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『道徳形而上学原論』を読んでる途中



 と、題しておこんばんはです。豊臣亨です。


 さて。



『道徳形而上学原論』 カント著 岩波文庫



 昨今読んでおるのはこの書。


 常日頃、西洋哲学なんぞ下らん、と公言してはばからない老荘思想家のおっさんではありますが、とはいえ、敵を知り己を知れば百戦して危うからずと申します通り、敵を知らなさすぎるのも問題がある。


 とはいえ、西洋哲学は読むに値しないと思うのも事実。以前にも申した通り、西洋哲学の何が難しいといって、得手勝手に意味不明な文字をこしらえあげ、それをいじくり回すことを哲学だと勘違いし、さらに西洋独特の気色の悪い長ったらしい言い回しが、簡潔・素朴を尊ぶ東洋人からすれば忌避させる原因なのであります。


 そして、四苦八苦して中身を伺うと、実は大したことをほざいていない、ということが往々にしてある。だからわたしはこの西洋哲学を、西洋思考、とはいいますが西洋思想、などとは死んでも言いたくないところでございまして、東洋思想並に素晴らしいことを言ってくれれば良いのにと思い、少しはましな西洋哲学家であろう、カントを読んでみた所存でございます。かの、弓道の奥義を極められたヘリゲル先生が、新カントの哲学家であったし、安岡先生の書でもカントの名を伺うので、ましなところから入るのもよかろうと、本書を手にとって見た所以であります。


 本来ならば、すべてを読み終えた上で物を申すべきなのでありましょうが、……あまりにも中身がひどかったので、p177あまりある本書のp63くらいまで読んだところで取り上げたくなった次第でございます。


「王様の耳はロバの耳ーーーーーーッ!!」


 と、言いたくて言いたくて仕方がなくなったわけであります。


 ぶっちゃけ、それぐらいひどいw あまりにもひどすぎるw 西洋哲学の書を読んで、まさかここまでウケるものに出会えようとは……w


 では、何がなにゆえそこまでひどいのか、ちょっくら取り上げてみませう。


 まず、本書を読み始めるとすぐに出会うのが、


ア・プリオリ


ア・ポステリオリ


 の二語。ア・プリオリが、先天的な知恵で、ア・ポステリオリが経験的な知恵という意味だそうな。


 これは、安岡先生の書、『孟子 現代活学講話選集3』 PHP文庫 のp208




「良能・良知」とこれからの学問




【孟子曰く、人の学ばずして能くする所の者はその良能なり。(おもんぱか)らずして知る所の者は、その良知なり。孩提(がいてい)の童もその親を愛することを知らざる者はなく、その長ずるに及びて、その兄を敬することを知らざる(もの)はなし。親に親しむは仁なり。長を敬するは義なり。他なし、これを天下に(おしおよ)ぼすのみ】




 孟子は言う、「人間が学ばずして生まれながらになし得るものは良能であり、特に思慮をめぐらさずして先天的に知り得るものは良知である。二、三歳の子供でも、自分の親を愛することを知らぬ者はなく、やや成長すると自分の兄を敬うことを知らぬ者はない。親しい身内を親愛することは仁である。長上を敬うことを義である。大切なことは、この親に親しみ長を敬う心を天下に推し及ぼすことにほかならない。




 ここの、良知・良能にいう、「良」がア・プリオリである、と安岡先生はおっしゃいます。そして、カントは、哲学を考察するにあたって、経験に基づく知恵にいうほどの価値はない、といい、もっと純粋で原理的であるこの、ア・プリオリこそが重要である、というのです。


 しかし、わたしはこの考え方が好きではない。


 何故なら、いくら純粋な、まじりっ気のない善、最高の神の如き崇高な善なる意思が、仮に、この世にあるとしても、結局、それを実行するもの、成し遂げるものは人間に他ならないではないか、と思うわけです。


 人間は、結局、経験によって生きざるを得ない。


 その人間が、生きる限り、いくら神に等しい善なる意思があったとしても、経験に照らし合わせていかようにでも変遷させられてしまうのが現実というものではないか、と思うわけです。聖書でも、デウスに最高の叡智を授けられたとされるソロモン王がやがて堕落したと言われるのも、それを如実に表していると思うわけです。


