『心』~日本の内面生活の暗示と影響~ ラフカディオ・ハーンを読む。<四>
今の今までウィンドウズ7を使っておりましたが、ある時たまたま、まだまだ無償で10にできると知って早速10に切り替えさせていただきました。
今から四年前、新しいOSであるウィンドウズ10が何と、無償で、誰でも、しかも半ば強引に、がめつさで言えばチャイナを凌駕する米国の中で、さらにがめついマイクロソフトが新OSをくれる、というのでそれこそ、どうせデバッガー目当てだろうと、眉に唾といいますか、眉根をひそめて事態を静観しておりましたが、さすがに四年も経てば、新OS更新に関する悪い要素もそろそろ出尽くしたかな、とウィンドウズ10に変えさせてもらったところ、昨日までプレイしていたゲームがエラーがでてプレイできない、などというのはまだまだ可愛いもので、何と、こういったブログの入力がワンテンポ遅れるという事態が出来するに当たって何とも言えない日々を送っております。
おこんばんはです。豊臣亨です。
しかも、始める時は常にグーグル日本語入力に切り替えないといけないという邪魔くささまで付随する始末。もともと、10を前提に作られたPCではないので、遅くなるとは聞いていましたが、よもや文字入力まで遅くなるとは……。グーグルクロームを開いても反応が遅いし、ネットで調べてできる範囲で変更するも、抜本的解決にはなえり得ず、それって、7に戻すか、10のPCを買えということなのでせうか……。
また、IMEがもっと使いやすくなってくれればいいのですが、平素の入力ではグーグル日本語入力がまだ使いやすいのです(といっても、誰がそんな言葉使うんだよ、と文句いいたくなるおつむの悪い変換とかでてきてイライラする事もしばしばですが)。しかし、グーグルの手書き入力は認識がゴミすぎてまったく使い物にならず、手書き入力ならIMEパッドと切り分けなければいけないのが実に七面倒臭い。両方のいいところを合体してくれよ。と思う今日この頃です。むしろ、合併しろ?w
さて。
東西、両洋に渡る、先鋭で瑞々しく、かつ幽玄な文化・思想を徹見し、体現せしめたラフカディオ・ハーン、和名、小泉八雲の思想書『心』を読む、といいつつもただの丸写しのこの読む読むシリーズも最後の四回目。
四回目は最後にふさわしい? 日本人の根本的な思想であり原初的な宗教観念、ご先祖様に関するハーンの思想を伺います。すでに、『前世の観念』でハーンの深淵にして透徹な思索を伺ったわけですが、さらなる深く愛情ある日本理解を、まざまざと見せつけられることになるかと思います。
それどころか、読み終える時には自分の精神性すら、一段高いところへ引き上げてもらったような気になるでしょう。
では、参りませう。
先祖崇拝の思想
「先祖崇拝は、今でも目に立たぬいろいろな形で、ヨーロッパの最高文化国の中の、ある国などに伝え残っているが、この事実はあまり広く知られていない。そのために、今日、アリアン人種でもないのに、そういう原始的な崇拝を実際に行っている人種は、必ずやその宗教思想も、原始的な段階に留まっているに違いないと、そんな考えを抱いている向きすらある。
日本を批評するものも、ともすると、これと同じような軽率な判断を口にしてきている。
そういう批評家は、日本の科学的進歩の事実や、進歩的なその教育制度の成果を考え、その日本が、一方において、いまだに先祖崇拝を続けてやっていることを考えると、この二つの事実を、どうしても一つに結びつけて考えることができないと、自白している。彼らは、こういうことを言っている。
――神道の信仰と、近代科学の知識とが、なんで両立なぞするものか。科学の専門家として世に名を表しているような人たちが、いまだに家に祀ってある神棚や祠を拝んだり、鎮守の社の前に額ずいたりするなんて、そんなことがあるわけがない。もしあれば、それは信仰はすでに滅びて、形式だけがまだ残っているということを語っているにすぎないのではないか。
いずれ、今よりもっと教育が進めば、神道などは、儀式としてさえ存続することはおぼつかなくなるのではあるまいか、と。
こういう問いを発する人たちは、西洋においても、いかなる信仰にしろ、それの存続という点になると、常にこれと同じような疑問が発せられ、次の世紀まで果たして存続するかどうかが疑われているということを、忘れているようだ。
事実、神道の教えは、その最小限度においても、われわれの正教キリスト教の教義に比べて、決して近代科学と矛盾するものではないのである。ごく公平な立場から検討してみて、わたくしなどは、神道の方がキリスト教よりも、むしろいろいろの点で、近代科学と矛盾する点が少ないと、あえて言いたいくらいである。
神道の教義は、われわれ西欧人の正義観とも摩擦する点が少ないし、それに仏教の因果説と同じように、遺伝という科学的な事実とも、驚くほど似通っている点がある。この似通っている点は、世界のいかなる大宗教の中にもある真理の要素に、優るとも劣らない深いものを神道がもっている証拠である。
できるだけ簡単に言うと、神道の中にある心理の特殊の要素というのは、生きているものの世界は、死せるものの世界によって、直接に支配を受けている、という信念である。
人間のあらゆる衝動、あるいは行為は、神のなすわざであり、すべて死んだものは神となる、というのが、神道の基礎観念である。
ところで、この「神」という言葉は、英語に翻訳すると、daity,divinity,godなどという言葉になるけれども、実際は、英語のもっている意味とは全然違っている。
如上(上述、の意味)の英語が、ギリシャやローマの古代の信仰をいう場合に用いられるほどの意味さえも、もっていない。神道でいう「神」とは、"adove"「上位に在る者」"superior"「優れたる者」"upper"「上に在る者」"eminent"「崇高なる者」などを意味し、宗教上の意味では、死後において、超自然的な力を得た人間の霊を意味するのである。
死者は、「上位にある力」であり、「上に在る者」であり、――すなわち、それが「神」なのである。
この概念は、近代心霊学の幽霊という概念に非常によく似ている。ただ、神道の観念は、本当の意味においては、民主的ではない。神は幽霊ではあるが、しかし、その格式と力においては大いに異なった幽霊である。それは、日本の古代社会の階級制度のように、霊界の階級制度に属している幽霊なのである。
ある点では、神は生きている人間よりも本質的に優れたものであるけれども、そのくせ、生きている人間は、その神を喜ばしたり、機嫌をそこねたりすることもできるし、あるいは、満足させたり、怒らせたりすることもできるし、時には、神の霊界における身分をかえることさえできるのである。
であるから、日本人にとっては死後の祭祀は、真剣なことであって、決して遊戯ではないのである。早い話が、本年なども(一八九五年九月のこと)、著名な政治家や軍人が、五人も六人も、歿後直ちに位階を叙進されている。先日も、わたくしは官報紙上で
「陛下は、最近台湾で薨去(皇室や三位以上の貴人が死去した時に用いる)した男爵山根少将に、勲二等旭日章を追賜された」
という記事を読んだ。こういう恩沢は、ただ、勇壮な愛国者の記憶を尊重しようという形式とばかり考えてはいけない。また、遺族を表彰するためのものとばかり考えてはいけない。これも、もとは神道から出たことなのであって、世界の文明国に伍する日本独特の宗教特質である、現し世と神の世との関係の親近感を例証するものなのである。
日本人の考えでは、死んだものも、生きているものと同じように、この世に実存しているのである。死者は、国民の日常生活の中へも入ってきて、いささかの悲しみ、いささかの喜びをも、生きているものたちと共に分かち合うのである。
家族の食事の際にも、死者はそこへ出てくるし、家庭の幸せをも守るし、子孫の繁栄を助けもするし、また喜びもする。また、神道の祭典や、祭りの行列、武術の試合、あるいはまた、死者のために特に奉納したいろいろの興行物などにも出てくる。そして、死者は、捧げられた供物や、天皇の下賜された尊号などを、非常に喜ぶものだと、一般に考えられているのである。
この小論の場合では、神は死者の霊であると、ただ単純にそう考えて頂くだけで十分である。この国の国土を作り出したと信じられている最初の神と、この死者の神との区別などは、ここでは問わなくてもいい。ところで、神という言葉の概説はこのくらいにしておいて、もう一度、あらゆる死者は現し世に住し、現し世を支配し、人間の思想行為に感化を与えるばかりでなく、自然界の状態にも影響を及ぼすという、神道の考え方に筆を戻そう。本居翁はこう書いている。
「神は、季節の移り変わり、風、雨、国家、及び個人の運、不運を司る」
【すべて此世に有りとある事は、春秋のゆきかはり、雨ふり風ふくたぐひ、又国のうへ人のうへに、吉凶きよろづの事、みな悉に神のしわざと知べし】 ――本居宣長「直昆霊」
約言すれば、神とは、あらゆる現象の背後にある、目に見えない力なのである」
二
「この古代心霊学の最も興味ある付加説は、人間の衝動や行為を、死者の影響によるものだと説明している点である。
いかなる近代の思想家といえども、この仮説を不合理なものだと、断定することはできない。何故かというと、この説は、心理学進化の科学的学理からいって是認しなければならないからである。心理学進化の学理から言うと、生きているものの脳髄は、いずれも無量無数の死者の生命から構築されていることを示している。
結局、人間の性格は、すでに死滅した無数の善悪の経験が、やや不完全ながらも平均化された総計だということになる。この心霊の遺伝ということを否定しない限り、われわれは、われわれの衝動や、感情、または感情によって発展した高度の能力などが、文字通り、死者によって形を与えられたものであり、死者によって譲られたものであるということを否定することはできない。同時に、われわれの精神的活動の一般の方向が、われわれに譲られた特殊な性向の力によって決定されてきた、ということも否定することができない。
こういう意味で、死者はいかにもわれわれの神であり、われわれのすべての行為は、真にそれらの神々の感化を受けていると言える。物にたとえていうと、人間の心は幽霊のすみかである。神道が認める八百万の神々よりも、もっと数の多い幽霊のすみかである。
そうすると、実に、脳髄の実質の一ゲレンに住む幽霊の数は、縫い針の先に立つことのできる精霊の数について、かの中世の煩瑣学者が考えた荒唐無稽な空想を、目の当たりに見る以上のものになろう。学問的には、われわれの生きている微小な細胞の中には、一民族の全生活が――幾百万年の過去の感情が、恐らく誰も知らない、幾百万の滅びた遊星の世界の感情の総額が、たくわえられていることを、われわれは知るのである。
