宿命・運命って? ~陰騭録を読む~
おこんばんはです。豊臣亨です。
今回は人として生きるにあたっての重大学問、宿命・運命を学んでみたいと思います。
さて、今時の人々は宿命と運命の違いはご存知なのでしょうか?
あまり人に問うて回るものでもないのでわたしも今の世相は把握しておりませんが、一昔前は宿命も運命も意味がごっちゃになっておったような気が致します。
ですが、ブログでは度々申すことですが、この宿命と運命というのはおのずから別物でございまして、簡単に申しますと、
宿命とは生まれた瞬間から宿るもの、その人の人生を決定するものでございます。
それに対して、
運命とは、生まれてからのその人の動き、運もうごきという意味なわけですが、その人の生き方、考え方、うごき方次第で千変万化するのが運命でございます。
つまり、実は人生の大枠は生を受けた時点ですでにして決定しており、何歳で学業が成功するかとか、何歳で事業が成功するか失敗するかとか、何歳で結婚し何歳で子をなし、何人の子宝に生まれる、もしくはその人の方向性、学業に向いている、商売に向いている、芸術に向いている、などといったその人の性質や向き不向き、などなど、そういった諸々はすでにして分かっている、決まっている、のが宿命であります。
そういった、その人の人生をおおよそにして把握した学問こそが易、であり、それをもって占うのが卜易であり、いつぞやも申したと思いますが、何年何月何日何時で生まれたかによってその人の人生がおおよそ分かるという、人類史上最高無比の統計学でございます。
一体、何年何月何日何時、で年に関しては十干十二支で60で一回り、月日は365日で一回り。時間は24で一回りですから、単純にかけると50万以上の人生が把握できるはずですが、この計算であっておるかは知りませぬ。どうやってこんな膨大なデータの蓄積やったのか、想像だにすることもできませんが、昔の偉大な頃の漢人はこの果てしない人生という統計をひたすら集積していたのでありまして、それによって易は生み出されたのであります。
よく、といっても最近はこんなことは言いませんが「当たるも八卦当たらぬも八卦」といいました。意味としましては占っても当たることもあるし外れることもあるから、大凶引いても気にすんなw くらいでとらえますね。
八卦とは易の重要にして、根幹的な乾兌離震巽坎艮坤の図象を組み合わせたもので、この八卦を組み合わせてなる六十四卦によって様々な運勢や吉凶を占うもの。
その八卦が当たるも当たらぬも、とはどういうことかと言いますと、そもそも宿命によって人生というのはおおよそ分かっておる。把握しておる。であるからして、その人がどうなるとかこうなるとか、分かるのですが、しかし、良くも悪くも宿命から外れてしまうこともある。
例えば、その人の宿命以上の学問をするとか、事業をなすとか、博名を響かせるとか、反対に女に溺れるとか、酒や博打に溺れるとか、尾羽打ち枯らして零落するとか、本来備わっている、定まっている宿命からそれる、外れてしまうのが運命でありまして、占いとは宿命を見るものですから、当然その人がぼーっと生きていると占い通りの結果がでるのですが、良くも悪くも運命を作ってしまうと占っても外れてしまう。これが「当たるも八卦当たらぬも八卦」という次第でございます。
今時はそれこそたくさんの占いの方法があるようですが、基本はこの易、の統計学から発していると理解しても間違いはないと思います。
人生を理解する、のは今も昔も重大な問題であり難問でありまして、易が完成された頃というのは今よりはるかに世界が単純に出来ていたからこそこんな膨大な情報を集積することが出来たのでしょう。大昔の偉人、例えば孔子様であっても、人生の晩年で愛弟子の顔回さんを亡くしてしまうという悲劇に見舞われてしまいます。何をすれば天命に沿い、何があれば天運に見放されるのかはこういった聖人君子であってもなお悩みの尽きぬ大問題であったわけでして、それは今を生きる我々とて何ら変わることはありません。
