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己を知るって?



 おこんばんはです。豊臣亨です。


 今回は己を知る。


 古来、西洋でも「汝自身を知れ」というように、いかに己を知るか、は重大問題であります。


 自分とはなんぞや? という問いに明確に回答を導くためにも、生命とは何ぞや? 人間とは何ぞや? といった疑問、答えを見出すということも重要です。


 そのために儒教、道教、仏教の三教の学問をしておくのも大切ですが、何より自分の民族や国について知っていないと自分を知る、ということにならない、と断言してもよいでしょう。


 特に、現代に生きる日本人は、己を知らないと思います。


 正確を期していいますと、自分の国を知らない。


 人として生まれた以上、そこには何らかの帰属すべきコミュニティ、地域共同体、自分が直接見聞きし活動できる場、というものがあるわけで、その最大位置、到達点、こそが国家になるわけであります。


 前回にもお話しました世界観、にもつながりますが、自分が自分の今立つ場所においてどのような活動をなすのか、どういった役割を果たすのか、どういったことを成し遂げることが意味ある人生とよべるのか、という観念をもつにあたって、自分は何人なのか? どこの国の人間で、どういう歴史をはぐくんできた民族なのか? を知っているかいないかは、まさしく天地の相違がでてくる、とまで言い切っても、恐らく過言ではないでしょう。


 たとえば、こうしてラノベを書いて読んでほしい、と思った時に、それはどの国家の、どの民族に読んでほしい、と思われるでしょうか。


 日本語で書いて、それがゆくゆく有名になって、各国に輸出されることになったとしても、心の底から読んでほしい、読んで楽しんでほしい、共感してほしい、と思うのは、やはり母国の人々ではないでしょうか。


 もっといいますと、アニメでもラノベでも登場する世界や登場人物は日本人が製作する以上、日本の知識や常識、概念にのっとって作られるもので、それが外国に輸出されると他国民に製作者の意図がどれほど伝わるものか、不明ですしね。「ちょw」とか書いてあっても、それが他国の言語に同じニュアンスで訳せるとも思えません。外国では単純に「ちょっと(笑)」的な翻訳になるのでしょうが、やはりそこに造成された文化や雰囲気、空気観、というものはその国の者にしかわかりえません。


 こうして日本で生まれ、日本で生活する以上、日本を知らずして生きることなど出来ないにもかかわらず、どうして現代人は自分の国を知らない、と言い得るのか? を今回お話してみましょう。


 とはいえ、当然、日本を知るためには歴史を知らねばならないのですが、わたしが今回お話しするのは日本人の宗教観をメインにすえたいと思います。老荘思想家のおっさんは語りたい。



 

 さて。


 最近、こういうことがありまして。


 同じ仕事をしている同僚、年齢39の同じようなおっさんにこういう質問をぶつけてみたことがあります。


「世界最長の王朝は何かわかる?」


 と。


彼「最長………?」


「そう。世界最古にして最長。最低でも1000年続いている、世界唯一の歴史ある王朝のある国はどこだ?」


彼「全然わかんねぇ………」


「電車でもいける」


彼「ますますわかんねぇ………」


 電車でいける、日本から電車でいけるところなんてひとつしかないわけですが、まあ、わたしの質問も少しいじわるでしたがわからない。


「日本だがね」


彼「ほえーー」

 

 といった塩梅です。


 王朝、といわれるとどこぞの古い国でも想像したのかもしれませんが、そもそも日本の皇室は創世神話から連綿と続く王朝です。一度も断絶したこともないし、国家が変わったことなどただの一度もない。よって王朝、と言って特段変ではない。


 宗教観、といわれて王朝、皇室の話を最初に始めたのは不思議に思われるかもしれませんが、もし、このことがわからない人がいらっしゃるのでしたら、日本を知らない、ということになるのです。