だが、縫い針の先に集まる力という点では、悪魔だって、決して精霊に劣らないだろう。そこで、神道の如上の説では、悪人と悪行というものをどう解釈しているか? 本居翁は、これに対して答えている。
「世の中で、何でも間違ったことが行われる時は、それは禍津神という悪い神々の所為によるものである。この悪い神々の力は非常に大きいものであるから、日の神や天地創造の神も、時によると、彼らを抑えられない時がある。まして人間の力では、彼らの影響に抵抗することは、とてもできない。悪人が奢り栄え、善人が不仕合せに落ちていることなども、普通の正義観からいえば大いに相反することのように見えるけれども、この解釈で、それも説明がつく」
【禍津日神の所為こそ、いともかなしきわざなりけれ。万の厄はみな此神の所為也。すべて此世に有りとある事は、春秋のゆきかはり、雨ふり風ふくたぐひ、又国のうへ人のうへに、吉凶きよろづの事、みな悉に神のしわざと知べし。さて神には善もあり悪きも有て、所行もそれに従へば、大方世の常のことわりをもて定めていふべきにあらず。きはめてはかりがたき物ぞ。……(中略)……下なる諸人のうへにも、善悪き験を見せて、善人はながく福え、悪人は速けく禍るべき理なるを、さはあらでよき人も凶くあしき人も吉たぐひ、昔も今もおほかるはいかに。もし実に天のしわざならましかば、かかるひが事あらましやは】 ――本居宣長「直昆霊」
と。こういう具合に、すべての悪は、悪い神々の感化であり、従って、悪人は、すべて悪い神になるのである。この極めて単純な信仰には、何らの自己撞着もないし、別にややこしいことも、分かりにくいところもない。もっとも、悪行の罪を犯したものが、皆が皆まで、まがつ神になるというわけではない。このことは、後でまた分かるとして、とにかく、すべての人間は、善悪いずれかの神となる。すなわち、感化するものとなるのである。そして、すべての悪行は悪い感化の結果なのである。
ところで、この教えは、遺伝における事実と一致する。われわれの最善の能力は、確かにわれわれの先祖の最も善い人たちから譲られた形見であり、われわれの悪い素質は、今日われわれが悪と呼んでいる性質が、かつて優勢を占めていた人たちから遺伝されたものである。
文明によって、われわれの心の内に発達した倫理的知識は、われわれが死者の最も善い経験から譲り受けた高等な力を、いよいよ強化するように、そしてわれわれが受け継いだ劣等な性向の力は、つとめて消すようにと要求する。われわれは、われわれのよい神の前には跪拝し、それの言うことを聞き、反対に、まがつ神に対しては、何とかしてこれに背を向けるように努める義務を負わされている。
この善悪二柱の神があるという知識は、これは人間の理性とともに、古くからある知識である。あらゆる人間に、善悪の神が宿っているという説は、形式こそ違うが、大抵の大宗教には付きものになっている。
西洋の中世期の信仰も、われわれの国語に永久に足跡を残すほどに、この観念を発達させた。けれども、われわれを護る天使があり、誘惑する悪魔がいるという信念は、神の信仰と同じように、昔はごく単純な信仰だったものが、だんだん発達したものだということを物語っている。
そして、中世のこの信仰の説にも、同じく真理がある。右の耳によいことをささやく白い翼の天使や、左の耳に悪いことをつぶやく黒い悪魔は、さすがに十九世紀の人間のそばにはうろついていないけれども、そのかわりに、天使も悪魔も、人間の脳髄の中にはいまだに住んでいる。
人間は天使と悪魔のささやく声を知っているし、今でも中世の先祖たちがしばしば感じたように、天使と悪魔に急き立てられるのを感じるのである。
ところで、近代の倫理観が神道に反対する点は、神道では、善い神も悪い神も、二つながら、同じように尊ばれているという点である。
「帝が天神地祇を尊崇するのと同じように、人民は幸福をうるために善い神々に祈り、悪い神々の不機嫌をのぞくために祭りを営む。……善い神々と同じく、悪い神々がいます以上は、やはり神の好きそうな供え物をあげ、琴を鳴らし笛を吹いて、歌をうたい舞いを舞い、その他神の機嫌をとりむすぶようなことを行って、悪い神々の神意をもなだめる必要がある(アーネスト・サトー訳、本居宣長翁のことば)」
【……又天皇の、朝廷のため天ノ下のために、もろもろの天神国神をも祭坐すがごとく、下なる人どもも事に触れては、福を求むと、善神にこひねぎ、禍を逃れむと、悪神をも和め祭り、……(中略)……善神もありあしき神も有りて、心も所行も然ある物なれば、……堪たるかぎり美味物さはにたてまつり、あるは琴ひき笛ふき、うたひまひなど、おもしろきわざをしてまつる、これみな神代の古事にて、神のよろこび給ふわざ也。……】 ――本居宣長「直昆霊」
もっとも、近頃の日本には、悪い神々もなだめなければいけないというこの明白な宣言があるにも関わらず、悪い神々に供物を供えたり敬称を奉ったりするようなことは事実上ほとんどないようである。ところが、この国へ渡来した初期のキリシタン宣教師たちが、何故、そういう信仰は悪魔崇拝だといったのか、――もっとも、神道では、西洋のいう意味の悪魔というものは、決して形を表さないが、――その理由は、今にしてみれば明らかであろう。
神道の弱点と思われる点は、悪魔とは決して戦ってはならん、と言っている教えにある。この教えが、天主教(キリスト教のこと。ですが、何でここでこの言葉なんだらう)とは、本質的に相容れないのである。
けれども、キリスト教の悪霊と、神道の悪魔との間には、大きな開きがある。神道でいう悪い神は、たんに死者の霊にすぎないのだし、しかもなだめることができるのだから、これは徹頭徹尾悪とは信じられていない。絶対な、まじりけのない悪の概念というものは、極東にはないのである。
絶対の悪というものは、人間性にはまったく関係のないものであって、従って、人間の霊にはありえないものなのである。
悪い神は悪魔ではない。それはただ、人間の欲情に感化を与える幽霊なのである。この意味だけでいうと、悪い神とは欲情の神である。そこで神道は、あらゆる宗教のうちで最も自然な宗教であり、従って、ある点では最も合理的な宗教である。神道では、欲情はそれだけでは必ずしも悪とは考えてはいない。ただ、これに惑溺する原因、事情、程度によって悪となる、と考えている。
もともと幽霊なのであるから、神はまったく人間的なものであり、いろいろな割合で、人間のよい性質と悪い性質とを自身に持っている。そのうち、大多数はよい性質であるから、神全体の感化の総計は、悪よりも善の方に近い。この見解の合理性をよく味わうためには、相当高い人間観を要する。
日本の古い社会が是なりとしていたような、高い人間観を要する。
厭世主義者は、純粋の神道家にはまずなれない。神道の教義は楽天的なものであるから、人間性に寛大な信頼を抱いているものなら、神道の教えの中にある悪は、皆なだめることのできる悪だということを知っても、別に咎めることはないだろう。
さて、神道が、倫理的にまことに合理的な性質をもっているという、そのことが自ずから現れている点は、この悪い霊魂をなだめる必要があることを認めている点にある。
古代の経験も、近代の知識も、人間のある性向を――つまり、これを病的に育てたり、野放しにしておくと、人間を放縦や、犯罪や、その他教えきれぬ社会悪へと追い込む、そうした人間の性向を、根絶やしにしようとしたり、あるいは麻痺させてしまおうとしたりするのは、大きな誤りだとわれわれに警告している点で、両者は符合している。
動物的な欲情や、猿や虎のような衝動は、これは人間社会ができる以前からあったもので、これが人間社会を毒するほとんどあらゆる犯罪に、拍車をかける。しかし、これを絶滅させることはできることではないし、確実に餓死させることもできることではない。これを絶滅させようと企てると、これと離れがたく入り混じっている、もっとも高い感情的な能力のあるものまで破壊することに努めるような結果になる。
原始的な衝動は、人生に美と優しさとを与える知性と感情の力を犠牲にしないと、とても絶滅することができないものだ。その、人生に美しさと優しさとを与える知性と感情の力とというものも、実は、欲情というごく古い土壌に、深く根を張っているものなのだ。人間の中にある最も高いものも、すべてその種子は、最も低いものの中にあるのである。
禁欲主義は、人間の生まれながらの感情と戦うことによって、多くの残酷な人間を生み出してきている。
それと同じように、神学上の掟も、人間の弱さに逆らうような不合理に当てはめてゆくと、ついにはかえって社会の紊乱を助長するに終わる。快楽の禁制が、かえって淫蕩に油を注ぐようなものだ。そこで、神道の悪い神たちにも、ある融和の必要なことは、道徳の歴史が明白に教えているとおりである。
人間の場合は、いまでもまだ、欲情の力の方が理性の力よりも強い。それは、欲情の方が、理性よりも、比較にならぬほど古くからあるものだからである。何故かというと、欲情というものは、昔は自己保存になくてはならぬものであったし、欲情こそは、人間の自覚の第一段階であり、その自覚から、より高尚な情操が徐々に発達してきたものだからである。
人間は、欲情に支配されてはならないけれども、しかしまた、欲情のはなはだ古くからある権限を全然否定してしまうのも、禍なるかなである」
三
「死者に関する、こういう原始的な、しかし不合理でない信仰――それはすでにおわかりのことと思うが――から、西洋文明に知られていない道義的情操が発達したのである。
これらの信仰は、最も進歩した倫理的概念と一致する点があるし、とりわけ、進化というものを知ったために起こった義務感の、今後どこまで拡がるかわからない拡大と調和する点があるので、大いに考究する価値がある。わたくしは、西洋人の生活の中に、このような情操が欠けているのを喜ぶ理由は、どこにもないと考える。それどころか、むしろ人間の道からいって、この種の情操を養う必要があることを、今に痛感する時が来るだろうと考えているくらいである。
われわれの前途に横たわる驚異の一つは、昔われわれが、そんなものの中には真理なんぞあるものかと多寡をくくって(たかをくくる、で検索しますと、高をくくる、ででますが高とは石高などであるので大い少ないの多寡、でも大間違いとはいえないのかも?? まあ、誤用でしょうけれども)、捨てて顧みなかった信仰や思想、――古い因習から、物事を排撃ばかりするような人たちには、いまだにそんなものは野蛮な信仰だ、邪教だ、カビの生えた中世の信仰だと、一口に片付けられてしまわれそうな信仰や思想に、もう一度立ち返ってみることであろう。
科学の研究は、年とともに、野蛮人や、未開人や、偶像崇拝者や、修道僧などが、それぞれ思い思いの道から、十九世紀の思想家たちに劣らず、永遠の真理の岸へたどり着きかけていたという、新しい証拠を提供している。現に、われわれは、昔の占星術師や、錬金術師の説も、部分的には誤っていたが、全体としては、誤っていなかったということを学びつつある。
