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謹賀新年



 あけましておめでとうございます。豊臣亨です。


 令和二年となりましたね。新元号による新年でございます。令和、ということはこの二文字で解釈するのなら、和を以って令すということになるでしょうか。


 令、を調べてみますと、意味合いとしましては、


1、命令、言いつける、で捜査令状、指令、号令、というのがあります。


2、掟とか規則でいいますと、法令や訓令、禁令。


3、長、頭領という意味では、司令官、県令。


4、他の家族を敬う場合なら、ご令嬢、ご令息。


 他にも論語を伺いますと、


【巧言令色仁すくなし】


 とありますように、本来なら令色とは色男、といった意味合いですが、巧言令色というまとまりで言いますと、言葉巧みに相手をだまくらかしたり、アジったり、見た目だけは至極ご立派ながら中身はすっかすか、ということとなりますね。


 良い意味の言葉というのは成り行きから真逆の意味合いに転ずることも珍しくありません。たとえば、佞。佞とは、仁+おなご、で本来は真心のある女性という字からなるいい意味の文字でしたがいつしか真逆の意味になりましたし、また、貴様。貴様は、貴公や貴殿と同じく敬称でしたが日本軍人がキサマキサマ言うからすっかり意味合いが汚されてしまいました。初代ガンダムを見ていて、シャアがガルマに向かって「貴様のお陰で命拾いをした、礼を言う」てなことを言っていて子供心にびっくりしたのを憶えております。


 それはともかく、これまでの近代からの、明治、大正、昭和、平成、に比べますと、意味合い的によろしくない、嬉しくない文字があるような気がいたします。


 明治は明らかな治世、大正は大いなる正義、昭和は、これも昭らかな和になりますし、平成は平和にして成る。


 これらは意味合いが逆転する漢字は含んでいないように思えますし、実に日本らしい簡明にしてひと目で意味合いが悟れる素晴らしい漢字ですが、しかし、令和。令の字が玉に瑕と申しますか、いつ意味合い的にひっくり返るか分かったものではないという気分にさせられませんでしょうか。


 巧言令色のように、うわべだけ取り繕って、腹に一物どころか二物も三物もありそうな、なにせ、最近はパワハラだの忖度だの、他者を蹂躙し踏みにじって得々としておるような連中が幅を利かせる世の中です。で、そういう連中こそ巧言令色で外面だけは飾っておる。


 令和の時代は、こういう、外面だけは取り繕って、中身は意馬心猿という輩が跳梁跋扈する時代になりはしないか。そういう危惧を抱かざるを得ないのが我が国の現状です。


 また、新年の「新」の字も大切な言葉でございまして、これは安岡先生の書 『安岡正篤一日一言』 致知出版社から伺ってみましょう。p8




新年の解




「新という字を知らぬ者はない。(しか)し新という字の真の意味を解する人は案外少い。元来この字は「辛」と「木」と「斤」との組み合わせである。


 辛は努力を意味し、斤は木を斬る「まさかり」、「大をの」であり、これで木をきること、それから「斤斤」といえば明らかに見分ける、又いつくしむ(慈愛)の意がある。


 即ちよく木を愛し育て、それを努力して加工し、新――あらたなものにして活用するということを表すものである。


 こんな深い正しい意味を知らないで「あたらしがりや」など、目先の変った、ものめずらしいということに軽々しく解するのは、とんでもないことである。


 本当に新しくするには大した用意と努力を要するわけで、新人などざらにあるものではない。年のはじめに勉強せねばならぬことは、先ず以って自己をどう維新するかということである」




 こうして安岡先生のお言葉に触れますと、令和と決めた学者も為政者も、本当に言葉の意味を解しておるのか、言葉というもの、文字というものがどれほど深甚なる意味合いを含んでおるか理解できているのであろうか、という疑団が胸中に去来いたしますが、いまさらわたしごときがぶーぶーいったところで世の中何も変わりはしませんしね。以前のブログでも申した通り、