どれほど科学が進歩しようと、どれほど文明が発達し都市化が進もうとも、人間そのものは何らの変化もありません。であるからこそ、人間そのものから発し、世界そのものを把握しようと昔の人は試みたわけで、その熱意、情熱は驚嘆の一言です。
それによって、すでにして人生の大枠が分かっているとは大変結構なことではありますが、しかし、だからといってそれにあぐらをかいて安穏としているのも人としてつまらない、面白くないわけでありまして、こうして学問をすることによって、宿命以上の人生を作る、創造する。我が人生を我が手によってなす、というのも痛快なことであろうかと思います。
なので今回は宿命・運命をちょびっと、学んでみたいと思います。
人生の先覚きどりの老荘思想家のおっさんは語りたい。
さて、今回も例によって例のごとく安岡先生に教えを請う、ぶっちゃけ、丸写しするわけですが、今回の書は、
『立命の書 「陰騭録」を読む』 致知出版社発行 から。
陰騭録とは、袁了凡という明の時代の政治家にして宗教家の記した書のこと。名は袁表、後に袁黄と名乗る。了凡とは号のことですね。陰騭録は袁了凡の人生を書き記して子供に教え諭すために残された書であります。
陰騭とは、書経にある「惟れ天下、民を陰騭す」からきている熟語で、陰は冥々の作用、騭はさだめるという文字。すなわち、冥々の間にさだめられているものを明らかにさだめることで、自然の支配するところの法則を、人間の究明によって得た法則に従って変化させてゆく、これが陰騭であります。
つまり、これまでは、神々や精霊などが支配していたと思われていたこの世界を、科学や物理学などを駆使して人間がすべてを把握してしまう、すべて解明してしまうということが陰騭に当たるわけですね。西洋の近代科学文明などは間違いなく陰騭と言えるわけですね。
袁了凡は江西省、あるいは浙江省の出身とされ、明の世宗・神宗の時代のお人。日本でいうと足利末期から江戸時代初期に活躍した人で、太閤殿下の朝鮮出兵の頃には明軍にあって朝鮮に出陣したこともあるのだとか。しかし、あまりに正論をはくから疎まれて左遷させられ、ついに帰国して師弟への教育・学問をして世を終えられた方。
幼少の頃に父親を失い、家も没落してしまったので母親の言いつけに従い、医者になることを志すのですが、ある時ある立派な老人に巡り会います。p31
「【予慈雲寺にあり。一老者に遇う。修髯偉貌、飄々として仙のごとし。予これを敬礼す。予に語って曰く、予は仕路中の人なり。明年すなわち学に進まん。何ぞ書を読まざる。予告ぐるに故を以ってす。並びに老者の姓氏里居をとう。
曰く吾が姓は孔、雲南人なり。邵子の皇極正伝の数を得たり。数ことごとく汝に伝えん。故に萬里相尋ぬ。いずくにか棲止すべきあらんか。予これを引いて、家に帰りて母に告ぐ、母曰く、善くこれを待せよと。その数を試みるに繊悉験あり。予ついに読書の念を起こす】
袁了凡少年が慈雲寺におった頃、一人の老翁に出会った。頬髯の長い偉大な風貌は、飄々として仙人のようであった。自分は思わずその老翁を敬礼した。
するとその老翁が自分に語って言うのには
「君は仕路(官吏になること)、すなわち役人生活をする人である。来年は科挙の学問をどんどんやるようになるさだめである。どうしてその道の勉強をしないのか」と、
そこで自分は、実はこういうわけで――と母のいきさつを話すと共に、あわせて老翁の名前と住居とを問うた。老翁の言うのには、
「自分の姓は孔と言い、雲南人である。邵康節の皇極経世に関する理法の学問の正伝を得たが、その理法をことごとくお前さんに伝えたいと思って、遠路はるばる尋ねてきた。どこか宿泊するところはあるまいか」と」
邵康節は宋の時代の大学者。『皇極経世書』は代表的な著書で、要するに人類の栄枯の哲学を説いたもので、世を治める命数の学問ということだそうな。皇の皇は大いなるとか、究竟とかいう意味で皇極は絶対の極致、つまり太極と同じ意味。その太極に関する興亡・栄枯盛衰の原理・原則を説くのがこの『皇極経世書』であります。p37
「老翁はその正伝を得て、袁少年に伝えるべくはるばるやって来たというのであります。そこで「予これを引いて、家に帰りて母に告ぐ」、老翁を自分の家に連れて帰った。
