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中庸って?

感想いただきました~。ありがとうございます~。

で、さらに学問をしていただこうと思って何かいいものはないかと考えて今回のお題となりました。当初はもっと簡単になるつもりでしたが、こんなんなりました(笑)。

皆様の学問の血肉となれば幸いでございます。ー人ー



 おこんばんはです。豊臣亨です。


 今回はちょびっと難しい学問のお話を。


『中庸』というのは四書五経の一書で、古代の『礼記』という書の一部分にあったものを、独立させて一書にしたもの。概念であり学問でもあります。この書をかの朱子が尊重して校訂して、朝廷の官学に採用。官吏(かんり)の登用試験である進士の試験の必修としたために儒教におけるもっとも重要な文献『大学』『論語』『孟子』の仲間入りを果たしたものです。


 しかし、『中庸』と言われると、分かったような分からんような、とりあえずさらっと流してしまいそうな学問かと思います。分からん、で言いますと、どっちつかずの中途半端、内股膏薬、風見鶏でいわゆる、「洞ヶ峠を決め込む」みたいに思っている人も少なくないようです。


 分かる、と言っても、どちらかに偏することのない、偏屈、偏狭、何らかの偏った見方に囚われることなく公正公平な視野をもった者、という認識が多いかと思います。


 wikiではどう書いてあるのか、と見てみますと、



〈「中庸」の『中』とは、偏らない、しかし、決して大小や上下の中間を取りさえすればよいという意味ではない。よく、「中途半端」や「50対50の真ん中」と混同されている。中間、平均値、足して2で割るというものではない。常に、その時々の物事を判断する上でどちらにも偏らず、かつ通常の感覚でも理解できるものである〉



 と、ありまして、この認識で間違いはないですし、わたしもそれでいいと思っております。


『中庸』とは、簡単に言ってしまえば、


 俺は正しい! ……のか?


 が中庸でありまして、人間というのは、その人間なりにわかったところ、理解したところ、了解したところがあってそれなりに一家言あるものですが、しかし、常に自己の刷新を図らねば停滞しかねない。固着して、拘泥して、分かった気になって間違えておる、という危険があるものでございます。


 そういう、分かった気になって分かっていない、という慢心、怠惰を戒めるのがこの『中庸』であります。


 あなた、ではない、わたし、怠惰ですねぇ??


 と、他でもない、自分自身を戒める言葉でございまして、特に現代にあってはこの近代西洋思考の流入によって、まさしくイデオロギーこそがこの固着した思考の分かりやすい一例かと思います。


 どんな事実があろうと、どれほど真実があろうと、イデオロギーのためならそんなものには見向きもしない、事実を捻じ曲げ、嘘を語り、学を捻じ曲げる。いわゆる曲学阿世、が今の世の姿であります。


 現代はことさらそういった偏屈、偏狭な、一方に偏することしか知らないようなのが多いかと思います。


 いにしえの人はそういった偏ること、バランス感覚を失い公平公正を失うことを恐れ、学問の重要性を説いたわけであります。とは申せ、学問をすると自分こそが正しい、俺の語ることこそが真実なのだ、と夜郎自大ででかい顔をしかねない。それを戒めるためにも、今回はこの大切な学問を学んでみたいと思います。


『中庸』とは、概念で語ると公正公平、ということになりますが、学問で語り始めるとそんな次元では終わらない、そんな簡単なお話ではないということを今回、学んで実感していただきたいと思います。


 老荘思想家のおっさんは語るゾイ。



 さて、そもそもこの『中庸』の漢字にはどんな意味があるのか、今回は、安岡先生の書『洗心講座〈聖賢の教えに心を洗う〉』 致知出版社から学んでみたいと思います p17




「『中庸』の意義でありますが、「中」については今までたびたびお話致しましたので、今回は略しまして、「庸」について少し解説をして置きたいと思います。


 この字は普通の常識では「凡庸」と連なって理解されておるのでありますが、実はいろいろの意味がございまして、説分学的に申しますと、庸は庚+用であります。


 庚には改める、更新するという意味がありますが、庸にもやはり同じ意味があって、そこから、絶えず刷新してゆく、続くという意味が出て来る。また、それに従って、用いるという意味も出て来る。


