『心』~日本の内面生活の暗示と影響~ ラフカディオ・ハーンを読む。<一>
10/18 誤字訂正
おこんばんはです。豊臣亨です。
さて、日本人なら誰でも名前くらいは聞いたことはある、ラフカディオ・ハーン。本名はパトリック・ラフカディオ・ハーンと言うそうな。でも、パトリックはアイルランドの守護聖人、セント・パトリックにちなんだ名であり大のキリスト教嫌いのハーンはパトリックの名も嫌ったそう。生まれはギリシャで、始まりは新聞記者であったとか。世界各地を旅し、やがて日本にやってきて日本の素朴で質素、質実剛健な精神性を愛しついに帰化『小泉八雲』と名乗ることとなる。ちなみに、八雲の名は、ハーンが出雲を愛し、
【八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を】
というスサノオが詠んだとされる日本初の和歌から来ているとか。また、ハーンのつづりはHearnで、日本人からヘルンと言われることを好んだそうですが、八雲が音読みで、はうんと読めるとか。
それはともかく、1850年に西欧に生まれ、近代西欧思考の中に暮らして後、日本にやってくるのですが、彼は世界でも類まれなる西洋と東洋の思想を身に着けた人と言われます。西洋の哲学と思考原理、東洋の深遠な精神性と信仰をあわせもったお方であると。
わたしも当然、名前だけは存じておりましたがそこまで触れる機会はありませんでした。つい最近ふらりと立ち寄った古本屋に『心』があったのでふと惹かれて手に取ったのであります。古本屋の良いところは、普通の書店だったら気にもとめないような本がふいに気になるところでしょうか。逆に言えば、古本屋は気になる本が少ないから気になる本が際立って見える、とも言えますが(笑)。
当初のわたしは、凝り固まった西洋至上主義者・白人至上主義者の、偏愛・偏屈な東洋かぶれの本なのかなぁ、程度で読み始めましたが、とんでもないことでございまして、ここまで真摯に、血誠に日本を理解し得た西洋人の書に出会ったのはもしかすると初めてかも知れません。
本の最初は日本と西洋比較などから始まります。今の時代からすると、ある意味当たり前のそこまで斬新とも思えない記述から始まるのですが、しかし、この『心』を書いたのはなんと1896年。日清戦争に勝利しいよいよ日本も近代国家の仲間入りを果たし愛国精神が入道雲のごとく盛り上がりを見せていた頃です。それはつまり世界の視野からすればまだまだ日本など昨日今日ちょんまげをやめた程度の、ちょいとイキってる野蛮人、程度でしかない。それがここまで日本を冷静に、かつ暖かく見守る視線、これから日本人は世界に躍り出て大活躍するであろうと確信してやまない、というハーンの言葉に驚きを隠せません。
日本が西洋に伍してこれから世界に飛躍しようというまさにその時。ハーンは日本人の強靭さ、質素の中から生み出される強みをつぶさに観察しているのです。多くの西洋人が、ちょっと珍しい黄色い猿を観光気分で見物しに来たのとは天地の相違があります。
さらに、徐々に読みすすめてハーンの思想の核心に至る頃にはここまで透徹にして深淵な日本人の精神性、信仰、心理を鮮やかに切り取った描写にお目にかかったことはないと言ってよいと思います。
そこでこれに感銘を受けたおっさんとしましては是が非でもこれを紹介したいと思うのですが、わたしが手にとったのは、1950年に出版された岩波書店の翻訳本であり、訳者の平井呈一も新仮名遣いをつかい始めたばかりでその勝手がわからぬと申している通り、ところどころわかりにくい表現がありますがそこは、味わいとしてご寛恕いただきたいと思います。ちなみに、いつもの読む読むシリーズ、と見せかけてただの丸写し回であると、吐露する次第でございます。
ハーンが始まりに、
「この一巻を構成している諸編は、日本の外面生活よりも、むしろ、内面生活を扱っている。そういうわけで、これらの諸編は、「心」という表題のもとに集められたわけである。「心」という字は、情緒的な意味では、信念という意味ももっている。つまり、精神、胆力、情操、愛情、それから、われわれが英語で「事物の真髄」というような、内奥の意味ももっている。
一八九五年九月十五日 神戸にて」
とあるように、ハーンの、芸術的な卓越した筆致を味わうのは、丸写ししかないと思った次第なわけでして。では、まず開巻の一文を丸写しいたしませう。
停車場で
「きのう、福岡から電報で、同地でつかまった重罪犯人が、きょう、取り調べのために正午着の汽車で熊本へ送られてくるという知らせがあった。犯人を護送するために、熊本の警官が一名、福岡へ派遣された。
今を去る四年前のことである。熊本は相撲町の某家に、ある夜ひとりの賊が押し入り、家人をおどして縛り上げたうえ、金目な家財をしこたま奪い取って逃走した。賊は、警察が巧みに張った非常線にまんまとひっかかり、二十四時間以内に――まだ贓品(盗品のこと)をばらすひまもないうちに捕らえられた。ところが、警察へひかれてゆく途中賊はやにわに手縄を引きちぎると、捕吏の所持していた刀を奪いとって、相手を刺し、そのまま逃亡してしまったのである。事件はそれなりけりになって、賊のゆくえは、つい先週まで杳として知れずにいたのである。
ところが、熊本の探偵で、たまたま福岡の監獄署を訪れたものがあり、それがふと、同署の懲役人のなかに四年のあいだ脳裏に写真のごとくはっきりと焼き付けられていた顔を、偶然にも見つけ出した。
探偵は、看守に「あの男は、なんという男だね?」と尋ねてみた。その答えはこうであった。――「あれは窃盗犯で、本署の帳面には、草部という名でのっております」
探偵は、その懲役人のまえにつかつかと進みよって言った。
「おい、草部というのはきさまの本名じゃないな。野村貞一、きさまは殺人犯で、熊本へ御用だ」
凶徒はいっさいを白状した。
それほどの重罪人が停車場へ着くというので、わたくしも大勢の人たちといっしょに見物に行った。おそらく、見物人の憤面怒罵の声を目に見、耳に聞くものと予想して、わたくしは行ったのである。ひょっとしたら、ひと騒動持ち上がるかもしれないとさえ思っていた。殺された巡査は、日頃から人望のある男だったし、それに身内のものだって、今日は、きっと、見物のなかに来ているに違いない。それに熊本の人間といえば、平素から決して性質のおとなしい方ではない。定めし今日は、警官が大勢警備にでていることだろうと、わたくしは、そんなふうに考えながら行ったのである。ところが、予想は、ものの見事にはずれた。
列車は、いつも通りのあわただしさと騒音のうちに――下駄ばきの乗客が、カラコロ急がしげに駆ける足音、新聞やラムネを売る小僧どもが我がちに張り上げる呼び声のうちに――停車した。
見物人は、柵のそとで五分ほど待たされた。やがて、ひとりの警部の手によって、改札口から突き出されるようにして、罪人が出てきた。いかにも兇悪な人相をした、がらの大きな男である。首をうなだれ、両手を後ろ手にくくりあげられていた。罪人も、それから付き添いの警部も、ふたりとも改札口の前のところで、ちょっと立ち止まった。見物人はよく見ようとして、どっと前へ押し出した。が、物をいうものは、ひとりもいない。その時、警部が大きな声でどなった。
