『道徳形而上学原論』を読んだ
おこばんはです。豊臣亨です。
昨今の温かい気候のおかげ、というかせい? で普通なら3月末か4月に芽吹くはずの木々がもうすでに芽吹いておりまして、まだ去年の葉っぱがすべて枯れていないのに、この芽吹き……。春が早く来ました~、程度なら良いんですけど。これまさか、過去最悪クラスの酷暑とかの前兆ではないでしょうねぇ。
まあ、それはともかく、さて、題名通り。
一応はすべて読みました。最終的な感想としましては、随分とまあ悲惨な本を出したもんだなぁ、というのが正直なところ。それは後ほど見てみます。
そして、そろそろカントというものに慣れてきたのか、本当のタワゴトのごときは読み飛ばしました。っていうか、タワゴトと言い出したら、わたしの認識ではこの本の内容の八割くらいはタワゴトのオンパレードで、注目するに値する箇所なんてほとんどなかったですけどね。例えば、p113
「共通の客観的法則による理性的存在者たちの体系的結合、すなわち一個の国が成立する。この国では、これらの客観的法則によるところは、理性的存在者たち相互の間に、目的と手段という関係を設定するにある、それだからこのような国は、目的の国(もちろん一個の理想にすぎないが)と呼ばれてよい」
一個の理想にすぎないが、、、、、ってお前の妄想かーい!
と、ツッコミを入れてしまう箇所もちらほらとある始末。
現実的な問題に関して、哲学的に、思想的に、熟慮思索を重ね、煮詰まるのを目指すのならともかくちょいちょいこういう妄想のたぐいを垂れ流してくるので本当にうんざりさせられましたね。本当に、冗談ではなく全編こういう妄想のたぐいで文を成しておるのは辟易とさせられました。本当だったら、こういう愚にもつかない妄想や、思考の経過などは恥ずかしくって表には出せないはずなんですけどね。
安岡先生もおっしゃるように、東洋人は、そういう思考の形跡をできるかぎり人様にお見せしないことを信条とするわけです。たとえば、詩、短歌とか俳句とかがいい例でありまして、五、七、五、もしくは、五、七、五、七、七に作者は己の思想の精髄をそこに込めるわけで、そこに至るまでの思索の遍歴、思考の形跡の一切を除去した、エッセンス、抽出された成分で、作者の心情を吐露するわけです。
安岡先生の書で申しますと、こういう句を作ろうとした方がいたそうな。
「板の間に 下女、取り落とす なまこかな」
これをみた俳句の先生は、説明が多い、とおっしゃった。そこで、
「板の間に 取り落としたる なまこかな」
とすると、よくはなったがまだ説明が多い、とおっしゃる。そこで、
「取り落とし 取り落としたる なまこかな」
とすると、それでよい、と認められたとか。屁理屈の多い現代人では、なかなか味識できないものですが、余分なもの、雑音、雑念を払い去った後の、本当の精神、真面目こそを大事にして文化となしてきた。東洋人は、思索の遍歴、思考の形跡を逸し去った、本当の精神の精髄に心打たれる、感動するわけで、
「あさがおに つるべとられて もらい水」
「行水の 捨て所なし 虫の声」
「破る子の なくて障子の 寒さかな」
という句に心打たれるわけです。この一見簡潔な文章の中にある前後の時間の連続性や物語、永遠性を愛するわけで、何でもかんでも説明されたら、もはやそれは句でもなんでもない。ただの駄文にすぎないわけで、くだらない思考の垂れ流しなんぞ見るに堪えないわけで、本文の八割はただのタワゴトにしか見えないのは、わたし一人の憶断ではない、とおもふ。
では、かいつまんでカントのタワゴトを見てまいりませう。
この一文で、へ~、と思ったと同時に、やっぱりカントってバカなんだな、という認識を新たにした、深くしたのがこちら。p105
「[君に対して為されるのを欲しないこと云々]という取るに足らぬ言辞を、規準或いは原理としてここに適用できるなどと考えてはならない。こういう言葉は、種々な制限を加えてのうえにもせよ、結局上記の原理[人間は目的自体であるという]から派生したものにすぎないからである。
このようなものは、とうてい普遍的法則たり得るものではない、そこには自分自身に対する義務の根拠も、また他人に対する愛の義務の根拠も含まれていないからである(他人に対して親切を尽くさなくても済むものなら、他人が自分に対して親切でなくても結構である、という考え方を喜んで承認するような人はたくさんいるからである)。
更にまた上掲の言句は、人間が責任をもって相互に果たすべき義務の根拠を含むものではない。犯罪者は、彼を処罰しようとする裁判官に対し、かかる言葉を楯にとって、自分の無罪を証明するかも知れないからである、等々」
一見しても、何度か読み返しても、何をほざいておるのかさっぱりわからないこの文章。