そればかりか、われわれは、どんな目に見えない世界の夢も、仮説も、一つとして、真理のある萌芽を含まないものはなかったと、科学が必ず立証すると推定する理由をさえ持っているのである。
神道のもっている道徳的情操のうち、最も高いものは、過去に対する忠実な感謝の念である。
この情操に相当するものは、西洋の感情生活の中にはない。
われわれは、われわれの過去を知る点では、日本人が彼らの過去を知っているよりも、はるかに勝っている。われわれは、過去のあらゆる出来事や状態を、記録し考察してある無数の書物を持っている。けれども、過去を愛し過去に感謝する念をもっているとは、どこから見ても言われない。
なるほど、過去の功罪に対する批判的な認識や、ごくまれには、過去の美しいものからそそられる随喜の涙や、また、過去の誤謬に対する痛烈な攻撃などは、われわれの過去に対する思想と感情の総計を表している。過去を批判する西洋の学者の態度は、必然的に冷静である。芸術の態度は、しばしば寛大以上のこともあるけれども、宗教の態度は、大抵の場合、苛辣を極めている。
われわれはどんな研究的立場に立ったとしても、われわれの注意は、主として死者のなした業績に向けられる。それを見ると胸がわくわくするような絵画建築や、その時代と切っても切れぬ関係をもつ思想や行為の業績、そういうものにのみ多く傾倒して、同胞としての過去人のことは、――われわれの同胞として、長く地下に埋められている無量無数の人間のことは、少しも考えない。考えるにしても、それはただ、滅亡した民族に対する好奇心といったようなもので考えるにすぎない。
なるほど、われわれも歴史上に大きな足跡を残した個人の伝記に興味は見出している。偉大な軍人、政治家、発見者、改革者などの追憶に、心を動かされる。しかし、それはただ、そういう人物がなしとげた仕事の偉大さが、われわれの野心や、欲望や、自負心に訴えるからのことで、百のうちまず九十九までは、愛他主義から出たものではない。
そういうわれわれは、一番多くの恩恵を受けている、名もない死者に対しては、一顧もあたえない。感謝も感じなければ、愛情も感じない。祖先の愛が、どんな形の社会においても、本当の、力強い、骨身に沁む、人生の模型のような宗教的感情になりうると信じることなどは、われわれには到底難しい。ところが、日本では、それが確かにあるのである。この観念だけでも、われわれの思想、感情、行為の様態とは、まったく無縁である。
その理由の一部は、もちろん、われわれが自分たちの先祖との間に、積極的な精神のつながりを持っているという信念をもっていないということだ。
かりに、われわれに全然宗教心がなかったら、幽霊など信じはしまい。そのかわり、もしまた深い宗教心をもっていれば、死んだ人は、神の審判によってわれわれからよそへ移されたもの――われわれがこの世に生きているうちにだけ、われわれから引き離されたもの、と考えるに決まっている。
今でも、天主教を奉じている農民の間には、死者は一年に一度、万霊節(死者の日とも言われ、キリスト教のお盆的行事)の夜に、地上に帰ることを許されているという信仰が残っているけれども、この信仰だって、死者というものは、記憶以上に強力な絆で、生きている者と繋がれているものだとは、考えていない。彼らの民間伝説集を読んでも分かる通り、彼らは死者のことを、愛情よりもむしろ恐怖をもって考えている。
そこへいくと、日本では、死者に対する感情は、全然違っている。日本人の死者に対する感情は、どこまでも感謝と尊敬の愛情である。
恐らくそれは、日本人の感情の中でも、一番深く強いものであるらしく、国民生活を指導し、国民性を形成しているのも、この感情であるらしい。
愛国心もそれに属していれば、親を大事にする孝道もそれに属し、家族愛もそれに根ざしているし、忠義の念もそれに基づいている。戦場で戦友に道をひらいてやるために、「帝国万歳」を唱えて命を投げ出す兵士。不甲斐ないというよりも、いっそ残忍非道なと言いたいくらいな親のために、文句一つ言わずにこの世の幸福を犠牲にするせがれや娘。貧に迫られた親分に、何年も前につがえた口約束を果たすために、親兄弟も友達も自分の持ち金も、何もかもさらりと投げ出してしまう子分。夫が人に迷惑をかけた損失のために、自分は白無垢の装束を着て、南無阿弥陀仏を口に唱えながら、懐剣逆手にのどをかっ切る人妻。
――皆これ、先祖の意志に従って、目に見えない霊魂の嘉する声を聞いてすることなのである。新時代の懐疑的な学生の間にすら、多くの破壊された信念の中に、この感情だけは残っていて、今でもその古い感情が、
「祖先を辱しむるごときことをするなかれ」
とか、
「祖先を尊ぶは、われらの務めなり」
とかいう文句で出てくる。わたくしが先年英語教師として雇われていた頃、その時分は、まだこういう言葉の裏にある本当の意味が分からなかったから。よく作文の中で、それを訂正しようと試みたことがある。たとえば、
「祖先に敬意を払う」
というよりも、
「祖先の記憶に敬意を払う」
とした方が正しいと教えたりした。ある日のこと、今でも憶えているが、わたくしは、死んだ祖先のことを、現に生きている親たちのように言ってはいけない理由を説こうとしたことがある。恐らく、生徒たちは、わたくしが彼らの信念に立ち入ろうとしたことを、変に思ったことだろう。
何故かというのに、日本人は、決して「ただの記憶になった」祖先などというものを、考えてはいない。彼らの死者は、現に生きているのだから。
かりに、われわれの死者がわれわれの身近におり、われわれのすることを何でも見ており、われわれの考えることを何でも知っており、われわれの口に言う言葉を何でも聞いており、われわれに同情をよせてくれ、あるいは、われわれを怒ったり、助けてくれたり、われわれから助けをうけるのを喜んだり、われわれを愛してくれたり、われわれに愛を求めたりするという絶対の確信が、われわれの心に突然起こるようなことがあったとしたら、恐らく、われわれの人生観や義務の観念は、きっと大きな変化を生ずるに違いない。
そうなった暁には、われわれは過去に対する責任というものを、非常に厳粛に認識しなければならないだろう。ところが、極東人の場合は、死者が自分の周りに始終いるという考えは、数千年にも渡る長い間の信念なのであって、彼らは毎日、死者に物を言いかけているし、何とかして死者に幸せを与えようとつとめている。
本職の凶状持ちでもない限り、彼らは決して死者に対するつとめを忘れない。平田篤胤は言っている。
「死者に対する義務を常に忘れぬものは、神に対して、また生きている親に対して、決して不敬不孝にわたるようなことはない。このような人は友にも忠実に、妻や子にも親切で柔和であろう。何故かというのに、この献心の愛の骨子こそ、真実、祖先に対する孝養だからである」
【扨まづ祖先をかやうに。大切にすべき謂を心得ては。況て天神地祇を。粗略に思ひ奉る人は。決して无い筈のこと。又現に今生ておはし坐親を。粗末にする人は无く。神と親を大切にする心得の人は。まづ道の本立の固き人故。その人必君に仕へては忠義を尽くし。朋友と交わりては。信条があり。妻子に対しては。慈愛ある人と成りなる事は。論は无いだに依て。先祖を大切にするが。人とある者の道の本だと云うので厶(IMEパッドでム、打ち込むとござると出てくるでござるw)。何故と云に。其ノ先祖を大切にする行ひが。則ちいはゆる孝行で。孝行なる人に。不忠不義の行ひをする人は。決してなき物で厶】 ――平田篤胤「玉襷」十之巻。
と。日本人の性格の中にある、特異な感情の隠れた原因は、実にこの情操の中に求めなければならない。死に直面しての、あの天晴な勇気、最も苦しい試練の犠牲が果たされる時の、あの従容とした態度など、皆あれは、われわれの情操の世界とはおよそ縁の遠いものであるが、それよりももっと縁の遠いものは、いたいけな日本の少年が、初めて産土(七五三で参る神)の神社に詣でる時、その小さい胸が感極まって、目にいきなり涙がはらはらとあふれてこぼれることである。少年は、その瞬間に、われわれ西洋人が決して感情の上で感じないことを――現世が過去に負う広大な恩義と、死者に対する愛のつとめとを、はっきり自覚するのである」
四
「現在われわれがいるこの地位を借り物として考え、その地位をいかにして引き受けてゆくか、ということに多少でも思いを致すなら、西洋と東洋との道徳的情操の著しい相違は、はっきりしてくるだろう。
人生の事実が、初めて意識にひらめき入る時、その神秘不思議な人生の事実ほど厳粛なものはない。われわれは未知の闇から、いきなり日の光の中へ飛び出して、辺りを見回し、喜んだり悩んだりする。そして、自分たちの生きて存在している振動を他の存在に伝え、そしてふたたびまた、闇の中へ帰ってゆく。ちょうど、波がこのとおりだ。
どぶんと上がって、光りをとらえ、その運動を他の波に伝えて、また海の中へ沈んで帰ってゆく。植物もそのとおりで、土から芽を出し、日光と空気に向かって葉を開き、花を咲かせ、種子を結んで、ふたたびもとの土へとかえる。ただ、波は知識をもっていないし、植物は知覚をもっていない。人間の命も、土から出て土にかえる、放物線を描いた運動に他ならないように見える。ただ、人間の命は、短いその変化のひまに、宇宙を知覚する。
この現象の厳粛さは、それについて、誰も知っているものはないという点にある。人間は誰も、この最も平凡にして、しかも最も不可解な事実――人生そのものについて、説明することができない。そのくせ、誰でも、いやしくも物を考えることのできるほどの人間は、自己というものと切っても切れないつながりを持っている関係において、早くから人生について思いを致さざるをえないできている。
自分というものは、神秘の中から生まれ出る。そして、空や陸を見る。男や、女や、また彼らのする事業を見る。そして、自分がもとの神秘へいつかは帰っていかなければならないことを、自分でも知っている。しかし、このことにどんな意味があるのか、それは最も偉大な哲学者でも――ハーバート・スペンサー氏でも語ることができない。
われわれは皆、われわれ自身に謎であり、また、お互い同士に謎なのだ。
空間も、運動も、時間も、みな謎である。物質も謎である。生まれる前だの、死後だのということについては、生まれたばかりの赤ん坊も、死んで行った人間も、われわれに何の消息ももたらさない。赤ん坊は唖だし、髑髏はただ歯をむき出して笑っているばかりだ。
自然は、何の慰籍もわれわれに与えてくれない。自然の無形の中から有形が生まれ、生まれた有形は、またもとの無形に帰って行く。ただ、それだけのことだ。植物は土となり、その土がまた植物となる。植物が土にかわるとき、その生命であった蠢動は、いったい何に化するのだろう? それは、ちょうど窓ガラスに結ぶ霜に、あやしい葉の形を作り出す力のように、目には見えずに、存在だけを続けているのだろうか?
