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儒教の国



 

 と、題して本日は儒教に関して一席、ぶってみたいと思いまするが、まずは昨今読んでいるなろう作品の紹介でも。


 昨今読んでいる作品が、




淡海(おうみ)の海』




 ですね。


 大航海時代オンラインをプレイしていた時に商会チャットで、『戦国小町』を読んでいる、という内容の話をしたら、この作品もおもろいっすよ~と言われて読んでみました。


 うん、実に面白いですw いま、205話まで読み進めたところです。


『戦国小町』は、現代知識チートを駆使しまくって織田家を魔改造しましたが何か? という内容でありまして、そうでなくても戦国時代でブイブイいわせていた織田家を魔改造すれば、そりゃさいつよに決まってるんよw という感じであんまり意外性を感じませんが、


『淡海の海』の主人公は、朽木(くつき)基綱。元、じゃなく基、となっています。朽木家のいしずえとなれ、という願いが込められているのだそうですが、主人公が有名、有力大名ではなく、近江の一、弱小国人出身、というのが、お話の展開を予想しづらくさせています。


 あんまりネタバレするのもなんなので控えますが、お話の展開は予想外の連続であります。浅井長政公が、まだ六角家の圧迫を受けて、賢政と名乗っていた頃に野良田の戦いが起こりますが、まずこの段階であまりにも予想外の事態が起こってしまいまして、わたしは軽く悲鳴をあげてしまいましたw いや、マジか! って思いましたね。いや、近江の国人がのし上がるにはそうならざるをえないんでしょうけど、いきなりか~! と、本当にびっくりしましたね。


 作品自体は、現代知識チートはぜんぜん重視せず、人間関係とか、足利幕府や朝廷との関係を重視した、戦国時代ならではのしがらみなどをメインに描く作品となっているようであります。なので、戦闘描写なども控えめなので、そこも意外と言えば意外ですね。なになにの戦いに向けて~ みたいな話をしていたかと思えば、次のお話ではもう戦闘後の仕置き(この場合で仕置きといえば統治のこと)の話になっていることが多く、そこはたんたんと進むのですが、足利義昭のわがままに振り回されたり、周囲の各大名の動きに振り回されたりと、とりあえず武力で解決できるものではなく、特に敵味方双方の血縁関係によって動きが制限されたり、意外な友好関係が出来上がるなど、そこらあたりの描写は抜群の面白さがありますので、そういうのが好きな方はもれなく読むべきでありましょうw 織田信長公のお話といいますか、状況もなかなか意外性の塊なので、そこも必見w 信長公が?w え~w ってな感じw 


 でも、せっかくなので(?)いちゃもんをつけておきますと、竹中半兵衛さんと、明智光秀さんと、沼田祐光さんがいっぺんに仕官してきたお話はさすがにご都合すぎじゃね? って思いましたw まあ、沼田祐光さんは近江にいたんじゃね? と言われているので不自然ではないのかもですが、でもこの3人がそろって仕官というのはさすがに、え~、と思いましたw あと、徳川に対してなんか、恨みでもあるんすか? 親でも殺されたんすか?w って思いましたw あまりといえばあまりの徳川の不遇っぷりに、ちょっと悲しくなってしまいますたw


 あと、この作品に限らないのですが、現代人的感覚で、比叡山を軽視して簡単に焼き討ちしたと思われるでしょうけど、昔の人の信心深さ、迷信にとらわれる感覚というのを、無視し過ぎかな? とは思いますね。


 なにせ、大航海時代もすんなりいったように感じられるかも知れませんが、昔の人は、世界の果ては断崖絶壁であったとか、南に行けば焼け死ぬとか、現代からするとアホらしいような迷信を本気で信じていたわけで、だから、そういう迷信に依拠した船員の反乱とかもあったわけで、昔の人がたたりとか調伏(ちょうぶく)とかをどれほど恐れていたか、なども描くとさらにおもしろくなるのではないかな、とは他人事として思います。まあ、そんなものを描けば邪魔くさくなるに決まっているのではありますがw


 それはともかく、非常に読み応えがある作品なので、オヌヌメですね。あと、そうだ。ってか、結局、信長公と会ってないじゃんw 信長公との会見、楽しみにしてたのにww




 さて、本題。


 恐らく、多くの方は儒教の国、と言われれば、まずもってどこぞの半島の事だと思われる方が多いのではないでしょうか。ですが、わたしからすればどこぞの半島のごときは結局、儒教というものをまったく理解できなかった国だと思っております。親の体調を調べるためにうんこ食べた、美談だ! なんて言っている時点でオツムの異常さに眉をひそめざるを得ません。


