不倫理!
おこんばんはです。豊臣亨です。
昨今、こういう話題が出るたびに疑問に思うところ。
いつから芸能人って、日本の倫理や道徳を代表する人々に選出されたのでしょうか?
政治家や儒学者、宗教家が不倫理の行いをしでかしたのならともかく。それどころか、政治家やそれに類する人間が不倫理な行いを犯してもむしろ、擁護する論調の方が多いような気がします。
まあ、単純に、強いもんには弱いが弱いもんには強いという、大東亜戦争に負けて以降の、日本人の遺伝子に染み付いた奴隷根性の為せる技でしょうけど。また、カントに見られるように、自分自身は棚に上げて他人を批判する西洋思考の成れの果て、ということですが。
むしろ、わたしの中では芸能界って倫理や道徳とは対極に位置する存在だった気がします。だから、日本人がまだまともだった頃は、自分の子供が芸能界いきたいっていえば大反対ものだった。それこそ、ヤクザになるのと大差なかった。そもそも、「芸能界≒極道」だった。
かの伝説的人物美空ひばりさんのバックが山口組の大親分だったのも有名な話ですし、アントニオ猪木の全国興行を取り仕切っていたのもヤクザだったとか。
時代が変わってヤクザと手を切りました、と言ったところで、そこに巣食う人間がいきなり綺麗なまっとうな人間になるはずもなし、芸能界と醜聞は、抱き合わせ販売と言ってもいいほど一緒くただったはず。それまでの悪弊、宿痾をろうろうと繰り返してきたのが芸能界であり、芸能人であった。
だいたい、芸能人、とは、芸を能くする人、と書いてあるだけで、別に倫理や道徳を修め得た高徳の士、とは一文字も書いていない。
考えますと、日本人がヤクザと大差なかった芸能界、芸能人を憧れるようになったのは、映画やテレビの普及こそが最大の原因でしょうが、また、社会性の変容によるところも大きいと思います。
それまでは、田舎からはるばる蒸気機関車に乗ってやってきたお上りさんたちを、会社の人間がそれこそのぼりをあげて、「大歓迎!」で出迎えて、終身雇用、年功序列で、一生まるごと面倒みます。が、日本型の社会であり、安定と確実な成長と未来を期待できるのが日本であった。それが国際化、飽和化、グローバル化で、日本の基底が大崩壊し、安定どころか、未来すらまったく期することができなくなった。
まともに会社に就職することすら望むこともできない世界に成り果ててしまった。そうなると、もはやリスクだ、安定だ、など気にしていられなくなる。
売れれば大金が望め、人からちやほやされて、様々な欲望をまるっと満たせるかも知れない、芸能界に憧れるのを忌避されるような時代ではなくなってしまった。求められるのは、顔がいいとか、歌がうまいとか、芝居ができるとか、踊りが踊れるとか、話術が巧みとか、乳がでかいとか、等々。挨拶や行儀をとやかくは言われても、人格の高潔さとか、ましてや倫理や道徳が必要とされたことがどれほどあったのか。芸能人を語る上での美談にはなりえても、そこを問われることなどあったとは到底思えません。
むしろ、パンツの中にシャブ隠してましたとか、女遊びは芸の肥やしとか、ゴシップも醜聞も、話題性となるのなら芸能人という職種なら汚点とはならなかったはずでは。
それが、ここまで不倫理! とまでぎゃーすか言われるようになった。そんな時代になり果ててしまった。
大体、この件に関してわたしには疑問がうじゃうじゃわいてきますが、そもそも今の現代に生きる日本人に、倫理や道徳を気にして日常を生きているのであろうか? というところです。
学校で道徳の時間、などやったとしても、そもそも学校で、イジメ問題や、教師によるセクハラだのパワハラだの、モンスターペアレンツだの、倫理も道徳もかけらもないような連中がうじゃうじゃいるこのご時世で、いったい、どこにまともに子供たちに倫理や道徳を教えるに値する人間がいるというのか。