無限の謎の地平線のうちに、世界とともに古い無数の小さな謎が、人間の来るのを待っていた。エディポスは、その無数の謎の中の一つのスフィンクスに出会ったのである。人類は、由来、幾千万とも知れぬスフィンクスどもに出会ったけれども、そのスフィンクスどもは、いずれも「時」の通る路端の、枯れさらばえた骨の中に踞まって、後から後からと、次第に深遠な、難しい謎をかけてきた。
そのスフィンクスどもは、今もって皆満足な答えを得られずにいる。この先、まだ未来の路には、幾億万のスフィンクスが列を組んで並んでいて、まだ生まれてこない人間を呑もうとして待ち構えている。今日ではわれわれも、われわれを導いてくれる多少の知識をもっているおかげで、始終戦々兢々としていなくてもすむけれども、しかしその知識こそは、実は、すべて破滅の腮(魚のエラ、とも出てきますが、顎門と書いて顎のこと)から勝ち取ってきたものなのである。
われわれの知識は、すべて譲り受けた知識である。死者は、彼ら自身と、この世について学び得たものの記録とを――たとえば、生と死との掟、求めて得られるものと、求めても逃げられてしまうもの、自然がこうさせたいと思っているよりも苦しみを少なくして生きてゆく方法、正しいことと曲がったこと、悲しみと幸福、誤れる利己主義、賢い親切、余儀ない犠牲などを、われわれに残して行ってくれたのである。
それからまた、陽気や、季節や、風土について、彼らが発見したこと、太陽や、月や、星のこと、宇宙の運行とその成り立ちについて発見した知識も、残して行ってくれた。また、自分たちの犯した過ちをも、われわれに残して行ってくれた。そのおかげで、われわれは、長い間、それよりももっと大きな過ちに落ち入ることから救われてきたのである。
死者は、また、彼らの過ちと努力、勝利と失敗、苦しみと喜び、愛と憎しみの物語をわれわれに残して、誡しめともし、手本ともしてくれた。そして死者は、われわれの同感を期待した。それほど彼らは、われわれのために好意をもち、望みを嘱して骨折ってくれたし、そのようにして、この世も作ってくれたのである。
国土を開発し、怪物を退治てくれたのも彼らなら、いろいろな動物を、われわれの役に立つようにならしたり、教えたりしてくれたのも、彼らだ。
「クレルヴォの母は、墓のうちに目覚め、土の底より叫びぬ。われ、汝がために犬を木につなぎて、残しおきたり。狩にいかんとおもはば、かの犬を従へて行きねかし」 (「カレワラ」 第三十六歌)
また、同じように、役に立つ木や草を培い育ててくれたのも、彼らなら、金属のある場所や、金属の効用を見出してくれたのも、彼らだ。近世に至っては、われわれのいわゆる文明なるものをも創造してくれた。――自分たちが、やむことをえず犯した過ちは、われわれがこれを匡すに任せて。このように、死者の労苦の総計は、まことに数え切れないものがある。彼らがわれわれに与えてくれたものは、それに費やした無限の苦労と思慮のほどを思いやっただけでも、確かに神聖なものであり、貴重なものである。それにしても、果たして西洋人の誰が、神道信者のように、毎日、次のような感謝の祈りを捧げようと思うものがあろう。
――「わが大祖たち、わが一家の先祖たち、親族一同の先祖たちよ、――わが一家の始祖としてのあなたがたに、われわれの喜びと感謝を捧げ奉る」
【遠都御祖乃御霊。代々能祖等。親族乃御霊。総氐此祭屋爾鎮祭留。御霊等能御前乎慎美敬比。家爾毛身爾母枉事有世受。夜乃守日乃守爾守幸閉宇豆那比給比。弥孫能次々。弥益々爾令栄給比氐。息内長久。御祭留善志久仕奉志米給閉登。祈白須事乃由乎。平祁久安祁久聞食幸幣給閉斗畏美畏美毛拝美奉留】 ――平田篤胤「玉襷」十之巻。拝先祖霊屋詞。
そんなものは、一人もなかろう。何もそれは、われわれが死人に耳なしと思っているからばかりではない。われわれは幾代もの間、ごく狭い範囲内――家族という範囲以外には、同情ある精神的表白の力を動かすような訓練をして来なかったからである。
西洋の家族は、東洋の家族に比べると、実に係累が乏しい。ことに、十九世紀に入ると、西洋の家族はほとんど崩壊してしまっている。今日、西洋で家族といえば、夫と妻、それにまだ丁年(成人のこと)に達していない子どもたち、まずこんな程度である。そこゆくと、東洋の家族は、まず両親があり、両親の血族がある。その他に、祖父母とその血縁者、曾祖父母とその血筋のもの、その背後には、すでに死んだ人たちがずらりと控えている。
こういう大家族の観念が、同情ある表示を養ったのであって、しかも、そういう同情的表示につきものの感情が及ぼす範囲が、現に生きている家族の正流から、ひいては傍流の人たちにも及び、さらにそれが国家危急の場合には、国民全体が一大家族になるというところまで進展して行くのである。
これは、われわれ西欧人のいわゆる愛国心などというよりも、はるかに深い感情である。しかも、宗教的感情ともなれば、この感情は、およそ過去と名のつく限りの過去全体に、無限に広がりをもつのである。
愛だの、忠義だの、感謝だのが混じり合ったこの感情は、生きている血族に対する感情に比べれば、やや茫漠とした点は仕方がないとしても、偽りない真情である点においてはかわりがない。
西洋には、古代社会が滅びてから後というものは、こういう感情は残っていない。古代人を地獄に落し入れ、彼らの成し遂げた事業を褒め称えることを禁じた信仰――物に対する感謝は、すべてヘブライの神にこれを捧ぐべしと、われわれを教えた教えは、考える習慣と、考えない習慣とを作り上げた。
この考える、考えないの習慣は、二つながら、ともに過去に対する感謝の念に反するものであった。やがて、神学の衰頽と、さらに大きな知識の勃興とともに、死者はそのなした事業を自ら択んでしたのではない、彼らは必然のなすがままに従ったのだ、われわれはただ死者から、必然の結果を受け継いだのだ、という教えが起こってきた。
そこで、今日でも、今もってわれわれは、その必然そのものが、それに従った人たちに対して、当然、われわれの共感同情を強いることや、また、譲り残されたその必然の結果は貴重なものであり、感動すべきものであるということを、決して認めようとしない。
こういう考え方は、われわれのために尽くしてくれている、現存の人たちの仕事に対してさえ、われわれには起こらないのである。自分たちの買ったもの、自分たちの獲たものの代価は考えるけれども、それを作ったものの労力の代価というものを、われわれは少しも考えようとはしない。
それどころか、そんなものに良心の表示めいたものなど見せたら、それこそ笑いものにされてしまう。
そのように、結局、過去の仕事にも、現在の仕事にも、感銘的なその意義というものにまったく無感覚でいることが、われわれの文明が、いかに無益なものが多いかということを十分に説明している。ほんの一時間の楽しみのために、数ヵ年の労役をあたらむざむざと消費してしまうような贅沢な沙汰――幾千人という心なしの金持ちが、思い思いに、用もない自分たちの欲望を満たすために、幾百という人間の生命の代価を、年々蕩尽する不人情などがそれである。
文明の食人鬼どもは、自分ではそうとは気づかないけれども、その残酷なことは、野蛮人の食人種よりもよほど甚だしいし、彼らよりもっと大量の肉を食いたがる。深遠なる人道――洪大なる人間愛は、根本的に無益な奢侈の敵であり、官能の満足や利己主義の快楽に、何の制限も設けないような社会には、それがどんな様式のものであろうとも、根本的に反対するものなのである。
ところが、極東では、それとは逆に、生活を簡素にするという道義上の義務が、随分古くから教えられてきている。それは祖先崇拝の念が、この洪大な人間愛を発達させ、育て上げたからである。
われわれ西欧人には、この人間愛がない。けれども、必ずいつの日にかは、われわれを滅亡から救うために、この人間愛を求めざるを得なくなる時がきっと来るに違いない。次にあげる徳川家康の二ヵ条の言葉は、東洋人の情操を例証している。
日本における最大の武将であり、かつ、最大の政治家でもあった家康が、事実上、この帝国の主であった時代に、ある日、手ずからはいている絹布の袴の汚れをもみ落しながら、侍臣の一人に言った。
「これ、わしのすることを、何と見るぞ。袴が大事と思うて、わしはしておるのではないぞ。これを作るに、どれほどの労苦を要したか、それを思うてじゃ。かよわい女子が辛苦して織った、それが尊いのじゃ。物を使うて、その品を作るにかかった暇と骨折、それを思わなんだら、――いやさ、その思いやりなくんば、われら、禽獣と異ならんではないか」
――その後また、彼が最も富める時代に、彼の御台所が、あまりにしばしば、彼のために新服をしつらえるのを叱って言った言葉があると聞いている。
「わしは、四方の民のことを思い、わしの後に続く子孫のことを思うと、持ち物なども、よくよく倹約するのが身のつとめと思うぞ」
この簡素の精神は、今でも、日本の国から離れ去っていない。天皇、皇后でさえ、その皇居にある時は、臣民と同じく質素な生活を続けており、皇室費の大部分は、災害の救済にあてられるのである」
五
「西洋でも、やがては、日本の国で祖先崇拝が生み出したような過去への義務の道徳的認識が、進化論の教えによって、ついには発達するようになるだろう。今日でも、新興哲学の第一原理に精通しているほどのものは、ごくありふれた手工品などを見ても、そこに多少でも進化の歴史を認めずにはいない。
そういう人には、われわれが日常使っている、手回りの道具などにしても、それがただ、大工や陶工、鍛冶屋や刃物師の腕で出来上がった品とばかり見ずに、それを作る方法、材料、形など、すべて皆、数千年の間続いた経験から生み出されたものとして、目に映るだろう。
そういう人にとっては、どんな器具にしろ、その進化発達に要した莫大な時間と労苦とを考えて、そこに感謝の念を経験しないことは不可能だろう。このようにして、やがて来たるべき時代には、誰もが皆、過去の世の物的遺産を、死んだ祖先と関連させて考えるに違いない。
しかし、この洪大な人間愛への発展の中で、過去の世に負う物質上の恩義を認めることよりも、もっと有力な要素は、心霊上の恩義を認めることであろう。何故というのに、われわれは、われわれの物質的な世界――われわれの内部に生きている世界――美しい衝動や、感情や、思想の世界をも、やはり死者に負うているからである。
いやしくも、人間的な善さを学問的に悟るものは、誰によらず、どんな下賤な生活のどんな平凡な言葉のうちにも、神々しい美を見出し、そしてある意味では、われわれの死者は真実神であるということを感じるだろう。
ところで、われわれが、婦人の霊魂はそれ自身で一つの完全な存在――一つの特別な肉体に合うように、特別に作られたものと考えている間は、母性愛の美とか、驚異とかいうものは、まだ十分に悟られていないのである。
これをさらに深い知識で悟ってみると、幾万億という死んだ母から受け継いだ愛情が、一つの生命の中に宝蔵されてきたのだ、ということがわかるだろう。そして、そういうものであればこそ、赤ん坊が母親から言い聞かされる言葉の、あの無限の優しみも、また、赤ん坊がじっと見つめる目とであう母親の目の、あの無限の情味も、なるほどと説明がつくだろう。
こういうことを知らないできた人間こそ、哀れなものである。
真実、母性愛というものは、神々しいものだ。しかし、誰が母性愛を、それに適わしい言葉で、遺憾なく語ることができよう。人間が見て、神々しいと名付けるものは、すべてこの母性愛に綜合されているのである。
そして、その母性愛の最高の表現を吐露し、伝達するところの婦人は、いずれもただ人間の母であるだけにとどまらず、みな神の母なのである。
ここまで言ってくれば、初恋という性愛の幻想の不思議さについて、もはや語る必要もなかろう。初恋もまた、死者の情熱と美とが復活して心を惑わせ、いつわり、迷わせ、たらかしこむ(原文ママ。か?)のである。実にこれは、何とも不思議なものだ。もっとも、初恋は、徹頭徹尾、善というわけではない。全部が真というわけではないからである。
婦人の真の美しさは、その後に現れるのである。つまり、夢のような幻想がすっかり消えて、それまでの幻影のまぼろしの幕の影に展開しつつあった、どんな幻影よりも美しい、本当の姿が現れる時に現れるのである。こうして現れた婦人の神々しい魅力とは、いったい、何であろう?