 本当の儒教の国とはどういうものか。


 聖徳太子が推古天皇の御世12年4月3日、西暦604年5月6日に発せられた、『十七条憲法』の第一条。




 和を以て貴しとなす




 さすがにこれを知らない日本人はいないでしょうが、第一条の全文まできちんと知っている人はそんなにいないのではないかと思われますので、せっかくなので全文みてみますと。




【和を以て貴しと為す。(さから)ふこと無きを宗とせよ。人、皆党有りて、また(さと)れる者少し。是を以て、或いは君父に(したが)はずして、また隣里に違ふ。然れども上和み下睦みて、事を論ずるに(かな)へば、事理則ち自ら通じ、何事か成らざらん】




 大和民族は、大いなる和の民である。軽々なる反逆、反抗は厳に慎むべし。とかく人間というのは、集団を作り、数の力を(たの)みがちであって物事の本質を知るものは少ない。そんな有り様だから、主君や実父に背き、近隣と諍いをおこすのだ。


 しかし、上も下も、お互い敬いあい、腹を割って話し合えば、自然とその和が連帯を生むのであり、そうすれば、出来ないことなどなにもなし。




 これは、古代中華の書物、『礼記』の儒行にある一節、「礼はこれ和を以て貴しと為す(儀式の作法は、人々の心の調和こそが肝要)」からきているとされます。


 この、和を以て貴しとなす、これこそが日本人の民族性である、といい切ったとして、それは違うと否定する日本人は幾人いるでしょう。


 こうしていい切ってみますと、なんと、西暦604年に制定された十七条憲法の最初の条文が、1000年以上にもわたって日本人の、大和民族の民族性に深く根付いたものである、ということになるのであります。


 こんなことは、どこぞの半島はもちろんのこと、世界のどの国だって、民族だって、やれないレベルの崇高なる一事実なのであるということがわかるのであります。真の儒教国とは日本のことであり、日本だけが儒教を発展させることが出来た、儒教という理想を現実に落とし込むことができた、唯一の国なのである、ということを、今回はつれづれお話してみたいと思います。




 まず、わかりやすい例をいいますと、恐れ多くも、我が皇室の男子に、常に「仁」の字が入っていることが、何よりの証明とも言えるでありましょう。


 仁、とは、儒教の五常。「仁・義・礼・智・信」の最上級の徳目であります。意味は、「人間らしい情け深さや他者を思いやる心」でありまして、皇室の男子に、必ず、この「仁」の字が用いられていていることは、ただ、漫然と使われているものなどではないということは、さすがに分かるかと存じます。


 この仁の字が、いつ頃から使われていたかといいますと、Webによりますと、


 西暦858年~876年の第56代、清和天皇 の惟仁親王から確認できますね。それ以降、必ず仁の字が用いられているわけではありませんが、これが仁に固定化されるのが、


 西暦1629年~1643年の第109代、明正天皇。1762年~1770年の第117代、後櫻町天皇の女帝を例外とするならば、西暦1331年~1333年の北朝一代、光嚴天皇。量仁親王から、仁の字で固定化されております。


 恐れ多くも、皇室男子の御名に、ずっと仁の字を使うからには、それには深い意味があるわけでありまして、ペットや昨今のキラキラネームつけるのとは次元が違うわけであり、仁の字の意味の通り、「人間らしい情け深さや他者を思いやる心」を、日本の民草にあまねくほどこす、という意味があると考えるのは当然のことであります。まあ、織田家や武田家に信の字が通字で当てられたり、長尾、上杉家に景の字が通字で当てられていることから、そういう伝統、と見ることもできるでしょうが、その伝統が、現代の悠仁(ひさひと)親王殿下にまで至っても続いている、ということはやはり驚嘆すべき事実であります。


 こんなことは、どこぞの半島では考えることはできないのはもちろんのこと、世界中の国々、王室を見たって絶対に存在しない事実であります。日本は、大昔からこういうことをあたり前のこととして行っているのであります。


 


