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『善の研究』を読んだ。十三の巻



 おこんばんはです。豊臣亨です。


 生きてますw


 いや~、およそ8年ぶりに大航海時代に復帰したら、浦島太郎なのは当然としても、あまりにも未知の情報が多すぎてついていくのにいっぱいいっぱいで一生懸命やってますた。オフラインにはオフラインの楽しみはありますが、やっぱオンラインはいいですねぇ。かつての賑やかだった頃とは雲泥の差の過疎っぷりですが、それでも懐かしい仲間と やいのやいのいいながらゲームするのは楽しい。¥6,000ほど月額課金がかかりますが、復帰したからにはしばらく続ける予定でおじゃります。


 ただ、わたしが大好きだった対人はほぼ終わりましたね。いや、終わってないけど。


 月額課金制のくせして、さらに課金アイテムが登場したのは企業体としては仕方がないにしても、課金船に、課金装備と、課金を前提に戦術が生まれているので課金してない勢はお呼びでない。一見さんお断り。ノーキン勢の動画見ましてもかつての対人戦闘とは別次元の戦闘模様でして、もはやついていけない状況です。課金してでも対人で勝ちたい人はたくさんいるでしょうが、わたしは月額課金以上に課金してまでゲームする気はないっす。そこまでするくらいなら買い切りのゲーム買うっちゅ~ねん。



 まあ、ゲームのお話はともかくとしまして、高市政権が爆誕して以降、日本の情勢は劇的に変化を遂げていますね。これにはびっくり。


 わたしは正直、悪の巣窟と化してしまった自民党なんてとっとと離党して、高市新党打ち立てたほうがよほど建設的だと思ってました。しかし、小泉が自爆に自爆、自滅を重ねたことによっていよいよ党員も高市支持に舵を切ってしまい、そこからがもう映画的な展開でしたよね。


 トランプは会いに来るわ、左翼どもは発狂して誰が敵なのかをいよいよあからさまにする始末だわ、現在進行系の中共外交部の大喜利につながるわ、諸外国は強い日本が戻ってきた、と歓迎ムードだわ、劇的すぎて特異点を超えましたね。これは世界的情勢ともいえますが、今の日本はあまりにも左翼勢力が幅を利かせて日本軽視、日本人蔑視をしまくるから、いよいよ日本人の堪忍袋の緒が切れた、と言えるでしょう。立てよ国民! といったところでしょうか。いくら世界一おとなしい日本人と言っても、生死に関われば当然怒るのだ、という、まあ当たり前のことなのですが、それでもただやられるだけではないというのを見せただけでも、潮目は変わった気はします。


 これは離党しないで自民でやってたほうが良かったということでしょうね。まあわたしとしましては、自民を離党して参政党などを糾合し、自民をぶっつぶす高市総理、というのもみてみたかった気はしますが、まあ歴史的に見ても自民を離党して成功した人って知らないので、やっぱ居残って正解だったということでしょうね。


 とはいえ、これは来年のお話にするつもりですが、来年は干支的にもよろしくない星回りなので、せっかく生まれた高市政権、日本ファースト運動にに余計なミソがつかないとよいのですが。



 あと、最近読んでる、面白いなろうのご紹介でも。


 最近読んでて、お、と思ったのが、




『バスタード・ソードマン』




 ですね。


 この思い切りの良い、なろう臭さのないタイトルがよいw なろうというと とかく、ザマァします! とかイタイ文言をタイトルにつけたがるので読む気が失せるのが少なくないですが、やっぱラノベはこれくらいすっきりしたタイトルがいいんですよw


 そして中身ですが、79話まで読んでみた感想ですが、実に文章がこなれてていいですね。わたしもこれに関しては偉そうに人のことは言えませんけど、筆致がたどたどしいのは読んでてもきついのですが、このバスタード・ソードマンは実に軽妙に文章がすすんでいるのでめちゃくちゃ読みやすいです。


 そして、ちょっと無職転生っぽいところもあるので、実に笑わせてくれますw どこと取り上げなくても読んでみればすぐにわかるので、気になった人は読むと良いですw


 次に重要なのが、作者さんはどうやらイジめられっ子ではないようですw いかにも陰キャなイジめられっ子特有の、ジメジメとした、ザマァしたくてうずうずしているような、程度の低い文章も、主人公も、キャラも、この作品ではでてこないですw これは本当に重要w 最重要w


