『弓と禅』の読書感想文
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おこんばんはです。豊臣亨です。
『弓と禅』 オイゲン・ヘリゲル著 福村出版社
昨今、書店にゆくと西洋人の視点からなる東洋、という書物が目に入ってくるので手にとってみた一冊でございます。
とりあえず手にとって見た当初の感想としましては、帯に「スティーブ・ジョブズの生涯の愛読書!」とある。なれど、それが良いんだか悪いんだかさっぱりわからない。
マック創業者であることは分かるものの、そこまでジョブズに詳しくはないのでいつものwiki先生に伺ってみますと、若い頃のジョブズはいわゆる「うつけ者」と称すにふさわしい人物のようでして、様々な宗教や哲学に興味を示し座禅にまで及んで師を求めてインドに渡ったのだとか。あんたはクェス・パラヤか、と言いたくはなりますがしかし、インドに渡ると想像と全然違ってがっかりしてしまいとっとと帰国、サンフランシスコにて曹洞宗の僧に禅を学んだのだとか。その後の活躍も「うつけ者」にふさわしい激動ぶりですが、その生涯を眺める限りでは禅に深い造詣、堪能であるか不明ではありますが、しかし稀代の俊英であることは疑いの余地はない。そんなジョブズが座右の書にするくらいの書ではある、と。
筆者はオイゲン・ヘリゲル。
これは巻末の「ヘリゲル先生の想い出 稲富栄次郎」の箇所から伺いますと、ドイツの哲学者で新カントのハイデルベルヒ学派に属し、特にラスクの愛弟子であり、ラスクに関しては第一人者を任じておられたとか。これまたラスクさんとはどなたかな、とwikiを伺いますとこの方も素敵なお方で、従軍する義務はなくさらに虚弱体質で強度の近視であったのに、己の中の良心と理想を省みて第一次大戦に従軍し、戦死なされたとか。その早すぎる死に、思想が著作としてまとめられていなかったため、ヘリゲル先生が遺稿を三巻にまとめ出版されたのだとか。独創的で、妥協を許さぬ思想の持ち主であったとかで、愛弟子であるヘリゲル先生はその精神性を強く受け継いでおられたのでしょうね。
また、ヤスパースとはハイデルベルヒ大学における同学の士でありながら、ヤスパースのカントにおける無知ぶりにヤスパースの講演の後、p154
「ただ今の講師は、カントの第一批判を読まれたことがあるか」
と問うた。ヤスパースはいたくプライドを傷つけられたと見えて、
「そのような無礼な質問には答弁の義務がない」
と、はねつけたとか。そこでヘリゲル先生はすかさず、
「いやしくも第一批判を読んでいながらそのような幼稚な講演をするものには、講師たるの資格がない」
と、やり返し、その後二度とヤスパースと同席するような講演には出なかったとか。学問に対する真剣さが伝わってくる逸話であります。ヤスパースも一応、実存主義的哲学の有力な論者であるとされます。とはいえ、wikiを伺いますと、こういうことを申していたとか。
「実存的交わり」
実存とは、わたしという根源に基づいて思索し行為するものであり、自分自身、及び超越者に関わることである。実存する「わたし」は孤立した存在ではなく、様々な状況や人との交わりを通してかけがえのない、本質的な自分に至ることができる。すなわち、実存的交わりによって、実存に至ることができる。それを、「愛の闘争」または、「愛しながらの戦い」という。
とか。
これだけを見た限りでわたしから言わせるのなら、言っていることもごくごく当たり前、普通のことで、それを意義ぶっているところがセンスがないと言わざるを得ませんね。東洋人ならそれらすべての言葉をひっくるめて昇華した上で、「一期一会」と言い得たでしょう。それが「愛の闘争」とか名付けている時点で、厨二病かよw と馬鹿にしたくはなります。