 日本の皇室の、天皇陛下は日本の固有宗教、神道(しんとう)の最高の神職、祭祀王なのです。横文字でいうとシャーマンキング。天皇陛下は常に、この国のまつりごと、お祭り、祭祀を執り行っておわすのでございます。


 日本の皇室とは、すなわち神道(しんとう)の創世神話にある天孫降臨の末裔、神の末裔にして、そのご先祖様である神々をお祭りする、というのが本質的役割なのであります。


 日本の宗教と、皇室は、同じことなのであります。


 そして、皇室と神道(しんとう)というこの世界に類例をみない存在を知ることが、己を知ることに直結するのであります。


 わたしごとき下賤のやからが、恐れ多くも、もったいなくも、かたじけなくも皇室を語るなど不遜のきわみではありますが、自分を知るためには日本を知らねばならず、日本を知るとは、それすなわち皇室を知らねばお話にならないのであります。現代日本人が己を知らない、といえるのは、この皇室に対する無関心、不勉強に端を発する、だけではありませんが、そういうことなのであります。


 では、同様に質問をぶつけてみましょうか。



Q 現在、在位され、おわす天皇陛下を別に、〇〇天皇と呼びますが、何とお呼びいたしましょうか?


A 今上(きんじょう)天皇陛下



 今、(かみ)におわす天皇陛下、ということで今上(きんじょう)天皇とお呼びいたします。ちなみに、昭和聖帝、明治大帝、という御名(みな)はご崩御遊ばされたのちの呼び名、諡号(しごう)、追号のことであり、生前の功績などをたたえて尊号を送られるのが通例でしたが、明治から「一世一元の制」によって元号を追号するようになりました。戒名と同様と言ってよいでしょう。まあ、この戒名、も本来の意味合いから外れてますが、ここで語ることでもないのでやめときます。今上(きんじょう)天皇を平成天皇、と呼ぶ輩がいたらぶん殴ってから「不敬罪でぶっころがすぞこのやろう!」とののしってやるといいでしょう。


 また、この元号も日本だけが使用するものになってしまいましたね。

 


Q 今上(きんじょう)天皇によっていま天皇陛下は初代神武天皇から数えて、いま第何代目でしょうか?


A 第125代



 ご存知でしたか? 日本の王朝は世界最長、最古、というこの途方もない継体(けいたい)(代が世々継がれること)が行われてきたことが、世界史に燦然と輝く奇蹟なのであります。それに比べると世界の王朝はせいぜい十数代。桁で、違いますね。



Q では、125代も続きますと何年たつのでしょうか?


A 現在皇紀(こうき)2678年ですね。2600年、と知っておけばいいでしょう。四捨五入すれば2700年ですね。2600年も続く王朝など、世界のどこにも類例を見出すことなどかないません。とまれ(ともあれ)、その数字が正確かどうかはわたしごときがとやかくいえることなどではありません。



Q 皇室の方々の苗字は何と言う?


A ありません



 姓、苗字、などは天皇が家臣に与えるものであります。なので、皇室の方々に姓も苗字もありません。


 ちなみに、(かばね)は天皇陛下が家臣に授けるもので、平氏、源氏、橘、藤原、あたりが姓、研究家によって他にもあるのだとか。(うじ)は天皇が姓を授けることなくすでに存在した一族の名のことだそうです。ヤマトタケルノミコトに成敗されたクマソタケルなども熊襲(くまそ)という氏族なのでしょうね。苗字は織田、とか武田、とか。その地に住む人々がその地の名を苗字にすることも。


 なので、平朝臣織田弾正忠三郎信長 となっていて、


 平朝臣(たいらのあそん)これが平氏の姓、織田が苗字、弾正忠(だんじょうのちゅう)は官位、三郎が通称で三男坊を表し、信長は忌み名でありこれは主君か親しか呼んではいけない名前のことですね。信長公は大名ですから、主君は一応征夷大将軍、足利将軍ですね。よく、漫画などでは「弾正忠(だんじょうのちゅう)様!」と人から呼ばれますね。ちなみに、だんじょうのちゅう、かだんじょうのじょう、でも呼ぶそう。



Q 国家秩序において重要な要素である権威と権力、これを兼備する存在は?