ここは訳者の注意書きがありまして。
「カントの引用は〈quod tibi non vis fieri etc.〉とあるが、全文は〈quod tibi fieri non vis, alteri nefeceris〉(君に為されるのを欲しないことを他人に為すな)で、ローマ皇帝セルヴェルス・アレクサンデルの愛用句だという。なお『論語』にも「己の欲せざるところは人に施すなかれ」の句がある」
つまり、カントはこのローマ皇帝の言葉を完全に取り違えてものを言っておるわけであります。えらそうにほざいておいて、それで完全な間違いとか、死ねばいいのに。って、言われるまでもなくすでにお亡くなりか。
しかし、勉強になったのが、論語とまったく同じ言葉が西洋にもあったという事実。まあ、同じ人類なんですから、こういう基本的な言葉はあってしかるべきでしょうが。よく言われるように、古代ローマ時代は東洋と同じような精神性をもっておったそうです。
そこで考えるべきが、一つ。このローマ皇帝の言葉をカントが完全に取り違えていたのか、それとも、時代が経るごとに言葉が誤られていったのか。もし後者なら、こんな素敵な言葉を正しく伝えることのできない民族は愚物である、と言えますし、前者ならカント、ホントバカだな! となります。まあ、どちらにしても結局、バカだな!! となるのですけれども。
続きまして、ここらあたりに思索するものの苦悩と言いますか、苦慮が伺える箇所が。p139
「ところで道徳性が決して妄想の所産ではないということは、定言的命法およびこれと共に意思の自立が真であり、またア・プリオリな原理として絶対に必然的であるということから明白である。
しかし道徳性が妄想の所産でないと言うためには、純粋実践理性の綜合的使用の可能であることが必要である、だがこの理性能力そのものを批判したうえでないと、かかる綜合的使用を敢てすることは許されない」
「ところで道徳性が決して妄想の所産ではないということは、定言的命法およびこれと共に意思の自立が真であり、またア・プリオリな原理として絶対に必然的であるということから明白である」
ここで、道徳は妄想の産物ではない、と言っています。
道徳は妄想じゃないよ! だって、自由意思は真だし、ア・プリオリな原理として必然じゃん! 明白じゃん!
とかほざいてますけど、根拠がお前の妄想じゃねぇか。って話ですよね。妄想を根拠として妄想ではありません。とか言ってるとか、もはや狂人の域です。
とはいえ、一応真面目に考えますと、
定言的命法とは、例えば、金をいくら積まれても己の正義を実行せよ、みたいに、~せよ。と己に命じてくる決定的な言葉という意味なんだとか。
純粋実践理性の綜合的使用の可能、とは、体験や経験によらない、人間に本質的に備わった善なる理性を心から行うこと、となるでしょうか。
~せよ、と己を律する、自律の意思があることは明らかで決して道徳とは妄想ではない。だから、いくら金を積まれても、わたしはわたしの正義を実行します! と己を導かねばならない。しかし、己に備わった理性を、理性とはなんぞや? から疑って初めないことにはむやみに己を導くことは許されない。
となるでしょうか。
じゃまくせぇw
でも、何でこんなクソじゃまくさいことを、うにゃうにゃうにゃうにゃやっておるかといいますと、さっき出てきましたね。
(他人に対して親切を尽くさなくても済むものなら、他人が自分に対して親切でなくても結構である、という考え方を喜んで承認するような人はたくさんいるからである)
カントの経験、体験として、この西欧民族というものが、ヒャッハー! な民族であって、こういうヒャッハー! な民族を、道徳だの義務だので束ねる、導くためには、何で正義というものはあって、正義をなさねばならないか、をひとつひとつその答えを見いださねば、このヒャッハー! な民族を導くための正当な材料たり得ない。と、言っているのでしょうか。
前にも、『社会契約論』をちらっと読んだときにも感じたのですが、西欧民族というのは基本がすべてヒャッハー! で出来上がっているので、このヒャッハー民族をどうにかして秩序立てて治めねばならない、ということに思考家たちは頭を悩ませていたのかなぁ、という気がします。
だって、パリの街って、十八世紀とか、クソまみれだったんですよ。
土地がないから高層住宅を建てるけど、高層の住人はトイレとか下水とかないから、おまるに用を足して、そのおまるの中身を窓からぶちまけていた。一応、「水がでるぞー!」と一声かけないといけない、というマナーはあったそうですが。いや、マナーどころじゃねぇ。もっと根幹から物事考えろや。
