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『心』~日本の内面生活の暗示と影響~ ラフカディオ・ハーンを読む。<三>



 別に「ダンベル何キロ持てる?」に触発されたわけではありませんが、腹が出っ張ってみっともないので部屋でできる筋トレをぼちぼちやっておったところ、ある時、胸囲を測ったら98cmあった豊臣亨です。おこんばんはです。


 ちなみに腹囲は104cmありますた……。が、がお。


 粒ガムをやめて一月以上。晩御飯に、茶碗一杯のご飯でも食べると食べ過ぎて苦しいという、おかしいなと思うくらい減衰していた食事量もぼちぼち戻りつつありますし、最近ではヨーグルトを多めに摂るようにしており、狂わされていた体調も戻りつつあるようです。しかし、ヨーグルトは酸性食品なので、梅干しなどのアルカリ性食品もぼちぼち食べるように。


 あなたの体はあなたの食べたものでできている。


 まさしく。


 では、ラフカディオ・ハーン、小泉八雲の思想を伺う、『心』を丸々写す。の三回目。


 三回目は、ついにハーンの思想の深淵に迫ります。


 そろそろ、日本と西洋の文化的比較、のように非常にわかりやすい描写が鳴りを潜め、いかにも哲学的な、形而上学的な表現が多用され始め、さらに、翻訳の影響か、え? どういうこと? という一文も出始めます。


 さすがに、モノホンの西洋人の哲学思考の文章はわたしにはわかりにくい部分もありますが、とりあえずは○っと写しませう。





前世の観念




「仏教が、いまなお現実の中に生き生きと脈打っている雰囲気の中で、幾年かを過ごしたことのある思慮ある西洋人に向かって、君は東洋人の物の考え方のなかで、特に、われわれ西洋人の考え方と違っている根本的観念は何だと思うと聞けば、その人は必ず、それは「前世の観念だ」と答えるに違いない。


 極東人のあらゆる心の中に沁み込んでいるものは、なによりも、この観念が多くを占めているのである。この観念は、空気のように普遍的であり、あらゆる感情に色を付け、直接にも、間接にも、ほとんどあらゆる行為に影響している。


 この観念を形に表したものは、美術的な装飾の細部にさえ、常に現れているし、この観念を托した言葉の響きは、昼となく夜となく、ほとんど時きらずに、求めずしてわれわれの耳に聞こえてくる。人が何の気なしに言う言葉――家庭で、普段よく言う言葉、ことわざ、もしくは宗教上、または世俗上の感歎の言葉、悲しみや、希望や、喜びや、絶望の表白など、みなこの観念を言い表している。


 憎悪怨恨の表現も、愛情の言葉も、ひとしくこの観念が形容している。この観念があるために、「因果」とか因縁とかいう言葉が、一つの解釈として、または慰めとして、あるいは小言の言葉として、自然に人の口にのぼるのである。急な坂道などで、百姓が筋骨を突っ張って、重い車を引き悩むような時、


「これもはあ、因果だから、仕方がねえだ」


 とやせ我慢につぶやく。奉公人などが喧嘩でもすると、お互いに、


「何の因果で、手めえのような野郎と一つ釜の飯を食うのか」


 などという。ごうたれ者や、悪党なども、貴様は因果なやつだと言って決め付けられるし、賢者や仁徳ある人の世に不幸せなのも、同じように、この仏教の言葉で説明される。法を破った罪人なども、自分の罪状を白状するのに、


「うぬがしたことが悪いたァ、百も承知でやったこと、しょせん因果にゃ勝てませぬ」


 なんてことを言う。互いに思い思われた仲を裂かれた相思の男女も、この世で添い遂げられないのは、これも前世の犯した罪の報いだと信じて、死を求める。無実の罪に泣くのも、めぐる因果の小車(おぐるま)で、どうで償わなければならない前世の(とが)を、この世で償わなければならないのだと観念して、腹の煮えるのをじっと我慢する。


 ……そういうわけで、同じように、ごくつまらぬことで後世に心を托すようなことも、皆それは、前世の魂の信条を含んでいる。母親が遊んでいる子供を叱るときなども、いたずらをすると、来世によその親御の子に生まれ変わる時の(さわ)りになりますよ、といって聞かせる。巡礼や乞食が施物をもらうときには、旦那さまやお上さん、どうぞや、来世はお仕合せにお生まれなさるように、といって祈る。そろそろ目もかすみ、耳も遠くなりかけてきたような年取った隠居は、おいらも近々に、もう一度また生まれ変わって、若え丈夫な体になるのよ、とさもさも嬉しそうに人に語る。


 こんな具合に、仏教の方で、「必然」という観念を意味する、「約束ごと」という言葉、あるいは、「前の世」とか、「あきらめ」などという言葉は、われわれの英語に、「正しい(ライト)」だの「間違っている(ロング)」だのという言葉が始終出てくるように、日本人の日常の談話の中に、しばしば出てくるのである。

 

 こういう心理的雰囲気の中に、長年住んでいると、しまいには、いつとはなしにそれが自分の思想の中に沁み込んで、そこにいろいろ変わったことが起こってくるものである。前世という観念がその中に潜んでいる世上のあらゆる考え、――いかに同情して研究してみても、初めのうちは、どうもしっくりしなかったこの信念が、しまいには、一時の物珍しさ、不思議さを失って、うわべだけでも、すっかり板についた感じをもったものになってくる。


 そして、この因果思想によって、いろいろの物事が、理詰めで考えてゆくのと同じように、十分それで解釈がついてゆく。それどころか、ある解釈のごときは、十九世紀の科学思想で測ってみても、確かに理屈にかなっているものさえある。もっとも、この因果思想を公平に判断するためには、まず、西洋の霊魂輪廻説のあらゆる観念を、心からふるい捨ててしまう必要がある。何故かというと、西洋の霊魂に関する概念――たとえば、ピタゴラス派にしろ、プラトン派にしろ――それと、仏教の概念との間には、似ているところが全然ないからである。


 しかも、日本人の信念が、はなはだ理にかなっているのは、実に、この似ていない点にあるのである。霊魂に関する西洋の旧思想と、東洋の思想との大きな相違は、つまり、仏教には、われわれが伝統的に考えている霊魂というもの――ひとりでぼーっと煙のように出てくる、あのふわりふわりした人間の魂、つまり幽霊というものがないことである。東洋の「(エゴー)」という奴は、これは個ではないのだ。また、神霊派の霊魂のような、数の決まった複合体でもないのだ。


 仏教で言う「(エゴー)」とは、実に、想像もできないような複雑怪奇な統計と合成による数、――前世に生きていた百千万億の人たちについて、仏教が初めて考え出した思想を凝成した、無量百千万億載阿僧祇という数なのである」







「仏教の解釈力とその所説が、近代科学のいろいろな事実と不思議に一致している点は、とりわけ、ハーバード・スペンサーを領袖とする心理学の領域によく現れている。いったい、われわれ人間の心理生活の大部分は、西洋神学ではちょっと説明のつかない、様々な感性から成り立っているものである。


 まだろくに口も聞けないような赤ん坊に、ある顔を見せるとわっと泣き出し、ある顔を見せるとにこにこと笑う。そういうことを起こさせる感情なども、その一つである。初めて顔を合わせる人に、会ったその場で、すぐに感じる「好き嫌い」の気持ちなども、やはりそれである。いわゆる「第一印象」と呼ぶ、この反撥と牽引とは、智慧ざかりの子供ほど、驚くばかりの率直さで、ずばりと言ってのけるものだ。


「人様のことは、顔や形で決めてはいけませんよ」


 などと、子供は教えられても、そんなことではてんで納まりはしない。こういう感情を、神学の方でいう本能や直観の意味をそのまま使って、やれ、本能的だことの、直観的だことの(ことの?? ひらがなみっつでことのちゃん? …わかる人、いるかなぁ?w)といって見たところで、何の説明にもならない。まるで荒唐無稽な天地開闢説みたいに、ただ疑義を人生の神秘の中へ切り込むだけのことだ。人間の個々の衝動、もしくは感動は、その人が悪魔に取り憑かれたために、それを受けるのだという以外に、何かそこに個人的なものを超えたものが多分にあるという考え方は、今日でも旧弊な正統論者には、唾棄すべき異端として考えられている。


 しかし、人間の深い感情の大部分が、超個人的なものだということは、今日ではすでに確定的なものになっている。つまり、われわれが恋情と呼ぶもの、あるいは悲壮と呼ぶものは、皆そうだ。恋情の個人性というものは、今日では科学の力で完全に否定されてしまっているし、一目惚れなどというものは、ひと目見て憎らしくなるのと同じで、両方とも超個人的なものとされている。


 同じように、春陽ひとたび巡り来たれば、どこともなくさまよい歩きたくなる、あの取り留めのない衝動や、秋が来れば、ひとりでに何となく物悲しくなるあの感傷も、やはりそれだ、恐らくこの感情は、人類が季節に従って移住していた時代の、でなければ、人間がこの世にまだ現れぬ前代からの、遺物なのであろう。


