表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/151

生きるって?



 おこんばんはです。豊臣亨です。


 さて、


 何ゆえ、毎日毎日こうして生きるのか、何ゆえ、こうして人という生を生きるのか。


 こうして生きている以上そこには意味があるはずでして、人類の歴史が数千年ある以上、すべての人がこの大命題を考えているはずですね。


 世に数多の書物やネット閲覧物はあれど、この根幹的、本質的質問に答えを見出そうとしているものは少ない気はします。


 どうしてでしょうね。


 例えば、人は、必要があって車を運転したいから、運転免許をとるわけです。


 仕事のため、レジャーなど遊びにゆくため、買い物のため、用途は様々あれど、車を運転する、という行いは本来の目的をはたすための必要不可欠な行為なわけですね。


 求める用途を果たすために、車を運転するわけです。


 同様に、様々な人生目標のために人は今日も生きておるわけですが、そもそも、この何のために生きるのか、という目標自体が現代社会では曖昧模糊としておるから、全体的な、人生そのものが漠然としているのではないでしょうか。


 ならばこうして、日々を生きる、人という生命を生きるにあたって、どうして生きるのか、どうして生きなければいけないのか、という本目的には何を掲げるべきなのでしょう。


 いろいろと見てみたい項目はありますが、そもそもこの人生における大命題に挑んでおかないとお話しにならぬ、ということで今回はこの根幹的、本質的命題に挑みたいと思います。老荘思想家のおっさんは語りたい。




 はっきり言ってしまうとこの本目的を知っていないと、100年、1000年生きても無意味、になりかねません。


 逆に言えば、この本目的を知っているのならば、後はしかるべく生きておればよいのであります。


 しかるべく、とそれっぽく言っても仕方ないので昔の言葉をみてみましょう。

 

 こういう言葉が『中庸』にあります。




「君子その位に素して行い、その外を願わず。富貴に素しては富貴に行い、貧賤に素しては貧賤に行い、夷狄(いてき)に素しては夷狄(いてき)に行い、患難に素しては患難に行う。君子入るとして自得せざるなし」




 素、は素質、素材の素、でありまして、そのまま、あるがまま、ありのまま、という意味に通じます。ありのままだからいいといって、未熟な己でもよい、ということではありませんが。


 意味は、


 君子、立派な者はその地位、立場にあってしかるべく行い、その外、それ以外のことを欲しない。


 地位も名誉も、権力や富があるのなら、それに基づいて行い、逆に地位も名誉も名声も、富すらないのなら、それならそれで生活を行う。


 辺境の蛮族とともにあるのなら、それと共におり、苦労、困苦の日々にあろうともあるがまま、そのままでいる。


 立派な者は、どこであろうと、何をしようと自分を見失うことはない。




 という塩梅ですね。


「その外を願わず」とは、本来の意味合い的には地位や権力を利用して私服を肥やしたり、他者に忖度を強いたり自分をより以上に地位や権力に執着し拘泥するといったことになりますが、別の意味でとらえることも可能であります。


「富貴に素しては富貴に行い、貧賤に素しては貧賤に行い」でいいますと、人は誰しも地位や権力、名誉や名声をもつとおごり高ぶり、他者を見下し、自分は偉いものとして振舞います。逆に、貧乏のどん底にあれば他者に対して嫉妬の感情をもったり媚びへつらったり嘆き悲しんで落ち込んだりするものです。つまり、自分のいる環境に己が支配されるのが「外」であります。



 余談ではありますが、米国でこういう実験があったそうで、囚人と看守の心理実験というもの。『スタンフォード監獄実験』としてwikiにも載っており映画化もされておりますが、こういうものです。


 無作為に選んだ大学生を集め、一方には看守役を、一方には囚人役を設定し、監獄の中で彼らがどういった行動をとるか、という実験です。数日もすると、看守役の人たちは囚人役の人たちを禁止されていたにも関わらず異常に虐待しはじめ、実験に気づいたカンセラーの牧師によって実験は中止に追い込まれた、というものですが、これによって人間がいかにあっけなく服装や環境に支配されるか、ということが明らかになったのであります。実は、この実験を主催した学者もこの実験に飲み込まれて正気を失っていた、という驚くべき結果を生み出したわけですが。