 では、まずもって儒教とはなんでしょうか。


 簡単に言ってしまえば、東洋の理想の精髄、東洋思想の昇華、と言えましょう。


 ちょいと前に、わたしは儒教とは、「修身斉家治国平天下」であると言ったこともありますね。



 修身斉家治国平天下



 己の身を修め、家をととのえ、もって国を治める。それがすべての国で行われたら世界平和にゆきつく。まさしく理想的な言葉であります。儒教が目指す先はこれと言ってよいわけで、儒教とはこれなり、といってもぜんぜん過言ではないです。論語では、孔子様のお言葉がありまして、こういうことをおっしゃってます。




(はなは)だしきかな、吾が衰えたるや。久しく、吾また夢に周公(しゅうこう)を見ざるなり】




 夢に周公旦(しゅうこうたん)、周の文王の弟さんですね。その方の夢を見なくなった。


 おっしゃっていることは、ただそれだけですが、ものすごく憧れて夢に見た、本当に憧れたのなら夢に見るものでありまして、周公旦という方は、周の時代においてまさしく理想的な国家を作り上げた方です。それが春秋戦国時代においては周王室は見る影もなく衰退してしまい、かつての理想は萎靡沈滞(いびちんたい)してしまった。孔子様が若い頃に夢に周公旦を見た、というのは、その理想を教えてもらった、授けてもらった、という夢を見られたのかも知れませんね。王陽明先生の逸話にもそういう霊感あふれるお話がありますが、その理想を復活させるのだ。血で血を洗う戦国の世ではなく、人々が和を以って生きられる、本当の、あるべき理想を復興させるのだ! という純真なる熱意が、周公旦の夢に結実したのでありましょう。


 夢見たのは、憧れたのは、周の時代の栄光であります。周の時代の礼と楽、礼儀や法令、学問や音楽など、かつての栄光であり、理想であります。夢に見たからにはそれを実現せずんばやまず。その理想と情熱に燃えて、孔子様は活動されたわけです。


 よく、孔子様を儒教創設者と言われますね。儒教そのものは孔子様が始めた、と言っても良いのかもですが、しかし、そこにある精神そのものは、古くから東洋に連綿と流れる理想そのものであり、孔子様が憧れた周公旦にも、東洋の理想が脈々と受け継がれていたわけであり、孔子様はその伝統と学問を受け継ごうと、引き継ごうとされたわけであります。


 孔子様が夢に見たのは、東洋の理想なのであります。


 それを夢に見なくなった。衰えた。というのは、一面においては孔子様の寂しさを表すものでありますが、しかし、決してそれはただのボケ老人のごとき衰えなどではなく、孔子様の完成を証明するものと言って良いでしょう。人間というものは、誰でもある程度年を取れば自分で自分を満足するものであり、自分を許すものであります。


 孔子様も、竹簡を縛っていた紐が切れること3回、とおっしゃるほど必死こいて学問されたお方であり、その孔子様がお年を召されたということは、確かに世に認められることはなかったとしても、学問が熟成されたわけであり、自ら、納得するだけの学問の熟成、集積があったはずであります。そうなりますと、周公旦を憧れただけではない、もはやただ、憧れるだけの若造ではなくなってきた自らを認めてもよいのではないか? という独白でもある、と見てもよいでありましょう。


 ではその、東洋の理想とはなにか。


 これも孔子様のお言葉にあります。これは何度も申していることではありますが、




【己を脩めて以て百姓を安んずるのは、堯・舜(ぎょう・しゅん)もそれなお諸を病めり】




 己を完成させて、民を安心させることは、堯帝・舜帝のような古代の英雄でもなお、心を悩まされたのだ。




 これですね。本来はもう少し長い文章ですが今回は縮めておきます。東洋の理想の根底には、常に民があります。民を安心させて治めることが、東洋の理想であります。よく、民主主義はアメリカから教わった、などとほざく阿呆がいますが、東洋思想の根底には民主主義があります。


 いえ、正確にいいますと、民主主義というのはただ単純に、主権が民衆にある、という類いのものであって、決して民のことを考えているという、(いい)ではありません。民のことを考えている東洋に比べて、西洋では民のことを考える、などという学問が存在していません。


 なにせ、王権神授説などというトチ狂ったことを言い出す連中なので、ああいう連中にあるのは、権利、権力がどこにあるか、という関心だけでありまして、百姓を安んずる、などという概念、学問そのものがないのであります。