 お次に、主人公はどうやら異世界転生特典で、どうやらチート能力をもっている、らしいですw 79話読んだ時点ではまだ未開示w これも面白い。すぐに能力を明らかにすることなく じらす作戦。にくいw さらに、なろうといえば冒険者ギルドでも高ランクを目指す作品が多いですが、これはスローライフな作品であり、長年銅級冒険者のまま進級をこばみ続けています。それは、ランクがあがれば面倒事に巻き込まれるから、というもの。なんでといえば、銅級冒険者は戦争で戦わなくてもよいから、ですね。理由にもきちんと整合性があって実に小気味よいw 


 さらにでいいますと、よくある現代知識無双も、主人公はしない。なぜかと言えば、これも面倒事に巻き込まれるから。じゃあどうするか。知識を寄付する。匿名で商品化の知識だけを周囲にばらまいて、発案者の権利だの商売の権益だの一切かかわらない。徹底しております。その分、当然貧乏ですが、ソロの冒険で活躍して小金を稼ぎその小金で出来上がった新商品を買う。素晴らしい。


 これだけ聞きますと、アニメ化まったなし。という感じですが、この作品はそれはないと思いますw 何故か。


 それは、けっこう えげつない下ネタぶっ込んでくるからw


 無職転生でも、ルーデウスがパンツを頭から被ってただけでも非難が巻き起こったというくらい、昨今はエロ方面が厳しいですが、この作品はそんなレベルじゃないですw 読めばわかりますw


 なので、わたしのようなおっさんが読むにはちょうどよいなろう作品なので、非常にオヌヌメですw



 では、そろそろ『善の研究』を読んだ。十三の巻。参りましょう。 p369




<span style="font-size:large;">第十三章 完全なる善行</span>




「善とは一言にていえば人格の実現である。これを内より見れば、真摯なる要求の満足、すなわち意識統一であって、その極みは自他相忘れ、主客相没するという所に到らねばならぬ。


 外に現れたる事実としてみれば、小は個人性の発展より、進んで人類一般の統一的発達に到ってその頂点に達するのみである。この両様の見解よりしてなお一つ重要なる問題を説明せねばならぬ必要が起こってくる。内に大なる満足を与うるものが必ずまた事実においても大なる善と称すべきものであろうか。すなわち、善に対する二様の解釈はいつでも一致するであろうかの問題である。


 余はまずかつて述べた実在の論より推論して、この両見解は決して相矛盾衝突することがないと断言する。元来、現象に内外の区別はない。主観的意識というも客観的実在界というも、同一の現象を異なった方面より見たので、具体的にはただ一つの事実があるだけである。


 しばしばいったように世界は自己の意識統一によりて成立するといってもよし、また自己は実在のある特殊なる小体系といってもよい。仏教の根本的思想であるように、自己と宇宙とは同一の根底をもっている。否ただちに同一物である。この故に、我々は自己の心内において、知識では無限の真理として、感情では無限の美として、意志では無限の善として、皆実在無限の意義を感ずることができるのである。


 我々が実在を知るというのは、自己の外の物を知るのではない、自己自身を知るのである。実在の真実美はただちに自己の真実美でなければならぬ。しからば、何故にこの世の中に偽醜悪があるかの疑いが起こるであろう。


 深く考えてみれば、世の中に絶対的真実美というものもなければ、絶対的偽醜悪というものもない。偽醜悪はいつも抽象的に物の一面を見て全貌を知らず、一方に偏して全体の統一に反する所に現れるのである(実在第五章においていったように、一面より見れば偽醜悪は実在成立に必要である。いわゆる対立的原理より生ずるのである)。


 アウグスチヌスに従えば、元来世の中に悪というものはない。神より造られたる自然はすべて善である、ただ本質の欠乏が悪である。また、神は美しき詩の如くに対立をもって世界を飾った、影が画の美を増すが如く、もし達観する時は世界は罪を持ちながらに美である」




 一人の人間の完成こそ、一言にして、善であると言っても、決して過言ではないでしょう。


 これをその人の内面から見れば、真剣な成長の完成、すなわち雑然とした、幼稚な精神の擺脱(はいだつ)・解脱であって、その究極に心仏衆生是三無差別という悟りの境地に到らねばなりません。


