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パンドーラーのピトス



 人様のブログを拝見し、考えさせられたのでこの度はつれづれ。


 おこんばんはです。豊臣亨です。


 世は令和元年。改元を発表した政権も意外に思ったと告白するほど、新元号は人々に好意的に受け入れられ、速やかに、何の混乱も騒擾(そうじょう)もなく平成は終わりをとげました。そして、死ぬまで天皇やっとけや、と吼えた政権も黙ってご退位を推進し、生前譲位はなって上皇陛下とおなりあそばされた。


 平和裏に新時代は幕を開けました。世情は喜色満面、万歳一色。しかし、それにもかかわらず、自ら命を絶たれた方がいた。


 その名も沼山光洋。


 令和元年の5月11日の朝、靖国神社の内苑と外苑の間の中通りにて割腹して果てられたとか。


 何でも、氏は、10年もの長きにわたり靖国神社でボランティア活動に励まれていたとか。穏やかにご挨拶をされる笑顔の似合う方であったと、ブログではつづられています。では、どうしてそのようなお人が割腹という、すでにもはや忘れ去られた流儀にのっとって自害されたのかと言いますと、氏は天皇陛下が靖国神社に、御親拝たまわることをつとに、祈願しておられたからだといいます。


 天皇陛下による靖国神社の御親拝は、戦後八回、1975年の11月21日を最後に、明確な理由は定かではないながらもやめられているそうです。ですが、勅使の御差遣(ごさけん)(派遣すること)は欠かさず行われてはいたと言いますが、しかし、1975年を最後に、平成においてはただの一度も御親拝をたまわることはなかった。


 なんでも、氏は、去年の秋頃から、宮内庁の職員向けに「天皇陛下靖國神社御親拝祈願」という幕をもって、御親拝をたまわれるように復活運動をなさっていたのだとか。


 しかし、結局、平成における上皇陛下の御親拝はなることなく、世は令和という新元号を迎えるに至ってしまった。


 御親拝をたまわれなかったことを、氏は臣下として恥じたのだとか。靖国神社は創建されてよりずっと天皇陛下の御親拝を仰いでいたのに、それを平成の約30年間、断ってしまったことは臣下の責であると感じられたとか。


 天皇陛下の御親拝こそが、英霊たる御祭神への最大のご供養の形と思われ、それを実現できなかったこと、御親拝のないことが御祭神に対して申し訳ないと臣下としての自責の念にかられ、割腹というひとつの答えに至られたとか。


 今の世に、三島氏、三島由紀夫氏のような方がおわしたかと、人様のブログで初めて教えていただきまして、衝撃を受けた次第でございます。わたしは基本ボーッと生きて、アニメみてグヘヘと阿呆のように笑っておる生き物なもので、こういった事態を知らなかったことを恥じ入った次第でございます。


 しかし。


 されど。


 この度の、沼山氏の割腹という行為に、素直に参意を表することができないのも事実なのであります。


 死者に鞭打つのは本意ではないけれども、しかし、言わねばならない。考えねばならない事なのであります。


 氏の申される、御親拝、は果たされるべきなのでありましょうや。たまわるべきなのでありましょうや。


 そもそも、何故、御親拝がやめられたのか、ということを考えてみますと、最後が1975年、それはつまり、戦後左翼の蠢動・策動の影響を否定することはできないはずであります。


 現在の、国家間の条約すらまともに守ることもできないような、精神的汚穢生物と対峙せざるをえないのも、この戦後左翼の影響でありましょう。軍事上の取り決め、国際法上の慣例、文明国としての常識や理性すらない、イデオロギーのためならどんな嘘もデマも虚構もでっち上げられるような精神的汚穢生物が、我こそ正義と大手を振って歩いておるようなこの世界。


 ありもしないことありえないこと、科学的にも常識的にもおかしいことを、針小棒大に取り上げ、でっち上げデマを拡散した。それを、国内はおろかチャイナやコリア、果ては世界中にばらまいたのが戦後左翼であり、精神的汚穢生物は、何も半島にだけいるのではない。国内にびっしりと巣食っているのであります。