A ない



 ちょっと意味不明な質問となってしまいましたが、日本においては権威をもつものと、権力をもつものとが分かたれてきました。古代の王朝においてはなんですが、「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」とおごった藤原道長などによって知られるように、時の権力者によって権力は常に変移してきましたが、権威の象徴たる皇室は厳乎(げんこ)として不変の存在であり続けたのであります。時の権力者が決して自分が王になろうとはしなかったことも、日の本の大和民族の奇蹟といえるでしょう。そういう意味でいいますと、皇室をないがしろにした信長公が弑逆(しいぎゃく)されたのもむべなるかな、というところでありましょう。光秀公は、日本を救った英雄なのであります。


 ちなみに、天皇陛下と比べられることもあるローマ法王ですが、ローマ法王はバチカン市国という国の国家元首であり、枢機卿によって選出されるわけで、権威はもちろん、どれほどのものかはわたしにはさっぱりですが権力もあるはずです。



Q では日本の国家元首とは?


A ずばり、天皇陛下。



 外国の特命全権大使が任地である日本にやってきたとき、信任状を渡すのがその国の国家元首。その外国の大使は天皇陛下にお渡しするのですね。どの国も、陛下に対して信任状を発し、大使も陛下にお渡しするのです。内閣総理大臣は、国会の指名によって組閣され、それを信任されるのが陛下であり、総理大臣のごときは天皇陛下あって始めてなりたつ、保障されるわけです。明確に、この国の元首は天皇陛下であらせられるわけです。


 ちなみに、総理大臣のことを、宰相、と呼ばなくなったことも、国家元首がどちらにあるのか、が不透明になった理由でもあるでしょうね。宰相、とはあくまで主君を補佐する立場の者のことですが、どうやら昨今の権力者はそんなことすらご存知ないようで。


 さて、ここら辺りは基本ですが、お分かりになったでしょうか。


 このくらいも全然知らなかった、というようでは日本を知らない、といわれても仕方ないでしょう。皇室など知らなくて当然、と思われるかもですが、日本人としてこのような基本すら知らないようでは恥ずかしいこと、と認識すべきでしょう。日本人として生まれておきながら、このくらいも知らずに生きて、このまま100年、1000年と人間を生きても日本人をやっておっても、何の意味も価値もない人生になりかねません。


 さて、ご存じなかった方は、少なくとも、これだけはわかりました。


 自分は、何も知らなかった、ということが。


 では、どうしましょう。


 このままただ、飲んで喰って寝て死ぬだけの日々を送りましょうか。それとも、価値のある意味のある人生を目指しましょうか。お好きに選んでよろしいのですが、己の人生を己で()す、己で己を(おさ)めるためにも、学問をしたほうがよいだろう、と思えるようなお話になれば幸いでございます。ですがわたしも専門家ではないので、より詳しいお話は専門の書を読まれることを強くオススメします(笑)。


 そもそも、何故、日本人はここまで皇室と縁遠いものになってしまったのでしょうね。


 色々な理由はあるでしょうが、絶対的にいえるのはGHQ連合国軍最高司令官総司令部と、亡国、廃国イデオロギーのせいであります。GHQは日本人をアホにするための洗脳政策をさかんにやりましたし、亡国イデオロギーがどれほど害毒を垂れ流し続けたか、歴史を少しでも知るものなら常識であります。


 こういった連中のために、日本人は日本を知らない、よって己を知らない人間に変えられてしまったわけであります。


 かくいうわたしも、子供の頃から、漠然と、戦前の軍部は悪であった、と認識しておりました。


 何かは知らぬが、何事か、悪事をなしておったらしい、と。


 しかし、年を食って、正しい情報に接し、日本の軍部も悪いことはしたが、世界各国が悪事を盛大にやっておった。ということがわかってきた。そして日本の軍部はそれでも立派で頑張っていた、ということがわかった。己の無知不明を恥じ正しい学問を身につけることの意味、意義を知ったのであります。