そもそも、わたしがこういう哲学を称する連中で苛立つのが、「実存」とか特殊な単語を作成して得々としておるところでして、この短い文章を読んだだけで言い換えるのなら「実存」ではなく、「人生」とでも申せばよいのです。そうすればもっと哲学は万人に理解のある、万人に説得力のある思想であり得たでしょうに、一握りの人間の所有物に帰して悦に入っているところが、哲学家の致命的な欠陥であると言って良いでしょう。論語が東洋に大きく影響したのに対し、西洋の哲学が好事家の学問に留まっているのもそのせいです。少なくとも、今後ヤスパースの書は読むに値しないとここでは結論付けられます。
とまれ(ともあれ)、ヤスパースのごときはともかく、かのヘリゲル先生は、p158
「自分はほとんどすべてのヨーロッパの言葉を話すことができる」
とおっしゃられるほどの人物であったとか。この一文を伺うだけでヘリゲル先生の学問を伺うに十二分以上でありましょう。
では、本書に入りますと、中身自体は至極簡単な、ヘリゲル先生の弓道修練の回顧録、その告白であることが分かります。しかし、昨今アニメなどでたくさんある、てさぐり感のある部活ものとは次元が違う。
そのことは先生がはっきりと冒頭で申されており、p16
精神的弓道、その師範との出会い
「最初にちょっと見ただけでは、禅を――たとえこの言葉がどんな意味に理解されようとも――弓を射ることと結びつけようとするのは、禅に対しての、許し難い冒瀆だと思われるに違いない。よしんば人が、寛大な心で歩みより、弓射を特に、一個の”術”として取扱うことに同意するとしても、この術の背後に、はっきりとスポーツ的な技量以外の何物かを求めようなどとは、ほとんど思いもよらないことであろう」
言い換えれば、弓道を求めることに禅を求める意思を含めていようとは、誰も想像だにしないだろう、ということですね。
この言葉から、すでにただのスポーツ的な、勝ち負けだの、技術的、技量的視点で本書を読むことはできないことをはっきりと示しておられるわけです。いきなり冷水をぶっかけられたと申しますか、粛然として襟を正しめられるではありませんか。
では、どうして弓道に、禅を見たか。
それは、日本の剣道や弓道といった武術の中に、禅の息遣いを見たからであります。
インドで生まれた禅が、達磨大師によって中原(チャイナのこと)に運ばれ、六祖慧能によって大きく発展、その後日本にやってきて、禅の精神は日本人の心に大きく入り込んだ。その溌剌たる生命は、仏教だけでなくあらゆる分野に浸潤し、不即不離のものとなってしまった。日本人は、武士は、真剣、斬ればたちまち絶命する刀をもって相対するが如く真剣さをもって弓の道にも邁進したので、その精神発達の過程は、禅にも相通じ両々相俟って、といいますかふたつながらに発展してきた。
「剣禅一如」「弓禅一如」
といわれるように、真剣を求める武士の精神は、その修練の過程は、禅と同じものであった。徳川の旗本でありながら出家した鈴木老人は槍や刀が舞い狂う戦場に己の全身全霊をひっさげてはたし眼となって躍り込む精神をもって挑むように、禅にも向かかうべしと申された。
庶民は、念仏唱えただけで仏と成れる、と浄土宗にすがったけれども、武士は、懸崖に撒手して絶後に蘇るが如き己が全身全霊をかけて、命がけで行う禅に向かった。その武士の行う武芸に、禅が息づいているのも、当然なのでありましょう。
ヘリゲル先生は告白されるように、学生の時分からすでに神秘学に並々ならぬ関心を示されており、色々な文献を伺うに、畢竟、自分の体験、経験をもってしかこれら神秘を語ることはできないと確信に至った、そして、たまたま日本の東北帝国大学で教鞭をとってみないか、との問い合わせを受け、初めて、仏教と神秘に関する体験をもてるのだ、と思われたのだとか。
しかし、来朝当初は熱烈な諫止に遭遇する。
なにしろ、ヘリゲル先生は、論理的思考の最先鞭ともいえる、新カント哲学の哲学者であり、つまり西洋哲学はなにより、理論、考察に重きを置く。
されど、東洋思想、なかんづく、禅は実践の権化。しかも、当時は1930年頃。禅を学ぼうとする西洋人などほぼ皆無。到底、理解できるはずもない、と周囲が考えるのも当然のことで、いきなり禅を学ぶより、その導入ともいえる弓道なら、まあ、やってみれば? といった雰囲気であったとか。先生も、不承不承、禅に近づけるのなら、と申し出を受け入れられた。