それは他でもない、死して土に埋められた、幾百万の心臓のもっていた愛情であり、信義であり、無私無欲であり、直覚である。そういうものが、みんなもう一度蘇ってくるのだ。そして、彼女自身の心臓の新しい温かい鼓動の中で、もう一度新しく脈拍を打ち出すのである。
それからまた、上流の社交生活によく現れる、ある驚くべき才腕も、また別の道から、死者によって作り上げられている霊魂の構造のことを物語っている。世の中に不思議なのは、あらゆる人に対して八方美人になれる男だの、自分を二十にも五十にも百にもの違った女に仕立てることのできる婦人のいることだ。
こういう手合は、万人の心を了解し、洞察し、人を評価するのに決して誤たず、まるで自分の個性というものがないようでいて、そのかわり、無数の自己を持っているようで、会う人次第で、相手にぴたりと調子を合わせ、どんな違った人にも接することができる人たちだ。こんな性格は、めったにないけれども、しかし、大抵の教養ある社交界には、こういう人物が一人や二人は必ずいるから、研究の機会がある。
こういう人間は、本質的には複合的人物なのである。「我」を単一体と考えている人が見ても、こういうのは単一体でも、「非常に複雑な」と評しなければならないほど、明らかに複合である。それにも関わらず、同一の人間に、四十も五十もの違った性格が現れているというこの事実は、誰が見ても明らかな現象で(しかも、それが特に、経験の甲羅を経ない青年に、普通よく現れるのだから、いよいよ目に立つ)その意義を率直に実認する人がないのを、わたくしは不思議に思わざるを得ない。
これと同じように、ある種の天才の「直感力」と名付けられてきたものも、やはりそれと同じで、わけても感情の描写に関する場合が、そうである。シェクスピーアのような天才は、昔からある霊魂説では、到底解釈がつくまい。テイヌはこれを「完全なる想像力」という言葉で説明しようとしたが、この言葉は真理をうがっている。
しかし、「完全なる想像力」とは、いったい何を意味するんだろう? 霊魂の生活の無辺際な多数――数え切れない過去の世の人間が、一人の人間の中に蘇ったものだ、というより他に、何とも説明のすべがない。
……もっとも、この霊魂複合説のおもしろい点は、それが純粋知性の世界においてでない点で、つまり、愛とか、名誉とか、同情とか、義勇とか、そうした素朴な感情に訴える世界の中のことだから、おもしろいのである。
批評家の中には、あるいは、こういうものもあるかも知れない。
「しかし、この説によると、義勇行為がしたいという衝動の根源は、同時に、犯罪の衝動の根源ともなるね。二つながら、死者のものだからな」
まさに、その通りである。われわれは、善とともに、悪をも譲り受けている。もともと、複合体なのであるから、――現に、いまでもこれは進化し、成長しつつあるが――ずいぶん不完全なものもわれわれは受け継いでいる。しかし、この場合、衝動に一番適したものが生き返ることは、人類全体の平均した道徳的状態が、これを証明している。
今、「一番適した」という言葉を使ったのは、倫理的な意味に用いたのである。いろいろな不幸や、悪徳や、犯罪が、われわれのいわゆるキリスト教文明のもとで、どこの国にも比類の無いほど、ものすごく発達したけれども、しかしながら、多く生き、多く旅をし、多く物を考えた人には、人間の性は善であって、従って、過去の人類からわれわれが受け継いだ衝動の大部分も、善であるという、この事実は歴然としているに違いない。
また、社会状態が正常であれば、そこに住む人間も善良であるということ、これも確かだ。過去の世を通じて善き神は、いつも悪の神が世界を制覇しようとするのを、邪魔し続けてきた。この真理を是認すれば、われわれの正邪の観念は、将来、大いに拡大されるに違いない。そうなると、義勇行為や、何か崇高な目的のために果たされた純粋な善行が、従来考えられなかったほど、貴いものに考えられると同時に、本当の罪悪というものが、今の人間や社会に対するよりも、むしろ、人間の経験の総量とか、過去の世の倫理的向上の全体の努力に対するものとして、見られるようになるに違いない。
そこで、本当の善行というものが、一層尊重されるようになり、真の犯罪は、一層厳格に制定されることになろう。そうなって初めて、
「倫理の法則などというものは不必要である。人間の行為の正しい規則は、常に、その人間の愛情に尋ねて知るべし」
という、初期神道の教えが、今日の人間よりも、もっと完全な人間に、承認されるようになることは、疑いないだろう」
六
「読者は、あるいは、こう言われるかも知れない。
「なるほど、進化論は、その遺伝説によって、生きているものは、ある意味で、実際に死んだものに掣肘されているということを示している。しかし、そのことはまた、死者は、われわれの中にあるのであって、外にあるのではないという証拠でもある。つまり、死者は、われわれの一部分だ。われわれ生きている人間以外に、死者が存在を持っているという証拠は、何ひとつもない。だから、過去への感謝は、結局、われわれへの感謝である。死者に対する愛情は、自己愛だ。そうなると、君の類推論は、結局不合理なものに終わってしまう」
と。しかし、それは違う。なるほど、祖先崇拝は、原始的な形においては、ただたんに真理の象徴であるかも知れない。あるいはそれは、範囲の広くなった知識が、当然われわれに強いる新しい道義上の義務、つまり、人類の倫理的経験を犠牲にした、過去の世に対する尊敬と服従の義務を示したもの、もしくは、その前兆に過ぎないかも知れない。しかしまた、それ以上のものでもあるとも言えよう。
遺伝の事実というけれども、あれはまだ、心理的事実を半分しか語っていない。たとえば、一本の草木は、十、二十、……百本の草木を生じ、しかもその間に、決して自分の生命を失わない。また、一匹の動物は、沢山の子を生むが、それでも、依然としてあらゆる肉体の能力と、わずかながら持っている思考力を減らさずに、生き続けてゆく。子供は生まれるが、親たちは、そのままに生きながらえてゆく。
精神生活は、確かに肉体生活と同じに、遺伝する。けれども、細胞の中で、最も特殊性の少ない生殖細胞は、決して親の生命を奪わない。ただ、親の生命を繰り返すだけである。こうして、不断に繁殖して行きながら、各細胞は、一種族のあらゆる経験を伝え移して行くのであるが、その種族の経験したものは、ことごとく後に残してゆく。
ここに、説こうとして説くべからざる驚異があるのだ。肉体と精神とをもった存在の自己繁殖――親の生命から、続々と放出される生命が、一つ一つ、それが完全な個体となり、繁殖体となるという、驚異的な事実があるのである。この場合、親の生命が、そっくりそのまま、子に与えらえるのなら、遺伝は、唯物論に左袒するとも言えようが、そうではなくて、自己は、ちょうど印度伝説の神々のように、自分で繁殖しながら、しかも、充分な繁殖力を保留して、元の形のままでいるのである。
神道では、霊魂は分裂によって繁殖すると説いているが、心霊が放射するという事実は、いかなる学説よりも、限りなく驚歎すべきものである。
大宗教は、これまで、遺伝ということだけでは、自己の問題は説明しつくせない、ということを認めてきている。遺伝学だけでは、種として残ってゆく自己の運命が、説明できないとしてる。だから、大宗教は、たいていみな、内的存在は外的存在に関係ないという説に一致している。
科学が、実在の性質を十分に決定できないと同じように、宗教も自分で提起した問題を決定できずにいる現状である。「枯れた植物の生活力を構成していた力は、どうなるのか」と聞いてみたところで、われわれは満足な答えが得られないのである。いわんや、「死んだ人間の心霊生活を構成していた感情は、どうなるのか」などという疑問は、それよりも一層難問である。
なにしろ、一番素朴な感情だって、誰も説明できるものはないのだから、これは無理もない。われわれは、ただ、生きているうちの植物や人間の体内にあった活力は、始終、外界の力に自分を調節して合わせていたということと、内部の力が外部の力の圧迫に、もはや応じられなくなった後は、内部の力が貯蔵されていた体は、それを構成していた原素に分解される、ということを知っているだけである。
その原素の究極の性質については、いろいろの原素を結合させる性向の究極の性質がわからないように、全然、われわれには分かっていない。けれども、生命の究極の要素は、それが作っていた形体の解体してしまった後も、やはり生き残ってゆくと信ずる方が、消滅してしまうと信ずるよりもよいと、われわれは考えている。
自然発生説(この名称は間違っている。何故というのに、「自然」という言葉は、ある限定された意味においてのみ、生命の起源説に適用されるものであるから)は、進化論者の承認しなければならない学説であって、それはまた、物質そのものもやはり進化しつつあるという、科学の証明を知っている人なら、驚くに足りない学説である。
本当の自然発生説(ビンの中へ浸けた物の中に有機体が発生するというようなことではなく、遊星の表面に、原始的な生命が発生するといったような説をいう)は、大きな、いや、無限の心霊的な意味を持っている。自然発生説を信ずるとすると、生命とか、思想とか、感情とか、そういうもののあらゆる潜在は、星雲から宇宙へ、体系から体系へ、恒星から遊星、ないしは衛星へ、そして、ふたたび今度は、逆に原子の混沌たる旋風の中へと還ってゆく、ということを信じなければならない。
つまりそれは、性向というものが、太陽の熱にも生き残り、あらゆる宇宙的進化にも崩壊にも生き残る、ということを意味する。要素は、ただ、進化の産物にすぎない。そうなると、一つの宇宙と他の宇宙との相違は、性向の創造ということになる。
しかも、性向とは、想像を絶した、洪大複雑な遺伝の一つの形なのである。そこには、偶然というものがない。そこにあるものは、法則だけである。新しい進化は、それぞれ、前代の進化の影響を受けている。ちょうどそれは、人間各個の生命が、先祖代々の生命の影響を受けているのと同じことで、その先祖時代の物質の古い形の性向でさえ、未来の新しい形の物質によって、受け継いで行かれるのではなかろうか。
そして、現に今日生きている、われわれ人間の行為と思想とは、未来の世界の性格を形作る資となりつつあるのではなかろうか? そうなると、錬金術師の夢も、もはや、痴人の夢だったと言い去ることができなくなっている。それと同じように、われわれは、もはや古代西洋の思想にあるように、すべての物的現象は、霊魂の性向によって決定されるのではないなどと、言えた義理ではなくなってくる。