「杉原さん! 杉原おきびさん! ここにきておられますか?」
すると、さっきから背中に子供を負ぶって、わたくしのそばに立っていた、小柄でやせぎすな女のひとが、
「はい!」
と答えて、人ごみの中を押しわけて前へ進み出た。この女の人が、殺された巡査の未亡人だったのである。背中の子供は殺された人の息子であった。警部が手を振ってみせたので、見物人はあとへ下がって、懲役人と付き添いの警部のまわりに場所をあけた。そのあいた場所に、子供を背負った女のひとは、殺人犯人と向かい合って、立った。あたりは死のごとく、闃として静まりかえっている。
やがて警部が、その女のひとに向かってではなく、背中に負ぶさっている子供に向かって、しみじみと言い聞かせるように語りだした。低い声だったけれども、言葉ははっきりしていたので、わたくしは、一言一句洩らさず聞くことができた。
「坊ちゃん、これがね、四年前にあなたのお父さんを殺した男ですぞ。あなたは、あの時はまだ、生まれておいでなさんなかった。お母さんのお腹んなかにいなすったんだったね。今ね、坊ちゃん、あんたを可愛がって下さるお父さんがいなさらないのは、この男のしわざなのですぞ。よくご覧なさい、この男を。(と、ここで警部は、罪人のあごに手をかけ、おい、顔を上げろ、ときびしく命じた)ようく、ご覧なさい、坊ちゃん、恐がることは、ちっともありませんぞ。おいやだろうが、こりゃあ、あなたの務めなんだからね。ようく見てやるんですぞ」
子供は、つぶらな目をぱっちりとひらいて、母親の肩越しに、こわごわ相手を見つめた。が、すぐとベソをかきだした。涙がぽろぽろとこぼれた。しかし、泣きながらも、子供は、なおも相手のすくみ入る顔を、まともにじっと睨んだ。睨んで、睨みつけた。
見物人は、みな、息の根が止まったようであった。
そのとき、ふと、わたくしは、罪人の顔が歪むのを見た。と見るうちに、罪人は、手錠をはめられた身も忘れて、いきなりそこへ、へたへたとくず折れたとおもうと、顔を泥にうずめるようにすりつけたまま、のどにつまったような声で叫びだしたのである。その声は、いかにも見物人の胸を震わせるような、悔悛の情きわまった声であった。
「堪忍してくんなせえ。堪忍してくんなせえ。坊っちゃん、あっしゃァ、なにも怨みつらみがあってやったんじゃねんでござんす。ただもう、逃げてえばっかりに、ついこわくなって、無我夢中でやった仕事なんで。……あっしゃァ悪い野郎でござんす。極道人でござんす。あっしゃァ坊っちゃんに申訳のねえ、大それたことをしちめえました。ですが、こうやって今、うぬの犯した罪のかどで、これから死にに行くところでござんす。あっしゃァ死にてえんです。よろこんで死にます。だから、ぼっちゃん、……どうか可哀相な野郎だとおぼしめしなすって、あっしのこたァ、勘弁してやっておくんなせえまし。お願えでござんす。……」
子供は、そういわれても、やはり黙って泣いていた。警部は、震えている罪人を引き起こした。それまで唖のように声を呑んでいた見物の群れは、そのときふたりを通すために、左右に道を分けた。
と、いきなり群衆ぜんたいが、きゅうにしくしくすすり泣きをはじめだしたのである。わたくしは、色の黒いその付き添いの警部が、わたくしの側を通り過ぎたとき、かつて自分が見たことのないものを、いや、誰も見たことのないものを――おそらく、この先、二度と見ようと思ってもみられないものを――日本の警官の涙をそこに見たのであった。
群衆は散って、わたくしひとりだけが、いま目撃した光景のふしぎな教訓を心に案じながら、あとに取り残された。そこには、人間の犯した罪科の当然の結果を、一場の愁嘆場で目のあたりに彷彿と見せてやり、それによって罪科の何たるかを思い知らせてやろうという、実に勘どこをはずさぬ、しかも慈悲に富んだ、正しい裁きがあった。
またそこには、死の直前に、ただひとすじに許しを請うという捨て身の悔悟があった。しかもその上、そこには群衆が――おそらく、ひとたびこれが怒ったら、この国でもっとも手のつけられない危険な存在となるかわりには、万事に物分りがよく、どんなことにもすぐホロリとして、ああ、すまなかった、ああ、小ッ恥ずかしいの一念で、何事にもさらりと水に流してしまい、しかも、浮世のままならなさと人間の本性のよわさとは、骨の髄まで経験で知り抜いているから、肚のなかには一片の憤りもなく、ただ罪に対する大きな歎きだけを持っている――そういう大衆がいたのである。
が、それにしても、この一挿話が、まったく東洋的な事実であるだけに、それだけにまた最も意義の深いものをもっている点は、罪人が自分も人の親であるという観念、どんな日本人でも、その精神のうちの大部分を占めている、我が子に対するこの潜在的な愛情、これに訴えて、罪人の悔悛を促したという店にある。
日本の盗賊のなかでも最も名の高い石川五右衛門が、ある夜、人の家に押し入って、家人を殺して物を盗もうとしたとき、自分にさしのべた赤児の笑顔に思わず気をとられ、その赤児とつい遊びたわむれているうちに、賊の目的を果たす機会を失ったという逸話がある。
この逸話は、容易に信じられる。毎年、日本の警官の報告書のなかには、常習の犯罪者が、子供に対して慈悲の心を示した例が、かならず幾つか報告されている。もう幾月か前のことだが、この地方の新聞に、一家皆殺しをした兇悪な強盗殺人事件がのっていたことがある。それは、熟睡中の七人の家族が、文字通り、こまぎれにされたという事件であったが、その時も警察当局は、たったひとりの小さな子どもだけが、なんの危害もうけずに、血の海のなかでひとり泣いていたのを発見して、加害者がその子に傷を負わせぬように、よほど気をつかったにちがいないという、まぎれもない証拠を見出していた」
開巻にこの一文を持ってきたセンスは素晴らしいですね。
この一文だけで日本人というものがどういう性質のものかわかる。
また、この短い文章の中に見逃すことのできないものがいくつかありますね。殺人犯をあばきたてた探偵さん、というのがどういうお方だったのか気になりますがそれより、あの、
「それに熊本の人間といえば、平素から決して性質のおとなしい方ではない」
の部分。
やっぱ、九州人って修羅の国の住民だったのか………。
などと妄想するのも致し方のないことかと思われます。まあ、それはともかく、この開巻の一話を凝縮すると、「すべてを水に流す」となるでしょうか。
日本人は、この一言を、全地球民族の中でも、もっとも体現・体得した民族であるといっても差し支えはないと思います。
それは宗教的な考えからも見て取れるでしょうか。キリスト教には終末思想がありますし、生まれながらの罪人という概念、また死後デウスに裁かれるという概念があります。仏教にも末世思想、輪廻転生による善悪の応報があります。