もっと根幹的な事を言うのなら、現代日本人に、倫理や道徳というものがそれが何をもって倫理や道徳と言い得るのか分かっておるのか、聞いてみたい気はします。
まあ、聞かなくても面構えでだいたい察しはつきますけどね。
わたしは正月の念頭にあたって、この言葉を紹介させていただきました。
【劉忠定公、温公に見え、心を尽くし己を行なうの要、以って終身之を行なうべき者を問う。公曰く、それ誠か。劉公問う、之を行なう何をか先にす。公曰く、妄語せざるより始む。劉公初めはなはだこれを易しとす。退いてしかして自ら日に行なう所と凡の言う所とを櫽栝するに及んで、自ら相掣肘矛盾するもの多し。力行すること七年にしてしかる後成る。これより言行一致、表裏相応じ、事に遇うて坦然、常に余裕有り】
劉忠定公(安世)が司馬温公にお目にかかり、己が心、精神を拡充し自己を完成させるための要諦、全人生を通じて行うものがありますかと伺った。
温公言う、それは誠ですね、と。
劉公重ねて問う、おっしゃる誠をなすべきにまず何から始めればよろしいでしょうか、と。
温公言う、いい加減、迂闊なことはいわないことです、と。
劉公は当初はそんな簡単なことでいいのか、と思っていたが帰宅後、自分の日々の言動をつぶさに観察し、矯正したところ、実は矛盾しおかしなところがあることを発見した。
いい加減な事は言わない、ということを頑張って日々行い七年目にして、矛盾がなくなり、言行が一致し、態度と言動が一体となりどんなことがあっても坦然、おだやかでこせこせしなくなり、常に余裕をもって行動ができた。
櫽栝。櫽も栝もため木で矯正するための道具。
我が人生において、これさえ行っておればよい、そんなことを一言で申すなら何でしょうか。
それは誠です。
なら、その誠を実践するにあたって何から始めれば良いでしょうか。
いい加減なことは言わないことです。
これが、倫理であり、道徳です。
そして、現代日本人にはかけらも理解できない人々ばかりでしょうが、一番大事なのは、それを己の身で行うということです。
劉忠定公というお方は、いい加減なことは言わない、たったこれだけのことでも七年かかってものにした、とおっしゃるわけです。わたしも、こうしてブログの場を借りるにあたって、バカなことは言っても、ありえないようないい加減なことは絶対に言わないように心がけております。だから、
「サバンナの風を感じさせてやるよ」
とは言っても、
「理性が道徳的完全性についてア・プリオリに構想し、自由意志の概念と不可分離的に結びつけたところ」
などと、こんな言葉は気でも狂わない限り言えるはずがない。
自由意志と密接に絡み着いたところ、ってそれ完全におめえのたわごとじゃねぇか。ってことじゃないですか。それに、ア・プリオリにしても、経験から生じない純粋な理性、にしたって、オツムから湧いて出たざれごと、なのです。それを完璧に証明するような手段など、あるはずがないのですから。
そして、
いい加減なことは言わない。
これをきちんと実行できる、または日々、実行しようと力行している人間が、現代にどれほどいるのか。
また、今回の不倫理問題でぎゃーすか騒いでおる連中は、この、いい加減なことは言わない、ということを胸を張って実行しているといえるだけの日々を生きている人間がどれほどいるというのか。
愚にもつかないゴシップだの煙すら立っていない醜聞だのに一喜一憂しておるような連中が、いったい、何様のつもりで人様に対して批判しておるのだろうか。
さらにわたしには疑問点が。
今の日本人は、自由恋愛を謳歌しておるはずです。
これにしたって古来からの、宦官や纏足は決して輸入しなかった良識ある分別ではなく、いつもの尊欧卑亜の、西洋仕込みの概念の鵜呑み・丸呑みでしょう。
結婚するまではと、それこそ好き放題、得手勝手に色んな相手と交際し、同棲し、自由恋愛の名のもとに、放縦と乱交をほしいままにしておって、それで、結婚したならば一人の人間に一生添い遂げます。
え、どの口がそれを言うの?
