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『心』~日本の内面生活の暗示と影響~ ラフカディオ・ハーンを読む。<二>

10/18 誤字訂正



 おこんばんはです。豊臣亨です。


 それでは、ラフカディオ・ハーンが見た日本。『心』を丸移すシリーズのその二。


 一章? 一節? の題名は、




ある保守主義者




 なのですが、この一章・節でハーンの思想の精髄を味わえる。『心』の中心をなす文章ではないかと思います。ハーンの言いたいことはこの一章・節を味わえばよい、とまで言っても良いのではないかと思うほどです。まあもっとも、これより後にも興味深い思想を伺うことができるので、それについては今後の丸写しの方で。


 これは、とある侍のお話なのですが、人様のブログによると、モデルは「雨森信成」という武士のご様子です。


 ということで、この雨森さんを例によって例のごとくwikiで見ますと、雨森信成(あまもりのぶしげ)1858年~1906年。


 福井藩で松原家の次男として生を受け、藩主松平春嶽の招聘によってグリフィスという教師が赴任してきた明新館という藩校で学んだとか。その後、縁によって宣教師になる。やがて欧州や米国と諸国を巡った時にキリスト教に失望し教えを棄てたとか。帰国後、何と、横浜のグランドホテルでクリーニング店を営んだ、でwikiは終わってます。


 武士としてエリート街道まっしぐらの人物の最後にしては、何ともいえない最後のような気がします。


 また、キリスト教を棄てたことによってハーンとも親友として親交を結んだとか。


 さて、本文を読みすすみますと、本文の記述とwikiの記述が違うような気がしまうし、人様のブログによるとこの岩波文庫版は誤訳があるそうですが、そういわれましても正しいといわれる本を取り寄せる気も起こらない(笑)。まあ、とりあえず鬼の丸写し、いってみませう。




「彼は、内地のある都会に生まれた。そこは三十万石の大名の城下で、かつて外国人などのきたことのない土地だった。高禄の士分だった父の屋敷は、領主の居城を巡らす外濠のうちにあった。屋敷はずいぶん広く、その広い屋敷の後ろと回りには、風致のある庭があり、庭の片隅には、いくさ神を祀った小さな祠があった。


 今から四十年ほど前には、こういう屋敷がたくさんあったものである。今は数少なくなった、こうした昔の名残の屋敷は、芸術家の目からすると、あたかも天人の宮居のように見え、その庭園は、仏家のいう極楽の(その)のように見える。


 昔は、侍の子息といえば、じつに厳格なしつけをうけたものであった。わたくしが、これからここに書こうとする人物も、そういう侍の子息の一人であるが、彼なども、年若い頃には、若者にありがちな空想にふける時間の暇など、まったくなかったものである。父母の撫育をうける期間なども、可哀相なくらい、短いものであった。


 はじめて、はかまを履かされる、袴着の式――これは当時の大礼であるが、それさえもまだしないうちから、柔弱な感化は、できるだけ遠ざけるようにしつけられたのである。子供心に、あれがしたい、これがしたいというような、いたいけ盛りのやむにやまれぬ衝動は、無理にも抑えこらえるように教え込まえたものである。家の中で、母の側にいられる間は、思う様母に甘えかかってもいられるけれども、その母につれられて、表を一緒に歩いているところでも見つけられたら最後、「おのし、まだ乳をのんでいるのか」と言って、小さな遊び朋輩から、たちまちかわかわれてしまう。


 しかも、母の膝下にいられる時間と言っても、決してそれは長いものではなかった。すべて情弱な遊戯娯楽は、訓育上、厳禁されている。病みわずらいの時は別として、普段は、暖衣飽食は断じて許されない。一人前に口がきけだす頃から、早くも、忠順恭敬を生存の指針と心得、克己を己れが振る舞いの第一義と定め、艱苦と死とは、一身にとって鵞毛(がもう)(ガチョウの羽毛)よりもなお軽いものと考えるように、しこまれるのである。


 家庭にあって、一家のものが一間のうちに歓語談笑しているおりは別として、青年期の間は、片時も手をゆるめることなく冷酷な厳しさを養いしいる、このスパルタ的訓練には、まだまだ、それよりもなおいっそう残忍な一面があった。男の子は、血を見る訓練を受けるのである。


 死刑の執行があると、その検分に引き出されて行くのであるが、その場にのぞんで、顔色一つ動かしてはならぬとされてある。そして、家に戻ると、梅干しの汁をまぜて血の色に染めた赤飯をたらふく食わされて、胸の奥にわだかまっている恐怖の念を、無理矢理吹き飛ばしてしまうように仕向けられるのである。


 そうかと思うと、さらにそれよりも難しいことが、まだごく年のいかない子供に要求されることがある。――たとえば、真夜中にたった一人で刑場へ行って、肝試しに生首を持って帰ってくる。これはつまり、侍の間では、死者を怖れることは生きている人間を怖れるのと同じく、非常な恥辱と考えられていたからである。


 いやしくも、侍の子たるものは、何物をも怖れぬという、しかとした証拠を見せなければならないのだ。しかも、そういう証拠を見せる場合に、侍の子が強要される態度は、徹頭徹尾、冷静そのものでなければならない。付け焼き刃の空威張りのごときは、ごく些細な臆病な振る舞いと同様に、厳しく処断されたものであった。


 男の子が、次第に年長じると、娯楽は主として、武士たるものが年少の頃から、いざ戦場というときのために、不断の備えを怠らずにいる体力の訓練、――たとえば、弓術、馬術、柔術、剣術などに、求めなければならなくなってくる。その頃になると、いくたりかの遊び朋輩が選定される。遊び朋輩といっても、これは年齢から言えば、当人よりいくつか年上の、身分柄からいえば、父の家来の子弟たちであって、いずれも武芸の稽古を補導できるだけの腕前をもったものが選ばれるのである。


 こういう遊び朋輩は、水練とか、船の漕ぎ方などまで、主人の御曹子に教えさずけ、未熟な筋力を鍛え上げてやらなければならない義務がある。弱年者の一日の大部分は、こうした体験と、それから、中国の経書の勉強とに分けられている。一日三度の食事は、量こそ多いけれども、決して美食ではない。衣服なども、何か折り目だった儀式の時はいざ知らず、平素は極めて薄着で、かつ、粗服である。


 そのくせ、暖をとる目的の火気は、絶対に使用を禁じられている。冬の朝など、稽古のおりに、手先が凍えて筆の持てないことがある。そういう時には、氷のような冷水の中に手を突っ込んで、それで血行をよくしろと言われる。厳しい寒さに、足がしびれて、感じがなくなってしまうような時には、裸足で雪の中を駆け回って、それで足を温めろと言われるのである。


 さらに、武家特有の礼儀作法に至っては、特に一層厳格であった。腰にたばさんでいる脇差は、伊達やもてあそびの品ではない。そういうことは、子供のうちから堅く教え込まれている。その脇差の使い方とか、あるいはまた、武士の掟がこうと命ずるおりには、どうしたら遅疑するとこなく、我が一命を即座に断つことができるかとか、そういうことを、平素おりにふれて、いちいち実証をもって見せられるのである。


 さらにまた、宗教の問題に関しても、侍の子の教育には、おのずからそこに特殊なものがあったものである。まず第一に、古代の神々と、祖先の霊とをあがめることを教え込まれる。次に、中国の経書を習わせられる。それから、仏教の哲理の教義について、何がしかのことを教えられる。


 が、それと一緒に、仏教の方で言う極楽浄土を願い、地獄を怖れるあの教えは、あれはただ無知なる凡夫匹婦に教えるたとえ話にすぎないもので、いやしくも人の上に立つほどのものは、すべからく私心を滅し、正義のために正義を愛し、人間の道としての己れの本分を悟って、行いを正して行かなければならない、ということを教え込まれるのである。


