自由って?
「フルーツバスケット」がアニメに復活して毎話涙ぐんでおりますが、皆様はいかがでしょうか。
おこんばんはです。豊臣亨です。
さて、前回のお話でちょろっと出てきました、この『自由』というもの。わたしのブログでは常々話していることではありますがせっかくなのでこれをもう少し訪ねてみるのも面白いかと思います。
自由とは、読んで字の如く、自らに由る、とあるわけです。
自らに由る、とは、つまり、己を己たらしめる由来、理由、何をもって自分は自分であるか、ということになります。どう生きるのが何より自分らしいのか、ということ。
この世界に、人としてこうして生を得たわけですが、自分がこの世界で、己が人生を生きるにあたって、自分が生きる意味、理由とはなんだろうか、ということをきちんと知ること、何を目的とするのか何をゴールとするのか、というのが本質的な『自由』ということになろうかと思います。
世に人は数十億いるわけですが、自分は何をもって自分であるか、数十億いる人間の中で自分はどう自分という特色をもっているのか、どういう価値をもっているのか、を自らに問い、答えを見出すことになるかと思いますが、今回は論語はもちろん、日本の歴史からも『自由』というのを見てみたいと思います。
(世界に何十億、何百億と人がいようが、現代社会においてわたしのような人間は二人といないであろうと思う、いたら連絡ください(笑)な)老荘思想家のおっさんは語りたい。
まず、wikiを見てみますと、
『自由』とは、他社からの強制・束縛・支配などを受けないで、自らの意志や本性に従っている、ということをさす哲学用語だそうな。
古くは、古典にも自由という言葉はあるのですが『徒然草』には「よろづ自由にして、大方、人に従うといふことなし」とあることから昔はわがまま勝手といった意味合いで用いていたようですね。日本において自由という言葉は楽市楽座が自由な取引を言ったように『楽』がそれにあたるようです。権利や義務といった、日本にはなかった近代西洋思考の流入によって自由という言葉の概念を新たに作っていったということでしょう。そうすると、自らに由ると読んで字の如く、とかいいましたが東洋古来の字義ではなく、西洋近代思考の影響を受けていたようです。昔の人は自由という文字を悪い意味で使っていたようですね。少し意外な気がしますがこれも時代の流れということですね。じゃあそうですかと『楽』と言い換えることもできませんしね。
では、自由、自分を自分たらしめる由来、理由、どうあることが自分にとってもっとも自分らしいのか、を考えてみましょう。
出世を望む人もいるでしょうし、富裕を望む人もいるでしょう。
また、名声を博することを望む人や、得難い技術や知識を求める人だっている。
異性にひろく愛されることに喜びを見出す人もいれば、人よりはむしろ自然を愛する人だっている。
限りないほどの可能性があるなかで、自分にとって何が一番自分という生を充実させることになるのか。例によって例のごとく安岡先生の書『呂氏春秋を読む』致知出版社 から教えを請うてみましょう。
「「全生を上と為し、虧生これに次ぎ、死これに次ぎ、迫生を下と為す。所謂全生とは六欲皆その宜しきを得るなり。所謂虧生とは六欲その宜しきを分得するなり。虧生はすなわちそのこれを尊ぶ者において薄きなり。所謂死とはもって知る所有る無く、その未生に復るなり。所謂迫生とは六欲その宜しきを得る莫きなり」
こうして生の理を全うする全生を上となし、生を傷つけるような生き方これに次ぎ、その次が死、いつもいらいらがつがつしておるような生き方を下となす。迫生は死ぬより悪い。
死は人間の一生の一つの順であるから、これはまあ、仕方がないとして、それよりも神経衰弱になったり精神異常になったりして、いらいらがつがつ生きるほうが、もっと悪いわけです。
こういう人生観・自然観・宇宙観が、いろいろ複雑な思想・哲学になってくるのです。つまらない生き方をするよりも、むしろ死んでしまった方が善い、というような厭世、あるいは死の礼賛も、やはり、こういうところから出てくる。これは東洋人の長所と言うか、特性と言うか、ことに日本人はそうであります。
武道の大家の伝記などを読むと時々出てきますが、例えば松江の松平藩に有名な弓の大家がおりました。少し年老いて健康を害したが、ある時久し振りに弓を引いてみたところ、的を外してしまった。そこで、こうなった上は生きても意味がない、といって従容として自決して果てた。
こういうことは、常識的なクリスチャンなどから言うと、ずいぶん無茶な、封建的な思想ということになるのでありますけれども、われわれ東洋人にとってはごく普通のこと、当然のことである。やはりこれは、東洋人であり、生の一つの哲学・信念を持った者でないと分からない。
そして、迫生は死よりも悪い。それよりも死んだ方がましだ。しかし、死ぬのはいつでもできる。もっと生きようがあるのではないか――とまあ、こういうふうに解脱してゆくわけであります。何気なく読むと、これきりの文句ですけれども、これだけで大きな思想や信念の淵源になっておる。
「所謂全生とは六欲皆その宜しきを得るなり」
六欲とは仏教ならば、見たい、聞きたい、食べたい云々という、つまり眼耳鼻舌身意の欲を言うのですが、ここでは好・悪・喜・怒・哀・楽の六気を言う。