なんと、ヘリゲル先生が弓の道に向かわれたのは、次善策といいますか、代替案であったわけです。しかも、それも剣ではなく弓だったのも、小銃やピストルの経験があるからそのつながりで、といったところであったそうな。しかし、そんな経験が何の意味も関連もないことに気がついたのは、弓の修練を初めてすぐさま、だったとか。そして、大学の同僚に随一の弓達者として知られた小町谷操三氏の紹介で阿波研造師範に弟子入れを申し込んだとか。
この阿波研造師範もwikiでみますと、ただちに弓聖と出てきます。画像で検索しましても、写真から伝わってくる凛々しい佇まいが凄まじい。アニメなどならこういった達人は筋肉隆々と描かれますが、阿波師範はそこまで筋肉隆々としておられるようには見えない。いかにも、技量ではなく、精神で弓矢を行うのが、伺われます。
ヘリゲル先生はこの阿波師範に弟子入りを願いますが、当初は拒否されます。
何故なら、一度、外国人に教えたがその時、外国人の無礼な有様に、二度と外国人の弟子は取らないと思われていたようです。そこでヘリゲル先生は、p37
「弓道を娯楽のためではなく、その”奥義”を知るために、学びたいと思っているのであるから」
と誓い、弟子入りを許されたとか。しかし、その修練の端緒でいきなり日本の弓道の峻厳さに出鼻をくじかれることになる。ご存知、日本の弓は世界でももっとも大きい、二メートルの大きさがあります。かのイングランドでフランス騎士に猛威を振るったロングボウでも最大で180cmとされ、引くのに必要な筋力は45kg、弓兵は左胸の筋肉ばかり発達して左右で非常にアンバランスになったとwikiにあります。
その日本の弓をヘリゲル先生は「力を抜いて」と言われて引くも、常に筋肉が緊張してプルプル震えてしまう始末。しかし、師範は所作を指南はするも、その状態を解決するための指南は行われず、そんな塩梅で修練を行ってたまらずヘリゲル先生は音を上げたとか。
師範は、ヘリゲル先生の告白に、p42
「あなたにそれができないのは、呼吸を正しくしないからです」
と申された。
「息を吸い込んでから腹壁が適度に張るように、息をゆるやかに圧し下げなさい。そこでしばらくの間息をぐっと止めるのです。それからできるだけゆっくりと一様に息を吐きなさい。そして少し休んだ後、急に一息でまた空気を吸うのです――こうして呼気と吸気を続けて行ううちに、その律動は、次第に独りでに決まってきます。これを正しく行ってゆくと、あなたは弓射が日一日と楽になるのを感じるでしょう。
というのはこの呼吸法によって、あなたは単にあらゆる精神力の根源を見出すばかりでなく、さらにこの源泉が次第に豊富に流れ出して、あなたが力を抜けば抜くほどますます容易にあなたの四肢に注がれるようになるからです」
そういって、師範は弓を引き絞った腕の筋肉を触るように言って、ヘリゲル先生が触ると、その筋肉には何の力も、まったく入っていなかったとか。
「息を吐く時、できるだけゆっくりと、連続的に吐き出して次第に消えて行くようにするようにすることに、非常な重点を置いた」
さらに師範は、
「呼気は結び、結び合わせる。息を一杯に吸ってこれをぐっと止める時、一切がうまく行く。また呼気は、あらゆる制限を克服することによって、開放し完成する」
と申されたとか。
さらにヘリゲル先生は、呼吸法を学び、肩や腕に力が入らないように務められた。しかし、それをしようとすると、今度は両足に力が入ってしまうのであった。そこで、師範はすかさず近づいて、力んでいる箇所を痛くなるほど押し付けたとか。たまらず、ヘリゲル先生は、
「それでも私は力を抜いたままでいるよう誠心誠意苦心しているのです」
と告白すると、師範は、
「まさしくそのことがいけないのです。あなたがそのために骨折ったり、それについて考えたりすることが。一切を忘れてもっぱら呼吸に集中しなさい。ちょうどほかには何一つすべきことがないかのように」