 こういった連中によって、日本人が阿呆にされたのは事実であり、日本はいまだに米国の属国、日本人は敗戦国民という扱いなわけですが、それで甘んじておってよいのでしょうか。


 もはや、日本人には自覚も、自意識も、自尊心すらない、社畜や畜生しかいない、上から忖度を強いられたらイエスイエス! というしか能のない生き物なのでしょうか。


 生きてればOK、生存しか優先させるもののない、金を蓄え安逸を貪るしか能のない、家畜と同類なのでしょうか。


 それではいやだ、と思う反骨の方がおわすのでしたら、一緒に考えてみましょう。


 では、ここで神道(しんとう)というものをみてみましょう。


 神道(しんとう)惟神道(かんながらのみち)(かん)ながら、(かん)ながらの道、などという日本の宗教。


 神道(しんとう)というのは、つまり、洋の東西を問うことなく人類が発祥すれば自然と起こってきた自然崇拝の信仰のひとつであります。大きくは天や地、山や巨木、巨岩、滝など、自然に、畏敬を覚えさせられる地には神が宿ると信じたし、さらに、獣にも神はあると信じた。タタリをなすような、恐ろしい存在はことごとく神が宿る、と信じてきたわけであります。


 なので古来、日本の神々は八百万(やおよろず)、途方もない数の神々がおわす、と考えてきており、また、自分たちも死ねばその神々と同じになる、と考えてきた。


 自然崇拝、先祖崇拝であり、亡くなったご先祖様は、氏神様(うじがみさま)であって、子孫である氏子(うじこ)たちはご先祖様をお祭りし、祭られたご先祖様は氏子たちを守る、という紐帯によって結ばれていた。


 ここで特徴的なのは、世界的統一宗教、キリスト教や仏教との違いです。神道(しんとう)では、死ねば自動的に神になる、とけっこうのほほんと考えていることであります。


 キリスト教では、神はデウスのみ。信徒は、どうがんばっても神のそば近くにゆくことしかできない、と考え、


 仏教では、ものすごい修行、苦行の果て、出家という、血縁も何もかもかなぐり捨てて始めて仏になれるもの、と考えていました。


 そして、この両宗教も、悪事をなしたものは死後、地獄に落ちる、と脅しつけておりましたが、


 神道(しんとう)にそんなものはありません。


 神道(しんとう)では、死後、黄泉の国にゆく、くらいに考え、しかも、死者はあっちからこっちの生者の世界に自由に出入りできるもの、生きるものと死んだものとに絶対的な区別、仕切りなどない、死者は常にこちらをみている、と考えていた。


 かつて、日本人が口にした、




「お天道様がみてる」


「ご先祖様が草葉の陰からみている」




 という語句は、こういう神道(しんとう)の考えからきているのであります。


 死者が、ご先祖様が見張っている見守ってくださっているのならば、うかつなことはできません。


 自分の死後、ご先祖様に(まみ)えることを考えましても、悪事をなして、どうして平然としていられましょうか。


 こういった、生者と死者の連続性、ご先祖様と自分と子孫との連続こそが、日本人の道徳観の基底となっていたのであります。


 日々を正しく生きて、死後、ご先祖様と同様の神となって、神であるご先祖様に喜んで向かえていただく、そして、自分も子孫を見守る。


 これが日本人の宗教観だったのであります。古来、日本人がどうしてこうまで強い道徳観、倫理観、秩序を守り仲良く暮らしているか、はこういった神道(しんとう)の観念によるものなのであります。