死者がわれわれの内部、また外部に、住み続ける、続けないはともかくとして、――これは、今日のような、まだまだ未開半解の状態では決定できない問題である。――宇宙の事実的証拠が、神道のある奇怪な信仰と一致している、ということは確かだ。つまり、万物は、すべて亡びたるものによって、――人間の幽霊か、あるいは三千世界の幽霊か、どちらかに決定されるという信仰がそれだ。
われわれ自身の生命にしてからが、現に、目に見えない過去の世の生命に支配されているように、われわれの地球の生命も、また地球に属する太陽系の生命も、無数の天体の霊に支配されているのである。亡びた幾つもの宇宙――亡びた幾つもの太陽も、遊星も、衛星も、形としては、すでに時久しく闇の中に溶け去ってしまったけれども、力としては不滅不朽で、永遠に活動しているのである。
実際、神道の信者のように、われわれは、われわれの系図を太陽までたどり遡ることができる。しかし、われわれの起源は、その太陽にもないことを、われわれは知る。その起源は、時間において、百万の太陽の生命よりも、さらにさらに、無限に遠いのである。
――起源があったということが、本当に言うことができるとして。
進化論は、われわれが、物質も、人間の精神も、ただ刻々に変わりつつある表彰にすぎないと唱える未知の「究極」の点では、ともに一つのものだ、ということを教えている。進化論は、また、われわれの一人一人が多数のものであるということ、しかし、そのような個にして多であるわれわれは、他の個、および宇宙と同一のものである、ということを教えている。
そして、われわれはあらゆる過去の世の人間性を、われわれ自身のうちに蔵していることを知ると同時に、すべての同胞の生命の貴さ、美しさの中にも、それが流れていることを知り、従って、われわれは他人において、自身を最もよく愛しうること、また、他人において自身を最もよく役立てうること、物の形骸などというものは、ほんの霞かまぼろしにすぎないこと、死者も生者も、ともどもに、すべての人間の感情は、本当は形のない、「無窮」に属しているのだということを、進化論は我々に教えているのである」
いかがでありましたでしょう。
われわれは、宇宙の中に住んでいて、しかも、その宇宙とわれわれは同一なのである。そして、われわれは、われわれ自身が永遠であり、永遠として存在している、そのひとときなのだ。
はるか昔の、偉大なる高徳の僧がある時からりと悟った、その大悟徹底に、ラフカディオ・ハーン、小泉八雲は至っていたのだ。
それを確信しうる文章だったのではないでしょうか。
こういったことを、おつむで、理論的に、計算式的に理解することは恐らく、難しくはないでしょう。人間の体もつまりは宇宙を構成する原素から成り立っており、いまこの、わたしを形作っている要素も、すべては宇宙から来歴しているのだ。そう考えれば、わたしと宇宙はまったく同じものなのだ、と、頭だけで片付けることは、むしろ易しい。
ですが、頭ではなく、胸、胸より腹。肚から、心の底から、自分の体すべてを使ってその真理を悟る、会得・体得するという段階になりますと、どれほどの学問と、修行と、理解と、実践を要するのでしょう。
今のわたしには、まるで見当もつきません。
まあ、だからこそ、己の信じた道を、己の信念を、いささかも変ずることなく、いささかも倦むことなく、日々学ぶだけなのですが。
では、さすがに、これだけの堂々たる思想の文章ともなりますと、あまりにも受けた衝撃が強すぎて最初の頃に読んだ文章も消し飛んでしまうというもの。というわけで、わたしが気になる個所を振り返ってみましょう。
「事実、神道の教えは、その最小限度においても、われわれの正教キリスト教の教義に比べて、決して近代科学と矛盾するものではないのである。ごく公平な立場から検討してみて、わたくしなどは、神道の方がキリスト教よりも、むしろいろいろの点で、近代科学と矛盾する点が少ないと、あえて言いたいくらいである」
そもそもにおいて、神道は厳格な教義もなければ掟とか戒律とかもありませんから、近代科学と齟齬を来さないのもある意味においては当たり前でございまして。
神道の禁忌と言って、わたしに言えるのは、神域を犯すなかれとか、血や死に対する汚れの意識、くらいのものでしょうか。もちろん、皇室ともなれば厳しい規律があるのでしょうが、さすがにわたしには雲の上のお話でございます。
デウスによって作られた身分として、進化論などそうやすやすと受け入れるわけにはいかない、などという七面倒臭いものはありませんから。そう考えますと、神道が、ひいては日本人が、素直で明るくひがみがない、というのも首肯できる気がいたします。
「人間のあらゆる衝動、あるいは行為は、神のなすわざであり、すべて死んだものは神となる、というのが、神道の基礎観念である」
この、死ねば神、というのがものすごく分かりやすく、受け入れやすい、いかにも原初的な宗教といった感じですね。とはいえ別に、こういう原初的宗教は日本人だけがもつ特殊な考えではなく、古来、すべての民族に共通するものだったわけです。
自然を畏敬、崇拝し、また、偉大なるご先祖様をお祭りする。そういう意味では、儒教だって国王のご先祖様や、護国の神々これを社稷といいますが、社が国土の神で、稷が豊穣の神で、こういった神々をうやうやしくお祀りをしていたわけですから、素朴な宗教だとも言えるでしょう。
しかし、日本人が特殊だと言える点が、こういった素朴な自然宗教、原始宗教を今も忘れず、廃れず、国家の中枢においてお祀りしている、というところでしょう。先進国の仲間入りを果たしつつも、古代の宗教をやめない。こんな特異な民族は日本人しかいない。しかも、古代の宗教といえば、心臓えぐり出して神に捧げるだの、病とは悪霊が取り付くことだから祈祷して取り除くだの、現代の視点からすると疑問を呈せざるを得ないものもありますが、神道にはそういったおかしな部分が少ないのも特徴と言えるでしょうか。
「死者は、「上位にある力」であり、「上に在る者」であり、――すなわち、それが「神」なのである」
だから日本では、悪いことをした神でも、力あるものなら等しく祀るのもそのためですね。須佐之男といえば、天照大御神尊の機織り小屋に、皮をはいだ馬を投げ入れたり、神殿にう○こ撒き散らした、という神話がありますが、よその民族だったら間違いなく悪鬼羅刹扱いですが、日本ではきちんと神として祀られているのですから、すごいものです。しかも、その後須佐之男はヤマタノオロチを退治するわけですから、もう、何がなんやら(笑)。
「この概念は、近代心霊学の幽霊という概念に非常によく似ている。ただ、神道の観念は、本当の意味においては、民主的ではない。神は幽霊ではあるが、しかし、その格式と力においては大いに異なった幽霊である。それは、日本の古代社会の階級制度のように、霊界の階級制度に属している幽霊なのである」
この、幽霊と、神が同一、という考えを日本人に知らしめた、もしくは、決定づけたのが、藤原道真公といえるような気がします。まあ、古代の日本では、将門公の首が飛んだりとか、お岩さんのお話とか、そういった奇々怪々なお話がいっぱいある気がしますが、それでも都を追われた道真公のタタリの恐ろしさは群を抜いています。道真公の死後、陰謀の首魁たちが次々と謎の変死を遂げ、天変地異やら疫病の流行やら、もう、タタリという他ないようなことが頻出するに及んで、皇室といえどタタリ神の前では無力なのだ、という事実に、いかに日本人の骨身に徹してタタリを怖れる精神性を植え付けたか、と思います。
神の前では人間はただ、怖れ、敬うほかない、という点では確かに民主的ではございません。
逆説的に言えば、神を、霊を、悪霊だろうがなんだろうが敬う日本人だからこそ、タタリが起きやすい土壌だった、とも言えるでしょうか。
そういえば、10月22日の今上陛下御即位の時。……ええ、わたしはばっちり仕事でしたが、あんなに雨が振っていたのに式典ともなればからりとあがり、しかも天に虹がかかるに及んで、やはり神意のしからしむるところであると、完全に精神に異常を来したイデオロギストでもない限りは、やはり、神々のおわす国、日本なのだ、という思いをしたのではないでしょうか。
そういう風に自然と思えるということは、やはりそれでも、時代は令和となり神も霊も迷信で片付けたがる現代日本人であっても、そういう素朴な信仰心は消え去ることはないのだ、ということを教えてくれた気がします。どれほど時代が下ろうと、どれほど変質しようと、日本という国土に生きる、大和民族の血は、そうやすやすとはなくなりはしない。
そういう、天の、神々のお計らいのような気がします。
「こういう意味で、死者はいかにもわれわれの神であり、われわれのすべての行為は、真にそれらの神々の感化を受けていると言える。物にたとえていうと、人間の心は幽霊のすみかである。神道が認める八百万の神々よりも、もっと数の多い幽霊のすみかである」
そう考えますと、この度のどこぞの半島民との軋轢も、ご先祖様を異にする、未来永劫、分かり合えることもなければ、分かり合う必要性すら感じなくなったしょせん、別の民族なのだ、ということを、これでもかと数々の例証をもって示してくれたと思います。
そういう意味にいては、これほど優れた反面教師は歴史上類まれだと言えるでしょう。
そして、だからこそわれわれはこう思えるのです。
日本人でよかった。
と。
「神道の弱点と思われる点は、悪魔とは決して戦ってはならん、と言っている教えにある。この教えが、天主教とは、本質的に相容れないのである」
歴史的に見ますと、西洋や中原(チャイナの国土のこと)では、恐ろしいほどの民族、部族が大移動を繰り返し、虐殺だの支配だの同化だの、日本人には絶対に理解も真似もできないレベルで繰り返しまくってきたわけですから、一万年ほど前に日本列島に土着し、それ以降、少なくとも異民族との軋轢をそれほど経験せずにすんだ日本人との宗教観と、天地の相違があるのは、むしろ当然と言えるでしょう。
戦って、勝たねば皆殺しにされる歴史と、
タタリ神を、拝んで拝んで拝み倒して荒魂から、和魂になっていただこうと言える歴史。
数千年繰り返したこの歴史の折り重ねがありながら、そうそう簡単に相互理解ができる、と思えるほうがオツムお花畑です。
「もともと幽霊なのであるから、神はまったく人間的なものであり、いろいろな割合で、人間のよい性質と悪い性質とを自身に持っている。そのうち、大多数はよい性質であるから、神全体の感化の総計は、悪よりも善の方に近い。この見解の合理性をよく味わうためには、相当高い人間観を要する。
日本の古い社会が是なりとしていたような、高い人間観を要する」
