『善の研究』を読んだ。十二の巻
さて、トランプが復権してまだそんなに時間は経っていないのに、すでに米国でも嫌われ者となっているようですね。この影響は今後のアメリカに甚大なる被害を及ぼすでしょう。そもそもず~っと嫌われ者だった米国が、さらなる、いえ、同盟国からすら嫌われるようになり、トランプがやめた、もしくはやめさせられた、もしくはぶっ転がされた後でも相当に尾を引きそうな気はします。
また、おロシアも、なんだかトランプにしこたま叱られて凹んでる、みたいな情報もありまして、相当追い詰められているという状況のようです。なんでも、いまでは車両すらなくなってロバで移動している? という情報もありまして、どこまで落ちぶれたら気が済むのでしょうね。今回の侵攻でのロシア軍兵士の死者数は60万だか70万だかという情報もあります。だからこそ、プー太郎としてはここで止めたらその損失がえげつないわけで、ある程度の利得を獲得するまではやめるにやめられないところまで来ているそうで、休戦なりなんなりをしたところで、おロシアの受けた損害はとんでもない所まで来ているわけです。人的、経済的、軍事的に発生した損害は、天文学的な単位であり今後、何十年と影響を及ぼすことは間違いないでしょう。
さらに、インドとパキスタンが大規模な空中戦を行ったとのこと。色んなところで戦争しまくってまして、もはやどっかで戦争やってるのが日常となってしまいましたね。
いまや世界的な風潮として、国際的協調路線ではなく、独善的支配体制が常識となってきたようです。
まあ、国連が名ばかりの、いえ、恐れ多くも我が皇室にいちゃもんつけてくるような害悪な存在となり、かつ、米国があれあの通り独裁者が平和裏に選挙で選ばれる有り様ですから、当然の理といえるでしょう。
どこまで人類が劣化してゆくのか、これもある意味 見ものと言えるのかも知れません。
国に道あっては現れ、国に道なくしては隠れるといいます。こういう情勢下にあって心ある人は隠れて、ただ大人しく学ぶべきでありましょう。いつも言っていることでありますが。
おこんばんはです。豊臣亨です。
では、『善の研究』を読んだ。十二の巻やってまいりましょう。お次は第三編の第十二章 「善行為の目的」であります。p356
「人格そのものを目的とする善行為を説明するについて、まず善行為とはいかなる動機より発する行為でなければならぬかを示したが、これよりいかなる目的をもった行為であるかを論じてみよう。善行為というのも単に意識内面のことにあらず、この事実界にある客観的結果を生ずるのを目的とする動作であるから、我々は今この目的の具体的内容を明らかにせねばならぬ。前に論じたのはいわば善の形式で、今論ぜんとするのは善の内容である。
意識の統一力であって兼ねて実在の統一力である人格は、まず我々の個人において実現せられる。我々の意識の根底には分析のできない個人性というものがある。意識活動はすべて皆個人性の発動である。各人の知識、感情、意志はことごとくその人に特有なる性質を具えている。
意識現象ばかりでなく、各人の容貌、言語、挙動の上にもこの個人性が現れている。肖像画の現そうとするとするのは実にこの個人性である。この個人性は、人がこの世に生まれるとともに活動を始め死に至るまで種々の経験と境遇とに従うて種々の発展をなすのである。科学者はこれを脳の素質に帰するであろうが、余はしばしばいったように実在の無限なる統一力の発現であると考える。それで、我々はまずこの個人性の実現ということを目的とせねばならぬ。
すなわち、これが最も直接なる善である。健康とか知識とかいうものは固より尚ぶべきものである。しかし、健康、知識そのものが善ではない。我々は単にこれにて満足はできぬ。個人において絶対の満足を与えるものは自己の個人性の実現である。すなわち、他人に模倣のできない自家の特色を実行の上に発揮することである。
個人性の発揮ということはその人の天賦境遇の如何に関せず誰にでもできることである。いかなる人間でも皆各々その顔の異なるように、他人の模倣のできない一あって二なき特色をもっているのである。しかして、この実現は各人に無上の満足を与え、また宇宙進化の上に欠くべからざる一員とならしむるのである。