 そしてだからこそ、日本の神道(しんとう)に、教義だの、戒律だの、しちむずかしいものは存在しません。


 十戒(じっかい)によって知られる、神はデウスのみ、とか殺人の禁止とか、そういったものはない。


 同様に、戒律にもほぼこの十戒(じっかい)と同じような言葉が見えます。


 もちろん、神道(しんとう)に何もないわけではなく、国家の重大なる祭儀、皇室祭祀、宮中祭祀に関しては厳格なるしきたりが存在し、陛下や仕える方々は毎日のようにそのしきたりに従って生きておられるのだそうですが、我々、民草にはこれというものはありません。何故天皇陛下や祭りをつかさどられる方々に厳しい掟があって、民草である我々はのほほんとしていられるか。それは欧米のように、日本には個、とか権利、義務という概念が希薄だからであります。


 創世神話から連綿と続く王朝に従うだけでよいから、民草にはそこまで過重な教義だの戒律だのを設定する必要性がなかった。絶対的な王朝のもとに民草は参集しておるだけでよかったわけです。


 だからこそ、皇室、天皇陛下は公の存在であり、民草に成り代わって厳格な祭祀を執り行われている。西洋でいうノブレスオブリージュであります。


 公、おおやけに生きるお方、先ほど見ました、権威と権力の関係と関連するのですが、皇室の方々は公、おおやけに生きる、それはつまり、私、わたくし、私事というものがない。


 天皇陛下は、民草の安寧秩序を常に祈念なされる。


 執り行われる皇室祭祀、宮中祭祀はご先祖様である天照大御神(あまてらすおおみかみ)など神々に祈ることで国家国民の安寧秩序を祈る。


 そこに、権力という私事はない。ただただ、無心に、無念に、民草の安寧を祈られるわけであります。


 これほど尊い存在は他にありません。


 すでに悪事は明らかなのに、見苦しい言い訳に終始しているどこぞの権力者とは天地の相違があるわけであります。だから、皇室の権威はこゆるぎもしないわけですね。権力者が常にころころ変わるのとは違います。


 だから、我々としましても教義も戒律も何もないからと言って、どこぞの権力者のように、薄汚い人生を生きておればそれでよいというわけではなく、あくまで、清く正しく美しく、自覚をもって自意識をもって自尊心をもって、己をきちんと持して生きることこそが、ご先祖様への恩返しになるのであり、それがつながっては、天皇陛下に対するご恩に報いることとなるのであります。


 反面教師として、ああいう薄汚い権力者がいるから、無私の存在であらせられる皇室の尊さ、清らかさが分かり、ありがたさがいや増すわけです。


 こういうことが分かれば分かるほど、ただのキレイゴトと思っていた、清く正しく美しい、という言葉が、重みをもって、真実味をともなって自分に降りかかってくるのが、学問をすれば実感できるはずであります。


 学問をして、学問が己とひとつになる、腑に落ちる、いわゆる、肉体化する、ようになればわかります。


 そのために、学問を肉体化させるために、学問するのであります。


 さて、


 先ほど、タタリをなすような獣にも神が宿ると信じてきた日本人ですが、かの有名なジブリ作品「もののけ姫」にも伺ってみましょう。


 エミシの村に住む少年アシタカのもとに、シシ神、でっかいいのししであるナゴの守が襲来します。アシタカとしては神を殺めることなどしたくなかったのですが、村の乙女に害をなすとあっては見過ごすこともできん、とナゴの守に止めをさしタタリをもらいます。その場に現れた巫女たるヒイ様はナゴの守にいいます。




「いずこの荒ぶる神とは存ぜぬも、かしこみかしこみ申す。この地に塚を築きあなたの御霊をお祭りします。恨みを忘れ、鎮まりたまえ」




 明らかにタタリ神となって襲来したにも関わらず、ヒイ様はあくまでお祭りします、と誓いますね。


 日本の神道(しんとう)では、善と悪という単純な二元論はあまりないようです。あるのは、荒魂(あらみたま)和魂(にぎみたま)。これは、善と悪と分かれた、別個のものではなく、ひとつの魂に現れる二面、ということですね。