 さて、年ようやく熟して、おいおい少年期から青年期に移るころになると、今までのように、身の行状を一から十まで厳しく監督されることは、次第に少なくなってくる。その頃になると、もはや自分の判断で行動するぐらいの自由は許されてくる。もっともこれは、自分の犯したあやまちは断じて許されぬもの、重い(とが)は絶対に許さぬもの、また、人から理非明白な譴責(けんせき)を受けることは、死ぬことよりも怖れなければならぬ、――こういう条理を十分に心得た上でのことである。そのかわり、一面から言えば、普通の青年が警戒すべきような道徳上の危険は、青年武士にははなはだ少なかった。


 というのは、遊女・娼妓の類は、当時地方の城下町では、どこでもたいがい法度(はっと)になっていたものだし、また、草双紙や芝居などに出てくるような、淫靡な市井の俗事にも、若い侍たちは何ひとつ通じていなかった。惰弱な人情やみだらな恋情に訴える小説稗史(はいし)(稗史も小説の類)の類は、男子の読むべからざるものとして擯斥(ひんせき)(排斥と同じ)するように教え込まれていたし、芝居見物も武家階級には禁じられていたのである。


 こういうわけであるから、古い日本の素朴な地方生活の中にあっては、若い人たちは、実に異例な純心純情の人間に生い立つことができたのである。


 筆者が、ここに描こうとする若い青年武士も、やはり、このようにして生い立った。――怖れるものは何ひとつなく、しかも礼節に厚く、克己心に富み、快楽を軽侮し、信愛と忠節と大義名分のためなら、いついかなる場合にも、たちどころに一命を捨てることを辞さない男に成人したのである。しかし、そういう彼は、その体格と心構えの点では、すでに一角の武士ではあったけれども、年齢からいえば、ほとんどまだ一介の少年にすぎなかった。


 ちょうど、その頃のことであった。この国が、初めて黒船来航にあって、国を挙げて驚天動地したのは」







「海外に渡航するものは死刑に処すべし、という布令を出した将軍家光の施政は、二百年の長い間、日本の国民を海外の事情に関して、まったくの無知蒙昧の状態においた。海の彼方に、隆々と力を備えつつあった強大な列国については、何ひとつとして知られているものがなかった。


 長崎には蘭人の居留地が長らく存在していたけれども、それすらが、日本の本当の地位――十六世紀風の東洋の封建制度が、三百年の先進国たる西欧の世界に脅かされているという、自国の状態については、何ひとつ、啓蒙するものがなかったのである。


 その西欧の世界の驚歎すべき実情は、いくら話して聞かせたところで、当時の日本人の耳には、すべて子供だましの作り話にしか聞こえなかったろうし、恐らく、蓬莱宮の昔ばなしと同列にしか考えられなかったに違いない。いわゆる「黒船」と呼ばれたアメリカ艦隊の来航があって、幕府はここにはじめて、自国の防備に手薄なことと外患の切迫とに、驚きの目を覚ましたのであった。


 やがて、第二次の黒船来航の報が伝わった時の国民の興奮は、まもなく、幕府には外国と戦戈を交えるだけの武力がないと、将軍自らが洩らしたという暴露によって、驚愕と狼狽の恐ろしい淵に立たされたのであった。これは、北条時宗の時の蒙古襲来よりも、さらに大きな国難を意味するものに他ならなかった。


 蒙古襲来の時には、天佑を神冥に念じ、時の天子も親しく伊勢大廟に詣でて、祖先の遺霊に国土の安泰を請うたのであった。幸いにして、その祈念は聴き届けられ、天地晦朦(かいもう)霹靂(へきれき)一閃、吹き起こる神風によって、忽必烈(くびらい)の艦隊はことごとく海底の藻屑となってしまったのであった。それほどであるから、今度の時も、もちろん、天佑神助を請う祈祷がささげられないはずはなかった。事実、無慮幾十万の家庭、幾千の神社では、さかんな祈祷があげられた。ところが、この度は、神々の感応もなく、神風も吹き起こらなかった。この話の主人公である少年武士も、父の邸内にある八幡の小さな祠の前に、一心こめて祈祷をささげたけれども、神々もついに神力を失いたもうたのか、それとも黒船の異人どもは、我らの神々よりもさらに強い神々に擁護されているのかと、彼は不審の念を起こしたものであった」







「ほどなく、夷狄は撃退されぬことになったということが、明らかになった。夷狄は、西からも、東からも、何百人となくこの国に入り込んできた。そして、彼らを保護する、ありとあらゆる手段が講ぜられた。やがて、彼らは、日本の国土に、彼ら自身の珍妙な市街を建設した。幕府は、全国の藩校・私塾に、洋学を学ぶべきこと、英語の習得は、一般国民教育の重要課程たるべきこと、また国民教育そのものも、西洋流に改革せらるべき旨を発令した。


 幕府はまた、日本の将来は、外国語と西欧科学の研究練磨によるところが多いことを宣言した。そうなると、つまりこれらの研究が実を挙げて、よい結果をもたらすまでの間は、日本は事実上、外国人の支配下におかれる、ということになるわけである。もちろん、実際は、この通りに宣言されたわけではなかったけれども、しかし、いずれにしろ、その政策の意味するところは明白であった。


 こうした実情がわからなかったために、はじめにまず猛烈な物議が巻き起こった。国民は大いに意気沮喪し、武士たちは歯を食いしばり、腕を扼して悲憤慷慨した。が、やがてそれもやや下火になると、今度は強い好奇心が沸き起こってきた。それは、ただ優位な武力をみせたというだけで、欲しい物は何でも片っ端から手に入れて行った、無礼きわまる異邦人の、魁偉な容貌と性格とに対する好奇心であった。国民の誰もが抱いた好奇心は、夷狄の風俗・習慣や居留地の偉容な街路のさまを絵に描いた、安い色刷り版画のおびただしい板行と弘布とによって、どうやら一時は満たされたような具合であった。


 これらのけばけばしい、俗悪な木版画は、外国人の目には、一種の風刺画としか見えなかったが、しかし、それを描いた画工の目的は、決して風刺画を描こうと目指したものではなかったのである。画工は、実際に、自分の目に映った通りの外人を描こうとしたのであるが、その画工の目に映った外人というのは、猩々(しょうじょう)のような赤い髪の毛をはやした、天狗のように鼻の高い、妙な形と色合いの服を着た、牢屋か土蔵のような建物のなかに住んでいる、青い目玉をした化け物だったのである。


 国内だけで、何千何万と売れたこれらの版画は、ずいぶん津々浦々にまで、奇怪な、薄気味悪い思いを植え付けたものに違いない。しかし、今まで見なれなかったものを、何とかして絵に描きあらわそうとした試みとしては、これは決して悪意をもったものではなかった。われわれ西欧人が、当時の日本人の目に、どういうふうに映ったか、――いかにも醜悪に、いかに奇怪に、いかに滑稽に見えたか、それを知ろうと思ったら、是非とも、これらの古い版画を研究してみるのがいい。


 かの城下の若者たちも、その後まもなく、西洋人を見る機会を得たのである。彼らが見た西洋人というのは、藩校が彼らのために召し抱えた、お雇い教師であった。その外人は、英国人であった。この外人教師は、一人の藩兵に護衛されてやってきた。そして、藩侯からは、彼を名士として遇せよ、という(じょう)(命令)が下った。この外人教師は、例の木版画の異人みたいに、あれほど醜悪なものでもなかった。


 なるほど、髪の毛は赤かったし、目の色も違っていたけれども、顔はそう嫌な顔ではなかった。来るとすぐに、この外人教師は、周囲のものの倦まざる観察の的となり、しかも、しばらく時たったのちになっても、依然としてそうだった。彼の一挙一動が、どのくらい衆人の環視にあったか、それは明治以前のこの国の、西洋人に関する不思議な迷信を知らない人には、ちょっと想像もつくまい。


 どういうのかというと、西洋人というものは、何でも恐ろしく智慧のある、雲突くような大きな生き物だ、ということは分かっているものの、一般には、自分たちと同じ普通の人間とは、考えられていなかったのである。人間よりも、どちらかというと、けだものに近いものだと考えられていたのである。身体は毛深いし、妙な格好はしているし、歯も人間の歯とは違っていて、内臓などもぜんぜん、特別できになっているし、奴らの道徳観念などは、まず化け物の道徳観念だぐらいに考えられていたものなのである。