従来、世人はあまり個人的善ということに重きを置いておらぬ。しかし、余は個人の善ということは最も大切なるもので、すべて他の善の基礎となるであろうと思う。真に偉人とはその事業の偉大なるがために偉大なるのではなく、強大なる個人性を発揮したためである。高い処に登って呼べばその声は遠い処に達するであろうが、そは声が大きいのではない、立つ処が高いからである。余は自己の本文を忘れ徒らに他のために奔走した人よりも、よく自分の本色(本領)を発揮した人が偉大であると思う」
人間そのものを向上させることを目的とする、善なる行為を説明するにつきまして、どういう気持から善なる行為を行わなければいけないか、ということを示しましたが、ではこれより、どういう目的を見据えた行為であるのか、を考えてみましょう。
善なる行為というのも、ただ単に、気持ちだけをもっておればそれでよいというのではなく、この現実の世界に確たる第三者的な足跡を残すことを目的とするわけですから、われわれはいま、この目的の具体的な内容を明らかにしなければいけません。これより前に申したのは、いわば善の形式、概念であって、これから申し上げるのはその具体的な内容であります。
老荘的に言いますと、道、本質もしくは混沌、もしくは天地の創造化育の具現化、それらが人に現れることで、立派な人として実現されるわけであります。
天地の徳を受け継いだわれわれ、人間には、その人、その人に固有の、特有の性質があります。知識であっても、平均的に表現される感情や意志であったとしても、すべてその人固有の、特有の、決して科学的には明らかにはならない性質があります。
ただ、意識だけでなく、その人その人の面構え、話し言葉、一挙動にも、個性が現れます。肖像画が写し取ろうとするのは、まさしくこの個性であります。この個性は、その人がおぎゃ~と生まれてから死ぬまで、様々な経験や境遇によって様々な成長をするのであります。科学者の如きはこれを脳科学的に表現するのでしょうが、わたしは以前から申し上げているように、無限の天地の徳が、人に現れたものと考えております。つまり、善なる行為とは、まずもって個性の発揮でなければいけないと思うのであります。
これこそ、最も最上なる善といえるでしょう。人間として健康であるとか、知識をもつということも大切なことでありますが、ですが、健康や知識をもつことは決して最上の善とはいえません。われわれはただ、健康であるとか多識であることでもって自身の人生において満足はできません。もっとも満足を得るのは、個性の発揮であります。すなわち、誰にも決して真似することのできない、唯一の個性を人生に発揮することであります。
個性の発揮と、いいますと、その人が天から与えられた才能や宿命に関係せず、誰にでも発揮できることではあります。ですが、皆さんそれぞれお顔に特徴があるように、他者では決して真似できない、唯一無二の特色を備えているのであります。そして、この個性の発揮こそ その人に無上の満足を与え、人類の進化にも寄与しうる、大切な行いなのであります。
これまでにおいて、世の中の人々は、あまり個人的な向上ということにあまり比重をおいてはいないようであります。ですが、わたしはこの向上心こそがもっとも大切なことであって、向上心こそすべての行いの根幹にあると思います。本当の偉人とは、そのなし得た事業が偉大だから偉人なのではなく、この比類なき向上心が素晴らしいからだと思います。
例えて言うのなら、高い山に登って声をあげれば遠くまで届くでしょうが、それは声が大きいからではなく高いところから声をあげるから遠くまで届くのであります。わたしは、例えば過剰に大金を稼いだような人よりも、まことの個性を獲得し得た人こそが偉人であると思うのであります。
といったところでしょう。
具体的な善行為のその目的を論じます、といっておきながら偉人論に足を突っ込む。キタローくおりてぃw まあ、言いたいことは分かりますけどねw ただ、「意識の統一力であって兼ねて実在の統一力である人格は、まず我々の個人において実現せられる」と、ぱっと言われても分かりにくとは思いますし、わたしもどこまで分かっているのかは分かっておりませんw
一応、「老荘的に言いますと、道、本質もしくは混沌、もしくは天地の創造化育の具現化、それらが人に現れる」と分かりやすくしたつもりではありますが、分かりにくいでしょうねぇw