 だから雇傭する、人をやとうというのは、何のためかと言うと、いろいろ仕事を絶えず刷新してやって貰うためなのです。そこで庸の字は手柄・功績・業績の意味にもなる。


 又従って()()という意味もある。人の名前に使われる時には大抵()()と読んでおります。みなさんに親しい名前では高田の馬場で有名な堀部安兵衛武庸、あれも()()()()と読む。何故()()と読むか。人を用いて、いろいろ業績を挙げてゆくのには、どうしてもそこに一貫して変わらざるものがなければならん。そこで一般化しますと、当然()()、平常という意味が生まれて来るわけです。


 又恒徳という意味にもなる。そういう風になって来ますと、みんな嬉しいこと、楽しいことになりますね。いつも変わらずによく仕事をして、役に立って、それがお手本・()()()になってゆくような人になると、自然とみんなの調和がよくなる。そこで()()()()()()()という意味もある。これは人間にとって極めて望ましい一般的・普遍的なことである。またそうなければならぬことであります。


 ところが意味というものは、善くも用いられるが、悪くも用いられる。庸はつね、変わらないということが基準になりますから、一転しますと、そこから当然・当たり前という意味が出て来る。凡庸の庸です。


 もっともこれは始めは善い意味であったのですが、凡はすべてに通ずるということで、道に従った、法則に則った仕事・働きというものは誰にでも通ずるものであるというところから、一転して、一向特徴のない、つまらない、平凡というような悪い意味になって来た。


 そこで中庸とはどういうことか。時代だとか、階級だとか、何だとかいうようなものに関係なく、一切に通ずる、すべての人に通ずる、恒に変わらざる進歩向上、とこういうことになるわけでありまして、すなわちすべての人が如何に変わらずに、相まって和やかに、調和を保って、進歩向上してゆくか、その原理を説いておるのがこの『中庸』である。


 よく中庸というと、両極端の真ん中、折衷という意味に使うのでありますが、そうではなくて、『大学』・『中庸』という時の中庸は、すべての人間に通ずる、誰しもこれに則って、限り無く進歩向上してゆく永遠の常徳・恒徳という意味であります」




 先生、少し、ではないです。;;>


 まあ、冗談はおいといて、さて、皆様、覚悟はよろしいでしょうか(笑)。まだ始まりにすぎませんからね。


 ちなみに、『中』は無限に進歩向上するという意味があります。他にも、矛盾する、あい争う両方を和らげて一等進んだ段階に進化せしめるという意味で中和、という意味もあり、またあたるという意味でいいますと中毒、というものもあります。人生における様々な苦悩、苦労、矛盾、反目、相克こういった問題を解決せしめ、停滞すること無く堕落すること無く進歩向上してやまない、というのが『中』であります。


 天地が万物を化育し、進化せしめているのも間違いなく『中』であります。


 確かに難しい。ですが、この難しい問題に取り掛かることによって、人間頭が良くなるのであります。


 頭とは、体のあらゆる器官の中でも珍しく疲労を感じない器官なのだそうですね。そして、難しい問題に取り組めば取り組むほど、良くなってゆく。頭が良くなってゆく。


 頭の使いすぎでアイツ頭がおかしくなったんじゃないか、何てのはただのデマだそうで、頭はいくら使っても悪くなるなどという機能はないんだそうです。悪くなるのは恐らく精神面や肉体でしょうが、頭は、使って悪くなるなどということはない。それに関してはわたしが言うのだから間違いはありません。わたしの子供の頃がどれほどひどい阿呆だったか、を皆様にもお見せしたく、はないですけれども(笑)。使えば使うほど良くなるしかないのですから、積極的に使うべきでありましょう。