 形而上などと机上の空論を振り回すより現実的なことを言うのならば、その、欲にも業にもどうとにでも堕落してしまう人間を、それを学問で矯正する他はないと、東洋思想は考えるし、きちんと、『中庸』にはあります。




【人心()れ危うく、道心惟れ微なり。惟れ精、惟れ一。(まこと)にその中を執れ】




 人が欲や享楽に向かおうとする心は強く、はなはだ危うい。しかし、それを克己する精神ははなはだ微かである。


 心を精錬し、その不雑を取り去って一統し、さらなる進化、中、へと至らねばならない。




 また、王陽明先生も同様におっしゃる。




【山中の賊を破るは易く心中の賊を破るは難し。区区(くく)鼠竊(そせつ)剪除(せんじょ)せしは何ぞ異となすに足らんや。もし諸賢心腹の(こう)掃蕩(そうとう)して以て廓清(かくせい)平定の功を収むれば、これ誠に大丈夫不世の偉績なり】




 山中の賊を平らげるのは簡単で、心中にある欲を祓い清めるのは困難である。


 わたしのごときがこそ泥なんぞを排除したのは言うほどのことでもない。


 しかし、あなた方が心中の欲だの業だのを祓い清め、余勢をかって世の乱れを清めれば、これ本当に世にまれな立派な男子の偉業である。




 ならば、現実的にはどうすればいいか。孔子様はこうおっしゃる。




【子曰わく、質、文に勝てばすなわち野。文、質に勝てばすなわち史。文質彬彬(ひんぴん)として、然る後に君子なり】




 人間の本質、性質が、自分が学んできた学問に勝るようでは野卑・粗野である。野蛮である。


 しかし、学問が人間性に勝ってしまうようでは人間味のない、暖かみのないただのマシーンになる。


 人間の本質・生まれつきの素質と、これまで学んできた学問がピタリと一致するに及んで初めて君子と言える。




 その君子となれるように、論語を学べ。


 というわけです。


 何も、複雑な単語を造語しなくとも、奇妙キテレツな言い回しをこねくりあげなくとも、十二分に思想は語れる。現実がそこに儼乎(げんこ)としてある以上、その現実をより良くできるように、まずは、自分自身を進化せしめねばならないのである。


 にもかかわらず、学問にも、経験にもよらない、原理的な至善がある、とカントは考えるのです。


 神によって作られたAIだのアンドロイドだの、神によって選ばれし優良民族だのが存在するのならばともかく、人間という、欲だの業だのに簡単に目がくらんでしまう存在が知恵を扱う以上、純粋な、至高な、善なる意思があろうがなかろうが、はっきり言ってしまえばどっちゃでもいい。と、私は考えておるわけですが、カントは、このア・プリオリこそが最善であると言う。

 

 この段階ですでにカントにうんざりしておるわけですが、とはいえ、バカをバカにするためにも頑張って読むほかはない。はっきり言ってわたしの、シワの少ない脳が熟読を拒否するので苦労して読んでおると、こういう記述に出会えました。p42




「例えば、こういう問題があるとする、――私は窮境に際して、初めから守るつもりのない約束をしてはいけないのか、という問題である。


 この場合に、問題の含む二通りの意味を区別することは極めて容易である。すなわち――もともと守るつもりのない約束をするのは、怜悧な遣り方であるのかどうか、それとも義務にかなった行為であるのかどうか、という区別である。


 言うまでもなく第一の場合は、しばしば起きることである。確かに私とても、次のような事情はよく心得ている、――この場合に、口実を設けて目前の窮境を脱しさえすればよいというのでは、まだ思慮が足りない、私がこうして嘘をついたことから、私がいま脱しようとしている厄介よりもっとひどい厄介が起きはしまいか、また私がいくら抜け目のない人間であると自負したところで、いったん失われた信用は、私がいま避けようとしているすべての害悪よりもずっと不利な結果をもたらしはしまいか、などということを予見するのは、なみ大抵のことではない、するとこの場合にも一般向きの格律に従って行動し、初めから守るつもりがなければ何も約束しないという習慣を身につけるほうがもっと怜悧な行為ではあるまいか、ということもよくよく考慮されて然るべきである。


 それにしてもかかる格律が依然として、懸念すべき結果を根拠としていることは、直ちに明白である。ところで義務にもとづいて誠実に行動するのと、自分に不利な結果の生じるのを憂慮してやむを得ず誠実に振る舞うのとは、まったく別個の事情である。


