『善の研究』を読んだ。十一の巻
おこんばんはです。豊臣亨です。
さて、今晩は『善の研究』を読んでみましょう。久しぶりに。
まずは前回で見た最後の文章を復習してみましょう。
「この意識の統一力なるものは決して意識の内容を離れて存するのではない、反って意識内容はこの力によって成立するものである。もちろん、意識の内容を個々に分析して考うる時は、この統一力を見出すことはできぬ。しかし、その綜合の上に厳然として動かすべからざる一事実として現れるのである。例えば、画面に現れたる一種の理想、音楽に現れたる一種の感情の如きもので、分析理解すべきものではなく、直覚自得すべきものである。しかして、かくの如き統一力をここに各人の人格と名づくるならば、善はかくの如き人格すなわち統一力の維持発展にあるのである」
こういう言葉があります。
【小人閑居して悪事をなす】
しょうもない人間であればあるほど、暇であればあるほど、悪事を働く。という意味です。いまみたキタロー氏の言葉を例えるのならこう言いかえても間違いではないでしょう。
美しい人ほど――、それは何も容姿が美しいというだけではない、所作や立ち居振る舞い、日々のあり方。ひととなり。生きる目標をもって、やりがいをもって日々を頑張って生きている人ほどそこにはある種の美があります。
しかし、生きる目標もない、やりがいもない、そういう人間ほど暇があれば良からぬことを働くものであります。そういう人間はだいたい面構えが悪い。こういう言葉もあります。
【士、三日書を読まざればすなわち覚ゆ。義理胸中に交わらず、面目憎むべく、語言味わいなし】
立派な人間たるものが正しい書物を三日も読まないとすぐに分かる。物事の理非曲直がわからないし、人相が悪くもなるし、言っていることに味わいもなくなる。
今はどうかは知りませんが、昔の人ほど人相、面貌というものを重視したとか。確かに、目は口ほどに物を言う、といいます。その人の面構え、目つきをみればだいたいどういう方向性の人か分かるものであります。
分からないのは本人ばかりなり。
「善はかくの如き人格すなわち統一力の維持発展にあるのである」
なのであります。では、『善の研究』を読んだ。十一の巻。
内容は偶然にも、第三編の第十一章 「善行為の動機(善の形式)」であります。p346
「上来論じたところを総括していえば、善とは自己の内面的要求を満足するものをいうので、自己の最大なる要求とは意識の根本的統一力すなわち人格の要求であるから、これを満足することすなわち人格の実現というのが我々にとりて絶対的善である。
しかして、この人格の要求とは意識の統一力であるとともに実在の根底における無限なる統一力の発現である、我々も人格を実現するというはこの力に合一するの謂である。善はかくの如きものであるとすれば、これより善行為とはいかなる行為であるかを定めることができると思う。
右の考えよりして、まず善行為とはすべて人格を目的とした行為であるということは明らかである。人格はすべての価値の根本であって、宇宙間においてただ人格のみ絶対的価値をもっているのである。我々には固より種々の要求がある。肉体的要求もあれば精神的要求もある。したがって、富、力、知識、芸術等種々貴ぶべきものがあるに相違ない。しかし、いかに強大なる要求でも高尚なる要求でも、人格の要求を離れてはなんらの価値を有しない。
ただ人格的要求の一部または手段としてのみ価値を有するのである。富貴、権力、健康、技能、学識もそれ自身において善なのではない、もし人格的要求に反した時には反って悪となる。そこで、絶対的善行とは人格の実現そのものを目的とした、すなわち意識統一そのもののために働いた行為でなければならぬ。
カントに従えば、物は外よりその価値を定めらるるので、その価値は相対的であるが、ただ我々の意志は自ら価値を定むるもので、すなわち人格は絶対的価値を有している。氏の教えは誰も知る如く汝および他人の人格を敬し、目的そのものとして取り扱えよ、決して手段として用うるなかれということであった」
これまで言ってきたことを結論してしまえば、善とは、自分自身の向上心を言うのでありまして、その向上心、人格という自分自身の求める最大の目標・ゴールとは、人間としての完成。これが絶対の善といえるでしょう。換言すれば、人間の完成とは、悟りに至る、と言うことであります。