お母さんにわけを話すと、よく接待しなさいという。さて「命数を試みるに」――数は因果の関係、ここでは運勢であります。――いろいろ運勢を占ってもらったところ、小さいことでもことごとくみな験があった、その通り当たった。そのために自分も遂に「よしっ! それなら一つ進士の受験勉強をしよう」という気を起こした」
「【孔、予のために数を起こす。県考は第十四名、府考第七十一名、道考は第九名、明年考に赴く。三処名数皆合う】
県考・府考・道考というのは進士の試験を受けるための予備試験です。この三段階の試験に合格して、初めて進士の試験が受けられる。道考はあるいは院考ともいって、三年に一度道の専門の役人が来て行った。
さて、老翁に占って貰ったところ、最初の県考は十四番、府考七十一番、道考は九番で合格し、その翌年には「考に赴く」本試験の進士の受験におもむくを言う。そして、その占いの通り県考・府考・道考の三つの予備試験を受けてみると、何番で合格するということまですべて的中した。
【また遂に終身の休咎を卜う。言わく某年考第幾名、某年まさに廩に補すべく、某年まさに貢すべし。貢後某年まさに四川の一大尹に選ばるべし。任にあること三年半、すなわちよろしく告帰すべし。五十三歳八月十四日丑の時、まさに正寝に終わるべし。惜しむらくは子無しと。予備に録して謹んでこれを記す】
それでこれは大したものだ、というので更に進んで生涯の幸・不幸を占ってもらった。
老翁のいうのには、
「某年の試験には幾番目に合格し、某年には廩生となって禄米を貰うようになり、某年には貢生となって給料を貰うようになるであろう」と。
県・府・道の三度の予備試験に及第すると、初めて本試験が受けられるわけですが、中国ではこれを秀才といった。よく向こうの本を読んでいると、何秀才・某秀才という言葉が出てくる。日本人はこれを間違えて、よくできる意味の秀才に解するのですが、これは予備試験に及第したことを表す。その秀才になると、廩生・貢生という二つの特典が得られる。
廩は倉で、倉米取り、つまり俸禄がつくこと。貢はみつぐで、給料を貰うことを表す。この廩生・貢生の二つの資格を得て、初めて進士の本試験を受けることができ、また国子監(国立大学)に入学することができる。本試験には郷試・会試・殿試の三つあって、殿試には天子、と言ってもたいていは名代であるが、出席して行われた。
さて、その貢生になった後、
「某年には四川省の一つの大きな地方長官に選ばれる。しかし任にあること三年半で、辞表を提出して故郷に帰ることになるだろう。そして五十三歳の八月十四の丑の時刻(午前二時頃)に、自分の家の表座敷で息を引き取る。惜しいことには生涯子供ができない」と。
自分はそのことをつぶさに記録にとどめて謹んで記して置いた。こうして了凡は老翁の卜を信じて、次第次第に宿命観に捕らえられてゆくわけであります」
袁少年はこの立派な孔老人に占ってもらって、人生の終わりまで教えてもらった。まあ、よくもそんなおっかないことを尋ねる気になったものですけれども。
そして、この試験は何位で合格し、この試験なら何位で合格するじゃろう。と言われて、すっかり心酔してしまったわけですね。人の一生とはすでに決まったものなのだ、分かるものなのだ、と。そう分かってしまった、理解してしまった。袁了凡はすっかり丸くなってしまったわけです。
無駄な欲出しても、無理に頑張っても仕方ない。すべては決まっておるのだ、と。決まっている以上は無駄に頑張っても仕方ないじゃないか。占って貰ったとおりに生きればいいじゃないか。と、観念してしまったわけです。確かに、試験の何番目に合格するぞい、とまで言われて見事にぴたりと的中されては、異論の出ようはずもありませんね。
だから、袁了凡はすっかり悟った気になった。