ですが、神道にはそういった終末思想もありませんし、善と悪、という考えもそこまでわけ隔たっていません。ハーンも本書で言っていますが、日本では善でも悪でも、力の強いものは等しく祀る、という考えがあります。
「もののけ姫」でもタタリ神になってしまったシシ神、ナゴの守を、村の巫女ヒイは祈るわけですね。祈って祀って、鎮まってもらう。決して、悪鬼よ滅びろ! とか、邪神退散! とか荒々しく祓おうとはしない。アシタカだって当初は刃を向けようなどとは決して思わなかった。相手をあくまで、敵、悪、相容れないもの、とは扱わない。
そこには本質的な同質視、みな同じ。という考えがある。
西洋や仏教のように、単純な、単細胞的な、善悪二元論で十把一絡げに取り扱うのではなく、酸いも甘いも噛み分けた人生経験による、許し、自分の身で相手を推し量る、という思慮がある。思いやりがある。
だから、本質的な日本人はからっとして正直で、清潔好きで、明るく素直です。性格が捻じくれ曲がっていて、言うことなすこと、ことごとく正義にもとる、などというのは日本人からすれば到底我慢できない。
だから、殺人を犯したような極悪人であろうと、その罪を認め、過ちを悔いたその瞬間、皆がそれを受け入れてしまう。罪を受け入れたその刹那、その罪はもはや祓われて、浄化されてしまったわけです。となるのならば、憤怒の表情で、口を極めて罵声を浴びせ石をもって投げつける、などというのはもはや日本人の心にはあるはずがないのです。
そこには、どの民族も、どの宗教も、そうそうなしえない慈悲の心と、懐に受け入れる暖かさがある。
100年前の日本人はこんなにも情と慈悲にあふれた民族であったのです。それは決して、自分の子供に熱湯をかけたり、死ぬまでご飯を与えない、などという生物になることではなかったはずなのです。
こういう世の中に対して、心の底から日本人が悔悛しない限りは、日本民族がこの地球上から消え去るその時まで、自分の子供に熱湯かける輩は、消え去ることはないでしょう。
では、次にわたしが気になった一節を丸写しいたします。とはいえ、ちょいと(けっこう?)長いので途中略しますが。
趨勢一瞥
「開港場にある外人居留地といえば、いかにもそれは、極東らしい周囲の風物に、きわだった対照をなしているものなのである。ひとは、町筋ばかりに井然(整然と同じ)とした、その不体裁のなかに、なにか世界の東側にはない土地を連想させるようなものを発見するだろう。まるでそれは、西洋の切れっ端が――たとえば、リヴァプールとか、マルセーユとか、ニューヨークとか、さもなければ一万も、一万五千マイルも離れた、どこか熱帯の街の一部分が、魔術にでもかかって海を飛び越え、はるばるここまで持ってこられた、といった感じである。
そこには、吹けば飛ぶような日本の低い商家にくらべたら、それこそ雲突くような商館のビルディングがある。そいつが、どうだ、おまえたちにこれだけの財力があるのかと言って、脅かしているように見える。住宅が、これがまた実に種々雑多で、インデアン風の平屋建てのやつから、小さな塔や張り出しの窓のついた、英・仏式の田舎の別荘風のものまである。そして、たいていそれに、きれいに刈り込んだ植え込みの平凡な庭がぐるりについているのである。白い道路は、テーブルにように堅くて平らだ。道路の両側には、仕切りの立木が植えてある。
イギリスやアメリカにありきたりのものは、ほとんどなんでもここへ移植されてきている。教会の尖塔もあれば、工場の煙突も見える。電信柱もあれば、街燈もある。鉄扉のついた舶来煉瓦の倉庫があるかとおもえば、板ガラスの飾窓のある商店もあるし、歩道もあれば、鉄の鋳物の欄干もある。新聞は、朝刊に夕刊、週刊もある。クラブに図書館、玉転がし場。玉突き場あり、酒場あり、学校に船員の礼拝堂。電燈会社に電話局、病院、法廷、監獄、警察。外人弁護士がいれば外人の医者もいる。おなじく、外人の食料品屋、菓子屋にパン屋に牛乳屋、婦人服屋に男物の仕立て屋、外人教師、音楽教師。役場の事務と集会につかう公会堂。――こいつは時に素人演芸や講演会、音楽会にも使用される。ごくたまには、世界を股にかけた旅回りの劇団が、しばらくここに逗留して、本国でするのとおなじように、男の客を笑わせ、女の客を泣かせることもある。クリケット場に、競馬場に、公園。――公園といっても、イギリスのいわゆるスクエア――広場だ。ヨット会がある、運動競技会がある、水泳場がある、耳に聞こえる絃歌の音には、ピアノの練習の、あのいつ果てるやらわからないガンガンコロンコロンに、ぶちこわしみたいなジンタの音、ときには、息の切れた手風琴の音も聞こえる。聞こえないものは、手回しのオルガンの音だけだ。住んでいるものはというと、イギリス人にフランス人、ドイツ人、アメリカ人、デンマーク人、スエーデン人、スイス人、ロシア人、それにイタリア人とレバント人が、申し訳にばらりとばらまかれている。おっと、シナ人をもう少しで忘れるところだった。シナ人はうじゃといる。シナ人だけで、一区域占有しているくらいだ。
しかし、なんといっても、優勢なのはイギリス人とアメリカ人で――ことに、イギリス人は大勢いる。こういう有力人種のあらゆる欠点と、ややましな長所があるとすればそれもだが、これを調べるなら、わざわざ海を渡って研究するよりも、ここで研究した方がよっぽど便利なくらいだ。なぜかというと、こういう小さな寄り合い世帯のなかだと、かえってお互いに、人の振りがよくわかるからだ。まことに、ここは極東という茫漠たる未知の砂漠のなかにある、西洋生活のオアシスだ。
なるほど、ここでは、書くにたえない醜いうわさも、あるいは耳にするかもしれない。しかしまた一方では、清廉高潔、寛仁大度の美談も聞かれるだろう。――たとえば、自分は依怙地ものと見せながら、その真底にある美しい心は、つとめて月並な仮面をかぶって、世間に悟られないようにしている、そういう人がした、思い切った善行美談などだ。
しかし、互いに生まれた国を異にする外人同志も、それぞれその住む区域は、ちょっと歩いて行かれる程度の距離を超えてはいない。第一、そんな区域などは、いずれそのうちに消えてしまうことだろう。その理由は、あとで述べることにして、いったい居留地というところは、早熟に発展したところだ。アメリカの西部諸州にある「新開街」みたいに、出来上がったと思ったら、もう発展の頂点に達してしまったという、そんな観がある。
居留地の周囲と、そこから少し離れたところには、本国人の町、つまり、日本人の住んでいる町が、ちょっとどこまでその先が広がっているか、見当がつかないくらいに延びひろがっている。ふつうの居留民にとっては、この本国人の町は、秘密の世界になっている。
たいていの外人連中は、十年住み着いても、そこが、とにかくいっぺんは行ってみる価値があるところだなどとは、考えてもいない。そういう外人連中は、一介の商人なのであって、土俗の研究家でもなんでもないのであるから、もとより興味のあろうはずはないし、日本の町がどんなに変わっているかなどということは、考える暇もないのである。そういう連中にとって、居留地の境界線を越えることは、じつに太平洋を越えるのと同じようなものだが、その太平洋にしても、人種と人種の違いに比べたら、まだまだ狭いくらいのものだ。
