神って?
と、題してみました。
おこんばんはです。豊臣亨です。
と、題しておいて改めてその題名のすごさにビビり始めておる次第でございまして、わたくしごときが神を論ずるなんて恐れ多いしおこがましい。何様なわけですが、しかし、この信仰も信心も摩滅してしまった現代社会だからこそ、専門家ではない、一思想家のたわごともおもしろいかと思いまして今回はこのお題とさせていただきます。
本来ならば、まさしくその職にある専門家、キリスト教徒とか仏教徒とか神道家などが語るべきですが、悲しいかなあまりそういった語り部さんは寡聞にして存じ上げません。そりゃ、日曜礼拝も説教の場もいかないしそういう新聞も手に取らないので知るよしもないわけですが、しかし、こうして色んな情報媒体、雑誌だ、テレビだ、ネットだと様々な情報発信装置があるにも関わらず、我々は日々の生活においてあまりにも真の信仰から遠ざかっているような気がします。
また、なろう世界に限らずラノベ世界やゲーム世界などでもそうだと思いますが、登場する神といえばありがちなのが、ギリシャ神話の人間臭い神々ですら目を疑うような異様に感情むき出しで人間を見下すような、とりあえず超常の能力をもって人々を管理するか、蹂躙する暴虐の支配者か、もしくは主人公にえげつないほど恵まれた能力を与える恩恵者か、といった具合で見られることが多いかと思います。
しかし、そのくせ主人公たちはある意味堂々と、自分は無神論者であると言う。
これはその筆者の心情を吐露したものかと思いますが、自分の作る世界に神や仏、天使を描きながらも無神論を白状するのもある意味不可思議な次第かと思います。まあ、明治以降の近代西洋思考の流入によって唯物論思考が日本を席巻し、また何かの冗談のごとく新興宗教が乱立した結果、オウムのようにむしろ害悪をなす組織が多数出現するにいたって、現代人のまっとうな感覚として、無神論、と言うのもむべなるかな、と言えるでしょう。
宗教、やべー。
と、思うようなことを歴史上、その宗教が行ってきたのが事実であり、魔女狩りとか、宗教戦争、異端とみなせば虐殺OKと、宗教の名の下にどれほどの生命が命を奪われたか計り知れませんし、科学万能の時代にあってはまともな感性、感覚としてそんな、見たことも聞いたこともないような神などという概念の塊を忌避するのも、当然かも知れません。
「20世紀はイデオロギーの時代だった」
と言われますが、何をおっしゃいますやら、いまだもって十分立派にイデオロギーは肩で風きって往来を闊歩しておりますよ。わたしから言わせるのならイデオロギーごときに囚われて思考が偏狭に陥るなど笑止千万ではございますが、これがある意味真の信仰、信心をもたない現代人の当然なるべき姿と言って良いかも知れません。
様々な要因をもって現代人は神や仏、宗教を、否定、拒否してきたわけです。そういう、オツムのおかしい、狂信的妄信的な宗教を否定、廃絶することによって、人々が幸せに、本当の教えに導かれるのならそれでいいのですが、事実はそうではない。
むしろ、東亜でいうなら昔の信仰に生きていた時代の方がよっぽど大悟徹底した偉大な僧侶がたくさんいたし、一休宗純さんのような常識を打破した傑僧だっていらした。
昔のように信仰があったほうがいいのか、それとも現代のように無神論を気取ったほうがいいのか。それを見てみましょう。
喪黒福造曰く「この世は老いも若きも男も女も、心の寂しい人ばかり」と成り果てた現代に、少しでも日々の信仰のお役に立てば、と思います。いえいえお金は一ペイもいただきません。
これまでのわたしの戯言の中で神や仏に関して言及することもありましたが、改めて神とはなんぞや、ということを考えてみるのも良いかと思います。
自称、信仰心ある老荘思想家のおっさんは語りたい。
とはいえ、神とはなんぞや、神は実在するのか、などと神学ばりに、神を疑った瞬間信仰心など消え失せてなくなってしまうのはあまりにも寂しい。そんな無味乾燥たる体系学問を語る気も、その能力もありはしません。わたしが語りたいのはそういう、神を解剖実験のごとく爬羅剔抉するのではなく、あくまで自身の上にあってやがて自分が至るもの、自分が目指すものという、目星、目印という意味で語るものでございます。どだい、神ならぬ身で神のことなんて語れるわけもなし、人の身で憧れる神様というものを語りたいと思います。
そう言いますと、もっとも真の信仰に根ざしていたのがやはり神道かと思います。
神道はある意味ものすごく簡単です。
死ねば人は神になる。
これです。
ものすごく簡単です。