 それからまた、一生の大部分を、平野や草原の間に過ごしたものが、生まれて始めて、白雪を頂く連峯を見て感ずるあの感動も、また、大陸の奥地に住むものが、生まれて始めて大洋を見て、永遠にとどろく霹靂(へきれき)のような波の響きを耳にした時のあの感動も、あれも、やはり超個人的なものだ。雄大な風景を見る時に起こる、あの必ず畏怖の念をともなう喜びや、熱帯の日没の壮麗さが引き起こす、あの言葉に言いえぬ、憂愁な感じのまじった、思わずあっと讃歎する無言の感銘――あれなども、個人的な経験ということでは、とても解釈をつけることができない感情である。


 精神分析は、なるほど、こういう感動は、恐ろしく複雑なもので、個人のいろいろな経験と織りまざっているものだ、ということを明らかにしたけれども、とにかく、どんな場合にも、感情のごく深い波は、決して個人的なものではない。必ず、それは、人間が生きてきた祖先の生の海から、澎湃(ほうはい)として打ち寄せてくるものである。


 キケロ時代よりもまだもっと古い昔から、人間の心を迷わし、今日、われわれの時代になっては、さらにそれ以上に深く人間の心を迷わすある特殊な感情――たとえば、初めて訪れる土地が、前に一度見たことがあるような気がする、あの心持ちなども、やはり同じ心理的範疇に属するものだろう。


 見知らぬ異国の町々や景色などを見て、何かそこに不思議な親しみのある感じをうけ、そこから一種胸をすやされる(一応調べましたが、すやされる、は出てきませんでした~)ような怪しい衝動をさえ覚え、さて一体それがどこから来るのか、それを説明しようともなると、いくら記憶をかき探してみても、手がかりがまるでないようなこともある。


 もっとも、これと同じ感じは、時にはどうかすると、疑う余地なくはっきりと、かつて意識の中にゆかりのあった記憶がふたたび蘇ってきた時とか、もしくは、いろいろの記憶を綴じ合わせたとか、そういうものから生まれてくる場合も、実際にはあることはある。が、個人的な経験でいくら解釈してみようとしても、全然そんなものでは、解釈も説明も歯が立たず、五里霧中の神秘のままに、てんで手のつけられないようなものも、たくさんある。


 早い話が、われわれが日常に経験する、ごく普通の感情の中にだって、そもそも感情だの認識だのというものは、これは個人の経験に属するものだ、だから、生まれたばかりの赤ん坊の心は白紙だ、などと言い出す妄論愚説では、とても解釈のつかない謎がずいぶんとある。たとえば花の匂いだの、ある色の持ち味だの、あるいは、ある音楽の調子などによって刺激される快い感じ、そうかと思うと、危険な、あるいは毒のある生き物などを見て、我知らず起こるあの嫌悪の情とか恐怖の念、さては夢の中に出てくる言い知れぬ恐怖――こういうものはすべて、旧弊な霊魂説などでは説明のつかないものだ。


 この匂いや色における快感のような感情のあるものが、いかに民族の生活に深く根を下ろしているかということは、グラント・アレンが「心理的美学」という著書、および色彩感覚に関する興味ある論文のなかで力説しているが、もっともそれよりだいぶ前に、彼の師匠で、現代心理学の泰斗であるハーバート・スペンサーが、経験論は、心理現象の多くの段階を説明するには、まったく不適合である、ということを明快に論証している。スペンサーは、こういうことを言っている。



「経験論は、よしできるとしても、こと感情に関しては、認識に関する場合よりも、いっそう欠陥が多い。すべての欲望、すべての感情が、個人の経験から生まれるという説は、事実とははなはだしく相違する。わたくしは、どうして人が敢えてそういう説をとるか、怪しまざるをえない」



「本能」とか、「直観」とかいうような言葉は、古いままの意味では本当の意味をなさない、今後はよろしく別の意味に用いられなくてはならない、ということをわれわれに教えたのも、スペンサーであった。近代心理学の用語だと、「本能」とは「組織化された記憶」を意味する。記憶そのものが、「初期の本能」なのである。


 ――つまり、「本能」とは、生の連鎖において、次の時代の個人に遺伝される、印象の総量をいうのである。


 このように、科学は、遺伝継承された記憶を認めている。それは前の世のことを、細かいことまでいちいち記憶しているというような、妖怪めいた意味ではなくして、遺伝される神経系統の構造の微細な変化に伴って、心理生活に加えられる微量な付加物を意味するのである。



「人間の脳髄とは、生命の進化のうちに、というよりも、人間という有機体に達するまでの、幾つもの有機体の進化のうちに受けた、限りない無数の経験の組織化された記憶である。これらの経験のうちで、もっとも普遍的で、しかも、しばしば繰り返されるものの結果は、元も子も、ともに承け伝えられてきた。そして、徐々にそれは、高い知性にまで昇華されて、ついに赤児の脳髄のなかに潜在する。


 赤児は大きくなるに従って、それを活用するうちに、ますますそれは強力なものになり、さらに複雑なものになってゆく。――それへまた、微細な付加物がいろいろ付いて、それがさらに、その子孫へと伝えられてゆくのである(スペンサー著「心理学原理」のうち「感情篇」)」



 このようにして、われわれは前世という観念と、複合的な「(エゴー)」という観念とに、生理学的に動かすべからざる根拠をえたわけである。そこで、人間の各々の頭脳の中には、その先祖のすべての脳髄が受けた、絶対に想像することのできないほどの、無量無数の経験の伝え伝わった記憶が、封じ込められてあるということは、もはや今日では、争う余地のないことなのである。


 もっとも、前世における自我というものの科学的確証は、これはまだ物質論的に証明されたわけではない。科学は、物質論の破壊者である。科学は、物質の不可解なことを証明した。科学は、感情の究極の単位を想定しながら、なおかつ、心の神秘の解くべからざることを告白している。それにしても、われわれよりも何百万年も昔の、単純な感情の単位から、人間のあらゆる感情と能力が築き上げられてきているということは、もはや疑いの余地がない。この点で、科学は、仏教と軌を同じうして、「(エゴー)」は合成されているものだということを認めているのである。そして、仏教と同じように、科学は現代の心の謎を、過去の心の経験で説明しているのである」







「人間の霊魂が、無限無数なものの複合体であるという観念は、西洋流の意味における宗教という観念を、全然成り立たなくするものだと考える人も、多いに違いない。なるほど、古い神学の概念からいまだに抜けきれないでいる人たちは、仏典にはっきりとそのことが書かれてあるにも関わらず、仏教国においては、いわゆる凡夫凡婦の信仰が霊魂は一個の実体なりという観念に根をすえているものと想像しているに違いない。


 ところが、日本人は、それとはまったく反対の、珍しい証拠を呈示している。


 日本では、目に一丁字もない大衆、仏教哲学など覗いたこともないような貧しい土百姓でも、自分というものが、いろいろなものから集まり成った合成体であるということを、信じているのである。


 さらに驚くべきことは、原始信仰である神道の中にも、これと同じような教義があるのである。


 そして、中国人や朝鮮人の思想を特徴づけているものも、やはり、この信念の変形したものであるらしい。すべて極東におけるこれらの民族は、あるいは仏教流の解釈によるのか、もしくは神道流の解釈(一種奇怪な分裂繁殖説)によるのか、それとも、中国の九星学ででっち上げた不思議な解釈によるのか、いずれにしろ、霊魂というものはいろいろなものから出来上がっているものだと考えているようである。


 とにかく、日本では、この信念が一般に行き渡っていることを、わたくしは十分に見届けてきている。いまさら、ことごとしく、ここに仏典などを引用する必要はなかろう。何故かといえば、仏教哲学を云々するまでもなく、普通一般人の誰もがもっている信念だけで、霊魂が複合体であるという観念と信仰の熱心さとが両立しあって、その間に決して違背するところがないという証拠を呈示しているからである。


 なるほど、日本の百姓が、自分の心を、仏教が考えるような、あるいは西洋の科学が実証するような、そんな複雑なものだと考えていないことは事実だ。けれども、日本の百姓は、自分というものは複合体だと考えている。自分の心の中に起こる善玉悪玉の争いは、自分の「我」を作り上げている、様々な魍魎(もうりょう)の意思がせめぎあうのだと解釈している。そして、自分の中にある悪玉を、自分の中にある善玉から引き離すことを、精神的な欣求としている。


 ――涅槃すなわち、最高の幸福は、自分のなかにある最も善いものを、自分のあとに残してゆくことによって、その境地に達しうるのだと考えている。であるから、日本人の信仰というものは、科学的な思考と対して懸隔のない、心霊の変化という、われわれの故国の一般人が抱いている、因習的な心霊観とあまり大差のない、自然な見解に基づいているようだ。


 もちろん、こういう抽象的な題目に付いての、日本人の考え方は漠然としたもので、組織だったものではないけれども、その考え方の、大体の性格と傾向とははっきりしている。そして、信仰の篤実なことと、その信仰が、彼らの徳行生活に及ぼす感化については、疑う余地がない。この信仰は、今でも、教育ある階級の間に残って生きているが、同じ考え方も、教育のあるものの手にかかると、ちゃんとそれが定義づけられ、理論づけができている。


 一例として、ここに、二十三歳と二十六歳になる学生の書いた作文の中から、抜粋してみよう。引用する例は、いくらでもあるが、わたくしのいう意味の例証には、次にかかげるもので十分だろう。