と、わたしなんぞは思いますね。
そんな、倫理も、道徳も、己を律する時間も精神性も訓練も、なんにも養い得ていない現代人が、いきなり結婚しましたから明日から倫理と道徳に生きます、って無理に決まっている。
いえ、多くの人間はそれを成し遂げたとしても、それをなし得ない人間はうじゃうじゃいるはずで、それがたまたま芸能人だったからといって、だからそれが何だというのか。
日本人が阿呆のごとく、自由自由と、倫理も道徳もかなぐり捨てたこんな乱離な日本を現出したくせに、それができなかった人間を、いまさらのごとく罵倒し、見下すのかよ。と、思います。目くそが鼻くそを笑っておるという現状が理解できないのだから。
こんな連中がうじゃうじゃいる日本が、先進国だの文明国だの言っておる。
西郷隆盛公はかつてこうおっしゃっておいでです。
「実に文明ならば、未開の国に対しなば、慈愛を本とし、懇々説諭して開明に導く可きに、左は無くして未開蒙昧の国に対する程、むごく残忍の事を致し、己れを利するは野蛮」
その人がまだ、文明といえるほどの学問に達していないのならば、慈愛を根本として、こんこんと説いてさとし、学問に向かわせてあげるべきなのに、そうではなくその蒙昧を利用して己の利益をあげるような所業は野蛮人のすることである。
間違いなく、この不倫理騒動でぎゃーすか騒ぐ連中のごときは野蛮人と言い切ってよろしいでしょう。
とまあ、批判するだけならカントにだってできる、白人にだってできる、バカにだってできるわけで、思想家たるもの、慈愛を本とし懇々と説諭してみませう。
そもそも、東洋思想が一番に大事にするところは、自分です。
自分さえよければそれでいい、のではない。真逆。
世に処して生きるために、まず、自分自身をきちんと作り上げねばならない、というのが東洋思想であります。
だから、この前ご紹介しました、王陽明先生だって、
【山中の賊を破るは易く心中の賊を破るは難し。区区が鼠竊を剪除せしは何ぞ異となすに足らんや。もし諸賢心腹の寇を掃蕩して以て廓清平定の功を収むれば、これ誠に大丈夫不世の偉績なり】
山中の賊を平らげるのは簡単で、心中にある欲を祓い清めるのは困難である。
わたしのごときがこそ泥なんぞを排除したのは言うほどのことでもない。
しかし、あなた方が心中の欲だの業だのを祓い清め、余勢をかって世の乱れを清めれば、これ本当に世にまれな立派な男子の偉業である。
自分自身をうっちゃって、ないがしろにして、置き去りにして、それで世の中に対して文句だの批判だの、とんでもない話であります。まず、己をなんとかしないといけない。これに関しては洋の東西を問わない。西洋だって汝自身を知れ、と言った。
まず、自分自身を知らない事には話にならない。
しかし、この、己を知るという修練こそが第一の難関でありまして、大概の日本人が、まったく己を知らない。知りたがらない。自分などと、そんな薄汚いものを見たくない。
何故なら、自分という生き物がどういう程度の存在か、など、自分が一番良く知っておるから。知っておるから、そんなもの見たくもないし、じっくりと観察して、向き合って、自分自身を知る、自分を認め、自分を許す、ということができない。できるはずがない。
放縦と、乱離をほしいままにしておるから、どんどん自分が薄汚れ、そして、そんな自分をますます見なくなって見捨てて、放縦と乱離に走るという悪循環を繰り返す。
そして、未来永劫、一生をも費やそうとも、ついに、自分で自分が分からないまま果てる。
もったいないことであります。
それが、どんな存在であれ、生活態度であれ、日々であれ、まずもって己自身とじっくりと向き合わねばならない。
わたしの場合で申しますと、やはり、まずはなにゆえ自分という存在が今の自分に成り果ててしまったのか、ということですね。こういう出来事があって、こういう事をしでかして、だから、今の自分に結実しておるのか、とようやく自分というのが分かったのが確か、29歳の頃だったと思います。それが分かれば、同時進行的に考えますのが、何ができて何ができなくて、何がしたくて何がしたくなくて、何をなすべきで何をなさざるべきか、という取捨選択も行えるようになってくる。
放縦と乱離をほしいままにする、ただ世情に流されるままの人生ではなく、自分で選択し自分で自分を作り出す人生を生きることができる。東洋思想的単語を使うと、知命、立命ができるようになります。まあ、わたしもそこまで偉そうにいえるような人生ではありませんが、少なくとも、25歳辺りから学問に目覚め、39歳でようやく学問が腑に落ちたと自信を得て、こうしてブログでえらそうにほざいておるわけです。全部ではありませんが、折りに触れ、論語の一節だってすっと頭に閃くようになる程度は学問をしております。
それもこれも、てめえさえよければそれでいい、ではなく、自分を愛するがゆえに、己を律し、克己の精神を己に養うわけです。例えでいいますと、甘言は、人を騙すときに使う言葉で、苦言は、人に忠告するときに使う言葉です。
てめえさえよければそれでいい、は甘言であって、苦言ではありません。
また、アニメ、『エヴァンゲリオン』で碇シンジ君が、
「僕はここにいてもいいんだ!」
と、拍手喝采で迎えられたわけですが、あの過程を自分で行わなければいけません。あのシーンはすごい速さで流れてゆくので言葉の数々をしみじみ味わうのは大変ですが、今の時代ならネットであのセリフを学習できますので便利な世になったものではあります。