そして、その神と我々の関係性もものすごく簡単で、わたしがいて、両親がいて、祖父母がいて、ご先祖様がいて、その亡くなられたご先祖様が神となって子孫を見守る、のが基本的な神道の考えかと思います。
そして、その遥かなる上において、天皇陛下は国家の最上の神々を祀られているわけですから、日本は間違いなく宗教国家と言えるわけです。何せ、国王の下に祭祀官がいて、その祭祀官が宗教を職掌しているのではなく、天皇陛下御自らが神官として祈りの先頭にあたられているいるわけですから、意味合いとしてはローマ教国と同じですが、それを二千年、しかもローマ教国のように限られた範囲の中ではなく、先進国の日本という国家にあって、君臨すれども統治せずというお姿をもって示されているのは世界の歴史の中でも唯一という国柄でございます。
まあ、今回はそういうお国自慢の場ではないのでここらにしますが、わたしの書くラノベでも駄筆ながら描いておりますが、我々と神々は、まったく別の世界、別の概念にいるのではなく、同じなのだ、つまるところは一緒なのだ、というのが神道の特徴と言えるでしょう。
神という超越的支配者の下に、塵芥の如き人間がいるのではなく、血や魂を通じて我々は神とつながっている、連絡、連結している、と考えるわけです。一本の線のように、我々と神々はつながっているわけです。
そう考えますとなんともありがたいことではありませんか。
日本人が世界でも唯一の特徴を数々備えているのも、この神道の単純にして明快な構造が役に立っているといっても決して過言ではないと思います。何が単純って、神道には基本的に教義、ドグマとか戒律、禁忌、タブーといったある種当然の掟があまり存在しません。あるとすれば不浄を嫌うとか神域を犯すべからずとかそれくらいで、ただ、そこにあるだけ。あるがまま、です。
そうでありながら、日本人は仏教を早い段階で国家的宗教、国教として取り入れながらも、他の民族の如き統一宗教によって原始宗教は淘汰されることなく、現代に至るも神々を拝んでいるわけで、これまた不思議な民族性と言えます。
歴史上、様々な原始的人類がこの神道的宗教をもっていたのに日本以外のほぼすべての国は統一的宗教、キリスト教とか仏教によって原始的宗教、神道、シャーマニズムは淘汰されていきます。
そしてそういった統一宗教は荘厳なる教え、教義、戒律、建築、芸術、キリスト教においては賛美歌など、様々な方法をもって人々を教え導いたわけですが、しかし、その素晴らしい統一宗教によって世界がどういった歴史を刻んできたか、も振り返れば明白です。
優れた頭脳や才能、時間と資金を惜しげもなく投入した統一宗教が、歴史的に様々しでかしたのに、素朴な神道はただただ、そこにあるだけだった。そこにあるだけで世界でもっとも高い道徳性、モラルをいまもって発揮する日本人を生み出した。凄まじいまでの皮肉ではありませんか。
わたしが尊敬する数少ない西洋人の一人であるカール・ヒルティは非常に熱心なキリスト教信者であって、まこと立派な信念をもって生涯を生きられた方ではありますが、そのヒルティがはっきりとこう言うわけです。
キリスト教徒の最上の幸せは、神の側近くにあることだ、と。
つまり、キリスト教にとって、神とは唯一絶対、決してその立場をゆるがせにはできない存在です。どれほど優れたヒルティのような人物であっても、間違っても、自分が神になる、などとは冗談でも言えなかった。
神はあくまで創造主、造物主であって、人々はその神から作られた被造物という考えです。
ちなみに、明治以降日本人はこの西洋の神を、神、と翻訳しておりますがまったくの誤訳であります。その点、戦国時代にやってきた宣教師たちはその違いを明白に理解していたからデウス、といったわけです。日本の神は神々であって八百万、自然に神々が宿るし人も死ねば神になるわけで、神様がたくさんおられるわけですが、デウスは創造主なので唯一です。別種の存在であります。
その唯一の神によって作られた被造物はどれほど立派に成長しても、どれほど立派に生涯を終えても、その創造主になることなど許されません。できて、その側近くにお仕えするのみ。
これがキリスト教の教えです。
仏教での最上は、阿羅漢になること。阿羅漢果に至ること。阿羅漢とは最上の悟りに至った聖人のことです。つまり、仏になることこそが最上です。そういう意味では、人々は絶対に、死んでも神にはなれないというキリスト教とは違いますね。
