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南子と孔子様。



 暑いような寒いような気候が続いて、おっさんは夏(?)風邪を引いて喉が痛い日々が続きますが、皆様は暑いからと言って寝ている間中扇風機を回すような阿呆にはなられませんように。


 ー人ー。


 おこんばんはです。豊臣亨です。


 今回はこんなところから。


 さて、古えより悪名高い南子。では、南子とは、とwikiをみてみますと、


 チャイナの春秋戦国時代の衛という国の悪名高い霊公の、これまた悪名高い奥方のこと。不倫はするし乱交はするし、とその当時から醜聞の多いお人だったそう。


『論語』に、




【子、南子に(まみ)える。子路(よろこ)ばず。夫子これに(ちか)って曰わく、わが(すまじ)き所の者は、天これを()たん。天これを厭たん】




 孔子様が、その当時からして醜聞多い南子と会った。すると、弟子の子路さんが無節操ではないか、と非難した。それに対して孔子様は、


「わたしにやましいところがあるのなら、天がわたしを罰するであろう」


 とおっしゃった。




 この一文をもって、いやいや疚しいからそんなこと言ってるんだろw


 と言われる人をちょいちょい見受ける。


 それに対するわたしの思うところを今回はつれづれ。


 老荘思想家のおっさんは語りたい。



 確かに、王族であり権力もある程度はあったであろう妃である南子に、孔子様がのこのこと出向いていったら、そこはそれ、男女ということもあってそういった視線を向けるのも、まったくゼロではないでしょう。


 しかし、何でも孔子様が会見された時、孔子様は御年56歳。2500年前ならすでに天寿を全うしていても不思議ではないようなお年。


 そんなお爺ちゃんに、色目を使う気になるのであろうか。しかも、南子には若いツバメもいた。その若いツバメが論語にも出てきます、




祝鮀(しゅくだ)(ねい)ありて宋朝の美あらざるは、難いかな、今の世に免がれんこと】




 鮀神官のような巧みな弁舌、朝公子のような美男子ぶりがないと、今の世で難なく生きることは難しいであろう。




 ちなみに、祝鮀の祝、は祭祀官のこと。鮀は名。宋朝は宋の国の公子、王族の子のことで、朝が名。


 この時代、まあ、いつの時代もそうですけれども、巧みに舌が回るもの、べしゃりがうまいものと、見目麗しいものがもてはやされるのが常であります。


 南子はそんな美貌の王子を若いツバメにしておった。論語にも残るぐらい、その当時の世間にも有名な情夫というわけです。若いツバメとハメを外しながら、それでもそんな南子に対して、霊公はあくまで寵愛を失わなかったという。この時の南子は、けっこう恵まれた環境にあったとみるべきで、そこまでしてよぼよぼ(?)の孔子様を求めなければいけない理由はないと思う。


 そう言えば、最近女性声優さんが枕営業をしている、悲報、などといってるそうですが、わたしから言わせるとそれの何が悪いのか、という気がする。


 そういう方々は、すべて承知の上で進んでおこなっているはずで、そうではなく、何も知らない少女を酒かクスリで前後不覚にして犯して、ビデオ撮って、それをネタに、とかいうのならともかく、多くの人は進んで体を売っているはず。


 自分の声を売るために体を売っているわけで、そうでもしなければ生き残ることができない世界なのであろうから、部外者が騒ぐことではない。変なことを言い出せば、将を射んと欲すればまず馬から、のたとえで、声を売らんと欲すればまず体から、と思うべき。それに、それがきっかけでもしかすると伴侶を得られるのならそれもありと思う。


 それに、もっと言うのなら、さらに多くの女性は、体はなんとか売れたけど声は売れなかった、なんて事例が山のようにあるのではないかと予想するのです。いくら体を売ったって、そこは厳しいプロの世界、必ず声も売れるなんて保証は誰もしてくれない。体など売らなくても声だけで売れる、なんて一流は一握りであって、しかも、アニメをみておればわかりますが、同じ声優さんが何本も同時期のアニメにでておられる。どれほどあの世界が一握りの人々で成り立っておるかわかるわけです。そんな世界に飛び込んでゆこうと思ったら、そんな子どもじみた倫理観などゴミほどにも役に立たないだろうと思わざるをえない。