 人だって怒るときもあれば、笑うときもある。神様もそうだ、というわけですね。


 だから西洋におけるエクソシストのように、ついたモノを「悪魔」と断定し、滅びろ! 消えうせろ! 出てゆけ! と一方的に、独善的に排除しようとはしない。


 日本人はよくはっきりと物事をいわない、と外国人から批判的に言われるようですが、これも神道(しんとう)による日本人の特徴といえるでしょう。


 物事をはっきりと断定し、断言し、独善的にお前は悪、異教徒、異端、と決め付け、排除しないからこそ、2600年もの長きに渡って歴史を寿(ことほ)いできたわけであります。


 その様子を、ヒイ様が表しているのですね。


「いずこの荒ぶる神とは存ぜぬも」荒神(あらがみ)荒魂(あらたま)とは、つまり活動的、能動的存在であり、活動的であるからにはそこに反面として過失もあるものの、決して滅ぼすべき、嫌うべき存在ではない。タタリをもらうことにはなったものの、お祭りして鎮まっていただく。


 その特徴のひとつが、他者に対する寛容となって現れていることに気がつくわけですね。


 日本という島国に、古来、数多の渡来の民がやってきたそうです。


 かくいうわたしも、古来の縄文人ではなく、弥生人の方でしょう。何人の血が流れておるか。しかし、日本人にとって何人の血が流れておるか、は決して重要な要素ではない。血とか、遺伝子とかはさしたる要素たりえない。


 日本という島国にはぐくまれた、日本人という伝統、風習、歴史こそが、日本人を日本人たらしめてきていた要素なのであります。


 ここがものすごく重要なところであります。


 日本人を日本人たらしめているその主要素は、血や遺伝子などによって左右されるものではありません。


 日本で生き、日本で生活する、というその日々の中にはぐくまれるものなのであります。


 だからかつては何人という血の別はあったとしても、混血し、この島国で生きておれば、もはや立派な日本人なのであります。


 古来、日本人は様々な文物を受容し、取り込んで新たに変革してきました。しかし、ここで重要なのが、変革しつつも決して以前のものを捨て去らなかった、ということ。


 他国では、神道(しんとう)のような自然信仰、祖先信仰は、新興宗教である仏教やキリスト教の伝来によって駆逐されてしまいました。


 しかし、日本では昔に、神道(しんとう)と仏教という対立はあっても、しかし、三十年戦争のような狭隘な他者排斥による殺戮行為に陥ったのではなく、単なる勢力争いに留まったのであります。わたしは、日本の地において宗教戦争なるものは決してなかった、と思うのであります。


 そして、神道(しんとう)における最高神職である天皇陛下が仏教を受容し、民草に仏を拝むことを勧められた。


 まるで、ローマ法王がユダヤ教を勧めるが如き行いをなされ、それが大混乱をもたらすことなく、人々に受容されていったわけです。国家が壊乱するような内戦に発展しない、摩訶不思議な民族性を発揮いたします。


 しかも、古代の日本人はよいものは受容し、科挙や、宦官、纏足など、国体に合わぬと判断すれば断乎として取り入れないという優れた判断をも見せた。外国製といえば何でもかんでも礼賛するような愚かな真似はしなかったわけです。


 さらに、色んな文物を受容しても、時あってかそれを日本的、日本式に収束させるという芸当をも見せます。


 唐様、という唐天竺など外国の優れた文化に憧れ、とある人物に至っては九州に左遷させられても唐に近づいた、と本心か皮肉かはわかりませんがそう言ってしまうように外国に憧れを持ちつつも、決して自国の文化、伝統、歴史をないがしろにはしなかったことが重要で、平安時代には独自の宮廷文化があり、鎌倉時代には新興仏教によって武士は精神を勃興し、安土桃山文化でわびさびを大成し、江戸時代に到って日本式を大きく花開かせた。