まあ、日本の町の狭っこい、どこまで行ったら尽きるのやらわからないような迷路へ、いちど、ひとりで入ってご覧なさい。犬には吠えられるし、子供たちからは、まるでこっちが、この国はじまって以来、初めて見る外国人であるように、じろじろ見られるし、そして、おそらく、あとから追っかけてきて、「異人」「唐人」「毛唐人」などと呼び立てられるだろう。――「毛唐人」というのは、「毛深い外国人」という意味のことばで、べつに褒め言葉で言っているのではないのである」
二
「長いあいだ、居留地の外人商人たちは、万事に身勝手な振る舞いをしてきた。西洋の商人なら、とても承諾など思いもよらないような商売のやりくちを、日本の商会に強要してきたのである。――まるでそれは、日本人というやつは、ひとりのこらず、油断も隙もならない狡っからいやつだと思いこんでいる外国人の肚を、あけすけに曝け出したようなやり口だった。
当時は、どこの外国人も日本人から商品を受け取ると、それを久しく手元に置いて調べに調べ、「徹底的」に調べぬいたあげくでなければ、物を買わなかったものである。あるいは、どんな輸入品の注文でも、「手付金」を払わなければ応じなかったのである。日本の売り手・買い手は、いろいろこれに文句をつけたけれども、しょせんは暖簾と喧嘩で、とどのつまりはいやいやながら、やはり長いものには巻かれてしまうのであった。そのかわり、いまに見ろ、いつかは勝ってやるぞと、観念の臍をきめながら、日本人は時節のくるのを待っていたのである。彼らは、外人町の急速な発展と、そこに根を下ろして成功した莫大な資本とを見て、自分の身を助けるまえに、外人から学ばなければならないことを悟った。
敬服はしないが、驚歎したのである。そこで、内心ひそかに、外国人のことを毛嫌いしながらも、外国人と商品取引もし、外国人のために働きもした。むかしは、日本では商人の位は、平百姓の下にあったものである。ところが、これらの外人侵入者は、気位の高きこと王侯のごとく、傲慢なること征服者のごときものがあった。雇い主として彼らは、普段はすこぶる過酷で、どうかすると残忍にさえなることがある。そのくせ、金をもうける段になると、驚くほど抜け目がなく、王者のごとき生活をして、高い給金を払っている。
そこで、こういう外人どもの支配下から国を救うためには、すべからく日本の若い者が、ぜひとも学ばなければならないことを学ぶために、彼ら外人に使役されて、難儀をすることが望ましかった。必ずや、いつの日かは、日本も自国の商船をもち、海外銀行代理店と外国の信用とを得て、これら不遜な外人を放逐する日がくるに違いない。まあ、それまでは、当分のあいだ、自分たちの教師として、外国人を許しておかなければならないと、そう彼らは考えたのである。
そこで、輸出も輸入も、すべて貿易はまったく外人の手に委ねられ、その貿易額は、無一物の白紙から、一躍、数億の巨額にのぼり、日本はうまく喰い物にされたわけであった。しかし、日本は、目下のところ勉強中で、そのために、当分のあいだ束脩(月謝のこと)を払っているのだということを、自分で承知していた。その隠忍は、侮辱ということを忘れたのかと思い誤れるくらい、手も、足も、頭も、じっとすくませていた。長い、長い、隠忍であった。天運はめぐりめぐって、ついに日本の機会は到来した。
利を漁って、ますます殺到する外国人が、日本に最初の便宜をあたえたのである。我も我もと先を争って、日本と貿易しようとする各国の競争が、旧弊なやり口を打破したのである。そして、新しい商館は喜んで注文を取るし、「手付金」も思い切って要らぬと言い出したので、巨額の前金は、もはや強奪されなくてすむようになった。それと同時に、外国人と日本人との関係も改善されてきた。
それは、日本人の方で、相手からひどい目にあわされれば、すぐに徒党を組むという危険性を発揮しだしたことと、ピストルなどではもはや脅かされなくなり、辱しめられれば引っ込んではいず、たいていの荒くれものの相手でも、五、六分で片付けてしまうことを覚えてきたからであった。もっとも、よほど前から、人間の屑みたいな開港場の与太者どもは、すこし気に入らないことがあると、すぐに手向かいする癖があったが。
居留地ができてから、ものの二十年とたたないうちに、一時は、日本の全土が自分たちのものになるのも、ただ時間の問題ぐらいに想像していた外国人たちも、だいぶ日本人というものを、今まで見くびりすぎていたことに気がつきだしていた。そのあいだに、日本人は、驚くほどよく勉強していたのである。ほとんど中国人と同じくらいに、よく学んだのである。外人の経営していた小さな店屋などは、だんだん追いやられてしまったし、いろいろあった商館なども、日本人との競争のために、やむなく店仕舞いをしなければならない羽目に立ちいたったものなどもある。
大きな外国会社でさえ、いままでのような濡れ手に粟の金儲け時代はとうに過ぎ去って、そろそろ商売のつらい時期に入りかけてきていたのである。外人の日用品なぞにしても、はじめのうちは、かならず外人の手で供給されていたもので、だから、問屋が後ろ楯になって、小売屋の店がみな大きく伸していたわけなのだが、それが目に見えて、そういう居留地の外人小売店に秋風が吹き出してきたのである。ある店などは、姿を消してしまったのもある。そうでないものも、みすみす(原文ママ。みるみる?)目に見えて減ってきた。
こんにちでは、外国商館の番頭や手代も、居留地のホテルにいたのでは、とても暮らして行かれない。日本人のコックなら、わずかな給金で雇えるし、さもなければ、日本の仕出し屋から三度三度の食事をとれば、一品五銭か七銭ですむ。そんなわけで、そういう番頭・手代連中も、ちかごろでは、日本人の持っている「半洋風」の家に住んでいる。
そういう家の床に敷いてある絨毯も、畳も、みな日本製のものだし、家具も、日本人の指物師がおさめた品である。そのほか、衣服、シャツ、靴、ステッキ、雨傘など、いずれも日本製品で、このごろは、手洗い所の石鹸にまで、日本文字が捺してある。煙草好きなら、マニラの葉巻を、これも日本人の煙草屋から、外人の店の同じ品の値段より、一箱半ドルも安く買っている。
本がほしければ、これも外人の店よりずっと安い値段で、日本人から買える。――しかも、精選した多量の仕入品の中から、選り取りで買えるのである。写真が撮りたければ、日本人の写真館へ行く。外人の写真屋は、おそらく、日本では暮らしが立っていかないだろう。骨董がほしければ、これも日本人の店に行く。――外人の店だと、どうしても、一割方は高く売りつけるのが定法である。
(中略)
これらの事実は、数多くの例の中から、手当たり次第に挙げたのであるが、とにかく、以上のような事実によって、アメリカ人のいわゆる「ストア」――商店というものは、外人経営のものは、早晩、日本の居留地からは影をけしてしまうだろう、ということがわかる。