その六欲が宜しきを得て、初めて全生ということができる。虧生は全生のように全くするところまではゆかぬが、その幾部分を掴んでおるということで、言い換えればそれだけ全きことが欠けておるわけです。そして、もっと尊重せねばならぬものを軽薄に扱っておるのであります。
また、いわゆる死というものは、本当の生を失って、未だ生きざる自然に復ってしまう、自然の生を発生する前に復してしまうことである。迫生とは、人間の欲には欲の理があるのに、すなわち筋道があるのに、それを掴み損ねておるのである」
実に面白いですね。
ここで大事に見たいところが、死そのものはそんなに大騒ぎするほどではないというところですね。いつかは人間は死ぬわけで、ある意味、当たり前の、来るべき未来でしかない。死を歓迎するものではないが、忌避するものでもない。それよりはつまらぬ、尊敬に値しない生き方をするほうがよほど屈辱的であるというところですね。孔子様も、
「子貢、政を問う。子曰わく、食を足し兵を足し民をしてこれを信ぜしむ。子貢曰わく、必ずやむを得ずしてこれを去らば、この三者において何れをか先きにせん。曰わく、兵を去らん。曰わく、必ず已むを得ずしてこれを去らば、この二者において何れをか先きにせん。曰わく、食を去らん。古より皆死あり、民信なくんば立たず」
子貢さんがまつりごと、民に対する政治はどうすればよいかと問われた。すると、孔子様は食料問題を解決し、外敵に対する問題を解決し、民衆から信頼を得ることだと、とおっしゃられた。
子貢さんが、やむをえず、この三つから一つを削るとすれば何を先に削りますかと問うと、孔子様は軍隊を去るとおっしゃった。
子貢さんが、やむをえず、この二つから一つを削るとすれば何を先に削りますかと問うと、孔子様は食料を去るとおっしゃった。
昔より、人は死から逃れられない。しかし、信頼がなければそもそも治世が成り立たない、とおっしゃった。
初めて論語を読んだときにはこの一文にびっくりしたものですが、こうして学問をしてゆくと孔子様はやはりすごいなと思う。マスコミなら人々をむざむざ飢えさせるわけにはいかない、とかわかったようなことを言いそうですが、そもそも政治が民衆から反して信頼関係がなくては治世がなりたたない。今の日本は当たり前が消えてなくなっているから、その当たり前がわからないだけです。いえ、皇室があるからその最後のタガが外れないだけともいえますね。別の国ならとっくの昔に消えてます。今の日本を一言でいうと、無難、でしょうかね。これを表す言葉も孔子様がおっしゃってますがまた今度にしましょうか。
死というものをごく自然のものとして受け入れる、東洋古来の死生観といえるでしょうね。だから『呂氏春秋』でも、「その未生に復るなり」死を、ただ、生まれる以前に帰るだけだ、というわけですね。さすが東洋の思想。死生観が無為自然であります。
それより、避けられない死をそこまで気にしても仕方ない。それよりは今の生をどれほど頑張って生きるか、にこそ重要性がある、ということですね。それよりも、六欲、好・悪・喜・怒・哀・楽をきちんとすることのほうが大切である、ということ。
好悪に関しては前回見てみたので飛ばすとしまして、喜怒哀楽というと、感情をきちんと表すということになります。こういう学問をして人間として成長すると感情をなくしてしまう、悪さをされても恨まない、怒らない、ということかと思ってしまいがちですがそうではないですね。
怒るべき時には怒る。「怒るべき時に怒らねば人として甲斐がない」と言った文豪もいますね。
これは王陽明先生の言葉を伺ってみましょう。
「天下の事万変すといえども、吾がこれに応ずる所以は喜怒哀楽の四者を出でず。これ学を為すの要にして、政を為すも亦たその中にあり」
天下の事、世界の事、これらは千変万化しようとも、わたしがこれに応ずる、対応する秘訣とはつまり、喜怒哀楽の感情から出てくる対処に過ぎません。これは、学問をする上での要であって、畢竟、結局、政治を行うもその基本はここにあるのです。
何を善とし、何を悪とするか、
何に怒り、何に悲しみ、何に喜び、何に楽しみを見出すか。
あるのはただ、そこにあるだけで、その見方、答えの出し方が変わってゆくだけで基本は同じです。
ただ、こういった君子は本質を失わないのに対し、小人はたやすく己が本質を喪失してしまうに過ぎない。
それを、『呂氏春秋』では迫生と言っているわけですね。君子と小人の別は論語にわんさかあるので気になった人は見てみるといいでしょう。
『自由』とは、自由があるかどうかとは、自分の中にあるその本質を守り抜いているか、軽薄に扱っておるか、の違いだということですね。
だから、昔の武士なら、生きるに値しないと思えたらあっさりと死ぬことができたのでしょう。生とは、己の信じること、信じるものをなすためにあるのであって、ただ無駄に生きるため、酔生夢死をなすためにあるのではない。そう考えた時、この現代日本で本当に自由に、生きている人はどれほどいるのでしょうね。
とはいえ、わたしもだからといってよし、生きる価値はないぞ、死ぬか。と自死する覚悟もないですけれどもね。まあ、わたしなんぞはそのうち仕事も住む家もなくなって飢えて死ぬ人生でしょうから、それが早いか遅いかの違いでしかないのでそれまでは好きなことして生きてやりますけれども。
