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キリスト教の誤謬



 参院選が終わったようです。


 ゲルが敗北したのは当然の結果と言えるでしょうが、だからといってそれで日本がよくなるなんてわたしは欠片も思っていないので投票なんてしませんでしたとさ。政治改革が必要なのは誰も異論を挟みはしないでしょうけど、わたしとしましては、庶民改革をしないといけないと思うところです。政治が悪い~政治家が悪い~官僚が悪い~、あれが悪いこれが悪いと文句を言うだけなら誰でも出来るお話であります。


 かつて、不義を働いたとして村人から私刑にあっている女性をみたとき、キリストは言いました。


「この中で、一切罪を犯したことがないものがいるのならば、わたしの持つ石をそこな女性にぶつけなさい」


 村人はスタコラサッサといなくなりましたとさ。


 口で言うだけならアホでも言える。まずは自分でそれを実践しなくては本物ではありません。そして、実践すればするほどわかるでしょう。何も言う必要などないということが。世界情勢を見て、人類史をかえりみて、自分をみたら、あとは黙って悟りを目指して行動するだけとなるでしょう。向上心がある人ならば。


 いえ、はっきり言いますと、人類史上、政治が民衆のためになったことなどほとんどないわけで、しかも、戦後の日本で政治が良かった時代なんてないわけで、それが石破のおかげで急回復するなんてことが起こり得る訳が無い。だったらとっととそんな穢国悪世から離れた方が良いに決まっている。関わったところで赤くなるだけです。ミイラになるだけです。



 おこんばんはです。豊臣亨です。


 こんなタイトルで今日は調子に乗って、有頂天になって、非想非非想天になって、キリスト教にいちゃもんをつけたいところですが、その前に昨今読んでいる、なろう作品のご紹介から。


 いま読んでいるのが、




『戦国小町苦労譚』




 ですね。いま80話まで読んだところです。


 上位ランキングを漁っていたら珍しく戦国時代の作品がランクインしていたので、ためらうことなく読みましたw


 これはよくある、現代人が戦国時代にタイムスリップしたら何をしだすのか? の流れをくむ作品ですね。わたしは以前に、『斎藤義龍に生まれ変わったので、織田信長に国譲りして長生きするのを目指します!』も読ませていただきまして、現代人が戦国時代にタイムスリップして、現代知識無双する作品というのを読ませていただきましたが、この戦国小町は、この、現代知識無双系でも最強クラスの作品と言っても過言でないかと存じます。


 なにせ、主人公の 綾小路静子 はタイムスリップした時から、「かぼちゃの種、スイートコーンの種、トマトの種、小松菜の種、辛玉ねぎの種、サトウキビの定植苗。それから収穫で貰った薩摩芋」をもっていた、のは確かに都合の良いお話ですがw でもまあ、種もなにもないけれど、万能農具をクワにして畑をたがやせば、欲しいものがわんさか生えてきました~ よりはずっと精神的に健康的かと存じますがw これだけの種をいきなり戦国時代で栽培を始めるわけですw もう最強ですw


 しかも、当然、それだけにとどまらない。

 

 養蜂、養鶏、絹生産、しいたけ栽培、醤油生産、硝石生産、製塩、製鉄、ガラス生産、灰吹法などなどなど、ものによっては江戸時代や明治、昭和に確立した製法、生産技術、栽培技術をおしみなく注ぎ込んで現代知識無双するのです。無双しすぎです。


 そして、この作品が他の作品と毛色が違うなと伺わせるのが、第一話で主人公があの、織田信長公に出会ったときの第一声がこれ。




織田上総介(おだかずさのすけ)三郎(さぶろう)平朝臣(たいらのあそん)信長(のぶなが)……?」




 なんで、会ったことも見たこともない歴史上の人物を即座に特定できたのか? は、おいておくにしてもw ここまで長い名前を読み上げた なろう作品はそうそうないと思いますw これを見た瞬間、ああこれは、中途半端な知識量で始めた作品じゃないぞ、と思わせるには充分でしょう。平朝臣、にしたって戦国時代や、日本の歴史をそれなりに学んだ人でもないと、全然知らない情報ですしね。