ここらへんこそ、まさしく「悟る」、という箇所であって、分かる人には分かる。分からん人には一生分からん。というべきところであり、ここのところこそが、まさしく「向上心」のしからしむるところ、なんですよねぇw
例えば、王陽明先生が、貴州省の龍場という僻地に左遷させられた時のお話ですが、龍場というのは僻地中の僻地であり、そこに送られた人間は必ず死ぬ、と言われるほどの悪所であったそうです。そこに住むのは人の形をした動物であり、崖かどこかに穴をほって住んでいるような、言葉も通じないような土人であったとか。一緒にやってきた仲間たちもあまりにも過酷な環境に次々と病に臥せってしまい、もともと病に苦しめられていた王陽明先生が看病をしなければいけないほど苦しい状況であったあったそうですが、逆に、そんな僻地であったからこそ、大悟されたとか。
その時におっしゃられたのが、古人の言葉を反芻するに、いちいち吻合せざるはない、と。吻合とは物事がぴたりと一致すること、であり、昔の人がおっしゃられたことがひとつひとつピントのズレたお話がない、皆さん、優れた正しいこと、確かなことをおっしゃられていたのだと、改めて悟ったのだそうです。
この時、王陽明先生の向上心は最高潮に達したわけですが、向上心が高まったからこそ、他の人々のお言葉がさらに確度を高めて分かるようになった、理解できた、ということでありまして、波長が一致したからこそ古人の言葉がすんなり首肯できたわけですね。
なので、「意識の統一力であって兼ねて実在の統一力である人格は、まず我々の個人において実現せられる」も、向上心を高めると分かってくる領域の言葉になるわけですが、とはいえ、それではお話にならないので、もう一度、分かりやすく噛み砕いて申してみますと、
「この世界のエネルギー、言い換えますと、天地の創造化育のエネルギーを一身に受け継いだ人間の意識とは、その人の心でありながら、同時に天地の徳を表す、神様の み心と同じくするものであります。創造化育とは、この地球が生み出されて、恐ろしく長い期間を経て生命が生み出された、その生命もこれまた恐ろしく長い時間を経て今の姿になった。例えば、梅として、竹として、桜として、結実したわけです。天地の徳は、そうあるべく、もっともよい姿になるように進化、向上し続けるのでありましょう。そう受け取る他ないわけでありまして、梅が梅として、竹が竹として、桜が桜としてその姿を結実し得たのも、天地の徳があることのひとつの証明といえます(邪推すればできますが、それでは向上ではありません)。もし、天地に徳がなければ、世界はこのような姿を表すことはなかったとも言えるのです。そしてそれは、人間にも言い得ることであります。もちろん、それは生まれてただ放ったらかしにした心のままでなし得るものではなく、その人がその人なりに向上心を発揮した、向上した結果、神様の み心と同じくなるものであり、そこまで至って始めて、雑念を取り去った心を統一されて始めて、人格が完成されるものであります」
と、言い換えることができますw
そして、人間というのは向上しようと思えばいくらでも向上することができる。例えば、信州松代藩の藩政改革を成し遂げた、恩田杢民親、貧乏板倉とやゆされた備中松山藩の藩政改革を成し遂げた山田方谷先生、彼らが改革を行うにあたってまず何をしたか。それは、嘘をつかない、という誓いであった。
嘘をつかない。それは、簡単なようでありながらも非常に大変な誓いであり、それは、人として真摯に生きる、すべての物事に対して真摯に対処するという誓いであります。これは、誰にでもできることでありながら、しかして、誰もしないという事実であります。
彼らはこういう誓いをして藩政改革を成し遂げた。
今時の、プーチンとか、トランプとか、習隠蔽とか、日本の為政者とか、誰も彼もが絶対に行わないことであります。嘘をつかない、ということは人として基本、根本的な、それこそ小学生にだってできる初歩的な人間形成でありながらも、誰もしないわけであります。
それは、こいつらは人間を舐めているからであり、人間を馬鹿にしているからであり、人間を諦めているからであります。
そして、それはとりも直さず自分を舐めているのであり、自分を馬鹿にしているのであり、自分を諦めている。そして、そのまま、恐ろしく人間を劣化させたまま、システム、法令や仕組みを変えればなんとかなると思っている阿呆共であります。