だから、西欧では歴史上、人が集まると疫病やらなんやらが発生しまくった。黒死病の大発生にしたって、クソやら死体やらを町中に放置しまくったから当然、蔓延したわけで、そもそも根幹的な欠陥があると考えざるをえません。
こういうのが西欧民族なのです。こんなオツムヒャッハー! な連中を、どうにかこうにか取りまとめねばならないとか、わたしだったらとっとと逃げ出すレベルです。
ちなみに、江戸でいいますと、排便はくみ取り式便所でしまして、畑にかけておりました。再利用していたわけですね。しかも、汲み取り業者がいて買い取っていたのだとか。しかも値段が上中下と分かれていた。武士はいいもん食ってるから上、町人は中、貧乏長屋住人はろくなもん食ってないから下、と値段が分かれておって、くみ取り業者も顧客を巡って争っていたのだとか。
便ですら捨てずに利用を考える。
まあ、そのおかげで寄生虫がすさまじかったわけですが、とはいえ、町中にクソぶちまけて、それで自分のクソで疫病流行させているヒャッハー民族に比べれば天地の相違があります。
それはともかく。
次の一文を読んでおって、なんか、カントが分かった気にはなりました。p150
「しかし我々にはなお一つの方策[循環論証から抜け出るための]が残されている、すなわち――もし我々が自由によって、自分自身をア・プリオリに作用する原因と考えるならば、我々が自分自身を、我々の行為によって生じた目前の結果と見なす場合とは異なる立場がとれるのではなかろうか、という問題を究明してみることである。
ところで次のような見解に達するには、なんら精緻な考察を必要としない、それどころか極く普通の悟性すなわち常識ですら――たとえ常識ふうの遣り方にもせよ――判断における曖昧な区別によって、換言すれば、常識が「感じ」と呼ぶところのものによって、かかる見解に達し得るのである。つまりそれはこういうことである、
――我々が殊更に意を用いなくても我々に現れるようなすべての表象(感官の表象のような)が、我々に対象を認識させるのは、まったくこれらの対象が我々を触発するからに他ならない、しかしその場合にこれらの対象自体がどのようなものであるかは、我々には依然として知られていないのである。
従ってまたこの種の表象に関しては、たとえ悟性がいかに厳密な注意を払い、また努めて判明ならしめようとしても、我々はこれによって現象の認識に達し得るだけであって、決して『物自体』を認識し得るものではない、ということである。
このような区別がいったん立てられると(いずれにせよかかる区別は、表象が外部から我々に与えられて、我々が受動的であるような場合と、我々が表象をまったく我々自身のうちから作り出して我々の能動性を発揮するような場合とにおける表象の差異を認めることによってのみ成立するものであるが)、当然の結果として現象の背後に現象でないような何か別の或るもの、すなわち物自体のあることを認容し想定せざるを得なくなる。
それにしてもかかる物自体は、我々に決して知られるものではなく、我々が知り得るのはただこれらの物自体が我々を触発する仕方だけである、そして我々としては、物自体にこれ以上接近できるわけでなし、また物自体がなんであるかを知りうるものではないと、我れから諦めをつけているのである。
それにしてもこのことは感性界と悟性界とのあいだのあたましの区別を示すに違いない。つまり感性界は、さまざまな世界観察者における感性の差異に応じて実にさまざまであるが、これに反して感性界の根底に存するところの悟性界は、常に同一不変である。人間が自分自身に関して、内的感覚によって得たところの知識に従って、自分がそれ自体としてどのようなものであるかを認識し得るなどと提言する僭越は許されるものではない。
人間は自分で自分自身を創造したわけでなし、また自分自身に関する概念はア・プリオリにでなく経験的にのみ得られるのであるから、自分自身についてすらその知識は内的感官によって、換言すれば、彼の本性の現れであるところの現象と、彼の意識が[物自体]により触発される仕方とによって得られるものであることはことは言うまでもない。
それにも拘らず人間は、単なる現象から合成されたところの性質がすなわち彼自身の主体の性質であるということだけでは満足できずに、この性質を超えてその根底に存する何か別の或るもの、すなわち彼の「私」なるものを――この「私」がそれ自体としてどのような性質のものにせよ、――想定せずにはいられないのである。
それだから人間は、単なる知識と感覚の感受性とに関しては感性界に属するが、しかし人間において純粋に能動的と思われるもの(感官を触発することによってではなく、直接に意識に達するもの)に関しては可想界に属するものであることを認めざるを得ない、だが人間は、可想界についてはそれ以上のことは知らないのである」