人生を、人を、すっかり分かった気になったわけです。だから一種、悟りといいますか、諦めといいますか、一つの結論を自分の人生で得てしまった。後は教えの通りに生きて死ねばいいや、くらいにまで思ってしまったわけですね。人には宿命と運命と二つあって、その二つの関係性の中で生きておるのだ、などということはこの時には分からなかったのです。だから宿命の中にあって、宿命を打破する、自分の人生を自分で作る、など考えようもなかった。
そんな袁了凡ですが、さらなる出会いがあります。p45
「【貢せられて燕都に入る。京に留まること一年、終日静坐して、文字をみず。己巳帰りて南雍に遊び、いまだ監に入らず。まず雲谷禅師を棲霞山中に訪う。一室に対座することおよそ三昼夜、目を瞑せず。雲谷問うて曰く、「およそ人の聖となるを得ざる所以のものは、ただ妄念相纏うがためのみ。汝座すること三日、一妄念を起こすを見ざるは何ぞや」余曰く、「吾孔先生のために算定さるるに、栄辱死生皆定数あり。すなわち妄想を要むるにまた妄想すべき無し」雲谷笑って曰く、「我汝を待って豪傑となせしも原来ただ是れ凡夫なり」と】
その後貢生の試験に合格したので都の北京に入り、ここに一箇年逗留した。毎日一日静坐して、書物を見なかった。己巳の年に帰って南京の国子監に遊学することになったが、まだその大学に入学しないうちに、まず雲谷禅師を南京の棲霞山に訪ねて行った。
そうして一室に対座することおよそ三昼夜、心を静めて目を閉じなかった。つまり静坐しておったわけです。それにはさすがの雲谷禅師も驚いたか、自分に問うて言うのには、
「一体人が聖人となり得ないゆえんのものは、ただ妄念がつきまとうからに外ならない。しかるにお前さんは対座すること三日、一つの妄念も起こしたのを見ないのは、そもそもいかなるわけであるか」と。
そこで自分は
「実は私は孔という老翁に一生のことを占定してもらったところ、ことごとく皆的中したので、それからというものは、人間の栄辱死生というものにはみな定まった運命があるものだと信ずるようになった。だから妄想を起こそうにも起こす妄想がありません」と告白した。
ところがそれを聞いた雲谷禅師は
「なーんだ、そんなことであったのか。わしはお前さんを随分偉い人物だと期待しておったが、それではもともとただの凡人ではないか」そういってすっかり軽蔑してしまった。
【予その故を問う。曰く「人いまだ無心なること能わず。ついに陰陽の縛する所となる。いずくんぞ数無きを得んや。ただこれ凡人のみ数あり。極善の人の数はもとより他を拘すること不定、極悪の人の数もまた他を拘すること不定なり。汝二十年来、他に算定されて、曾って一毫も転動せざるは、豈に是れ凡夫ならずや」余問うて曰く、「然らばすなわち数逃るべきか」曰く、「命は我より作し、福は己より求むとは、詩書の称する所、まことに明訓なり。我が教典中に説く、『富貴を求むれば富貴を得、男女を求むれば男女を得、長寿を求むれば長寿を得』と。それ妄語はすなわち釈家の大戒なり。諸仏菩薩豈に誑語して人を欺かんや】
そこで自分はそのわけを問うた。それに対して雲谷禅師の言われるには、
「人間・無心であるということはなかなかできないものである。そのためについにはこの現象の世界・因果の理法の世界の物事に束縛せられてしまうわけで、これではどうして運命から逃れることができようか。極善の人にももとより運命というものはあるけれども、決してそれは定まったものではない。
常に変化する。反対に極悪の人の運命もまた定まったものではない。これは悪業の力によって生まれながらに運命が変わるのである。お前さんは二十年この方、他人から占定せられて、少しも変化しなかったというのは、そもそも凡人でなくて何であるか」と。
袁黄も今まで信じてきたことを根柢から覆されて驚いた。そこで
「それならば一体運命というものは逃れることができるものか」と質問した。すると禅師は、
「天命は自分から作り、福は自分から求めて得るとは、詩経や書経のいうところであるが、まことに立派な教訓である。わが仏教の教典の中にも、『富貴になろうと求むれば富貴を得、男女の子を欲しいと求むれば男女の子を得、長寿を得たいと願い求むれば長寿を得』と説かれてある。そもそも虚言は仏者の大きな戒めとするところであるから、諸仏諸菩薩はどうして虚言をついて人を欺くようなことをされようか、そんな筈はないのである」という。