 それを太古からやってきたのは東洋だけであり、それを結晶化させたのが儒教といえるでしょう。


 また、先程あげた『淡海の海』に、こういう言葉がありました。




「天下は天下の天下なり、一人の天下に非ずして天下万民の天下なり」




 言うまでもなく、天下は私物すべきものではなく、万民のための天下である、という意味ですね。作品中でも、権力を私物化し、没落する足利幕府の描写があります。この、天下の帰趨はどこにあるか、というのは太古から東洋でもやかましく論ぜられるところでありまして、中華の皇帝、天子というものは、天からの徳をいただき、その代理として民を治める、というのが東洋の思想であります。あくまで私物化するものではありません。


 なのでそこで、無道を働く、悪逆非道な皇帝が現れればどうするか、という時に、ここに易姓革命の考えが出てくるわけであります。この易姓革命も前から論ずる通り、


 易姓革命、姓を()え、命を(あらた)める。


 中華の皇帝は日本の皇室と違いまして、姓があります。日本の皇室には姓はありません。姓とは、天皇から家臣に下賜するものでありまして、皇室が名乗る必要のないものなのであります。なので、日本の皇室に姓はありません。その姓をかえる。別の皇帝を打ち立てる、ということであります。そして、天命を新たにいただく。殷の紂王のような民をしいたげて屁とも思わぬ暴虐邪智な天子を廃し、周の武王を新しい天子として推戴する。


 ここが西洋とは根幹的に違うところであります。西洋は、すべて私物、私有であります。さきほどみた、王権神授説のように、私物化するのが当たり前であり、天から徳をいただいて、その代理として民を治める、などという殊勝な学問は西洋にはついぞ起こりませんでした。今もないです。マグナ・カルタなどという事件も、英国王室の横暴を禁止する、というものであります。


 東洋では、天子という存在であっても、あくまで民を治める代表である、という認識であります。支配するためではありません。あくまで、天から徳をいただき、預かり、その天の徳をいただく代理として中原、中華の大陸を治めるにすぎないわけであります。もちろん、日本の皇室もこの考えを受け継いでいるわけでありまして、いかに民を治めるか、を常々考えられておわすのであります。皇室男子の御名に仁があるのもそのためであります。


 なにゆえ、現在の政治が地球規模で衰退しているかといえば、いま申したように、そもそも論、西洋では、民主主義という概念や政治装置はありえても、百姓を安んずるという学問がないからであります。この日本においても、明治維新で儒教をかなぐり捨て、欧米流の政治を鵜呑みにしたから、今の政治家にも官僚にも、百姓を安んずる、という学問がなにもないから、こんな次第と成り果てているのであります。


 あと、そうだ。知らない方のために言っておきますと、この場合の百姓は、ひゃくしょう、ではなく、ひゃくせい、であります。百の姓がある。つまり民衆、ということですね。なぜか日本では通俗化してしまい、どん百姓、農民、ということになってしまいましたが。まあ、そういうある種の難しい言葉をあっさり通俗化させてしまうのも、日本の特徴なんですけどね。




 それはともかく、お次に日本における儒教の関わり。


 始めに申した通り、聖徳太子の時代から日本には儒教が入ってきましたが、しばらくはそこまで普及するものではありませんでした。お寺において、僧侶の学問として読みつがれていたくらいでそこまで国家統治の必読書とされていたわけではないようです。頼朝公が、というよりむしろ北条政子が最重要視したのは『貞観政要(じょうがんせいよう)』であり、これは大唐帝国の建国に関わる、唐の太宗とその有力家臣とのやり取りをまとめた、為政者必読の書でありますが、唐は儒教ではなく道教よりでありました。とはいえ、儒教は東洋の理想の結晶であり、かつ、道教、老荘思想にしたってこれは同じことであります。唐の君臣の間の議論においても同様でありまして、こういう面白いやりとりがあります。




【君は国により、国は民による。民を刻して以て君に奉ずるは、なお肉を割きて以て腹を充たすがごとし。腹飽きて身斃れ、君富みて国亡ぶ】




 君主は国に依存し、国は民に依存する。


 民に重税をしいてそれを君主に捧げるのは、例えていうのならば、自分の身体を切ってその肉を食べるようなものだ。腹は満たされるが、身体は倒れる。君主は富むも国は滅亡する。