と答えられたとか。
ドイツの哲学者が、考えるな。一切を忘れよ。と言われることでどれほどの困惑と苦労があったでしょうね。しかし、ヘリゲル先生は妥協を許さぬ修練によって教えを着実に身に着けられます。その道が平坦な、平易な道ではないことはすでに十二分に察せられることでありましょう。
苦心惨憺して一年の修業で呼吸法を身につけられたら次は、放れ。
今の今までは弓を引いても、放つ時、離す時はでたらめでも問題とされなかった。でも、次の段階の、放れともなればもはやでたらめでは許されない。今までの呼吸法も、鍛錬も、この放れのためにあったと師範は申されます。
この放れ、の修練はヘリゲル先生にはことのほか、難儀を極めたようで、深い苦悩にさらされます。師範はいう、
「あなたが本当に自分自身から離脱していないためです」
とはいえ、そんなことがすんなり行えたら、この世は悟りに至った人だらけになるでありましょう。
真剣さ、熱心さは人後に落ちないであろうヘリゲル先生にとっても、この修練の過程はもはや五里霧中といった次第であったようです。あまりに行く先が見えなく、このロクでもない弓道よりももっと日本には有意義なものがあるのではないかと、疑心暗鬼に陥ったり、あまりにこの弓の道の深遠さに、師範の教えに反した独断的修練を行われてしまい、一時は破門同然の目にあってしまうこともあったようです。
そして、師範に問う。
自分ではない、私が射を放つとするのならば、何が放つのですか、と。師範は答える。
「”それ”が射るのです」
と。
何でも、この、ヘリゲル先生への教導の最中、師範はわかりやすく教えるにはどうすればいいだろうか、と日本語翻訳された哲学の書などを読んで、いや、こんなことを考えている人間に、弓など分かるはずもない、とも考えたこともあるのだとか。
しかし、師範はただひたすら修練を進められ、先生もやがて、質問するよりただ稽古に打ち込め、としか言わなくなった師範に質問しても意味がないと思い、ある意味無我の境地でただ修練に臨まれたのだとか。もはや、さんざん悩み、苦悩し、考えに考えた結果、考えることもできなくなった、p94
「そしてついに、私がこの数年来絶えず苦労して来たことの一切が、私に何でもなくなったということにすら、もはや心にとめなくなった」
ある日のこと、先生が一射すると、師範が丁寧にお辞儀して稽古を中断させます。
「今しがた、”それ”が射ました」
と。こみ上げてくる嬉しさを抑えることができない先生に、すかさず師範はこうたしなめます。
「私がいったことは、賛辞ではなくて断定に過ぎんのです。それはあなたに関係があってはならぬものです。また私はあなたに向かってお辞儀したのでもありません、というのはあなたはこの射には全く責任がないからです。この射ではあなたは完全に自己を忘れ、無心になって一杯に引き絞り、満を持していました。その時射は熟した果物のようにあなたから落ちたのです。さあ何でもなかったように稽古を続けなさい」
と。
この、日々の修練の中で、”それ”が射る瞬間というのは、度々あったようですが、突然のように正しい射が何の作為なしにひとりでに起こるのか、その当時でも、今でも、説明することができないのだそう。
ただ、そういうことが起こった、のだそう。しかし、正しく射ることと、失敗したことは全然違うものなのだとか。
失敗すると、たちまち呼吸が乱れるのに対して、正しい射は何も呼吸は乱れず、すぐさま次の射に移れるので、この違いに気づかずにはいられないのだとか。
数年の修行で、己を忘れることができるようになった、という事実だけでも驚嘆です。
また、己を忘れる、と言われますと老荘思想家としては、荘子を思い出さずにはいられません。ある時、顔回さんが、孔子様にこうおっしゃった、というお話です。もちろん、実話ではないでしょうけど。
「わたしは仁義を忘れました」
と。孔子様は、それは悪くないですがまだまだですね、という。次にまた顔回さんが、