 こういった朝日新聞をはじめとした、精神的汚穢生物の跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)を、無為無策に放置しておったからこそ今のような世界になっておるのであり、完全に身から出た錆であることは間違いないのではありますが。


 靖国にしたって、政教分離の原則だとか、A級戦犯の分祀とか、どう考えたって精神もオツムも腐っているとしか思えないような戯言をほざき、騒擾・扮擾(ふんじょう)を巻き起こしたのが戦後左翼であり、そういった日本にも巣食う精神的汚穢生物に対して、天皇陛下の御親拝をたまわるということは、どういった攻撃の口実を投げ与えてしまうか計り知れないと思うのであります。精神的汚穢生物の矢面に陛下を立たせるということに他ならないと思うのであります。


 それがなんであれ、嘘八百で否定してくるような連中です。たとえ、それが100%正しいこと、御親拝という完全無欠なる正義であっても、精神的汚穢生物には一切通用しないのであります。いつまでたっても半島との歴史を「植民地支配」と呼ぶように、欧米による植民地搾取と、日韓併合の区別すらできない、事実を事実として見ることを決してしない、理非曲直を違えて平然としていられるのがこういった精神的汚穢生物であります。


 そんな連中の矢面に、火中に、陛下を立たせてしまうこと。


 それは、臣下として正しい道なのでありましょうや。


 臣下のとるべき道なのでありましょうや。


 いえ、むしろ、御親拝をとりやめることこそ、臣下としての正しいありようなのだとわたしは愚考するのであります。


 そう考えれば、英霊である御祭神の方々は、天皇陛下の御親拝のないことを落胆されるでありましょうか。憤られるでありましょうか。いえ、お国のため天皇陛下のために命を投げ出して戦われた英霊たちは、陛下の御身を思って、むしろ御親拝のないことを安堵されるのではないかとわたしは愚考するのであります。


 そうすると、氏の祈願とは、とるべき道ではない、世の情勢を睨むならばとりやめもやむなし、と思うのであります。ですがしかし、そんなことは氏とて、重々考えられたであろうと思うのであります。


 氏が、天皇陛下の御親拝を祈願されて、割腹された意味は、すなわち、氏の割腹された日に答えがあるのであろうと思うのであります。


 5月11日


 それは、ネットで氏の遺言をみれば分かる気がいたします。




「靖國會 沼山光洋事務局長の遺書」




https://blog.goo.ne.jp/tennouheikano/e/4b313f7a48d8cd1efd6d5b2a177b4394




 そこには、




「五月十一日は第五筑波隊の皆様、西田高光命のご命日です」




 と、あります。


 西田高光命とは、神風特別攻撃隊として、狂気の人間爆弾「桜花」に乗り込み戦死されたお方。作家の山岡荘八氏の取材に対して、




学鷲(がくわし)(特別操縦見習士官。学生パイロット)は一応インテリです。そう簡単に勝てるなどとは思っていません。しかし、負けたとしても、その後どうなるのです。おわかりでしょう、我々の命は講和の条件にも、その後の日本の運命にもつながっているのですよ。そう、民族の誇りにも」




 と、答えられたといいます。


 恐らく、これはわたしの妄想ですが、沼山氏は、こういった英霊の御霊を、御心を安んずる、静め給うためには、御親拝が必要であると思われたのではないでしょうか。


 陛下の御身を想うか、御祭神の御親拝を想うかで、思い悩んだ結果、氏は御祭神の側に傾いたのではないかと妄想するのであります。氏は、恐らく上皇陛下のご退位が近づいて、2016年(平成28年)8月8日に、天皇陛下のご退位のおことばをたまわり、このままでは御親拝がなく、平成が終わってしまう、と強い危惧を抱かれたのではないでしょうか。それで止むに止まれぬ心情から、幕を持って毎朝、宮内庁職員に訴えられたのでありましょう。


 そう考えますと、氏の割腹という死には参意を表することはできませんが、自分のためではない、英霊のため御祭神のため、死を賭して、己が命を捨ててまで訴えられた、という事実にただただ恐懼するのであります。


