真に恐れるべきは有能な敵ではなく無能な味方である
時事ネタでふ。
または、真に侮蔑すべきは無能な働き者である。
おこんばんはです。豊臣亨です。
今回の大騒動、大山鳴動してネズミ一匹となるのか、鬼が出るか蛇が出るか、といったところですが、そう考えますと今回の騒動の根本は、日本が嫌いで嫌いで仕方がない、
民衆を虐殺したくて虐殺したくて仕方がない、
民衆を粛清したくて粛清したくて仕方がない、
民衆を弾圧したくて弾圧したくて仕方がない、
民衆を蹂躙したくて蹂躙したくて仕方がない、
民衆を強制収容所にぶちこみたくてぶちこみたくて仕方がない、
そして、自分だけはノーメンクラツーラ、特権階級になりたくて支配階級になりたくて仕方がない、しょせんは自分さえよければそれでよいという史上最低最悪の生物、共産主義者共が、チャイナや朝鮮人に下らぬ入れ知恵をしたことが発端となっておるわけです。そういう意味では、敵に塩を送ったわけですが、しかし、日本に巣食う共産主義者共でも予想外であったでしょうが、塩を送ったら奴ら高血圧になりやがった、というところでしょうか。
これがもう少しうまく立ち回ってくれればよかったのでしょうが、朝鮮人は世界の民族でも稀有な、レミング民族であったことが最大の誤算であった、というところでしょうね。何せ、朝鮮人という生き物は感情を最優先させるためなら己の命すら捨てて顧みない、という吶喊生物。バンザイアタックならぬ、マンセーアタックを戦争時でもない平時でやれる民族です。
日本を敵視し、敵対化するだけならともかく、経済的にはがっつり日本に依存しヒト、モノ、カネと日本なしではまともに工業すら回せないくせに、反日という目的のためなら、自国経済を死に体にしても構わない、というレミングっぷり。歴史問題で反日を煽り、自国の歴史の貧弱さ、薄っぺらさを糊塗するために日本を下とみなし、自ら驕り高ぶる。
いまや難癖つけられるものなら何にでも難癖つける有様。もはや、世界中のどの国も朝鮮の阿呆さ加減は分かっているからまともに相手にしないのに、それでも大騒ぎする無能な働き者。
共産主義者共も日本を貶めようと必死こいて朝鮮に援助したはよいがものの見事に自爆したわけで、これほど見事に無能な味方だった連中も珍しい。日本を弱体化し、歴史問題で追い詰めるはずが、恐ろしいまでの逆風が吹く有様。むしろ、ここまで火種が大きくなれば誰しもがまともな歴史認識を共有せねばならないと思うほど。さらに火の粉は日本国内の親韓勢力にまで及んでおるわけで、自分たちだけでなく、大事な大事なイデオロギー協力者まで危地に陥れるその無能っぷりはもはや称賛に値すると言ってよい。さらに、いささかの憐憫の情すら朝鮮に対しては湧いてこないよう、自分たちで全世界方位で働きかける様は、見ていていっそ清々しい。
とはいえ、この手のタイプは自省機能が一切ついていないのでただ自滅するのではなく、逆恨みしまくった挙げ句死なばもろとも、でこちらまで道連れにしようとする危険性が非常に高い。
何をさせてもこちらにとっては害にしかならない。
ここまで悲惨な生物は蚊かゴキブリくらいしかいないでしょう。
だいたい、朝鮮人は逆恨みばかり。自国の歴史や文化伝統が貧弱で、あってないようなものばかりだから日本が羨ましくて羨ましくて嫉妬心が凄まじい。
そろそろ日本人の中でも相当に浸透してきた頃合いだとは思いますが、朝鮮人の作り上げた歴史というのは、日本人だったら目を背けざるを得ないようなものばかり。
トンスルや乳だしチョゴリ。
まともに儒教を理解することも取り入れることもなく、「両班」と特権階級化し、民衆を差別し見下す。
その両班の影響で、自国の産業を育てるという概念すらない。モンゴル支配時にはあった、車輪とかタルといった木材加工技術はやがて廃れた。朝鮮にも工芸製品など優れた技術はあったのだそうですが、優れた工芸などはカネになるから、とすぐに両班がタカってくるから工芸師たちは子供たちの手や足を毀損することで少なくとも、自分たちの子供に両班が寄生することを防いだという。
工芸や加工技術などが育たないから染色という技術もなく、庶民は白い服しかもたなかった。
そして、歴史上、朝鮮は常にチャイナの攻撃を受けるから、属国が恒常化し華夷秩序を受け入れることで何とか安寧を保ってきた。だから、未だにこの華夷秩序が朝鮮人の遺伝子に入っていてチャイナに近い朝鮮が兄、日本が弟、という認識が消えない。日本はとっくの昔に華夷秩序を捨てているから兄だの弟だの下らない概念などないわけですし、また、華夷秩序を受け入れるということは、朝鮮人はいつまでたってもチャイナの属国であることを証立てるものなのですが、その認識はないのか。