 これを外面からみれば、小にいえば自分自身の完成であり、大にいえば民族精神の勃興といえるでしょう。このふたつを見比べておりますると、ここに重要な問題を説明しないといけない必要がでてきます。すなわち、心に満足を与える教えなどがあったとして、それは必然的に事実として善といえるものであるのか、個人の完成と民族の発展は、どっちも善と言えるのか? という問題であります。


 わたしはすでに申しておりますように、事実に照らし合わせてこのふたつは決して矛盾撞着(どうちゃく)するものではないと、断言できます。そもそも、現象に内外の区別はありません。


 主観的な意識というも、客観的な事実というも、同じことを別々の視点で見ただけのことであり、真実はいつもひとつであります。じっちゃんの名にかけて。


 しばしば言いますように、この世界は人々の意識の統一、悟りによって成立するといってもよいですし、またわたしは、世界を特別に象徴した存在と言ってもよいのです。


 仏教の本質でもあるように、わたしと宇宙とは、本質が同じであり、いえ、わたしと宇宙は同じものであるというべきでありましょう。だからこそ、われわれはわれわれの心のなかで知識としては無限大の知識として、感情では無限大の美として、意志としては無限大の善として、皆がただちに無限の宇宙と同化できるのであります。


 われわれが真実を知る、というのは、なんのことはありません。己自身を知ることなのです。世界が美しいというのは、すなわち自分の美しさでなければなりません。そして、そう考えてみますと、何故、この世界には悪があるのかという疑問となるでしょう。


 深く考究すれば、この世界には完全なる真実美というものもなければ、完全な偽醜悪というものもありません。偽醜悪は、いつも具体性に欠け、物の一面を見るだけで全体を知らず、一方にこだわって融通を失ったものなのであります。


 アウグスティヌスに従えば、元来世の中に悪というものはありません。デウスによって造られたこの世界はすべて善であります。ただただ、本質を理解できないことが悪であります。もう少し言えば、デウスは美しき詩の如く、悪があるからこそ善が際立ち、地獄があるからこそ天国が引き立つのであります。もう少し達観して言えば、悪があるということは、ただちに善もすぐそばにあるのであります。




 といったところかな?


 ちなみに、真実美、偽醜悪、というのは三宅雪嶺の『真実美日本人』『偽醜悪日本人』という書物から来ているようです。急速に欧米化してゆく日本にあって、このまま欧米人の成れの果てとなることは本当に正しいことなのであろうか? 美しいことなのであろうか? いや、本来日本には日本にしかない美質、本質があるわけで、われわれはそれにのっとって生きるべきなのではないか? という問いが真実美なのだそうな。実に満腔の共感を感ずるお話でありますw なので、同時に、こうしてハイカラにかぶれた、今で言いますと何かと横文字で言いたがるくせに、そのくせその意味を理解していない奴だとか、SDGsなどとそれっぽいことをいっておれば社会正義にのっとっておるかのように錯覚するだけの中身がない奴だとか、そういう愚民どもに対する白眼視が、偽醜悪のようですね。お気持ち、拝察いたしますw 今度見つけたら本を読みたいと思いますw


 そして、それに対し、キタロー氏は、色即是空、空即是色じゃね~の? といってくるわけですね。


 別の言い方をすれば、「善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」とも、言えるでしょう。


 わかりやすく言いますとw 悟りに至るほどの修行を積むのが人間にとって最大の善、最上の善であるといえるのならば、もはやその境地にまでいたれば、善も悪も、すべてひっくるめて心仏衆生是三無差別で包摂できるんじゃないか。と言っているわけです。


 もう少しいいますと、汝の敵を愛せよ。と言っておるわけです。キタロー氏は。


 これは実にありがたい、まるでイエス・キリストのような、実に達観した、究極の人類愛といってよいでしょう。あったかいお話であります。しかし! 勘違いしてはいけません。この考えは、今いったように、キリストぐらいしか実現できない究極の人類愛なのであります。


 これを今の世界情勢に照らし合わせると、中共が、善隣運動だの平和主義だの言ってるのと大差ありません。マスゴミが、漢人旅行者がいなくなるのは経済的にも大打撃なんじゃないですか、とか、外国人差別になるんじゃないですか、とか言ってるのと大差ないのであります。