 だから昔、とあるベテラン男性声優はこう言ったとか。


「新人女性声優だけは死んでもなりたくない」


 これがすべてを物語っているように思う。


 だいたい、男女がいればやることなんて大昔から何も変わってなどいないわけで、それに芸能界なんてそういう世界なのだから、未来永劫何も変わりなどしないわけです。誰も、変えようなどしないわけです。


 しかも、その新人がどんどん後から後から出てくる。「後世畏るべし」なんて言ってられない世界。ギャラの高くなった中堅どころが掃いて捨てられる世界。アニメは大好きですが、見てるだけでおなかいっぱいです。


 日清が『ケムリクサ』とコラボを果たしたという事実だけで、まだまだ人の世も捨てたものではないと思えます。


 まあ、話を戻すとしまして、昔、わたしのブログでご紹介した一文があります。


 安岡先生の書『十八史略(上)』 PHP文庫 p168




「ある時にある大名が、あなたは方々を歴遊しておられるが、どこの国君が一番名君か、ご承知ないかと聞かれた。


 孔子は答えて、そうですな、名君とおっしゃればさてどなたをと気が付きませんが、「やむなくんば衛の霊公か」。強いてといえば衛の霊公でしょうかと答えた。


 すると相手の大名がびっくりして、衛の霊公は閨門けいもん治まらざるを以って有名だが、それを孔先生ともあろう人が、やむなくんば衛の霊公かとはこれは一体どういうことですかと問い返した。


 孔子は涼しい顔をして、あなたは今、今日諸国を見渡して名君というべきものは誰かとお尋ねになったから、わたしはやむなくんば衛の霊公かと答えた。閨門が治まるとか治まらんとかいうことはこれは私事です。天下国家の政治に格別に関係することではない。衛の霊公は例えば内政については、外交については、財政については、軍備については誰それ誰それというように、実によく人材を任用して治績を上げておる。その点ではたしかに名君で、私は名君は誰かということにお答えしたのであって、閨門治まるとか治まらんとかいうようなことに関してお返事したのではありません、と。


 その国君は大いに首肯したという話です」




 ここでよく分かるのが、公的な行いと、私生活を同列に論じるな。同日の談ではない。ということですね。


 確かに、南子はそういった閨門が治まらない、むしろ乱れた人かもしれないが、しかしこれがこと政となれば様相を異にする。


 重要なのは、孔子様は自分を抜擢登用してくれる人物を求めているのであって、不倫相手を求めているのではない、ということです。生まれ故郷である()を出奔したのも、乱れた魯の政治に愛想が尽きたからで、そうでなかったらどうして好き好んで出奔して諸国を放浪するでしょう。


 そして、孔子様は自分を抜擢登用してくれる人物を求めて、なりふり構わず行動をされている時があります。




公山不擾(こうざんふじょう)、費を以て(そむ)く。招く。子徃かんと欲す。子路(よろこ)ばずして曰わく、()くこと()きのみ。何ぞ必ずしも公山氏にこれ之かん。子曰わく、それ我れを招く者にして、()(あだ)ならんや。もし我を用うる者あらば、吾れはそれ東周を為さんか】




 公山不擾が費という町でクーデターを起こした時、孔子様を招聘した。


 孔子様はその招きに応じようとされたが、弟子の子路さんは反逆者に与してはいけない、と言った。


 すると孔子様は、


「ああしてわたしを招こうとするからには何か考えがあるのであろう。危害を加えようという魂胆ではあるまい。それにもし、わたしに実務を任せてくれるのなら、わたしは東周を興すだけだ」


 とおっしゃられた。




 公山不擾とは、魯の国の実質的支配者である三桓氏に対して、陽虎(陽貨とも呼ぶ)という奸雄とともにクーデターを起こしたような人物。しかし、このクーデター計画は陽虎の敗退とともに失敗に終わります。