 侍は、さすがにそれほどでもなかったけれども、当時の一般人が外人を見て怖れたのは、あれは実は形を見て怖がったのではなくて、一種の迷信から来た恐怖だったのである。日本人は、元来、百姓でも、決して臆病ではない。当時の日本の庶民が、外国人に対して抱いた感情を知るためには、まず日本と中国の両国に、昔から共通に信じられていた古い信仰を、多少でも知っておく必要がある。


 それは、ある超自然の力を天から賦与されていて、いつ何時でも人間の形になることのできる動物、または、神人というようなものの存在、でなければ、よく昔の絵双紙などに出てくる、荒唐無稽な動物、――よく怪談の挿絵に描かれたり、北斎の漫画に描かれたりしているような、足が長くて、手が長く、そして長い髯のはえている怪物(足長手長)、そういう奇怪なものに対する信仰である。


 実際、新しくきた外人の容貌は、中国のヘロダトス(チャイナのヘロドトス??)によって語られた架空談に、確証を与えるもののように考えられていたし、その外人の着ている衣服は、彼らの人間離れした身体の部分を隠すために、考察されたもののように思われていたのである。そういうわけで、新来の英国人の教師も、当人は幸い、そういう事実は知らずにいたけれども、やはり一種の珍獣でも見るような態度で、密かに周囲から観察されていたのである。


 もっとも、そういう彼も、生徒たちからは、もっぱら丁重に遇されていた。生徒たちは、「師の影を踏まず」と教えてある、中国の経書の教えに従って、彼らの師を遇したのである。侍の生徒たちにとっては、いやしくも、相手が物を教えてくれる人であれば、それが五体備わった人間であろうがあるまいが、そんなことは、さして問題ではなかった。義経は天狗から剣術を習ったのである。人間でないものが、学者であり、詩人であったためしさえある。


 しかし、とにかく、慇懃(いんぎん)な礼節の仮面は片時もこれを脱ぐことをせずに、かの外人教師の習癖は、彼ら若者たちによって綿密に観察されていたのである。しかも、そうした観察を、彼ら同志、お互いに比較しあって、最後に出来上がった判断というのは、はなはだもってかんばしくないものであった。もっとも、教師自身は、両刀ぶっこんだ自分の生徒たちから、どんな批評が自分に下されているか、そんなことは夢にも想像していなかった。教室で、英作文の監督をしている最中に、次のような会話が交わされていると知ったら、先生だって、あまりのんびりした心持ちではいられなかったに違いない。


「おい、あの肉の色を見い。いやにぶよぶよしちょるのう。あんな首はひと打ちで、造作なく、落ちるがな」


 ある時、その教師は、生徒たちから、先生、相撲をとりましょうといわれて、相撲のとり方を教えられたことがある。教師は、それをただの冗談遊びだろうと思っていた。ところが、実は、それは教師の膂力を量るためにした企てだったのである。もちろん、教師はその時、力士として高く買われなかったことは、言うまでもない。


 一人の生徒が言った。


「なるほど、腕は確かに強い。しかし、腕を使いながら、一緒に(たい)を使うことを知らんぞ。腰はばかに弱い。あんなもの、おっぽり出すの、わけないぞ」


 すると、他の一人が言った。


「外国人と戦うのは、俺は楽だと思うがな」


 三人目のが答えた。


「そりゃ真剣勝負なら、造作なかろう。しかし、奴らは、鉄砲や大砲の使い方は、俺たちより上手だて」


 最初の生徒がいった。


「俺たちだって、上手になれるさ。西洋の兵法を習ってしまえば、洋兵何ぞ恐るるに足らんやじゃ」


 他の一人がいった。


「毛唐は、俺たちのように。頑健じゃないのう。奴ら、すぐに疲れよる。それに寒がり坊じゃ。われわれの先生も、冬は、部屋にかんかん火を起こしておく。あんな中に五分もいたら、こっちゃ頭痛がしてかなわんぞ」


 しかし、こういうことは色々あったけれども、若者たちは、教師に対しては、実によく親切に尽くしたから、いきおい、教師の方でも、生徒たちのことは愛した」







「まもなく、何の予告もなく、大地震のような大事変がやってきた。藩制が群県制にかわる。武士階級は廃止になる。社会組織全体にわたる、一大改革がやってきたのである。例の青年武士なども、一身の忠勤を藩公から天皇に移すことには、格別さしたる異議も感じなかったし、それに一家の資産も、この一大打撃のために、格別の損傷も受けなかったが、それにしても、これらの出来事は、やはり彼の心を深い悲歎に沈めた。


 維新は、彼に、国家の危機の大いなることを告げ、また、古くからある高邁な理想と、今まで鍾愛(しょうあい)(寵愛とほぼ同じ)してきたものの一切は、ついに跡を断つに至るであろう、ということを知らしめた。しかし、今さらそれを悔やんでみたところで、どうなるものでもないことも、彼はよく知っていた。国民は、ただ、各自めいめいの自己改革によってのみ、自分たちの独立を救えるという希望が持てる。国を愛するものの明らかな義務は、このことの必要を認め、男子として、将来の舞台に大きな活躍を演ずるために、今から適当に力を養っておくことにある。


 彼は、藩校で、英語を大いに学んで、どうやら英人と会話を交えることができるという自信を得た。やがて長い(たぶさ)(単純に、マゲ)を切り、両刀を捨てて、さらに有利な条件のもとに、英語の勉学を受けるべく、横浜へ出ていった。横浜では、初めは何もかもが、目にも耳にも慣れないものずくめで、何となく反撥を感ずるような気がした。開港場の日本人は、外国人との接触で、だいぶ変わってしまった。誰も彼も、野卑で、荒っぽくて、彼の郷里などでは、町人でも使わないような言葉遣いや振る舞いを、平気でやっている。


 外人はというと、これはまた、それよりも一層不愉快な印象を受けた。ちょうどその当時は、新しい居留民が被征服者に対する征服者の態度をとっていた時期で、開港場の生活は、こんにちよりもずっと品が落ちていた。煉瓦造りや、漆喰で塗り固めた木造の建物は、例の異人の風俗を彩色版にした木版画のいやな思い出を、彼に思い起こさせた。


 そういう彼は、西洋人に関する自分の少年時代の空想を、ちょっとやそっとではなかなか払いのけることができなかった。あの時分から見れば、知識も多少は広くなっていたし、見聞も積んでいたし、そういう知識と見聞を土台にした彼の理性は、外人がどんなものであるかということは、十分に分かっているつもりであったのに、感情の上からは、彼らも自分たちと同じ人間だという観念が、どうも胸にしっくりこないのであった。


 いったい、人種的感情というやつは、知性の発達よりも、はるかに古いものであるだけに、この人種的感情に伴う迷妄というやつは、なかなか牢固として抜き難いものがある。そこへもってきて、彼には武士魂があった。これが時々、醜悪なことを見たり、聞いたりすると、むくむくむくれ上がってくる。悪いやつは()め直してやり、卑怯なやつは懲らしめてやるという、父祖伝来のたぎり立った血が流れているから、何かというと、ことごとくに胸糞の悪くなるようなことにぶつかる。


 しかし、こういう感情は、知識の妨害物だと思って、なるべく彼は、こうした反感を自分で克服するようにつとめた。真に国を愛する者のつとめは、自国に仇なすものの本性を、虚心坦懐な心持ちできわめることにあると思ったからである。そのおかげで、彼はようやくのことで、自分の周囲の新しい生活を、偏見なしに、――欠点とおもに美点を、短所とともに長所を観察するように、自分を訓練した。そこから、彼は友愛を見出した。理想に対する熱意を見出した。――その理想は、自分のもっている理想とは違っていたが、ちょうど先祖伝来の信仰と同じように、理想もまた、いくたの戒律を強要するものであるから、その点でも尊重すべきものだ、ということを知ったのである。