 敵が事実として敵対的行動をとっているのに、仲良くしましょうとか友好とかほざくのは利敵行為でしかありません。そんなにいうならマスゴミどもが漢人と結婚して中華で暮らせよ。と言うべきであります。


 理想はあくまで理想であって、現実は眼前にある問題なのです。人間は刺されればそっこうで死ぬ程度の貧弱な生命でしかありません。まずもって現実に対処できなきゃ大げさな理想を掲げたところで、むしろ利敵行為でしかないのです。明治の日本ならいざしらず、今の日本においてキタロー氏の涙ちょちょぎれる御高説は現実をはるかに乖離した夢遊病者の寝言の如きものでしかない。それができるのは本当に悟りに到った聖人君子だけである、ということは理解すべきでありましょう。いえ、キタロー氏がイエス・キリストに比肩しうる聖人であれば問題はないんですよ。……キタロー氏がキリストと匹敵? ウケる。では次。p371




「試みに善の事実と善の要求との衝突する場合を考えてみると二つあるのである。一つはある行為が事実としては善であるがその動機は善でないというのと、一つは動機は善であるが事実としては善ではないというのである。


 まず、第一の場合について考えてみると、内面的動機が私利私欲であって、ただ外面的事実において善目的に合うているとしても、決してそれが人格実現を目的とする善行とはいわれまい。我々は時にかかる行為をも賞讃することがあるであろう。しかし、そは決して道徳の点より見たのでなく、単に利益という点より見たのである。道徳の点より見れば、かかる行為はたとい愚かであっても己が至誠を尽くしたものに劣っている。


 あるいは、一個人が己自身を潔うする一人の善行よりも、たとい純粋なる善動機より出でずとするも、多数の人を利する行為の方が勝っているというのでもあろう。しかし、人を益するというにもいろいろの意味があって、単に物質上の利益を与うるというならば、その利益が善い目的に用いらるれば善となるが、悪い目的に用いらるれば反って悪を助けるようにもなる。


 また、いわゆる世道人心を益するという真に道徳的裨益(ひえき)(利益となること)の意味でいうならば、その行為が内面的に真の善行でなかったならば、そは単に善行を助くる手段であって、善行そのものではない。たとい小であっても真の善行そのものとは比較できないのである。


 次に、第二の場合について考えてみよう。動機が善くとも、必ずしも事実上善とはいわれないことがある。個人の至誠と人類一般の最上の善とは衝突することがあるとはよく人のいう所である。しかし、かくいう人は至誠という語を正当に解しておらぬと思う。もし至誠という語を真に精神全体の最深なる要求という意味に用いたならば、これらの人のいう所はほとんど事実ではないと考えられる。


 真および美において人心の根本に一般的要素を含むように、善においても一般的要素を含んでいる。ファウストが人世について大煩悶の後、夜深く野の散歩より淋しき己が書斎にかえった時のように、夜静かに心平らなるの時、おのずからこの感情が働いてくるのである。


 我々と全く意識の根底を異にせるものがあったならばとにかく、すべての人に共通なる理性を具した人間であるならば、必ず同一に考え同一に求めねばならぬと思う。もちろん、人類最大の要求が場合によっては単に可能性に止まって、現実となって働かぬこともあるであろう。しかしかかる場合でも要求がないのではない、おおわれているのである、自己が真の自己を知らないのである」




 思考実験として、善の事実と、善の要求とが矛盾する場合を考えてみますと、ふたつほどあるかと思います。

 

 ひとつはある行為が、事実としては善でも動機は善ではない場合。


 もうひとつは動機は善だが、事実が善ではないという場合。


 まず最初のひとつめ。動機が私利私欲によってそれがなされ、結果として善になったとしても、人間完成からみれば、それは決して善とは言えないでしょう。歴史的に見ますと、こういう行為をたたえることがあるでしょう。ですが、それは決して道徳の観点からたたえるのではなく、利益の観点からたたえるのであり、そんなものでは至誠とはいえません。


 もしくは、自分自身の善行より、動機が私利私欲であったとしても、全体の利益になるのならばそっちのほうがよいというのもあるでしょう。ですが、利益にもいろいろありまして、単に物質的な利益になるというのならば結果次第といわねばならないでしょう。