「世に、霊魂の不滅を説くより、愚の大なるはない。霊魂は合成物である。その要素は、永久不滅なものであろうが、しかし、それはまったく同じ方法で、二度組み合わすことは絶対にできない。物は合成されれば、必ず、その性質と状態を変えるものである」



「人間の生命は合成体である。エネルギーの結合が霊魂をつくる。人間が死ぬと、その霊魂は、その結合の具合によって、変化するものもあれば、変化しないものもある。ある哲学者は、霊魂は不滅なものだといっているし、ある哲学者は霊魂は滅びるものだと言っている。これは両方とも言っていることは正しい。霊魂はそれを構成している組み合わせの変化によって、滅・不滅があるのである。なるほど、霊魂を構成している要素であるエネルギーは不滅である。しかし霊魂の性質は、霊魂を構成するに要するエネルギーの結合の性質によって決定されるのである」



 ところで、この二つの作文に現れている考え方は、西欧の読者には、初めて読まれると、間違いなく無神論者のように見えるだろう。ところが、実はこれが、最も真摯な、最も深い信仰と、少しも違背しないのである。


 そういう誤った印象を与えるのは、英語のsoul(霊魂)という言葉が、我々が了解するものとは違った意味に使われているからなのである。この文章を書いた学生の使った意味の「霊魂」とは、善悪二つの傾向をもったものが、無限に組み合わされているものを意味する。


 ――つまり、霊魂とは、一つの合成物であって、合成されているという事実と、精神的進歩の永遠の法則とによって、滅んでゆく運命をもつもの、――これが霊魂なのである」







「東洋の思想生活において、数千年の間、広大な要素となっていたこの観念が、西洋では、今日に至るまでついに発達しなかったことは、西洋の神学によって十分に説明される。


 けれども、西欧人の心に、前世の観念を絶対に受けつけさせないようにしたのは、神学の罪だというのには、これは正鵠を得た言い方ではない。霊魂というものは、それぞれ、新しく生まれた肉体に合うように、特に無の中から作られたものである、と信ずるキリスト教の教義は、前世というものを、公然と信ずることを許さなかったけれども、一般の常識は、遺伝の現象において、この教義の矛盾していることを認めた。


 また、同じように神学は、動物というものは、本能という一種不可解な機関(からくり)で動かされている自動人形に過ぎないと断定しているのに、人々は、動物にも理性があるということを、一般に認めていた。一昔前に唱えられたこの本能と直観の説は、今日ではまったく暴論に見える。この古い本能説と直観論とは、解釈としては用をなさないものに思われながらも、教条としては、余計な思索に締め出しを食わせ、異説を禁ずる役目を果たしたのであった。


 ワーズワースの「忠実(フィデリティー)」や、妙に買いかぶられた同じ詩人の「不滅(インモタリティ)(・オブ・)告示(インテイメーション)(不滅はインモータル、告示はノーティスですが、メリケン、エゲレス、みたいなもの??)」などは、十九世紀初頭においてさえ、この題目に関する西欧人の観念が、極めて因循で、幼稚であったことを証してあまりある。


 犬が主人に対する恩愛の念は、なるほど、人間の評価を絶した大きなものがあるけれども、その理由については、ワーズワースは夢にも考えなかったのである。また、子供の新鮮な感情は、これは確かに、ワーズワースが不滅と名付けた観念よりも、さらに驚くべき何物かの告示であるに違いないが、それを歌った彼の有名な句が、ジョン・モーレー氏によって愚説(ナンセンス)として一蹴されてしまったのは、まことにむりからぬことであった。


 神学が衰えないうちは、心理的伝承、本能の本体、生命の合致などに関する合理的な観念は、到底、一般人への認識の道を開くことはできなかったのである。


 しかし、進化論の承認とともに、古い思想の形式はくつがえされ、新しい思想が擦り切れた教条に取って代わるべく、至るところに台頭してきた。そして、今日では、西欧においても、不思議と東洋哲学と並行した方向に、一般の知的運動が起こりつつある観を呈している。最近五十年間における科学の進歩の、空前の迅速と多岐他端とは、非科学者の間にも、同じように空前の知性の活発な発達を促すのに(やぶさ)かではなかった。


 最も高度にして最も複雑な有機体は、最も低級にして最も単純な有機体から発達したものであるということ、生命のたった一つの原形が、あらゆる生物界の根本であるということ、動物と植物の間には、限界線を画することができないということ、生物と無生物との差は、ただ程度の差であって、種別の差ではないということ、物質も精神と同じく、不可解なものであって、この二つのものは、二つながら、よくわからない同一の実在が、ただ形をかえて現れたにすぎないということ――すべてこういうことは、新しい哲学の方では、すべて常識になってしまっている。


 神学によって、物質的進化がひとたび認識されてしまえば、後はもう、精神的進化の認識だって、無期限に延び延びにされてはいられないことは、予見するには難くない。何故かというのに、人間の過去を振り返って見ることを禁じていた、古い教義で固められていた壁は、すでにもう壊されてしまったからである。そして、今日では、科学的心理学の研究者にとって、前世の観念は、すでに学説の領域を脱して、事実の領域に入り、宇宙の神秘を説く仏教の解釈は、他の何物にも増して、大いに傾聴すべき説であることを証明している。


 今は亡きハックスリー教授は、こういうことを書いている。



「そそっかしい思想家なら、いざ知らず、元来が荒唐無稽だという理由で、それを排撃するものは一人もなくなるだろう。進化論そのものと同じように、輪廻説は実在の世界に根拠をもっている。従って、それは、類推による正論が、当然与えうる支持を要求することになるだろう(「進化と倫理」六一頁――一八九四年版)」



 ハックスリー教授のいうこの支持は、まことに力強いものであった。何もそれはわれわれに、幾億万年を通じて闇から光へ、死から再生へと飛び舞ってきた霊魂の影だに見せるわけではないけれども、この支持があれば、前世という基本観念が、ほとんど仏陀自身が明言したと同じ形で、はっきりと確立するわけだ。東洋の教義だと、心理的人格は、個人の肉体と同じように、崩壊の運命をもつ集合体である。


 わたくしがここに「心理的人格」といったのは、心と心とを区別するもの――「我」と「汝」とを区別するもの、つまり、われわれが「自己」と呼ぶところのものを指すのである。仏教の方では、この「自己」は、ほんの束の間のまぼろしが寄り集まったものとされている。それを作るものが「業」である。この「業」のうちから、再び人間に生まれ変わってくるものは、すなわち無量無数の前世の行為と思念の総計なのであって、生まれ変わったその一つ一つは、心霊上のある大きな加減法則によるひとつの整数として、あらゆる他のものに影響するのである。


 であるから、「業」というものは、ちょうど磁気力のように、形から形へ、現象から現象へと伝達されて行って、組み合わせによって状態を決定するのである。この「業」が集中し、創造する結果の究極の神秘については、仏教徒も、深奥にして測知すべからざるものとしている。


 けれども、その結果の凝集力は、シーペンハウエルのいわゆる「生きんとする意思」に相当するもの、つまり「渇愛(タンヘー)」――生の欲望によって生み出されるのだと、仏陀は説いている。ところで、われわれは、ハーバート・スペンサーの「生物学」の中にこの思想と不思議に似通ったものを認める。スペンサーは、生物の性向と変種とを、両極性――生理学上の単位の両極性説によって説明している。この両極性説と、仏陀の渇愛(タンヘー)説との間には、相違より相似の方が多くある。


「業」と遺伝、「渇愛(タンヘー)」と両極性――これは、いずれも、その究極の性質に至っては、どう説明のしようもないものである。仏教も、科学も、この点では一致している。ただ、注意に値する事実は、両者ともに、異なった名称のもとに、同じ現象を認めているということだ」







「このように、科学は、驚くべき複雑な方法によって、東洋の古い思想と、不思議に調和する結論に達したわけであるが、さて、それではその結論を、西洋の大衆の心に、はっきりと理解させることができるかというと、これは大いに疑わしい。


 なるほどそれは、仏教の実際の教義が、ただ形式を通して、大多数の信者に教えることができるように、科学の哲理も、ただ呈示によって、――生まれつき、頭脳の明晰な人間に訴えるに足るような事実の呈示によって、もしくはそういう事実を整理することによって、大衆に伝達することはできるだろう。科学の進歩の歴史は、この方法の有効なことを保証している。高度の科学上の論議は、非科学的な民衆の理解の届かぬところにあるから、そんなものの結論などは、一般人に了解できやしないという推論には、決して強い論拠はない。


 恒星の大きさと重量、遊星の距離と構造、引力の法則、熱、光、色の異議、音響の性質、その他無数の科学上の発見にしても、大衆は、これらの知識に到達したまでの詳しい道程については、まったく知らないけれども、そういう発見のあったことは、みな知っている。第一、この十九世紀に、いろいろ科学上の大進歩の動きがあっったたびごとに、民衆の信念も、それにつれて大きな変革があったことは、いまさらここに説くまでもなく、明白な事実である。


 早い話が、教会などでも、いまだに、霊魂は一つ一つ特別に作られるものだという妄説にしがみつきながらも、物質進化論の大綱は、すでに認めてきているし、近い将来には、もはや古い信仰の墨守だの、知性の退歩などということは、理屈からいっても、ちょっと想像することはできない。