お釈迦様、この釈迦、というのは姓とか名字のことで釈迦一族というものがあったわけですが、その釈迦一族に生まれたのがゴータマ・シッダールタ。話はそれますが、wikiを見ますと堂々と仏教の開祖、ってでてきますが大間違いですね。
仏教とはあの、インドの幽玄なる大地に感動したアーリア人種が感動のあまりに起こした思想のことであってゴータマ・シッダールタ誕生以前にすでに仏教はありました。
その辺りはわたしの私淑する安岡正篤先生の書『禅と陽明学〈上〉』 プレジデント社 にありますので気になる人は買って読むといいですね。ありがたい教えの本流に飲み込まれること間違いないです。p14
「仏教というものは、決して釈迦(仏教の開祖。釈迦牟尼と尊称、略して釈尊。釈迦という。前五六○~前四八○頃)によって初めて開かれたものではない。よく間違える人がありまして、釈尊が当時のインドになかった何か新しい宗教、したがっていろいろの思想だの、いろいろの行を始められたように錯覚する人が多いのですけれども、そういうものではない。道というものも始めなく終わりなきもので、釈尊出現の前にインドに源流があって、その大きな流れの中で釈尊という偉大な存在が生まれたのである。業、輪廻の考えもその通りでありまして、やはりインドの釈尊以前からあった問題です」
とあります。
って、この釈迦()の中にも仏教の開祖ってあるじゃねぇか。恐らく注釈いれたのはプレジデント社でしょうけど、wikiの内容そのままコピペしたんじゃね~だろうな、って思いますね。安岡先生の言葉と矛盾しているって気が付かなかったのかしらん。
まあ、それはともかく、全文乗っけだすとわたしがひぃひぃ言うので必要箇所を抜き出すにとどめますが(笑)、このインドのインダス河の流域に沿ってアーリア人種がパンジャブ地方へ入ってそこで発展したのが紀元前一千年頃。
このインドの荘厳偉大な大自然に感動して、この偉大なる自然はすなわち偉大なる神霊によって営まれているのだ、という神道の考えを起こした。そこから生み出されたのがリグ・ヴェーダというバラモン教の根本聖典で、リグ・ヴェーダという教えは日本によく似ていたのだそう。非常に楽天的で明るい思想なのだそうですね。
やがてそのリグ・ヴェーダからブラフマンというバラモンの聖典が生み出された。これが翻訳されるとブラーフマナ〈梵書〉と言うそう。この梵書から発展したのがウパニシャッド(インドの古代宗教哲学書)というもので、ここに至ると非常に思索が発達してきたのだそう。そうして発展したのがヨーガとか、行。座禅とかそういった瞑想とかそういう修行方法。これらはお釈迦様誕生以前にすでにあって、では、何が故にお釈迦様が偉大かといいますと、p19
「インドに征服民族が入ってきて。次第に原住民を征服し、その征服者と被征服者との間に牢乎たる、しかも厳酷な階級制度、いわゆるカーストというものを生んだ。即ちその第一が、
もっぱら祭祀を司る梵=ブラフマンに奉仕するものを司ったバラモン〈婆羅門〉階級であり、
これを奉じた王族、武士階級、これがクシャトーリヤ〈刹帝利〉。お釈迦様はその出身です。
その下に商工階級ともいうべきヴァイシャ〈昆舎〉というのがあって、
その次に農工、労働に従事したのがスードラ〈首陀羅〉、クリット・スードラ、
またその下に、許されざる階級の掟を破って賤民と雑婚してできた子供のことをセンダラ〈旃陀羅〉という。
この階級制度を打破して、つまり一切の人間を開放した人、その代表者がお釈迦様であります」
ということですね。
って、wikiの誤ちを正すために安岡先生にお出ましいただくことになってしまった。脱線ではありますが、まあ、有益な情報と思っていただければ。簡単な話、インドの強烈な階級差別をなくしてすべての人間は修行次第で救われるんですよ~、とおっしゃったのがお釈迦様ですね。
先に見た、乞食階級、乞食に階級があるくらい社会すべてにこの階級意識があるインドですべての人は人である以上救われるのだ、と説いたわけですからどれほどその当時の人に救いをもたらしたでしょうね。
とはいえ、お釈迦様没後500年後くらいに大乗経典なるものが現れた。この大乗経典もなかなか曲者で、この経典こそお釈迦様が残された唯一の正しい教えじゃ~、とかやってしまったのです。嘘つくのは大罪ですよと教える仏教が大嘘ぶっこいて明らかに創作の大乗思想を作りまくったわけです。ありとあらゆる仏様も菩薩様も、そういう意味では嘘も方便という仏教のありがたい方策によって創作されたキャラなわけです。