【予進みて曰く、「孟子言う、『求むればすなわちこれを得、我に求むるものを求むるなり』と。道徳仁義に力むるを以って求むべきも、功名富貴はいかんぞ求むるを得ん」雲谷曰く「孟子の言錯らず、汝自ら錯解す。汝見ずや六祖の説くを、『一切福田は方寸を離れず』と。心に従って覓むれば、感通せざる無し。我にあるを求むるは独り道徳仁義を得るのみならず、また功名富貴を得。内外雙つながら得。これ求めて得るに益あるなり。もし躬に反り内省せずして、いたずらに外に向かって馳せ求むれば、すなわちこれを求むるに道あり、これを得るに命あり。内外雙つながら失う。故に益なし」と】
そこで自分はさらに進んで質問した。
「孟子に『求むればすなわちこれを得。我に在るものを求むるなり』というてあるが、これは道徳仁義というようなものは自分の心の内在するものであるから、努力することによって求めることはできるけれども、功名富貴というような自分自身の外にあるものはいかにして求めることができましょうか」と。
これに対して雲谷禅師は言われた、
「孟子の言葉は誤っていない。お前さん自身が誤って解しておるのである。お前さんは六祖(唐代の禅僧慧能のこと。第五祖弘忍の印可を受けて禅宗第六祖となる。また南宋禅の祖なり。年七十六にて寂す)の説かれているのを見たことがないか。六祖大師も
『一切の福田は心というものを離れない』と言われている。自分の心に向かって求むれば、天も感じないということはない。結局は自分の内にあるものを求めることに外ならない。だからただ道徳仁義といった自分の心に内在するものが得られるだけではない、功名富貴といった心の外にあるものも得られる。
自分の心に向かって得ようと努力すれば、心の内にあるものも、心の外にあるものも二つながらに得ることができるのである。そうして求めたものはそれを得たことによって自分自身に益となる。だからもし自らに返って反省することなく、いたずらに外に向かって求めようとすれば、これを求むるに道があり、これを得るに命というものがあるのであるから、結局自分の心にある道徳仁義も、自分の心の外にある功名富貴も共に失ってしまって、自分自身には何の益もないことになってしまう」と」
長の引用、丸写しとなりましたので、要約します。また、わたしの昔のブログも援用しまして。
袁了凡、袁黄青年はすぐさま国子監(国立大学)にいかずに、棲霞山の雲谷禅師を訪ねたわけです。
そして三日間彼は静坐してこの雲谷禅師と相対した。彼は三日もの間、普通の人間だったら雑念だの妄想だので心がかき乱されそうなところが一切乱れなく静坐したままであったので、二十代そこらの青年がそうそうできることではないぞい、と雲谷禅師もびっくりしたわけですね。
そこで、何をやったらそこまで人間が出来上がるのか? と訪ねたら、袁黄青年は孔老人という偉い人に占ってもらってすっかり落ち着いてしまいました、と言うと雲谷禅師が呵々大笑したわけです。
占い程度で人生分かった気になっておるとは、なぁ~んだ、ただの凡骨ではないか、というのです。
袁黄青年青年はびっくりしまして、それは一体どういうことか、と問うと禅師いわく、
凡人というものはそうそう無心ではいられないものだ。何故なら、凡人というものはいろいろな物事、欲だの損得だのに心を束縛されてそのために、自分という人間を外物から支配、拘束されてしまう。
すなわち、宿命というものに縛られてしまうのである。
しかし、それが子供のごとく無心であれば、そこに神の叡智、智慧が働き、この世の道理、因果の関係、人間の死生、そういったものを明らかに見ることができる。本質を徹見することができる。自分で自分の人生を創造することができるものなのだ。
優れた人物というものは、因果の法則、陰陽の理法、老荘に言う道、こういったものに確かに影響されるがそういうものをおのずからコントロールし、自分を支配せんと迫るものから自由を得ることができるのだ。