そういう意味でいうと、わたしが、というか老荘思想家が昔から悪罵してやまない伯夷・叔斉も自由という観点でいうなら間違いなく自由の人です。伯夷・叔斉を知らない人のために説明しますと、伯夷が長男、叔斉が三男坊。ちなみに、名前に伯とつくと間違いなく長男で、叔とつくと三男坊なのだそうな。伯父、叔父、とどちらもおじといいますがこれを知っているとどちらが兄貴かわかりますね。ついでなのでwikiを見ますと、「伯・孟(長男)」「仲(次男)」「叔(三男)」「季(四男または末子)」「幼(五男または末子)」とありますね。五男坊が成人しても幼とかつくのはいやですね(笑)。
それはともかく、父王「亜微」が遺言で叔斉に王位を譲るように言われたとか。伯夷は遺言どおりに王位を譲ろうとしたのですが、叔斉は兄弟の序を無視して王位に就くなどできない、と伯夷に王位を嗣ぐように言うが、遺言を果たせないと困った伯夷は国を棄てて出奔。やがて叔斉も出奔してしまったので、次男坊の仲馮が王位を継いだ、とされるもの。
この二人を、その当時の人物である太公望も、孔子様も褒め称えた、とされますが昔から老荘思想家はこの二人が大嫌いで、わたしももちろん大嫌い(笑)。
何故なら、兄弟の序を重視して弟が王位を嗣ぐなどとんでもない、と拒否るのはまあ、いいとしても、結局、一番大事な遺言をないがしろにしてしまっていますよね。儒教においては親の遺言を守るのが孝行息子なはずで「親が死んで三年間親の行いを守れば考と言える」と孔子様もおっしゃっていますが、結局、出奔して遺言をないがしろにしてしまったわけです。で、しょうがなしに王位を次男坊の仲馮が嗣ぐわけですが、だったら最初っからその次男坊に継がせて二人で仲良く補佐でもしていればいいものを、国を棄て、民を棄て、兄弟を見捨て、遺言をないがしろにして、結局この国は滅亡してしまったとか。これで何で義の人なのかわたしにはさっぱりわからん。
古来、どうして老荘思想家が悪罵しているかといえば、国を棄てたとはいえ王子ですから他にも生きる道があったはずで、そういった道を選択せずに飢えて死んだのは己の生命を損なうものだ、というわけですね。おぎゃーと生まれれば絶対いつかは死ぬわけで、その天然自然の生と死に従えばよいものを、きちんとした教養もあった二人がむざむざと飢えて死ぬのは確かにそれが自然な生き方であったかどうかは疑問ですね。
とはいえ、自分の信じた道を突き進んで最後は餓死してしまったわけですから、自由という観点でみれば間違いなく、己の欲するままに生きたわけです。国を棄て、民を棄て、兄弟を棄て、親の意志をも棄て、その先にさらに己自身をも捨て去ったものであったとしても、己の信念を貫き通した。
自由とは、こういったものである、ということですね。己の中にある本質、純真に真摯に向き合う。己の内なる声に従う。それで飢えて死のうが、はたまたソクラテスのように恣意的な裁判に従容として刑死を選んだとしても、それで恨みごとは言わない。世をはかなんで他者を否定したりもしなければ、むき出しの悪意を他者にぶつけもしない。己の信念に従ったからであります。生きることそれ事態に重大な意味を求めず、己の信念にこそ意味を認める。自由とはそういった性質のものであると思います。
そういう風に考えてみますと、あの孔子様のお言葉、
「吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑はず。五十にして天命を知る。六十にして耳順ふ。七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず」
意味は前回の駄文を見ていただければわかるかと思いますが、つまり、七十にして心の欲するままに生きた。心の赴くままに生き、それがそのまま社会の規範やルールとぴたりと合致するようになった。これはすなわち、『呂氏春秋』でみた全生、己の生を全うした、という最上の『自由』を獲得しうるに至った、と解釈すると首肯できるものではありませんか。
己の生を損なうものでも、傷つけるものでも、軽薄に扱うものでもない。
『自由』という己の欲する、あるがままの生き方でありながら、己の生を全うされた。
そう考えますと、困難苦難の連続であったはずの孔子様の人生は、やはりそれは仰ぐべき、敬慕すべき人生であったということでありましょう。
『自由』とは、己の信念を突き詰めて「虧生」虧は欠ける、という意味。己の生を損ない、死に至る自由もあれば、「全生」己の生を健やかに全うするという自由もあるわけですね。
実は、そういう意味で世界的に最も「全生」を行ったのは間違いなく日本人であります。と、いうわけでここいらで日本の歴史をちょびっと振り返ってみませう。
まずもってよく言われるのが、古代日本に仏教が入ってきた時、日本には当然の如く神道という土着の信仰があったわけで、この新興宗教である仏教を受け入れるか否かで確かに騒乱も起こったわけですが、しかし何が驚くといってその仏教をまず取り入れたのは皇室である、という事実であります。
六世紀の欽明天皇の御世。
百済の聖明王が使者を派遣して仏典・仏像を献じたとされますが、それに若き聖徳太子はいち早く仏教を導入することを「十七条憲法」に宣言されているわけですが、そもそも天皇とは神道を祀る最高神官、あるいはシャーマンキングであります。
例えていうのならローマ法王のようなもの。そのローマ法王が、
「キリスト教もイスラム教もそもそも同じ神から派生してるんだし、どっちもありがたい教えなんだから両方拝めばいいんじゃね?w」
などと言えばどうなるでしょうね。
それこそ驚天動地の大騒動になるでしょうし、下手すればローマ法王は狂ってしまった!! とか大騒ぎする人間も一定数出てきてもおかしくないかもです。おおよその人間が、はいそうですか。と従容と受け入れるとは到底思えないですよね。