 秩序を乱し、紛争を惹起し、国内に騒乱を起こしたわけですから、伯夷(はくい)叔斉(しゅくせい)的な考えからすると主に対して反逆を企てた、間違いなく大罪人となるはずですが、孔子様はその下につこうと思われた。


 ってか、子路さん文句ばっかかよ、って思いますけれども。この子路さんの「(よろこ)ばず」も、孔子様を心配してのことなのか、それとも世間体的な、ただ風聞を気にしての物言いか、わたしにはわかりませんね。


 しかし、孔子様はさらっと東周を為す、っておっしゃってますが、東周とは周の国が衰えて東方の洛邑に都を遷したそれ以降を東周というわけで、春秋戦国時代はまさしく東周の時代。秦の始皇帝に滅ぼされるその時までずっと東周だったそうな。それを為す、勃興するという意味なら、さらっと結構すごいことをおっしゃられています。ただ、そうではなく、その当時の周の国の東側を勃興するという意味なら、周は魯から結構離れて秦のお隣、衛とか韓とか魏を過ぎてあるところなので、そこの実務を担当できるとは思えません。これも現実的とも思えない。なのでここは素直に東周時代のことと捉えますと、やはりすごいことをさらっとおっしゃっていると思います。


 火事と喧嘩は江戸の華、ならぬ、大言壮語は中華の華、というべきでしょうか。中華だけに。最近は中華三千年どころか、五千年とか六千年になっておるそうで、だったらそんなチマチマ増やしてないでいっその事、中華100億万年とか言ってた方が潔い気がしますけれどもね。いや、1阿僧祇年とか、1那由多年とかの方がかっちょいいかも。小学生かっ。


 まあ、それはともかくここで見るべきは、孔子様からすれば、誰が支配者かはあえて問わないのであって、あくまで、自分を実務で使ってくれる人物こそが重要であった、とみるべきでありましょう。


 また、同じこのクーデターの首魁である陽虎からも孔子様は招聘されております。




【陽貨、孔子と(まみ)えんと欲す。孔子見えず。孔子に(いのこ)(おく)る。孔子その()き時に往きてこれを拝す。(みち)()う。孔子に謂いて曰わく、来たれ。()(なんじ)に言わん。曰わく、その宝を(いだ)きてその(くに)を迷わす、仁と謂うべきか。曰わく、不可なり。事に従うを好みて亟々(しばしば)時を失う、知と謂うべきか。曰わく、不可なり。日月逝く、歳我れと(とも)ならず。孔子曰わく、(だく)。吾れ(まさ)に仕えんとす 】




 陽虎が孔子様を招こうとされたが、孔子様は居留守を使われた。そこで、陽虎は豚をプレゼントした。孔子様は、豚をもらって返礼に出向かないわけにはいかず、陽虎の留守を狙って挨拶に出向かれたが、陽虎はそこを狙ったのか道でばったり出くわしてしまった。


 陽虎が孔子様に言うには、


「仕えよ。わが話を聞け。一体、このような至宝がありながら国を乱れたままに放置して、それで仁といえるのか」


 孔子様、


「言えませぬ」


「政を立派に行うことを目指しておきながら、ここに仕官先があってもタイミングを逸してしまう。それで智者といえるのか」


「言えませぬ」


「光陰矢の如し、少年老いやすく学成りがたし、時は一瞬たりとて待ってはくれぬもの。猶予はないのだ」


「はい。わたしもいまに尊公にお仕えいたします」




 これを見ますと、同じクーデターの首魁である公山不擾(こうざんふじょう)と陽虎。前者には仕えようとして子路さんに止められて、後者には居留守を使ったわけです。この違いは何なのかはわたしにはわかりませんが、その当時の微妙な消息があるのかも知れませんね。


 しかし、奉公を約束するも、この陽虎は魯の国の実質的支配者である三桓氏に反撃され、破れて他国に亡命せざるをえなくなってしまいます。その後に公山不擾に招かれたのかも知れません。