もっとも、中には、日本人の中の一部の小商人どもがやった、あのなくもがなの、愚にもつかない詐欺行為――たとえば、舶来のレッテルのついた舶来のビンに、怪しげな酒を詰めて売ろうとしたり、輸入品を偽造したり、あるいは、商標を模造したり、そんな詐欺行為のおかげで、かえって命を延ばした外人の店も何軒かあったりしたが、しかし、日本商人全体としての常識は、そういう不徳義行為には、強硬に反対しているから、まもなくそうした悪弊はひとりでに是正されてゆくだろう。いったい、日本の商人が、外国商人よりも、物を掛け値なしに安く売ることができるのは、結局外国人よりも安価に生活ができるのみならず、競争しながら、けっこうそれで金がもうかってゆくからなのである。
このことは居留地内でも、やっと最近になって認められだしたのであるが、しかし、まだまだ迷妄はなかなか解けない。輸出入をあつかう大商館は、なんといっても地盤が堅いから、ちょっとやそっとのことでは倒れるようなことはない。だから、そういう大商館は、まだ当分のあいだは、西洋との貿易の大勢を牛耳ることができよう。それに、日本の商社は、外資の圧迫に拮抗できるほどの資本はないし、第一、資本があってもそれを運用する商法を心得ていない。
なるほど、外人の小売業者は、これはなくなるだろう。しかし、そんなことは、なんでもありはしない。そのかわりに大商館は、依然として元のままに居座り、ますますその数はふえ、資本はいよいよ増大するだろうと、こう彼らは見通しをつけているのである」
三
「こういう外面的な変化が続けられている間にも、民族間の実際感情――東洋と西洋とが、お互いに毛嫌いしあっている感情は、次第に増大して行った。開港場で発行している、九か十の英字新聞の大多数が、毎日侮り軽んずるような嘲弄的な言辞をもって、そういう嫌悪の一面を書き立てた。
すると、有力な日本の新聞の方でも、売り言葉に買い言葉で、すかさずこれに応酬する。そういうわけで、だいぶ険悪な反応を引き起こしたものであった。こういう「反日的」な外字新聞紙が、実際に、居留民の絶対多数の感情を代表しているのではないにしても、――わたくしは代表していると信じているが――少なくとも、外資の力と、居留地の優勢な勢力とを言論に表していることは、まぎれもない事実だ。
これに対して、「日本びいき」の英字新聞は、いずれも敏腕な連中が編集にあたって、ずいぶん、その道の腕をふるっているのだけれども、それでも、同業者の言説によってあおられた強い鬱憤は、なかなか鎮圧することができなかった。そうなると、英字新聞にかかげられた日本人の野蛮不道徳の非難記事は、逆に今度は、日本の日刊新聞がさっそくそれを取り上げて、開港場の外人の醜聞暴露の記事で、竹箆返しをくわせる。
そんなことで、何千万という日本人に、ぱっとそれが知れ渡ってしまう。といったようなわけで、この人種間の問題は、強硬な日本の排外団の手によって、政治問題にまで持ち込まれ、居留地は悪徳の温床なりとして、公然と攻撃の矢を蒙った。国民の憤激また侮り難く、ついに内閣が断乎たる処置に出たので、ようやくのことで大事に至らずして事がおさまったほどであった。
それにも関わらず、外人記者によって、油は、せっかく消し止められた火の上にまた注がれた。彼らは、日清戦争の当初には、公然、シナ側に味方をした連中であった。彼らのこの方針は、ずっと持ち続けられた。そういう外字新聞には、日本敗北の虚報がやたらに載せられ、どこから推しても、わかりきった勝利までが、不当なケチをつけられ、さて戦争の勝敗が決まった後は、「日本は甘やかしすぎたので、手のつけられない国になった」などといって、うそぶいている始末だった。その後まもなく、ロシアの干渉が拍手をもって迎えられ、イギリスの同情はイギリス人の血をうけた連中から、こっぴどく非難された。
こういう場合に、こういう言説を弄すれば、その結果は、必ず、こういうことを絶対に許してはおかぬ国民に、許すべからざる侮辱を与えることになるのは当然のことである。そういう言説は、憎悪の言葉であったと同時に、実は恐怖の言葉でもあったのである。つまり、外国人はすべて日本の司法権の下におかれるという、新しい条約の調印によって引き起こされた驚愕と、その新条約の背後には、さらに新しい意味の国民的勢力をもった、やむにやまれぬ排外運動が起こりはしないかという恐怖とが、知らず知らずのうちに、ああいう言説になったのであった。
もっとも、新しい排外運動云々のことは、これはあながち根拠のないことではなかった。そういう運動の徴候は、実際、外国人さえみれば嘲弄揶揄する、一般国民の傾向にも認められたし、また稀にある、見せしめにやる暴行行為などにも、明らかに見えていた。ところへ、政府はふたたび布告を出して、こうした国民的憤懣の示威的行動を戒める必要を認めたので、そういう運動も、いわば開店休業のような形でじきに止んでしまった。
しかし、この運動がやまった(原文ママ。止まった?)原因のひとつは、海軍国としての、当時のイギリスの友好的態度が、国民一般に認識されてきたことと、世界の平和に一朝事あった場合の、日本に及ぼすイギリスの政策の価値が、ようやく認められてきたからであることは、疑いの余地はない。イギリスは、同時にまた、極東在住の英国人の猛烈な反対があったにもかかわらず、条約修正を可能ならしめた筆頭の国である。日本の指導者たちは、その恩恵を感じている。もしこれがなかったら、居留民と日本人との間のいがみあいは、確かに懸念されたような悪い結果を招いたに違いない。
もちろん、初めのうちは、この相互の反感は、人種的なものであったから、したがって自然であった。ところが、後日になって発展した、むちゃくちゃに猛烈な偏見と悪意とは、これは日を追うて増してきた相互の利害の衝突と、切っても切れないものであった。こうした情勢を、本当に理解できた外国人なら、とても双方和解の望みなど、まじめに持てるはずはなかったに違いない。
民族的感情、感情的な差別、言語、風習、信仰の壁、これは何世紀たっても、超えがたいままに残って行くようである。直観的に、お互いに相手の気質を見抜くことができるような、例外的な人物相互の牽引から生ずる、温かい友愛の例もあることはあるけれども、だいたいにおいて、外国人が日本人を理解しないことは、日本人が外国人を理解しないのと同じである。
そのうえ、外国人にとって、誤解よりもさらに悪いことは、自分が闖入者の立場にあるという単純な事実である。普通の場合、外人は、日本人と同じ扱いを受けることは、とても望めない。これは、何も外国人が余分な金が自由になるというためではなく、人種が違うためなのである。外国人に売る値段と、日本人に売る値段が違うのは、これは、御定法だ。
ただ、外人相手に限った店なら別だが、早い話が、劇場に行っても、見世物小屋に入っても、あるいは、その他の娯楽場、宿屋のようなところへ行っても、外人だと、国籍税というものを取られる。それから、職人、人夫、番頭など、いずれも外人相手となると、内地並みの賃金では決して仕事をしない。