 そんな次第で我らが師父、安岡先生に教えを請い、心もオツムもレベルアップを図ってゆきたいと思います。p20




「【子程子曰く、不偏これを中といい、不易これを庸という。中は、天下の正道にして、庸は天下の定理なり。この篇、すなわち孔門伝授の心法にして、子思その久うして(たが)わんことを恐る。故にこれを書に筆して、以て孟子に授く。


 その書、始め一理を言い、中ごろ散じて万事となり、末また合して一理となる。これを放てばすなわち六合に(みなぎ)り、これを巻けばすなわち退いて密に蔵す。その味無窮にして、皆実学なり。善く読む者、玩索して得るあれば、すなわち終身これを用いて、尽くす能わざるもの有り】




 子程子の子は、二字共に敬語で、普通は下につけるだけであるが、ここでは特に尊敬を表す意味で、丁寧に上にもつけたわけであります。


 その程子が中庸の意義を説いてこういうふうに言うておる。不偏これを中と言い、不易これを庸と言うと。


 中とは天下の正しい道であり、庸とは天下の定まった法則・理法である。この『中庸』の一篇は孔子の門に代々伝え授けて来た心の法則であって、それを孔子の孫の子思が、時を経て誤り違うことを恐れ、書物に記して孟子に授けた。


 その書は始めは根本的・究極的な一理を説き、中ごろはその一理から分化発展して森羅万象になることを明らかにし、最後にはその万象が又一理に帰することを述べておる。


 これを広げて分散すれば、南北東西上下の六方、すなわち宇宙にみなぎり、これを巻いて統一還元すれば、無限の無意識的密蔵に帰してしまう。

 

 われわれの精神機能、意識の働きというものは、内なる心の世界は勿論のこと、外なる現象の世界、宇宙の(はて)までも思索し、真理を究めようとする。しかしもともとこれは内なるものの発展でありますから、巻いて統一還元すれば、現象の世界から内実根本の世界、無意識の世界に(おさ)まってしまう。


 そもそも人間の意識の世界というものは、限りない自覚発展の世界である、と同時に限り無い無意識的世界の連続である。


 その無限の無意識層の中から、知覚だの、思惟だのというものが出て来るわけです。しかも、そのすべてが、不朽不滅であって、先祖代々から受け継ぎおさまっておる。


 物質が不滅であるように、われわれの精神・思惟もまた不滅のものなのです。人間はただそれを忘れるだけのことであって、すべて深層意識の中に退蔵しておるのである。そこに人間精神の神秘がある。これは近代の哲学や心理学・精神医学を待つまでもなく、古来十分に研究され、活用されておることです。


 早い話が、もし意識というものが不滅でなければ、思い出すということがない筈である。思い出すということは、意識や経験が不滅だからである。また不滅でなければ、われわれが夢を見るということもないわけである。


 夢を見るということは、無意識層に退蔵しておるものの散見である。われわれは眠ることによって、外来の刺激や認識が遮断される。そうすると何かの拍子に、今まで退蔵しておった内的経験が出て来る。これが夢です。


 そうして醒めれば、外の刺激のために拡散して、わからなくなる。つまり忘れてしまうわけです。ところがその中の幾部分かがなお記憶に止まる。それが夢の自覚になる。昨夜こんな夢を見たなどというには、たまたま意識の深層に還り切らないで、いくらか記憶の世界に止まったからである」




 んむ。別世界。


 中庸からまさか夢の話になるとは、さすが安岡教学でございます。


 何でも、脳の中枢には人生の全記憶があるのだとか。だから、普通は思い出せませんが、催眠術などで掘り起こしてもらうと生まれた当初の記憶まであるといいます。嘘か真か、何でも犯罪者の多くに、この生まれた直後の記憶、産道を通る時の苦しいとか、辛い記憶に問題があって、その問題から本人も気づかぬうちに成長してからの悪というのが発生するのだとか。