 これですね。東洋には常に、民のため、百姓のため、があるのであります。


 今のアメリカのアホ関税といい、日本の税制といい、まさしく、「なお肉を割きて以て腹を充たすがごとし」なわけであります。いまの世界の為政者は、貞観政要なんて知りもしないでしょうけどね。変なことをいいますと、なろうを読んでいて面白いと思うのが、どの異世界国家であろうと、民のため、という考えが下敷きにありますが、これは日本人だからそういう発想になるのだ、という事実に作者さんたちは気づいているのかな、と思いますね。


 欧米が作る、歴史を扱った映画などで、民のため、なんて考えを持った人間がどれくらいでてくるのか、見てみると面白いかも知れませんね。


 それはともかくとしまして、儒教が日本全体に広まってゆくのは、もちろん、徳川家康、権現様からであります。


 ここを重視する日本人はいないでしょうが(儒教を知らないのだから当たり前でしょうが)、これが日本のためにどれほどの価値があったか計り知れません。またもやいい切ってしまえば、明治維新は権現様が起こした、といい切ってもよいくらいであります。


 これに関しては、信長公が鉄砲をもって長篠において武田騎馬隊を撃滅するという大快挙を成し遂げたから、関ヶ原の戦いにおいて3万丁もの鉄砲が日本中に普及したわけであり、この成功があったから、幕末に南蛮が大挙して押し寄せた時に、日本人は臆することなく西洋の文物を受容することができた。という事実よりも、はるかに儒教の方を、わたしは重視します。


 戦国の世から、元和偃武で、武士が儒教の体現者として民草の上に君臨することになったわけです。もちろん、それはスムーズに成功したわけではありませんでした。徳川綱吉は儒教普及に懸命になりましたが、ですがその、儒教普及のさなかに、浅野内匠頭が殿中において刃傷沙汰を起こすというサイコパス事件を起こしたわけですから、綱吉が激おこになるのはむべなるかなw


 そういうもろもろがあり、武士は藩校という武士専用訓練所において儒教を学んだわけですね。


 儒教の徳目とは、最初に見た五常がありますが、その他にも五倫があります。これは、父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信、であります。


 たとえば、徳川幕府の継承問題において、愚鈍な兄に代わって優秀な弟が後継者になるという、三代将軍家光と、弟の忠長のお話がありますね。戦国時代であったら、お家がつぶれるくらいなら、愚鈍な兄を廃して優秀な弟を家督継承者にするという、例えば信長公と、その弟の信之というお話もありますが、権現様はこの問題に対し、長幼の序、をもって後継者は家光と定めたわけであります。


 家督継承に関して、優秀だからうんぬんといって兄弟で争っていては、秩序もなにもあったものではない。今は戦国の世ではないのだから、能力のいかんにかかわらず長男が家督を継承する、と定めたわけですね。

 

 この忠長は他にも逸話がありまして、1618年、元和4年10月9日に、忠長が鉄砲で鴨を撃ち、父、二代将軍秀忠に献上したことがありました。最初は喜んだ秀忠でしたが、話を聞きますと、実は忠長が兄、家光の住まう西の丸の方角へ鉄砲を打ち込んだということが分かり、それはすなわち、兄へ、ひいては権現様への反逆行為に等しいとして激怒した、というものであります。こういうところも、儒教的秩序といえるでしょう。


 そして、この五倫ですが、少し考えますと面白い事実があります。


 幕末において、南蛮の船が大挙として押し寄せたとき、多くの藩にあったのは、尊王攘夷思想でありました。君臣の義、というのであれば、多くの武士にとっての主君といえば藩の殿様であり、その殿様にとって主君とはすなわち、徳川将軍であったはずです。しかし、実際には南蛮を恐れ、屈辱的な条約を結ぶ幕府の不見識に対する非難が巻き起こり、皇室をこそ盛り立てて夷狄を打ち払うべし、という尊王攘夷が活発に巻きおこったのであります。


 それには水戸学の影響が大でありました。


 1837年、天保8年、藩校としての弘道館が設立されましたが、その時に藤田東湖により、「尊皇攘夷」の語がはじめて用いられた、とされます。水戸学は、儒教を底本としながら、日本の伝統や思想を積極的に取り入れたのであります。そして、日本の伝統を取り入れた時に、徳川将軍、公方様より、さらなる至尊な存在、皇室という存在をこそ敬うべし、という思想になったわけですね。