【子曰わく、その身正しければ、令せざれども行わる。その身正しからざれば、令すといえども従わず】




 この通りでしょう。


 もっとも、そうなるためには先ず以って為政者こそが論語を理解する必要もあるでしょうが。まあ、これ以上は言いますまい。


 せっかくの新年劈頭、自己を維新するために学問するのも肝腎かと存じます。また、ついでなので維新とは、




【周は旧邦といえども、その命、()れ新たなり】




 から来ておりまして、周、殷の紂王を征伐して成立した、文王の意を受けた武王、またその弟周公旦、そして股肱の臣太公望呂尚によって成った、孔子様が理想郷として仰いだ国家です。


 周は文によって国家を成立させ古来漢人が欲してやまない、まことの王道をなしえた王道国家とされます。その周の文を復興させることが自身の使命、天命であると孔子様は信じてやまず、我は天によって文を託されたのだ、と確信しておられた。たとえ、今となっては周の国は残っていないとしても、その遺風、文化、学問、伝統は亡びはしないし、いつまでたっても、その理想は古びることなく生き生きとして輝いている、という意味で維新、といいます。


 そうしますと、1000年以上の長い歴史をもつ世界最古の歴史を寿ぐ日本が、この「維新」に心惹かれるのは当たり前と申しますか、だから、ただぶっ壊すだけで新たに生む物のない「革命」の字を忌避するのも無理からぬ事と申せましょう。


 とはいえ、大事なことはこの「維新」の字は、孔子様のお言葉である、




【子日く、(ふる)きを(たず)ねて新しきを知れば、以って師と為る可し】




 古の学問や伝統、風習などを習熟し、その中から新しいものを生み出せるのならば、その人は人々の師となれるだろう。




 温故知新という言葉を無視してはいけません。


 先程みたように、「維新」とは、周の命、古代の思想や学問、伝統、風習が生き生きと息づき、今に至るも古びることなく、廃れることなく、忘れ去られることなく受け継がれることを言うのです。


 どれほど世の中がバイオニクスだのゲノミクスだの、エレクトロニクスだの、ICTだの、極超音速ミサイルだの、新知識、新技術、新学問に至ろうとも、人間そのものは古来から変化などしていない。腕が四本になったわけでも、目が六個になったわけでも、翼が生えたわけでも、脚が八本になったわけでもない。身長だって変わりはしないし、別に細胞分裂で増殖できるわけでもないし、光合成ができるわけでもない。


 古来から連綿と続く人間というものを閑却したまま、新時代新時代と新しいものに迎合するのは、それこそとんでもないことであります。もっとも、脳とネットが融合する電脳化だの身体機能の100%機械化だのに至ればもはや別次元のお話ではありますが。まあ、今の所、そんな時代でもなし、古典の中から自己を維新する学問『小学』でも分かりやすいところを見てみましょう。新年早々小難しいものもなんですし。




【仲由、過ちを聞くを喜び、令名窮まり無し。今人(こんじん)過ちあるも人の(ただ)すを喜ばず。疾を護って医を忌むが如し。寧ろその身を滅すもしかも悟ること無きなり。ああ】




 子路は、自身の批判を聞くことを喜んだ。よって評判は高まる一方であった。


 今の人は過ちを犯しても他者から批判、忠告されることを嫌がる。そんなことでは病気の方を大事にして医師を遠ざけるようなものだ。むしろ、己の身を滅ぼしていながら、しかもそのことをまったく理解できない。あ~あ。




 令、つながりで。


 仲由は孔子様のお弟子さんの子路さんのこと。


 学問ができれば、多角的に、全体的に、長期的に物事を思考することもできる。禍福始終が分かってくるからうろたえない、失望、絶望があってもしかし、失望しきらず絶望しきらず、再起を期す。伏竜鳳雛を自らに任ずこともできる。学問の功徳です。