自分がすでになんともなっていないにも関わらず、その自分をほったらかしにして世界がなんとかなるはずがないにも関わらず、そんなことにすら気が付かない。理解が及ばないという馬鹿共であります。
向上心とは、こういう、古人の知恵や来歴、由来を尋ねることで、さらに人間理解を深めることであり、人間を信じることであり、だからこそ、自分自身を向上させることができるのであります。間違いなく、今見たような馬鹿共は山田方谷先生すら知らないような文盲でしょう。
何も知らない。ただ、眼前にある劣化した人間をみて、諦め、馬鹿にし、舐めきって、そして自分自身をもそうさせているような、馬鹿共であります。
本当の智者は、眼前にある事実のみを追うのではなく、人類史全体を通して人を知るのであり、最高の善と最高の悪を知るからこそ、自分自身は天地の徳を受け継いで、最高の善を成し遂げようと頑張れるのであります。眼前に劣化した人がいるからこそ、自分自身はそうなってはいけない、そうあってはいけないと決意を新たにするのが、智者なのであります。今の世界の為政者に智者はいないことの分かりやすい事実であります。本当に世の中を変えたいと思うのなら、まずもって自分自身を変えないといけないのに、そんなことすら理解できない劣化人種であります。
キタロー氏のいう個人性、個性とはそういうことであります。
個性とは、必ずしも最高の知識や、最高の学力が伴わなければいけないものではなく、その人なりに学問を積み重ねた結果、得られるものなのであります。そういう意味において、わたしもわたしなりに学びを重ねて来たつもりであるからこそ、こうして駄文を連ねることができるわけであります。
まあ、それはともかくとして、お次。p358
「しかし、余がここに個人的善というのは私利私欲ということとは異なっている。個人主義と利己主義とは厳しく区別しておかねばならぬ。利己主義とは自己の快楽を目的とした、つまり我儘ということである。個人主義はこれと正反対である。各人が自己の物質欲を恣にするということは反って個人性を没することになる。
豚が幾匹いてもその間に個人性はない。また、人は個人主義と共同主義と相反対するようにいうが、余はこの両者は一致するものであると考える。一社会の中にいる個人が各々充分に活動してその天分を発揮してこそ、始めて社会が進歩するのである。個人を無視した社会は決して健全な社会とは言われぬ。
個人的善に最も必要なる徳は強盛なる意志である。イブセン(ヘンリック・イプセン。1828~1906 ノルウェーの劇作家。代表作に『人形の家』『幽霊』『ヘッダ・ガーブレル』などなど)のブラント(イプセンの劇『ブランド』の主人公。神の愛を理想とする個人主義者、だそうな)の如き者が個人的道徳の理想である。これに反し、意志の薄弱と虚栄心とは最も嫌うべき悪である(ともに自重の念を失うより起こるのである)。また、個人に対し、最大なる罪を犯したる者は失望の極、自殺する者である」
をや。これは砕く必要はないですね。これはすんなり分かる。
これを例えて言いますと、よく、「日本は米国から独立せねばならないというが、日本だけでロシアや中国の脅威からどうやって自衛するのか」、とかいう阿呆がいますが、自主独立することと、共同防衛が反対するように思っているのがいますが、なんで自主独立した瞬間、国家防衛が単独でせねばならんと思えるのか、阿呆につける薬はないと思います。
中共の脅威に対して、米国は、昨今あてになるかわからなくなっておるとはいえ、やはり最重要なる軍事同盟関係にあるのは事実であり、台湾やインド、他にも周辺アジア各国とも共同で防衛構想をもっていればよいのであり、それと自主独立は話が別個であり、それぞれきちんとやればよいだけです。お次。p359
「右にいったように真正の個人主義は決して非難すべきものではない、また社会と衝突すべきものでもない。しかし、いわゆる各人の個人性というものは各々独立でお互いに無関係なる実在であろうか。あるいはまた、我々個人の本には社会的自己なるものがあって、我々の個人はその発現であろうか。もし前者ならば、個人的善が我々の最上の善でなければならぬ。