 これら記憶は脳の中に全部あるのではなく、深層無意識層に貯蔵されている、と。さらに自分の記憶ばかりか、親やご先祖様、血につながる人々の記憶もこの深層無意識層に密蔵されているのだそうな。そういう、人間の精神の神秘は、フロイトやユングを待つまでもなく、実は東洋人はこんな古来から理解しておった。と、言われても何だか狐に化かされた気にはなりますが、事実なんだから仕方がない。われわれ、凡人には未だ到達できぬ、悟り、とか覚者、というものがどれほど凄まじいのか、その一端を垣間見た気がいたしますね。


 しかも、フロイトやユングなどがこれら深層無意識を、性欲だの人間の根幹的欲望だのの理解にとどめたのに対して、東洋人はすでにそこに人間の神性を見出し、悟りへと至っていた。そして、一つの考え方、学問として『中庸』を位置づけて普遍的不朽の価値を見出した。西洋人が死んだって本当の神を理解できない理由も、これでも分かるような気がしませんか。


 試みに、『エディプス・コンプレックス』というのをwikiで調べてみてください。こんなことを本気で考えておるとするなら、やはりその手の連中は正気ではないと考える他ありません。例えるのなら『バモイドオキ神』と同列、とわたしは断ぜざるを得ない。こんな妄想を本気で吐き出しておるところが信じられない。


 東洋人がいかに優れていたのかこれだけでも分かるような気がしますが、近代西洋思考にかぶれ、劣化西洋人、劣化版ちゃんと化した現代の東洋人には、このご先祖さまの偉大が理解できない。悟りに到達できない。もはや、現代のわれわれは西洋人を笑う資格もないということです。


 悲しい話でございます。


 また、


「孔門伝授の心法にして」


 とあります。これは、孔子様のお言葉、




【中庸の徳たるや、それ至れるかな。民(すく)なきこと久し】




 のことでありましょう。


 中庸という言葉が文献上で初めて見られるのが論語の中からなのだそうでありまして、孔子様は民衆の心から中庸が少なくなって久しい、とおっしゃるのだそうです。まあ、そんな悟りに至る心法が民衆に普通にあったらそれはそれで驚きではございますが。


 安岡先生の解説は続きます。




「「その味無窮にして……」その味わいたるや窮まりなく、みな実際の用をなす学問である。善く読む者、いろいろ考えて真実を求めて得るところあれば、生涯用いて尽くすことの出来ないものがある。誠にこの通りでありまして、われわれの中にはあらゆる意味において、神秘的な精神の機能、徳、力を持っておる。みなそれを知らないけれども、もしその原理をよく知って、実行したのならば、終身無窮無尽の利益がある。


 中とはそういうもの、庸とはそういうものです。


 中は限り無き進歩向上であり、庸は不断の努力・調和である。だから、中庸とは、われわれの生活、生理・心理・情意の永遠の発展を意味する。そこに中庸の尊い理法があるわけでありまして、玩味すると、本当に限り無い妙味があります」




 と、おっしゃいます。


 なるほど、中庸というものが何となくわかりました。では、次にどうすればいいですか?


 などと問うのは未熟者、粗忽者のすることでありまして、まずは実践するところから始めなければいけません。論語を学び、孔子様の教えの通りに日々を生きる。それを善くなし得た先に中庸の理解はあるのであって、頭でっかちに理解した気になってはいけませんし、何でもかんでも与えられると思ったら大間違いでございます。


 実践あるのみであります。p26




「【天命これを性といい、性に(したが)うこれを道といい、道を修むるこれを教という】




 恐らく、『中庸』を読んだことのある者なら、誰もが知っている名高い文章であります。天命の命は造化の絶対的作用を言う。天地自然の一つの特徴は、無限の創造・変化である。約してこれを造化という。


