久し、吾また夢に周公を見ず」
と、慨嘆されておられるように、孔子様は、周公旦の生み出した理想政治を復興、勃興しようと死力を尽くされたに過ぎない。儒教とは、東洋の人々に自然と沸き起こった理想精神であって、孔子様はそれを引き継いで、引き受けて、後の世に伝えようとされた。春秋戦国という、東洋古来の理想が一切実現されない世の中に対して、それでも孔子様は天はわれに文を託されたのだ、という大理想、大使命を背負って奮闘されたのであって、はっきり言ってしまえば、女子や小人ごときに愚痴っている余裕があったでしょうか。論語にはこういうことをおっしゃっている。
「子貢、人を方ぶ。子曰わく、賜(子貢さんのこと)や、賢なるかな。それ我はすなわち暇あらず」
子貢さんが他人の悪口というか、陰口をたたいていた。それを見た孔子様は、結構なことだな、子貢、まあ、わたしにはそんな余裕などないわけだが。とおっしゃられた。
これが、子貢さんをたしなめる言葉であったとは思いますが、しかし、孔子様の生涯を思えば、確かに、他人の悪口だの陰口だの、愚痴だのをこぼしている余裕があったとは思えない。思えないし、思えるはずがない。
それを思える者は、孔子様がまったく分かっていないと思う。
ちなみに、諭吉は、あるときは孔子様、といい、あるときは孔子、というのですが、これ、様をつけるのは別に敬っているのではなく、バカにしているからわざわざ様をつけておるのであろうと思います。
また、小人を、わざわざ下人、と言い換えてますが、こういう思考の人間によくありがちなのですが、差別はいけないよね! と言いたがる人間こそ実は陰険な差別主義者であって、下人、と言い換えているところに諭吉の腹の底があけすけに見えておる気がするのはわたしだけでしょうかね。
また、「孔子をして真の聖人ならしめ、万世の後を洞察するの明識あらしめなば、当時の権道をもって必ず心に慊しとしたることはなかるべし」
と、ほざいておるのも意味がわからぬ。
孔子様は、世の権力者、実力者にことごとく邪険に扱われた方であって、春秋戦国の世からすれば孔子様は異端であって、権道、いわゆる覇道や策動をたくましくしていたのはこういった権力者、実力者であって、孔子様はあくまでその正道、大義を明らかにされたに過ぎない。だから、弱肉強食の時代に、そんな迂遠なことを言われても困る、と邪険にされたわけです。
で、諭吉は孔子様を意味不明に阿呆のごとく論難したわけですが、その直後にとんでもないことを言い出します。p187
「陰険極まる御殿女中の社会
また近く一例を挙げて示さんに、怨望の流行して交際を害したるものは、わが封建の時代にたくさんなる大名の御殿女中をもって最とす。そもそも御殿の大略をいへば、無識無学の婦女子群居して、無智無徳の一主人に仕へ、勉強をもって賞せらるるにあらず、懶惰(怠けること)によりて罰せらるるにあらず。諌めて叱らるることもあり、諌めずして叱らるることもあり。言ふも善し、言はざるも善し。詐るも悪し、詐らざるも悪し。ただ朝夕の臨機応変にて、主人の寵愛を僥倖するのみ」
とあり、無識無学の婦女子が、家の利やらを顧みず、女どもの怨恨嫉妬の果に、仕えるべき主人を毒殺したりとあまたの害をなすこともあり、などという。
これって、諭吉がたったいまバカにした、女子と小人は養い難し、の一例、むしろ好例と言っていいんじゃね??
あれ、諭吉って鳥あたま?