つまり、他者絶対不寛容。こそが世界の常識であり、これが宗教というものの性質でありますが、欽明天皇や聖徳太子はそれをやってしまった。しかし、それを日本人はありがたいこっちゃ。と従容として受け入れた。確かに蘇我入鹿、蘇我蝦夷の悲劇はありましたが、それも世界的な常識からすると国論を真っ二つに割るような大騒動とはなりえず、仏教と神道を両方ありがたがるという、宗教上で奇跡的な芸当を成し遂げました。
むしろ、日本人の感覚からするならば、同じ神から派生したはずのキリスト教とイスラム教が、どうしてここまで破滅的な対立をしているのか摩訶不思議といえますが、これが世界的な常識なので仕方がありません。はっきり言ってしまえば、畢竟、進化できない民族ども。と切って捨てることもできるでしょう。
そういう意味でいいますと、どんなものでも受容してしまう日本人ですが、キリスト教がそこまで浸透しないのも、この他者絶対不寛容の精神が日本人と本質的にあわないからであります。
『自由』という観点から見て、この他者絶対不寛容の民族性と、ありがたい宗教なら何でもありがたく拝んでしまうという民族性、どちらが自由かはいうまでもないでしょう。
そして次に見るべきが文化の受容であります。
日本は古来、チャイナから来たものは何でもかんでもうわばみの如く受容してきましたが、これも有名な話ですが絶対に受け入れなかったものがあります。そう、『宦官』と『纏足』ですね。
この二者を知らない人のために説明しますと、宦官とは王族の身の回りを世話する去勢した男性のこと。チャイナから始まってなんと世界的に普及したとか。どうして去勢したかと言えば、王族の身の回りの世話をするわけで当然女性王族との接触もあって、不義密通をさけるためにこういったことを行ったようですが、逆に言えば、去勢さえしてしまえば王族に仕えることができ、立身出世につながるということでかなりの人間が自ら去勢したとか。またこの宦官というのは去勢したことでホルモンバランスが狂うのか、非常に陰湿な、陰険な人物が多かったとかでこの宦官によってどれほどチャイナの歴史が暗澹たるものになったか計り知れないものがあって、チャイナの歴史書を読むといたるところで宦官の悪行を眼にすることができます。しかし、反対に立派な人物もいるそうですが、チャイニーズたちはこの宦官が国家に害をなす存在だと認識していながら結局チャイナから王族が滅びるまで続いてしまう。
纏足とは幼い女の子の足を縛って奇形にする風習のことで、その昔、足をぴんと伸ばした、今で言うバレリーナのような踊り子の足が大層綺麗であったことから自分の子供の足をそうさせるべく強制的に奇形にさせたというもの。強引に布などで縛ることから足が壊死し、強烈な痛みを発したそうですがこの風習は文化大革命まで続いたとかで、今でも纏足の人がいるとか。足が奇形になった女子は満足に歩くこともできず、当然、介護なしでは移動もできないから男にとっての所有物扱いでもあったとか。男尊女卑が激しいチャイナらしい風習といえるでしょうか。
つまり、つい最近まで行っていたわけで、チャイナのものと言えば唐物といって大層ありがたがった日本人が、この二者は絶対に取り入れなかったのも驚くべき事実であります。孝謙天皇に寵愛された道鏡のような人物があるように、宦官、去勢された男性というのも女性王族がおわす以上仕方のない方法のような気もしますが、それを断乎として拒絶した。
これも日本だけの特殊な事例ですが、日本人は古来、皇室に対して世界的に見ても特異といってよいほどに高い忠誠心を発揮し皇室に対して弓引くような人物はそれほど現れなかったのも、驚くべき事実であります。日本人だけが世界で唯一なしとげたという歴史的事実、しかもそれは過去の異物ではなく現代にまで至るものであり、今更ながらに驚嘆すべきことであります。
普通、文化的風習とか制度とかいうものは、それをむやみやたらとに礼賛する人物とか他国、敵国に籠絡された人物が現れ、その人物から徐々に伝播してゆくものですが、このチャイナとの長い付き合いの歴史でこの二者を全く受け入れなかったのは日本人の持つ、良いものは良いものとして認め、悪いものは悪いものとして拒絶する、奇跡的な鑑識眼に、後世の我々はご先祖様の慧眼に感謝する他はありません。
そして、仏教の伝来と同時に儒教や道教も日本に上陸するわけですが、その本場であるチャイナにおいていま現在ほとんど儒教は影響を発揮し得ず、またインドでは仏教は滅亡、儒教も仏教も、正統は我が国に在すると考えますとご先祖様の努力、学問の高さ、人格の高潔さに感嘆する他ありません。
そして、日本人の偉大さをさらに世界に知らしめた事件が明治維新であります。
白色人種に由る未開国に対する、体制派と反体制派の両陣営に武器と甘言をもって籠絡し、内乱と騒擾を惹起し、まんまと租借地と植民地とをもってする搾取と策謀を見事にはねのけ、我が国の崩壊の危機から救った明治維新に携わった維新の元勲の手腕も見事であります。
この白色人種の謀略によってどれほどの国と王族がこの地上から消えてなくなり、民族の誇りと独創が汚されたか計り知れません。そして実は、こういった白色人種による謀略の魔の手は戦国時代から始まっていたのでありますが、どれほどの方が理解されているでしょうか。
まず、侵略の第一は商人であります。