さらに言うと、他方仏国土という、つまりどこの次元のどこの世界かは知りませんが、そのありがたい他方仏国土から阿弥陀如来というありがたい仏様が、ここの世界の仏様とは無関係に次元の壁だの時空の壁だの突き破って我々を救ってくださる。と言い出す大乗仏教もあるわけですね。
それ、なんてラノベ? っていうレベルのすごい創作を大昔からやっていたわけですが、その中から禅という大乗仏教も現れた。また、ほとんどの仏教宗派に取り入れられている般若心経だって立派に大乗経典ですから、すべてがすべてインチキでも方便でもない。
禅にいたって仏教は開眼(?)するのです。
つまり、即身成仏。
その身は即ち、仏と成る。
つまり、仏様とか、如来、菩薩様のように超越的、超常の存在と我々とは懸隔の、犯しがたい隔絶された存在なのではなくすでに生まれた時からこの身は仏であったのだ、という教えにいたったわけです。仏教はついに神道と同じ考えに至るわけです。
我々はすでに仏である、ただ、その本来の仏の性質、仏性を妨げる欲とか業とかを滅却しない限りは本来の仏にはなれない、仏には戻れない、というわけです。
そして、因果応報。
善因善果、悪因悪果、善なる行いをすれば善なる報いがあり、悪なる行いには悪なる報いがある。
わたしはこの二つの教えに真面目に取り組めば仏教はそれでいいような気がするのです。何せ、嘘も方便で恐ろしい量の経典やら仏書やらがあって一生かかっても読みきれないほどの情報があるので、下手にそれに取り掛かると本質を見失いかねない。老荘思想家のおっさんとしては触りだけでいい気がします(この触り、も誤解の多い言葉で本当は本質、核心という意味ですね。触った感じ、で表層的な意味もあるので誤解しやすいからですけど)。
お釈迦様の、悟り、阿羅漢になる、という教えはすべての人間がなるべき、至るべき境地に到達することを目指すわけです。とはいえ、それは何もしなくても阿弥陀様が救ってくださるのだ、という他力信仰ではなく壮絶な死力をつくした行、懸崖に撒手して絶後に蘇るという命がけの修行を行った後になれるものであるという教えに至ったわけですね。
江戸時代初期の禅僧で徳川譜代の家臣で旗本を努めた、鈴木正三老人はこういったとされます。禅の修行とは、はたし眼になって敵陣に躍りかかる気持ち、真剣の下をかいくぐる気持ちで励むものであると。腑抜けた気持ちでやるんじゃない、というわけです。
そういう意味では、禅は大乗ですけどお釈迦様の教えと見事に融合を果たした。
大事なことは、我々はすでにして、あるがままにして仏なんだけど、だからといって自分をほったらかしにして好き勝手に放し飼いにして仏になれるんだと勘違いしておるのだったら大間違いであります。そういう意味では『悪人正機』も、
「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」
という趣旨は、他力信仰の真骨頂で、つまり、我々凡愚のごときが自力で仏になれるはずもない。
己の愚かさ、業の深さ、そういう罪業とか貪瞋癡、そういったものをすべて阿弥陀様に捧げて、無心に己のすべてを投げ出すのだ、捧げ奉るのだ、それこそ己の罪を深く知る悪人が行うからこそ、だからこそ救われるのだ。『悪人正機』のこの言葉はこういうことなのですが、これとてなかなか大変です。
自分の罪を洗いざらい告白、懺悔をし許しを請う、なんてそんな素直な人間が、その悪人の中にどれほどいるのか、と言わねばならない。そもそもそんな素直な人間がそこまで悪事に身を染めるのかどうかとか、考えねばならない。
阿弥陀様に己のすべてを捧げよ、っておっしゃいますけどまさしく懸崖に散手して絶後に蘇るだけの大覚悟がなければ到底なしうる境地ではない。それこそ凡愚にはなかなか至難の技です。
ちなみに、キリスト教が目指すのもこの民衆救済なので、言っていることは他力信仰と大差ありません。自力で神になどなれないから他力信仰になるのもある意味当然なのかも知れませんね。最後の審判で裁きを待つわけですからまな板の鯉ということで、デウスに五体投地して己を捧げるということですね。
己を丸ごと捧げる、言うのは簡単ですが、阿弥陀様、デウスに己をまるっと捧げるためにも、最初の段階で己を知る、己を救う、ということを経ないといけないのです。
阿弥陀様が救ってくださるのだから、むしろどんどん悪事をなそうぜ! なんてほざく阿呆がその当時からうじゃうじゃいたそうですが、そういう己を汚す、己を駄目にする悪からまず己を綺麗にする、遠ざけなければならないわけです。そのためには己とは何か、己を己で救うにはどうしなければいけないか、何をしてはいけないか、という自己救済が必ず必要となるのです。それができもしないで己を捧げることなんてできるはずもない。