 それよりも、むしろ、宗教観念の大きな変革が予想されるくらいのもので、しかも、それは徐々にではなく、恐らく急速に行われるだろうと予想される。もちろん、いずれ起こるべき宗教変革の明確な性向は、今から予言はできないけれども、それにしても、今日の知的傾向からいえば、それがただちに、神学上の思索に最後の限界を限るほどのことにはならないにしても、心霊進化説は当然認められるに違いない。そして、その結果、「(エゴー)」というものの全体の概念も、結局はそれによって発展した前世の観念というものを通して、形が変わってくるだろう」







「このような可能性は、まだまだもっと詳しく考察すればすることができる。ただしかし、科学というものを、物を改修するものとは考えずに、物を破壊するものだと考える人は、恐らく、それを可能性とは認めないだろう。もっとも、こういう思想家は、宗教的感情の方が、生半可な教義などよりも、はるかに深遠なものだということも、あらゆる神、あらゆる宗教形式が滅びても、宗教的感情だけは生き残るということも、そしてまた、宗教的感情こそ、知性が拡大されるとともに広くなり、深くなり、大きな力となるということも、一向に忘れているのである。


 単なる教義としての宗教は、結局滅びてしまう。これは、進化論の研究が到達した一つの結論であるが、しかし、人間の感情としての宗教、つまり、人間をも、星辰をも、等しく形成する、未知の力に対する信仰としての宗教が、これもともに跡形もなく滅びてしまうとは、今日のところ、ちょっと考えられない。科学は、ただ、事象の誤った解釈とのみ戦うのであって、宇宙の神秘をひたすら拡大し、万物はいかに微小なものでも、限りなき驚異であり不可解なものであることを立証するのが、科学である。


 今後、恐らく西洋の宗教観念に、過去にかつてなかったような全面的な修正を加え、西洋流の自己の概念を、東洋流の自己の概念に近いものに円熟させ、単に人格とか個性とかいうものだけで、世に存在するものと思っている、ケチ臭い今日の哲学的観念を、一掃するものだという推定を許すものこそ、こういう信仰を広く広げ、宇宙の感情を大きく広げてゆく、科学の闡明(せんめい)な傾向なのであろう。


 すでに科学が教えるような遺伝の事実を、一般人が了解するようになってきたということは、幾分なりとも、こうした変革が行われてゆくという道を指し示すものである。心霊の進化というこの大問題の上に、将来、論議の起こる場合には、一般知識人は、科学に手引をされて、最も抵抗の少ない道を進むことになるだろう。


 その道というのは、疑いもなく、遺伝研究の道であるに違いない。遺伝という現象は、現象そのものはしごく難解だが、一般人の経験には親しいものであるから、恐らくこの研究は、昔からある数知れない古い謎に、多少の解答を与えるに違いない。このようにして、西欧における将来の宗教形式は、綜合哲学の全部の力で支持され、ただ仏教と異なるところは、概念が非常に精確だという点だけで、やはり仏陀と同じように、霊魂を合成体として認め、そして仏教における業の教義に似た、新しい精神的法則を説いてゆくだろうと想像することができる。


 しかしまた、こういう考え方は、ただちに首肯できないと、次のような反対説を唱える人もあるだろう。つまり、こういう信仰の変革があるとすると、観念が感情を突然に征服して、その形を変えさせてしまわなければなるまい。ハーバート・スペンサーも言っている。



「世界は、観念によっては支配されない。感情によって支配される。観念は、ただ、感情の案内役として、役を果たすにすぎない」



 してみれば、論者が想像するような変化は、こんにち、西欧にある宗教的情操の一般知識と、宗教主情説の力とに思いをいたせば、到底ありうべきこととは思われない、と。


 なるほど、前世の観念と、霊魂が合成体であるという観念とが、西洋の宗教心に実際に(もと)るものなら、これは満足な解答が与えられるはずがなかろう。しかし、はたしてそれは、相悖るものであろうか? いや、前世の観念は、決して相悖るものではない。西欧の精神は、すでにそれを取り入れる準備ができている。自己というものが合成体であり、それが、いずれは滅び消える運命をもっているという考え方は、少なくとも、旧い考え方を捨てきれないものにとっては、物質は滅するものだという観念に比べて、大してまさった考えではないと思われるかも知れない。


 しかし、公平な立場に立って、よくよく反省してみると、何も、「(エゴー)」が消滅してしまうことを恐れる感情的な理由は、どこにもないことがわかるだろう。実際においては、こんなことは無意識であるけれども、キリスト教徒にしても、仏教徒にしても、常住不断に祈禱を捧げるのは、何のためかといえば、つまりは、この「(エゴー)」の消滅ということがあるためであろう。


 誰だって、自分の性分の中にある悪いところは、切って捨てたいと願う。愚かで邪な傾向があれば、これは除いてしまいたい。人に不親切なことを言ったり、したりするような量見は、棄ててしまいたい。多少でも、自分の中にある、高尚なものにからみついている立派な望みを、卑しいものに引き下げるような下劣な性情は、何とかして取って棄ててしまいたい。


 それを願うのは、これは人情だ。ところが、われわれがこうして一心不乱に棄てようと願ったり、取り除こうと願ったり、なくしてしまおうと願ったりするところのものは、貴い理想を実現する助けになる後天的に持った大きな能力ではなくて、実は、心霊的に受け継いできているものの一部分、つまり、自己そのものの一部分なのである。


 従って、自己の消滅ということは、それは恐ろしがるべき死ではなくして、われわれが是非とも努力を注ぐべき目的の中のひとつなのである。どんな新しい哲学でも、自己の中にある最良の要素が、一層大きな親和を求め、いよいよ大きな結合に入って、ついに最高の啓示に接し、そして人間は無限の幻影を通して、――あらゆる自我を滅却し、絶対の実在を見るに至るという、このような願いを、禁ずることはできまい。


 いったい、われわれは、いわゆる原素というもの、その原素そのものでさえ、進化しつつあるということは知っているくせに、どんなものでも、完全に死滅してしまうという証拠は、何も持っていない。われわれが、現在ここに存在しているということは、かつて存在していたということ、そして、将来もまた存在するであろうということの保証である。


 われわれは、無量無数の進化と、無量無数の宇宙を経て、ここに生き残っているのである。われわれは、宇宙を通じて、万物が、皆ことごとく、一つの法則に支配されているということを知っている。どのような原子が遊星の核心を形成するにも、どのようなものが太陽の恩恵を受けるにも、どのようなものが花崗岩や玄武岩に封じ込まれるにも、どのようなものが動植物に入って繁殖するにも、すべては、決して偶然が決定することではないのである。理性が、類推法によって推定しうる範囲内では、あらゆる究極の単位をもった大宇宙の歴史は、心理的にも、物理的にも、仏教の因果説におけると同じように、確実に、しかも精密に決定せらるべきものなのである」







「科学の影響だけが、西洋の宗教的信念の変革に及ぼす唯一の要素ではない。東洋哲学も、必ずこれに預かるだろう。サンスクリット、中国語、パーリー語の研究、さては、東洋諸国における言語学者の倦まざる努力は、目下急激な勢いで、東洋思想の大業のほとんどあらゆるものを、欧米に紹介しつつある。


 仏教は、西洋諸国に多大の興味をもって、あまねく研究をすすめられているし、これらの研究の結果は、最高文化の精神的所産となって、年とともに、ますます顕著な成果を示しつつある。哲学界では、まだ大して目に立つほどの影響は見られないけれども、文学の方面には、相当の影響が見られる。


(エゴー)」の問題の再検討が、西欧人の心に、いたるところで浸透しつつある証拠は、現代の思想的文章は言うに及ばず、詩にも小説にも見受けられる。それらの詩や小説は、一昔前には見られなかった時代風潮を変革し、古い趣味を破壊し、高度の感情を発展させつつある。


 それよりもなお一層大きな霊感によって制作されつつある創作的芸術になると、前世の観念を認めるとともに、そこにまったく新奇な、精妙な感情と、いままで想像だもしなかった哀感(ペーソス)と、驚くほど深い情緒の力とが、文学の中に地歩を占めつつあることを語っている。小説の中でさえ、われわれは、今までは西半球だけに住んでいて、片輪な思想しか考えていなかったことを知り、そのうえ、現在と言うこの緯度線の上に、過去と未来とを一つに結びつけ、それによってわれわれの情緒の世界は初めて完全な球体となるという、新しい信念を持つことが必要だということを学ばされている。


 自己は複合体であるというはっきりとした信念、これは、一見、逆説的な言い方に思われるけれども、この信念こそ、多は一であり、生は渾一(こんいつ)(様々なものが融合すること)であり、有限なるものはなく、あるものはただ、無限のみという、もう一つ上の、大乗的な信念に到達する絶対必須の段階なのである。


 自己は唯一無二の単一体だと思っているような、盲目的な驕慢心が叩き砕かれて、自我の念、我執の念が、まったく解体しきってしまうまでは、大宇宙と同じき無辺無窮なる「自我」というものを知る境地までは、なかなか行き着けるものではない。


