因果応報って?
おこんばんはです。豊臣亨です。
前回ちろっと見てみましたが、そういや説明が不十分だったなぁ、と思ったので。
老荘思想家のおっさんは語りたかったりもする。
さて、因果応報。因果応報とは、善因善果、悪因悪果。
ということですね。
善なる行いには善なる報いが。悪なる行いには悪なる報いがある、と。
世の中はきちんとそう因果が定められているわけなのですが、しかしそういうと、いやいや世の中悪事をなして屁とも思ってないクズが山程いるだろw と思われるでしょう。わたしも、この言葉を知った時はもちろんそう思いました。
ですが、それは表層的な感想なのだ、と人生を生きて分かったのでございます。
悪なる行いには悪なる報いがある、それってつまり天罰とか神罰のことだろ? って思いますよね。
でも、それは勘違いだと、思うのです。
日本人は、ある意味、阿呆のごとく西洋に憧れ、尊欧卑亜で西洋こそが華で亜細亜はクソ。みたいに、明治の黒船による砲艦外交このかた、未だにそう思っておるのが少なくない。いや、決してそうではないのだ、というのはわたしのつれづれの論調でも感じ取っていただいているとは思いますが、この天罰、神罰にしたってキリスト教的なニュアンスが大分強い。
悪なる行為に天罰、神罰が下る、というのなら、何で未だにキリスト教があるんですか? と言わざるを得ません(笑)。
いえ、実際、そう思いません?
天罰、神罰がキリスト教の代名詞、必殺技(?)なら、いやいやそのキリスト教が歴史上、人類にどれほど害悪を垂れ流したんだよ、と言わねばならんでしょう。そう、天罰、神罰、などという概念は大間違いである、とわたしは思っています。まあ、終末論的な神罰はさすがに知ったこっちゃありませんが。
本当の天罰は、そういう、喪黒福造的な奈落の底に人を叩き落とすものではありません。
むしろ逆です。
天罰の本質は、慈悲です。
その人が悪事をなしている、このまま悪事をなし続けたら悪事を悪事とも思わぬ、本当の意味で駄目な人間に成り果ててしまうかも知れない、そう思うから、天や神や仏からすると、その人を助けたい、悪事から目を覚まさせたい、と慈悲の心で思うから天罰によって「気づけ」というメッセージを送っているのです。
これ以上はいかん。お前のなすべきことはそういうことではないのだ、という慈悲の発露が、発現が、天罰という奇跡となるのです。
大事なことなのでもう一度いいますね。
慈悲の心、大慈大悲の心が、天罰という神託となるのです。
そう、もうお分かりですね?
確かに、この地球上、悪事をなして屁とも思わぬ人間がそれこそ星のようにいます。星雲のごとくいます。
つまり、それらは天や神や仏の視座からすると、救うに値せぬ、助ける価値もない有象無象なのです。
これら、地球の重力に魂を引かれた生き物には本質的な意味も価値もないのです。はっきりきっぱりいいますが、過言ではありません。
輪廻転生などという高尚な概念などこれら有象無象にはないでしょうけど、物語などでは、生まれ変わって想い人にめぐりあう、的に輪廻転生をドラマチックに描きますが、本当の輪廻転生とはそんな美しいものではありません。この輪廻転生の意味は、仏になれない駄目人間が何度も何度も人間の生を生きている、ということであって、仏になるということはその輪廻転生の輪から解き放たれることを意味しておるのです。
どれほど生まれ変わろうと、どれほど人生をやり直そうと、いつまで経っても物質に囚われ、欲に縛られ、悪事に泥んでいるというのは、それこそ地獄の沙汰なのです。生き地獄なのです。それを理解できる人間はこの現代にはそうはいないのでしょうけど、この現実が過酷であると、苦労の連続であると思うからこそ彼岸とか極楽を夢見るのであって、その人の生をなんとか終えたい、本当の進化のはてにたどり着きたいと思うからこそ、頑張って今の人の生を生きるのです。
それを、この世を我が世とぞ思う、とか、いい気なもんであります。
ですが、
本当の学問をし、本当の人生を生きよう、と思ってごらんなさい。
それこそ、因果応報は冷厳と、敢然と貴方の前に立ちはだかることでしょう。しかも、学問すればするほど、この因果応報は厳しくなります。
本当に自分の身に降り掛かったら、軽くびっくりしますよ。え、はやくね? って。体験すれば分かります(笑)。
なのでわたしも考えたわけです。他の人はこんな厳しい人生生きてないよね? 何でわたしだけこうも手厳しいのかしらん、と。そこから妄想妄想で、ついに閃いたわけで、前文と至るわけです。天や神や仏からするなら、相手にする価値があるのは自分で自分を神や仏にしようと奮闘している人間だけであって、それ以外のただただ生きているだけの人々に因果応報やったって、そもそも理解できないんです。
「気付き」
とは、魂がそれなりに進化してそういった物事に理解力、想像力がついた人間だからこそ分かることであって、眼前の、目先の欲得、損得に泥んでいる人間に何やったって分かるわけがないんです。
そう思うわたしにようやくなれたわけです。
とはいえ、わたしもそこまで四角四面で生きておるわけではございません。
毎日違法動画サイトでアニメを見ておりますし。
そもそも、この法律にしたってその時の為政者の都合で作られるもので、本質的な善悪とは必ずしも連絡しているわけではない。昔でいうなら女性は離婚後半年間は再婚できなかったとか、現在なら成人は18歳とか法律によって規定されていますが、しょせん、法律など為政者次第と言わねばならない。そんなものに縛られることなくわたしは生きております。何せ「自由」ですから。
この前もTVを見ておると、看板が一センチはみ出しておる、道路交通法を守れ、と近所のお店に苦情を言いまくる老害とかもいたそうな。
何が善で何が悪か、老境に際しても理解できん、人生の終わりに法律を盾にして威張り散らすしかやることがないとか、しょうもない人生ですな。ま、来世もまた人間頑張れや。としか言えませんね。
本当に大事なこととはなんなのか。
何のためにこうして人として生を受けたのか。
もう少し真面目に考えられたら、大事にすべきはそこではない、と気がつけるはずなんですけどね。せめて、このわたしの繰り言に接した皆様は、自分の人生をより良いものにしてほしいと思います。他でもない自分のために。
と、因果応報をちょび、っと語った気もしなくもないので、今回はこれにて。
日々学問。