劉忠定公(りゅうちゅうていこう)、温公に(まみ)え、心を尽くし己を行なうの要、以って終身之を行なうべき者を問う。公曰く、それ誠か。劉公問う、之を行なう何をか先にす。公曰く、妄語せざるより始む。劉公初めはなはだこれを易しとす。退いてしかして自ら日に行なう所と(つね)の言う所とを櫽栝(いんかつ)するに及んで、自ら相掣肘(せいちゅう)矛盾するもの多し。力行すること七年にしてしかる後成る。これより言行一致、表裏相応じ、事に遇うて坦然(たんねん)、常に余裕有り】




 劉忠定公(安世)が司馬温公にお目にかかり、己が心、精神を拡充し自己を完成させるための要諦、全人生を通じて行うものがありますかと伺った。


 温公言う、それは誠ですね、と。


 劉公重ねて問う、おっしゃる誠をなすべきにまず何から始めればよろしいでしょうか、と。


 温公言う、いい加減、迂闊なことはいわないことです、と。

 

 劉公は当初はそんな簡単なことでいいのか、と思っていたが帰宅後、自分の日々の言動をつぶさに観察し、矯正したところ、実は矛盾しおかしなところがあることを発見した。


 いい加減な事は言わない、ということを頑張って日々行い七年目にして、矛盾がなくなり、言行が一致し、態度と言動が一体となりどんなことがあっても坦然(たんねん)、おだやかでこせこせしなくなり、常に余裕をもって行動ができた。




 櫽栝(いんかつ)。櫽も栝もため木で矯正するための道具。


 誠を己の身に宿すために必要な要素とは、いい加減なことを言わないこと。そして、そこから始めることであり、終生、一生それを行うべきであること。


 畢竟、人生とはこういう、誰でも理解できるところをないがしろにしないことであり、子供でもできることを誠実に、実直に、素直に行うことであります。


 論語を読めば、そういう基本的なこと、簡単なことがいっぱいあることに気がつくでしょう。


 


【丹書に曰く、敬、怠に勝つ者は吉なり。怠、敬に勝つ者は滅ぶ。 義、欲に勝つものは従い、欲、義に勝つものは凶なり】




 現実、日常に拘泥せず、精神を成長せしめんと精進できる心のことを敬、という。この敬の精神が、怠惰な、堕落する精神に勝る者は吉である。


 逆に、堕落し、怠惰、無精のままで成長したい、進化したいという気持ちが無いものは滅ぶ。


 己を律する精神が欲望に勝るものは順調に成長し、欲望が己の心を律することができないものは悪しき人生となる。




 丹書とは、いまに伝わらない書物だそう。


 人より高い給料が欲しい、人よりいい家に住みたい、人より美味しいものが食べたい、人よりいい服が着たい、人よりもっと、ずっと。人の世の欲望を肯定するのが資本主義です。戦後、世をあげて国民全体で肯定して来た、その欲に勝たしめるほどの精神性を養えるか、否か。


 自分の人生をどうしたいのか。


 それだけです。




笵忠宣公(はんちゅうせんこう)、子弟を戒めて曰く、人至愚(しぐ)と雖も、人を責むるは則ち明かなり。聡明有りと雖も己を恕するは則ち(くら)し。(なんじ)(ともがら)、ただ常に人を責むるの心を以て己を責め、己を恕するの心にて人を恕せば、聖賢の地位に到らざるを患えざるなり】




 忠宣公が子弟を戒めて言うには、人間というのはどれほど愚か者でも他人を責める時は生き生きと行うものだ。


 反対に、どれほど聡明なものでも己を許すとなれば、無闇矢鱈と許したがるものだ。


 そなたたちは、常に他者を責めるような気持ちで己の心を責め、己を許す気持ちで他者を許すことができるのならば、聖賢の位に至らないことを心配することはないのだ。




 令和の治世となろうと、学問によって人間をつくるということに何の変化もありません。学問が自分の中に蓄積すればするほど、明日を生きる自分の活力に、自力になる。


 令和の令が、本来の良い意味となるのか、それともひっくり返るのか。


 それも一人一人の心がけ次第、でございましょう。


 では、これくらいにしまして、本年もよろしくお願いいたします。


 日の本に神々の祝福のあらんこと、人々に誠の信心のあらんことを祈って。


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