 とまあ、こんな感じでとんでもない知識量を持ち込んで、織田家の農業改革を始めるわけです。面白くないわけがないw 



 ただやはり、矛盾といいますか、あれれ~おかしいぞ~? と思わせる部分はどうしてもでてきてしまうわけでしてw 


 例えば、前関白近衛前久を、ひつまぶしで籠絡して信長包囲網を事前にぶっつぶそうとした、のまではよかったものの、でもやはり史実通りに信長包囲網が始まってしまった~、のはどうしても違和感を拭えない。


 作者さんは、織田家をどれだけ魔改造したかお分かりか、と問いたい。


 もう、とんでもないレベルで織田家を魔改造し、その時代では絶対に有り得ないレベルで食料問題を解決してしまっているのです。ジャガイモはある、サツマイモはある、現代で改良されたお米まである。庶民は飢えに苦しむこともなく、豊富な食材を食べることが出来る。


 そもそも、なにゆえ戦国時代が始まったか、という話をすれば、もちろん応仁の乱から始まる足利幕府の権力基盤の崩壊から始まるわけですが、戦国時代は気候的に小氷期とよばれる寒冷期でありまして、米が順調に育たない時代でもあったわけです。だから、食糧不足を乗り切るには他国に侵攻して、殺してぶんどるしかないわけで、こういうところが戦国時代の戦国時代たるゆえん、なわけですね。


 何が言いたいかお分かりかと存じます。


 織田家が、他国に侵攻する理由が、そもそもないんです。


 もっと言えば、いきなり織田家からハチミツが輸出されました~、シイタケが輸出されました~、塩が輸出されました~、と明らかに仙人か天魔でも招来されたかのごとく異変が起こって織田家が戦国最強の富裕国になったというのに、他国が正面切って織田家と敵対する理由も、またないんです。


 それどころか、娘を差し出しますので、そのハチミツの製法を教えてくれませんか? とか、息子を養子に出すから織田家の製法を盗んでこい、とか、敵対なんてとんでもない、むしろ婚姻外交や養子縁組による関係強化を図って織田家の富裕の一端をわけてもらおうとするのが、当然の思考と言えるでしょう。戦国時代だからと言って、絶対に戦をしないといけないという理由もまたありません。平和的に話ができるのなら誰だってそうするのですから。


 そして織田家としても、堺や本願寺に、矢銭5000貫を要求するような切迫した理由もないんです。


 むしろ逆で、5000貫あげるからうちの味方にならない? といえるだけの財力を保有しているはずなんです。なにせ、戦国時代で唯一、養蜂やしいたけ栽培を確立している家なわけですから。しかも、尾張美濃を切り取った段階ですでに織田家は100万石の大大名。敵対して各個撃破されるより、むしろ同盟関係になったほうが安心、まであるんです。なのにそういう流れが一切なく、とりあえず敵対。信長包囲網発生、はやはり不自然にすぎますね。



 あと、信長公と出会っただけでその正体を理解した主人公が、「不識庵」と名乗る雲水に出会って何の反応もしないのはむしろ不自然だから、そんな不自然をするくらいなら描写しないほうがいいですw


 

 とまあ、いろいろ思う所はあるものの、現代知識無双系のなろう作品としては最強クラスなのでヒマヒマ星人さんは読んで損はないと思いますw



 では、本題。今晩はキリスト教にいちゃもんをつけたいと思いまする。とはいえ、これは常々言っていることの焼き直しといいますか、繰り返しなのでさほど大したことでもないですけどね~。ではいちゃもん、その1



押し付けがましい

 


 これはキリスト教の特徴ですが、白色人種の特徴とも言えるのかも知れません。


 とはいえ、キリスト教=白色人種=泰西文化(欧州文化) なのであり、卵が先か鶏が先か、といった塩梅かと存じます。キリスト教の押し付けがましさは歴史的に証明されていると言ってよいかと存じます。確かに仏教も布教活動が活発でしたが、しかし、たとえ厚顔な仏教徒といえど、フランスやイギリスに乗り込んで布教活動に勤しんだりはしないでしょうね。