 その造化を一番象徴するものは、何と言っても天ですね。


 天は限りがない。地の有限であるのに対して天は無限である。と同時に地は固定的であるが、天は変化極まりない。そこで天地自然、天地人間の創造変化を象徴して天と言う。天地自然、造化の作用・働きというものは、人間が好むと好まざるとにかかわらず、絶対のものである、必然のものである。その必然性、絶対性を命という語で表すわけであります。


 例えば、生命というものがある。地球ができてから何十億年か経って、無機物の世界から有機物の世界が現れ、生命の世界が発達して、やがて精神・意識の世界が出て来るわけでありますが、これは好むと好まざるとにかかわらない、欲すると欲せざるとにかかわらない、必然のものであり、絶対のものである。丁度人間で言うならば、子供にとって親の言いつけが絶対であるのと同じことであります。だから命は、いのちであると同時に、言いつけ、命令という文字でもある。


(中略)


 天命が、造化の絶対的な作用・働きが、人間を通じて発すると、性というものになる。性は生でもよいのですが、高等動物、特に人間になると、心理・精神が発達して来ておるから、忄編をつける。これは人間の本質です。その性に(したが)って、実践し開発してゆくのが道というものである。


 何故道と言うか。人間は道に率わなければ、進むことができない、到達することもできない。だから何事によらず道をつけなければならん。


 そのことを最もよく表しておるのが、「田」という文字です。


 古代人が未開発の荒野の一区画=口をとって耕作をする時に、まず作らなければならなかったものは道である。田の中の十はその道を表しておる。また道をつくるために努力をするという意味でもある。


 そしてこの道を造ったために、古代人は荒野の中で狩りをすることができるようになった。そこで田は「た」であると同時に「狩り」という字でもある。ついでに言えば、広い意味において道をつけることの出来ないような、その努力の出来ないような者は、男じゃないということになるわけです。


 従って道というものは、観念的・唯理的なものではなくて、実践的なものである。創造的なものである。兎角道などというと、何か人間の観念的な思惟・思索の産物のように思うが、決してそうではない。人間・自然を通ずる絶対的な働きが天命、これがわれわれの本性であって、この本性に従って、天分の能力に従って、実践してゆくのが道である」

 



 東洋的進化論がでてきましたね。


 わたしの言っておることはこうやって安岡先生から受け継いでいるわけですね。


 とはいえ、受け売りといいますか道聴塗説といいますか、何の実感も咀嚼もなしにお話しているわけでもございませんよ。自分の血となり肉となり、魂となったからこそこうして日々、進化を目指しておるわけですからね。


 そして、安岡先生はこうおっしゃるわけです。


 好むと好まざるとにかかわらず、欲すると欲せざるとにかかわらず、人間の、生命の進化は進歩向上は天命、絶対のものであってそこから目を背ける、欲に泥んで、利得とか損得に生きるのが、結局、どれほど自分の進化を阻害しておるのかを知りなさいということですね。


 慈悲深いお言葉ではございませんか。p34




「【道は須臾(しゅゆ)も離るべからざるなり。離るべきは道に非ざるなり。是の故に君子はその()ざる所を戒慎し、その聞かざる所を恐懼す。隠なるより見なるは()く(隠るるより見はるるは莫く)微なるより顕なるは莫し(微かなるより顕かなるは莫し)故に君子はその独を慎むなり】




 われわれの性は天命、すなわち造化自体の必然によって与えられたものであり、その性に(したが)うの道というものであるから、道は人間が須臾(しゅゆ)(少しも)離れることのできないものである。離れるようなものは道ではない。そこで君子と言われるような人は、見ないところにおいても戒め慎み、人の聞かないところにおいてもおそれかしこむ。およそ不善というものは、どんなに隠れておっても必ず現れて来るものであり、またどんなに微細なことであってもいつか明らかになるものである。だから君子はその独を慎んで、須臾も道から離れまいとするのである。