さて。
またややこしい単語が散見されます。
まず、「物自体」
純粋理性批判に出るとは知ってましたがこっちにももう出るのか~。あ~あ、でちゃったよ。ってか物自体ってなんじゃそりゃ、って思いますが、本文ではこう言ってますね。
「物自体は、我々に決して知られるものではなく、我々が知り得るのはただこれらの物自体が我々を触発する仕方だけである、そして我々としては、物自体にこれ以上接近できるわけでなし、また物自体がなんであるかを知りうるものではないと、我れから諦めをつけている」
ん?w
物、って言ってるけど、それ物じゃないのね?w
見ることも触ることもできないし、それが何か知ることもできない、諦めるほかない代物であると。なんじゃそりゃw と、言うわけでいつものwiki先生にお尋ねしますと、
「カントに拠れば、物自体の世界が存在するといういかなる証拠もない。「物自体」のような知的な秩序があるかどうかわからないが、その後の経験によって正当化されるであろう」
ああ、お得意のタワゴトですねw 了解w
他にも、こういう考えは古代ギリシャからなる形而上学的思考の産物であると。wikiでは、
「こうした超越的概念に対する思索が、相変わらず素朴・野放図に行われたまま、独断論乱立の温床となり」
古代から、どうにも説明も証拠もないようなタワゴトを、どいつもこいつも野放図にほざいておった、と。なるほろ。とはいえ、こういう形而上的思考の散乱は、別に西洋に限った話でもなく、仏教でも天台宗だの浄土宗だのあるように、精神論や神や仏に属するような考えは、結局のところ、言ったもん勝ち、みたいなところはあると思います。
他方仏国土の阿弥陀如来がやってきて、一切衆生を済度してくれるのだ~
言ったもん勝ちです。
とまれ(ともあれ)wikiには続けてこうありますね。
「ただ、ショーペンハウアーは「物自体」を「意志」と同一視し、その道徳観の基礎としている。意志の優越を説く教説がニーチェやベルクソン、ウィリアム・ジェームズ、デューイらに主張されていることを合わせ考えると、経験によって与えられず認識されもしない「物自体」の世界が自由意志の根拠として20世紀の哲学者に残されたともいえる」
物自体は、意志と、同じものである、と。
そう考えますと、見ることも触ることもできない、ただ、現象によってそれを認識する他ないもの。確かに、人様の意思がどうなっておるのか、など永劫の闇ですね。それを見ること触ることなど出来ようはずもないし、結局、人様が何かをなして初めてそれを認識する他はない。
それは確かにそうですが、それをわざわざ単語化したところで説明も証明もできない、諦める他ないような代物だ、ってんだったら黙ってりゃいいのに……。ハァ。物自体とやらが自由意志の根拠とか、わたしは別にカントに証明されてこうして考えてるわけではありませんけどね。20世紀の哲学者には残されたのかもしれませんが、21世紀の哲学者がこんなタワゴト継承してないことだけは祈りますよ。
他にも、感性界、悟性界、可想界。
感性界とは、五感でもって認識できる現象などのことで、
悟性界とは、単純に思考能力と言っていいかも。
可想界とは、理性やら思考能力でのみ、認識できる超感覚的な世界のこと、
だそうな。
わたしはこれらすべてをタワゴトだと理解しましたので、別段ど~でもいいです。はい。
妄想をどれだけ修飾してもしょせん、妄想です。
では、この一文のどこに、着目するに値する箇所があったかと申しますと、
「人間は自分で自分自身を創造したわけでなし」
これ。
これ、お母さんから生んでもらった、とかそういうニュアンスで言っているのではないと思うのです。ここの箇所の言わんとしているところは、人間は、絶対的創造主によって創造された、しょせん被造物にすぎない、というニュアンスであろう、とわたしは感じたんですよね。そう思って読みすすめておりますと、こういう一文も。p170
「関心とは、理性を実践的たらしめるもの、換言すれば、意思を規定する原因たらしめるものである。それだから或るものに対して関心をもつとは、理性的存在者についてだけいえることであり、理性をもたない被造物は、ただ感性的衝動を感じるだけである」
被造物、という単語が確認できます。
こうして、カントの思考の根幹が被造物である、と考えますと、これら一連のタワゴトが何を言っておるのか分かった気がしたんです。キリスト教において、創造主と被造物の関係は絶対であって、被造物ごときが創造主を超越するなどという僭越は決して許されるものではありません。つまり、カントが必死こいて思考しておるこれらの蠢動は、この、限定された被造物、という枠組み、くびきの中でどうやって最適解を導き出そうとするか、という試みであろうと。