「自我」が単一なものだと考えるには、うぬぼれの絵空事だという、この知性の上の悟りが開ける前に、われわれは遠い過去にも生きていたのだという、単純な感情の上の悟りが、必ずやそうとう長い期間の間、発展するに違いない。しかし、とにかく、神秘はどこまでも神秘としてそのまま残るとしても、自己が合成質だということは、最後には認められるに違いない。


 科学は、仮説的な生理学上の単位を仮定もするが、同様に、心理学上の単位をも仮定する。仮定はするが、その仮定された単位は、どちらも、数学的計算のぎりぎりの力をもってしても、その数は計算することはできない。もうまったくの魑魅(ちみ)幽怪の世界へ入ってしまうようである。


 化学者は、研究の目的のためには、微粒の原子を、想像のうちに描かなければならないが、その想像に描いた原子が象徴する事実は、あるいは、ただ力の中心に過ぎないかも知れない。いや、それは、仏教の概念におけるように、無であり、渦動であり、空であるかも知れない。



「形は空なり。空は形なり。形なるものは空にして、空なるもの、すなわち、形なり。知覚と概念、名声と知識――すべてこれ、空なり」



 科学でも、仏教でも、究極するところ、宇宙は、同じように一つの大きな幻影に雲散霧消してしまい、ただ、不可知不可測の力の、仮りの姿に化してしまう。けれども、仏教は、「どこから」及び「どこへ」の疑問に、仏教独特の解答を与えている。そして、進化の大きな周期の来るごとに、前の世の誕生の記憶がふたたび蘇ってくると同時に、来世が目の前に冥府(よみ)のとばりをかかげて現前し、九天の高きまでも見晴るかすことができるほど、無窮に心のひろがりのびる時が来ることを予言している。


 科学は、この点については、口を(かん)(閉じるなどの意味)している。もっとも、この科学の沈黙は、例のノスティック教の奈落の娘、幽鬼の母、シゲーの沈黙である。


 われわれが、「科学」の十分な承服を得て、その上で、心のままに信じうることは、未来において、驚くべき啓示がわれら人類を待っているということだ。近代に至って、新しい感覚と新しい力とが発達した。新しい感覚とは、音楽の感覚であり、新しい力とは、どこまでも伸びてゆくか分からぬ数学者の力量である。


 われわれの子孫の代には、現在よりも、もっともっと高度の、想像も及ばぬほどの能力が、発達してゆくと予想しても、不合理ではない。


 また、疑いもなく、遺伝されたある精神能力は、老年においてのみ発達するということも、明らかになった。しかも、人類の平均年齢は、着々と上昇しつつある。長寿がいよいよ加わって行って、今よりももっと大いなる脳髄が未来に現れれば、前の世のことを記憶する能力に優るとも劣らぬ、もっと不思議な力が、突如として生まれ出るようなことが、ないとも限らない。


 仏教の夢は、あまりにも、深遠無窮のものに触れているために、これを凌ぎ越えることは、まことに至難な技であるが、しかし、その夢が、到底この世に実現されないとは、誰が断言できようか?」





後記





「以上の文章を読まれた方に、ちょっとご注進申し上げておく必要があるが、筆者は、文中、「霊魂(ソール)」「自己(セルフ)」「(エゴー)」「(トランス)(ミグレーション)」「遺伝(ヘレディティー)」などという言葉を、勝手に使ったけれども、これらの英語は、仏教哲学には、まったく意味の通じない言葉である。


 英語の「霊魂(ソール)」という意味の言葉は、仏教にはない。「自己(セルフ)」はまぼろし、あるいは、まぼろしの(もう)である。霊魂が、一つの肉体から他の肉体へと通う「(トランス)(ミグレーション)」は、典拠の明らかな仏典の中で、はっきりと否定されている。


 そういうわけであるから、因果説と、遺伝の科学的事実との間に存在する似通った点は、あれでは完全なものとは言えない。因果、すなわち、業とは、同一の合成体が生き残っていることを意味するのではなくて、その性向(テンデンシー)が生き残っていることを意味するのである。この個体の性向(テンデンシー)が、また新しく結合して、そこに一つの新しい合成体を形作るのである。


 こうして、新しく形作られた個体は、必ずしも、人間の形をとるとは限らない。


 因果は、親から子へは伝わらないのである。生命の肉体的形態は業によるものと思われるけれども、これはしかし、遺伝の系統に縛られているのではないのである。たとえば、乞食の業をもったものが、国王の肉体に生まれ変わることもあるかも知れないし、逆に、国王の業をもったものが、乞食の肉体に宿るかも知れない。けれども、生まれ変わったものの状態は、いずれも、業の力で決定されるのである。


 こう言うと、また疑問が起こるだろう。――



「それでは、変わらないで続いてゆく、人間各人の中にある、精神的な要素というものは、何であるか? いわば、業の殻の中にある、精神的な種子、正道に精進する力は、何であるか? 霊魂も、肉体も、この世だけの、ほんの束の間だけの結合で、業が(これは現世だけのもの)人格の唯一の源泉であるとすると、いったい、仏教の教えの価値もしくは意義は、何なのか? 業に苦しめられるものは、何なのか? まぼろしの中にあるものは、何なのか? 進歩するもの、進歩して、涅槃に到達するもの――これは、何なのか? それが、自己ではないのか?」



 ところが、自己と言っても、それは、英語でいう意味の自己ではないのである。われわれが自己と呼ぶものの実在は、仏教では、否定されている。業を結んだり解いたりするもの、正道に精進するもの、涅槃に到達するものは、われわれの西欧語でいう意味の(エゴー)ではないのである。


 それでは、何であるか? つまり、それは、各人の中にある仏性なのである。


 日本語ではこれを「無我の大我」と言っている。


 これ以外に、真の自己というものはないのである。


 こういう自己が、まぼろしに包まれている状態を、如来蔵(如来蔵も仏性の意味。欲や徳や業によって隠されてはいても、まごうかたなき仏性であり、どんな人間にも心の内に隠されていることから、蔵の字が当てられているのであります)という。


 仏陀がまだ胎内にあった時のように、仏性がまだ生まれない状態である。人間には、誰にも無窮が潜在している。これが実在なのである。一方の自己は仮りであり、嘘であり、蜃気楼である。寂滅するという教えは、このまぼろしの、仮りの自己が滅するのである。


 肉体のみに宿るこの生命に属する情操、感情、思想も、この複雑なまぼろしの自己を作るまぼろしに過ぎない。そして、この仮りの自己の完全な解体によって、ちょうどヴェールを裂き捨てたように、無窮の観力が生まれてくるのである。そこには、霊魂はない。無窮の全霊が、生物の唯一の無窮の要素なのであって、その他のものは、ことごとく、夢である。


 涅槃には、何が残るのか? 仏教のある宗派の説によると、それは、無窮の中の潜在的な同一体(アイデンティティ)だということになっている。だから、仏となったものは、涅槃に達した後には、ふたたびこの世に帰ってくることができるのだというのである。また、別の宗派の説によると、それはわれわれのいう意味の「個人(パーソナル)」ではない。潜在性以上の同一体だという。


 日本の友人が言うのに――



「ここに一塊の金をとって、これを一個と普通呼びますが、これはしかし、われわれの目に、一個という印象を与えるという意味なのであって、実際は、この金を構成しているのは原子群であって、しかも、一つ一つのその原子は、皆、別々に離れていて、独立しています。仏の境地に達したものの場合も、やはり、それと同じように、無数の霊的原子が、そういう具合に結合されているのです。無数の原子が一つになって、ある状態をなしているのです。そのくせ、一つ一つの原子は、やはり、独立の存在をもっています」



 もっとも、日本では、原始宗教が、一般人の仏教信仰にも、だいぶ影響しているから、日本人の場合には、仏教的な自我観というより、日本人の自我観といっても間違いではない。ただ、その場合は、神道の思想を併せ考える必要がある。神道では、霊魂の概念は、きわめて明瞭である。


 しかし、神道の霊魂も複合体である。業によって生まれたものと同じように、単なる感情や、知覚や意思の(もう)ではなくて、一つの人格――個体を作るために、幾つもの霊魂が結合したものである。死者の霊は、一つで現れることもあれば、多数で現れることもある。霊は、その単位を分離させることもできるので、その分離した一つ一つの単位は単位で、それはまた、各々独立した行動をとることができるのである。


 けれども、この分離は、一時的に現れるもので、複合体を構成する数々の霊は、死後でも、自然に結びつくし、自発的に分離した後でも、また結合する。


 日本の国民の大部分は、仏教徒であると同時に、神道信者でもあるのだが、しかし、 自己(セルフ)に関しては、原始宗教たる神道の方が、確かに有力であって、神仏の信仰が混淆している中でも、それをはっきりと見分けることができる。恐らく、これは業――因果説の難しさを、一般人の想像に、自然に分かりやすく説明するのに、役立ったからなのだろう。


 どの程度までと聞かれると、ちょっと答えかねるが、とにかく、仏教でも、神道でも、 自己(セルフ)は親から子へと伝えられる要素ではないのである。つまり、生理学的な血統による遺伝はないのである。