 このような認識から、やがて彼は、この国に来て教育と伝道の仕事に没頭している、ある外人の老宣教師を信愛するようになった。この老宣教師は、武家出の年若い彼を見て、非凡な資質をそこに見出し、ぜひ何とかして、彼を改宗させたいものだと思って、この青年の信頼を博するためには、自から犬馬の労を取ることをも惜しまなかった。老宣教師は、何かと彼を援助して、フランス語、ドイツ語、ギリシャ語、ラテン語などを、少しづつ教えるほか、蔵書の数も相当多方面に渡っている自分の書庫を、ことごとく彼のために開放して、自由に閲覧を許してくれた。


 歴史、哲学、紀行、小説などの書物を蔵している、こうした外人の書庫へ、自由に出入りができるということは、当時の日本の書生にすれば、そうたやすく得られる特権ではなかった。彼は、心から感謝した。そんなわけで、この書庫の持ち主は、その後まもなくこの秘蔵弟子に、「新約聖書」の一部を読ませることに、何の苦もなく成功した。青年は、このいわゆる「邪宗」の教義のなかに、孔子の所説とよく似た教訓を見つけて、今さらのように驚いた。そして、老宣教師に言った」


「この教えは、僕らには、珍しいものではありませんね。しかし、確かに、これはよい教えです。僕も、これからこの本を勉強して、よく考えてみることにしましょう」






 

「聖書の研究と思索とは、初めに考えていたよりも、はるかに青年を深入りさせた。キリスト教は偉大な宗教だ、ということに気がついてから、さらに別の体系のことも分かってくると、今度は、そのキリスト教を信奉する諸民族の文明に関する、色々の想像が起こってきた。当時、多くの自省に富む日本人には、――いや、恐らく、国政を指導する尖鋭な人たちにしても、そうだったろうと思うが、彼らには、日本の国はしょせん外国人の統治下に移ろうとする運命を荷なっているものと思われていたのである。


 従って、そこには、せめてもの希望があった、そして、一縷の希望でも、そこに残っている限り、日本国民たるの義務は明白であった、しかし、日本に対して圧力を加えてくる外敵の力には、今の所、とうてい抵抗すべくもない。敵の力の強大さを色々と研究しながら、この若い東洋人は、その力が、どこからどういうふうにして得られたものであるかを考え、恐怖に近い驚歎をもって、自ら怪しむ他なかった。


 老宣教師が断言したように、それは高度の信仰に、何か玄妙な関係があるのであろうか。国家の繁栄は、天道を遵守し、聖賢の教えに従う国民の恒心に正比例する、と説く中国の古代哲学は、なるほど、老宣教師の所説を裏書きしている。そうなると、かりにもし西洋文明の優れた力が、本当に彼らの倫理の優秀さを示すものであるならば、すべからく、彼らの高度の宗教を採用し、国民全体の改宗に力を(いた)すのが、いやしくも国を愛するものの当然採るべき義務ではなかろうか。


 もちろん、当時の青年は、いずれもみな、中国の学問に教育されたのであるから、西洋の社会発達史に通暁していないのは当たり前のことで、最高の物質的進歩は、キリスト教の理想とはしょせん相容れがたい、そしてまた、あらゆる偉大な道徳律とも相反する酷薄無情な生存競争のうちに、主として発達したものだ、などということは、彼には思いもよらないことだった。


 西欧諸国においてさえ、今日なお、百万の愚民は、軍事力とキリスト教の間に、何か神聖な関係があるものと想像している。そして、教化に壇上から、政治的侵略は神の御心によるものだと主張したり、強力な爆薬の発明を神託などとうそぶいたりするような説教が行われているのである。


 いまでもなお、われわれ西洋人の中には、キリスト教を信ずる民族は、他の宗教を信ずる民族を略奪し、これを絶滅させる天職をになっているものだという迷信が残っている。どうかすると、まれには、我らは雷神トールと、学問の神オディンを信じているという確信を発表する人などもあるが、そういう連中の説によると、昔と違うところは、オディンは今の世では数学者となり、トールの持つムジョルナという槌は、今日では、蒸気で運転されているに過ぎないのだそうである。


 もっとも、こういう連中は、宣教師たちからは、あいつらは無神論者だ、恥知らずに浮世を渡る人間どもだと、頭から決め付けられているが。


 それはそれとして、やがてかの青年武士は、親戚の反対があったのも押し切って、いよいよ自分はキリスト教になろうと決心したのである。これは、思い切った振る舞いであった。しかし、幼い時分からの彼の訓育は、彼に意志の強固を植え付けていたから、両親がいかほど嘆き悲しんでも、いったんこうと決めた覚悟のほどを動かすことはできなかった。先祖代々の宗旨を廃棄することは、ただ単に、それを廃棄する当人の一時の苦痛を意味するというだけにはとどまらない。


 それは家督の廃嫡、旧友の蔑み、位階の喪失、窮乏のあらゆる因果を意味するものである。しかし、かの青年の武士教育なるものは、己に打ち勝つということを堅く教えていた。彼は、愛国者として、また真理の探求者として、これこそは自分の本文だと信ずるものを見つけたのであった。そして、恐るることなく、悔いるところなく、自分のこうと信じた任務をまっしぐらに追究して行ったのであった」







「いったい、近代科学から借りてきた借り物の知識をたよりに、自分の信仰をぶち壊しておいて、そしてその後へ、西洋の信仰をはめこもうと望むものは、ともすると、古い信仰を打破するのに用いた論旨は、新しい信仰に対しても同じ破壊力を持っているものだということを、夢にも考えないものだ。


 普通の宣教師などというものは、第一、そういう御当人そのものが、昔より程度の高い近代思想のレベルにまで達していないのだから、もともと、自分より力量のある東洋人に、少しばかり近代の学問を教えたからといって、それを教えた結果が、はたしてどういう結果になるか、そんなことは、彼らにはとても予想のつきようはずがない。だから、自分の弟子が聡明であればあるほど、それだけその弟子が信者になっている期間が短いことを発見して、今さらのようにびっくりしたり、慌てたりするのである。


 科学というものを今まで知らなかったために、従来の仏教の宇宙観で満足していた優秀な頭脳の信念を打破することは、これはさして難しいことではない。けれども、同じその頭脳の中へ、東洋の宗教的観念のかわりに、西洋のそれを、――つまり、儒教や仏教の倫理のかわりに、長老教会(プレスビテリアン)浸礼教会(バプチスト)の教義を入れ替えることは、これはできないことである。近頃の福音伝道師たちは、こうした心理上の難関が道に横たわていることに、全然気づかずにいる。


 その昔、ゼスイット派や托鉢派(フライヤー)は、一所懸命になって、他の宗教を打破しようとした。しかも、打破しようとした方も、打破されようとした方も、いずれも迷信的であったことには変わりなかったが、その時にしても、これと同じような障害はあったのである。であるから、あれほどの深い熱意と、火のごとき奮起とによって、あの驚くべき業績をあげたかのスペインの僧侶なども、自分の夢想を実現するためには、恐らくスペイン兵の剣が必要だと、つくづく思ったに違いない。


 ところが、今日では、十六世紀に比べると、改宗の仕事をするのに、諸種の事情が当時よりもいっそう不利にできている。新しい教育は、宗教からまったく引き離されて、科学に立脚して改造され、われわれの宗教は、わずかに社会が道徳上必要なものとして認める程度のものになりつつあるし、従って、僧侶の職分も、次第に道徳の警官というようなものに変わりつつある。


 こうなると、教会の尖塔がおびただしく立っていることは、あれは何も、信仰がそれだけ増えたというしるしではなくて、ただ、伝統に対する尊敬が増したという証拠になりそうである。西洋の伝統が、そのまま、東洋の伝統になるなどということは、これはありうるはずもないことだし、そうかといって、外国の宣教師が日本へやってきて、道徳警官の役を演じるという理屈もなかろう。それどころか、われわれの教会の中でも、最も自由主義的な、広い教義をもったものは、近頃では、伝道の無用ということを認めだしてきつつある。