三歩歩けばすべてを忘れる、三行書けば前文を忘れるの?? と、思わざるを得ない有様です。
もう、偉人なのか、狂人なのか、まったく意味がわかりません。
それこそ、コロナにやられた日本人ザマァw とかいっていたくせに、たちまち自分のところで大量にコロナの感染者を出したどこぞの半島民と同程度の知能程度に思えます。
「ともに事物の相場を談ずべからざる人なり」
盛大なるブーメラン。それはお前のことだ。ど阿呆。
諭吉の文章を伺っておると、こういうブーメランが至るところにある気がいたします。
こうして、諭吉の文章を見ておると、恐らく、分かっておるくせに、攻撃するためにあえて事実を捻じ曲げる、嘘をつく、それこそ最初に見たような「読んでいながら知らぬ風をして」ということがたびたびあることに気が付かされます。
諭吉は、野蛮なる日本は、西洋に学ぶべき、というが、そもそも西洋が強大になったのは産業革命以降であって、その昔の西洋とはただの僻地の蛮族どもに過ぎなかったことは、歴史を学ぶものなら常識と言って良い。もちろん、諭吉も知っております。
それこそ、西欧とは、中央アジアのそれこそ僻地。古代ローマ人、ギリシャ人全滅後に、そこにおるのはゲルマン民族、北方ゲルマン人のノルマン民族、フン族やらケルト民族やら、デーン人、スラブ系と、古代ローマに刺激されてようやく文明の光に浴したような蛮族ばかりで、中世ヨーロッパの悲惨さは筆舌に尽くしがたい。あまりにきついので小説にも書けないレベル。世界の中心はインドやイスラム、チャイナであって西欧のごときは中央から追い出された僻地の中の僻地。
まず第一にろくな食料がない。
ドイツにジャーマンポテト、なんてのがありますが、それこそ大航海時代のじゃがいもが新世界よりもたらされるまでなかった代物であり、ろくな食べ物がなかったことのわかり易い証明。また、産業もろくなものがない。世界で生み出された発明やら思想やらは、大概チャイナやイスラム、インドなどが発明したのであって、実は古代ローマやギリシャの伝統や文化、技術はイスラムの方には流れたのだけれども、白色人種の蛮族には高度な知識や技術を受け継ぐような文化的下地がなかった。それらがようやく理解できたのがルネッサンスだったとか。
大航海時代に漕ぎ出した西欧人がもっていた、羅針盤や火薬などはチャイナで生み出されたものですし、そもそも何で西欧人が大航海時代と、海に漕ぎいでなければいけなかったかと言えば、その当時最強を誇ったオスマンの圧迫から逃れるためです。その当時、海の向こうは崖になってるだの、南に行けば灼熱地獄だの、迷信がごまんとあった海に、それでもでなければいけないほど追い詰められていた。ちなみに、ではどうしてイスラムは西欧に攻め込まなかったか。
単純に、そんな価値がないからです。そもそも西欧は北の方で、ドイツのあたりにゆくと寒すぎて小麦も育てられない。ろくな食料も、産業も、資源もない。そのくせ、キリスト教という妙な狂信者が甲冑着てやってくる。まともに相手にする価値すらない。そんなのが中世の西欧です。だから、十字軍で、撃退して失地を取り返してもやり返しはしなかった。
そんな野蛮人が、大航海時代で新世界、自分たちより文明度が低い現地人を見れば何をするか。
歴史がもれなく教えてくれます。
西洋が劇的に転換したのは産業革命からであり、そこから他国が一切追随できないほどの恐るべき発展を見せるわけです。
それはともかく、諭吉は、西欧は文明国で封建制度がないだの、男女平等だの、得手勝手なことを言っておりますが、これも、
「読んでいながら知らぬ風をして」
で、知ってるくせに、非難するために事実を糊塗しておるのが見えてくる。
大体、江戸幕府は封建制度で、武士は切り捨て御免で暴虐圧政がひどかった、とステレオタイプでほざいておりますし、封建制度が儒教から生み出されていた、などとほざいておりますが、そんなことは考えればすぐにわかることでありまして、そもそも封建制度は歴史上の通過点に過ぎない、とすぐに分かる。わからないほうがおかしい。
もし、封建制度=儒教ならば、西欧の封建制度は何なのか、となります。
それに、封建制度でいうのなら、西欧の方がはるかに悪辣でひどい。
そもそも、何でフランス国民が王族をギロチンにかけるような事態に至ったのか。様々な事情はあれど、西欧の強烈な王権や教権による封建制度に、哲学的思考が沸き起こって生まれた反発こそが革命なわけで、武士が自発的に武士をやめた、日本人のもつ根幹的な民主思想とは次元から違う。
江戸時代の農民の苦労もすごかったでしょうが、西欧の農民とは家畜であって、しかも、本当の家畜、馬や牛の方が人間より価値が高かったとされるのですから凄まじい。だいたい、馬は一日15キロほど飼葉を食べるわけで、人間が毎日それだけ食べたら間違いなく処分されるでしょう。人間は馬より遥かに安価な家畜だったわけです。
さらに男女平等にしても、そもそも、西欧では男女差別が凄まじかったから、その反動として男女平等が叫ばれるようになった。