 そして、氏の遺言を見ておると、氏の人間像、精神性を彷彿として伺うことができる気がするのであります。




「私は、個人の祈りは他力本願の神頼みではなく、自分自身への決意・自覚・戒めだと思っている。神前で祈り感謝申し上げ祈願する。そのことにより、善い思い善い行いを心がけ実践する。その繰り返しが日本人の道徳観であり、ご加護を受けている安心感が現実社会の秩序の基本になっていると思っている。子供の頃言われた「お天道様が見ている」である。善いことも、悪いこともお天道様はお見通しである。天皇陛下が示されている行動実践こそ「祈り」の形ではないかと思う」




 この文に、氏の日本人としての高い誇り、高潔な精神を垣間見ることができます。


 明治になって近代欧米思考に脳みそ毒されるまでは、多くの日本人がこうして生きておったのに、と思います。自分のため、自分さえよければそれでいい、という思いが、結局、どれほど自分を害し、そこなっているか。もったいないことであります。昨今、世を騒がせる「あおり運転」の容疑者にしても、ガソリン放火犯にしても、精神的汚穢生物にしても、その心根の根っこは、こういうご先祖様と自分はつながっているという魂の連絡を信じられなくなった、理解できなくなった唯物的、即物的思考の影響であろうと思います。


 他にも、縷々(るる)、心情を述べられていますが、気になる方はお読みいただくのも良いかと思います。


 そして、氏は無念の胸中を吐露されています。


 


「忘れないこと、語り継ぐことこそ今を生かされている日本人の務めだと思います。平成の三十年間に御親拝を賜らなかった今、今後難しいと思います。時間の経過と共に昭和天皇が御親拝出来なくなった事実がどこまでも歪められ、靖國神社の御祭神の生命の意義が忘れ去られたときに民族の「誇り」は消え去るでしょう。どうか皆様、良識ある日本人として靖國神社に鎮まる御祭神・忠霊の生命の意義を正しく後世に紡いで行きましょう」




 そして、




「人間にとって最大の病は絶望と言いますが、ならば希望は最高の良薬の筈です。新時代令和を元気に明るく希望を持って皇室の弥栄、民族の誇りを守る為に邁進いたしましょう」




 という言葉を残されています。


 平成の終わりに御親拝をたまわれなかったことによって、今後も、天皇陛下の御親拝をたまわることは難しくなるであろう、しかし、と、氏は絶望や失意の中にあって、それでもそこに希望を見いだされるのであります。新時代の令和を、元気に、明るく、希望を持って皇室の弥栄、民族の誇りを守るために邁進いたしましょう、と。


 それでもなお、そこに希望を見いださねばならぬ、と思う、その精神性こそわたしはやはり、氏は立派な日本人だな、と思うのであります。


 絶望し、失望し、胸中を負の感情でいっぱいされてしまっても、それでもなおそこに光明を求める。ただ世を呪い、人を恨み、悪罵と憎悪によって呪詛するのではなく、あくまで、後世に託す。後の世を生きる人に希望をつなぐ。


 これこそが日本人であろう、と思うのであります。


 で、あるなればこそ、氏の割腹という行為につながるのかな、と思うのであります。


 ただ世をはかなんで自害するためならば、ここまで苦しい方法を選ぶ必要性などありません。介錯のない切腹というのは、恐ろしいほどの痛苦に責めさいなまれるといいます。ですが、その方法をとったというのは、それこそが日本人らしさ、なのでありましょう。


 世界で、どれほどの国があって、どれほどの民族がいようと、切腹という方法を死の作法ととらえる民族は日本人以外にはいないでしょう。そこに、氏の強烈なメッセージを感じるのであります。


 かの、三島氏、三島由紀夫氏も、市ヶ谷駐屯地にて割腹された時も、詰めかけた自衛隊員に向かって、「君たちは武士であろう、武士たるものが自分たちを否定する憲法によって米国の軍隊に成り果てられるのか」という主旨の演説をします。