「厭世主義者は、純粋の神道家にはまずなれない。神道の教義は楽天的なものであるから、人間性に寛大な信頼を抱いているものなら、神道の教えの中にある悪は、皆なだめることのできる悪だということを知っても、別に咎めることはないだろう」
昨今、何でもかんでも食って掛かり、炎上だの批判だのと、他者絶対不寛容の心になった人も少なくありません。
そういう、少しでも欠点、汚点があれば指弾してやらねば気がすまない、叩き潰して、土下座させてやらねば腹の虫がおさまらない、という精神性が、どういうたぐいのものか。
高いところから見れば、よく分かるんですけどね~。
「動物的な欲情や、猿や虎のような衝動は、これは人間社会ができる以前からあったもので、これが人間社会を毒するほとんどあらゆる犯罪に、拍車をかける。しかし、これを絶滅させることはできることではないし、確実に餓死させることもできることではない。これを絶滅させようと企てると、これと離れがたく入り混じっている、もっとも高い感情的な能力のあるものまで破壊することに努めるような結果になる。
原始的な衝動は、人生に美と優しさとを与える知性と感情の力を犠牲にしないと、とても絶滅することができないものだ。その、人生に美しさと優しさとを与える知性と感情の力とというものも、実は、欲情というごく古い土壌に、深く根を張っているものなのだ。人間の中にある最も高いものも、すべてその種子は、最も低いものの中にあるのである」
キリスト教の修道僧が多くの場合失敗に終わり、また、古代の思想、精神の金剛不壊を説いたストア哲学が多くの人には受け入れられなかった意味が、ここにあるわけですね。
心を堅固に、不易にしようとすればするほど、彼らは自身の心にある弱い面、脆い点を侮蔑し、見下し、それが己の中にあることを恥じ、嘆いた。そして、だからこそますます狂信的な修行を己に課し、そして、人間をやめていった。
「神のごとく弱い」
この言葉は一見矛盾しているようで、実は真理を言っているわけです。
人間の心は、崇高で高邁で気高いものだけではなく、卑俗でみっともなく汚れたものを下敷きとして立脚している。要は、自身の心にあるそういった二面性、両極性を包含して存在しているのだ、ということを理解しなけれないけない。自分の心にある、醜い点、認められない面を、だからといって嫌い、遠ざけ、臭いものにフタをし続ければ、それはすなわち自分で自分を否定することに他ならない。自分で自分を捨て去ることに他ならない。
すべてをひっくるめて、自分であると認める。
善悪、清濁、理非曲直、それらすべてが自分なのであるから仕方がない。受け入れるしかない。そんな自分を用いてやってゆく他ない。
まあ、そのためにもまずは自分を理解する、という、簡単そうに見えて恐ろしく難問に挑まねばならないわけですが。
「今でも、天主教を奉じている農民の間には、死者は一年に一度、万霊節の夜に、地上に帰ることを許されているという信仰が残っているけれども、この信仰だって、死者というものは、記憶以上に強力な絆で、生きている者と繋がれているものだとは、考えていない。彼らの民間伝説集を読んでも分かる通り、彼らは死者のことを、愛情よりもむしろ恐怖をもって考えている。
そこへいくと、日本では、死者に対する感情は、全然違っている。日本人の死者に対する感情は、どこまでも感謝と尊敬の愛情である。
恐らくそれは、日本人の感情の中でも、一番深く強いものであるらしく、国民生活を指導し、国民性を形成しているのも、この感情であるらしい」
そう考えますと、こういう、他者絶対不寛容と、寛容の精神の違いは、何も死者だけに限った話ではない、と気付かされます。たとえば、日本人なら、ロボットだって人間の味方だと思っています。アニメでも、鉄腕アトムに、鉄人28号、ドラえもんなど、数え上げたらきりがないほど無邪気に、ロボットという異質な存在を信じていますが、欧米人は、多くはロボットは人間の敵対者である、という認識だそうです。
これも歴史の経緯のやむを得ない結果と言ってよいでしょうか。
「わたくしが先年英語教師として雇われていた頃、その時分は、まだこういう言葉の裏にある本当の意味が分からなかったから。よく作文の中で、それを訂正しようと試みたことがある。たとえば、
「祖先に敬意を払う」
というよりも、
「祖先の記憶に敬意を払う」
とした方が正しいと教えたりした。ある日のこと、今でも憶えているが、わたくしは、死んだ祖先のことを、現に生きている親たちのように言ってはいけない理由を説こうとしたことがある。恐らく、生徒たちは、わたくしが彼らの信念に立ち入ろうとしたことを、変に思ったことだろう。
何故かというのに、日本人は、決して「ただの記憶になった」祖先などというものを、考えてはいない。彼らの死者は、現に生きているのだから」
ハーンも、来日当初はまだまだ日本文化に馴染めず、西洋的思考に囚われていた、ということですね。
祖先の記憶、といいますと、同日の談ではないと言われるでしょうが、常々、様々ななろう小説を拝読させていただいていて思うのですが、いくら異世界だからといって向こうの人間ばかにしすぎじゃね? と思うところがありますね。
そりゃ、多くは鉄砲の存在しない中世中期ヨーロッパを舞台として設定することが多いので、その時代にはまだまだ存在しない科学知識や科学技術を駆使して大活躍、というのなら分かりますが、その世界の固有の、その世界だけに存在する食材を、たかだかほんのちょっとその世界にやってきた程度の現代人があっさりと新たな調理法を確立するとか、新たな食材として有効活用する、などという描写を目にするに当たっては、憮然たらざるを得ないですね。
まったく見知らぬ化学反応や衛生観念という新知識ならいざしらず、人の生死がかかってくる食材を、その世界で何百年、何千年と暮らしているはずの住人が、どうしてまったく想像も発想もせず、捨てたり無駄に消費しているなどと考えられるのか。
異世界人だって、ありとあらゆる手段と手立てをもって、その材料、食材を、どうにかこうにか食べられるように、工夫して食べるであろう、と想像できなければ、むしろわたしはおかしいと思う。それこそ、ふらりとやってきた、何の苦労も努力もしてなさそうな、たかが現代人ごときがあっさりと新調理法を開発する、食材の有効活用を発見するに及んでは、いくら自分のオツムの中にある異世界人だからといって馬鹿にしすぎだろう、と思います。
もっと、人という存在に敬意を払ってほしい、と思いますね。
結局のところ、こういう、異世界人をバカにするがごとき精神構造は、自分の中の人類に対する理解と解釈を開陳しているのであって、下手をすれば盛大なブーメランになりかねないのだ、ということを、書き手は肝に銘ずべきでありましょう。わたしも、当然他人事ではないので、精進いたします。もっとも、まったりと異世界に想いをはせるよりも、現実の切実な問題に取り掛かるほうが優先されてしまうわけですが。
それに、日本人だって、食べられるキノコと毒キノコを選別していますし、どのフグのどの部位に毒があるか、といったことをきちんと知り得ているではありませんか。そこには、恐ろしいほどの犠牲と、工夫と、切磋琢磨が、もはや現代人には分かり得ないレベルで沈殿化しているのであって、ご先祖様の記憶というのは、それこそハーンのいうように無量無数の魂の連鎖なのだ、と考えるべきでありましょう。
それはともかくとしまして、西洋では、ただの知識として尊重するにとどまったご先祖様に対する敬愛を、いまいますがごとく日常を生きる、というのが日本人の精神性の基本だった。
わたしも、常々、ご先祖様に見られていることを意識して日々を生きており、自身の行動指針に反映させておりますし、また、寝る時は神々や安岡先生や、シンパシーを感じてしょうがない高橋是清さんにご挨拶をして寝るようにしております。
また、わたしには姉がおりまして、水子で、生まれることはできなかったのですが、確か、わたしがまだ十代の時だったと思いますが、豪華客船に乗って帰ってきた姉を出迎える、という夢をみたことがあります。
もはやどのようなお顔をされていたのか、まったく判然とはいたしませんが、姉の帰還が嬉しくて嬉しくて、もう、滂沱と涙を流してお出迎えをした、という夢の内容だけは今でもはっきりと憶えております。また、その夢がすーっと覚める時の、それまで感動で随喜の涙を流していたのが、それこそ霧散するように感動が薄れてゆくのを感じたのを憶えております。今なら恐らく、修業を終えて、神様となって戻ってこられたのであろうと想像しておりますが、それからというもの、折に触れて、わたしは姉とともにいる、姉とともに生きている、そういう思いで生きておりますね。
確かに、日本人にとって死者は、敵でも、怖れるものでもなく、拝み、守ってくれる存在、という風に思えます。
少なくとも、わたしに、こういった守ってくださる存在がなかったらとっくの昔に餓死していただろう、と思って仕方ありません。また、だからこそ、英霊たるご先祖様に対して恥ずかしくないように生きようと、己を律するようになったわけですが。
「われわれの死者がわれわれの身近におり、われわれのすることを何でも見ており、われわれの考えることを何でも知っており、われわれの口に言う言葉を何でも聞いており、われわれに同情をよせてくれ、あるいは、われわれを怒ったり、助けてくれたり、われわれから助けをうけるのを喜んだり、われわれを愛してくれたり、われわれに愛を求めたりするという絶対の確信が、われわれの心に突然起こるようなことがあったとしたら、恐らく、われわれの人生観や義務の観念は、きっと大きな変化を生ずるに違いない」
それこそ、四知、
【天知る地知る、我知る汝知る、なんぞ知ること無しといわんや】
と言った、東洋人の古来の道徳性が全世界的規模で拡大する、と想像すると確かに間違いなく人生観や義務観は、一大変革を生ずることでありましょう。
実現性に関しては何も言いますまい。
「人間は誰も、この最も平凡にして、しかも最も不可解な事実――人生そのものについて、説明することができない。そのくせ、誰でも、いやしくも物を考えることのできるほどの人間は、自己というものと切っても切れないつながりを持っている関係において、早くから人生について思いを致さざるをえないできている」
そう、まさしく人が生きるということはまったく五里霧中、暗中模索なのでありまして、自分の生きる道、方向性、使命などが歴然と灼然と、瞭然としている方がむしろ珍しい。
だからこそ、この広大無辺とした寂寥たる人生を生きるにあたって、じゃあ、自分とは何か。から出発するのが遠回りのようにみえて、実は一番近道であろう、とわたしは思っております。
わたしとは何か。日本人だ。なら、日本とは? 日本人とは? じゃあ、世界は? 歴史は? 道徳・思想・哲学は?