禅にしても『悪人正機』にしても己を己で救う、というのが大前提となるわけです。今時の現代人にしたって、本当に自分をきちっと知っているものが幾人いるか。己自身を知れ、って昔の人も言ってますが、この己を知るということも難儀ですけどね。そんな、自分ですらよく把握していないものを捧げるなんて無理難題です。
そういう意味で、もっともそれを成し遂げようとした、本当に自分をよく省みて反省しようとしたのが先にみた神道です。
先程もみたように、我々と、神様とは一直線につながっています。
自分という血筋、つまり、氏子、氏素性の氏ですね。その氏子と血筋や魂のつながりの中にご先祖様がいてその先は神へとつながっています。その神を氏神といいます。
この氏神様は、隠り世、つまりあの世におわすわけですが、こちらの氏子の世界とつながっています。なので、氏神様は我々のことを常に見守ってくださっています。ここが面白いところで、こちらからは氏神様のことはあまり見えませんが、向こうからは見えます。丸見えです。だから隠れられた世界、というのです。草葉の陰から見ている、というのはそういうことですね。ちなみに、天皇陛下が崩御あそばされると「お隠れになる」といいますが同じことですね。死んだ、というとあれなのでお隠れあそばされた、という。
この、氏神様から見られている、ご先祖様に見られている、というのがミソで、これが古来からある、あった、今は知りませんが日本人の倫理観、道徳観、反省の心の根っこにあるわけです。
自分もやがて死んだら神になる、ご先祖さまと同じ世界にゆく。それがわかっていて、ご先祖様に恥ずかしい生き方が出来ようか。ご先祖さまから、お前は恥ずかしいやつだから仲間には入れないよ、と言われるような日々をおくれようか、というのがかつての日本人がまともな頃の精神性です。また、これから自分の意志を継ぐであろう子孫に対して、子や孫に対して恥ずかしい生き様は見せられぬ、己の生き方を汚せぬ、間違った生き方はできない、という強い倫理観、道徳観を生み出しているのもこの魂の連絡を信じるからこそです。
そういうと付言しないといけませんが、日本人は確かに血を大事にはしますが盲信はしません。なので、自分の子供が不肖であるとあっさり廃嫡して他所様の優秀な子を跡取りをして迎え入れています。そして一族の娘なり姉妹なりに嫁してもらって一門に迎え入れる。何より大事なのは魂の連続であってそれを汚しかねない、ご先祖様や子孫に顔向けできないような人間はあっさり捨ててしまうところも、日本人の叡智といえるでしょうか。
なので、自分を何より把握し正しくあることを日本人は何より重んじた。だから、恥と感じたり名誉が汚されると腹をかっさばいたのも世界で唯一の日本人だけの特徴と言えるでしょうか。生そのものにそこまで執着するのではなく、あくまで自己や家の名誉のために潔い死を選ぶ。生死を超えて本質を求める。優れた精神性と言えるでしょう。
日本人は何より周囲の目とか評判とか気にしますがそれをもっとも強く表した言葉がかつてありました。
「お天道様が見ている」
日本人に信仰、信心があった頃なら当たり前のように口に出た言葉こそが、神道の真骨頂と言えるかもです。
お天道様は神様と同じ意味ですね。お天道さまに顔向けができない、などと申したそうですが、誰も見ていないから大丈夫、などという戯言は日本人は嫌った。
そういいますと、かつてのチャイニーズにも崇高なる道徳精神を有していた人がおられまして、有名な言葉があります。
〈天知る地知る我知る汝知る、なんぞ知ることなしといわんや〉
これは古来名高い『四知』というお話。後漢、三国志も後漢ですが、その時代の楊震(五四~一二四)というお人の言葉。王密というものが楊震さんの取り計らいで昇進できたらしいのですが、それで恩義に感じて夜中にこっそり訪ねてワイロを渡そうとした。何でも、チャイニーズにとってワイロを取るのが当たり前で、それで一族郎党を養うのが義務らしいです。
でも楊震さんは清廉潔白の権化のようなお人でまったく手を出さない。で、そこで王密が、いえいえこのことはわたしとあなたしか知らないことですので、というと楊震さんがおっしゃったのがこの『四知』です。
天も知っている、地も知っている、わたしも、そなたも知っているではないか。それでどうして秘密などと言えようか。
とおっしゃった。王密、すごすごと引き上げたそうです。