「独」という思想は、東洋の思想・学問・信仰・芸術のすべてを通じて離るべからざる、最も基本的本質的な概念とでも言うか、大事なものであります。独は普通、他に対するひとり、数多に対する孤、という意味に使うのでありますが、そうではなくて、本来は絶対という意味であります。人前だとか、手段だとかいうような相対的な自己ではなくて、絶対的な自己を独と言うのであります。


 だから「独立」とは、何ものにも依存しないで、自己自身で立つという権威のある言葉です。


 国家・民族が独立するということは、他国に依存し左右されないで、その国家・民族自体において存立することである。「中立」の本義も単に、いずれにも加担しないで、中間に立つことでなく、信ずるところは絶対で、一時的政策的方便で相対するものの(いず)れにもくみせぬことである。独立も、相対的な矛盾・相剋から離れて孤立することではなくて、そういうものから影響を受けることなく超越して、もう一段上に出て、創造的進歩をすることである。ところが大体はこれを間違って、孤独の意味に使う。


 従ってまた、地位だの、名誉だの、物質だの、利害だのといった打算的なものによらずに、自己の絶対的なものを持つ、これを「抱独(ほうどく)」と言う。そしてそれを認識するのが「見独」であります。


 自己の存在の絶対性に徹して、初めて誠に他を知ることが出来る、他との関係が成り立つ。根本において独がなければ、われわれの存在は極めて曖昧で不安定であります。


 だから君子はそれをよく認識し、徹見して、大切にするのである。「慎独」は中庸に伴う大事な要素であって、これあるによって、本当の進歩向上ができる、いわゆる「中」があり得るわけであります」




 よく、世の歌謡、JーPOPなどはしたり顔で、


「一人はつまらない、孤独は寂しい」


 などと言いますが、それがどれほどお子様な物言いか、分かるかと思います。で、その、一人はつまらない、孤独は寂しい、な人々が今日もあい集まって炎上だの、結婚しては不倫だの離婚だの、大騒ぎをしているわけで、その長い長い人生の一時でもこういった本当の学問を身につけておれば全然違った人生になったろうになぁ、と思うところでございます。安岡先生のおっしゃる、極めて曖昧で不安定な人々が、真に救われるには、つまり自分で自分を救うしか無いのですが、そういう方々はこういう。


「そんな暇はない」


 この間も芸人さんが闇営業をしたとかで世の人々が大騒ぎ、まるで鬼の首をとったがごとく弾劾しておられますね。


 わたしはこういう時、事あるごとにかのキリストの逸話を思い出すのであります。


 ある時ある町で、姦通の罪を犯したとして一人の女が町の人々によって私刑にあっておった。そこにやってきたキリストはこうおっしゃった。


「この中で、人生でたった一度でも罪を犯したことのない者がいるのなら、わたしのもつ石をその女にぶつけるがいい」


 町の人々はすごすごといなくなったそうであります。


 安全な場所で、自身の名も出すこともなく、自分が被害にあったわけでもないのにネットやらを駆使して他人を非難弾劾するのは、さぞかしつまらぬ自分の人生を糊塗できて胸のすく思いであるのでしょう。自分の人生がしょうもなければしょうもないほど、他人を責めるのは楽しいのでしょう。罪人を自分の立ち位置にまで引きずり下ろすことが出来るでしょうからね。


 そうやって、どんどん自分を地獄に突き落とすといいです。


 本当に、我が身が可愛いと思う人は、一時でもいい、学問をするといいです。p53




「【喜怒哀楽の未だ発せざるこれを中といい、発して皆節に(あた)るこれを和という。中は天下の大本(たいほん)なり、和は天下の達道なり。中和を致して、天地位し万物育す】




 人間の意識が進むにつれて、喜怒哀楽の感情が発達するわけでありますが、その感情の未だ発しない時、すなわち一種の「独」の状態、これを別の言葉で「中」と言う。中が発してみな節に中る、これが和というものである。