給金以外に、何か見かけた山でもあれば、話はまた別だが。たとえば日本のホテル業者は――とくに欧米の旅客のための施設になっているところは別だが――外人の勘定書は、普通の値段では書かない。この規則を守るために、大きな旅館組合が――全国幾百という宿屋業者を束ね、地方の商人や木賃宿のようなものにまで、命令を達することができるような、大規模な組合組織が作られている。外国人は、余計な手数をかけるから、日本人より宿賃ははずんでいただくということが、どうどうと旅館に掲げてあるのだ。
外人が余計な手数をかけるというのは、こりゃなるほど事実であるが、しかし、こういうことにも、その下心には、人種的感情が明らかにわだかまっているのである。第一、大きな中心都市などにある旅館は、いずれも日本人の風習にのっとって作られてあるが、外国人の風習などは、まるで考慮に入れられていないために、外人のために、往々にして損をすることがある。
――というのは、贅沢な日本人の泊り客は外人がひいきにする宿屋を好まぬふうがあるのと、それに日本人なら、五人か八人のお連れさんの入れ組で、けっこう金がさのあがる部屋を、西洋人の客は、一人で独占したがるふうがあるからである。これに関係したことで、もうひとつ、まだ一般の西洋人にわかっていないことがある。それは、旧時代の日本では、旅館のサーヴィスに対する心付けが、客本位になっている点だ。いったい、日本の宿屋では、どこでも食費をほとんど実費以上に取るところはない。(いまでも、地方の宿屋はそうだ)であるから、宿屋の儲けは、まったく、客の心付けに頼っているわけなのである。
宿屋に茶代をおくということは、つまりここから出ているわけで、金のない客からは少額、金のある客からは、サーヴィス次第で、多額のものがもらえる。同じように、客席に出る女中なども、自分のする仕事の値打ち以上に、客のふところに相応したものを胸算用している。たとえば、職人なども、いい顧客の仕事をするような時には、自分の方から値段をさすことはしたがらない。ただ、商人だけは駆け引きをして、お顧客からうまい汁を吸おうと心がける。
――それが、昔から、この国の商人という階級の、たちの悪い特権だったのである。勘定を相手の意志に任せるというこの習慣が、西洋人相手の取引に、かんばしい結果がえられなかったことは、容易に想像される。西洋人は、物の売り買いを、すべて事務として考えている。そして西洋では、事務が、純抽象的な道義心で行われることはまずない。あっても、せいぜいまあ、比較してみた上で、幾分かあるという程度の道義心で行われるにすぎない。
金離れのいい人ほど、買いたい品物の値段を、自分の心持ち次第に任されることを嫌う。それはそのはずで、材料がいくらぐらいするものやら、手間がどのくらいかかったものやら、確かなところはわからないのだから、自然、余分に払いすぎるな、と思うほどのものを、どうしたって払わなければならないような気になるからである。そのかわり、渋いやつは、こいつ勿怪の幸いとばかり、とことんまで、思い切った値切り方をする。
そんなわけで、日本人は、外国人との取引には、どうしても特定の値段を決めなければいけない。もっとも、取引といっても、そこはお互いに人種的反感があるから、どうしたって多少そこに喧嘩腰のところがある。そこで、外国人は、腕のいいあらゆる種類の手間に、そうとう高い賃金を払わせられているばかりでなく、高い地代の契約に署名もしているし、高い家賃をしかたなくしぼられているのだ。それに、家事の方面でも、雇人を雇えば、追い回し同然のものでも、給金は高い。そのくせ、言いつかる仕事が好ましくないというので、たいていは長く居つかない。学校出の日本人で、外人雇いに入ることを望むものの熱心さも、一般に誤解されている。そういう連中のほんとうの目的は、多くの場合、ただ単に日本の商社とか商店、ホテルなどと同種の仕事を見習おうというにある。普通の日本人は、高い給金を払う外人のために、一日八時間働くよりも、安い給金をもらって、日本人の家で十五時間働く方を好んでいる。大学出の人間が、下僕として働いているのを、わたくしは見たことがあるが、そういうのは、特殊なことを学ぶために働いているのである」
四
「実際、どんな鈍感な外国人でも、自分の国を絶対に独立自尊の国家にしようと、挙国一致で努力している四千万の国民が、自国の輸出入の貿易を外人の手に任せて、それで安閑としていようなどとは、信じちゃいなかったろう。
ことに、開港場の空気を見ては、なおさらのことである。外人の居留地が、日本国内にありながら、領事裁判の支配下にあるということからしてが、すでに国民の自負心に対して、しじゅう憤懣のたね――というよりも、国民の無力さを暴露したものであった。このことは、すでに印刷物にも、排外団員の演説にも、議会の演説にも、そのとおり声明されている。
しかしながら、日本の貿易は、ことごとく日本人の手に握りたいという国民の要望も、居留民に対する、その時々の挑戦的態度の表明も、結局は、一時の懸念を掻き立てるだけに終わった。やがて、海外の取引相手を排斥しようという企ては、ひいてはそれが、自らを傷つけることに他ならない。――そういう説が自信ありげに主張された。
一方、居留地の商人たちは、自分たちが日本の法律の支配下におかれたことには一驚を喫しながらも、法を侵害しさえしなければ、大きな外資に対して、いくら日本が攻撃しようが、それは成功しないと考えていた。そういう彼らは、今度の戦争中に、日本郵船会社が世界最大の船会社のひとつになったことも、日本がシナとインドに直接に貿易をはじめたことも、また、日本の銀行代理店が、海外諸国の大きな工業中心地に設けられたことも、また、日本の商人たちがその子弟を欧米に洋行させて、健全な商業教育を受けさせていたことも、いっこう意に介さずにいたのである。
また、日本の弁護士が、次第に多くの外人依頼者を獲得しつつあったからといって、あるいはまた、日本の造船技師、建築技師、その他の技師たちが、政府の招聘した外人技師の後釜に座りつつあったからといって、欧米との輸出入貿易を押さえている外国の代理店が、締め出しを喰うなどということは、けぶりにも考えていなかったのである。商業という機関は、日本人の手においたって、役に立ちゃしない。商売に対する先天的才腕というものは、ほかの職能では、決して卜されないものだ。
日本に投資した外資は、これに対抗しようとして作られた、どんな合資合名にも、そうまんまと脅かされるようなことは、まずありえない、そりゃ、ある商店は、ごく小規模な輸入貿易に乗り出すことができるかも知れない。しかし、輸出貿易ともなれば、これは西半球の商業状態に精通していなければならないし、日本人などには、とても逆立ちしたってできない連絡と信用とが要る。
――こういって、彼らは、空うそぶいていたのである。ところが、どうであろう、それほど空うそぶいていた輸出入貿易の自信は、一八九五年の七月に、ころりと破られてしまった。