この、自分は常に見られているのだ、という気持ちこそが、強い道徳観、倫理観を生み出すわけですね。世界でももっとも高いモラル、道徳心をどうして日本人がもちえたのか、がわかるわけです。
逆に言えば、こういう本当に大事な信仰心が消えてなくなったから、今の日本人は大したことのない輩が増えてしまった。
当たり前のことです。
かつての日本人は、こういう、神道と仏教、さらには儒教もあるわけですがこういうありがたい、素晴らしい教えを様々取り入れ、さらに悪いところは取り入れないという優れた智慧をもって生きてきた。
面白いと思うのですが、この神道の、自分は神につながっている、という素朴で素直な信仰心と仏教の禅のように真剣なる修業によって悟りに至らんとする精神性が見事に日本人に融合、結実していたわけです。神道だけでも、仏教だけでも、また儒教だけでもこの日本人の精神性はなし得なかったのではないか、と思います。
ちなみに、儒教は宗教には含まれませんが、国王の御霊を鎮めるとかそういう祭礼を取り扱うこともあるので神道的要素はあるわけですね。また、儒教の高い精神性は、東洋独自の哲学を生み出しました。
天地によって徳が生まれ、その徳を人が宿す、これを道といいます。
これ、恐ろしく簡略化されていますが、実は西洋的進化論と言っていることは大差ありません。
〈天地の為に心を立つ。生民の為に命を立つ。往聖の為に絶学を継ぐ。万世のために太平を開く〉
天と地があることによって生命が生み出された。その生命が進化を果たして、いま人の身に至った。人であるからこそ、天地の意志を人の身に宿して立派に心、精神を樹立するのだ。
民衆のために生きるべき命題、立派な目的、目標を掲げねばならない。人々には人々の命、なすべき命題があって、それを個々で立派に果たせるために為政者は励まねばならないのだ。
そうするとどうしたって古代の偉人の教えに習わねばならない。すでに消えてしまった、なくなってしまった立派な教えを受け継がねばならない。
これらを立派に成し遂げることによって、万世、永劫の太平、不変の平和を開くことができるのだ。
これは張横渠(一○二○~一○七七)という北宋の儒学者のお言葉。
「天地の為に心を立つ」
これで実は進化論を語っているのです(笑)。
しかも。進化論より一歩先んじたことを言っています(笑)。
進化論とは天地という惑星から、生命が生み出され、多様性をもったことを語っていますが東洋人はそんなことはとっくの昔に知っておることであって、重要なのはそこではないと言うわけです。
何せ、古代チャイニーズは易を生み出すような観察の超達人です。
易とは、つまり、何年何月何日何秒でその人が生まれたかによってその後の人生、宿命がわかる、というものです。統計学の王様です。その人の人生はこの易によってほぼ、わかるのです。
一体、どれほどの人間のどれほどの人生を観察したら、こんな途方もない統計学ができあがるのか。想像すらできません。もちろん、宿命に縛られることなく新たに己の人生を作っていくことを運命といって、だから「当たるも八卦当たらぬも八卦」というわけですが、まあ、それはおいといて。
どれほどの叡智を結集したのか到底及びもつきませんが、その観察眼の超達人、チャイニーズはこうきっぱりと言うわけです。
「心を立つ」
と。
つまり、天地が生命を生み出し、その生物が遺伝子を進化させて、ついに人間に至ったわけです。
その、人間の最大の特徴とはなんぞやといえば、心です。
霊長類、といいますが、霊とは、心、精神のことです。物質的にはなにやら説明がしにくい霊妙なるもの、神秘的なるものということです。
サルたちも確かに人間的な精神性を誇りますが、人間がこれらサルよりはるかに優れていることはこの精神性にある。
簡単にいいますと、人間はその心をはるかに成長、進化させることによって神にも至る。と言えるのです。
「人間だけが神をもつ」
と、とあるアニメで言っておりますが、まさしくそういうことで、今を超える力、「可能性」という名の内なる神をもっているわけで、西洋的進化論は、東洋にあっては実は北宋の時代ですでに、人間のさらなる進化は「可能性」という名の内なる神を信じることだ、と言っているわけで、それを恐ろしく贅肉を削ぎ落として「心を立つ」と言っているわけですね。
遺伝子的進化は、しょせん、あくまでも物質的進化にすぎない。
それをどこまで突き詰めても、行く先は人間を超人化させる程度です。嘘か真か、最近の新人類は遺伝子が二重らせんではなく三重らせん構造をしているのだとか。この三重らせん遺伝子は寿命も長いし、知能も高いんだとか。そういえばどの神話でも昔の人間は数百歳とか生きていたそうですね。