 第一の場合には、行為自体の概念がすでに私に対する法則を含んでいるが、しかし第二の場合には、私にとってどんな結果がこの行為に結びつくだろうかということを、何はともあれどこか別方面で調べてかからねばならないからである。実際、私が義務に背くのは確かに悪いことである。また私が怜悧という格律を守っていれば、これに背く場合よりもいっそう安全であることは言うまでもない、それにかかわらず私がこの怜悧の格律を捨てるとすれば、そのほうが私にとって極めて有利なことも有り得るからである。


 次に、偽りの約束は義務にかなっているかどうかという問題であるが、これに対する答えを最も簡単な、しかも最も確実な仕方で発見するには、次のように自問すればよい、――いったい私は、私の格律(偽りの約束によって窮境から脱しようとする)は、普遍的法則として(自分自身のみならず他人に対しても)妥当すべきであるということで果たして満足できるだろうか、また何びとにせよ窮境にはまりこんで他の仕方ではそこから抜け出すことができない場合には、偽りの約束をしてもよいということを自分に言い聞かせることができるだろうか、と。


 確かに私は、嘘を欲することはできるが、しかし嘘をつくというような普遍的法則を欲することは到底できるものではないことを、直ちに覚るであろう。実際、我々がかかる普遍的法則に従うとなると、約束なるものはもともと成立しなくなるだろう。


 私が、将来の行動について嘘をつこうとする私の意思を他の人達に申し出たところで、彼等は私の言い分を信じないか、或いは早まって信じるようなことがあるにしても、あとで私の嘘に報いるにやはり嘘をもってするから、私の最初の嘘は何の役にも立たないだろう。こうして嘘をつくという私の格律を普遍的法則に仕立てるや否や、この格律は自滅せざるを得ないだろう。


 それだから私の意欲が道徳的に善であるためには私は何を為すべきか、という問いに答えるためには、遠きに達する鋭利な知力を必要とするものではない、世情にうとく世間の様々な出来事にそのつど適切に対処する能力がなくても、私はこう自問するだけで足りるのである、すなわち――君は、君の格律が普遍的法則となることを欲し得るか、と。もしそれができなければ、君の格律は到底是認せられ得るものではない、だがそのことは、君に対し或いは他の人達に対してそれから生じるかも知れない不利益のためではなくて、その格律が原理として、およそ可能な普遍的立法たるに適し得ないからである。


 理性は、私に普遍的立法に対する直接の尊敬を強要する。私は今のところこの尊敬の根拠がなんであるかを見極めていないが(このことはたぶん哲学者が研究してくれるだろう)、しかし少なくとも次のことだけは理解できる。すなわち――第一に、それは価値に対する尊重の念である、そしてこの価値たるや、傾向性によっていたく賞讃されているような一切のものの価値を遥かに凌駕する、また第二は、実践的法則に対する純粋な尊敬の念にもとづいて行為せねばならないという必然性こそ、義務の本質を成すところのものである、という二件である。


 義務に対しては、およそ他のいかなる動因も道を譲らねばならない、義務はそれ自体善であるところの意思を成立せしめる条件であり、この善意思の価値を超過しているのである」




 嘘をつくことは善か悪か。


 たったこれだけのことをぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃと、これだけ駄文を重ねられるのは、ある意味一つの才能かもしれませんが、結局、何が言いたいかって、


 嘘をついちゃ駄目だよね。


 これだけですよ。


 ちなみに、格律とか意味不明な造語をしていますが、ここではルール、くらいに認識すればおkかと。東洋人が、そんなこと考えるまでもないような明明白白なことを、無駄に、阿呆のごとく、なんか意義ぶって偉そうに言っておきながら「理性は、私に普遍的立法に対する直接の尊敬を強要する」嘘をついちゃ駄目、という社会的ルールがわたしに服従を強いる、程度のことをここまで無意味な言葉で修飾できる精神性が、はっきり言って気持ち悪いです。


「確かに私は、嘘を欲することはできるが、しかし嘘をつくというような普遍的法則を欲することは到底できるものではないことを、直ちに覚るであろう。実際、我々がかかる普遍的法則に従うとなると、約束なるものはもともと成立しなくなるだろう」


 こんなアタリマエのことを、いちいち文章化しないと気がすまないとか、そりゃこんな連中に弓道が分かるわけがない、と断ずるのも当然ですよね。わたしだったら塩をまいてやります。