珍しい、舶来の文物を提供し興味を惹かしめ、第二に宣教師を送り込みます。
宣教師はただキリスト教の布教に来ているだけだと思うのは大間違いでありまして、その最大の目的はスパイ活動にこそ本懐があります。TVなどを見ておっても、戦国時代の話題となればスペインに残る宣教師が送った情報を見ることができますが、これこそスパイ活動の動かぬ証拠であります。こうしたスパイ活動を通して彼の国がたやすく籠絡できるか、征服できるかを見ておるのであります。さらにこの布教も大きな目的があります。それは、自分たちの手下の確保。反乱を行わせるための手駒の確保であります。さらにその支配者を籠絡すれば反乱はたやすくなりますので、珍しい舶来の品々を送りキリスト教を鼓吹するわけです。キリスト教王国を夢見たとされる大友宗麟などが有名でありましょう。布教にも大いなる意味があります。
そして、第三にいよいよ準備が整えば軍隊を送るのですが、日本以外のアフリカ、アジア諸国ではうまくいったこの三段構えの侵略計画は日本においては通用しませんでした。
それは、まず第一に日本人が優秀過ぎた、ということであります。
宣教師たちはこういったそうです。
「デウスこそが世界の唯一の正しい神にして、絶対者なのである」
と。その時、とある日本人はこう申したそうです。
「唯一の神なら、どうして今のいままで我々はそのデウスを知らなかったのだ? 唯一の神ならば大昔から知っていなければおかしいじゃないのか?」
と。宣教師たちは大いに悩んだそうであります。だから、日本に送る宣教師は最も優れたものを送れ、と言ったのもむべなるかな。
これ、東洋人は精神的に大いに進化した民族でありまして、さらに日本人は神道も仏教も拝んでしまうほどの精神性をもっております。こういった、素朴ながら核心に至る心をもっていたのでしょう。
さらに軍事力においても日本は精強です。
1543年9月23日、鉄砲が伝来します。その時、日本にやってきた火縄銃は二丁。一丁はただちに皇室に献上されるも一丁は分解し、構造を解析し、すぐさま量産に入ります。
なんと、それまでネジ、という概念すらなかった日本人は、たちまちのうちにこの画期的な兵器、火縄銃の構造を理解し、大量生産に入るわけです。
そして、1575年6月29日、長篠の合戦において織田信長公は日本で初めて組織的運用による鉄砲戦術によって戦国最強と畏れられた武田騎馬軍団を撃滅しました。
鉄砲伝来から約30年でこの未知のからくりを、組織における最高状態ともいえる軍隊で活用してみせたわけです。軍隊というのは、当然、己の命を使うわけです。しかも、負ければただちに国の滅亡に至る。そんな大博打ともいえるものに、未知のからくりを大量に運用できるだけの、知恵と胆力を持ち合わせた民族がどれほどいるでしょうね。
白色人種達が、イギリスだのフランスだのドイツだの、色んな国家が競争し情報を共有し、戦争という実験を繰り返して練り上げていった画期的な兵器である鉄砲を、たった30年ほどでほとんど独力で実用化せしめた。これは、世界的な常識から考えますと、遅いといえるでしょうか。信長公は本当に3000丁もの鉄砲を運用したのだろうか? とかいう人もいますが、数の問題ではないのは言うまでもないでしょう。
そして、戦国も末期ともなればかの関が原の戦いにおいて動員された鉄砲は三万丁とか。総数でいえば世界でも最強クラスだったそうな。
さらに、日本人を奴隷として販売する宣教師たちに太閤殿下は激怒。「バテレン追放令」に至りますが、これに異を唱える国はありませんでした。
しかし、千載一遇のチャンス(?)が訪れます。スペインが待ちに待ったであろう朗報。そう、待望の内乱の誘いです。
それは伊達政宗公によって。伊達正宗公は、「慶長遣欧使節団」を派遣し満を持して(?)一緒に江戸幕府を倒さないか、と持ちかけたとされます。しかし、すでにスペインは日本を征服できるかどうかなどとっくにわかっていたのか、この正宗公の使節団を相手にすることはなかった。
その当時、最強の植民地保有国であるスペインをもってしても、協力者が現れたとしても、日本征服を本気で実行にうつす気にさせなかったということでしょう。
そう、冷静に思えばこれもすごいことであります。
そして、日本は長い安眠の時代に突入するのでありますが、逆に言えば、世界は大航海時代以後の大植民地時代、弱者はたやすく殺され奪われるという時代にあって、300年近い安眠というのもすごいことと言えます。ですが、300年の日本の民力涵養から開国して一転、日本は世界の列強の一角に名乗りをあげるわけですから、さらに恐ろしいことであります。
そして日露戦争ともなれば日本の底力の爆発でありまして、例えば、その当時は黒色火薬が一般的だったのを無煙火薬をいち早く採用。無煙と言ってもまったく煙がでないわけではありませんが、それでも、もくもくと黒煙をあげ視界を妨げた黒色火薬よりは連射ができたそうで日本海海戦において有利に展開したそう。さらに勝利に大きく貢献したのが通称『下瀬火薬』で、これは今で言う爆裂焼夷弾。その当時の軍艦というのは帆船の親方のようなものですから、船腹からにょきにょき大砲を並べて撃ち合うというもの。その、船腹の隙間にこの『下瀬火薬』を用いた砲弾が突入しようものなら周囲は一面火の海となり、人的被害が甚大であったそうです。
そして、この戦闘報告を受けて、イギリスでは従来のこの帆船様式をやめ、いわゆる弩級、ドレッドノート建造に至るわけです。