 様々な外国の文物を受容して、色んなものを深い懐で受け入れつつも、それらを最終的に日本風、でこしてゆく。


 一方的に、排他的に他者を怨嗟し、拒絶し、駆逐し、そのために絶望的な紛争を惹起し、国家滅亡を招いた歴史ではなく、他者を自由に流動的に受け入れ、しかし、流されることなく忘失することなく日本の魂の脈動を止めはしなかった。これこそ、日本が2600年にも長きに渡って世界最古、最長の歴史をつむいできた何よりの理由なのであります。誇りなのであります。


 また、神社や仏閣にゆくことを、参拝する、といいます。


 参じる、参る、といいます。


 この、参じる、参る、とは神や仏、偉大なるものに近づいて、己を示す、ということであります。


 日本人は、西洋に比べますと、西洋の主知的、理知的な性質に比べますと、非常にこういった偉大なるもの、尊いものに対して己をなげうつ、己をささげる、己を捨てる、没我になって没入する、という精神に富んでおります。


 かつて、大東亜戦争当時でも「大君にこそ死なめ、かえりみはせじ」という精神で、国家とか、地域社会、もしくはお父さんやお母さんといった方々に対して頑張るよりは、それよりはるかに偉大なる存在、大君、天皇陛下のためにこそ命をささげたい、として日本人が命を散らしたのもまたゆるぎない事実であります。「天皇陛下万歳」と命を散らされたのであります。


 ことほどかように、歴史的に、日本人は偉大なるものの家臣、臣下として礼をつくす、己をつくす、ということに感激を覚える民族性を多分にもっている民族なのであります。で、あるからこそ、2600年続けてこられたこともゆるぎない事実であります。もし、これがチャイナや西洋であるならばここまで国家、ひとつの王朝が続くことなど考えもできなかったことでありましょう。


 ちなみに、侍、さむらい、といいますが、本来はさぶらい、さぶらう、といい、主君に仕えることを申したものなのだそうであります。チャイナや西洋と比べて、日本は唯一、創世神話よりかわらぬたったひとつの王朝を戴き、その王朝に仕えてここまで参りました。そのため、西洋のように、わがまま勝手をいたし、民衆を苦しめ恬として恥じぬ王や貴族に対抗する、反抗する、という必要性をほとんど感じないまま、革命という悲惨を味わうことなく、ありがたい歴史をつむいで参りました。


 さらにちなみに、切腹というのも神道とつながりがあり、古来、日本人は腹にこそ己の魂があると信じてきておりました。腹を割って話す、とか腹が決まる腹が据わる、とか腹とはその人そのものであったわけです。そして、戦国時代清水宗治の城兵の助命嘆願に腹を切って誠意を示す、という行為に、清水宗治の人格の高潔さをみたわけですね。そのあまりの見事な最後に、腹を切って死ぬことを作法として格式に至らしめたといわれます。


 日本人にとって皇室が、わが王朝が、無心に、私利私欲なく、公、おおやけのお心でもって民草のために安寧秩序を祈ってこられたからであり、時の権力者も、取って代わろう、などと大それた簒奪を考えなかったからであり、これもありがたいことではありますが、そのため、反面として、日本人は非常に性質がおだやかで、のんびりとし、安定を好む、という特徴があります。


 大東亜戦争時、あれほど大変な状況下にあって、米国なら志願兵で溢れ返ったのにも関わらず、日本では赤紙という召集令状を出さないと兵隊が集まらなかったのも、興奮しやすく矯激に走りやすい西欧人に比べますと、穏やかな日本人の性質をよく表しているとはいえないでしょうか。


 また、日本で株やらがはやらず、貯蓄ばっかりなのも、ギャンブルを好まない、安定を好む性質だからであります。


 外資など、能力あるものが能力給を求めるのは当然でしょうが、日本人の性質上、派遣だの契約社員だのよりは、安定した社員で、終身雇用をしていただくほうが安心する、そして、だからこそその会社に忠誠をつくす、というのが日本人の性質であります。