なのでどうして自由意志が大事か、と言っておるのかも、被造物というくびきの中で、許された範囲の中で、与えられた範疇において、思考できる最大限を見出そうとしたからであろう、と。しょせん、創造主に作られたおもちゃに過ぎない人間が、おもちゃに与えられた意思を、創造主から与えられた巣の中で出来得る限り羽を伸ばそうとしているという試みが、どこまで羽を伸ばすことを許されるだろう? どれだけ羽を伸ばしたら僭越だろう? どれくらいきちんと羽を伸ばす行為が創造主のご意思にかなっているだろう? というのが、カントの言っていることなのであろう、と思ったのですよね。
これは、枠組をでよう、とか、くびきを破壊しよう、などという考えは毛頭ないのだろうと思います。
従順なる被造物として、創造主から与えられた世界の中で生きることこそが絶対であって、それ以外の生き方などあるはずがない。とはいえ、あまりにも世界は茫漠で、とりとめなく、人々は創造主の意思にそって生きているとは思えないから、創造主の意思を、明確に、はっきりと理解しよう、としている過程こそがカントの言っていることなのでは?
そう考えますと、このア・プリオリ。
経験にもとづかない、本質的に備わっている善なる意思、などというものも、被造物、という観点でみると、そういう考えが出てくるのも当然かな、という気がしました。
絶対的なる創造主に形作られた被造物である我々に、創造主の意思がないわけがない。その、創造主によってインプリントされているはずの善なる意思こそが我々被造物にとってのよりどころであって、経験なんぞよりはるかに優先すべき優れた知恵なのである、という風に考えているのではないかと思いますと、経験にもとづかない先天的な善なる意思、などという妄想も出てきて然るべきなのかも知れません。
だから、わたしが尊敬するヒルティも、幸せ、幸福を求めること当然と思っていました。だから、『幸福論』という書物だって出していましたし。それもこれも、この被造物にとっての最高の状態とはなんぞや、と考えると、幸福、という結論にいたるのもむべなるかな。と思います。
東洋では、早い段階で仏教は禅に至り、「即身成仏」という理解に至りました。
その身はすでにして仏と成れり。
仏としてこの世界を理解する、悟ることこそが人間にとっての最高の状態であって、それが幸せかどうかなど、はっきり言ってしまえばどうでもいいし、幸せなどを求めるなどという認識である段階で、悟りなどまだまだほど遠いと言わねばならない。
新カント学派のヘリゲル先生は、五年間の弓の修練の果てに、己の思考をなくし、認識とか区別とかいう意識すらなくしてしまった段階に到られたといいます。自分という枠組み、くびきから解き放たれて、世界の本質をのぞかれたわけです。しかも、それをたった五年で成し遂げられた、というのですからただただ驚嘆する他ありません。わたしが同様の修行を行っても五年で悟りに至れるか、まったく自信がありません。
つまり、この、枠組み、くびきの中に閉じこもっているか、それともそのくびきから解き放たれるか、が本質的な問題なのであって、カントのごときは、このくびきのなかで大人しくしていることを選んだ。そして、くびきの中でいる安穏、創造主のゆりかごのなかで一生を過ごすという選択をすれば、そこに求めるのが、当然、幸福になるのが必然であろう、と思われます。
例えば、子供は、クリスマスのプレゼントを喜びます。
ですが、親はプレゼントを買う側なのでクリスマスをそこまで無邪気に喜びはしない。
被造物というくびきの中で収まるという安逸を選択したものが、幸福を求めるのはこの、親に養われている子供と同列であろう、と思うのです。子供はわがままを言うのがある意味仕事みたいなところがあって、親たるもの子供のわがままを聞いてやるのも役目、親の愛情みたいなところがあります。これが一度親になって、世間の荒波を知れば、幸福なぞ求めている場合ではない、戦って、勝ち抜かねば日々の生活すらままならない、ということを知る。この、当たり前のことを、被造物、という認識に落ち込んだ瞬間、いつまでたっても子供の精神のままで落ち着いてしまうのでしょうね。
まあ、どこぞの米国の奴隷と成り果てて喜んでいる、それで100年安泰などとほざいておるどこぞの気持ちの悪い生物と同じ思考程度でしょう。
ベビーベッドの中でまどろむ赤子のごとしで、創造主の作った枠組みの中で、とはいえその実、自分たちが得手勝手にこしらえた概念に過ぎませんが、しかし、くびきの中でそこから解き放たれることを欲しない存在へと成り果ててしまった。そう考えますと、どうして西欧人で悟りに至る人間がほとんど見られないのか、もこれで分かった気になりませんか?