 そう考えますと、西洋哲学家でありながら、こういった思考をすべて投げ捨てて一心不乱に修練に邁進し、弓道の奥義を身につけられたヘリゲル先生が立派であることは論をまたないでしょうが、こんな気持ちの悪いことを日常的に考えている白人を見捨てることなく、見事に教導しきった阿波師範がどれほど凄まじいのか、ということを考えるべきでしょう。


 禅の奥義、つまり、悟りに至ったお方というのは、やはり仏と同様の慈悲の心がおありなのでしょう。そして、それを目指すのが人としての道でありながら、その険峻さにたじろぐばかりであります。塩をまいた瞬間、わたしは永劫悟りに至れないでしょう。


 とはいえ、カントにも褒める点はある気はします。


 それは何かと言いますと、多く、抽象的単語の羅列で、結局何が言いたいのかさっぱり分からない西洋哲学をここまで平易に言ったこと、ということだけは褒めるべきでしょうか。


 とはいえ、嘘をつくというルールを推し進めると、そもそも社会が成り立たないよね☆彡 こんな当たり前のことを堂々と言ってのけるその発想の幼稚性は唾棄すべきではありますが。。。


 しか~し。


 わたしが言いたいのはこれからであります。これからがカントの真骨頂。真面目。醍醐味。


 カントの恐るべき発言に恐怖するがいいですw p56




「道徳性を実例に求めようとする企てにもまして、道徳性を誤まるものはあり得ないだろう。実際、この種の実例が私に示されるとしたら、私はまずその実例が原型的範例として――換言すれば、模範として用いられ得るかどうかを、道徳性の諸原理に従って判定せねばならない、ところが実例では、道徳性の最高の原理を我々に提供することはできないのである。


 福音書の中の聖なる( )(キリスト)すら、我々が彼を「聖なる人」として認める前に、まず道徳的完全性という我々の理想と比べ合わされねばならない。それにまた彼も、自分自身についてこう言っているのである、


――「汝等は何故に我れ(汝等に見える)を善しと言うや、神(汝等に見えぬ)ひとりに他に善きもの(善の原型)なし」と。


 ところで我々は、最高善としての神の概念を、どこから得たのだろうか。他ならぬ理念から得たのである、理性が道徳的完全性についてア・プリオリに構想し、自由意志の概念と不可分離的に結びつけたところの理念に求めたのである。


 道徳の事柄においては、模倣などということはまったくあり得ない、実例は行為者を鼓舞するに役立つものでしかない、つまり実例は、(道徳的)法則の命令するところのものの実行が可能であるということに関して疑いなからしめるのである、このように実例は、実践的規則がいっそう一般的に表現しているところのものを直感的に示しはするが、しかし理性のうちにのみ存する真正な原型をさしおいて、実例に範をとる権能を決して持ち得るものではない」



 

 ちょっと聞きました奥さん?w イマヌエルさんちのカントちゃん、とんでもないことを言い出しましたわよw


 言うに事欠いて、イエス・キリストなんて、自分たちの理想からすれば大したことはない、という。


 なら、その自分たちの信じる最高の善とはどこから来るのか、


 理念、


 だと。


 ならその理念とはなんぞやといえば、


「理性が道徳的完全性についてア・プリオリに構想し、自由意志の概念と不可分離的に結びつけたところ」


 だという。先天的な知恵によって着想し、自由意思にぴったりとひっついたところ、って、なんかそれっぽいことを言ってますが、結局なんでもない、てめえのオツムで適当にこしらえ上げたオツムの中に存在する神こそ、至善って言っているのです。とんでもないことを言っているのが分かります?w


 そりゃ、てめのオツムこそが最強最高の善だと信じられるのなら、実例だの歴史的事実だの、キリストという人類の見本だのも所詮大したことはない、と履いて捨てられますよ。実例のごときも、「行為者を鼓舞するに役立つものでしかない」程度のものであって、


「理性のうちにのみ存する真正な原型をさしおいて、実例に範をとる権能を決して持ち得るものではない」


 俺様のオツムのなかにある神以上に崇高な歴史的事実など存在しない!