 未発の中とはthe whole「全きもの」ということです。これが発するということは、根から幹が出て、枝葉が伸び、花が咲き、実が成る、というのと同じことでありまして、全体的・含蓄的・全一的なもの、すなわち独というものが、天の創造の作用によっていろいろに発展してゆく。つまり創造・造化の働きが起こる。発して種々の作用になるわけです。


 従ってその作用はそれぞれ全き存在・無限なるものの一部分である。これが「節」です。


「節」は、創造的なるものの、一つの連続的なるものの一部分であります。音楽は音節から成り立っておる。竹はいくつかの節が連なり伸びたものである。そういう創造の作用、造化の働きの基本的なものが節でありますから、従って節は、連続に対して言うならば、一つの締めくくりである。


 われわれの意識を「気」という文字で表しますが、意識にもやっぱり意識の基本的なものがあるわけで、われわれはそれを「気節」と呼んでいる。その気節を失わないのが「節操」であります。音楽で言うならば、基本的な部分の音節が発して、すなわち音律となって、曲にあたるわけである。これを「和」というのであります。


 われわれの生命で言いますと、生命全体の働きが中、その生命が発達して来るにつれて、四肢五体が出来上がる。一つの細胞であったものがだんだん複雑に発達して、そこから手足が出来、他のいろいろの部分が出来て、しかもそれぞれはみなどこかで統一されて、一個の身体が形づくられる。つまり身体は結節から成り立っておるわけで、結節の大きな「和」が人身というものである。


 従って「中」と「和」は、大きく広げると、天下の格法となる。


 われわれの体も格法であります。生命はみな無限の節を持っており、同時に大きな和の活動をしておるのである。例えばわれわれの身体には脊椎というものがあります。そこから血管だの、神経だの、リンパ腺だのというようなものが方々へ分派しておるのでありまして、脊椎はその大事な結節をなしておるわけです。


(中略)


 その「中和を致す」、だんだん完成してゆくところに、天地というものがあり、生育というものがあると言う。


 以上が『中庸』の首章でありますが、これだけでも実に驚くべき真理がその中に含蓄されており、もしこれを敷衍(ふえん)し解説すれば、大きな理論体系が出来上がるのでありましょう。そこに優れた古典の無限の価値があるわけであります」





 これが『中庸』の始まりである、というわけですね。


 始まりでこんな調子なら、本文はどうなっておることか。到底、安岡先生の解説なしで読み進められる気は致しません。我こそは、と思う人は頑張って読み進めていただきたいと思う次第でございます。ー人ー


 しかし、「格法」と言われてもきょうびきかねぇな、と思って調べてみましたが、どうにも算命学という、これまた耳馴染みのないサイトへ案内されてしまいました。そういったサイトでみますと、


「格法とは、運勢の瞬間を把握する方法で、宿命のある部分を捉える技法です」


 とありますが、どうにも安岡先生の言葉とは無関係と思う他はないです。格子、をwikiでみますと、「周期的に並んだ区切り、仕切りのこと」とありますので格法とは折り目正しい法則、あたりと思うと良いでしょうか。定法、理法、と大差ないと考えて差し支えないと思います。


 それはさておき、


「喜怒哀楽の未だ発せざる」とはよく言われますが、赤子のこととされます。赤子となると大好きなのが老子ですね。




【終日(さけ)びてしかも()れざるは、和の至りなり】




 と言っています。


 赤子の鳴き声は60~90デシベルほどあるそうで、60で普通の会話の声、80あたりが電車の車内と同じでこのあたりで騒音と認識するのだとか。90デシベルはおよそパチンコ屋の騒音くらいなのだそうな。100にもなると救急車のサイレンくらい。


 それほどの大音声で泣き叫んでいられるのも自然のあるがままの姿なのだ、ということですね。われわれも、赤子に負けないほどの声が出るのでしょうけど、もはやその和を失っておるから本来もっている力が引き出せない。もう少し言うと、そんな大声をだすと恥ずかしいとか、周囲に迷惑とか思って心にブレーキがかかって出せなくなる。