 同じことで、


「富貴に素しては富貴に行い、貧賤に素しては貧賤に行い」


 と軽くいっておりますが、それがどれほどの強い自覚や目的意識によって支えられているかがわかろうかというものであります。なので、


「君子入るとして自得せざるなし」


 ここでは、自得を、自分を見失うことはない、としましたが、まさしくこの部分にこそ、人が生きることの重大な意味があるわけであります。


 前に、人はどうして生きるのか、ということを、


 神や仏になるため、


 と申しました。

 

 これは何もわたしが勝手に言っていることではなく、昔から人々が営々と行ってきたことなのであります。


 それを初期仏教からみてみましょう。


 初期仏教では、人が生きて最終的に仏となること、つまり、成仏することが人生における最大目標、最高目的とされました。


 その最終目標に、阿羅漢果を得るというものがあります。仏となることを、初期仏教では阿羅漢果、といったのです。なので悟りに到った人を阿羅漢、または羅漢と呼ぶ。


 ちなみにこれには段階がありまして、




預流果(よるか) 偉大なる流れに預かる果報、ということでもはや悪の道に入ることのない、悟りの始まり。


一来果(いちらいか) あと一度、生まれ変われば成仏できる、ということで一来果。悟りが完成しつつある状況。


不還果(ふげんか) もはや還ることなし、で不還果。二度と生まれ変わりませんので、輪廻の輪から開放された状態。


阿羅漢果(あらかんか) これで成仏、仏となるのです。




 人間はこうして、日々生きて、人生を生きておるわけですが、そこに意味目的がなく、また悪事を働けば地獄に落ち、人以下の来世もあると考え、それを輪廻の輪で説いたわけですね。


 輪廻の輪、とは生まれ変わってまた新たな生を生きる、といういい意味ではなく、本来、人は進化して仏にならなければいけないのに、いつまでたっても人の身のままでいることの悲しさを説いております。


 輪廻の輪から解き放たれる、とは仏に成って、悟りに到って、人間であることを終える、人間を生きる修行を終えた、ということ。


 つまり、古来、人は自身の未熟を悟り、怠慢を嘆き、進化し、成長し、偉大なる存在へと到らねばならねばならない、ということが人間が生きる本質的意味である、と認めていたわけですね。


 仏教においてもそうであるように、もちろん、生きるという目的を真剣に考えるという点で儒教も真骨頂であります。


 人は何ゆえ生きるのか、何ゆえ生きなければいけないのか、を儒学者も語りますと。


 例えば、張横梁(ちょうおうきょ)先生。チャイナの北宋時代の儒学者先生であります。名は載、(あざな)は子厚。地方の政治家をして、中央に招かれたけれども、時の権力者ににらまれて世で活躍できなかった人であります。


 その張横梁先生の立言が、




「天地の為に心を立つ。生民の為に命を立つ。往聖の為に絶学を継ぐ。万世の為に太平を開く」




 天地のために、己が心を立脚させる。もしくは、天地が心を樹立させた。


 人々のために、生きるべき目標、目的を掲げる。


 過去の先生方のために、失われた学問を受け継ぎ、新たな時代に鼓吹する。


 未来永劫のために大いなる平和、秩序を打ち立てる。




 天地から生命が生まれた、それをもっというと、この世ができて、そこから天と地が生まれ、生命の進化の果てに、人に結実した。人という生命にいたって、ついに、心を打ち立てることができた。心という高度な心理を発揮できる存在は人以上には存在していない。ついに天地が心を作り出したのだ。ということ。


 こうしてせっかくもったいなくも、かたじけなくも、人として生まれた以上、立派に、学問をして人として間違いの少ない生き方をすることこそ、天地に対する恩返しであり、天地の徳を身につけたものの正しい責務なのだ、と自覚する。


 天地によって、わたしは心を授けられたのだ、と自覚すること、こそが大事なわけですね。


 だからこそ、自分の大使命、大覚悟を、人々に鼓吹せねばならない、人々を導かねばならない。自分を先駆として、先例として、ひとつの実体験として、学問することの意味、意義、面白さを説かねばならない。


 そうでなければ時代はどうしても混乱動揺を免れない。人々は五里霧中としてただ目先の欲に生き、感情で、感覚で生きてしまう。水が低きに流れるように、人もまた低きに流れかねない。それを救わねばならない、見捨てることは立派な男子のありようではない、と思う心こそが君子の心なのであります。