 って言っているんですよ。


 つまり、こいつらからすれば、拝む神が、デウスであるかヤハウェであるか、バモイドウキ神であるかなんてどうでも良いんでしょうよ。だって、実在するかとか上におわすかとか全然関係ないんですから。てめえのオツムの中にあればそれでいいんですから。そう思いますとヘルシングという作品で、


「君らの神の正気は一体どこの誰が保障してくれるのだね?」


 ってセリフがありましたけど、まさしく、カントのオツムの中身の正当性は、どこの誰が保証してくれるんですかね?

 

 キリストだろうがなんだろうが聖人に値するかどうかは俺様のオツムのモノサシで決めてやんよ、などと言い出す人間の正気を、どうやって確かめればいいんでしょうね。


 しかし、考えておりますと、この気色の悪い超独善的思考をカント一人の異常性だと断ずることはできないことに気が付きます。というか、この考えこそが白人に通底する基本的思考なのであると気が付かされます。


 カソリックとプロテスタントの血みどろの殺戮劇だって、てめのオツムの神こそ至善、となったらそれ以外は皆殺しでおk、ってなるでしょうし、


 魔女狩りだって、あの女は魔女と、てめえのオツムの神が命じれば絶対の正義でしょう、だからキリスト教はいまだにこの魔女狩りの罪悪を謝罪することはないでしょうし、


 文明絶対拒否の原住民の住む島に得手勝手に侵入し、拒絶されたらあいつら俺を拒絶しやがったあいつらは悪魔だ、などと言えるのもこれでしょうし、


 未開化民族を一律植民地の奴隷として支配・搾取しておきながら、これこそ文明の光に浴する正義なのだ、と考えられるのもこのカントの考える『理念』のなせる技でしょうし、


 この前の、レバノンに逃亡した犯罪者があの記者会見でほざいていたのも、俺ははめられたんだ、俺は正義だ俺の権利を主張する、という世迷い言も、自分の悪事は一切不問に付して自分だけが正義なのだ、という思考形態こそ、この白人の超独善的思考のなせるわざなのだと思うわけです。ちなみに、この前仕事中、あいつってミスタービーンに似てる、って言われてはたと手をたたきましたけど。ビーンとゴーン、いい感じだ。それはともかく、


 自分のオツムの神こそ唯一の絶対者、


 これこそが白人の基本的な特徴なのだと、カントを読んでおって思うわけです。こんな気持ちの悪い連中が地球の支配者づらしているのか、明治の日本人はこんな連中を憧れて国を腐らせたのかと思うと本当にやりきれない思いです。


 さて、最後の引用としまして、次の文章を取り上げてみましょう。この部分が、カントで一番笑わせてくれました。p61




「私は、優れた学者であられた故ズルツェル氏から手紙を頂いたことがある。その中で同氏は、徳に関する色々な教えは理性を承服せしめるに足る多くの言説を含むにも拘らず、実際には極めて僅かのことしか成就していないが、いったいその理由はなんであろうか、と質問されている。


 私の返事は、徳論の完璧を期して準備に手間取ったためにのびのびになったが、この質問に対する私の答えは、結局次のようなものになる、――それは徳の教師達自身が、徳に関する彼等の概念をはっきりさせていないからである、また彼等は、あまりにも事を具合よく運ぼうとして、道徳的善に到らしめる数多くの動因を至る処に探し求めるが、しかしそれは薬の効き目を強めようとして却ってこれを台無しにするようなものである、と。


 実際、正直な行為が、この世界におけると或いは別の世界におけるとを問わず、およそ何らかの利益を求めようとする意図をすべて放棄し、困窮や誘惑による最大の試練に遭っても毅然とした心をもって為されるような場面を考えてみると、かかる行為が、いささかでも別の動機によって触発された類似の行為をことごとく(しり)えに瞠若(どうじゃく)(瞠目と一緒)たらしめ、人心を鼓舞して自分もまたこのように行為し得るという希望を懐かしめることは、極く普通の観察によっても明白である。やや長じた子供ですら、かかる行為から同様の印象を感受するし、また彼等に義務を教示するにしても、これ以外の方法のあろう筈はない」




