×草食男子 ○畜生男子
おこんばんはです。豊臣亨です。
夏がようやく終わったと思ったらすぐ冬、というのも「知ってた」と言いたくなりますがそれでも何かいらつく今日このごろ。地球温暖化の影響をもろにうけた凶悪な台風のせいで列島が激甚な被害を受けております。
経済最優先で、地球がどうなろうと知ったこっちゃねぇで今日までやってきたのですから、ある意味自業自得、因果応報ではありますが、いつの世も被害を受けるのは弱者のみ。
庶民にも、せめて正しい道徳や倫理の教え、心を律する信仰でもあればいいのですが、それすらない。
学問も、道徳も倫理も、思想も哲学も、信念も誇りも、信仰すらもない。それで、天に見放されたかのごとく、空からも大地からもひっきりなしに天災に見舞われる。ありがたいことに科学やら医学やらのおかげで、無理矢理にでも生きねばならないが、その生存すらおぼつかない現代。本当に江戸時代より昔から生きやすい時代になったのでしょうかね。
さて。
昨今、スマホやらドライブレコーダーやらの増加で、確かに精神異常者の大増殖を確認できる世の中になりました。
ネットなどをみておれば、ある意味否応なしにこういった精神異常者を目にせざるを得ない日常となった、と言うべきでしょうか。
しかし、こういった精神異常者が日常化しているのも呆れますが、何が驚愕に値するって、こういう精神異常者からの被害者のありようにこそ、慄然たらざるを得ません。
この前の、あおり運転の精神異常者に、ぼっこぼこに殴られたドライバー。
確か、わたしの記憶ではあの被害者はぼっこぼこに殴られたあと、いて~、ってな感じで血でも出てないか、とバックミラーを見ていたと思います。
わたしにはそれが信じられない。
日本男子として、大和おのことして、あそこまで殴られて怒らないものなのであろうか。
どこの馬の骨とも知れぬ糞虫にあそこまで暴力を振るわれて、何も感じないものなのであろうか。恐怖しか感じなかったのであろうか。日常的に暴力もストレスもない人生を生きていて、突然の衝撃に憮然としてしまったのであろうか。
それとも何か。ガンジーじこみの「徹底的非暴力主義者」だとでも言うのでしょうか。
被害者がどういう精神構造の人物なのか、わたしに分かるわけもありませんが、
もし、
わたしがあの状況下だったら、まあ、あそこで窓を開ける、という選択肢からしてありえないわけですが、それでも窓をガンガン殴ってきたら、すかさずドアを蹴っ飛ばしてやりますね。
そして、糞虫に向かって、最終的に勝てるか負けるかはどうでもいい。殺すつもりで殴りかかって行きます。
もしくは、奥さんが横に座っていなかったら、糞虫が車に乗り込んだ瞬間、フルスロットルで運転席めがけて突っ込んでいたことでしょう。
攻撃されたら反撃する。
生命体として当たり前のことをなすだけであります。
昨今、こういった精神異常者の、突発的にして短兵急な加害行動に唖然となってしまうのは、平和というぬるま湯に浸って慣れきってしまった日本人には、すかさず反撃に転ずることも撃退できぬのも、わかることではあります。ですが、この間は、学校の教師同士でもいじめがあって、激辛カレーを無理矢理口に突っ込まれて、辛いのは嫌いですぅ~、と泣きべそをかいていた動画まで流れるに至っては、もはや、加害者以上に、被害者にこそ、わたしは正気を疑わざるを得ません。
お前、金玉ついとるのか?