レディーファースト、とネットで調べればすぐに出てきますが、そもそもなにゆえ、おなごを先に行かせたかと言うと、例えば、部屋の中には暗殺者などが潜んでいるかも知れない、そこで、おなごを先に行かせて盾にした、というのが定説であって、さらに言うのならキリスト教で、まず創造主が作ったのはアダムであって、アダムがひとりぼっちで寂しそうにしているから、アダムの肋骨をへし折ってイブを作った。
男女一緒に作った、と記述しないところに、西欧やキリスト教に潜む男女差別が伺える。さらに言うと、本来なら三位一体とは父、子、聖霊の名において、などとありますが、本来この三位一体とは父と母と子、であったのが、いかにも男中心主義から、アダムを堕落させたのはイブであるとして、聖母マリアが除外されていったとされます。そこで聖霊などと、わかったようなわからんようなものを後から付け加えるに至った。
それこそ諭吉の言ではありませんが、
「自ら事を起こして、自らその弊害を述べたるものといふべし」
で、混乱を助長させるに過ぎないわけでして、創造主は唯一の神、でありながらこのみっつで同じ、とか何を言っているのか分からないのでして、まあ、それはおいときますが、西欧の民主主義も、男女同権も、もっというのならキリスト教だって、その時代があまりにも悲惨で無残だったからその反発として生まれたわけです。
日本の封建制度も、男女差別も、今はどうかは知らねど、元来、世界の様々と見比べたらはるかに優れていてましなのは、明らかでありまして、明治新政府は、そもそもが民衆から嫌われていたので江戸幕府を悪し様に罵りますが、よくよく見てみると江戸幕府も実にうまくやっていたことが分かっている。
封建制度がいけなかったというのならばずっと300年間戦国時代をやっておればよかったのかという話でして、戦国時代を終了させるには強大な武家の登場が必要だったのであり、その強大な武家による統治、治安監視=封建制度に過ぎない。なにゆえ徳川が幕府を開いたかにしたって戦国末期で最強の武家であったから、唯一の政権、朝廷から国内統治を委任されたに過ぎない。
士農工商の身分制度だって儒教と密接に結びついて、学がある武士が統治者になるのも当然であり、事実、幕末の硬直した幕府はともかく、新時代に幕府を倒したのは民衆ではなく、同じ武士だったのも、きちんと儒教を学んで優れた知識や見識をもっていたからに他ならない。
戦国時代の、例えば豊臣恩顧の大名が、とっととその豊臣を裏切って徳川に寝返ったのも、忠義とか忠君などという観念よりも生き残ることを優先させる戦国時代の当然の考えだったからであり、二君に見えず、という武士の美徳も儒教によって作られたものであるわけです。
どこぞの半島民のごときは、儒教というものをほとんど理解できず、弊害ばっか生み出したようですが日本人は実に立派に民族の魂に儒教を活かすことができた。弊害よりも、むしろ美点ばかりに眼がゆく。
それに言いますと、幕末の儒学者は確かにまともな人も少なかったようではありますが、しかし、立派な儒学者だっていらした。例えば、安岡先生が激賞置くあたわざる、山田方谷先生が名高い。
まあ、今どきはあまり知られないでしょうが、貧乏板倉と言われた備中松山藩(岡山県高梁市)を孔子様の編纂と言われる『春秋左氏伝』にある、
「義は利の本なり、利は義の和なり」
を見事に実践なされた方でありまして、『炎の陽明学者 ――山田方谷伝――』 矢吹邦彦著 明徳出版社から少し伺いますと、
貧乏板倉、備中松山藩。石高五万石と言われていたのですが、実は本当の石高は一万九千三百石しかなかった。大粉飾の内実で、その表向き五万を維持するため、または飢饉や様々な用向きで借金に借金を重ね、もはや破綻しかないような現状を、方谷先生は眼前に突きつけられ、では何をするかと言えば、
まず、大阪にある蔵屋敷をつぶすという。この蔵屋敷、これは藩の米を保管し、現金化するという藩にとっても生命線なわけですが、その内情はひどいもので、管理の役人は商人と結託して財政をわたくししていた。そもそも、武士は儒教一辺倒で商売を蔑視していた。金勘定など武士のやることではないというわけで、米相場もわからぬし、当然いつが売りどきか、などわかろうはずもない。そんな塩梅で蔵屋敷の武士たちも随分といい加減であった、商人たちは、そんな武士を内心嘲って、利益のために籠絡しておったそう。
それを、藩で直接管理するからつぶすというわけです。
蔵屋敷に入っている米は、今年も当然、来年も、その先も借金の担保に入っているから、それを潰されるということは借金を踏み倒されるに等しい。当然、商人たちは色めき立つ。ましてや、武士は金勘定ができぬから大阪の蔵屋敷に米を集めてその商いを商人に任せていたのに、自前でやる、といわれれば商人としても慄然たらざるを得ない。
そこで方谷先生は、商人、債権者に集まってもらい、藩の実質石高を正直に告白し、さらに、ことごとくを調べ上げた返済計画を書面にて公表する。そして、まずは、いったん借金を棚上げにしてもらいたい、その上で藩として新規事業に乗り出し、そこから生み出される利益で負債に当てる、という。