「わたしは礼楽を忘れました」
と。孔子様は、それは悪くないですがまだまだですね、という。次にまた顔回さんが、
「わたしは坐忘しました」
と。それを受けた孔子様は、居住まいを正し、顔回さんにうやうやしく向き直って伺った。
「坐忘した、と言ったがどういうことかね」
と。顔回さんは、
【枝体を堕し、聡明を黜け、形を離れ、知を去り、大通に同ず。此れを坐忘と謂う】
自分の体手足を忘れ、五官を遮断し、心を遊離させ、認識、思考を捨て去り、本質と一つになる。これを坐忘と申します。
この答えを受けた孔子様は、わたしはこれから顔回に従おうとおっしゃった、というお話ですが、まさしく、東洋思想とは、禅とは、この座忘を目指しているのでありましょう。この話に従うのなら、間違いなく顔回さんは悟りを開かれていますね。
それはともかく、ヘリゲル先生は、正しい射ができるようになり、次の修練が開始されました。次は的に向かって射る、ことです。それまでは的ではなく、藁を巻いたものに射ていましたが、ついに、50メートル先の的に向かっていることとなったのです。
初めは、的に当たろうが当たるまいが気に止めなかった先生ですが、しかし、徐々に疑念が心に去来するようになり、師範に疑問を呈します。師範は、的のことなど考えるなとおっしゃるが、師範は何十年と的に向かって射ているので、放っておいても勝手に的に当たるのではないですか、と。
それに対して、師範は夜に尋ねるように、といった。
先生は言われた通り、師範のもとを訪れますが、師範はお茶を出すも終始無言。そして、無言のまま道場に導き、そして、的を照らすはずの明かりをつけさせないまま、礼法を行い、甲矢をまず射、次に乙矢を射た。
ちなみに、甲矢、乙矢とは鳥の羽根に関係するもののことで、鳥の羽根は反りがありますがその羽を半分に割いて一本の矢に使用するので、矢が直進するときに時計回りになる矢と反時計回りになる矢ができる。時計回りが甲矢、逆が乙矢というそうな。この二本を一対として「一手」といい、まず甲矢から射るそう。
先生が的の明かりをつけると、甲矢が的の中心に当たっており、また、乙矢は甲矢の筈(矢の弦につがえる溝のこと。溝が弦に入るのは当然だから、当然のことを筈、というそうな)を砕いて矢を少し裂き割って的に突き刺さっていたとか。
真っ暗闇の中にある的に、完璧に、しかも第一の矢に第二の矢が当たっているのを見、先生は呆然となったそう。本当だったら矢を引き抜くのでしょうが、その完璧な射を壊してしまうこともできず、先生は的ごと師範にもっていった。しげしげとその的を眺めたあと、師範はこうおっしゃった。p105
「甲矢の方は別に大した離れ技でなかったとあなたはお考えになるでしょう。何しろ私はこの垜(的を立てかけるための盛り土)とは数十年来なじんできているので、真っ暗闇の時ですら的がどこに在るか知っているに違いないというわけでね。そうかも知れません。また私はいい訳しようとも思いません。しかし甲矢にあたった乙矢――これをどう考えられますか。とにかく私は、この射の功は”私”に帰せられてはならないことを知っています。”それ”が射たのです。そしてあてたのです。仏陀の前でのように、この的に向かって頭を下げようではありませんか」
と。
先生はこう告白されます。
「この二本の矢でもって、師範は明らかに私をも射とめたのであった」
そして、
「このようにして彼は、自ら極めて深く集中しつつ、弓道の精神を弟子たちの心に移し植えたのであった。そして私は、自身の最も切実な、ずいぶん長い間疑った経験からして、直接の伝達(以心伝心)の説は、決して空虚なきまり文句ではなく、感知できる実在の出来事であることを保証して憚らないのである」
とまで確信せられた。
そしてついに、特別に善い射を出した時の、師範の質問に答えられる先生のお言葉は、なるほど、座忘とはこういうことかと感歎させられますが、これは買った人だけが味わうべきでありましょうか。とりあえず言えることは、その境地に到った人のお言葉は簡単には理解できない、と。それほど深遠です。