 しかし、詰めかけた自衛隊員の怒号によって、ほとんどらしい成果をあげることなく「諸君の中に、一人でも俺と立つものはいないのか」という、最後の呼びかけにも誰一人応じるものはなく、三島氏は寂しく割腹して果てたとされます。


 三島氏も、やはり、絶望と失望に押しつぶされながらも、一縷の希望、光明を求めていたことを、見る気がいたします。


 決死の、文字通り死を覚悟したこの両名の行動にも、確かに希望を求めていた。後世に継がれるものと、信じていたのだと思います。


 この、後世、孔子様にいう、後生、を期待する・希求するのは、日本人ならではだ、とわたしは思うのであります。


 何故なら、人類史上、世界のどこを見渡しても、たった一度も滅亡を経験していない国は日本以外にはないからであります。日本人は、ある意味無邪気に、無心に、純粋に、日本はずっと続くと信じている。信じていられるのであります。


 自分の国が、未来永劫に存在するであろうと、無邪気に信じられるのは、世界で唯一日本だけなのであります。


 だから、沼山氏にしても、三島氏にしても、割腹という日本人らしい流儀にのっとって死ぬことによって、後生に望みをたくせるのであろうと思うのであります。


 他の国はそういうわけには参りません。まあ、米国はともかく、他の国はいつ滅びるやも知れません。だから、チャイナの天安門事件やこの度の香港騒擾のように反乱とみなして死にものぐるいで鎮圧するのも、自分の国がいつ滅びに瀕するか知れないという恐怖の現れであります。他の民族にしたって、世がいつまで安定しているかなど計り知れないから、即物的に唯物的に思考し、今さえよければ、と行動するのであります。

 

 世界の一般的思考として、後世などに期待していられない、「後生(おそ)るべし」などと悠長なことは言っていられない。今の自分を精一杯、思うがまま、享楽せしめねばやまない。孔子様にしたって儒教にしたって、日本以外ではその崇高なる精神が受け継がれなかったのもそういうことです。


 或


 という漢字がそれを表している、と安岡先生はおっしゃいます。


 或は、これだけでクニという意味であります。それが国境線が画定されるに及んで、國、となってゆくわけですが、


 或はある、或る、と読みます。しかし、クニを離れて何年、何十年と経っていると自分のクニがいつまであるか分からない。もしかすると滅亡しておるやも知れない。だから、あるいは、或いは、と疑問がつく。或とは、そういうものです。


 世界で唯一、日本だけが、或いは、と疑う必要のない、或る、とずっと言っていられるクニです。


 だから、儒教にしても日本で唯一栄えた。


 健やかに、無邪気に、明るく、正直に、清潔に、という日本人の精神性は、世界で唯一、日本というお国柄でこそ育まれたものです。これは、他の国、民族では、未来永劫、醸し出すことはできない精神性です。


 世界のどの国もどの民族も、どれほどの叡智、科学技術、高度な文明を築こうとも、決してなし得ない精神性なのであります。


 後世、後の世を期すことができるのは、日本人だけなのです。


 どれほどの年月が流れようと、どんな歴史的大事件があろうと、国が、民族が、絶えることなく続いて行けるだろうと、信じていられるのは日本人だけなのです。


 だから、沼山氏にしても、三島氏にしても、あえて、割腹という作法によって強いメッセージ性を期待されたのでありましょう。己が信じた精神を、魂を、後の誰かが受け取ってくれる、継いでくれる、と、99%の絶望と失意と厭世にあっても1%の希望を見出すことができたのでありましょう。後の人々へ、届けと。


 ならば、死をもって、死を賭して遺されたメッセージを受け取るのが、真摯に受け止めるのが、後生たる我々の使命であると言えるでしょう。


 沼山氏は申されたのであります。




「貴い意義ある生命であったと語り継げるのは生きている人間だけである」




「忘れないこと、語り継ぐことこそ今を生かされている日本人の務めだと思います」




 だからこそ、わたしは生きて、沼山氏のその御心を大切にしたいと存じます。


 民族の誇りのために



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