しかし、凡骨というものは人間関係だの、地位身分だの、金、女、世間体、そういった外物に支配され、囚われ、本来自由なはずの心まで束縛されてゆくものだ。だから、凡人というものはこの宿命というものに縛られたままなのだ。そなたは、その孔老人に占ってもらったままで結局、己を進化させることも変化させることもできなかった。これを凡骨といわずしてどうするか。と、なかなか手厳しくやられてしまったわけであります。
これを現代人で例えますと、社畜がもっとも言い得て妙、と言えるでしょうか。
己の生存だけを優先させ、他に何らの思考も思惟もなく今日も唯々諾々と職務につく。それによってどれほど己の心が死んでゆくか、心が病んでゆくか、など考えもしない。考えることもできない。そして、ひどい状態になると電車に身投げをし、過労で死んでしまうほど己の身を捧げてしまう。
それによって金銭以外に何を手にするのか。
何も手にすることなどできないわけであります。
これだけ情報化、IT、グローバル、という単語は嫌いなのでインターナショナルと言いますが、世界化国際化と叫ばれ、世界中の、古今の情報を集めることができる世になりながら、多くの人は論語の一冊にも触れることなく大切な己の人生を失ってゆく。
国や企業やマスコミがまるで何かに取り憑かれたかのごとく大騒ぎする、資本主義だの、経済至上主義だの、レジャー、バカンスだの、実は自分とは何の関係もない、没交渉の、実に下らないものを日々追い求めて、大切な人生を、精神を、心を摩滅させて、焼尽させて、ツイッターだの何だので気に食わない人間が気に食わないことを言い出すと、鬼の首をとったがごとく噛み付く。
本来、これだけ科学やら文化やらを発達させれば、精神的にも豊かで、余裕の有るはずの現代人が、ここまで日々カリカリして何かに咬みつかないとやってられないのも、外物に己を囚われておるからであります。自分の手元に、自分がないからであります。自分をきちんと掴んでおれば、芸人が直営業やろうが何しようが、自分には無関係なこと、どうでもよくなるものです。だって実際、芸人が一億給料もらおうが一円もらおうが、わたしにはかけらも関係ありませんし。
まあ、それはともかく、袁黄青年はすっかり驚いてしまいました。
今の今まで自分が信じてきた孔老人からの大切な教えを、根幹から否定されバカにされたわけであります。袁黄青年はでは、孟子の言葉は正しいのでしょうかと問うたわけですね。
すると、雲谷禅師、孟子の言葉に誤りは無い。そなたが誤って理解しておるだけのこと。それを説明しようか。
『書経』には『上帝、常ならず。善をなせばこれに百祥を降す。不善をなせばこれに百殃(多くのわざわい)を降す』とある。もし、生まれた時に一定の宿命があって、一生涯絶対不変であるというのならば、たとえ善をなしたとてどうしてこれに福を下すことができるか。悪をなしたとてどうしてこれに禍を降せようか。『詩経』にも『天命常なし』といっている。常なしとは、禍福とも人の善悪しだいで動くもので、決してにかわ付けのような決まりきった宿命だけがあるのではないということ。
他人を深く恨んでおるものが丑の刻詣りをする。人形をつくって、釘を打ち込んで人を呪うということが昔からある。あれは、一身の環境によって、あるいは人の目をつぶし、あるいは人の手足を悩まし、命を取り殺すのである。
さすれば目をつぶす釘も、手足を悩ますかなづちも、命を取る刀も、ちょっと考えると外から持ってきたようにも思えるが、これらはみな怨み・瞋りの心の中から取り出したものである。
我にあるものとは、ただ仁義道徳のみではない。功名富貴一切の福分も、皆我が心中にあるもので、心がなかったら何ものもありようがないのである。心に従って求めれば天に応じて何ものでも得られるのである。
故に孟子も『万物我に備わる』と明示してあるのではないか。それをもし我の心内、心の中に求めないで、あるいは他におもねり、あるいは人を欺くなど、種々の謀計をめぐらして求めようとしても、天命の理がなければ成就せぬものである。たとえ、一時天を欺いても『人盛んにして天に勝つが、天定まって人に勝つ』という言葉がある通り、遂にはこれを失って、それが却って大いなる害になるものである。故に孟子もその次に『これを求むるに道ある。これを得るに命ある』と説いておるゆえんである。