そういう意味ではあの最終話で、あの怒涛のごとく流れる一話によって少なくとも、シンジ君は自分を肯定できた、自分を認めることができたわけであります。
13歳にして、あそこまで自分を肯定できたのだとしたら、それはなかなかすごいことであります。
また、あの中のヒカリのセリフ、
「だけど、人はその自分の小さな物差しでしか、物事を測れないわ」
これもものすごく重要な言葉ですね。
カントの如きは、純粋な理性による、学問にも人生経験にもよらない、ア・プリオリな理性や理念によって、イエス・キリストですら聖人であるかどうか俺が測って決める、と言い出したわけで、いかにも西洋らしい、左翼イデオロギー全開の考え方でありますが、そもそも、そんな考えなどありえません。それこそ、無限に理性によって世界はコントロールできる、と考える程度の人間しか考え得ないたわごとです。
シンジ君は、あれだけの苦悩と、惨めで無価値に思え、嫌悪すべき存在であった自分自身と向き合うことで、不動の自分に出会えたわけです。確固たる自分を作り上げることができたわけです。
だからこそ、その自分を使って、自分という物差しを使って、世を測ることができる。
自分自身と真摯に向き合って極めて精度を高められた、主観性と客観性に富んだ物差しでなら、自分がいまどの程度の存在で、どの程度の人生を生きていて、ならば、これからどのように生きればいいのか、ということを測ることだってできる。
自分自身と、真摯に、素直に、熱心に、向き合ったからこそ、出来上がる物差しの精度なのです。自分がどれほど醜悪で、無残で、唾棄すべき存在であっても、生きている限りは己を認めてあげなければいけない。己を、愛してあげなければいけない。
自分を愛する、という扉を開けて、さらに、世界を愛することが、隣人を愛することができるわけで、そういう意味ではシンジ君は悟りの端緒を開いたわけです。とはいえ、大悟徹底までは、わたしもまだまだ先は長いですが、しかし、悟りは悟りです。
現代日本人の多くが、自分自身すら分かっていない、と言える理由であります。
とはいえ、こうして、少なくとも50年だの100年だの生きるのならば、これは、絶対に欠かすことのできない、生きる上で絶対に必要な思考訓練なのでありますが、分かって欲しいとは思います。何よりかけがえのない自分のために。
しかし、こうしてカントを読んでおりますと、いかに現代が西洋思考にとらわれているのかが分かります。
さらに言いますと、どうして左翼イデオロギーは虐殺が大好きなのか、もカントが説明しておるような気がします。カントは、
「道徳性の諸原理に従って判定せねばならない」
だの、
「道徳性の最高の原理」
だの、
「最高善としての神の『概念』」
だの言っていますが、結局、自分のオツムの理念、理想に求めた瞬間、自分の妄想こそが最強最高の善なる意思なのであって、それを阻害するものはすべて悪である、と断定しても何の不思議もない。
「聖なる人(キリスト)すら、我々が彼を「聖なる人」として認める前に、まず道徳的完全性という我々の理想と比べ合わされねばならない」
自分たちの盲信する理想からすればイエス・キリストも聖人かどうか。と言っているのは、つまるところ、キリストは聖人じゃない、と言っているのも同義です。最高の歴史上の偉人であろうが、自分の理性=神! といっておるわけです。
そして、西欧では、人々を粛清する歴史があった。30年戦争で、ドイツで民が三分の一だの三分の二だのが虐殺されたとか、また、フランス革命では王族すらギロチンにかけ、その後の混乱期で反対派もまとめてギロチンにかける、という、虐殺に何の精神的障害のない『実例』が実現していた。
ならば、数百万、数千万の人間を虐殺するのに、何の忌避感もあろうはずもない。
自分のオツムにある、バモイドウキ神が命ずればいいんですから。
なので、わたしが敬愛する高橋是清さんを暗殺した青年将校のごときの感じたという義憤とやらも、しょせん、バモイドウキ神の命ずるタワゴトです。自分の善さえ実行できればそれでいい、という連中だったのです。
そう考えますと、中共が共産化したのも、虐殺に忌避感のない歴史だったからだろう、と思います。漢民族は歴史が起こってずっと虐殺しまくっていましたからね。そういう意味では、どこぞの半島も同様に忌避感はない。
しかし、日本人は、歴史的にそこまで虐殺が日常茶飯事であったとは言えない。
だから、ここまでソ連や中共の魔の手が及んでいながら、日本が共産化しない理由は、虐殺を是とするか非とするか、というところに求めていいのかな、と思います。
とはいえ、そのおかげか、そのせいか、
日本人のオツムの中身はあからさまに西洋思考の、自分自身を棚に上げて他者を批判しておれば快と感ずる人間に成り果てておるくせに、
革命を起こして、虐殺しまくって、その最悪の陰惨なる社会の中から新しい国家を樹立するような精神性も、エネルギーも、独自性も独創性も、何にもなく、
だからといって、東洋思想に回帰して、己を律して己を良くする日々を生きるわけでもない。
ないないづくしの、中途半端でどっちつかずの、ないない民族と成り果てたわけです。
この現状を鑑みれば、芸能人ごときに目くじら立てておる場合ではないと、陋巷にある一思想家は考えますけどね。
ナムナム
ー人ー