そうして、自分自身の向上心とは、つまりこの世界の無限の向上との一致。つまり、悟りに至るということであります。人間として、個人が完成するのを待つばかりではありません。この世界の善とも一致しないといけないわけであるのです。この世界の善、それはすなわち、神や仏という、この世界そのものと言っても過言ではない存在と冥合(奥深いところで合致すること)することであります。善とはそういうものであるとしますと、善の行いとはなにか、を規定することにもなると思われます。
こうしてみますと、善の行いとはまずもって、自分自身の完成を目的としていることを前提としており、自分自身の完成をもって、一切の認識・知覚の始まりでありまして、この全宇宙において自分自身の完成、つまり悟りこそ絶対的価値をもっているのであります。われわれには生まれつきいろんな要求・欲求があります。肉体的・精神的要求があります。そう、お金持ちになる、権力者になる、大学者になる、大芸術家になる、これらはもっとも貴ぶべきものであることは間違いありません。ですが、それらがいかに偉大なものであったとしても、自分自身の完成から離れてしまっては空虚であります。
それらは、自分自身の完成に与する、という点において有益なのであって、富貴、権力、健康、技能、学識、これだけでは雑学に成り果てるばかりであり、人格の完成につながらないのであればかえって有害なのであります。すなわち、確実なる善なる行いとは、悟りを開かんと欲す、その向上心でなければいけないのであります。
カントに従えば、モノとは第三者より価値を定められてしまうものであり、どうしても相対的な価値にしかなりえませんが、しかし、われわれの心は、自らを律し向上させることでその価値を不動のものとすることができるのであります。カントの教えは、御存知の通り、自分や他者を敬い、目的と手段を履き違えるなよ、ということであったのであります。
ということですね。
しっかし、これだけ贅言しておきながら、言ってることは「悟り」の一字に約されるのがなんともなぁw もう、意地でも悟りなんて言葉使ってあげないんだからね! という執念を感じますが、その無駄な執念こそ悟りを妨げる雑念なような気がしないでもないですw ではお次w p347
「しからば、真に人格そのものを目的とする善行為とはいかなる行為でなければならぬか。この問いに答うるには人格活動の客観的内容を論じ、行為の目的を明らかにせねばならぬのであるが、まず善行為における主観的性質すなわちその動機を論ずることとしよう。善行為とはすべて自己の内面的必然より起こる行為でなければならぬ。先にもいったように、我々の全人格の要求は我々がいまだ思慮分別せざる直接経験の状態においてのみ自覚することができる。
人格とはかかる場合において心の奥底より現れ来たって徐ろに全心を包容する一種の内面的要求の声である。人格そのものを目的とする善行とはかくの如き要求に従った行為でなければならぬ。これに背けば自己の人格を否定した者である。
至誠とは善行に欠くべからざる要件である。至誠の善なるのは、これより生ずる結果のために善なるのではない、それ自身において善なるのである。人を欺くのが悪であるというは、これより起こる結果によるよりも、むしろ自己を欺き自己の人格を否定するの故である」
では、真に、悟りを目指す善き行為とはどういう行為でなければならないでしょうか。この質問に答えるには、まずもって、なんで悟りを目指すのか? を客観的に明らかにしないといけないのではありますが、では、善き行為における、何故、悟りを開くことを目指すのか、の何故? から見てみることと致しましょう。
善き行為とは、本質的に自分の心がそれを真摯に欲するものでなければなりません。前にも申した通り、われわれの人間の要求・欲求は、綺麗な朝日を見たとか、かぐわしい花の香りを嗅いだとか、素晴らしい音色の演奏を聞いたとか、刺激を受けたその瞬間でのみ自覚することが出来るのであります。
人間の向上心とは、こういう状況下において、心の奥底より沸き起こって自分自身の心をすべて包み込む心の奥底から欲する、心の求める声なのであります。悟りを開かんことを欲する行いとは、心の声の発露なのであり、これに目を背けて金儲けをしたり、柄にもない役職や権力を求めるのは自分自身の心を否定する行いであります。
至誠とは、善を行うに欠かせない枢機であります。何ゆえ至誠が善なのであるかというのは、これをもとに行われた結果、仕事内容が善だからではありません。至誠そのものが善なのであります。人をだまくらかし金を奪うという行為は、その詐欺的行為自体が悪なのではなく、そう思っている自身の心そのものがすでに悪なのであります。
といったところでしょう。