東洋人は、即身成仏で、自分も仏たるべく、この世界で両の眼を開いてしっかと二本の足をもって立脚せんことを望んだ。鈴木老人のように、剣や槍が乱れる戦場に、はたし眼となって躍りかかる気持ちで挑むように、禅の修行に挑んだ。
しかし、西欧では、被造物、という認識が西欧人の精神をいつまでも縛り続け、そしてその状態で甘える精神にしてしまった。わたしはカントのこの、
「人間は自分で自分自身を創造したわけでなし」
という一文でそういう認識に至りました。
とはいえ、宗教にそこまで人間を束縛する力があるかな、と無神論を標榜する現代人は疑問に思うかも知れません。ですが、宗教が人間に与える力というのは意外と侮れないと思います。
例えば、西欧人が効率的に仕事をし、成功すれば会社などを売り払って老後に備えるというのも、キリスト教においては労働は罪だから、と言われます。楽園を追放され、その罪を償うために働くのであって、労働は人間に課せられた罰なのだと言われます。
それに対して、日本人が仕事中毒なのは、神話にあると言われます。天照大御神が、機織りをしておられますとスサノヲが皮をはいだ馬を投げ込んだ、という記述がありますが、神ですら働くのであるから人間が働くのは当然だ、という認識だそう。非常に残念ながらわたしにはありませんが。
また、ヌーディストビーチというのは聞いたことくらいはあるかと思いますが、あれは結局何をしておるのかといえば、単純にアダムとイブを模しておるのです。だから、キリスト教徒以外の国では実現していないでしょう。何でもwikiによればコリアやチャイナでもビーチを作ろうとしたそうですが、実現しなかったとか。当たり前ですね。
羞恥心の如きは、悪魔にそそのかされて食した禁断の果実によって生み出されたものであって、局部を露出することに恥ずかしさを覚えるのは、つまり、堕落した証であるので、羞恥心を捨て去ることは原初の人間に回帰することである。そう考えておるのでしょう。楽園がないのなら、作ればいいじゃないか。という至極単純な思考で作ったのでしょうね。
キリスト教徒にとって、アダムとイブこそが理想ですが、それ以外の宗教にとって全裸はただの全裸です。
ですが、そう考えますと不思議なことが。
幕末、開国した日本にキリスト教徒たちがやってくると、江戸の大衆が銭湯に入っていると、外から全裸の男女が丸見えだったとか。しかも、物珍しいことがあるとその、全裸の男女が外に飛び出してきたのだとか。
キリスト教徒たちは、その光景をなんて原始的な民族だ、と軽蔑したとのことですが、その実、その本心は嫉妬心でいっぱいだったのではないかと思いますね。だって、全裸の男女が羞恥心もなく外に飛び出す、ってそれまんまアダムとイブじゃないですか。
キリスト教徒たちが理想として仰ぎつつも決して実現できなかった世界を、極東の島国の黄色い生物が、ごく自然と成し遂げていたという事実。逆を言えば、例えば日本人が素朴な信仰をなくしたのに、西欧に行って、西欧の人々が素朴な道祖神を拝んでいたら、どう思うでしょう。恐らく驚愕するのでは。
明治に日本にやってきたキリスト教徒たちが、全裸で羞恥心のない、日本人という存在に心の底から驚いて、だからあんな奴らに負けてたまるか! とヌーディストビーチを慌てて作った、と考えるのは、うがった見方でしょうかね。まあ、どうでもいいんですけど。
また、日本の宗教である神道というのは、それこそ素朴な、だからこそ完成された宗教なのであって、正月がくれば日本人は初詣に参りますが、これだって立派な宗教行事なわけです。生まれた子供が大きくなれば七五三で、神様に報告にいくのだって立派な宗教行事です。
でも、日本人はそういう、宗教行事である、という認識すらなくただのイベントごとという認識でそれを行っている。先程も申した通り、本当のものというのは認識すらなくしてしまうものですが、日本人の宗教性というのは、こういう、わざとらしく認識しない、自然のまま行ってしまうという最高の宗教なのですが、そのことを理解できると楽しいと思います。もちろん、無意識だけ、というのも何ですが。