 そうして仕官先を求めて諸国を放浪することになるわけで、だからこそ論語にこの一文があるわけです。




【子貢曰わく、ここに美玉有り。(はこ)(おさ)てこれを(かく)さんか、善き()を求めてこれを()らんか。子曰わく、之れを沽らん()、之れを沽らん哉。我は賈を待つ者なり】




 子貢さんが言った。


「ここに宝玉があります。箱に収めて大切に保管するべきでしょうか? それとも、()、買い手を求めて売ったほうがよいでしょうか?」


 孔子様はおっしゃられた。


「売るとも売るとも。わたしは買い手を待っておるのだ」


 と。




 これも古来、二種の考え方があって、「之れを沽らん()」の部分を、売ろうじゃないか、という解釈と、いやいやどうして安売りできようか、という考え方があるそうです。


 確かに、「これを売らんか」だけでは、売りたいのか売りたくないのか微妙な境目に見えますが、祖国に対してクーデター起こした反逆者である公山不擾(こうざんふじょう)に対してまで自分を売り込もうとしたわけですから、どちらに解釈すべきか分かりそうな気がします。


 そして、こういう孔子様の姿勢はある意味当然、批判を呼ぶわけですね。




【君に事うるに礼を尽くせば、人以て(へつら)えりと為すなり】




 わたしが主君に礼を尽くして仕えれば、他人はそれを媚びへつらって、おもねっている、と言う。




 孔子様がどれほどの覚悟と決意で政を行おうとしているか、誰も理解しないし、軽々しく批判し文句を言うわけです。


 わたしもよくブログの中でいうのですが、人をバカにするだけならバカでもできるというもので、そういう者はいつの世も事欠かないわけです。


 そして、諸国を放浪された時も、あまりの絶望と失望に、さすがの孔子様も弱音を吐かれた。




【詩に云う『()(あら)ず虎に匪ず、かの曠野(こうや)(したが)ふ』と。吾が道非なるか、吾何すれぞここにおいてする。顔回曰わく、夫子の道は至大なり。故に天下、能く容るる()し。(しか)りと(いえど)も、夫子推して之を行え。容れられざるは何ぞ(うれ)えん。容れられずして然る後に君子を見る。それ道の修まらざるは、是れ吾が(はじ)なり。それ道すでに大いに修まりて、しかも用いられざるは、是れ國を(たも)つ者の醜なり。容れられざるは何ぞ病えん。容れられずして然る後に君子を見る。孔子欣然(きんぜん)として笑いて曰わく、是れ有るかな、顔氏の子よ。(なんじ)をして財多からしめば、吾、爾の宰とならん】




 孔子様がこうおっしゃられた。


「詩にこうある。サイでもなしトラでもなし、それなのにどうして荒野をさすらうのか、と。わたしの有り様が間違えているから、こんな目にあっているのであろうか」


 と。顔回さんがおっしゃられた。


「先生の進む道は至高至大。よって、天下の人々にはその教えを受け入れる能力がありません。


 されど、歩みを止めるなかれ。先生、気に病む必要はありません。それこそ、世の人々が簡単に受け入れられないほど先生が偉大である何よりの証明なのです。


 我らの進む道が間違って、それで捨てられるのならば、それは我らの恥。しかし、我らの進む道が正しく、すでに学問は完成の域にある。それで捨てられているは、それはそれを用いる能力のない為政者の恥です。


 先生、気に病む必要はありません。


 我らが簡単に受け入れられない、というこの事実こそが、我らが正しいという絶対の証明なのですから」


 と。


 孔子様は心の底から嬉しそうにおっしゃられた。


「ああそうだな、顔回よ! もし、そなたが大金持ちなら、わたしはその家宰となって取り仕切るのになぁ」


 と。




 原文は長いのでばっさりとカット。()は野牛ともサイとも言うそうな。とはいえ、こんなに嬉しい一文があるでしょうか。


 世の誰もが理解もできず、受容できなかったとしても、顔回さんにこういわれるだけでここまで頑張ってきた価値が、十二分にあるとわたしは思うのであります。


「容れられざるは何ぞ(うれ)えん。容れられずして然る後に君子を見る」


 この一文をあえて、二回繰り返しているのも、大事なことなので二回繰り返したわけです。それほど、この時の孔子様は落胆されていたのです。察するに余りあるではありませんか。