やがて、先生は公の段位審査の試験を受けられ、見事、師範の免状を認可されます。そして、夫妻で帰国の途に就く時、師範はこう申されます。p114
「ただ、ひとつのことを私はあなた方の心構えに申さねばなりません。あなた方お二人は、この歳月の間にすっかり変わってしまわれました。これは弓道がすなわち最後の深みにまで達する射手の自己自身との対決が、もたらしたものであります。あなた方はこのことを恐らく今までほとんどお気づきにならなかったでしょう、が故国で友人知己に再会されると、どうしても感づかれることでしょう。もはや以前のようにしっくりしないのです。あなた方は多くのことを別の目で見、別の尺度で測ります。実際私にもその通りだったのです。そしてこれは、弓道の精神に心を打たれた人には、誰にでも迫ってくることなのです」
と。
見事、ヘリゲル先生は、弓道を通じて禅の深奥に至ったのであります。これがどれほど凄まじいことか、筆舌に尽くしがたいほどの偉業であります。
西洋哲学と、東洋思想という、ほとんど対極にあると言ってもよいようなものですから、あらゆるものを思索し理論し、定義する、物分りというように、物を分け細分化して思考することに快を感ずる西洋哲学を学んできたヘリゲル先生が、東洋独特の、本質を模索する、本質を身につけるという毎日がどれほど大変であったか。それをついに乗り越えて奥義を極められたわけですから、ただただ称賛する他ありません。
しかし、それと同時に、色々と思いを馳せるのであります。
西洋の哲学家であっても、真面目に、一心不乱に修行すればやがて禅の深奥に到れるのである、という事実を我々に無限に提示してくれるのと同時に、そしてまた、ここまで師と弟子が、魂と魂がぶつかり合って電光石火となって火花を散らすような、そんな真剣な事上練磨が、現代においてどれほど行えるのであろうか、と。
阿波師範とヘリゲル先生のこの魂と魂のぶつかり合いは、仏教にいう、
『法水写瓶』
であります。
瓶から瓶へと、その水をこぼすことなく正しく伝えるように、その溌剌たる生命、精神を受け継ぐことであります。
別の角度でいうのなら、それほど大きな瓶の水を、受け継げるほどの瓶がどれほどいるのであろうか。また。それほど大きな瓶の水をたたえた師が、今の御時世どれほどおわすであろうか。
西洋からやってきた、ある意味、物好きな、一風変わった、禅を好む好事家である一哲学家を、うまずたゆまずその、本人すら自覚していない心の奥底までもすべて把握し見通し、その瞬間瞬間を適切に、最適に指導しうるほどの本物の師範が、今の御時世にどれほどおわすであろうか。
確かに、弓道の道を五年間、疑心暗鬼に陥りながらも、様々な苦悩や苦労を乗り越えて己を練り上げていった、ヘリゲル先生の熱心さ、魂をすべて弓道にぶつけるひたむきさは、称賛に値します。ですが、ヘリゲル先生のみではここまでの境地には到底、至れなかったであろうと予測することも容易なのであります。
西洋すらも包括して、すべてを包み込んで深奥へといざなってしまう東洋の神秘、禅やその思想を現在どれほどの東洋人が身につけ、また、目指しているのであろうか。阿波師範のような忍耐強さ、注意深く推移を見守る周到さ、本人にやる気のある限り捨てない仁心をもつ東洋人、日本人が何人おわすでありましょう。
ヘリゲル先生の申される通り、日本のことを知らない日本人だらけであることで、日本はおろか、実は世界の歴史すら危殆に瀕しているということに理解が及べる人と、魂から火花が飛び散るほどの切磋琢磨を行いたいものであります。
そこまで考えて、西洋的価値観に世界が侵食される昨今、禅に影響を受けた米国のうつけ者、スティーブ・ジョブズが愛読書にしたのも、こんなところにあるのかな、と、思う次第であります。といったところで筆を擱きます、とほざきながらマウスをぽちり。
したらばな~。
ますは修行として呼吸法から初めたいのですが、呼吸を「意識」して行った瞬間、呼吸が乱れる始末…
未熟者なり…