まあ、三重らせん遺伝子の新人類には神に至るのもたやすいのかも知れませんが、しかし、旧人類たる我々には物質的進化はしょせん物質的進化にすぎない。どれほど頭が良かろうと、身体能力がずば抜けていようと、死ねばそれで終わりです。
しかし、心は違う。
心を立派に成長させそれが神に至れば永遠に至ると、東洋人は普通に考えていた。東洋人は、生物的進化の果に精神的な進化、神へと至るのが当然の進化のありようだと、素直に思えたわけです。
生物的進化は、人間に至って心、精神的進化という新地平を切り開いたわけです。物質的進化だけに終わらない、精神を立派に進化させることによって神や仏にも至る、神や仏に進化するのがまっとうな人間の目指すべき進化であると東洋人は考えたわけです。
ではどうして西洋人は進化論が神に至ると言えないか。進化論をwikiでみるとこういう一文に出会えます。
「1996年10月にローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が、「進化論は仮説以上のもので、肉体の進化論は認めるが、人間の魂は神に創造されたもの」だと述べた」
ヒルティがきっぱり言い切ったように、我々被造物ごときがデウスと同等に並べるわけがない。というキリスト教教義が堂々と出てくるわけです。
遺伝子的進化は確かにあるだろう、だが、精神的進化はありえない。と、ここまではっきり否定されるとはなかなか大変です。なので米国ではいまだに進化論を否定する人が一定数いるんだとか。自分のことを被造物、と卑下することによって結局、それを作った創造主まで卑下することになる気がわたしはしますけどね。つまり、それってわたしはしょせん欠陥品ですから。と言っておるわけで、デウスに向かって欠陥品をつくるものまがい物、と言っていることに他ならない気がするんですけど、気のせいですかね。
ちなみに、東洋人にとってあっさり首肯しうるこの進化論ですが、実は西洋においてはもっと深刻です。
何故なら、彼らにとってすべての生命はデウスが創造したわけですから、それが、生命はその生命として神の介在なしにここまでやってきたのだ、という進化論の主張を受け入れるということは、無神論を受け入れるに等しいこと、なのだそうです。
なのでこの教皇のこの発言は、ある意味進化論に屈した、という意味もあるそうで、まあ、いかにもキリスト教らしい葛藤煩悶といえなくはないです。
しかし、東洋はそんなこと関係ありません。お好きにやってくださいと言いたいところです。だから、わたしに言わせるとイデオロギーなんぞくだらねぇ、となるわけですけど、ね。イデオロギーごときに脳みそ毒されている東洋人もお好きにやってくださいよ。
まあそれはともかく、もっとも素朴に、素直に、朗らかに人は死ねば神になるということを信じていたのが日本人です。
さらに、こういう神道、仏教、儒教の優れた教えをふんだんに受け入れ、純粋に培養したのが日本人です。
それで振り返ってみますと、昔の日本人で大悟徹底した高徳の僧がたくさんいらしたというのも十二分に首肯できるではありませんか。もちろん、すべての僧がすべて偉大であったわけではない、というのも事実。その理由ももちろん簡単なお話ですけどね。
話はちょいと飛躍しますが、わたしは選民思想の持ち主だと思っています。ですが、従来の思考とは少し違う。
神に選ばれたのだ、ではない。
神になることを選んだのだ、と思っております。
こここそが根幹的、絶対的な差となる部分であろうと思います。
こうして生まれて、確かに誰も彼もが仏になれる資格があるしその素質がある、しかし、歴史的にみてもすべての人間が悟りにいたれたわけでも、仏になったわけでもない。それはどうしてかと言えばすなわち、自分で神になるのだ、という大決意をもっていなかったから、そこまで己自身を磨き上げることが叶わなかったのであろう、と思うのであります。
自分という存在をまごうことなき神になるのだ、と懸崖に散手して絶後に蘇るだけの大覚悟をもって己の手で己を教え導くことができなければ、神などなれるわけもない。
放っておいても阿弥陀様が救ってくださるからどしどし悪事をなそう。
などとたわけたことを言っておるから、未来永劫己の手で己を救えないのであって、そんな阿呆は神であっても仏であっても救えるはずはないし、救う価値もないわけです。
神様の本当の慈悲とは、わたしも神になります! と頑張っている人にこそ差し向けられるのであって、そこから全力で目を背ける人に差し伸べられるものではありません。