 お前が大金持ちなら、わたしはお前に仕えるのになぁ。


 諸国を放浪し、困窮のどん底に叩き落され、失意の中愛弟子からこの言葉を受けて、喜びのあまりおっしゃった孔子様の胸中やいかに。


 そして、こうまでして諸国を放浪し、光明を見出さんと欲せられた孔子様の本心をこの一文に見ることができます。


 ある意味、これが本題。




【子曰わく、(いやしく)も我れを用うる者あらば、期月(きげつ)のみにして可ならん。三年にして成すこと有らん】




 孔子様がおっしゃられた。もし、私を実務に携わらせてくれるものがいるのなら、三年、いや一年でいい、かならず治績をあげてみせるのに。




 この一言に、放浪の先に求められたすべてが含まっている気がするのであります。


 祖国ですら最終的に三桓氏と敵対し出奔、この、たった一年でいい実務を担当させてくれ、その治績をもって証明してみせる、という血を吐くような孔子様の決意は、結局まったく果たされるところはなかったわけです。


 祖国は三桓氏が牛耳ってはいるが、列国にはすぐれた人物も多い。その人物たちを通じて抜擢登用してくれるのなら。誰でもいい、わたしを見事売ってみせよう、と。その買い手が、たとえ南子だろうが、クーデターの親玉だろうが、何をこだわる必要があろう、ということです。


 何でも、孔子様が出奔されたのは孔子が54歳の頃とか。そして、南子との会見が56歳とか。出奔の2年後です。


 斉の国から送られた、『喜び組』である踊り子たちに()の為政者はあっけなく籠絡され、政務を顧みなくなってしまい、そんな有様に絶望、失望されたわけです。


 わたしだったら54歳で国がそんな状況なら、間違いなく「その愚や及ぶべし」で自分も阿呆になって輪に加わっていた公算が大きいでしょう。さすがにその年で放浪とかありえません。え、わたしもその別嬪さんもらっていいんすか?w とか平気でいいそうです。わたしのような阿呆ならその程度でしょうが、孔子様はそれにあきたらなくなって国を出られたわけです。その当時ならすでに天寿を迎えていてもおかしくない54歳で諸国放浪とか、気力も体力も衰えているであろうに、どれほどの覚悟と決意でもってそれをなされたことか。


 そう考えますと、54歳で出奔とか相当の覚悟がなければできないはずで、その2年後に醜聞多い南子と会見したからといって、すぐさまスケベ心がむくむくと沸き起こる、と思えるのなら相当オツムがお花畑である、と思うべきでしょう。


 それに、孔子様は南子との会見で、子路さんに、


「天これを()たん。天これを厭たん」


 とおっしゃっているわけです。


 今時の、神も仏も信じていない軽薄現代人の「天地神明に誓って」などという戯言ならともかく、孔子様にとってこの一言は自身の決意と、潔白を完全無欠に証明するものでもあったわけです。また、孔子様が天と口にされる時は他にもありまして、





【天、徳を()れに生ぜり。桓魋(かんたい) それ予れを如何(いかん)せん】




 これは宋の国の将軍である桓魋に襲われた時のこと。この桓魋に襲われた時に、すぐ逃げましょうと言った弟子に対して孔子様がおっしゃった言葉がこれです。稚拙な訳もいりませんね。ちなみに、桓魋の弟の耕という人は孔子様のお弟子さんだったとか。


 何でも、桓魋は木を切り倒してだか、引っこ抜いてだかして孔子様一行を襲ったとか。


 素直に兵を差し向ければいいところ、なんでそんな迂遠なことをしているのかまったくわかりませんが、その襲撃に対して孔子様が放ったこの一言が、驚いたであろうお弟子さんたちをどれほど安心させたことでしょうね。


 あの軍神、人を超越した上杉謙信公も、小田原攻めの時、敵の眼前で椅子に座って酒を飲んだとされます。北条勢の矢と鉄砲がかすりもしなかったとされますが、本気で毘沙門天の現人神と信じている人には矢玉の方から避けるのでありましょうか。