その新規事業とは製鉄。
備中松山藩は良質の砂鉄が産出するところで、「タタラ吹き」の鉄の生産量は全国屈指であったとか。
倹約や様々な方策をもって、二万石に満たない藩財政を、やがてすべての借金を返済し、しかも、実質二十万石といわれるほど余財余りある、豊かな財政にしてしまった。
そして、この方谷先生の「理財論」は、渋沢栄一氏などを通じて日本の資本主義に通じていったといいます。
また、藩主板倉勝静は幕末の老中筆頭にまで至った人であり、幕臣であった諭吉が知らないはずはない。にもかかわらず、儒教憎しの観点からか、こういう大成功を修めた儒学者、方谷先生のことは一言も言及せず、儒教など実際には何の役にも立たない、などとほざいておる。
こういう諭吉の文章を読んでおると、とある疑念が生まれたのですが、wikiの一文を読んで確信に至りました。
wikiにはこうありますね。
「孝悌忠信や神仏を敬うという価値観はもっていなかった。お札を踏んでみたり、神社で悪戯をしてみたりと、悪童まがいのはつらつとした子供だった」
「宗教については淡白で、晩年の自伝『福翁自伝』において、「幼少の時から神様が怖いだの仏様が難有いだのということは一寸ともない。卜筮呪詛一切不信仰で、狐狸が付くというようなことは初めから馬鹿にして少しも信じない。子供ながらも精神は誠にカラリとしたものでした」と述べている」
カラリとしたもの、などと言っておりますが、それってつまり無神論者、ってことですよね。
そう考えて、諭吉の文章を反芻しておると、そういうのがちょいちょいある。
王族をギロチンにかけたフランス国民の愛国心は褒めるも、忠君の義士はけなす。
儒教や封建制度を諸悪の根源と見て、むやみやたらと悪罵する。
妻妾同居を蛮風といい、男女同権こそ文明という。
当人がどこまで自覚しておったのかは不明なれど、諭吉の文章はいたるところにこういったニュアンスが多いのに気が付かされます。
そう考えますと、これはわたしの妄想ですが、諭吉は、東洋のマルクスとなる可能性のある人間ではなかったのか、と思います。
事実を隠し、捻じ曲げ、自分の言いたいことだけをやたらと強調し、民衆頑張れ、と鼓舞するも内心はその無学無知な民衆を侮蔑する。
西欧に諭吉が生まれたら、見事なマルクスに育ったことでありましょう。
ですが、諭吉は東洋に生まれた。
若い頃から剣術を学び、儒教を学び、老荘を学んだ。
諭吉は、p146
「今のわが学術をもって西洋人に教ゆべきや、決して教ゆべきものなし」
などと言いますが、では、西洋に居合術などの剣術、剣道などというものが、わずかでもあるのか。
儒教や老荘という、いうなれば古代からある哲学思想が、長い年月を通して民族の精神にまで染み込んだ民族が西欧のどこにいるというのか。
諭吉は、東洋の輝かしい文化、伝統、学問をさんさんと浴びて、その上に立脚して西洋の学問を身に着け、東洋には何もないなどというわけです。実にうらやまけしからん話でありまして、東洋人のもつ精神性が、馥郁と香る時代に生を受けたからこそこうして立派な人物になれたと言ってよいのでありまして、諭吉が西欧やもしや現代に生まれていたら、どうなったかはなはだ怪しい。
ひとつの結論として、はっきりと、諭吉は日本で最初期の左翼活動家と申してよろしいでしょう。
そして、日本でもっとも大活躍をなした左翼活動家とも言って良いでしょうか。
ある意味、諭吉の無神論的性質は、明治にこそふさわしいものであった。西欧の物質主義、即物的な考えにもっともよく馴染んだであろう諭吉が、西欧と日本の橋渡しをすることによって、開化の日本人に西欧の思考を鼓吹するに至った。そういう意味では確実に時代に要請された人物であることは疑いようがありません。
そして、開化後の日本人が、西欧相手に大戦争をやって、人種差別撤廃につながってゆくわけですから、大きな歴史の流れのなかで諭吉の果たした役割は非常に大きい。
ですが。
明治の開化には非常に大きな役割を持ちましたが、この本書は、令和の時代にあってはそこまで大きな価値は持たないであろう、とも思うのであります。
ある意味、こういった左翼活動家にありがちな、露骨な、迂闊な、醜悪な、文章の数々に、イデオロギーに脳みそ焼かれた人間というものがどういった存在なのか、というのを記録した文章、という意味での価値ならあるでしょう。腹に一物ある文章の書き方とはこうするのだ、という見事な一例であります。同時代の、キリスト教を嫌いながら思想や哲学に深い理解を示したハーンの文章との懸隔は非常に激しい。そういう意味で、
『学問のすゝめ』とは、『ヰデオロギーのすゝめ』である、と言ってよいとわたしは思います。
ちなみに、校注の伊藤氏が最後の最後でぽつりとこぼした言葉が非常に印象的でありました。p319
「当時の進歩的な青年の頭に、『学問のすゝめ』冒頭の一句が、いかに強烈な響きを与えていたかが十分想像されるであろう」
『学問のすゝめ』とは、そういう本であります。