そういう意味では、お釈迦様が救おうとしたかのカンダタも、そこに間違いなく自分で自分を救おうという覚悟はあったはずなのです。だから、天上から降りてくる蜘蛛の糸に気がついた。自分で自分を救おうとすら思えない者には、その糸すら目には入らないはずです。ですが、カンダタはせっかくのお釈迦様の慈悲を裏切るような行動に出たから、糸が切れてしまった。あそこは、登りながら糸を巻き取るのが正解なんです(笑)。
それはともかく、自分の人生をより良くするためのまず第一歩は、自分が神になるのだ、と決意することですね。
それが自然と行えるようになれば、神にも選ばれます。まあ、選ばれたら選ばれたで怒涛の如き苦労の連続。途端の苦しみを味わうことになりますけどね。歴史を振り返れば、偉人はまず間違いなく苦労されてます。何故って、人間の心の進化に一番有効なのは苦労することだからです。とはいえ、その苦労に打ち負けて、いわゆる、世間ずれ(これも間違った意味が横行してますね。世間に擦れて人間がすさむという意味ですね)を起こすようならその程度ということです。
最近、『フルーツバスケット』が再アニメ化されましたね。
あの、本田透くんこそがもっとも神に近い人と言えるでしょうね。知らない人はダッシュで書店に行こう(笑)。この前も放映されましたが、「世界で一番バカな旅人」のお話。賢いとかバカ、そういったいかにも人間的な欲得、損得とか、打算こそがもっとも神から遠ざかるものであって、慈悲とか、真心こそが神の本質なんです。
そういう、神が与えてくださる苦労、困難をありがたく受け取る、ちょっとオツムのゆるいくらいが丁度いいのであって、すぐ計算して小利口に、流れに棹差して上手く立ち回るのが最上の人生と思っているようならそんな勘違いはやめた方がいい。
賢しらに、分かった気になっているのが一番分かっていない。
これが老荘の言う無為自然ですね。
昔の人はちゃんと分かった上で、こうするべきですよ~、って言ってくださっているわけです。わたしが老荘思想家を自称しておるのも故なきことではないわけです(笑)。
そういう意味では現代は大変です。
分かった気になって本質から全力で遠ざかって枝葉末節を追い求め無くてはならない。「この世は老いも若きも男も女も心の寂しい人ばかり」そんな世界で今日も生きなければならない。なんて見事な生き地獄なのでしょうね。
どうして神や仏はこんな世界を、こんな我々を救ってくださらないんだろう、って思ってません?
間違ってはいけないのは、慈悲を求めるのなら、まず自分が救われるに値する人間にならなければ駄目です。
自分を振り返ってみるといいです。天上から、貴方の言動のすべては見られているわけですから。その上で、自分の人生は神や仏から、救われるに値する人生だったか、考えてみるといいです。別に、嘘を付く必要も虚栄をはる必要もありません。自分の、自分だけの人生を振り返るだけですから。
すぐに答えは分かるはずです。貴方が救われるに値する人間かどうかは、実は、貴方自身がすでに結論を出しているのです。
そうして、今のままでいいのか、改めなければいけないのか、日々の生活の中でじっくり答えを探すといい。
焦る必要も、性急にやる必要もない。
別に、難関大学に入れ、とか、国家試験にうかれ、とか、オリンピックで入賞しろ、と言っているわけではない。
自分の、自分だけの人生を、よりよく生きる、ただそれだけのことですから。
神とは、そういう人生によって、目指してゆくものですから。
でも、これだけは言えます。日本人として生まれた、それだけでよその民族よりはるかに恵まれて生まれたのだ、と間違いなく言えます。その、恵まれた生を活かすか、殺すか。それだけです。そしてかつての偉人は、素晴らしい教えを残してくれているわけです。仏教や儒教、それら本物の、本質的な学問をしつつ、素直な朗らかな明るい神道によって自信も素直に神になると思う。それだけでございます。
自分は、神になるべくして生まれてきたのか。
それを決めるのは自分。
では最後に過酷な人生を生きるに大切な秘訣の一つを、孔子様からお伺いいたしましょう。
〈これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず〉
神とはなにか、を少しは語ったような、まだ意を尽くせていない気もする今日この頃ですが今回はこれまで。
自分と神は無関係、などと思っておるボーッと生きてんじゃねぇYO! な人々への暁鐘となれば幸いです。
日々学問。