 で、あるなればこそ、すでに失われた、偉大なる古賢先哲の書や教えを復興しなければならない。


 古い教えにこそ、現代に生きるものには発想も、夢想すらできないような本質的教え、根幹的学問が眠っているのである。それをよみがえらせることが、古賢先哲に対する礼儀、尊崇の念の発露であり、それによって人々を導くことが可能となるのであります。


 それらのことが出来うるのならば、百年、千年の安泰がある、のであります。


 これによって、古代の人々もいかに己を進化せしめるか、毎日を生きていかに意義ある、意味ある人生をつくりあげるか、ということを真剣に考究されていたことがわかるのであります。


 こうしてみてみますと、何ゆえ、こうして人という生き物が生まれてきたのか、何ゆえ、人という生き物をこうして生きるのか、人という生き物を生きねばならないのか、という命題が幾分か見えてきたかと思います。


 そして、同時にそれはすでに実例として示されている、過去に数多の人がそれをなされていた、という事実に気がつくのであります。


 世界四大聖人といわれるように、お釈迦様、孔子様、キリストなどの、偉大なる手本、永遠の見本、永劫変わらぬ道しるべとして、すでに歴史上に確固として真似すべき方々がいることに気がつくのであります。


 我々、未来に生きるものは、こうした教えをただ受け継げばいい、彼らが行われた事跡をただ真似するだけでよいのであります。それだけのことなのであります。彼らのおっしゃったこと、なされたこと、思想を受け継ぎ、そして、彼らがおっしゃらなかったこと、なされなかったこと、存在しない思想を、しなければよいだけなのであります。


 それと同時に、現代社会が、どれほどこうした古賢先哲の教えから逸脱しているか、という事実にも気がついてしまう。


 本当の教えはなく、導きはなく、ただ、生存するため、生き延びるために学校に行き、会社に行き、日々を生きる。

 

 生きるために必然、絶対、お金は必要であり、そのために都合よく資本主義という誰ぞが敷いたレールに乗っかって、日々流されていかに楽してたくさんのお金を稼げるか、いかに地位や身分を得るか、という点にのみ生きる意味を見出す。


 仏教では、ただ生きんと欲する、盲目的な意思を「無明(むみょう)」といいます。


 ただ惰性で、人々がそうであるから自分も今日を生き、世がそうであるからたいした疑問も、根本的打開もなく刹那の快楽を求めて今を生きる。


 明けること無し。


 そして未来永劫に輪廻の輪から解き放たれることなく、人の身の業を終えることもない。


 特に、現代に生きておるとそれもしょうがない、といいたくもなりますね。


 人々の代表たる政治、国家の公の場は私服のための醜い嘘偽りのるつぼと化し、


 金持ちはいかに巧みに税金逃れをするかで知識を使う。


 まだ世に何をもなしていないような小さな女の子を殺して、誰に何の得があるというのか。


 TVをつければ、悪い見本のオンパレード。


 地位や権力、富、名声名誉、いろいろな外物はたくさんあっても、内たる、本当の自分はいっこうに空虚のまま。本当の教えも、学問も、何も分かることなく悟ることなく「外」を願ってばかり。


 そういう有象無象と、自分も同じである必要性はないのであります。


 そういう、未来永劫進化することも、分かることも悟ることもない、輪廻の輪から逃れることもない、下根の衆生と同じに成り果てる必要はないのであります。


 そういう世の中だからこそ、


 そういう日々、腐り果てた人の姿を見せ付けられる今の世だからこそ、


 じゃあ、自分はどうするのか、という志が必要なのであります。


 公の場で嘘をついて、ばれなければ、今さえよければ、てめえさえよければそれでよい、という刹那の人間に成り果てるのか。


 そんな人になりたくて人を生きておるのか。


 そんな人間になるために生まれてきたのか。


 そんな人間に成り果てるために人は営々と歴史を築いてきたのか。


 ならば、


 自分はどうするのがよいか、自分はどうせねばならんのか、それこそがいわゆる、世界観、なのであります。


 よくゲームなどの説明で世界観、という言葉が使われますが、本来的にはこの世界で生きるに対して、自分はどうするべきなのか、自分の果たせる役割とは、期待されるべき使命とは何なのか、という考えであります。