 戦国時代のど真ん中にやってきて、多神教なんて異教、と堂々とのたまうバテレンたちの厚顔さに比べれば、仏教なんてまだまだ可愛いもんであります。


 この押し付けがましさ、というのはキリスト教の特徴で間違いないのですが、白色人種の特徴にもなってしまい、鶏卵先後の論になってしまうところですが、東洋と西洋では文化的にも宗教的にも大きな違いがあり、それを分かりやすく見て取ることができます。東洋では少なくとも儒教の影響がありますので考え方が違います。中華や日本では少なくともこう教わります。




【己の欲せざる所は人に施すなかれ】




 と。キリスト教はこう。




己の欲する所を人に施せ




 これはイエス・キリストの教えですね。


 わたしは常々、欧米人がアニメやゲームをしている自分の顔を配信するのを大いに嫌悪しているのですが、ここらへんの文化の違いといいますか、宗教の違いはけっこう地味に馬鹿にできないところかと存じます。そりゃ、イケメソや美女が配信しているのならともかくですが、明らかにブッサイクな面を全世界にさらして平然としていられる厚顔さは、キリスト教=白色人種の特徴と言えるでしょう。


 どの面下げてそんなアホ面さらせるのか。わたしみたいな陰キャには絶対真似できません。また、文化面でいいますと、この面構え、も東洋人が気にするところでありまして、学問ができると面構えが変わりますが、もう少しいえば、学問ができればできるほど自分の面なんぞに拘泥しない、そんなもん人様に見せびらかすものではない、という風に東洋人なら考えるでしょう。


 いえ、米国16代大統領のリンカーンだって、40代になったら自分の顔に責任があるといったように、学問がある人間なら、自分の顔というものにもう少し気をつけることが出来るはずですが、アホ面をさらして喜んでいられるというのも、学問のなさの証明といえるのですが、自分の好きなことを皆さんに見てもらおう! と思えるキリスト教の特徴と言えるでしょう。


 イエス・キリストも余計なことをおっしゃったものでありますw


 あと、押し付けがましいでいいますと、昨今ネットをよく漁る人なら知っているであろう、ダーウィン賞。


 有名なのが2018年。インドは、外界の人間の接触を一切拒否した島、北センチネル島に布教活動に勝手に訪問し、拒否されたら島民を悪魔呼ばわりし、最後は弓で射られ縄をかけられて死亡した宣教師。


 現代に至ってもこういう人間が出てくるところに、キリスト教のキリスト教たるゆえんがあるように思います。


 あと余談ですが、ダーウィン賞、日本人もいるのねw まあいるかw


 ではその2



屁理屈



 これもキリスト教=白色人種とほぼほぼ同一にはなってしまうのですけどね。


 たとえば、三位一体。父と子と聖霊。三位一体、をwikiでみますとこうありますね。



父(=父なる神・主権)

子(=神の子・子なるイエス・キリスト)

霊(=聖霊・聖神)



 三位一体をwikiでみますと、キリスト教はこの三位一体の理屈づくりに四苦八苦しているのが見て取れますね。そして、これは仏教にある三位一体、「心仏衆生是三無差別」とは全然別個のものであります。


 仏教の言う、心とはわたしのことであります。そして仏、そしてみんな。これらはみな差別がない。つまり、みんな同じであるといっているのであり、即身成仏といっているのであります。


 つまり、特別なことをして、特殊なことをしてやっとこ仏になるのではない。われわれは生まれながらに、そのままにして本来仏なのであり、仏になるべきなのであるのに、余計な欲や業、執着によって仏になることを自分自身で妨げているのだ、という理解、悟りなのであります。


 仏という、創造神、造物主、などという理解ではなく、仏もわたしも、みなすべてひとつ。一緒なのである。仏が特別であるのなら、わたしもまた特別なのである、ヴェルタースオリジナルなのである(?)という理解であります。


 しかしキリスト教の三位一体は違います。キリスト教を権威化するための、特殊化するための、道具立てであります。装置であります。しかしそのくせ、その理屈づくりに四苦八苦するというお粗末ぶりをみせているのが、キリスト教らしいといえるでしょう。


 またもし、これを父と子と聖霊、などと屁理屈をいわず、父と母と子、と自然なあり様を示すことができたのならば、もっとキリスト教は世界に伝播することができたかも知れませんね。まあ、いいのですけど。


 そしてこの屁理屈っぷりも、白色人種の一大特徴と言えるでしょう。何かと特別化し、権威化し、誇張したがる泰西文化であり、なによりそれを哲学書などを読みますとその傾向を強く感じることができます。