よって自国の文字、言語がなく、ずっと宗主国の言葉を使っていた。どころか、ハングル語を便所でも覚えられる程度の文字と見下す始末。で、今はハングル語を使っているが、もはや漢字が理解できない。古き良き伝統、とかを保持する能力すらない。
だいたい、朝鮮は儒教国家、と言う人がこれまでに何人もいますが、そういう発言をする人は本当に儒教を理解しているのか疑わしく思えます。
儒教とは、まずもって、
【修身斉家治国平天下】
己の身を修めることによって、家を斉え、それを拡大させれば国は治まり天下は平らかになる、というものです。
だいたい、朝鮮人に己を修める、などという高尚なことが出来たものがどれほどいたのか。「比較的」まともな朝鮮人だと取り扱われる金玉均でも日本にいた頃は相当放蕩三昧であったと言われます。
それに、儒教は根幹として仁政を行うことをもっとも大事と心得る。されど、朝鮮の歴史に民衆を慮るような儒家がどれほどいたのか疑わしい。目先の利を盗むことしか考えられない、特権階級にしがみつき、民衆を搾取することが能事と心得る連中だけで、チャイナや日本にいたような立派な為政者、儒学者がどれほどいたというのでしょう。
さらに、朝鮮は儒教国と言う人間は、日本のほうが立派な儒教国家であった、とはめったに言わない。
江戸時代を通じて日本では偉大な儒学者がたくさんいたし、そもそも儒教を体認したのが侍であった、というのが大きい。
侍とは、武士であり、武の字が示すように本来は儒教的には文官の下に見られますが、両班のように武と文と分けられることながなかった。これは日本だけの特殊な儒教化と言ってもよいでしょうが、士農工商の身分制度を、武士が儒教を体認することによって維持するわけです。これはある意味すごいことでありまして、本来武に流れ、民衆に対する搾取や弾圧をこととする世界的にありがちな武力集団、無法集団とはならず、平和裏に統治をするという存在たりえた。「武士は食わねど高楊枝」という言葉を、ただのやせ我慢、対面を気にしているだけの言葉、と解釈するのならそれは浅解である、とわたしは思います。武士は統治者であり無法者ではないから、何の理由もなしに刀を抜いて振り回すような無体はしないわけです。厳しい儒教の教えを体現するから己を正しく律することができるわけです。西洋のようなフェーデ、決闘といういちゃもんをつけてやりたい放題やる下衆とは次元が違うわけです。
そういう意味では、かの『赤穂浪士』で、殿中で刃傷沙汰に及んだ浅野内匠頭が問答無用で即座に切腹を申し付けられたのも、儒教による統治として至極当たり前のことをしたのであって、それを後付で喧嘩両成敗などと言い出すのは不見識も甚だしいわけです。殿中による刃傷、今でいうと国会議事堂内で発砲事件があったようなものです。そんな、法を法とも思わぬ不逞の輩は即刻処断せねば、政権の鼎の軽重を問われかねないわけです。
そもそも、江戸時代の儒学者も基本的に武士ですから、文武両道が当たり前。
文と武に分かれることによって、たとえば豊臣政権下でも起こったような、加藤清正、福島正則ら武断派と石田三成を筆頭とする能吏派による争い、というのが江戸時代では見られないわけです。だから朝鮮における両班の血みどろの権力争いによる粛清劇も日本ではない。幕末の激変にしたって、勢力争いに破れた側は、粛々と切腹を仰せつかったのですから。
300年近い歴史にもなると確かに色々あるでしょうが、それでも武士はよく日本国内を統治し得た。江戸幕府が倒されたのだって諸外国の外圧に耐えきれなかったからで、新時代の招請が倒幕にならざるをえなかったに過ぎない。そういう意味においても日本人は機を見るに敏であって、外圧にさらされてもなんの変革もできなかった清や李氏朝鮮とは雲泥の差があるわけです。
さらに言い出せば、日本では偉大な剣術家、剣豪がたくさんおられます。そう見れば、日本人以外で剣の道を極めんとしたという人が世界のどこにいるでしょう。寡聞にして伺ったことはありません。
武士は、
剣禅一如
として、剣の道も仏の道も同様、とみてそこに荘厳なる精神性を見出したわけです。