それは、イギリスのある商館が、日本のある商会を相手取って、注文品の引き取り方を拒絶したかどで、日本の法廷に告訴し、その裁判に勝者となって、約三千万ドルをせしめたことが、俄然、いままで思いももうけなかった強力な組合が出現して、それとの対抗で、脅威をうけるようなことになったのである。
日本の商会は、その時、判決に対して控訴はしなかった。
そして、もう御要求なら、全額をすぐに支払うだけの用意があると表明した。が、その商会が加盟している組合側は、勝った原告に判決どおり示談で手を売った方が有利だろう、と勧告した。
当のイギリス商館は、実はその時、根こそぎ破産してしまうほどの不買同盟――全国のあらゆる商工業の中心地にひろがる、大々的な不買同盟に脅かされていることに、はじめて気がついたのであった。
結局、その時の示談は、外国商館の大損失となり、居留地は震え上がってしまった。日本がそういう挙に出たのは不徳義だ、と非難を鳴らす声もだいぶあったが、しかし、これは法律もいかんともすることのできない行動であった。何故かといえば、不買同盟は法律では満足に解決できない問題だからである。そしてこのことは、ひいては日本人が、外国商館を強引に――公正な手段でなければ、卑劣な手段に訴えても、自分らの指図どおりに承服させることができるという、有力な証拠をあたえたようなものであった。
すでにして、強大な組合が大商工業者たちの手によって組織され、組合の行動は電信一本で統一され、反対者を粉砕し、法廷の判決すら眼中におかなかった。前にも日本人は、たびたび不買同盟を企てたことがあるが、いつも成功したことがないので、合同団結などはとても望めないものと思われていたのである。
ところが今度の新局面は、失敗によって学ぶことの多かったことと、組合の組織をさらに改善すれば、たとえ外国貿易を自分たちの手の内にことごとく収められなくても、手加減ひとつで、けっこう運営していかれるという、当然の期待がもてることを示したのであった。こうなれば、この次にくる大きな段階は、いよいよ国民の待望である、「日本人のための日本」を実現することであろう。その暁には、この国は、外人の居留地に広く開放されるだろう。その代わりに、外国の資本は、必ず、日本人組合の庇護を受けなければなるまい」
五
「以上、簡単に日本の現状について述べてきたのであるが、これだけでも、日本における大いに意義ある社会現象の発展を証するに、十分足りるであろう。もちろん、新条約のもとに、当然予期せられる門戸の開放、工業の急速な進歩、欧米との貿易額の年々の大増加は、おそらく今後も、外人居留者の多少の増加をもたらすだろう。そして、この一時的な結果から、当然起こるべき今後の大勢を、思い誤るものも多いかも知れない。
しかし、経験に富んだ、年をとった商人たちは、いまでも、開港場の今後の発展は、日本商業の競争的成長を意味するもので、外人商人はこのために、ついには駆逐されてしまうにちがいない、と公言している。共存社会としての外人居留地は、やがて消滅してしまって、その後には、ただ、文明国の主要な港々にあるような、ごく少数の大会社の代理店が残ることになるだろう。
そして、廃業された居留地の町と、高台にある金のかかった洋館とは、そのまま日本人がそこへ住み着くことになるだろう。今後はもう、巨額な外国資本の投資は、内地ではなされることはないだろう。キリスト教の伝道事業でさえ、やがては日本人宣教師の手に任されるに違いない。
ちょうど、仏教が、日本人の僧侶の手に、その教義の教化をすっかり任せきれるまでは、日本に根を張らなかったのと同じように、キリスト教もやはり、日本人の感情生活や社会生活にしっくり調和するように改造されるまでは、ひとつの安定した形をとらないであろう。たとえ、そのように改造されたところで、まず、少数の小さな宗派の形においてしか、日本では存続する見込みはないだろう。
この社会的現象は、たとえ話でするのが、一番いい。人間の社会は、色々の点で、生物学的に、一個の有機体と比較することができる。その組織の中へ、無理に異物を押し込んで、それが組織中に同化されないと、そこにある種の刺激と、局部的な分解作用を起こして、ついには、ひとりでに排出してしまうか、人工的に取り除いてしまうかしなければならなくなってくる。日本はいま、この邪魔者の異分子を、体外へ排出してしまうことによって、国自体がいよいよ強力になりつつあるところなのである。
そして、この自然の過程は、全国の居留地をふたたび自国のものに取り戻して、この帝国のうちに、外国人の支配下にあるものはひとつも残しておくまいという、堅い決意のうちに表徴されている。外人雇用者の解雇、外人宣教者の権柄ずくに対して、日本の信徒たちが提起した抗議、外国商人に対する断乎たる不買同盟など、すべてみな、このあらわれである。しかも、こうした国民運動の背後には、人種的反感以上のものがひそんでいるのだ。
そこにはまた、外国から援助を受けることは、取りも直さず、それは国民の無力さを証拠立てるものだという信念、自国の輸出入の貿易事業が、外国人に牛耳られている間は、日本帝国は、世界の商業界に生き恥をさらしているのだという、確固たる信念があるのである。
すでに、日本の大商社のうちには、外国の仲介業者の手を、早くも脱しているものがいくつかあるし、インド及びシナとの大規模な貿易は、日本の汽船会社の手によって、着々と進められている。近く、南米諸国との交易も、原綿輸入のために、日本郵船会社の手によって開かれることになっている。しかし、その間、外人居留地は、絶えず刺激の源泉として、もとのままに残っている。ここにおいて、倦まざる国民の努力による商業上の征服のみが、国家を満足させ、シナとの戦争以上に、日本の世界における真の位置を証するであろう。その征服は、必ず成し遂げられるに違いないと、わたくしは考えている」
六
(大略)
「ところで、他の方面では、一時的なある種の後退がくることが、予期されなければならないだろう。ちょうど日本が、自力の限度以上のものを意図したその線まで、――あるいは、その線以下まで落ちることは、疑いない。
こうした後退は、ごく自然なものだし、同時にまた必然のものであって、これはいずれそのうちにまた、捲土重来すべき雪辱の準備以外の意味はないものである。その徴候は、すでにこんにち、ある官庁の仕事の上に見えている。ことに、文部省の仕事にそれが著しい。
いったい、東洋の学生に、西洋の学生の平均能力以上の学科を課そうとしたり、英語を自国の国語、乃至は第二国語にしようとしたり、あるいは、こういう訓練によって、父祖伝来の感じ方、考え方を、もっとよいものに改良しようとしたり……というような物の考え方は、実に無謀な考え方であった。日本はどこまでも、自国の精神を発展させて行かなければ駄目だ。
異国の精神などを、借り物にしてはいけない。わたくしの親友で、一生を言語学にささげいている男がいるが、その男が、かつてわたくしに、日本の学生の行儀のくずれたことについて、こんなことを言ったことがある。