 西田幾多郎の「善の研究」を読んでも強くそれを感じる次第であります。主客未分の純粋経験、などと屁理屈こねくりまわさず、悟りと言い切っておればキタロー氏もわざわざ遠回りすることもなかったでしょうね。でもまあ、大回りしながらでも本質に近づこうと四苦八苦している様は面白いのですけどねw たいがいの人間は本質になんか決して近寄ろうとはしないですからね。キタロー氏にはまだ明治人らしい向上心がある。それを善の研究から読み取ることができますね。



 また屁理屈で言えば、魔女狩りも屁理屈の総合商社のようなものであり、魔女を裁く根拠のひとつとされたのが、「悪魔との契約」ですね。お前は魔女だ。悪魔と契約しただろう? 違うというのなら証拠をだせ。


 いわゆる、「悪魔の証明」ですね。


 存在しないものを証明しろ、というわけですから、難儀なものです。こういう屁理屈はいまでも大いにありますね。


 イルカを食べるなんて野蛮! とか、黒人が作品に出ないなんて多様性に欠ける! とか。屁理屈と軟膏はどこにでもくっつくものであります。


 だから孔子様は、こういう見せかけの正義を振りかざし、社会を混乱に陥れる、少正卯しょうせいぼうを誅されたわけですが、無闇矢鱈と人権だの自由だのが標榜された結果、少正卯の亜種が世界に拡散され、ツイッターやらで得手がってな自称正義を振り回す阿呆が増えてしまった。これはキリスト教のせいでもありませんが、白色人種のせい、と言っておきましょう。


 ではその3



創造主 被造物



 わたし的には、キリスト教最大の汚点、過ちが、この創造主、被造物にあると思っていますね。


 これは、さきほどみた、仏教的な三位一体、「心仏衆生是三無差別」とは完全に乖離するものであり、むしろ永劫に世界を分断するものであります。


 創造主が世界を作り、被造物がその創造主から作られたものである。


 確かに、始まりはそうであったかもしれませんが、しかし、それ以降もそれであっては、そのままではいけないんです。人はやがて、デウスになるものでなければいけないのです。もし、人が永劫に人であり、デウスには絶対になれない、決してなれないものであるとするならば、人は決して進化できない、向上できない存在であるという、自己放棄なのであります。自分で自分を捨て去っているのであります。


 例えば、親が子に向かって、「俺みたいになれると思うな。思い上がりも甚だしい。身の程を知れ」などと言っていたら、その者に慈悲の心があると言えるでしょうか。いいえ。決して。


 親に慈悲の心があるのなら、子に向かっては、「俺みたいになれよ。いや、むしろ俺を超えてくれよ」と言わねばなりません。これでこそ本当の慈悲であります。親心であります。


 本来、デウスはこういったはずですが、しかし、キリスト教徒たちは、それを否定したのです。拒否したのです。デウスの愛を。デウスの慈悲の心を。そして、自分たちは被造物であり、未来永劫、被造物であり、それ以上になんかなれない、それ以上になんかなりたくもない、デウスにはなれない、決してデウスになんかなりたくない、とデウスを否定したのであります。


 だから、キリスト教には悟り、という概念がないのであります。


 悟りとは、理解であり、分かることであります。


 すべてを理解するから、世界を悟るから、心仏衆生是三無差別、即身成仏、と仏教徒は、禅僧たちは言えたのであります。わたしという存在と、デウスという存在は、やがて同じであり、やがてひとつに交わるものである。この世界はデウスの愛でできており、われわれはデウスの愛によって生み出された、デウスの愛によって育まれた、愛されるべき、愛すべき存在なのである。かけがえのない存在なのである。という理解を、キリスト教徒たちはもつことができなかった。その境地に至ることはできなかった。


 悟れなかった。


 だから、イエス生誕から2000年経った、今に至るも、創造主、被造物、という世界の分断思考を捨て去ることができない。


 だから、彼らには、本当の向上はない。



 その4



原罪



 こういう、いかにも宗教的な、陰惨とした考え方もキリスト教の誤謬のひとつと言えるでしょう。まあ、原罪で調べると実にたいむりーなことに「タコピーの原罪」が出てくるのがなんだかなぁ、と思うところですが、原罪をネットで調べますと、