 これらの事実からみると、前掲の文章の題目について、いかに東洋人と西洋人の観念に、大きな開きがあるかということが分かるだろう。また、これらの事実は、極東における、神と仏という、二つの信仰の、不思議な組み合わせと、それと、十九世紀の科学思想との間に暗号があるという考え方も、|自己《》セルフという観念に関する言葉の、哲学的な正確な使い方がないと、ちょっと了解できないということを、自ずから物語っている。実際、仏教哲学に属する仏教用語の適確な意味を、そのまま伝えることができるようなヨーロッパ語は、一つもないのである。


 ハックスリー教授が「感覚と感覚伝達機関」という論文の中で、簡単に述べている次のような論旨から、あまり離れてしまうと、不当のそしりを受けるかも知れない。



「煎じつめてゆくと、感覚とは、感覚中枢の物質の運動の様式に対して、意識という言葉でいうものの等価物であるらしい。しかし、さらに質問を進めて、物質と運動とは何ぞやという問いを出してみると、その答えは、一つしかない。われわれが知っている運動とは、われわれの視覚、聴覚、筋肉感覚に関連した、ある変化に対する名称であり、また、われわれの知っている物質とは、物理的現象の仮説的実質で、この仮説とは、心の実質の仮説と同じように、純粋な形而上学的思索である」



 けれども、形而上学的思索は、究極の真理が人間の知識の極限外にある、という科学的認識があったからといって、決して止むものではない。むしろ、そのために、かえって継続するものだろう。恐らく、全然止んでしまうようなことはあるまい。形而上学的思索がなかったら、宗教的信念の修正も、到底起こり得ないし、修正がなければ、科学的思念と調和するような宗教的進歩も起こり得ないわけである。であるから、形而上学的思索は、当然あるべきものというより、必須欠くべからざるものに、わたくしには思われる。


 われわれは、心の実質というものを、肯定するにしても、否定するにしても、あるいは、思想というものが、ちょうど風が竪琴の弦に触れて音楽を生ずるように、脳細胞にある未知の要素が作用して生まれるものだと想像するにしても、あるいはまた、運動とは、脳細胞に固有な、しかも特殊な、ある特別の振動の様式であると考えるにしても、神秘は、依然として無限に神秘であり、仏教は、依然として人類のあこがれに深い合致をもち、道徳的進歩と調和する貴重な道徳上の有効な仮説である。


 われわれは、物質的宇宙と呼ばれるものの実在を、信ずる信じないに関わらず、説明することのできない遺伝の法則――特殊化しない生殖細胞のなかに、種族及び個人の性向が伝えられる事実――の倫理的意義は、因果説の存在を肯定する。意識を形作るものが何であろうと、意識というものが、過去及び未来に関連していることは、疑う余地のないことである。


 涅槃の教えが、公平な思索家の、厚い尊敬を失うことはありえない。科学は、既知の物質は心と同じく、進化の産物だということを、はっきり認めている。物質が、いわゆる「要素」――「いまだ分化せざる原始的形態の物質」から発展したという実証を、科学は発見した。


 この実証は、仏教の放射(エマネーション)まぼろし(イリュージョン)の教義に含まれている、ある真理の驚異的な暗示であって、――あらゆる形態の進化は無形から、物質的現象の進化は非物質的現象から起こったものであり、――そして、万物はその究極においては「欲情も悪意も倦怠もない状態――個性の刺激がもはや存在せず、ために『虚空』と名付けられている状態」に帰ってゆくことを、暗示しているのである」




 いかがでしたでしょうか。


 色々と、分かりにくい部分もありましたし、中には、そう? と小首をかしげたくなるような一文もあったかとは思いますが、ですがいかに、100年前の西洋人であるハーンが、東洋思想の透徹なる理解に到達していたか、来たるべき未来に期待していたかが、分かるかと思います。


 それはつまり、ハーンは、日本は、西洋の、科学や哲学を導入することによる腐敗堕落は当然起こりうるべきものとして予測してはいるものの、また一方で、頑迷固陋なる西洋にも、科学という導き手によって、仏教などの、深遠にして端倪すべからざる東洋思想が、一般庶民にも分かりやすく導入されるであろう、と期待しているのが分かるかと思います。


 そう考えると、ハーンは、いわゆる「自覚覚他」を行った人物なのでありましょう。


 その時代の、先進的な西洋の思索や哲学を豊富に、広範囲に学びその確信と確実性と普遍性とをもって、茫洋として、科学的に定規を当てたかのごとくには、すぐには答えも結論も出せないけれども、確かに、克己心に富み、正義を愛し悪を憎み、情に溢れ涙もろく、日々を正しく健やかに日々を生きる、


 雨森信成さんの一節「とある保守主義者」をまた引用すれば、


「怖れるものは何一つなく、しかも礼節に厚く、克己心に富み、快楽を軽侮し、信愛と忠節と大義名分のためなら、いついかなる場合にも、立ちどころに一命を捨てることを辞さない」


 という侍を数多生み出し、厚い信仰と宗教によって、日本人を形作っているのであり、そして、その日本人と同化することによって、西洋と東洋の良いところを吸収し、さらに一段階進んだ次元へと至る、いわゆる「中する」、その先駆となろうとしたのであろう、と推察致すのであります。


 そして、文中にははっきりとは認められませんが、ハーンは、


 仏教を取り入れながらも、自然にして素朴、人間性の本質である神道を忘れない東洋思想の精髄にして英俊、そして西洋の科学や哲学を、己のものにせずんばやまないと、食らいついて離さない次代を担う日本人こそが、この東西の両洋の架け橋を担い、両洋の文化的、精神的、宗教的懸隔を融和し、統合し、地球人類を一つに結びつけるという、偉大なる宿命を背負っているのだ。


 ということを確信していたのではないか、と信ずるのであります。




 では、あまりにも深遠なる思索なゆえ、もう一度わたくしが気になるところを振り返ってみたいと思います。とはいえ、何をおっしゃっているのかよくわからない部分も少なくないですし、また、すべてを理解する必要も必ずしもないと思います。『論語』だって、わたしはすべて目を通したわけでも、すべて理解したわけでもありませんし。


 重要なことは、今の自分でも理解できるところだけでも理解し、そして、ただちに実践する。


 これです。


 では、



「仏教が、いまなお現実の中に生き生きと脈打っている雰囲気の中で、幾年かを過ごしたことのある思慮ある西洋人に向かって、君は東洋人の物の考え方のなかで、特に、われわれ西洋人の考え方と違っている根本的観念は何だと思うと聞けば、その人は必ず、それは「前世の観念だ」と答えるに違いない」



 なるほど、そう言われてみますと、西洋には前世、などという概念はないのでしょうね。


 そう考えますと、異世界転生、生まれ変わって別世界で俺tueeee 何て発想は、東洋人ならではなのかも知れません。とはいえ、わたしの感覚から申しますと、転生ならともかく異世界転移ならば木刀すらまともに振ったこともない貧弱な現代人が、あんな剣と魔法の支配する中世世界、なんてものに神様チートも全然なしに送り込まれれば、ゴブリンにだって瞬殺されるでしょうけどね。そういう意味で、「灰と幻想のグリムガル」を見た時、これぞ正しい転移ものだと思ったものです。


 とまれ(ともあれ)、日本人の根幹を貫く、「因果」思想。


 今、自分のいる境遇は、すべて前世の因果なのである、ということ。


「袖すり合うも他生の縁」


 とかいいますが、多少ではなく、他生、つまり前世のご縁でいまこうして袖が触れ合っているのであり、その程度で怒っちゃいけませんよ、ということですね。


 確かに、日本人にとって根幹的な思想であったと思いますが、現代人にとってはどうなのでしょうね。 



「仏教で言う「(エゴー)」とは、実に、想像もできないような複雑怪奇な統計と合成による数、――前世に生きていた百千万億の人たちについて、仏教が初めて考え出した思想を凝成した、無量百千万億載阿僧祇という数なのである」



 恐らく、これを西洋では「集合的無意識」と言うのであろうと思いますが、そう思って検索してみれば、なるほど、ユングもフロイトも、1900年以降に活躍した人であって、それより前に亡くなられたハーンにはない思考なのでしょうね。


 つまり、今のわたしは、何億何兆もの、ご先祖様の記憶のひとしずくなのである、ということであります。とはいえそういわれましても、初耳もいいところでありまして、わたしの魂が、無量無数の記憶の複合体なのだ、などとびっくりであります。しかも、日本人はほとんどすべて、この、魂は複合体で成り立っている、ということを信じているのだと伺い、度肝を抜かれたものであります。


 少なくとも、わたしの魂というものはわたし一個の単独の存在であると思っておりました。



「しかし、人間の深い感情の大部分が、超個人的なものだということは、今日ではすでに確定的なものになっている。つまり、われわれが恋情と呼ぶもの、あるいは悲壮と呼ぶものは、皆そうだ。恋情の個人性というものは、今日では科学の力で完全に否定されてしまっているし、一目惚れなどというものは、ひと目見て憎らしくなるのと同じで、両方とも超個人的なものとされている」



 そして、「集合的無意識」のことを「超個人的」とよんでおり、雄大な自然に感動したり、日本人なら、大きな石や大木にしめ縄があったら自動的に畏敬の念が沸き起こるのも、これら、ご先祖様の記憶の流露である、と言うわけです。