 また、世の中の道徳心に功徳あるという観点で考えるなら、動機が善でないのならば、やっぱそれは善行ではないのであります。


 では第二はどうでしょう。動機が善にもとづいても、結果は悪ということはあります。そしてそれを、その人の善意と公共の善が必ずしも一致しないとは、よく人々のいうことでありますが、しかし、それは至誠という言葉を真に理解していないのではないでしょうか。もし、至誠という言葉を民族精神全体のもっとも根本義として見た場合、こういう人のいうことは真実ではないと考えられます。


 真、及び美において、人々の心の根底に一般的要素があるように、善においても一般的要素があります。ファウストが世界について懊悩した後、夜中に書斎に帰宅した時のように、夜中の静寂に心が落ち着く時、自然とこの感情が沸き起こるのです。


 われわれとはまったく別の民族であったのならばともかく、真っ当なる人間ならば、必ず同じ善を共有できると思います。もちろん、人類普遍の目的が、単に理想にとどまって、現実には無力なときもあるでしょう。しかし、それはそういう向上心がないのではありません。まだ真実を知らないだけであります。




 なのかなぁ………。


 頭の天辺からしっぽにいたるまであんこ、じゃない抽象的なお話がぎっしりで何言ってるのかさっぱりわからなかったw 「善の事実と善の要求の衝突」、とか、なんだろう、このそこはかとない徒労感。知り合いの、これ絶対意味ないよなって話に付き合ってる感じがすごいw この前に、「我々が実在を知るというのは、自己の外の物を知るのではない、自己自身を知るのである」ってけっこう壮大な話ししてたのに、落差がえぐいw いわゆる最近はやりの、温度差で風邪引くわ、ってやつw 安心してください。風邪ならもうひいてます。なのでお次。p373




「右に述べたような理由によって、我々の最深なる要求と最大の目的とはおのずから一致するものであると考える。我々が内に自己を鍛錬して自己の真体に達するとともに、他おのずから人類一味の愛を生じて最上の善目的に合うようになる、これを完全なる真の善行というのである。


 かくの如き完全なる善行は一方より見れば極めて難事のようであるが、また一方より見れば誰にもできなければならぬことである。道徳のことは自己の外にあるものを求むるのではない、ただ自己にあるものを見出すのである。世人は往々善の本質とその外殻とを混ずるから、何か世界的人類的事業でもしなければ最大の善でないように思っている。しかし、事業の種類はその人の能力と境遇とによって定まるもので、誰にも同一の事業はできない。しかし、我々はいかに事業が異なっていても、同一の精神をもって働くことはできる。


 いかに小さい事業にしても、常に人類一味の愛情より働いている人は、偉大なる人類的人格を実現しつつある人といわねばならぬ。ラファエルの高尚優美なる性格はただに聖母においてのみではなく、彼の描きしすべての画において現れているのである。たといラファエルとミケランジェロと同一の画題を択んだにしても、ラファエルはラファエルの性格を表しミケランジェロはミケランジェロの性格を表すのである。美術や道徳の本体は精神にあって外界の事物にはないのである」




 いま申したような理由により、われわれのもっとも熱烈なる向上心と、その目的は、自然と合致するものであると考えます。われわれが自分自身を向上せしめ、自分の本当の姿を達成すると同時に、それはひいては全人類すべてに対して愛を感じるようになるのであります。これを完全な真の善行といいます。


 こういった、完全なる善行は、一見すれば極めて難しいことのように思えるでしょうが、しかし、もう一方の視点をもてば、これは全人類がやがて獲得すべき聖なる事業であります。


 道徳とは、財産や地位や名誉のように、外にあるものを求めることではありません。ただただ、自分の中にある、本当の自分を磨き上げることなのであります。世の中の人は、おうおうにして、善の本質と歴史的出来事を一緒くたにして扱うから、何やら偉業でも打ち立てなければ褒められるべき善ではないと思っています。ですが、その人、その人がなすべき善とは、その人の能力や性格、生まれや生活環境によってぜんぜん個人差があるべきものであり、みんな一緒のことをする必要性も、しなければいけない必要性もありはしないのであります。そして、やっていることは個々それぞれ個性があっても、その精神性は同じであるのであります。