 もっとも、真理を悟得するのに、必ずしも古い独断主義を捨てるには及ばない。完璧な教育は、これを実証している。だから、教育の最も高いドイツ国民は、日本の内地に宣教師は一人も送っていない。宣教師がどのくらい伝道につとめたかという、その成績を知らせるために、毎年、新しい改宗者の数を本国へ報告する仕組みになっているが、そんな報告よりも、むしろかえって意義の深かったものは、日本政府が、日本古来の宗教を改革せよ、日本の僧侶の教育をもっと高いものにせよと勧告した布告であった。ただし、この布告の発令されるずっと前から、金のある宗派では、すでに西洋流の仏教学校を建てていた。


 真宗のごときは、同門中に、パリやオックスフォードで教育を受けた学者たち――その名は、世界の梵語学者の間に知れ渡っている――を持っていることを、誇りとしていたくらいだ。これからの日本は、確かに、古い中世時代の宗教よりも、さらに高い形式の宗教が、是非とも必要であるには違いないが、しかもそれは、古来の形式から自然発展したものでなくてはならない。外部からではなく、内部から発展したものでなくてはならない。仏教が、西洋の科学という鎧を着たら、それこそ鬼に金棒で、これこそは日本民族の将来の要望に、まさしくかなうものになろう。


 さて、横浜におけるかの若い改宗者は、宣教師の伝道上における著しい失敗の一例となった。


 彼は、様々な犠牲を払って、ようやくのことで、キリスト教徒になりはなったものの、――いや、キリスト教徒になったというよりも、一個の異国の宗派の一会員になったという方がいいのだが、――その後、幾年もたたぬうちに、せっかくそれほどの高い代価を払って購った信仰を、公然と弊履を捨てるごとくに捨ててしまったのである。そういう彼は、自分の宗教上の教師である宣教師たちよりも、はるかに多く、当時の大哲人たちの著書を深く研究もしたし、理解もした。そうなると、宣教師たちは、もはや、彼の提出する質疑に応ずることはおろか、はじめ彼に、こういうものは少しは読んでおけ、といってすすめた書物も、すべてあれは信仰に有害な書物だなどといって、せいぜい、苦しいお茶を濁すより他に手のない始末であった。


 しかし、いくら有害な書物だといって頑張ってみたところで、その中に誤りがあるという、その誤りをここが誤りだといって教え示すことができないのだから、彼らの警告は、何の役にも立たなかった。最初は、この若者も、隙だらけな屁理屈をこねられて、独断的な教義につい引きずり込まれたのであったが、その後、さらに大きな、さらに深い理念によって、そんな独断的な教義は、とうに乗り越えてしまった道へ自力で出たのである。


 彼は公然と、彼らの教義は、真の理義、あるいは真の事実に基づいたものではない、自分は、あなたがた宣教師が、平素、キリスト教の敵と呼んでいる人たちの意見に承服せざるをえないと、公開の席上でどうどうと表明して、そして翻然と教会を去ってしまったのである。やれ堕落だ、やれ背教だと、その当座、悪評の喧々囂々(けんけんごうごう)たるものがあったのも、致し方がなかった。


 しかし、背教、堕落は、まだまだもっと遠いところにあったのである。彼は、彼と同じような経験をした多くの人たちとは違って、自分の宗教の問題を、ほんの一時返上したにすぎなかったのであって、自分がこれまで学んだものは、これから学ぶもののほんの序の口、いろはに過ぎないことを、十分承知していたのである。彼は、宗教の相対的な価値――宗教が保護し、禁制する価値について、まだことごとく信を失っていたわけではなかった。一つの真理――文明と宗教との間の相対関係についての真理、これを曲解したことが、初めに彼を誤らせて、改宗の道に飛び込ませたのであった。


 むかし、彼の習った中国の哲学は、僧侶のない社会は決して発達しないという、近代社会学も認めている法則を、彼に教えていたし、また、仏教は、たとえ(たと)え話の虚談のようなものでも、――凡夫凡婦に聞かせる寓話だとか、物の説き方だとか、象徴だとか、そういう作り話でも、人間の善行の発達に資する方便として、立派にその価値と存在理由をもっていることを、彼に教えていた。こういう見解からすると、キリスト教も、彼には大いに関心のもてる宗教であった。


 彼を導いてくれた宣教師は、キリスト教は卓越した道徳観念をもっているということをよく言ったけれども、しかし開港場の生活には、それが少しも実現されていなかったから、彼は眉に唾をつけて、その時は信じなかったけれども、しかしなんとかして、自分もいつか将来には、西洋における宗教の、道徳に対する影響を、目の当たりに見てみたいものだと思った。つまり、いつかはヨーロッパ諸国を歴訪して、彼らの進歩発達の原因と、彼らが強大国である理由とも、つぶさに研究してみたいと望んだのである。


 そこで彼は、そう思い立つがいなや、さっそくその実行にとりかかりだした。宗教上では、彼を一個の懐疑主義者にした彼の知的行動は、政治の上では、彼を一個の自由思想家にしたのである。そのために、彼は当時の政策に反対意見を発表して、時の政府の怒りを買い、同じく新思想の刺激のもとに、同じような不穏な言動をした連中と一緒に、ついに国外へ退去するのやむなきに至った。


 こうしてこの時から、彼は世界中を、次から次へと放浪して回る宿命を授けられたのである。


 最初に、彼はまず、朝鮮に渡って行った。それから中国へ渡って、そこで学校の教員をして生計を立てた。そして、とどのつまり、最後によくやく彼の地から、マルセーユ行の汽船に乗り込んだのであった。金など、一銭もその時持っていなかったが、ヨーロッパではどうして暮らしを立てようかなどということは、自分でも考えてもみなかった。年も若かったし、上背はあったし、体は鍛えてあるし、諸事無駄遣いはせず、しかも、貧乏には慣れている。


 なあに、大丈夫さと、自信満々たる彼であった。それにはまた、あちらへ行ったら、何とか道を開いてもらえそうな、彼の地の人に宛てた紹介状も、幾通か持っていたのである。それにしても、故国の土をふたたび踏むまでには、長い長い年月を過ごさなければならなかった」







「その長い年月の間に、彼は、当時の日本人が一人としてまだ見たこともなかった西洋文明を、目の当たりに見たのである。彼は、欧米二大陸を股にかけ、多くの都会にも住み、そこで様々な職業――ある時は頭脳の仕事に、ある時は手先の仕事に働きながら、いたるところを流浪して歩いたのである。そんなわけだから、自分の周囲にあるものは、高いものなら素天辺、低いものならどん底、いいことにせよ、悪いことにせよ、これ以上のものはないというものを、彼はつぶさに研究することができた。


 しかも彼は、極東人の目をもって見たのであるから、その判断の仕方も、欧米人のそれとは全然違っていた。西洋が東洋を見るのも、東洋が西洋を見るのも、結局、つづまるところは同じであるけれども、ただ異なるところは、一方が尊重するものは、とかく、他の一方ではあまり尊重されないという点である。そしてそれは双方ともに、ある点では正しいし、ある点では誤っているのである。東西相互の完全な理解などというものは、かつてもなかったし、今後とても、恐らくあるはずはないだろう。


 ところで、西洋というところは、彼には、かねがね予想していたものよりも、はるかに大きなものに見えた。――まるでそれは巨人の世界であった。その大きな西洋人だって、大都会の真ん中に、語る友もなく、一人ぼっちでおっぽり出されたら、それは心細いに違いない。それと同じ心細さが、この東洋人の一孤客にも、きっと見舞ったに相違ない。幾百万の、急がわしげに行き来する市民が、てんで自分のことなど目にも入れてくれない茫漠たる不安。――人の声もそのために呑まれてしまうような、絶え間もない轔々轆々(りんりんろくろく)(りんりんもろくろくも、どちらも車が騒音たてる様、だそう)たる車馬の響き、血の通っていない、化け物のような大きな建物の恐ろしさ。人間の心だの手足だのは、まるで一文の値打ちもない安っぽい機械かなんぞのように、酷使の限り酷使する富の偉大な力。――そういうものから受ける、雲でもつかむような漠々とした不安の念。