 しかし、人それぞれの恋愛感情も、ひと目会っただけで憎悪の念が起こるのも、このご先祖様の記憶によるものだ、と言われましても、さすがに、にわかには信じがたい思いがいたします。


 とはいえ、そういった感情はどこから来るものか、どこから沸き起こるものか、疑問に思えば、ご先祖様からの記憶、それどころか、人間に進化する前の、もっと単純な生物の頃からの記憶によるものなのだ、と言われますと、あまりにも漠然としすぎて、雲をつかむ思いがいたします。ですが、聞いた話によりますと、成長する胎児の、成長変化する顔つきは、自分たちが進化してきた生物に酷似しておるそうで、こういった神秘、摩訶不思議は、やはりなかなか奥深いものがあります。



「早い話が、われわれが日常に経験する、ごく普通の感情の中にだって、そもそも感情だの認識だのというものは、これは個人の経験に属するものだ、だから、生まれたばかりの赤ん坊の心は白紙だ、などと言い出す妄論愚説では、とても解釈のつかない謎がずいぶんとある」



 そういえば、何かの動画かTVで、赤ちゃんに紙幣を渡せばにっこりと微笑んで、取り上げると泣き出す、というものがあった気がいたします。紙幣どころか、お金の概念すらまだ理解できないはずの赤児にも、やはり、何がしかの前世の記憶やらがあるのであろう、と考えるのも、無理からぬことでありましょう。


 そういえば、工事現場でも踏切でも、黄色と黒の模様を描きますが、あれは何かといえば、自然界に存在する、危険を知らせる色なのだそうですね。だから、ハチなどがあの黄色と黒の色をしておるのも、俺に近づくと怪我するぜ。という警告なのであります。


 そう考えますと、どうして、黄色と黒が、危険なのか。


 誰がそう決め、自然とそう成り立っていったのか。


 摩訶不思議であります。


 

「「本能」とか、「直観」とかいうような言葉は、古いままの意味では本当の意味をなさない、今後はよろしく別の意味に用いられなくてはならない、ということをわれわれに教えたのも、スペンサーであった。近代心理学の用語だと、「本能」とは「組織化された記憶」を意味する。記憶そのものが、「初期の本能」なのである。


 ――つまり、「本能」とは、生の連鎖において、次の時代の個人に遺伝される、印象の総量をいうのである」



 次代に、連綿と受け継がれるものが、そういった超個人的な感覚、感情の蓄積であるとするのなら、やはり、100年前の日本人は、最も優れた人生を生きていた。


 だとしたら何故、数千年、正しく生きてきた日本人が、たかだか100年でここまで変質してしまったのか。洗脳とは、げに恐ろしい。そして、次代の、子や孫の代に至れば、日本人はどう成り果ててしまうのであろうか。考えたくもない。

 

 少なくとも、おとなりのでかい国で「小皇帝」の子は、暴れる子グマ、「熊孩子(がいし)」と呼ばれているそうな。


 でも、まだ肉食だし、畜生男子よりは、まだましかぁ……。


 

「われわれよりも何百万年も昔の、単純な感情の単位から、人間のあらゆる感情と能力が築き上げられてきているということは、もはや疑いの余地がない。この点で、科学は、仏教と軌を同じうして、「(エゴー)」は合成されているものだということを認めているのである。そして、仏教と同じように、科学は現代の心の謎を、過去の心の経験で説明しているのである」



 科学的な研究結果と、仏教がもつ教えとは、不思議と一致する。


 こういうことは安岡先生もしっかりとおっしゃっておいででして、心ある人からすれば、100年も前から明らかになってきておったわけですね。たとえば、仏教の教えも身につけられた、張横渠先生の「天地心を立つと為す」というのは、天と地によってそこに単純な生命が生まれ、やがてそれらが何百万年という時を経て進化して、ついに心という高度な精神性をもつ生命体、人間を生み出したのだ、という東洋の古来からの思想に、ようやく科学的思考が追いついてきたのだ、と先生はおっしゃいます。

 

 むしろ、現代の状況を考慮すれば、西洋の科学のほうが、よほど東洋の真理、神秘に肉薄しておるのであって、そのうち、われわれ東洋人は、西洋人から「悟り」というものを学ぶ日が来るのかも知れません。



「目に一丁字もない大衆」



 意味が分からない人のために申しますと、目に一丁字もない、というのは、一文字も漢字を知らない、という程の意味であります。世界でも最も識字率の高いと言われた日本でも、自分の名も書けない、という人はおられたようで、寺の住職ですら一丁の字も知らない人がおったそうな。で、小僧に「おい、七はどうやって書くのだ」と聞いて、小僧が「十の下を右にはねるんですよ」笑っていうものだから「嘘つけ、左だろ」と、左にはねた、などというお話もあるそうな。



「中国の九星学ででっち上げた不思議な解釈」



 九星学、というのは易学の発展したものだそうでして、易学がそもそも膨大な量の統計学であるのですが、ハーンの時代にはまだ易学に関する学問と言いますか、解明が進んでいなかったのかも知れません。



「なるほど、日本の百姓が、自分の心を、仏教が考えるような、あるいは西洋の科学が実証するような、そんな複雑なものだと考えていないことは事実だ。けれども、日本の百姓は、自分というものは複合体だと考えている。自分の心の中に起こる善玉悪玉の争いは、自分の「我」を作り上げている、様々な魍魎(もうりょう)の意思がせめぎあうのだと解釈している」


 また、


「英語のsoul(霊魂)という言葉が、我々が了解するものとは違った意味に使われているからなのである。この文章を書いた学生の使った意味の「霊魂」とは、善悪二つの傾向をもったものが、無限に組み合わされているものを意味する」



 つまり、魂やら、我、心、そういうものを複合的、と呼ぶのは、いろいろな精神の葛藤や迷惑(迷い、惑うの方の意味)に心が揺れ動くことを指しているようであります。そういう広たい意味で使っているのであり、よく漫画やアニメで出てくる、心中の天使と悪魔のせめぎあい、というのを、総合して『心』としているのだ、ということですね。


 なるほどさらに、人間の魂は、ご先祖様の記憶やら欲望の葛藤やらの複合体、と言われれば、確かに間違いなく複合体でありますでしょう。



「――涅槃すなわち、最高の幸福は、自分のなかにある最も善いものを、自分のあとに残してゆくことによって、その境地に達しうるのだと考えている。であるから、日本人の信仰というものは、科学的な思考と対して懸隔のない、心霊の変化という、われわれの故国の一般人が抱いている、因習的な心霊観とあまり大差のない、自然な見解に基づいているようだ」



 涅槃とは、つまり、悟りに至ったものがゆく境地、世界、という意味であります。


 日本人にとっての涅槃とは、自分の善なるものを、自分の後に遺すことによって、その境地に達するのだと、考えている、と。


 自分さえよければそれでいい、などという浅ましい考えなのではなく、子孫に、あとに続く者たちに、自分の生きた、人生、生き方、思想を、その昇華、真髄を次代に残すのだ、受け継いでもらうのだ。


 命は、精神は、魂は、連続する、連絡することによって、子や孫という次代のみならずご先祖様からも連絡することによって、民族全体の、日本人全体の幸福と結びついているのだ。


 そういうことを永遠に考えられる人々であったのなら、間違いなく、幸せな民族であったことでしょう。



「東洋の思想生活において、数千年の間、広大な要素となっていたこの観念が、西洋では、今日に至るまでついに発達しなかったことは、西洋の神学によって十分に説明される」



 キリスト教における人生とは、最終的に、神の審判を受ける、という人生です。


 ○と出るか×とでるか、にすぎない人生であって、ご先祖様との連絡も、子孫へ向けた連続もない。実に個人的な、ぶつ切りの人生観しかない。そんな西洋人に、しかも、歴史的に色んな民族、種族の血が入り混じりまくった西洋人に、民族の伝統だの教えだの思想だのが、発達するという方が逆にすごいことでありまして、なにゆえ、日本人が偉大かといえば、島国による、ある意味ガラパゴス的な封鎖された環境に大きく依存している、と言わねばならないでしょう。


 また、



「けれども、西欧人の心に、前世の観念を絶対に受けつけさせないようにしたのは、神学の罪だというのには、これは正鵠を得た言い方ではない」



 としながらも、



「教条としては、余計な思索に締め出しを食わせ、異説を禁ずる役目を果たしたのであった」



 それを神学の罪だと言うのでは……(笑)。



「進化論の承認とともに、古い思想の形式はくつがえされ、新しい思想が擦り切れた教条に取って代わるべく、至るところに台頭してきた。そして、今日では、西欧においても、不思議と東洋哲学と並行した方向に、一般の知的運動が起こりつつある観を呈している。最近五十年間における科学の進歩の、空前の迅速と多岐他端とは、非科学者の間にも、同じように空前の知性の活発な発達を促すのに(やぶさ)かではなかった」



 哲学や、その哲学の一派であった科学が徐々に西洋において勃興し、大きな地位を占めるにあたり、頑迷固陋な教条主義、有無を言わせぬ押しつけ型の教会のありように、反撥が生じたのも無理からぬ事であり、フランス革命と軌を一にしてこういった古臭い権威に反旗を翻したのであります。