 ズルツェルとやらはどなたさんかいな、と見ましたがwikiにはなかったですね。そこまでメジャーなお人ではないっぽい。


 しかし、これは笑えませんでした?w わたしは仕事中大いに笑っておりましたよw


 だって、


「徳に関する色々な教えは理性を承服せしめるに足る多くの言説を含むにも拘らず、実際には極めて僅かのことしか成就していないが、いったいその理由はなんであろうか」


 これ、人に聞く?w


 ものすごい変な言い方ですが、置き換えてみますと、


「日本人が優秀であることは論を俟たないが、しかし、わたしは頭が悪い。何故だろう?」


 って言ってるのと大差ないですよw


 え、正気?w 本気ですか?w 結構ヤバいレベルのご発言であることをご理解されてますか?w バック・トゥ・ザ・フューチャーみたいに、頭こんこん叩いてもしも~し誰か入ってますか~? ってやってやりたい気分ですよw


 ……


 お前らがバカだからだろう!! 


 言わせんな恥ずかしい!!


 ふぅ、すっきりしたw


 少なくとも、孔子様やお釈迦様は天寿を全うし、キリストやソクラテスは処刑された、という事実を、白人は未来永劫理解できないのでしょうね。


 しかし、カントのこの愚問に対する答えは、それなりに面白い。


「実際、正直な行為が、この世界におけると或いは別の世界におけるとを問わず、およそ何らかの利益を求めようとする意図をすべて放棄し、困窮や誘惑による最大の試練に遭っても毅然とした心をもって為されるような場面を考えてみると、かかる行為が、いささかでも別の動機によって触発された類似の行為をことごとく(しり)えに瞠若(どうじゃく)(瞠目と一緒)たらしめ、人心を鼓舞して自分もまたこのように行為し得るという希望を懐かしめることは、極く普通の観察によっても明白である。やや長じた子供ですら、かかる行為から同様の印象を感受するし、また彼等に義務を教示するにしても、これ以外の方法のあろう筈はない」


 つまり、貧困や、欲望による誘惑にも耐え毅然とした心をもって正直に振る舞うことが、それ以外の動機や心理による行為をすべて劣ったものとなし瞠目されるに値し、他の人々を、よし自分もそうなろうと思わしめることはそんじょそこいらの子供でも十二分に分かるし、彼等に教えるにしてもこれ以外の方法のある筈はない。


 言っていることは実にまっとうながら、ですがカントからしてみたら、オツムのなかでこしらえ上げた、


「一切の経験にかかわらない、純粋な理性だけに基づく」


 哲学こそが至善であり、こういった実践哲学はしょせん通俗、とみなしています。


 一切の人生経験にかかわらない、純粋な理性なんぞというものがこの地球上のどこにあるのか、それは自分のオツムの中に、


 純粋理性はありまぁす!


 と言っているのですからご立派です。


 こんなものに全ヨーロッパが影響を受けたというのですから、白人は素晴らしい。とはいえ、カントの書はこれのみではなく『純粋理性批判』やらがあります。ちらっとwikiをのぞいてみた感触によりますと、いかにもキリスト教的思考が入っているような気がしますが、まあ、一応読んでみるつもりではあります。


 とはいえ、一つの結論としてここまでカントを読んできて、すなわちカントの思考は大失敗こいたエセ思想である、とわたしは思います。何故なら、すでに実験結果として実例が提示されておると思うからであります。


 それは、かのバスティーユ牢獄襲撃から始まるフランス革命によって。


 カントはいう、ア・ポステリオリ、人間の経験的な知恵は、ア・プリオリ、先天的な知恵に劣ると。


 すなわち、人類がえいえいと築きあげてきた、文化・文明、秩序や国家を打倒することによって新秩序を樹立できるものと考えた、しかしその後の混乱が何より、如実に事態を物語っている。そして、当事者であるナポレオンが喝破していると思う。ナポレオンは言う。



「理屈はどうでもいい。革命とはいまだ待たざるものがすでに持てる物より奪うことである」



 と。


 屁理屈などどうでもいい、結局、革命とは下剋上に過ぎない。


 フランス革命後の混乱期から、孟子のいう良知・良能は現れましたか? 経験に基づく他ない人間から、経験にもとづかないア・プリオリな叡智は湧き出ましたか? 


 歴史は事実を提示しておるのです。


 フランス革命は1789年に始まっておりますから、カントはその事件を知っておったわけですが、彼は何を思ったでしょうね。でも、屁理屈捏ね上げる、『実例』を何より軽視するカントはこの事実を未来永劫理解しないかもです。



 ……


「王様の耳はロバの耳ーーーーーーッ!!」


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