また、日本人は非常にエロい民族だと言われますが、それにしたって神話にありますね。イザナギノミコトとイザナミノミコトの二柱の神様が、聖なるまぐわいを行って、この島国を生み出したと言われるのも、そこにあると思います。まあ、エロい民族だからそんな神話になったのか、そんな神話だからエロい民族になったのか、卵が先が鶏が先か、といった水掛け論になりますが、そういう民族性であることは確かですね。
良い子はあまり検索しないほうがいいと思いますがw 日本には「種もらい祭」というのがあったそうです。キリスト教的概念がやってきて廃れたそうですが、人様のブログなどを拝見しますと古来日本はそういうエロい祭りがうんさかあったそうです。いま復活しますと、きっとエイズで民族自滅になりそうですが、いい時代もあったんでしょうなぁ。
日本人にとって宗教というのは、強制性の少ない、ドグマ、教義とか禁忌とかの少ない神道が背景にありましたが、キリスト教は違います。創造主によってすべての生き物は作られ、教義だの十戒だの禁忌だの、破れば地獄行きという儼乎とした宗教です。いまだに進化論を否定するのも少なくありません。
こういう文章を見つけました。
冗談じゃない、ダーウィンによる進化論は、単純に適者生存の過程であって、人間というここまで高度に進化し得た生物に関する進化の謎を解明したわけではないではないか。
む。確かに。
何をどうすれば、人間になる、何がどうなって、人間になった、という一番重要なところは何も聞かされていない気がします。そう考えますとキリスト教が創造論をいまだに信奉するのもある意味当然かも知れませんね。とはいえ、そう考えますと、わたしが考えている以上に、キリスト教の影響というのは世界中に及んでいるわけで、カントの生きていた時代のキリスト教の教えというのはそれこそ牢固として覆し難いものがあったでしょう。
自分は被造物、という認識の上に思考を積み重ねようとしていた人間がいると考えるのも、無理くりではないと思います。しかし、そうやっていろいろ思考を重ねてはおりますが、結局、妄想の域を脱するほどの説得力ある根拠はなんら提示できず、物自体だの可想界だの、妄想を説明すべく、妄想に妄想を重ねる、よくある、風呂敷を広げすぎて収集つかなくなってしまう、みたいな感じを受けました。『道徳形而上学原論』の最後のあたりを読んでおりますと、最初に申した通り、悲惨。無残。では、それを見てみましょう。p171
「理性の原因性の場合は、なるほど結果は経験のなかにあるにせよ、その原因は純粋理性であるべきだし、他ならぬこの理性が理念(これは決して経験の対象にはなり得ない)を介してのみかかる結果を生ぜしめたのであるから、法則としての格律の普遍性が、従ってまた道徳性が、どのようにしてまた何故に我々の関心を喚び起こすかということの説明は、我々人間にはまったく不可能である」
前後の文章をぶった切っているのでなんですが、純粋理性であるべきだし、とか、もはや希望的観測でものを言いだしたり、人間がどうして道徳という崇高な意識に関心を抱くのか、それを人間の側から説明することはまったく不可能、とまで言い出す。p173
「すなわち我々がそれに対して、予めなんらの関心をもつことのあり得るような実質が何一つ存在しないのに、それ自体だけで動機を提示し、また純粋に道徳的と言えるような関心を喚起するのか、別言すれば、純粋理性はどうして実践的であり得るのか、という問題を解明するには、人間の理性はまったく無力であり、およそこれを解明しようとするいっさいの努力と労苦とは、すべて失敗に帰したのである」
はい、完全に白旗あげました~。
むしろ、ここまで完全敗北を宣言する思考家も珍しいと言えるでしょう。ってか、お前もう何もしゃべんなw とはいえ、西欧思考家の完全敗北宣言はまだ続く。p175