 ……恐らく彼は、かの画匠ドーレが、ロンドンを見たのと同じように、それらの大都会を見たのであろう。――薄暗い拱門の重なり続いた、陰気な荘重さ。目の限り、見通すこともできないくらい、次から次へと出てはまた入る花崗岩の洞窟。その底には、労働の海が澎湃(ほうはい)と大波を巻き上げている、石造建築の山また山。そうかと思うとまた、幾世紀も長い時を閲して、徐々に積み重ねられた、秩序ある力の凄さを目の当たりに展開している、記念の大広場、等々々を見たのであろう。


 けれども、日の出も、日の入りも、高い空も、吹く風も、すべて遮ってしまっている、無限に続くこの切り立った石の壁と壁との間には、何ひとつ彼に美を訴えるものはなかった。


 われわれ西欧人が、大都会に心ひかれるものは、すべて彼の心を跳ね返すか、押しつぶすかしたのである。あの光まばゆいパリですら、じきに彼を退屈させた。でも、パリは、彼が初めて長く滞留した最初の都会であった。フランスの芸術は、ヨーロッパ民族のうちで、最も天才的な国民の審美思想を反映したものとして、大いに彼を驚かした。


 驚かしたけれども、そこは少しも彼を楽しませてはくれなかった。中にも、彼が驚いたのは、裸体の習作であったが、それさえ彼は、むかし自分の授けられた禁欲主義の教育が、君に対する不忠不義に次いで、最も唾棄すべきものとして教えてくれた人間の弱点を、ただ人前に、おおびらにさらけ出したものとしか受け取れなかった。それと同じ意味で、彼には、フランスの近代文学も、やはり驚異の種であった。近代小説家の途方も無い作品は、彼にはほとんど理解できなかった。描写の妙味などは、ぜんぜん盲目も同様で、皆目分からなかった。いや、仮にヨーロッパ人が分かるように、彼が文学を解したところで、恐らく、せっかくの才能をこんな作品に用いるのは、結局、こういうものを生ませる社会が腐敗している証拠だという確信を、いっそう堅くしたに終わったことだろうと思う。


 そういう彼は、豪奢なパリの実生活のうちに、当時の文学・美術によって、自分が暗示を与えられた信念の実証を、次第に見出していった。パリにある、数多くの娯楽場、劇場、オペラなどを、彼はおりおり覗いて歩いた。そして、彼一流の禁欲主義者と武士の目でそれを見て、何故、欧土における価値のある生活の観念は、東洋における放蕩惰弱の観念と、少しも違わぬのだろうと、不思議に思ったことであった。


 上流社会の舞踏会へ行っては、極東の淑徳感など到底堪えうべからざる、肉体を露出した貴婦人の礼装を見て、これは日本の婦人ならまさに慙死(ざんし)すべきはずのものを、それとなくほのめかすように、巧妙に工夫されたものだと思った。そして、このことから、ふと彼は、かつて日本人が夏の炎天下に、自然で、素朴な、しかもすこぶる健康的な半裸体で労働している姿を、西洋人が見て非難したことがあったのを思い出して、妙な心持ちがした。彼はまた、ほうぼうの数ある大寺院や教会へも行って見たし、そのすぐ近くにある悪の殿堂や、いかがわしい春画などを密売して繁昌している店なども見物した。


 それからまた、当時のえらい説教師の説教も聴いてみた。その反対に、坊主嫌いの人たちが、信仰や愛など、くそ食らえと、罵りちらす暴言も耳にした。金持ちの社会も見たし、貧民窟も見た。両者の裏面にひそむ魔窟も見物してみた。けれども、日本にあるような宗教の「禁制力」は、西洋では、どこへ行っても見ることが出来なかった。そういえば、西洋の世界には、そもそも、信仰というものがなかった。


 あるのはただ、虚偽と、仮面と、快楽を追い求めてやまない利己主義の世界、宗教の支配は受けないかわりに、警察の支配を受けているという世界ばかりであった。


 要するに、人間としてそんなところへ生まれるのは、いっこうにありがたくないような世界だったのである。


 フランスに比べると、それよりも、いっそう鈍重で、しかも、侮りがたい、堂々たる大国であるイギリスは、自ずからまた別種の問題を、彼に考えさせた。彼は、永久に伸びゆく英国の富と、その富の影に、永久に積りふえて行く恐ろしい汚醜の堆積とを研究した。大きな港という港が、幾多の国々の財宝を、腹一杯に食らい飲んでいるのを見た。それらの財宝は、おおむね掠奪品なのである。


 英国人は、今でも彼らの先祖と同じように、海賊の国民であることを、彼はその時知って、もしこの国民がただの一月でも、よその国から食料を供給させることができなかったとしたら、数千万の国民の運命は、いったい、どうなるのだろうと考えた。


 彼はまた、世界でも最大の都市であるロンドンの夜を、目をそむけたい醜悪なものにする、売笑と飲酒の悪習を見た。そして、見て見ぬ振りをするこの国伝統の偽善ぶりと、現状にひたすら感謝を述べている宗教と、必要もない国にやたらと宣教師を派遣するその無知さかげんと、病弊と悪徳とを撒き広げるだけに終わるおびただしい慈善事業とには、まったく唖然としてしまった。


 多くの国々を行脚して歩いた、この国の偉い人が、英国人の一割は、常習の犯罪者であるか、さもなくば貧民である、と述べているのも見た。



”われわれは、知的事業においては、蛮民の状態をはるかにしのぐ進歩を遂げたけれども、道徳においては、それと同等の進歩をしていない。……国民の大多数は、野蛮人の道徳の上に出ず、多くの場合、かえってそれ以下にある。道徳の低下は、近代文明の一つの大きな汚点である。……われわれの社会的・道徳的文明は、いまなお、未開の状態にある。


 ……われわれは、世界で最も富める国である。


 しかも、我が国の人口の約二十分の一は、貧民であり、三十分の一は、すでに犯罪者として知られたものである。すでに挙げられたこれらの犯罪者に、まだ探偵の手を逃れている犯罪者を加え、それに生活の全部を、もしくは生活の幾分を、個人の慈善に仰いでいる貧民(ドクター・ホークスリーの調査によると、ロンドンのみでも、年々、七百万ポンドの金が、この目的に消費される)を加えると、我が国人口の一割以上は、実際の貧民と犯罪者であると、断言してよかろう。


 ――アルフレッド・ラッセル・ウォーレス”



 しかも、これが百万の教会と無数の法律がしかれているという国で、この有様なのである。なるほど、そう思ってみると、英国文明は、以前彼が、これこそは進歩発展の源泉だと信ずるように教えられたキリスト教の力――それも見せかけだけで、実際はありもしない力――を示している点では、他の国よりも確かに劣っている。その点で、英国の都市は、彼にまた別のことを語っていた。仏教国の都市では、さすがにこうした光景は、見ようと思っても見られない。見られないどころではない。この国の文明とは、正直者と狡猾な人間、力のないものと力のあるものの、この二つのものの、果てしない、醜陋(しゅうろう)極まる争闘を意味しているのだ。


 暴力と奸智とが結託して、弱者をこの世の地獄に突き落としているのが、この国だ。


 こんな状態は、日本には、夢にもありはしない。しかし、こうした状態の物質的な所産、あるいは知的な所産、これはただただ驚くべきものだと白状せざるを得ない。もっとも、彼はそこに、人間の想像もできないような悪もみたけれども、同時にまた貧富両者の中に、多くの善を見たことも事実である。この大きな謎、無数の矛盾撞着は、彼の力では、なんとも解釈のつかないものであった。


 彼はしかし、自分が遍歴した他の国の国民よりも、英国人が好きであった。英国紳士の気風の中には、どことなく、日本のサムライかたぎに似たものがある。そんな感銘を彼は受けたのである。英国紳士の、あのいやに四角四面の冷ややかさの影には、いつも変わらぬ親切――彼は、それを一再ならず経験した――と、友情の大きな力、また、やたらに無駄には人にかけないが、実に深い情のこもった情誼、それから、世界の半ばを自分のものに領有したあの胆の太さ。――そういうものが隠されていることを、伺い知ることができたのであった。