 人生観よりもうすこし大きな視点で、自分を捉えて、この世界にしっかりと己を立脚させる。樹立させる。


 このような時代だからこそ、悪い見本に事欠かない時代だからこそ、そうではない自分を打ち立てる。


 そのためにこそ、本当ならば、幕末の志士のように、吉田松陰先生のような優れた師や、切磋琢磨してやまない友の存在が欠かせませんが、これはなかなか得がたい。


 一番確実な方法は、優れた書を読むことです。


 優れた書を読んで、その中の言葉を、己の中に養うことが出来れば、そこに生きる強さ、意欲ができます。


 例えば『孟子』の言葉、




「自らに(かえ)りみて(なお)からずんば、褐寛博(かつかんぱく)といえども、吾(おそ)れざらんや。自らに(かえ)りみて(なお)くんば、千万人といえども、吾往かん」




 自身を振り返ってやましい気持ちがあるのなら、褐寛博(かつかんぱく)、褐は粗末な着物、寛博はだぼだぼの着物、で転じて賤しい身分の者ということ。賤しい身分の者の視線にすら恥ずかしい気持ちになる。


 しかし、自身に振り返って何らやましい気持ちがないのなら一千万という人々が敵になろうとひるみはしない。




 という気概、気骨がわきあがってくる。


 こういう気骨、気節をもてば、必然的に、人生には苦労がつきもの、といいますか天が苦労を授けてくれます。『孟子』には、




「天の(まさ)に大任をこの人に降さんとするや、必ず先ずその心志を苦しめ、その筋骨を労し、その体膚を餓えしめ、その身を空乏にし、行いにはその為す所を払乱(ふつらん)す。心を動かし、性を忍び、その()くせざる所を曽益(ぞうえき)する所以なり」




 天が、いよいよ大いなる運命、天運をその人に任せようとするのなら、必ずといっていいほどまずもってその気骨を試す。 


 大変な苦労、気苦労を与え、心を苦しめ、貧乏生活に追い落とし孤独や絶望を味わわせる。


 その人のやりたいこと、したいことを妨害し、思い通りにならないようにする。


 なぜ、天がそのようなことをするのかといえば、発奮し、根性を鍛え上げ、その人の苦手とする分野を克服せしめんがためである。




 本当に真剣に人生を生きようとしてみてください。


 孟子のいうように、必ず、苦労しますから。


 我が人生においては運がまるでないのだろう、と思わざるをえないほど、苦労がつきまといます。例え自分で蒔いた種でなくとも。


 歴史に存在する偉人で、苦労の伴わない人はいないですね。


 古来、本当の人生を生きてきた人は、常に苦労に付きまとわれ、それが当たり前になってゆくから覚悟ができ、いい意味において諦め、諦観ができ、それが達観になるからのんびりしたものです。


 こうして、本質的、根幹的学問が己の身についてくるのならば、あとはしかるべくやっておればよろしい。


 ラノベ読んでわくわくしておればよいし、アニメみてぐへへ、と笑っておってもよい、漫画を読んで泣いていてもよい、鉢の花を眺めてにっこりしておってもよろしい。


 ブログを書く冒頭、バナナんめぇぇーー、とでも書いておってもよいのであります。ほとんどの人がわからんでしょうけどね(笑)。


 始めに戻りましょう。




「君子その位に素して行い、その外を願わず。富貴に素しては富貴に行い、貧賤に素しては貧賤に行い、夷狄に素しては夷狄に行い、患難に素しては患難に行う。君子入るとして自得せざるなし」




 振り返りますと、この言葉がどれほどの人生における苦労や努力、学問の上に成り立って、自分の生きる意味を見つめての言葉であるか、が分かってくるのであります。


 だからこそ、


「君子入るとして自得せざるなし」


 どこにいようと、どこであろうと、どんな境遇であろうと、


 世がどうであれ、世の人が何をするのであれ、自分は本当に進むべき道を見失わない。


 君子、立派な人物は、何ゆえ、自分がこうして世に生きているのか、という本質的、根幹的命題を見出し、見失わない。


 だからこそ、今を生きる我々は、


 真剣に、真面目に、真摯に生きた古の人々の言葉に、耳を傾けなければいけないのであります。


 どうでしょうか。


 すべての人ができることではないかもですが、すべての人に有益な学問をオススメしてみました。


 生きる、という意義が少しは語れたかと思いますので、今回はこれにて。


 日々学問。


 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