 そういう心のブレーキ、ストレス、萎縮が、身体の調和を乱している、と考えることも確かにできますね。


 われわれは日々、様々な事柄においてストレスを感じ、心の平静を乱しておるわけです。満員電車などに乗っていると何が気に食わないのかいさかいを起こすものたちも現れる始末。そう考えると、人目をはばからず大声で怒鳴り散らす人は、そういう面でいうとストレスフリーな人種なのかも知れませんね。一面羨ましいと思いますが、さりとてそれを真似できる自分には一生かかってもなれそうもありません。それはさておき、


「喜怒哀楽の未だ発せざるこれを中といい、発して皆節に(あた)るこれを和という」


 中の状態であった、赤子が発して、成長してみな、節、折り目折り目の事柄においてみなぴたりと的確に処してゆく。これを和という。


「中は天下の大本(たいほん)なり、和は天下の達道なり」


 確かに、そんな聖徳太子レベルのことができれば、天下の大本にも、達道にもなれるのでありましょう。


「中和を致して、天地位し万物育す」


 中和を致して、赤子が成長し、物事、なすことすべてがぴたりぴたりと正しく行動ができる。そうすることによって、その人を中心にするように見本、定本が定まってゆく。そのように格法、理法が定まることによって、天地が定まって、万物が生成化育してゆく。


 このいかにも東洋的な一文が、内容的にいかに凄まじいことをいっておるのかが分かりますね。


 まあ、だからこそ、しょせん綺麗事といいますか、しょせん理想、と片付けたくなるのも無理からぬことかと思います。聖徳太子に出来たことが何でお前に出来ないんだ、と言われても。と言いたいところでございまして。


 だから、わたしが論語が好きなのはそういうところでありまして、確かに孔子様も理想を語られるのですが、しかし、誰にも真似できないような大仰な、大層な理想のみを語られるのではなく、その気になれば誰でも実行できる、実践できる教えが随所に見られるから大好きなのでございます。


 って、最後の締めくくりにまさかの『中庸』批判ではございますが(笑)。しかし、どうして『中庸』が現代に普及していないのかもそこに理由があるのも確かでありまして。安岡先生ほどの人でもないと解説出来ない学問であるのも事実でございます。世界の本質をとうとうと語れる人がいない、見本、お手本となる優れた人がいないのも事実であります。


 でも、この『中庸』にも大事なところはあったかと思います。わたしでも分かるところを振り返ってみますと、


「是の故に君子はその()ざる所を戒慎し、その聞かざる所を恐懼す。隠なるより見なるは()く(隠るるより見はるるは莫く)微なるより顕なるは莫し(微かなるより顕かなるは莫し)故に君子はその独を慎むなり」


 これは、


「天知る地知る我知る汝知る。何ぞ知ることなしといわんや」


 と同じことでありますね。


 誰も聞いていないからいいや、ではない。


 自分のために、自分の中から害悪を抹殺するのだ。ということ。


 だいたい、悪事をなして屁とも思わない人間は面構えから違ってきます。誠実、篤実な人は面構えが違います。それは、恐らく誰もが認識できることでありましょう。


 明らかにヤクザ、チンピラと、立派な自衛隊員や警察官が、同じ面構えなわけがありません。


 こういう、「慎独」


 一人の時だろうが何だろうが、己の心を慎む。己の心を養う。つねに自分の心を観察し、正しく己を持ってゆく。それこそが『中庸』の精神でありまして、それが拡大すれば、拡散すればそれが世界にも通ずるわけであります。本質にだって至れる。やがて悟りにも至れることでありましょう。


 と、綺麗にまとめましたが、わたしではなく、安岡先生に『中庸』を語っていただいたところで今回はおしまい。


 日々学問。


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