ちっぽけでも胸を張って生きる自分を作ろうと思うと、なかなかに大変で、だからこそ、やりがいがあるわけです。少なくともわたしは、多くの人間が鵜呑みにすることを、鵜呑みにはできません。何より大切な、わたしのために。
「こういう大家族の観念が、同情ある表示を養ったのであって、しかも、そういう同情的表示につきものの感情が及ぼす範囲が、現に生きている家族の正流から、ひいては傍流の人たちにも及び、さらにそれが国家危急の場合には、国民全体が一大家族になるというところまで進展して行くのである」
このお話で思い出すのですが、
蒙古襲来、ともなればそれこそ恐ろしいものだったそうでありまして、とある人によりますと、東北の田舎の人が何が恐ろしいといって、「もっこ」が恐ろしいのだというそうで、その「もっこ」とはなにかといえば、蒙古のことなのだそうです。
蒙古襲来といえば、九州の一部に留まって日本全体で見ればそこまで脅威ではなかったように思えますが、実は、日本人全体で恐怖したのだと、改めて気付かされます。
「もっこ 蒙古」
で検索してみると出てくると思いますが、なんと、青森県にまで「もっこ」の恐怖は伝播していたのだそうな。
とはいえ、その「もっこ」を、九州の武士だけで撃退せしめた、というわけですから。
九州武士、ぱねっす。
まあ、蒙古襲来もそうですが、日露戦争当時の、おロシア南下ともなれば、それこそ日本が一つになって対処したというのも事実でありまして、中には、日頃ケンカばかりしていた政党同士ですら、時の総理の一室にとある野党の当主がやってきて「その苦衷は察するに余りある」といって全面的な協力を申し出たこともあるのだとか。
危難に当たっては大同団結する。
それが日本人の精神性であるということですね。
確かに、司馬遼太郎でなくても、明治の日本人の偉大さは仰ぎ見るものばかりであります。
「文明の食人鬼どもは、自分ではそうとは気づかないけれども、その残酷なことは、野蛮人の食人種よりもよほど甚だしいし、彼らよりもっと大量の肉を食いたがる。深遠なる人道――洪大なる人間愛は、根本的に無益な奢侈の敵であり、官能の満足や利己主義の快楽に、何の制限も設けないような社会には、それがどんな様式のものであろうとも、根本的に反対するものなのである」
資本主義、などとうそぶいている民族が、必然的に奢侈放逸に流れ、淫蕩無残をほしいままにするのも当然の帰結なのであります。
そうやって、自分で自分を中から、物理的にも精神的にも、倫理的にも破壊してゆく。
自分ではそうと気づかずに。
日本でなくても、世界中、知識人や、思想・哲学家がわんさといて、この文明の残酷非道には警鐘を鳴らし続けているのでしょうが、「平成たぬき合戦ポンポコ」が顧みられなかったように、こういう警鐘は一切無視されるのですから、致し方ありません。
「これ、わしのすることを、何と見るぞ。袴が大事と思うて、わしはしておるのではないぞ。これを作るに、どれほどの労苦を要したか、それを思うてじゃ。かよわい女子が辛苦して織った、それが尊いのじゃ。物を使うて、その品を作るにかかった暇と骨折、それを思わなんだら、――いやさ、その思いやりなくんば、われら、禽獣と異ならんではないか」
大権現様のこういったお言葉に接すると、さすが江戸幕府300年のいしずえを築いた人となりだ、と思うのであります。
そういう意味で、確かに、惜しいことではありますが、信長様でも、太閤殿下でも、決して日本人をここまで日本人たらしめることはかなわなかったことでありましょう。
権現様は、儒教や仏教の教えを盛んに幕府の統治に取り入れ、日本人の基礎、根幹を作られたわけです。今の日本人は、権現様によって整えられたのだ、といって間違いないわけでありまして、だから、江戸時代にああも立派な儒学者、碩学、功臣、賢君が日本各地で現れたわけでありまして、この、中央は腐敗堕落しても、地方は質実剛健で日本を下支えする、というのが大事なところであります。
そして、安岡先生は「金雞学園」「日本農士学校」で、中央にはない、地域固有の学問と有志の勃興を目指されたわけでありますが、GHQによって叩き潰されたわけであります。
嗚呼。
「これをさらに深い知識で悟ってみると、幾万億という死んだ母から受け継いだ愛情が、一つの生命の中に宝蔵されてきたのだ、ということがわかるだろう。そして、そういうものであればこそ、赤ん坊が母親から言い聞かされる言葉の、あの無限の優しみも、また、赤ん坊がじっと見つめる目とであう母親の目の、あの無限の情味も、なるほどと説明がつくだろう。
こういうことを知らないできた人間こそ、哀れなものである」
もっとも原始的でもっとも根源的なこの、親子の情愛こそ、人間をなす根幹なのであります。ここから、ありとあらゆる情操、思想は生み出されるのでありまして、すべての、健やかな、のびのびとした、こころよい人間の意志はここから発するものなのであります。
逆に言えば、この情愛のないものは、それがどんなに高尚に見える思想であろうが、言質を尽くした哲学であろうが、論ずるに値しない愚論なのであります。
そしてそんな、情愛のない世界で生きねばならないということは、
間違いなく、生き地獄であります。
「「しかし、この説によると、義勇行為がしたいという衝動の根源は、同時に、犯罪の衝動の根源ともなるね。二つながら、死者のものだからな」
まさに、その通りである。われわれは、善とともに、悪をも譲り受けている。もともと、複合体なのであるから、――現に、いまでもこれは進化し、成長しつつあるが――ずいぶん不完全なものもわれわれは受け継いでいる。しかし、この場合、衝動に一番適したものが生き返ることは、人類全体の平均した道徳的状態が、これを証明している」
すなわち、本人が善意で行っている行動に、そこに利害打算が混じっていたとしても、別段気にする必要もなければ、気に病む必要もない、ということであります。
人間には、常に、高次と、低次の意識がそれこそ別け隔てのない世界でうごめいているわけですから、完全な善、悪、偽善、と区別してその場その場で行動することなど、事実上ありえないということです。
そういう意味でいえば、本人が間違いないと思って行動するのなら、他者からは、善か偽善とどちらにみえるかは、どうでもいいことでありまして、気にしても仕方がありません。他所様は他所様で、好き放題妄想されるのがよい、ということです。もっとも、明々白々に敵対したら、猛然と、完膚なきまで叩き潰すまで反撃いたせばよいことで。
「また、社会状態が正常であれば、そこに住む人間も善良であるということ、これも確かだ。過去の世を通じて善き神は、いつも悪の神が世界を制覇しようとするのを、邪魔し続けてきた。この真理を是認すれば、われわれの正邪の観念は、将来、大いに拡大されるに違いない。そうなると、義勇行為や、何か崇高な目的のために果たされた純粋な善行が、従来考えられなかったほど、貴いものに考えられると同時に、本当の罪悪というものが、今の人間や社会に対するよりも、むしろ、人間の経験の総量とか、過去の世の倫理的向上の全体の努力に対するものとして、見られるようになるに違いない」
逆説的に言えば、日本人はよくもここまで破綻した国家体制のもとで秩序を維持しているよな。ともいえるでしょうか。
まあ、この米国による完全な属国支配も、その前に、明治新政府による西郷隆盛公抹殺に象徴されるように、不平士族の討滅という、日本人総畜生化計画の後のことでしたから、さしたる混乱もなく受け入れられたのでしょう。
まともな国だったら、他所の国に完全に支配されて、それで、その自分たちを支配する国家についていけば100年安泰だ、などという知識人などがいたら、天誅を受けるでしょうね。
日本人は、自分で自分たちを畜生化していったのですから、まあ、頑張れ、と言いたいところであります。
戦争における敗者は、人類史がある限り未来永劫土下座し続けねばならないのだ、などという精神異常者まで出るのですから、日本人の畜生根性もご立派なものです。まあ、少なくとも当人は、DOGEZA☆ヒーローとして人類史に記録されるのですから本望でありましょう。
いっそのこと、DOGEZA銅像でも建立してあげればいいんです。
大喜びしますよ。きっとね。
「なるほど、進化論は、その遺伝説によって、生きているものは、ある意味で、実際に死んだものに掣肘されているということを示している。しかし、そのことはまた、死者は、われわれの中にあるのであって、外にあるのではないという証拠でもある。つまり、死者は、われわれの一部分だ。われわれ生きている人間以外に、死者が存在を持っているという証拠は、何ひとつもない。だから、過去への感謝は、結局、われわれへの感謝である。死者に対する愛情は、自己愛だ。そうなると、君の類推論は、結局不合理なものに終わってしまう」
これを考えますと、いかに、死者と生者に懸隔がない、両者が密接に結びついて不即不離の状態にある民族と、そうではない民族との、超えがたい差異を見る気がいたします。
どの民族も、同様にご先祖様がいて、同様に血筋があるのに、一方ではこうした、自己愛という、
てめえさえよければそれでいい。
という極論にゆきつくのであるから。
すべてがすべて、畢竟、己を利するがために存在しているのだ、という近視眼的な思考によって生きられるのであるから、そういう意味では恐ろしく楽観的ではあります。
そういう、ヒャッハー! な人たちだらけだからこそ、そういう連中を何とかするために、「社会契約論」という、倫理や道徳ではなく、義務感で規制せざるを得ないのでありましょう。
そういう意味で言えば、イラクのフセインのように、強権的政治でもって各部族を強制的に支配下に置かねば当たり前の秩序も維持できなかった中東と、欧米というのは、程度の差こそあれ実は本質は同一なのかもしれません。
少なくとも、日本人が生きてきた歴史とは、根幹的相違がある、と言っても決して間違いではないでしょう。だって、日本では災害がおきたって、暴動鎮圧用の軍隊を派遣することなど、起こりえませんしね。
「われわれ自身の生命にしてからが、現に、目に見えない過去の世の生命に支配されているように、われわれの地球の生命も、また地球に属する太陽系の生命も、無数の天体の霊に支配されているのである。亡びた幾つもの宇宙――亡びた幾つもの太陽も、遊星も、衛星も、形としては、すでに時久しく闇の中に溶け去ってしまったけれども、力としては不滅不朽で、永遠に活動しているのである」
もうここまでゆくと、悠久すぎて想像の範疇をはるかに天元突破しますね。
とはいえ、今でも拡大を続ける宇宙は、ある時を境に縮小に向かうのでしたっけ。そう考えますと、こうして生命が生まれ、なにゆえ、思考する・思索するのか。永劫の謎ですね。
「そして、われわれはあらゆる過去の世の人間性を、われわれ自身のうちに蔵していることを知ると同時に、すべての同胞の生命の貴さ、美しさの中にも、それが流れていることを知り、従って、われわれは他人において、自身を最もよく愛しうること、また、他人において自信を最もよく役立てうること、物の形骸などというものは、ほんの霞かまぼろしにすぎないこと、死者も生者も、ともどもに、すべての人間の感情は、本当は形のない、「無窮」に属しているのだということを、進化論は我々に教えているのである」
そういう意味でも、わたしは確かに進化を信じておりまして、日本人はこの地球のどの民族よりも、真理にもっとも近いところにいる、と思っております。
進化とは、民族の進化であり、もっとも優れた知識や、精神を、後世に託すために、こうして間違いをできるだけ少なくして日々を生きているのだ、と思っております。そして、わたしの今のこの思索・思想も、古来から続く東洋思想の本流のひとしずくなのであって、やがて、また流れてゆくのであります。
その、膨大なる、莫大なる遺伝情報をよりよいもの、さらに高次のものに引き上げるための、さざなみの一波紋なのであって、やがて、その波紋が別の波へと伝播することを祈って、こうして日々、思索・思想するのであります。
そう考えますと、「恨み千年忘れないニダ!」などという発言が、どれほど己自身の民族の遺伝情報を汚す行為であるのか。
そんなことにすら想いをはせられない民族は、確かに、消滅してしまっても、仕方がないことでありましょう。それはつまり、数百年、数千年続く、星の数ほどの先祖から連綿と続く遺伝情報の表出なのでありますから、それを、今さら何とかしよう、などと考えてみたところで詮無きことであるのでしょう。
とは申せ、この大和民族の未来も決して楽観できるものではありませんが、天皇陛下御即位の折の、空に架かる虹に、神意のしからしむるところを、祈るばかりでございます。
といったところで、
『心』~日本の内面生活の暗示と影響~ ラフカディオ・ハーンを読む。<四>
おしまい。
いや~。実に大変ですた。
さすがに、ここまで丸写しして広く読んで欲しいと思える思想の本に出会えることはそうそうないですね。でも、丸写しするだけの読み応えはあったのではないでしょうか。他にも傾聴すべき文章は色々あるので、買って読んでみるのも一興かと。
実に蒙を啓かされる名著であります。