もし後者ならば、我々には一層大なる社会の善があるといわねばならぬ。余はアリストテレースがその『政治学』の始めに、人は社会的動物であるといったのは動かすべからざる真理であると思う。今日の生理学上考えてみると我々の肉体がすでに個人的のものではない。我々の肉体の本は祖先の細胞にある。我々は我々の子孫とともに同一細胞の分裂によりて生じたものである。生物の全種族を通じて同一の生物と見ることができる。
生物学者は今日生物は死せずといっている。意識生活について見てもそのとおりである。人間が共同生活を営む処には必ず各人の意識を統一する社会的意識なるものがある。言語、風俗、習慣、制度、法律、宗教、文学等はすべてこの社会的意識の現象である。
我々の個人的意識はこの中に発生しこの中に養成せられたもので、この大なる意識を構成する一細胞にすぎない。知識も道徳も趣味もすべて社会的意義をもっている。最も普遍的なる学問すらも社会的因襲を脱しない(今日各国に学風というものがあるのはこれがためである)。いわゆる個人の特性というものは、この社会的意識なる基礎の上に現れ来る多様なる変化にすぎない、いかに奇抜なる天才でもこの社会的意識の範囲を脱することはできぬ。
反って社会的意識の深大なる意義を発揮した人である(キリストのユダヤ教に対する関係がその一例である)。真に社会的意識となんらの関係なき者は狂人の意識の如きものにすぎぬ」
ふむふむ。これも噛み砕く要なし。
いわゆる、「無敵の人」なるものは、この社会的意識と何らの関係なき者、ですね。そして、この文中で重要なる箇所がこちら。
「今日の生理学上考えてみると我々の肉体がすでに個人的のものではない。我々の肉体の本は祖先の細胞にある。我々は我々の子孫とともに同一細胞の分裂によりて生じたものである。生物の全種族を通じて同一の生物と見ることができる」
こうして独立して生きているようでありながら、われわれとご先祖様と、わが子孫は、つながっているわけであります。もちろん、わたしのように子をなすことのない人もいるでしょうが、こうしてわたしが連綿と流れる教えを受け継ぎ、また後世に受け渡すことも、大いなる流れに沿うているわけであります。
そんな当たり前のことすら理解できないもののなんと多いことか。アメリカしかり、ロシアしかり、中華しかり、日本しかり。まあ、どんどん滅びれば良し。お次。p360
「右の如き事実は誰も拒むことはできぬが、さてこの共同意識なるものが個人的意識と同一の意味において存在するもので、一の人格と見ることができるか否かに至っては種々の異論がある。ヘッフディング(1843~1931 デンマークの哲学者。カントらに影響を受け、形而上学、直観主義に反対した、んだとか。著書『心理学概要』『近代哲学史』)などは統一的意識の実在を否定し、「森は木の集合であってこれを分かてば森なるものがない、社会も個人の集合で個人の外に社会という独立なる存在はない」といっている。しかし、分析した上で統一が実在せぬから統一がないとはいわれぬ。
個人の意識でもこれを分析すれば別に統一的自己というものは見出されない。しかし、統一の上に一つの特色があって、種々の現象はこの統一によって成立するものと見なさねばならぬから、一つの生きた実在と見なすのである。社会的意識も同一の理由によって一つの生きた実在と見ることができる。社会的意識にも個人意識と同じように中心もある連絡もある立派に一つの体系である。ただ個人的意識には肉体という一つの基礎がある。これは社会的意識と異なる点であるが、脳というものも決して単純なる物体でない、細胞の集合である。社会が個人という細胞によって成っていると違う所はない」
ふむふむ。例えてみますと、人間には魂というものがあります。いえ、あるらしい。あるんだろう。
魂がある、という科学的な根拠は今のところ得られないが、人が生きているにあたって魂という存在を規定しないと考えにくいところがいくつかあるから、魂というものがあると考えるわけですね。
もっといえば、向上心、なるものは個人の中にしか存在しないものであり、偉人の向上心と凡人の向上心とは、ぜんぜん違うものでありながらもそれを区別する方法などない。しかし、偉人は凡人よりはるかな高みに至るし、深く理解もする。だから本来、人というものは、すべて偉人として扱うべきなのでありますが、今の社会は なべて人を数字として扱ってそこに畏敬も敬意も介在しない。だから目には目を、歯には歯を的に反射的に反応し、ますますもって人は偉人から遠ざかる。