 だから、日本人はどこか、主知を発揮し、個性を爆発させるよりは、周囲と溶け合い、埋没しておればよい、という性質もあります。これも、日本人が社畜であることの要因のひとつではあるのでしょう。


 しかし、そうであってはどこか物足りないもの、寂しいものを感じることも事実であり、それはどうしてかと申しますと、


 参じる、参る、という感激がないからですね。


 日本人の性質上、偉大なるもの、己よりはるかに精神に、心に、徳に優れたものに仕えたい、はべりたい、さぶらいたい、という欲求が常に働くからであります。


 ちなみに、参った、ともいいますね。降参するときに、「参った!」と申します。これも、相手に対する敬意の表れであります。あんたは俺より強い、偉大だ、ということですね。また、いま時は申さないでしょうけど、好きな異性でも現れれば「あの子に参った」ともいうのであります。


 日本人は心のどこかで、偉大なもの、優れたものに仕えたい、参じたい、と思っている。しかし、それは西洋的な主我的な、主知的な、頭がよく、仕事もてきぱきこなし、という人物よりは、太陽のような、水のような、空気のような、あって当たり前なんだけど、なくなると死活問題となる、というものにこそ感激を覚えるものなのであります。


 そして、その至尊、皇室こそが日本人の感激の心、忠誠心のもっとも崇高なるよりどころであり、参じたい、参りたい、と思う尊い存在なのであります。


 2600年もの長きに渡り、大和民族は、皇室と共にあった。


 皇室あったればこそ、我が大和民族はあるのであります。


 皇室をよりよく知る、ということにこそ、大和民族は、日本を知る、己をよりよく知る、ということに直結するのであります。


 日本人の高い道徳精神、倫理観念。先祖を祭り、守る宗教観念。善や悪に強いこだわりがなく何でも受け入れる度量の広さ、懐の広さ、そして時あって日本流にこなしてしまう、芯の強さ。ぶれない本質。偉大なるものに没入し己をささげてやまない参るという精神。これらが、日本人なのであります。すでにそれらは失われた、と思う人は、たまたま島国に生まれた地球市民、とでも申せばよいでしょう。伝統も風習も歴史も、信仰すらない。そんな気持ちの悪い生き物は世界のどこに行っても見下されるくだらぬ存在であると一生気がつくことなく生きればよいのであります。


 以上、簡単ではございますが、日本人の宗教にみる日本人の特質をみてきました。


 最後に、タタリ神となったとして祭られた、藤原道真公のお言葉を、見てみましょう。わたしは常にこの言葉を、詩を、心に抱いておるのであります。




「心だに 誠の道に かなひなば 祈らずとても 神や守らん」




 日本人の本質をこれほどあざやかに切り取った言葉もないかと思うのであります。


 別に、世に鮮やかにうってでるとか、名声を得て評判になるとか、人も羨む大金をせしめるとかが、日本人のなすべき業ではないのであります。


 運に見放され、時に合わず、世に入れられず、一生を鬱屈して暮らしても心を病むことはありません。


 少なくとも、わたしには鬱も、心を病むこともありません。すべき学問は日々しておりますし、貧乏暮らしでもどうとにでもなります。日々好きなことしたいことをして、のんびりとのほほんと、お魚やたくさんの緑に囲まれて生きる。己を知っており、しかも四十を過ぎ天命を知るわたしです。うろたえることなどありません。


 こんなにありがたい人生もありません。


 誠の生き方にのっとっているのであれば、


 神や仏はみておられ、守ってくださるのであります。


 日本人として生まれて、これほど嬉しいことはありません。


 今回も急ぎ足ではありましたが、日本の宗教にみる特性を語りえたかと思いますので、今回はこれくらいにしておきましょう。


 日々学問。



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