心が求めるから、心が発するから、それを求めるのである。
ただただ虫がよく金がほしい、地位や身分がほしいと言ったって、それは好き放題に得られるものではないのである。この世の因果、理法をきちんと把握して、それに従って己を養い、己を生かす外はないのだ。
万物、我に備わる、とはいえ、人を騙したり、策謀を巡らせたところで、天に逆らって悪業をなしたところで得られるものなどたかが知れているのである。
と、雲谷禅師に諭されたわけです。さらに、雲谷禅師の教えは続きます。p61
「【汝今すでに非を知る。向来登科せず、及び子を生まざるの相をもって、情を尽くし改刷して、務めて説くを積むを要す、務めて包荒を要す、務めて和愛を要す、務めて精神を惜しむを要す。従前の種々たとえば昨日死せるが如く、従後の種々たとえば今日生まれるが如し。これ義理再生の身なり。義理の身はおのずからよく天に格る。太甲に曰く、「天の作せる孽はなお違くべし、自ら作せる孽は逭るべからず」と。孔先生汝が科第に登らず、子を生まざるを算せしは、これ天の作せる孽なり。なお得て違くべきなり。汝今徳性を拡充し、善事を力行し、多く陰徳を積めば、これ自己の作す所の福なり。いずくんぞ得て享受せざらんや。易は君子のために吉におもむいて凶を避くるを謀る。もし天命常有りと言えば、吉何ぞおもむくべけんや、凶何ぞ避くべけんや。開章第一義、すなわち説く、「積善の家必ず余慶あり」と。汝信じ得て及ぶや否や】
お前さんはもはやすでに自分の非を悟った。今より後は、科挙の試験にも及第しない、子も生まないという薄福の相を真心を尽くして刷新し、務めて徳を積む必要がある、務めて汚いものや嫌なものを包容する度量を養う必要がある。務めて和らぎ人を愛する必要がある、務めて精力・神気を惜しむ必要がある。
そうすれば「従前種々……」、今までのいろいろのことは、丁度昨日死んでしまったのと同じことになり――ということは悔しんでも惜しんでもどうにもなるものではないということです――これからいろいろのことは、今日生まれたのと同じことになる。
これが義理再生の身というものである。
義理再生の身とはどういうことであるかと申しますと、義は実践、理は精神、あるいは真理という意味である、再生は文字通り生まれ変わることであります。人間の再生にはいろいろありますが、生身は祖先の再生の身である現在のこの身を除いては、直接には再生することはできません。
しかし実践的・精神的にはいか様にも再生することができる。つまり義理再生の身とは、人間が実践的に思索的に、精神的に道徳的に、絶えず生まれ変わって、一日のこの自分の身体を維持してゆくことであります。これは真理である。したがって「義理の身は自らよく天に格る」、自然の理法に合致するのである。
書経の太甲篇に「天の下した禍は自分の善業によってなお転ずることはできるが、自分の作った禍は決して避けることはできない」というてある。
孔先生がお前さんを占って、科挙の試験にも及第しない、子も生まれないと算定したのは、これは天の下した禍というものである。しかしこれは真理に従い努力することによって、いくらでもご破算にすることができる。今よりお前さんが徳を拡充し、力めて善事を行い、多くの陰徳を積んでゆけば、これこそ自分の作る徳であって、これを享受できないということはあり得ない。
境遇の上においても必ずそれだけの福が実現するのである。易は君子のために、吉におもむき、凶を避けるように謀ってくれたものである。もし天命というものが決して変わらぬというのならば、吉にどうしておもむくことができるのか、凶をどうして避けることができるのか。およそ吉凶を説くなどということは無駄な話である。『易経』開巻第一にも「善を積んできた家には、その一代だけではなく、必ず子孫にも及ぶ慶福がある」と教えてくれている。お前さんはまだこれでも信じ得ないかどうかと。今日の我々にとっても、将来の人間にとっても、実に親切な、厳粛な教えであります」