現代社会に偉人がいない理由もこれですね。明治には、石を投げれば有名人にあたる、と言われたのも、何もゆえなきことではない、ということであります。ではお次。p361
「かく社会的意識なるものがあって我々の個人的意識はその一部であるから、我々の要求の大部分はすべて社会的である。もし我々の欲望の中よりその他愛的要素を去ったならば、ほとんど何物も残らないくらいである。我々の生命欲も主なる原因は他愛にあるをもって見ても明らかである。
我々は自己の満足よりも反って自己の愛する者または自己の属する社会の満足によりて満足されるのである。元来、我々の自己の中心は個体の中に限られたる者ではない。母の自己は子の中にあり、忠臣の自己は君主の中にある。自分の人格が偉大となるに従うて、自己の要求が社会的となってくるのである」
これが理想であり、これが本来的な人間社会なわけであります。
まあ、これを理解できる人が今の日本に幾人おわすか。
「ちょんまげ頭を叩いてみれば
因循姑息の音がする
総髪頭を叩いてみれば
王政復古の音がする
ざんぎり頭を叩いてみれば
文明開化の音がする」
明治という革新的、革命的時代の大変革に人々は欣喜雀躍し、欧米から「権利」というものを習ったわけですが、その権利の観念が、キタロー氏のいう他愛的精神を消し去った。ということを理解する人が幾人おわすか。お次。p362
「これより少しく社会的善の階級を述べよう。社会的意識に種々の階級がある。そのうち最小であって、直接なるものは家族である。家族とは我々の人格が社会に発展する最初の階級といわねばならぬ。男女相合して一家族を成すの目的は、単に子孫を遺すというよりも、一層深遠なる精神的(道徳的)目的をもっている。プラトーの『シムポジューム』の中に、元は男女が一体であったのが、神によって分割されたので、今に及んで男女が相慕うのであるという話がある。
これはよほど面白い考えである。人類という典型より見たならば、個人的男女は完全なる人でない、男女を合した者が完全なる一人である。オットー・ヴァイニンゲル(1880~1903 オーストリアの思想家。男女の性格、興味、行動などにみられる性差を科学的に研究した、んだとか。著書『性と性格』)が「人間は肉体においても精神においても男性的要素と女性的要素との結合により成ったものである。両性の相愛するのはこの二つの要素が合して完全なる人間となるためである」といっている。男子の性格が人類の完全なる典型でないように、女子の性格も完全なる典型ではあるまい。男女の両性が相補うて完全なる人格の発展ができるのである」
人間が、何千年も生きておきながら、いまもって家族の間でいざこざしておるのも、人間が不完全なゆえであるし、だからこそ その完全なるを目指して男女が家族を形成するわけではありますが。
とはいえ、不完全なるがゆえに家族を形成する人もありますし、一人で完全を目指す人もあるわけで、ここは言葉足らずかな。男女が揃わないと絶対駄目だとするのなら、修道士も坊さんも、そしてわたしもすべて不完全な行為に一生を捧げたことになるw お次。p363
「しかし、我々の社会的意識の発達は家族というような小団体に限られたものではない。我々の精神的並びに物質的生活はすべてそれぞれの社会的団体において発達することができるのである。家族に次いで我々の意識活動の全体を統一し、一人格の発現とも見なすべきものは国家である。国家の目的についてはいろいろの説がある。
ある人は国家の本体を主権の威力に置き、その目的は単に外は敵をふせぎ内は国民相互の間の生命財産を保護するにあると考えている(ショーペン・ハウエル、テーン(イポリット・テーヌ。1828~1893 フランスの哲学者。英国の保守思想や秩序を模倣すべきとし、フランスの革命は駄目だと指摘した、とか。『近代フランスの起源』で革命思考の淵源を訪ねたが未完に終わったとか)、ホッブスなどはこれに属する)。また、ある人は国家の本体を個人の上に置き、その目的は単に個人の人格発展の調和にあると考えている(ルソーなどの説である)。しかし、国家の真正なる目的は第一の論者のいうような物質的でまた消極的なものでなく、また第二の論者のいうように個人の人格が国家の基礎でもない。