原罪 キリスト教で、アダムとイブが神にそむいて禁断の木の実を食べてしまったという人類最初の罪。 すべての人間は、アダムの子孫として、生まれながら罪を負っているとされる。



 そして、原罪があるように、それに対する裁きの日もあるわけです。裁きの日、すべてのキリスト教徒は、自身の犯した罪によって裁かれます。この考え方こそが、わたしは、イデオロギーの発端であると見ております。


 最初に言いましたね。不義を働いたとして村人からリンチにあっている女性をみたとき、キリストが言った言葉。


「この中で、一切罪を犯したことがないものがいるのならば、わたしの持つ石をそこな女性にぶつけなさい」


 村人はスタコラサッサといなくなった。


 そう、村人がいなくなったんです。


 つまり、罪を犯していない人など、この世界にはほとんどいないんです。それなのに、大人しくデウスに裁かれるのを待っていられるだけの従順な人間がどれほどいるでしょう??


 だから、共産主義者は、デウスを否定したんです。裁かれるのを待つくらいなら棄教したほうがマシだと思ったんでしょうね。だから、左翼イデオロギーなんて概念は、本来白色人種からしか発生し得ないんです。神の否定なんて発想は東洋人からは起こりっこないんです。非キリスト教徒には、裁きの日なんてものはありませんからね。閻魔様はいたとしても。


 そして決定的にキリスト教と仏教が違うのは、デウスは創造神であると同時に、裁きの神なんです。人間を生み出しもするし、その人生の結末を断罪もするんです。どこに救いがあるのでしょう?? 仏教には閻魔様はいても、閻魔様に創造の力はありません。なにせ東洋には神や仏がわんさかいますから、役割がいろいろ分かれています。


 この、創造神という役割と、裁きの神という役割をデウスに押し付けたのがキリスト教の誤謬と言えるでしょう。


 そういう意味で、悪事をほしいままにする悪人こそが、人生を謳歌するのもある意味、理の当然と言えるでしょう。彼らに、死後はありません。輪廻も、因果応報も、少なくとも彼らのオツムの中にはありません。だから、彼らは人生を謳歌する他ない。それ以外に、人生の目的なんてないんです。それ以外に、彼らの人生に価値なんてあるはずがありませんから。


 だから、権力にだってしがみつくし、富にだって拘泥する。他者を殺してでも排除もするし、陰謀だってむしろいい手だなどと思っていることでしょう。


 彼らにあるのは、この世界だけなんです。地球の重力に魂を捕われる他に、自分たちがゆくべき場所なんてないんです。


 そして、マルクスのように、他者を妬み、羨み、蔑み、排撃し、他者を尊敬せず、自身を敬えず、信義も尊厳もない人生を生きることしかできないんです。それは、日本の左翼政治家などをみてもよく分かるでしょう。


 信仰心とは、向上心です。デウスや、神や仏のような人間になりたい、という信仰心こそが向上心であり、立派な自分を作るのです。それを捨て去った人間に、人間としての向上があるはずがありません。当たり前のことです。普通のことです。左翼が軒並みダメ人間しかいないのも、当たり前のことなんです。


 向上心があるのなら、左翼なんてアホらしくてやってられませんからね。


 本来、原罪というものをキリスト教が設定したのも、因果応報的な教えだったのでしょう。罪には罰があり、善人には救いがあると。しかし、デウスに創造主の役割を押し付けながら、裁きの役目を押し付けたことによって、宗教改革以降のキリスト教の権威が低下した泰西文化にあっては、その鳥かごのような教義に拒否反応を示すものが増えてしまった。


 ルネッサンスや啓蒙活動などという泰西文化の流れが、そのままキリスト教否定、イデオロギーの発生につながったと見ることが出来るでしょう。もちろん、否定するのは簡単です。こういうのは、自身の悟りの一助となればいいだけですので。


 今の人生で悟りたいと思う人がいるのならば、こうしてキリスト教にいちゃもんつけるのも、自身の悟りのためにいろいろ考えてみる一端となるわけで、実に有益なことと存じます。


 お試しあれ。


 といったところで今回のいちゃもんはこれまで。




 したらばな~。






『それでも世界は美しい』のOP・EDを聴きながら。




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