と言わざるを得ない。
いつ頃からか、草食男子、が人口に膾炙して幾年も経ちましたが、もはやこんな表現ですら生ぬるいのだと言うことを実感いたしました。痛感した、とも言える。それが、表題の一文です。もはや、
草食男子から、
草食動物男子、
家畜男子、
畜生男子、
にまで劣化してしまったのでありましょう。
もはや、精神異常者にどんな加害をされても、どんなひどい目に合わされても、ただ泣きべそかいているだけの存在にまで成り果ててしまった。屠殺されても文句も言えない、ただの経済動物にまで成り果ててしまったというわけです。
大和男子がよもや、ここまでの存在に成り果ててしまうとは。
だから、そういう意味においては、「乱暴者」のジャイアンは、実は「いじめっ子」ではない。
何故なら、「いじめられっ子」の筆頭たるべきのび太がただただいじめられるだけの日々に忍従しないから。時至ればすなわち「復讐」するから、に他ならない。
もちろん、ドラえもんの道具に頼った復讐ではありますが、しかし、自分よりはるかに腕力も、上背も、迫力もある存在に向かって、果敢に挑みかかるという精神性を、のび太は持ち合わせているのであります。
自分の無事、平和、安寧をおびやかす存在に向かって、のび太は、
怒り、
憤り、
憎み、
復讐する、という実力行使にうってでることのできる存在なのであります。
自身の、人間としての誇りを踏みにじり、尊厳をないがしろにし、人格を否定してくる存在に対し、力のないものはないものなりに反撃に出る、復讐を果たすのであります。
だから、ジャイアンは常日頃のび太に対して暴力も振るうし、物を奪ったりしますが、しかし、決していじめっ子にはなりえないのはそこにこそ理由があるわけです。
攻撃に対して果敢に反撃してくる存在を、ねちねちといじめられるわけがない。そんなことを日常的にすれば、ドラえもんという強力な助っ人の力を借りてどんな復讐をしてくるかわからぬ、という一定以上の精神的ブレーキがかかるはずなのであります。
この、一定の精神的ブレーキ、こそが罪と罰、wikiを調べて出てきた言葉を鵜呑みに使えば、「目的刑論」ということになるわけですが、罪を犯せば、それに対する罰がある。これがあるからこそ、人は罪を犯すことをためらうわけですが、この教師連中のいじめともなれば、この罪と罰、という概念すら起こり得ない。
いじめられっ子が、抵抗もしないし、反撃もしないし、復讐など考えもしない。
むしろ、泣きべそをかく、という、いじめっ子にとってまさしく蜜の味、とも言える反応をしてくれるのだから、笑いが止まるわけがない。もっといえば、え? もっとやってほしいの?w と言いたくなるに決まっている。あの状況で、加害者の側に自分もいれば、もしかすると激辛カレーを口に放り込んでやっていたかも知れないでしょう。まさしく、絵に描いたような理想的な「いじめられっ子」なわけですから。こんなにウケる生物はこの地球上でもそうそういない。
こういう畜生男子は、もはや未来永劫成長しないキャラである、のび太以下の存在である、と言って決して過言ではありません。人間として、生命体として、当たり前の、ないわけがない、怒りも憤りも感じぬ、反撃も復讐もしない、ウサギと同程度の畜生なのですから。
いじめられようが、殴られようが、蹴られようが、殺されようが、激辛カレーを口に放り込まれようが、無抵抗なお前が悪い。
と、わたしならきっぱりと言い切ります。
ちょいちょい、いじめられっ子にも原因がある、といいますが、今回の一件はまさしく、被害者自身が招いた状況、と断罪せざるを得ないでしょう。
この一件によって、加害者はもちろん罰を受けますが、被害者だって玉無し能無し、のレッテルを張られ、恐らく一生剥がれることはないのでしょうから。
いくら、いい年こいた教師が、複数人で寄ってたかって新人をいじめていたといったって、その気になれば一発殴ればいいだけなのです。それが問題になろうが、何だというのか。
こっちに絶対の非があるのならともかく、理非明白に自分が悪いという状況であるのならともかく、あそこまで人格を蹂躙され、人間性を叩き壊され、ゴミのような扱いを受けて、それで反撃しないのなら男として存在する価値を感じぬ。良いとか悪いとか、常識とか理性とか、法律とか秩序とか、そんな理屈などどうでもいい。
己がこの世に生を受け、一個の生命体として胸を張って、二本の足を以ってこの大地をしっかと踏みしめて生きるのならば、尊厳を、誇りを、人格を、日々の安寧を、ここまで踏みにじられて、黙っていられるはずがない。黙っているに方こそ非がある。
窮鼠猫を噛む、の言葉通り、どんな存在にだって生存に対する渇望があり、生に対する執着があるものなのです。
今こそ日本人は、
攻撃されたら反撃する、
という、原始的で、野蛮で、短絡的な、
生命体として当たり前の反射行動を取り戻すべきでありましょう。
いえ、否定したいのならお好きにどうぞ。
戦後日本は、
江戸時代の日本人には常識的にあった、儒教や仏教による、学問も、信仰も、道徳倫理も、正邪に対する感性も、すべてをかなぐり捨て、米国によって遺伝子レベルまで汚染され、金儲け第一主義でやってきました。それで、休みともなれば、バカンスだレジャーだ、観光だ娯楽だ、美食だスポーツだと日々の放縦安逸を貪ることしか考えてこなかったわけです。
それで、どうやってまともな人間が育つと思っておるわけですか? その真逆で、精神異常者が無制限に増える社会制度を、きっちり整えたわけでしょう?
それとも、精神異常者にとって楽園とも言える国を作っておいて、警察だの司法だのに期待するわけですか?
被害者は泣き寝入りし、加害者は高笑いする。日本の司法が、罪と罰をどのように取り扱っていますか?
この完璧に整えられた社会基盤によって、日々大量生産される精神異常者は、あなた方のクソの役にも立たない常識をあっさりぶち壊して、
あなた自身を、あなたの家族を、何のためらいもなく害しに来ますよ。
あなた方が、何もしないから。