「ここに道徳に関するいっさいの研究の究極限界が存する。しかしこの限界を決定するのは、実は非常に重要なことなのである。そうすれば理性は、一方では感性界のなかで最高の動因なるものや、理解はできるがしかし経験的でしかない関心などを探し回って、徒らに道徳を損ねるようなことをしなくて済むし、また他方では、もろもろの超越的な概念を含む空間――換言すれば、理性にとっては空虚な、可想界と呼ばれる空間のなかで、むなしく翼を羽ばたきながら、それでもついにその場所から動くことができなくて、けっきょく夥しい妄想のなかに落ち込んで姿を没するという仕儀に立ち至らずに済むからである」
おびただしい妄想のなかに落ち込んで姿を没することに、さすがに嫌気がさしたのかな。ってか、可想界と呼ばれる空間、ってそう呼んでるのお前だけじゃねぇの?w そして悲痛な叫びはついにクライマックスへ。p177
「それだから我々は、なるほど道徳的命法の実践的な無条件的必然性を理解できないにせよ、しかしこの命法はもともと理解できないものであるということを理解するのである。そしてこれが、道徳の原理に関して人間理性の限界を究めようとする哲学に対して、公正に要求せられ得るすべてである」
わたしは、いまだかつてここまで壮絶な戦死者の叫びを聞いたことがあったであろうか。いやない。
わたしの認識では、カントは学級優等生くらいの人間で、教師にはいはい言って優等生ぶってはいるけど、学校を卒業したら社会の荒波に揉まれて神経すり減らしている、そういう人間に見えるんですよね。
他の人間が決めたルールだの約束だのはきっちり守れるけど、しかし、実際に自分でそれらを作成するとなると色んな判断基準を取り込みはするけど、結局、大混乱に陥りそうなタイプ。わたしは、愛すべきバカだなぁ、と遠巻きに見てによによしておりますが、こういうたぐいの人間からは毛嫌いされるというw
しかし、これでわたしは、カントが少し好きになりました。
少なくとも、カントは、自分でアホみたいに広げまくった妄想に押しつぶされて完全無欠な、究極無比な敗北宣言を出したわけですが、しかし、それら意味不明な妄想で押し切るとか、お茶を濁すとか、騙したり誤魔化したりしようなどという、卑怯者の精神は持ち合わせていませんでした。
正直に、真面目に、いろいろ考えましたけど、理解できないということだけがわかりました ;;>
と、最後の最後で言ってのける精神性は、非常に愛すべきであります。
これが正直に言える人間が、悪人であるはずがありません。わたしが逆の立場だったら恐ろしくてここまで素直に敗北宣言は出せませんよね。すごいことです。
少なくとも、自分のミスを誤魔化して、自分の失敗を絶対に認めず、他者に押し付けたり、忖度させたり、恐ろしい病原菌が蔓延しているのに何ら有効な対策を打ち出すことなく、あ、そのうち収束しますよ、などとほざく連中よりはるかに善なるお人であります。もはや、死んでいる人間よりはるかにその生に無価値な人間だらけのこの今の世界からすれば、カントの方が数百倍ましなお人であることだけは事実であります。
なんか、最後の最後でほっこりした気分になれました。
あれ? そんな意味で読んでたんだっけ??
とまれ(ともあれ)、わたしはヘリゲル先生からカントまで読んできて、重要な教訓を得ることができました。
どれほど重ねても、修飾してもしょせん妄想は妄想。それより、己の考えすらなくしてしまうほど何かに打ち込む他ない。仏教に言う、三昧の境地を行うしかない。
そんな事態に巡り会えたら、幸いでございますが。
といったところで、『道徳形而上学原論』の読書感想文(?)はこれまで。
したらばな~
……ってかカントさんよ、ここまで清々しいほどの敗北宣言しておいてまだ本出してるの?w これが最後の本ってわけじゃないよね?w 神経の図太さはさすが西欧人というべきなのかなぁ?w ……さすがオツムヒャッハー