 ここらあたりも日本の歴史において摩訶不思議なる次第と言わねばならないでしょう。


 尊王攘夷があったからこそ、幕末の倒幕運動につながったのであるし、明治維新にもつながったし、公武合体にもつながった。それもこれも、儒教あってのことであります。もし、江戸時代の始まりに、権現様が儒教を国教を定めなければ、今の日本はありえなかったでありましょう。


 念の為、言っておきますが、明治維新は、明治の人間が行ったのではありません。幕末の、江戸時代の武士が、明治維新を行ったのであります。武士が受けた儒教が、権力を私しない、という思想になったのであります。そうみますと、慶喜公が大政奉還を成し遂げたのだって、世界史からみれば奇跡的行為であります。権力者が戦って負けもしないで権力を返す。こんなことができた人物が他にいるでしょうか。


 また、多くの国が、そういう君臣の義もなく他国からの侵入や反乱によって滅亡の憂き目をみた中にあって、日本人だけが、尊王のこころざしを決して忘れなかった、という一事実は、日本の特徴として赤文字で大書すべき一事実であります。


 そして、重要なのは、歴史が連綿と受け継がれる、ということであります。これは儒教に限らず、ですが。


 中華において発祥した儒教が、なぜ、中華においては発展しなかったかといえば、まさしく、歴史が受け継がれなかったから、にほかなりません。中華は常に国が入れ替わり、民族が入れ替わりました。そこに、常と変わらず同じ儒教が受け継がれるのは並大抵のことではありません。


 また、さっき見た大唐帝国の発展などは中華の歴史においても数少ない成功例なのであり、多くの時間においては中華においては戦闘攻伐の方が多かったことも、要因としてあげられるでしょう。なにより、中華と日本の違いとしてよく言われるのが、地域の違いです。


 例えば、日本では山があるので山を隔てて環境や気候が変わります。トンネルを抜けるとそこは雪国だった、などと言われるくらいに山で気候が変わります。雨を運ぶ雨雲も、山にぶつかってそこで雨を降らして、軽くなって山を越えますので、山や山脈の存在が大きく気候の変化をもたらすわけですね。


 しかし、だだっ広い中原はそういうわけにはいかないそうで、山もなにもないから、凶作になったらあたり一面、凶作。どこにいっても凶作。逃げ場がないんだそうです。


 さらに、北狄・東夷・西戎・南蛮といわれる、強大な異民族が周囲にはおり、常に中原を狙っております。そんなこんなで異民族との戦闘攻伐に明け暮れないといけず、占領されて、頻繁に王朝が入れ替わる。この、王朝の交代のときには、なんでも数千万単位で人が殺戮されておるのだとか。ある時、漢人が日本にやってきて、(しょう)などの宮廷楽器をみた時、自分たちの国でとっくに亡びた楽器がここにはまだ生き残っていたのか、と落涙した、なんて話もあるんだそうです。それくらいに伝統が断絶する。


 ある意味、なんで中華で儒教が起こったかといえば、起こらざるをえないわけです。


 それだけ、仁がない世界だから。


 これは西洋も一緒。なんでイエス・キリストが愛を訴えたか。仏教もそう。なんでお釈迦様が慈悲を訴えたか。そこにないからです。愛が。慈悲が。だから訴えざるを得なかった。


 しかし、日本で仁を叫ぶ必要はありません。


 皇室という仁の存在があります。公式には2000年以上、皇紀2685年ですので世界でも最長の歴史がある国ですから、ある意味当然、日本で儒教が発展した。親和性でいえば最上級に親和性が高いわけです。日本という国と儒教は。だからこそ、聖徳太子が十七条憲法で、儒教をお取り上げになったともいえるでしょうか。どこぞの半島なら、こんなことを叫ぶやつもいないでしょうけど、叫んだところで誰も真に受けはしないわけですから、やったところで意味はないわけです。



 そして、最後になりますが、日本は、明治に切り替わったとたん、脱亜入欧、尊欧卑亜、中華の学問なんて古臭い、これからは欧米だ、と、それまでの儒教をボロ雑巾のように打ち捨てて、欧米一辺倒になったのであります。


 それからというもの、明治の栄光が嘘のように、坂道を転げ落ちるように日本が衰微していったことと、儒教が忘れられていったことが、まったくの無関係であるなどとはわたしは思わないのであります。



 もちろん、信じるか信じないかはあなた次第です。


 

 といったところで、今回はこれまで。


 したらば。

 





「アルスラーン戦記」のOP・EDを聴きながら。



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