さらに陸では当時、世界最強と謳われたコサック騎兵と戦うために日本の太平の世で劣った騎兵でどう戦うか大いに頭を悩ませたそうで、まともにこのコサック騎兵と伍して戦うなど不可能。ならどうするかといいますと、コサック騎兵を見たならただちに馬から降り、その当時の最新式銃である機関銃を撃ちまくったそうです。
まともに正面からぶつかっても勝てないなら柔軟な発想によって勝てる方法を考える。
今ならそりゃそうだろ、と言えるでしょうけど、コロンブスの卵と言うもので、その当時陸軍において騎兵というのはいわゆるエリートです。作戦において一番活躍し、一番戦果をあげるものであったわけです。その騎兵隊に、どうせ勝てないんだから降りろ。というのもすごい。まあ、騎兵隊の長い歴史の蓄積のない日本だからこそできたとえるでしょうか。
さらにすごいのが、ロシア革命をなしとげたのは日本である、というのも事実だそうです。
しかもそれを成し遂げたのはたった一人の日本人だそう。その名も、
『明石元二郎』陸軍大将。
その当時の国家予算で約100万円、今の価値でいうと400億円以上という巨額の資金を持って反政府組織に資金と武器を供出しロシア革命を惹起させたといいます。
そう、白色人種が散々やった内乱の誘発を、今度は日本人にしてやられたわけですから、白色人種の心胆を寒からしめたでしょうね。まあ、だからこそ、米国が二度と歯向かえないように日本人を骨抜きにしたのもわからなくはありません。それほどの恐ろしさを日本人は秘めているわけですから。
とはいえ、たった一人の軍人にここまで巨額の資金を融通できた、かつての日本の政治もすごいですね。
さらに日本の軍隊は規律正しく、その当時の軍隊の常識だった、略奪、破壊、暴行などをほとんど働かなかったそうで、この日本兵の高い練度と高潔な精神、いざ突撃となったら誰よりも勇猛に戦う死を畏れぬ勇敢さに、自分たちこそ世界の支配者と信じて疑わなかった白色人種も、大いに日本人を認めたわけで、だからこそ、日英同盟の結実と成ったわけです。明治の人たちは確かに偉大でしたし、わたしなんぞは到底真似できない努力をされた。ですが、この明治の方々の頑張りは、何も明治の方々だけの努力のみではなく、日本人とは、そもそも歴史的にそういった民族であると言っても、決して大間違いではないでしょう。こうして見ると、どれほど日本人が世界的にも類まれなる『自由』をもって世界にその名を轟かせたか。
日本男児と生まれたのなら、この明治維新から日露戦争を学ばないのでは日本男児として生きるに値しない、と、わたしは思っております。キリスト教徒が聖書を読むのが常識なように、日本でもそういった常識となればいいのですが。
ご先祖様がこの『自由』を発揮してくださったおかげでどれほど日本の歴史が救われたか、どれほど進化せしめたか、世界史において日本という奇跡的国家があったか。米国でバカうけ、とかいって何でもかんでもありがたがって輸入して報道しているどこぞの愚民どもとは人間の本質が根幹からして違います。そりゃまあ、米国の奴隷となって喜んでいる連中と一緒にされたらご先祖様も憤死ものでしょう。すでに泉下の方々ですけど。
古くはアメリカンクラッカーとか、フラフープ、スケボー、最近ならハンドスピナーとやらですかね。米国からどれほどの文物がこの島国に入ってきておるでしょう。さすがにわたしも何も考えてなかった子供の頃はアメリカンクラッカーならいじったことはありますけど、年食った今では見向きもしません。
そう言えばけん玉とかヨーヨーはどうなんだと思って調べてみると、けん玉の原型は世界に古くからあり、ヨーヨーに至っては紀元前500年の古代ギリシャにその原型があるとか。しかも、このヨーヨー、日本で大流行したとき、国会議事堂を警備する警察官が任務中に遊んでいてクビになったとか。何でも調べてみるものです。きっとわたしはこの警官と話が合うに違いないです。
たかがおもちゃに目くじら立てているとお思いでしょうが、こう想像してみるといいです。腰に二本の刀をさした侍がこういったおもちゃに熱狂するであろうか、と。時代が違うと言うなかれ。侍がこんな児戯を進んでするはずがない、と想像することができたのなら、つまり古来の日本人ならこういった児戯に見向きもするはずがない、という認識が自分の中にあるということなのです。
つまり、侍らしさとは何だろうか、と考えた時に、最初に見た、弓を引くも的を外したのなら生きていても仕方がないと死んで果てる、こういった潔さ、桜が散る如く、生に執着しないのが侍なのである、ということです。
そう思えることが日本人らしさ、ということであり、なら翻って今の現状が日本人らしいかどうか、を冷静に振り返ってみることも大事なことであります。
そう、振り返ってみた時に、ようやく、自分らしさとはなんだろうか、につながってゆくのであります。人間とはなんだろうか、とか日本人とはなんだろうか、とか根幹に帰ること、本質に思い巡らせること無く、ただちに自分らしさとはなんだろうか、につながると思ったら大間違いでありまして、こういった地道なしかして大事な原点回帰や歴史の勉強を通して初めて自分らしさというのが出来上がると思うのであります。
歴史を知らない今の日本人がどうしてこのような有様なのか、理解できたと思います。日本人が本当に歴史を学び、聖徳太子から連綿と続く儒教を始めとした学問ができたのなら、かつての日本人の威光を取り戻すことも、決して不可能ではないでしょう。まあ、%でいうとほとんど0に等しいでしょうけどね。