ここまで熱誠をもって諭され、袁黄青年もついに本当の教えに触れて学問の大切さ、善徳を積むことの大切さを理解できたわけですね。
そう考えますと、ここまで親身になって教えをもたらしてくれる人に出会えれば、我が人生ももう少し救えたろうになぁ、と思いますね。
袁黄青年は危うく宿命に堕するところを、思わぬところで諫正にあって己の非を知って、運命の重大さを知り、自分の人生を自分の手で織りなす、作り上げるということをしみじみと悟ったわけです。
さて、義理再生の身。
昨日までの自分は死んで、新たに生まれ変わる、というと『ガンバスター』のタカヤ・ノリコを思い出しますが、さすがにこの身体はやすやすと死んで蘇る、などということはできませんが精神は、心は違う。
こういう言葉もあります。
【行年五十にして四十九年の非を知り、六十にして六十化す】
という言葉が『淮南子』にあります。これは衛の国の大夫、蘧伯玉というお人の言葉で孔子様より年上だとかで、孔子様は尊敬しておられたといいます。
五十歳になって四十九までの前非を悔いた。そして、六十になったら六十になっただけ進化した。
ということです。
これは相当すごいことでありまして、普通、五十にもなればそれなりに大成し、自分をもって任じる、自分を許してやってもいいのではないかと思います。ですが、蘧伯玉はそれで満足できる人間ではなかった。五十にもなって、それまでの自分の人生、生き方は間違っていた。だから、新しく自分を創造した、というのです。
どんな人生を生きたらそんな事ができるのか、わたしには想像もつきませんが、やはり大昔の漢人には偉大な人がいたということでしょう。
義理再生の身、とはこの蘧伯玉のように、非を知ったのなら、過ちを知ったのならそれを改めることです。また、孔子様のお言葉、
【学んでこれを時習す。また説ばしからずや】
袁黄青年はまさしく、時習したわけであります。
大事な、大切な教えに巡り合って、本当の学び、学問というものを体感したのであります。
そして、雲谷禅師の教えに従って修行に励むと、これまで外れたことなどなかった孔老人の占いが外れてゆくのであります。そして雲谷禅師は善行を積む方法として『功過格』という、採点表の付け方を教わったのであります。
これは、善事を積めば○、悪事をなせば✖という風な成績表で、○が三千たまれば願いがかなう、というもの。それによって袁黄青年は、孔老人によって科挙の試験には受からないと言われていたが受かった。子はできないと言われたがその子ができた、五十三歳八月十四日丑の時で死ぬと言われたがそれ以上の長寿に恵まれた、という風に、己の人生を己で成し遂げることができたのでありました。
こうして、彼は凡をおわった、了した、ということで了凡、袁了凡と名乗った。
いくら人生が分かろうと、知れようと、今を生きるのは自分。今の自分の行動を、思考を、思想を、決定するのは他でもない自分だけなのであります。
そうして、古人は、自分自身の人生を作る、自分の人生を創造した。自分の人生を自分の手によって完成させたのであります。
そう考えれば、真実を糊塗し、無視し、嘘に嘘を重ね、他人を悪口雑言で罵倒し、悪罵し、イデオロギーで脳みそ焼かれて、自分の主義主張だけを押し付ければそれで可とする生き方が、結局、どれほど己の人生を害しておるか。簡単に分かるかと思います。
孔子様も、人間三人集まればわたしはそこに師匠を見出すことができるとおっしゃっておいでです。
このような生き方を、善なる師と見るか、悪なる師と見るかは、自分次第であります。
これもまた、時習。
いまその時の出来事、事件、事実から、自分の血となり肉となり骨となり、魂となる教えを見出し、取り込んでゆく。そうして、今の自分に最適な、最的確な自分を作り上げる。
そういうことができれば、宿命に堕することなく、運命を高らかに作り上げることができるはずであります。
と、宿命と運命を、ちょびっと語った気がしないでもないので、今回はここまで。
日々学問。