我々の個人は反って一社会の細胞として発達し来たったものである。国家の本体は我々の精神の根底である共同的意識の発現である。我々は国家において人格の大なる発展を遂げることができるのである。国家は統一した一つの人格であって、国家の制度法律はかくの如き共同意識の意志の発現である(この説は古代ではプラトー、アリストテレース、近代ではヘーゲルの説である)。我々が国家のために尽くすのは偉大なる人格の発展完成のためである。また、国家が人を罰するのは復讐のためでもなく、また社会安寧のためでもない、人格に犯すべからざる威厳があるためである」
これもまた、言葉足らず。
欧州の国家観がこうだからと、日本の国家観を論じようとするのは極めて危険といいますか、愚かな感じがします。欧州の国家は古代ローマ帝国が消え去った後、フランク族とゲルマン民族が各地で混交し、かつ自衛目的でその地の支配者が王侯貴族に発展していった経緯がありますが、日本は恐れ多くも神話から始まった皇室の治める地であります。
そもそも国家観がぜんぜん別個のものであり、成立も経緯も、そこに住む民族の意識も、まったく同じものではない。ここらへんが明治から日本が国造りに失敗した原因と言える気がします。
欧州というのは、大航海時代で植民地収奪や三角貿易などで富を蓄積し発展してきたという経緯もあるのであり、もちろん、帝国主義時代であるからには、それに順応できなければ今度は自分たちが植民地にされるという恐怖と事実もあったとはいえ、だからといって、法律から財政、軍事となにからなにまで欧州風に作り変え、自分たちが儒教や仏教で荘厳自由なる学問体系を作っていたことすら忘れ果てたというのは、にんともかんとも。お次。p365
「国家は今日の処では統一した共同的意識の最も偉大なる発現であるが、我々の人格的発現はここに止まることはできない、なお一層大なるものを要求する。それはすなわち人類を打して一団とした人類的社会の団結である。かくの如き理想はすでにパウロのキリスト教においてまたストイック学派において現れている。しかし、この理想は容易に実現はできぬ。今日はなお武装的平和の時代である。
遠き歴史の初めから人類発達の跡をたどってみると、国家というものは人類最終の目的ではない。人類の発展には一貫の意味目的があって、国家は各々その一部の使命を充たすために興亡盛衰するものであるらしい(万国史(パーレー万国史。各国の歴史を扱いながらも、キリスト教第一に立った観点の書籍だそうな)はヘーゲルのいわゆる世界的精神の発展である)。しかし、真正の世界主義というのは各国国家がなくなるという意味ではない。各国家がますます強固となって各自の特徴を発揮し、世界の歴史に貢献するの意味である」
キタロー氏的には、どうしてこうも人は善をすすめるか、という最終目的は、人類の完全なる同調、というところにあるようです。人は家族から発し、国家にまで至り、しかしてそれには飽き足らず、その最終到達点としての人類補完計画として、善が要求される、ということを言いたいようです。
そこに関しては、まさしくその通りとしか言いようがありません。
これは決して、左翼が標榜した、宇宙船地球号とか、地球市民という詐欺的観点から言っているのではなく、完全に完成された人は、すべての人と誤解なく分かりあえる、というニュータイプ論のような人類進化の究極到達点であります。
ただ悲しいかな、現在の世界はキタロー氏のいう、「武装的平和」などですらなく、いやしくも同盟国に向かって「アメリカの51番目の州になれよ」という恫喝、脅迫であり、人を敬う、という最低限の敬意すらはらえない、唾棄すべき独善性の発露であります。
こんな連中ばかりなのが、現代社会だというのであるから笑わせる。
ってか、こればかりはキタロー氏だってあの世で笑っていることでしょう。いえ、バリバリ左翼の進歩主義の連中だって、むしろここまで人類が劣化してゆく様に驚愕を禁じ得ないことでありましょう。まるで成長していない………と。
これからも人類は劣化し続けるのか、それともその反動がどこかで来るのか。
イエスが愛を説いたのも、世界に愛がなかったからであり、
孔子様が仁を説いたのも、世界に仁がなかったからであります。
こうして世界各地で戦闘が広まれば、またぞろ、平和を欲する気持ちになるのでしょう。それまでは、コロシアエー
といったところで、『善の研究』を読んだ。十二の巻、はこれまで。したらば。
「未完成ランデヴー」を聴きながら。
もう結婚しちゃえよ!