とは申せ、何度見てもこの、「我々の全人格の要求は我々がいまだ思慮分別せざる直接経験の状態においてのみ自覚することができる」というあたりの言っていることがいまだにわたしには腑に落ちませんけどね。
悟りを開かんと欲するという心が、思慮分別しない、刺激を受けた瞬間でしかいけない、わからないというのなら、それ以降の思考によって得られる理解はすべて悟りを開かんと欲する心ではないのかよ。と言いたくなってしまいますね。
そんな電光石火の刹那の閃きでしか得られないものであるのなら、それが本当に人類の叡智と言ってよいのか、懐疑的になってしまいます。いやもし、100歩譲って、悟りというものが確かに電光石火の閃きでしか開けないという類のものであったとしても、しかし、その後、悟りを開いた人は、それに類する善なる行為を行えるはずであり、行うはずであり、それが決して至誠などではない、などとはさすがにキタロー氏もいえますまい。
もう少しいえば、もし、例えば、人から騙されて金を奪われた、その瞬間。その思慮分別の加わらない直接経験が大事だというのなら、そこにあるのは絶望であり、失望であり、その後の、疑念であり、後悔であり、怒りであり、憎しみでありましょう。それは最悪、目には目を歯には歯を、という応報観念にすらなりかねません。
それらを乗り越えるのも、悪に染まりかねない自身のを心を制して善に向かおうとする心も、まさしく熟慮して、沈思黙考して得られるものであり、刹那の閃きに悟りに至る道はない、とわたしは思います。
至誠が何ゆえ至誠であるか。
それは、その人の心にもはや悪が存在しないからであり、悪を行おうとする邪な邪念が存在しないからである。なにゆえそんなことが言えるのか。
悟りを開かんと欲するほど人は、もはや世の中の様々な悪、邪を見聞きし、味わい、それにうんざりするからこそ、自身は決してそんな道には落ちない。堕落しないという絶対的な決意があるからであり、それはまさしく今の世の中のように、トランプの如き、日本の政治の如き、ロシアや中共の如き、悪を行うことを何とも思わないような魑魅魍魎が跳梁跋扈する世界であるからこそ、こんな下衆になるために生まれてきたのではない! こんなクズ共になるくらいなら飢えて死ぬくらいが我が分限として相応である! と心に誓うから、決して自らはそれらに近づかないのであります。それらに類する行為には自身を堕落させない。という絶対の覚悟と決意があるから、そこから生まれてくる心は、向上心は、至誠なのであります。
そういう意味において、今の世の中ほど、悟りを求めやすい時代はないといえます。もっとも、そのことに気がつくにも、最低限の学問は必要なのではありますが、その学問の必要性を理解している人も、やはり少ない、という。
もったいない。ではお次。p348
「自己の内面的必然とか天真(天真爛漫の天真)の要求とかいうのは往々誤解を免れない。ある人は放縦無頼(一人勝手気ままに法秩序をないがしろにすること)社会の規律を顧みず自己の情欲を検束(制限・制約)せぬのが天真であると考えておる。しかし人格の内面的必然即ち至誠というのは知情意合一の上の要求である。
知識の判断、人情の要求に反して単に盲目的衝動に従うの謂ではない。自己の知を尽くし、情を尽くした上において始めて真の人格的要求すなわち至誠が現れてくるのである、
自己の全力を尽くしきり、ほとんど自己の意識がなくなり、自己が自己を意識せざる所に、始めて真の人格の活動を見るのである。試みに芸術の作品について見よ。画家の真の人格すなわちオリジナリティはいかなる場合に現れるか。画家が意識の上において種々の企図をなす間はいまだ真に画家の人格を見ることはできない。多年苦心の結果、技芸内に熟して意 到り筆おのずから随う所に至って始めてこれを見ることができるのである。
道徳上における人格の発現もこれと異ならぬのである。人格の発現するのは一時の情欲に従うのではなく、最も厳粛なる内面の要求に従うのである。放縦惰弱とは正反対であって、反って艱難辛苦の事業である」
自分自身の性格に合致するとか、生まれつきの性格とかいうのは、おうおうにして誤解があります。とある人は社会の規範に従わず、わがまま放題に、飲む・打つ・買うをやることこそが人間の本来の性質である、天然自然である、などと考えている人がいます。とんでもない謬見であって、そういう俗心を打破し、自身の本当の心の内なる声に従うことこそ至誠といえます。