信じるか信じないかはアナタ次第です。というやつです。
日本の輝かしい歴史をほんのちょびっと見たところで、孔子様から『自由』というものを伺ってみましょう。
【子曰わく、君子は器ならず 】
孔子様はおっしゃられた。立派な人物は器ではない。
ここのにおける器、とは人間の器量とかそういった意味合いにおける器ではありません。この場合の器は、一つの用途に限定された、という意味で、いわゆる潰しが効かない、というやつです。金属というものは溶かしてしまえば別のものに作り変えることができますが、潰しが効かないということはそれができない。
一つの役割は果たせるが、それ以外の多くの用途には向かない。
君子たるもの、もっと自由に、色んな役目を受けられるべきだ。と孔子様はおっしゃるわけですね。そういいますと、孔子様も若い頃は貧乏されて、生活のために色々な仕事をされたそうですが、確かに、俺はこれしかできない、というのも『自由』という点でいうと不自由なのかも知れません。
伯夷・叔斉のように俺はこれしかできない、というのも確かに『自由』ですが、最初に見た、「全生」「虧生」「迫生」で言うとどちらがより優れた『自由』であるかはいうまでもないでしょう。
そういう意味で言いますと、この一文、
【子貢、問うて曰わく、賜や何如。子曰わく、女は器なり。曰わく、何の器ぞや。曰わく、瑚嗹なり】
子貢さんが質問されました。賜、このわたしはいかがですか、と。孔子様はこうおっしゃられた。
「お前は、器だ」
何の器ですか、と子貢さんが重ねと問うと、
「瑚嗹、国家や建国のご先祖様を祀るために使う大切な宝具だ」
と。
孔子様がおっしゃるこの、瑚嗹の器が、本当に褒め言葉なのかどうかは、大いに悩まされるところではありますね。まあ、孔子様はその人物によって適切な言葉を送られますから、この時の子貢さんには必要な言葉だったのかもしれませんね。
【子曰わく、疏食を飯い水を飲み、肱を曲げてこれを枕とす。楽しみまたその中に在り。不義にして富みかつ貴きは、我れに於て浮き雲の如し 】
孔子様はおっしゃられた。粗末な食べ物を食べ吸い物も何もなく、枕もないので己の肘を曲げて枕とする。そんな貧相な生活にあっても己の楽しみというのは確かにそこにあるものだ。道に外れた生き方をして金を稼ぎ、身分が高くなるのは、わたしにとっては浮かんだ雲のようなものだ。何の確かなものもなく、たちまちのうちに消えてなくなりかねない。
たちまちのうちに消えてなくなってしまった人がどれほどいるでしょうね。
これも六欲、好・悪・喜・怒・哀・楽をきちんと正しくすべし、という考えなわけですね。
どうしようもない下らない仕事や人物に我慢しながら、己の生活を守るためだけに従容として今日も従う。それが楽しいと言えるのならばそれもいいでしょう。それでいいでしょう。
孔子様はこうおっしゃっておいでです。
【匹夫もその志を奪うべからざるなり】
どんな下らない人物であっても、その根性を変えることはできない。
ちょいと前に「HIPの雄だ!」と素敵なことをおっしゃるアニメがありましたが、その匹夫ですね。
まあ、そのおかげでどれほどの人間が己すら救えずに滅んでいるか。神の視座からすれば噴飯ものでしょう。
【子、顔淵に謂いて曰わく、これを用うれば則ち行い、これを舎つれば則ち蔵る。唯だ我と爾と是れあるかな】
孔子様は顔回さんにおっしゃった。
「用いられれば相応に活躍し、クビになっても恨まずに隠遁できる。こんな時宜を心得たことができるのは、ただ、わたしとお前さんくらいだろうね」
人間、その立場や食禄を得るとどうしてもそこにしがみつきたくなる、維持したくなるものです。
以前の貧乏はいやだとか、以前の不遇はいやだ、名声を貶めるのはいやだ、権力を失うなどとんでもない。そうして、それを維持するためには何でもする。逆に言えばできないことなど何もない。人を殺そうが、嘘をつこうが他者を貶めようが何でもやる。
そうして六欲を失って「迫生」に至る。
こういう言葉もあります。何でも孔子様の弟子である子夏さんに教えを受け、有名な戦術家呉子を推挙したとされる春秋戦国時代の人物、李克曰く、
【居りてはその親しむところをみ、冨みてはその与うるところをみ、達してはその挙ぐるところをみ、窮してはその為さざるところをみ、貧してはその取らざるところをみる】
普段、誰と親しげにしているかを見る。
お金持ちになったら何を与えるかを見る。
達して、高位高官に上り詰めた時に、誰を挙用するか、推薦するかを見る。
困窮しても、為さざる、それだけはしないという行いを見る。
貧乏しても何でもかんでも取るのではなく、取らないところを見る。
素晴らしい人間観察です。
普段の人間付き合い、人付き合いを見ればその人物の程度などすぐに分かってしまいます。
だから昔からこういう言葉があるわけです。『悪党』と。党とは群れるという意味。悪はすぐにその仲間で群れる。しかし、『善党』という言葉はない。善人はそうそう群れない。
「君子の交わりは淡として水のごとし」で最上のもの、至れるものであってベタベタとだらしなく付き合わない。言葉を発するものも、受けるものも、きちんと言葉の本質を理解、把握できるからいちいち言葉を飾る必要も贅言を吐く必要もない。こういう交わりでありたいものです。
そして、為すところ、取るところではなく、為さざるところ、取らざるところをみるという。