 もっとも、その後、彼が、現代において人類のなした業績を、さらに大きくあらわしている世界を見るために、イギリスからアメリカへ渡って行ったところには、もう、たんなる国と国との相違などということは、すでに彼には興味のないものになってしまっていた。


 つまりそれは、膨大な西洋文明というものを、全体として眺められるようになったからで、国の相違などという事実は、もはや影が薄くなって来たためであった。彼は、ただもう、行く先々の到るところで、――帝政国、王政国、共和国のいずれも問わず、およそ国と名のつくところには、必ず同じ様な血も涙もない無情な貧窮が、同じ様な驚くべき結果を伴って、そこに展開されている有様を見、また、どこの国へ行っても、およそ東洋の思想などとは、まったく正反対な思想が基盤となっている現象を見せ付けられたのであった。


 それを見た彼は、こんな文明なんか、わざわざこっちが声を合わせて唱和するような気持ちなんぞ、一つも起こさせやしない、こんな中に住んでいたって、愛着なんか起こりっこない、永久におさらばをしたって、後ろ髪を引かれるようなものは、何一つありはしない、と思わざるをえなかった。


 自分の魂と相去ること、まず、別の太陽系の中にある、別の遊星に住んでいる生物界にも等しいものだ、と思った。


 とはいえ、彼はそういう文明が、どれほどの人間の労力を費やしたか、ということも分かっていたし、また、どれほどそれが強い脅威になっているか、ということも感じていた。その知性の力が、どれほど広汎な範囲にひろがっているか、ということも察していた。しかも彼は、そういう文明を憎んだ。――恐ろしい、すべて計算ずくめの貪婪(どんらん)を、盲目的な残忍性を、底なしの偽善を、欲望の不潔を、その富の傍若無人さを憎んだ。


 道義の上から言えば、この文明は、言語道断だし、常識の上からいえば、残忍暴虐である。現代文明は、量り知れない堕落の深遠を彼にのぞかせたのである。そこには、彼が青年時代に抱いた、理想に匹敵するような理想は、何ひとつなかった。


 結局、現代文明とは、ひとつの大きな豺狼(さいろう)(山犬と狼。残忍で強欲な様)的争闘であった。


 が、その中にも、事実、善と認めざるをえないものが少なからずある。それが彼には、奇蹟よりもまだ不思議な気がしてならなかった。要するに、西洋の真の偉大さは、ただただ、知的な点にある。それはちょうど、純粋知性の冷たくそそり立った、嶮しい山岳のようなもので、その山頂の永久に溶けない雪渓の下では、感情的理想などは凍え死んでしまうのである。


 そこへゆくと、日本の仁と義の文明は、幸福の理念においても、道徳的な惝怳(しょうきょう)(驚きがっかりすること。なんですが、ここでこの言葉を使うのはイミフ)においても、大いなる信念においても、喜び勇み立つ勇気においても、朴直で私心のない点においても、また、真面目で足ることを知っている点においても、確かに西洋文明よりも、比較にならぬほど卓越している。西洋の優越は、倫理的なものではなかった。彼らの文明の勝れている点は、数知れぬ苦難を経て発達したあげく、弱肉強食の道具に用いられてきた、知性の力に存するのである。


 しかし、そういう点はあったけれども、西洋科学の原理だけは、彼もその争うべからざる力のあることを知っていた。科学は文明の威力をいよいよ拡大して、やがては世界苦がこの世に氾濫する時が来るだろう。その力は抗しうるべきものでもないし、避けるべきものでもなく、また、測りうるべきものでもない。そのことを、彼は知っていたのである。――日本は、この新しい活動の形式を学び、この新しい思想の形式を自分のものに占有しなければ、国は滅亡するより他にない。


 二つのうち、いずれかを採るより道はない。こう考えているうちに、疑問中の大疑問が、彼に起こってきた。それは、古来の聖賢が、必ず直面しなければならなかった問題であった。「宇宙は道徳的なものなりや」という疑問である。この問題に、最も深遠な解答をあたえているのは、仏教であった。


 しかし、道徳的だ、非道徳的だといったところで、それは、人間のごく卑小な感情をもって、宇宙の運行を推し量ったものであって、そこには依然として、人間の論理などでは道破することのできない、一つの確信が残っていた。人間は、未知の終点に向かい、死力を賭して、自分たちの最高の道徳的理想を追求して行くものだ、という確信である。この確信は、たとえ、日月星辰が、その運行線上から抗議を申し込んできても、動かすことのできない事実である。


 とにかく、日本は、将来どんなことをしても、外国の科学を習得し、敵国の物質文明を多分に採り入れる必要がある。けれども、いかに必要があっても、日本は、古来から持っている正邪の観念、または大義名分の理想を、ことごとく打ち捨ててしまうわけには行かない。


 こんなことを考えているうちに、やがて彼は、ごく徐々にではあるが、一つの決意が、心のなかに形をなして出来上がってきたのである。――この決意こそ、後年、彼をして一国の指導者、一世の師たらしめたものであった。どういう決意かというのに、それは全力をあげて、自国の古代生活の粋を保存することに専心し、いやしくも国家の自衛に必要のないもの、もしくは国民の自己発展に裨益しないようなものを、外国から輸入することには大胆に反対しようという決意である。


 これなら、失敗したところで、恥にはならない。


 それどころか、それによって少しでも価値のあるものを、幾分かでも破滅の渦中から救うことができれば、望外の喜びである。西洋の生活の、あのもったいない浪費は、彼ら西洋人の快楽を好む性向と、苦悶を求める(へき)よりも、かえって彼に、より多くの感銘を与えた。


 自分の国が貧乏国であることに、彼はむしろ強味を見出した。私心を滅したその倹約ぶりこそは、西洋と張り合う唯一の勝味だ。彼は、外国の文明を見たおかげで、それを見なければよくわかない、自分の国の文明の価値と美点とが、はっきりわかったのであった。こうして彼は、故国に帰参のかなう日のくるのを、一日千秋の思いで待ち焦がれていたのであった」







「雲ひとつない四月の朝まだき、まだ明けもやらぬ東雲(しののめ)の、物の影さえおぼろに透いて見える仄暗い中に、彼はふたたび故国の山々を仰ぎ見た。――インクを流したような、暗澹たる海の()の中から、紫を帯びた薄墨色にそびえ立ち、空の彼方を高くくっきりと(かぎ)(くぎる、とも読んで景色などの区切りの線を言う)って故山を、彼は眺めたのである。長い長い流浪の旅から、今、彼を乗せて故国へ急ぐ汽船の後ろには、刻一刻、バラ色の炎となって、静かに染めなされて行く水平線があった。


 甲板の上には、すでにもう幾人かの外人たちが、太平洋の荒波の上から、富士の麗容を初めて見ようとして、しびれを切らしながら待っていた。暁に見る富士の初姿こそは、何といっても、この世はおろか、あの世までも忘られぬ眺めの一つである。外人たちは、しばらくそうして、えんえんと連なる山並みに眺め入っていた。仄暗い大空に、鋸の歯のような頂きをもたげている山々の向こうには、よく見ると、まだ小さな星影がかすかに光っているのが見える。――しかし、富士はまだ見えない。


 外人たちは船員に尋ねてみた。すると、船員は、笑いながら答えた。


「ああ、あなた方は、目の付け所が低すぎるんですよ。もっと上を見て御覧なさい。もっと高いところを」


 そこで、外人たちは、空の真ん中まで目を上げてみた。すると、曙のときめく色の中に、あやしい幻の(はちす)(はな)が開きでもしたかのような、うす桃色に彩られた大きな山頂が、はっきりと見えた。その壮観に打たれて、誰も彼も、しばらくの間は唖のように息をのんでいた。と見るうちに、万古の雪は、刻々に金色に変わりだし、やがて真白になったと思ったときには、朝日はすでに水平線の弓の上に差し出して、瞬くうちに暗い山並みの上、いや、その上の星の上までも高くのぼったかと見る間に、さし輝く旭光は、早くも頂上いっぱいに光を投げかけていた。