 この孔子様の言葉も、謙信公と同じ精神力の気がします。またこういう言葉もありますね。




【子、(きょう)()す。曰わく、文王(すで)に没したれども、文ここに在らずや。天、(まさ)にこの文を(ほろ)ぼさんとするや、後死(こうし)の者、この文に(あずか)るを得ざるなり。天の未だこの文を(ほろ)ぼさざるや、匡人それ()れを如何せん】




 匡の町の住民に襲われた時のこと。孔子様がおっしゃるには、


「周の文公はすでにお亡くなりだが、彼の生んだ文化は立派にわたしが引き継いでいる。


 もし、天がこの周の文化を滅ぼす気があるのなら、そもそもわたしが周の文化を引き継げるわけがないのだ。そして、わたしがこの文化を受け継いでいるということは、天から大命を下されている証。匡の人々にわたしの命を脅かせるはずがないのだ」


 と。


 


 匡の町はかつてクーデターをおこした陽虎によって苦しめられた町のことだそう。そして、孔子様はこの陽虎と容姿がそっくりだったとか。それで、匡の町の人々は孔子様を陽虎と勘違いして襲ってきたとか。


 しかし、襲われた時に発した孔子様の言葉がこれですね。


 天が大命をわたしに下したからこそ、周の文王の、周公旦の文化を、わたしは受け継いでいるのだ。


 天がこの文化を抹殺しようと思うのなら、わたしがいまここにあるはずがない。そんなわたしがここにあって、匡の町の人々ごときにわたしがどうこうなるなど、ありえないことなのだ。


 凄まじい、恐ろしいまでの気焔です。


 上杉謙信公の如き、現人神の如き信念と決意がなければ、よもや54歳になって放浪などできはしないでしょう。逆に言えばその信念と決意があるからこそ、この気焔となり得た。しかし、孔子様は晩年になって本当の絶望に叩き落とされるわけです。




顔淵(がんえん)死す。子曰わく、(ああ)、天()れを(ほろ)ぼせり、天予を喪ぼせり】




 孔子様の学問の正統を受け継ぐはずの顔回さんが、何でも32歳という若さで亡くなってしまった。その時の孔子様の慟哭たるや並のものではなかったとされます。


 天が自分に周の文化受け継がせた、大命を下したと確信していたわけで、その文化を受け継ぐはずの顔回さんが先立たれたのですから、その確信があったからこそ、失意もそれだけ大きかったわけです。


「天がわたしを滅ぼした!」


 どれほどの絶望と失望の果てにこの絶叫となったのか。


 想像すらできません。


 初めに戻ってみましょうか。




【子、南子に(まみ)える。子路(よろこ)ばず。夫子これに(ちか)って曰わく、わが(すまじ)き所の者は、天これを()たん。天これを厭たん】




 今まで見てきたように、孔子様は理想の政治を目指してその生涯を捧げられたわけです。


 祖国の魯は王の血縁とはいえ家臣にすぎない三桓氏に牛耳られ、その王も斉の国から送られた、『喜び組』である踊り子たちに骨抜きにされて政務を顧みなくなってしまった。


 列国なら自分をわずかでも用いてくれるかも知れない、と一縷の望みを託して、54歳という信じられない高齢でありながら諸国を放浪されて56歳の時に南子と面会された。一年でもいい、わたしを使ってくれ、必ず目に見える治績をあげてみせる! という血を吐くような決意をもって。


 にもかかわらず、その当時孔子様と苦労を共にした子路さんですら「(よろこ)ばず」だった。お前は孔子様のそばで何をみてきたんじゃい! と言いたくなるのはわたしだけでしょうか。


 そして、後世のものにも、


「疚しい気持ちがあるから言い訳してるんじゃね~のw」


 と言われる始末。


 孔子様のどこをどう見ればそんなことが言えるのやら。


 少なくとも、孔子研究家を自称するもので、こんなことを言い出す者は、孔子様を語る資格はない、と思うところであります。


 簡素ながら南子と孔子様を語った気がしてきたところで今回はこれまで。





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