 それが無神論、唯物論、共産思考に流れていったのも、物事は極端に流れるものであり仕方のないことでありましょう。


 西洋人がそうなるのは、歴史の皮肉であり必然でもあるので、ご苦労さん、とでも言いたいところではあります。そういえば、ローマ教皇が進化論を是認したのは1996年のこと。なんですなぁ。



「「そそっかしい思想家なら、いざ知らず、元来が荒唐無稽だという理由で、それを排撃するものは一人もなくなるだろう。進化論そのものと同じように、輪廻説は実在の世界に根拠をもっている。従って、それは、類推による正論が、当然与えうる支持を要求することになるだろう(「進化と倫理」六一頁――一八九四年版)」」



 仏教思想が、世界的に普及するのも、それを否定する狭量なものも、やがてはいなくなってしまうだろう。


 心ある西洋人は、すでに未来を透徹していた。


 思わずして居住まいを正さねばならぬ思いがいたします。



「シーペンハウエルのいわゆる「生きんとする意思」に相当するもの、つまり「渇愛(タンヘー)」――生の欲望によって生み出されるのだと、仏陀は説いている」



 ちなみに、この渇愛の別の言葉が、「無明」であります。明かり無し。暗闇の中で、何の明かりも教えもなく、ただ本能的な、盲目的な「生きんとする意思」にのみ従い、盲信し、ただ生命を、寿命をすり減らす。


 この無明が、無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死という十二因縁の始まりであります。


 ただただ、盲目的な、生きたい、死にたくないという生存本能、生命の自然に流されるままであったものが、どうにかこうにか我、意識というものを持ち出し、五感に従って、欲やら得やらに飲み込まれ、生きて、そして老いては死んでゆく。


 それを打破せんがためにも、学ばなければならない。


 大昔も今も、本質は何も変わりません。



「今後、恐らく西洋の宗教観念に、過去にかつてなかったような全面的な修正を加え、西洋流の自己の概念を、東洋流の自己の概念に近いものに円熟させ、単に人格とか個性とかいうものだけで、世に存在するものと思っている、ケチ臭い今日の哲学的観念を、一掃するものだという推定を許すものこそ、こういう信仰を広く広げ、宇宙の感情を大きく広げてゆく、科学の闡明(せんめい)な傾向なのであろう。


 すでに科学が教えるような遺伝の事実を、一般人が了解するようになってきたということは、幾分なりとも、こうした変革が行われてゆくという道を指し示すものである。心霊の進化というこの大問題の上に、将来、論議の起こる場合には、一般知識人は、科学に手引をされて、最も抵抗の少ない道を進むことになるだろう」



 ハーンがもっとも、声を大にして言いたいところこそ、この部分であろう、とわたしは思うのであります。


 確かに、東洋人が、100年前の東洋人のままで、


 民族差別も、白人至上主義も消えてしまった世界線ならば、そういう理解も、ありえたのでしょうね。



「自己は複合体であるというはっきりとした信念、これは、一見、逆説的な言い方に思われるけれども、この信念こそ、多は一であり、生は渾一(こんいつ)(様々なものが融合すること)であり、有限なるものはなく、あるものはただ、無限のみという、もう一つ上の、大乗的な信念に到達する絶対必須の段階なのである」



 こういうことを理解するためにも、やはり東洋的な思想は欠かすことはできません。


 たとえば、仏教ではこう教えます。「心仏衆生是三無差別」と。


 わたしと、仏と、衆生、いろいろな人々は、これら三つは、結局、無差別なのだ。同一のものであり、その本質は同じなのだ。という教えです。これはやはり西洋では、なかんずく、キリスト教では絶対に起こり得ない思想です。


 デウスは絶対の創造主であり、造物主であります。それに対する人々はただの被造物にすぎません。作られた存在ごときが、作った存在と対等をきどるとは、何様であるか。というのがキリスト教的概念です。しかも、死んで後、裁かれるわけですから、裁判官と俺は同じ。などと、気が狂ってもそうそう言えそうにありません。


 ここにこそ、絶対にして唯一無二の神、という設定の無理を感じざるを得ないのであります。


 人を生んだ、創造した神と、裁く神が同じでは、いくら愛を説かれても、わたしは腑に落ちません。愛を語るその腹の中では、結局、冷徹に冷酷にこっちの行いを測ってやがるんだろう? という疑心暗鬼を取り去ることができませんから。


 せめて、仏様と閻魔様という風に、役割で別々にすべきでした。


 仏と閻魔は一緒。


 となってしまえば、そこに、己の全存在を捧げよう、己の全生命を捧げて仏の慈悲にすがろう、という気はなかなか起こせないものです。それこそ、カール・ヒルティのように、一切の疑心も疑念もなく、一心不乱に己の正しさを、全人生をもって証明できるだけの完璧なまでの人間でないと、これはなかなか厳しい。


 まあ、だからその厳しさを体現しようと、修道士、などというものまで現れたわけですけれども。それすら、歴史的には失敗した観がなきにしもあらずですが。 


 そんなことで、多は一、などという考えが起こるはずもない。


 また、神道的な考えでは、生者と死者は、実は同じであるという考えです。


 死者は、生者の目には見えないけれども、草葉の陰から見守っているのであり、ご先祖様は、子孫を守り、子孫はご先祖様をお祀りする。魂は断ち切られているのではなく、連続している、というのが神道的な考えです。そう考えるからこそ、イザナギは黄泉、黄泉平坂(よもつひらさか)をくぐって、イザナミに会いにゆけた。完全な別世界なら会いにいけなかったでしょう。しかも、死者であるイザナミに一緒に帰ろう、とも言えなかったと思います。


 仏教の教えと、神道の教えが不思議と融合し、しかも、古来、日本人は渡来の民を受け入れてきたわけです。異民族による侵攻、フン族だのゴート族だのゲルマン民族だの、モンゴル民族だの、異民族といえば紛争の種、などという歴史もあまりない、日本人ならでは和合の精神こそが、大乗的な信念に到達する絶対必須の精神なのでしょう。



「涅槃の教えが、公平な思索家の、厚い尊敬を失うことはありえない。科学は、既知の物質は心と同じく、進化の産物だということを、はっきり認めている。物質が、いわゆる「要素」――「いまだ分化せざる原始的形態の物質」から発展したという実証を、科学は発見した。


 この実証は、仏教の放射(エマネーション)まぼろし(イリュージョン)の教義に含まれている、ある真理の驚異的な暗示であって、――あらゆる形態の進化は無形から、物質的現象の進化は非物質的現象から起こったものであり、――そして、万物はその究極においては「欲情も悪意も倦怠もない状態――個性の刺激がもはや存在せず、ために『虚空』と名付けられている状態」に帰ってゆくことを、暗示しているのである」



 しかし、そう読みすすめて不思議に思うのが、前世、という考えを押し出し、涅槃や因果や輪廻という考えまでだしていながら、六道輪廻、という考えがあんまりなかったのが不思議な気がいたします。もっといいますと、善因善果悪因悪果、という因果応報、というものもあんまりなかった気がいたします。


 そもそも、なにゆえこうして人を生きておるのかと言えば、この、前世の因縁を超克して、輪廻を脱して仏に至る、もはや生まれ変わることもないし、生きることの苦しみを味わうこともない、という本当の救い、本当の安らぎを得んがために、苦界に身を置き、修行しているのだ、というのが、仏教の教えのはず。


 小乗仏教、というと、他はどうでもいいい、俺さえ仏になればいいのだ、といった塩梅で解釈しがちですが、しかし、言い方はどうであれ、どっちにしたって小乗仏教に収まらざるをえないのであります。畢竟、他人なんか救えやしないのです。


 イエスの弟子の中に裏切り者がいたように、孔子様の数多いる弟子も、孔子様の教えを理解できなかったように、全人類の師についていながらも、結局、人は、師を真似ることも追い越すこともできやしない。


 他者を救う、何ていうのは、ただの群盲像を撫でる、であって、事の本質を理解できているとは思えないものの独りよがりであって、この人生において救える他の生命なんて、あるはずがない。あったとしても、それはたまたま、と言わざるを得ない。


 ならば、とどのつまり、自分にできることを一生懸命やって、あとは、死んで、どうなるかを待つほかはない。


 この人生において、救えるのはただ、己のみ。


 ならば、まず、己を全力で救うのみ。


 その余力で、正しい教え、正しい生き方を他者に伝授することはできたとしても、その教えを他者が身に着けられるかどうかなど、気にしたって仕方ない。しょせん、自分は他者にはなれやしないのだから。


 そういう、小乗的人間が、数多集まって、少しはましな世を実現する他はない。


 そういう理解に至らざるを得ないのであります。ハーンのいう、「公平な思索家」が、せいぜいであろう、と思うのであります。


 そして、振り返ると、




「――つまり、「本能」とは、生の連鎖において、次の時代の個人に遺伝される、印象の総量をいうのである」




 小乗的考えが、次の次代に受け継がれるにあたって、大乗的思惟に至るのであります。


 次代に受け継がれるに値するほどの、人生を生きれば。



 といったところで、小泉八雲、ラフカディオ・ハーン『心』を○っと丸写す。今回はこれまで。


 したらば。



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