 が、広い裾野は、まだ良く見えない。そのうちに、夜はすっかち明けはなれて、ほのぼのとした浅黄色の光りは、大空をひたし、物のあやめは深い眠りから目を覚ました。――やがて、船客たちの目の前に、明るい横浜の港が開けて来た頃には、麓を雲に隠した霊峰は、無窮の青空高く、さながら雪の精もかくやとばかりに、四方の山々を圧して高々とそびえたっていたのである。


「ああ、あなた方は、目の付け所が低い。もっと上を見よ。もっと高いところを」


 ――この言葉は、妙にかの流浪者の耳朶に残る言葉だった。この言葉の余韻は、いつまでも彼の耳の底に鳴り響いて、何か胸の中に膨れ上がってくるような、抑えようとしても抑えきれない深い感情に、節とも何とも得体のつかぬ伴奏を奏でた。すると、たちまちいっさいが朦朧としてきた。目には、空に秀づる富岳も見えず、その下の方に、青から緑にうす霞んでゆく山々も、湾内に群がる船舶の影も、その他、近代日本を形作る一切の物という物が、何もかにも見えなくなってしまった。ただ、古い日本だけが、彼の眼底にありありと見えていた。


 におやかな春の香りを乗せて、陸から吹いてくるそよ風が面を吹きなで、血潮にふれると、長く閉ざされていた古い思い出の部屋から、ふっと、彼が昔忘れ捨てようとした色々の物の姿が、ひょいひょいと飛び出してきた。もう亡くなってしまった人たちの顔が、ゆくりもなくも、まぶたに浮かび上がり、長い年月を草葉の陰に送った人たちの声が、ふっと耳に聞こえてきた。


 彼はもう一度、父の屋敷にいた頃の少年にかえり、そこの明るい部屋から部屋をうろうろ歩き回り、畳の上に青い葉の影が、ちらちら動いている日なたで遊び戯れ、山水を形どった庭先の、夢のように静かな木下闇(こしたやみ)(木陰のこと)の安らかさに、しみじみと眺め入る自分を見た。


 ちょこちょこ歩きの彼の手を引いてくれる母の、あの柔らかな手触りを感じながら、彼は邸内にあった小さな祠の前にも行き、先祖の位牌の前にも立った。そして、ふと今新しい意味を見つけ出した。かの船員の言った言葉を、がんぜない子供の祈りごとでも真似るようにして、彼は大人の唇で、もう一度つぶやいたのである」





 いかがだったでしょう。

 

 わたしはこの一章? 一節? に出会って、わたしがこの時代に生まれたら同じようなことをしただろうなぁ、と思ったものです。


 ってか、むしろ前世?(笑)


 欧米各国を渡り歩いたからこそ、己の目で、心で触れ、感じた欧米の有り様。そこに、この保守主義者は、


「西洋の世界には、そもそも、信仰というものがなかった」


 と感じたわけですね。


 そして、だからこそ、欧米の強味とは、歴史に裏打ちされ、競争の中から編み出された科学力と、まごうことなき100%純粋なダーウィニズム、弱肉強食を地でゆく怜悧な知性にあるのであって、よろしく日本人はそれを自家薬籠中のものとすべきで、しかし、日本人の元来持っている仁義道徳や感性、善を善とし悪を悪とする審美眼を捨て去ってはならない。


 と、彼は思った。


 では、簡単ではありますが、振り返ってみますと、彼は有力な武士の家に生まれて、子供の頃はスパルタ教育を受けたわけですが、わたしも他の本などで士分の子弟子女の教育を少しは読んだことがありますが、どこもこういう教育だったようです。


 そして、だからこそ日本の武士は偉大であった。


 江戸幕府が、家光の時からそっこうで初代、次代の質素倹約を忘れて奢侈に溺れ、堕落していったにも関わらずどうして260年もの太平の世を開くことができたのかと言えば、この地方武士の教育が厳格で、かつ的確であったからに他なりません。


 武士やその妻が、奢侈放逸に流れず、質実剛健で己を律することを、それこそ子供の頃から厳しく教え込まれていたからこそ、武士は儒教を己に体現する存在として、江戸時代を一貫して士農工商の最上位の支配者として小揺るぎもしなかった。


 黒船が来なかったら、日本はいまでも江戸時代であったろうと言う人はいますね。


 そして、今の日本人が、指導者層が、堕落しまくっている理由も、これで明らかな気がします。


 しかし、本文を読んでいて気になったのが、


「死刑の執行があると、その検分に引き出されて行くのであるが、その場にのぞんで、顔色一つ動かしてはならぬとされてある。そして、家に戻ると、梅干しの汁をまぜて血の色に染めた赤飯をたらふく食わされて、胸の奥にわだかまっている恐怖の念を、無理矢理吹き飛ばしてしまうように仕向けられるのである」


 の部分。


 梅干しはアルカリであるから、吐きそうになった胃酸過多の中和で梅干し赤飯を食べさせたのではないかなぁ、と思うのは妄想でしょうか?


 また、日本にやってきた福井藩お抱えの教師、ウィリアム・エリオット・グリフィス。漢字では希利比士(グリヒス)。wikiではがっつり米国人とありますね。また、南北戦争を戦った兵士でもあったご様子です。


 ちなみに、文中ではたびたび、「すべからく」って出てきますが、最近のわたしの学びによると、すべからく、はその後、~~すべし。で終わるものなのだそうです。なので例えば、儒教を学ぶものは、すべからく論語を学ぶべし。みたいに。本文では、グダグダした文章で終わっている気がしますが、どうなのでしょうね??


 また、面白いと思った一文が、


「上流社会の舞踏会へ行っては、極東の淑徳感など到底堪えうべからざる、肉体を露出した貴婦人の礼装を見て、これは日本の婦人ならまさに慙死(ざんし)すべきはずのものを、それとなくほのめかすように、巧妙に工夫されたものだと思った。そして、このことから、ふと彼は、かつて日本人が夏の炎天下に、自然で、素朴な、しかもすこぶる健康的な半裸体で労働している姿を、西洋人が見て非難したことがあったのを思い出して、妙な心持ちがした」


 確かに、日本人からすると、胸元が大いに開いた洋服などを見ますと、はしたない。という感慨も起こりますが、でも、江戸時代の日本のお風呂、銭湯は入り口に扉とか、のれんとかがなく、全裸の男女が外から丸見えだったとか。しかも、珍しいことがあったらその全裸の男女が外に飛び出してきたそうな。


 どっちもどっちをはしたない。と思っていた、というのも面白いところであります。


 さて、このとある保守主義者は、東洋人で学問があるものなら誰でもいつかは思い至る、


「宇宙は道徳的なものなりや」


 という疑問に逢着するわけであります。


 言い換えるのなら、神や仏による秩序、あるいは神罰や慈悲は、あるのか否か。存在するのか否か。その答えは仏教にある、ということになっています。


 仏教の教えに触れれば、そこに即身成仏、因果応報、その他にも様々な慈愛に満ちた教えに巡り会えるわけですが、この本文中にあるように、「西洋の科学という鎧を着たら、それこそ鬼に金棒で、これこそは日本民族の将来の要望に、まさしくかなうものになろう」というような、理知的で数多の知識や智慧を備えた宗派や僧侶、なんてものには、今の所、お目にかかったことはないような?? 昨今の仏教、僧侶は、西洋の知識はおろか、仏教の真の教えすら身につけていないのか、などという見方はさすがにうがった見方でしょう、ねえ。


 さて、日本に帰国したとある保守主義者、は富士山を見ようと集まった多くの欧米人とともにあったわけです。しかし、外人たちには富士山が見つけられなかった。そこで、船員に尋ねると、船員は笑ってこういった。


「ああ、あなた方は、目の付け所が低すぎるんですよ。もっと上を見て御覧なさい。もっと高いところを」


 船上から富士山が見えないって、その富士山、標高高すぎやないですか?w などと言うのは無粋でしょうけど(笑)。


 ですが、確かに常日頃から志は高く持ちたいものであります。


 といったところで、『心』~日本の内面生活の暗示と影響~ ラフカディオ・ハーンを読む。の二はこれにて。


 したらば。



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