つまり、その人物の最低限の誇り、尊厳を見る、とおっしゃるわけです。これも考えますと冷酷な、冷厳なお言葉です。
こういう言葉が言える李克さんは間違いなく全生の人だったのでしょうね。非命に斃れたとしても。
【子曰わく、寧武子、邦に道なければ則ち愚。その知は及ぶべきなり、其の愚は及ぶべからざるなり 】
孔子様がおっしゃられた。寧武子というものは国家が正しければ優れた仕事をするが、国家が間違っていればとんでもない愚者を演じられる。わたしとしては、その仕事ぶりは真似できると思うが、その愚者ぶりはさすがに真似しようとは思わないね。
愚を演じた人といえば、かの周の建国時、殷の紂王の暴虐を憂えた箕子という人が殺されることを恐れて狂ったふりをして奴隷になったとされます。
寧武子という人はそういうことができる人だったのでしょう。確かに、紂王によって無残な殺され方をされるよりは、演技でも狂って逃れられたいと思いますが、孔子様にそんな真似はできないようであります。
確かに、殷といえば2000年ほど前の国で、いまだにそんな時代で生きた人物が愚を演じた、と残っているわけですから、どうせ死ぬにきまっているのにそんな真似をして己の令名を傷つけたくない、と思うのも仕方ないでしょうか。
わたしも飢えて死ぬならおとなしく死にたいですけど、腹が減りすぎて腐った物食べて、色んなものを垂れ流しながら死にたくはないですねぇ。
【子曰わく、これを道びくに政を以てし、これを斉うるに刑を以てすれば、民免れて恥ずることなし。これを道びくに徳を以てし、これを斉うるに礼を以てすれば、恥ありてかつ格し 】
孔子様はおっしゃられた。民を善導するのには正しいまつりごとを行うべきです。だからといって法律や厳しい罰則をもってしようとすれば民衆はバレなきゃいいだろうと、罪を犯すことを恥じることもなくなってしまうでしょう。
正しく徳や仁により、人々を敬ってまつりごとを行えば民衆は自分たちがきちんと扱われていることを感じ、ありがたく思って罪を犯すことを恥ずかしく思うでしょう。
システムや法律に本当の『自由』はない。
当たり前のことですが今の時代にはそんなことさえ分からない有様です。
本当の『自由』とはそこに尊厳があって、誇りがある。譲れない意志があるものです。為さざるところ、取らざるところがあるものです。
孔子様はそういった、人間にとって本当に大事なこととはなにか、ということ常々おっしゃられたわけです。とはいえ、こう言わざるを得ないのが現実でありまして、
【子曰わく、これ如何、これ如何といわざる者は、吾れこれを如何ともすることなきのみ 】
自分をどうすればいいだろうか、どうすればもっと良くなるだろうか、と考えもできないものはわたしでもどうにもならん。
洋の東西に聖人が四人もいらっしゃって、それでも世界がこんな有様なのは、自分の『自由』すら満足に求めることができない人々だらけだからであります。
最後に、『自由』という言葉でこういう童話を思い出しました。
「アリとキリギリス」
あの「アリとキリギリス」のお話の内容は、本来は遊び呆けてばかりのキリギリスに対して、きちんと真面目に働き蓄えをしたアリは冬が来ても乗り切れたというお話です。蓄えもないキリギリスは死んでアリのエサに成り果てたというお話でありますが、これを『自由』という観点でみると違った見え方ができるのではないかと思います。
確かに、キリギリスは遊び呆けて、己のしたいことだけをして死に果てました。放蕩者です。
しかし、アリの巣をじ~っと見たことがある人は知っているでしょう。
アリは、確かに勤勉に働いていますが、しかしその中で、もし負傷してしまったらどうなるか。傷ついたアリを巣に引きずり込もうとするアリを見たことがある人はいるでしょうか。傷ついたアリ、それは、もはやエサなのです。仲間のアリであっても傷ついたアリはエサとして認識されるのです。
アリの社会とは、その実恐ろしく機械化された画一的世界なのであります。
だから、アリの女王、と我々は呼んでいますが実はそうではなく、アリの女王は女王ではなく、子孫繁殖マシーンなのであります。ただただ子供を産むだけのマシーン。だから、オスの精子がつき子供が産めなくなってしまった女王はたちまちのうちに殺されその巣からメスが飛び出し新たな子孫繁殖マシーンになるのです。そう言いますと、かの物語「新世界より」をアニメでみて衝撃を受けたのをいまだに覚えております。まあ、ナリがナリだったので衝撃的だったのですけど。
そう見た時に、アリの世界にここでいう『自由』がほんの少しでもあるでしょうか。
遺伝子を残し、種を繁栄させる。
確かにそれも大切ですが、だからといってそこまでシステム化された世界で生きてどれほど楽しいでしょうね。もちろん、アリにそんな楽しいなんて概念すらないでしょうけど。
少なくとも、人間には楽しい、という感情があるわけです。あるはずなわけです。
好・悪・喜・怒・哀・楽。
己の大切な『自由』を守るためにどれほどの人が奮闘しておられるでしょうね。
まあ、アリのように感情も思考もなくしてしまった人には、「これ如何、これ如何といわざる者は、吾れこれを如何ともすることなきのみ」なわけですが。
わたしは100%間違いなくキリギリスの方であって、冬が来たら飢えて凍えるのを待つばかりですが、アリとして生きるよりは、まあいいかなと思う次第であります。では、『自由』というものを少しは語り得た気もしてきましたので、本日はこれにて。
したらば。