自らを厳しく律し、精神を修めることによって剣の道でも、仏の道でも見事に極めた。これほど素晴らしく文武両道を極めたのは世界でも日本人だけです。他の世界のどの民族も、剣をとることによってそれが最終的に精神の高みを極める、という精神性を開拓することができなかったことは、大きく特筆して良いことだといえるでしょう。逆に言えば、世界地図から見れば眇たる島国の一民族が、これほど崇高自由な精神性を発揮し得たのも、面白いことであります。
まあ、日本人が偉大な民族なのは自明のことなのですが、現代日本人にそれがどれほど理解できておるのか、はなはだ心もとないことでございます。いくら、よその国の歴史や、他にもいろいろな知識、情報をそのオツムに詰め込んだところで、己の精神が空疎のままなら何の意味もないのですけれども。
とはいえ、わたしにとって現状もっとも不可思議なることは、
主体主義の熱烈な支持者である、文同志は、朝鮮一統を声高に宣言していますね。それが、わたしには不思議で不思議でしょうがない。
北は、今も韓流ドラマをみただけで民衆を虐殺しておるわけです。強制収容所にぶち込んで、弾圧、粛清、したい放題です。
反日を叫ぶのはまあ、心情的にも理解できないことはないですが、しかしこんな、韓流ドラマみただけで民衆虐殺するような国と本当に統一してほしいのであろうか。
だいたい、共産主義者が殺した人間の数は、一億にものぼるといいます。
それは、何もチンギス・ハーンが行った時代の話ではない。つい最近、第二次大戦後に行われた蛮行であります。その記憶は今も薄らいでなどいない。第二次大戦で亡くなった人間は、軍民問わず、餓死や病気も含めても8000万前後と言われ、あの悲惨な戦争をすら、共産主義者共の蛮行はそれを上回る。
しかも、この蛮行は現在進行系ですらある。新疆で、ウイグルで、チベットで、北朝鮮で、いまも共産主義者共は人間を殺しまくっている。
このまま、文同志が政権を維持し続ければ、またはその一派が維持し続ければ、恐らく、
民主的に、秩序だって、平和裏に、スムーズに、
朝鮮一統は成し遂げられるであろう。
それはつまり、わたしからすれば、朝鮮人は、自分たちを虐殺してほしいのであろうか。強制収容所にぶち込んでもらって、思う存分蹂躙してほしいのであろうか。と待望しておるように見えるのであります。
別に、ここに至って、朝鮮人が心配、などというつもりは毛頭ございません。
何せ、彼らはレミング民族。後先考えずに感情のおもむくままに命を捨てられる、世界でも類例を見ない民族です。自分たちが心待ちにした毒ガス室送りを、その刺激的な香りや瞠目すべき味わいを心ゆくまで楽しんで欲しいと思う次第であります。とはいえ、ですが、本当に、いくら反日を感情のままに叫べても、自分の命を奪う為政者の登場を心から喜べるのでしょうか。
わたしに朝鮮人の心情など分かるはずもないし、分かりたくもありませんが、そこのところを本気で、真剣に奴らは検討しているのでしょうか。
このまま文同志を放置すれば自分たちの命に直接関わってくる。
そんなことは火を見るより明らかなのに、そんなことすら考える思考能力がないのであろうか。それとも、北は民衆が皆殺しになっても南は大丈夫、などと高をくくっているのでしょうか。そこまでオツムお花畑なのでしょうか。それとも、共産主義は平和で、友愛に満ち満ちた素晴らしい思考で、地上最後の楽園などと思っているのでしょうか。
今のわたしの関心事は、そこにあります。
朝鮮の戯言なんぞ、もはや何の価値も、驚きも興味もない。
クーデターが起こって文同志は失脚するのか、それとも第二次朝鮮戦争か、それとも、共産一統か。
何が起こるにせよ少なくとも、我々は新たな経験を得られます。
イデオロギーは人類の害悪
と。
いやまあ、一億人間虐殺して、まだ分からねぇのかよ、とわたしは思っておりますけれども、分かってない輩がまだまだたくさんいるんですから、人間って素晴らしい。
でもまあ、これからの誇りある朝鮮人のために、乳出しチョゴリ復興運動を推進するのも、方向性としてはありかな~と思う次第ではございますが、どうでしょうね。今こそ、あんたたちの誇りある歴史を取り戻して、元気に乳放り出せばいいじゃん。と、声をかけてあげるのも乙なもんかと思う次第であります。
その民族の文化や伝統、風習を認め、敬意を払う。
今や、愛の形も人それぞれです。
自信をもって誇りをもって長男を生みましたと、胸を張って放り出せば、いいんじゃないですかね。