「いやね、英語そのものが、堕落の影響を与えたんだよ」
と。この言葉に、意味深長なものがある。日本の国民全体に英語を学ばせるなどは、ほとんど乱暴に近いことであった。(いったい、英語という国語は、「権利」については、いろいろ説教を説くくせに、「義務」については、いっこうに説くことをしない国民の国語である)それを国民全体に学ばせようという政策は、あまりにも突飛だったし、第一、大掛かりすぎた。大変な時間と費用がかかったうえに、それがいつとはなしに、道徳的感情を掘り崩して行くのに役立ったのである。
将来は、日本も、ちょうど英国がドイツ語を学ぶように、英語を学んでゆくことになるだろうが、しかし、この英語の習得は、いろいろの方面で無駄骨に終わったけれども、ある方面では、徒労に終わらなかった点もある。
英語の影響は、日本語の変革に効果があったのである。そのために、国語の語彙が豊富になり、また、国語に伸縮性が加わり、さらに、近代科学の発見から生じた、思想の新しい形式を表現することができるようになった。この影響は、長く続くに違いない。将来は、フランス語やドイツ語と同じように、英語はそうとう多く、日本語の中に吸収されるだろう。この吸収はすでに有識階級の言葉遣いの変化に、著しく現れている。それは、ちょうど開港場の日常会話の中に、外国の商業語が妙なふうに変形されて混じっているのと同じである。のみならず、日本語の文法的な構成も、だいぶ影響をこうむっている。
先日、旅順陥落の際に、東京の街に腕白小僧どもが、「旅順が占領された!」と受動態でどなっていたのも、ある牧師が聞いて、ああ、これも「神意」の然らしむるところだと言っていたのには、にわかに賛成はできないにしても、とにかく、この話なども、日本語という言葉が、本来、この国民の天性と同じように、実に同化しやすい言葉であって、情勢が新しくなればなるで、どこまでもその要求にあわせて行ける力がある言葉だという証拠にはなると、わたくしは考えている。
おそらく日本は、二十世紀になれば、こんにちの外人教師というものを、よけいに懐かしく思い出すだろう。しかし、思い出すにしても、この国が、明治以前の昔に、中国に対して感じていたような、ああいう古来の風習どおりに恩師を尊敬する念は、まず感ずることはあるまい。これは何故かというと、中国の知識は、日本はこれを自発的に求めたのであるが、西洋の学問は、強制的に押し付けられたものだからである。
キリスト教にしても、いずれ日本は日本流の宗派を持つだろうが、それにしても、昔日本の青年を教導した中国の高僧を、こんにちでも長く記憶しているようには、アメリカやイギリスの宣教師のことを、長く記憶はしないだろう。また、我々が日本滞在の形見の品を、七重の絹に丁寧に包み、美しい白木の箱に収めて、長く保存しておくようなことは、まずしないだろう。何故かというのに、我々は、新しい美の教訓は日本に教えなかったのだし、日本人の感情に訴えるような物は、なにひとつ与えることをしなかったからである」
……ふい~、長かった~。
途中、途中、何度略そうかと思ったものですが、傾聴せねばならないお言葉が多くて。結構なお点前の丸写しでおじゃった。
さて、全編において平易な言葉ですんなり首肯できるものばかりではなかったでしょうか。
なるほど、不買運動とは、相手より立場が上になった時に初めて有利な戦法なのであるな、と、今更ながらに勉強になったかと思います。ってか、これが分からないまま行動を起こすほうがどうかしているわけですけれども。
また、100年も前からこういった外国勢力によって反日言動というのは繰り返されてきていたのであって、日本人がいかに苦労してこの外国勢力と戦っていたか、その苦衷を察することは今の日本人では恐らく死んだってできはしないでしょう。
例えば、南京侵出にしたって、こういう、日本人・日本軍がしでかしたことは針小棒大で何でもかんでも書き立ててやろうと外国の新聞記者、特派員が手ぐすね引いて待ち構えている地に侵出したのであって、そんな中で虐殺なんてしでかそうものなら今頃、どれほどの非難が降り掛かったことか。当然、その当時の人々はそんなことは日常茶飯事であったから万事心得ていた。当然、日本軍の統率の取れた統治ぶりに、チャイニーズはもちろん、海外特派員だって称賛しているのが何よりの証拠です。
当時のご先祖様の苦労をいっさい考えることも、省みることもなく、戦後、左翼の狂言に右往左往していたし、今も左翼の狂言は止むことがない。
嗚呼。
また、人種差別が正義、という世界に、堂々と大和民族の精神を鼓吹せんと意気揚々と船出したのが100年前の日本人です。
逆に言えば、世界初と言われる国をあげた留学で、ちょんまげ帯刀姿で自分の国にやって来た、極東のおのぼり「サムライ」とやらが、ほんの数十年後には自分たちを脅かす存在に化けるとは、さすがの西洋人も予想はできなかったでしょうけどね。日本人は、有色人種の中で、唯一、この白人至上主義にくさびを打ち込んで、やがて全面戦争を起こせるほどの能力を見せつけたわけで、それをハーンは日本人の中に見出していたのでしょう。
とはいえ、さすがのハーンも、日本人すべてが、たった一回戦争に負けたくらいで、GHQに金玉ぶっこぬかれて奴隷の身に落ちて得々としているような民族に成り果てるとは夢にも思わなかったでしょうけどね。
また、西洋のもたらした、唯物論、共産思考が、日本人の中にすんなりと染み通って、日本流のキリスト教宗派どころか、世界でももっとも素朴な信仰心をもつ民族が、無神論こそ常識と思うほどの物質主義者へと成り果ててしまうとは、それこそ夢想だにしなかったことでありましょう。
まあ、確かに、それをなさしめたGHQに対して、日本人の誰もが感謝などしはしないでしょうけど。
しかし、ハーンが危惧したように、日本人のみならず、ほぼすべての東洋人が東洋思想のなんたるかを理解できなくなり、それどころか、すべてを捨てて顧みなくなってしまいました。あるのはただ西洋思考のみ。
東洋の、深遠なる思惟と実践によって出来上がった思想は、東洋に、高徳の僧を数多生み出し、日本という最高の儒教と信仰を会得した民族があった、という事実があってすら、世界は西洋思考一辺倒です。
西洋の思考から生み出された科学技術は確かに恩恵もありますが、ですが、最終的に共産思考、左翼思考となって東洋どころか、西洋だって猛威をふるい、数え上げるのもはばかられるような死者を出し、世界中に厄災をばらまいています。それでもなお、世界中の人間は東洋思想の淵源を訪ねることもなく、西洋の、副作用ばかりの思考をこそ人類普遍の価値だと盲信し続けるのでしょうか。
わたしは別に、傍観するのはなれていますが。
ですが、自分たちの子供に、こんな悲惨な世界に生きて欲しいと願っているのでしょうか。こんな世界で健全に人間の精神が、心が、すくすくと育つと本気で思っているのでしょうか。
よくもまあ、そんな残酷で無責任なことができるものです。
と言ったところで、今回はこんなところで。後二~三回は続く予定ナリ。