 それがどれほど些細なことであっても、常に人々のために働ける人は、人類向上のための一助となっているというべきであります。ラファエロの性格は、彼の描いた聖母にのみ現れているのではなく、彼の描く絵画すべてにおいて現れているのであり、それは同様、ラファエロにしてもミケランジェロにしても同じことであります。


 美術や道徳の精神は、やはり本人にあるのであって、作品にそれを伺うことはできてもそれは本体ではないのであります。




 急にわかりやすくなったw あと、タイトル回収w


 ここにおけるキタロー氏の発言はすべて正しいと思いますw 


 悟りも同じことでありまして、悟りとは、なにやらすごい奥義だの秘儀だのを会得することだと思っている人もいるでしょうが、そうではなく、世界と自分を正しく理解することであります。そして、それを理解すると、そんなことをすべての人々に理解させることなど、ほぼほぼ不可能であることがわかるのであります。


 今、世界で生きているすべての人々が求めることは現世利益であり、安楽な人生なのであります。


 しかし、世界の本当はそんなところにはなくて、ある種、冷淡な、残酷な、しかして揺るぎない絶対的なところにあるのであります。はっきり言いますと、結局のところ、人は、自分しか救えません。自分以外の誰も救えませんし、救う必要もないのであります。人生において、救うべきは自分だけであり、自分のことは自分でなんとかしないといけないのです。自分さえ救ってしまえば、あとは知ったこっちゃないのです。


 世界がどうなろうと、世の中がどうなろうと、それは自業自得。因果応報なので、どうしようもありません。したくても、できる道理がないのであります。因果応報に喧嘩売りたいなら好きにすればいいですけど、この世そのものと戦っても得るものは何も無いでしょう。


 お釈迦様が、妻子を捨てて悟りの道を求められたのも、釈迦国が滅びたのに、何も介入されなかったのも、そういうことであります。人助けは尊いことですし、ありがたいことではありますが、しかして、本質を決して見誤ってはいけません。自分は、自分のためだけに生きているのだ、ということを。そうして、自分自身の人生を自分自身のために生きる、と考えた時に、「高市総理の存立危機事態発言は撤回すべきなのではないですか」などと中共の肩をもつ左翼マスゴミのごときは、すでに人生の100%が無駄であるということがわかるでありましょう。ではお次。p374




「終わりに(のぞ)んで一言しておく。善を学問的に説明すればいろいろの説明はできるが、実地上真の善とはただ一つあるのみである、すなわち真の自己を知るというに尽きている。


 我々の真の自己は宇宙の本体である、真の自己を知ればただに人類一般の善と合するばかりでなく、宇宙の本体と融合し神意と冥合(みょうごう)(めいごう)するのみである。宗教も道徳も実にここに尽きている。しかして、真の自己を知り神と合する法は、ただ主客合一の力を自得するにあるのみである。しかして、この力を得るのは我々のこの偽我を殺し尽くして一たびこの世の欲より死して後(よみがえ)るのである(マホメットがいったように天国は剣の影にある)。かくの如くにして始めて真に主客合一の境に到ることができる。


 これが宗教道徳美術の極意である。キリスト教ではこれを再生といい仏教ではこれを見性(けんしょう)という。昔ローマ法皇ベネディクト十一世(1240~1304)がジョットー(1266~1337。イタリアの画家、建築家。近代絵画の祖)に画家として腕を示すべき作を見せよといってやったら、ジョットーはただ一円形を描いて与えたという話がある。我々は道徳上においてこのジョットーの一円形を得ねばならぬ」


 


 最後に申し上げます。


 善というものを学術的に解釈すればなんとでも解釈はできるでしょうが、この世界において本当の善はたったひとつであります。それはすなわち、汝自身を知れ、の言葉通り、自分自身を知ることであります。


 われわれの本質とは、この宇宙であります。本当の自分を知れば、人類普遍の善と一致するだけではなく、宇宙そのものと一体となり、神々の意思とも合致するのであります。宗教というも道徳というも、目指す先はここであります。


 ですが、本当の自分を知り、即身成仏するの法は、主客一致の力を自得するのみであります。ですが、この力を得るためには、我欲や我執、執着などを滅し尽くした、真心のみの自分自身となった後であります。そうしてようやく、主客合一の境地にいたるのであります。


 これこそが、宗教、道徳、美術の極意であります。


 キリスト教ではこれを「再生」といい、仏教では「見性」というのであります。昔ローマ法皇ベネディクト十一世が、ジョットに、言うだけの力を示せと申し渡したところ、ジョットはただ、たったひとつの円形を描いて渡した、というお話があります。われわれは、道徳上においてこのジョットの円形を獲得せねばならぬのであります。





 ああ、極意とか言っちゃうんすかw そっすかw


「何か世界的人類的事業でもしなければ最大の善でないように思っている」とか言っておきながら、極意とか言っちゃうんすかw そっすかw


 あと、ジョットの一円形を得ねばならない、とか言っちゃうんすかw そっすかw


「事業の種類はその人の能力と境遇とによって定まるもので、誰にも同一の事業はできない」とか言っておきながら、ジョットの一円形を得ねばならない、とか言っちゃうんすかw そっすかw


 キタロー氏もええこと言う時はええこと言うんですが、ダメな時はほんとダメだなぁw 落差がでかすぎて耳キーンなるわw 最初の方で、


「仏教の根本的思想であるように、自己と宇宙とは同一の根底をもっている。否ただちに同一物である」


「世人は往々善の本質とその外殻とを混ずるから、何か世界的人類的事業でもしなければ最大の善でないように思っている」


 とか言ってるんだし、だったら極意とか言うんなら、日常即極意、極意即日常、くらいは言えないとw 


 何気ない日常の延長にこそ極意はあるのであり、日常から離れて極意はない。いうなれば、本当の極意とは日常なのである。世上、人々は何やら自分を乖離した、遊離した、はるか遠方に極意や神意があるように思っていますが、それらは他でもない、自分の心のなかにちゃんといるのであります。そして、それを気づく心を、自分自身を作り上げる。それこそが極意と言ってもよい。


 これは何もわたし一人が言っていることではありません。大昔から言われていることであります。


 有名なのはやはり、『趙州洗鉢じょうしゅうせんぱつ』でしょう。これは、中華は唐の時代の、趙州禅師のお話ですね。中華では、唐とか宋の時代は化け物みたいな偉大な禅僧がわらわらいますw それはともかく、この趙州和尚のもとに、若い小僧さんがやってきて、ここにご厄介になって右も左もわかりませんが何をすればいいですか? みたいなことを聞いたようです。そうすると、趙州禅師は、


「朝ごはんは食べたか?」


 と聞くわけですね。すると、小僧さんは、


「はい、いただきました」


 と答えます。趙州禅師は、すかさず、


「お茶碗をちゃんと洗うように」


 と言ったとか。そして、それを言われた小僧さんは、ハッと悟ったのだとか。


 これで悟る小僧さんも只者じゃない気がしますけどねw わたしなら、チッ うるせ~な分かってんだよ。とか内心思ってしまいそうですが、小僧さんはすごく素直な性格だったようですw 


 それはともかくとしまして、朝ごはんを食べたのなら、お茶碗をちゃんと洗いなさい、というごく当たり前、ただの日常。それをただ申し渡すだけの趙州禅師。しかして、そのことの重要性をハッと悟る小僧さん。実に味わい深いお話でございます。もちろん、これが本当にそんな美談なのかどうかとか、もしかしますと、小僧さんはただ、ああ、茶碗洗えばええんすね、ってだけ理解してたんじゃないかとか、いろいろと疑いだしたらきりはありませんが、疑うだけなら左翼でもできるので、学問を志すものは素直に美談として受け取っておればよいのでありますw


 日常をないがしろにして、日常をダメにして、それで何やら学問や宗教で偉大なことを成し遂げられると思っているのが、とかく日本では新興宗教系に多いような気がしますが。


 そういう意味では、キタロー氏はちゃんと分かってるんですよ。分かってるから、


「我々の真の自己は宇宙の本体である、真の自己を知ればただに人類一般の善と合するばかりでなく、宇宙の本体と融合し神意と冥合するのみである。宗教も道徳も実にここに尽きている」


 と言えるわけですね。これは、分かってない人間では絶対に出てこないセリフです。分かってるのに、ちょいちょいトンチンカンなことを言うから知性を疑われるw もったいないことであります。-人-


 

 といったところで、本日はこれにて。


 したらば。







『ヴィンランドサガ』のOP・EDを聴きながら。


 やっぱあの狼の被りものかぶったバンドのOPがええですな~w



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