本来あるべき物事の道理や義理に反して、ただ単に意馬心猿になればよいというものではありません。自分の知識を出し切り、真心を尽くしたうえで、始めて人間に至誠が宿るのであります。自分の全身全霊を注ぎ込み、もはや、小我がなくなり大我の中に没却したったその先にこそ、本当の悟りが開けるのであります。
絵画で例えてみましょう。画家が本当の個性を発揮するときというのは、画家がまだ、キャンパスの上に技巧を凝らしている間は本当とはいえません。長年苦心惨憺し、もはや技巧ということを意識しなくなった、その先、もはや画家とキャンパスが渾然一体となったその境地こそが、本当の個性といえるのであり、道徳とてこれと相違はありません。低次元の本能的欲求を超克し、己がもっとも正しいと、敬う方、あこがれる方に近づきたい。自分もそうありたいと思う時、それは惰弱・放蕩とは真逆であり、まさしく大丈夫、万世の偉業ならん。
短かめ。
ここらへんもそうですね。キタロー氏はとかく、本物以外は受け付けねぇ! 本物以外は意味がねぇ! と言いまくってますけど、とはいえ、本当に我欲を超克し、没我の境地にまで至った画家なんてそうそういないと思うんですよねぇw
仏師が佛を彫るのとぜんぜん違って、西洋画家が絵を描くのって、仕事であり、名声を獲得するための一事業であるとわたしには思えるので、金もいらん。権勢もいらん。名声も名誉もいらん。って本当の無我の境地で生きた芸術家がそうそういるとは到底思えないんですよね。だいたい、あの神から愛された天才ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトだって人間的には問題児だと言われて、なんやかんやあって35歳の早死ですからね。
でもまあ、最終的にその境地に至れたら素敵ですけど、それを目指す過程も、重要だと思います。本物以外はすべてにせもの! ではなく、本物を目指す未熟者、本物に一歩でも近づきたい初学者、も素敵です。大切なのは、一生懸命それを目指すこと、一歩、一段、己をその上へ、その先へ、すすめることであります。
あ、ちなみに、ここにある、大丈夫、とはもーまんたい、のことではなく、立派な男子、のことであります。丈夫と書いて、ますらおと読みます。大いなるますらお、で大丈夫。元ネタは「山中の賊を破るは易し、心中の賊を破るは難し」の王陽明先生のお言葉ですね。ではお次。p351
「しかし、さらに一歩を進めて考えてみると、真の善行というのは客観を主観に従えるのでもなく、また主観が客観に従うのでもない。主客相没し、物我相忘れ天地唯一実在の活動あるのみなるに至って、始めて善行の極致に達するのである。物が我を動かしたのでもよし、我が物を動かしたのでもよい。雪舟(1420~1506 日本の室町時代に活躍した水墨画家・禅僧。国宝、『天橋立図』などが有名)が自然を描いたものでもよし、自然が雪舟を通して自己を描いたでもよい。元来、物と我と区別あるのではない。
客観世界は自己の反影といい得るように、自己は客観世界の反影である。我が見る世界を離れて我はない。天地同根万物一体である。インドの古賢はこれを「それは汝である」といい、パウロ(?~60 キリスト教の使徒であるがイエスの死後に回心したので十二使徒ではない)は「もはや余 生けるにあらずキリスト余に在りて生けるなり」といい、孔子は「心の欲する所に従うて矩を踰えず」といわれたのである」
さて、もう少し考えてみまするに、本当の善行といいますのは、わたしがものに従うのでも、ものがわたしに従うのでもありません。わたしとものという区別すら忘れてしまう、わたしとものとの垣根すら忘れてしまう、わたしとそのものが一体となる。溶け合ってしまう。身も心もひとつとなってしまう。そうなって本当であります。
雪舟が自然と一体となって水墨画を描いたでもよい。自然が雪舟と一体となって水墨画に己を生き写したでもよい。本来、世界はひとつなのであります。
例えば、第三者の反応でその人のひととなりが分かるのと同じように、自分のありようが第三者の反応となるのであります。わたしと世界は決して無縁ではいられない。インドの古賢は「それは汝である」といい、使徒パウロは「もはや余 生けるにあらずキリスト余に在りて生けるなり」といい、孔子様は「心の欲する所に従うて矩を踰えず」とおっしゃられたのであります。
なかなか面白いお言葉ではありますが、重要なことを申しておきます。
最後の孔子様のお言葉。これは、
【子曰く、吾れ十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲するところに従い矩をこえず】
であり、数ある論語の名言の中でも屈指の名言であります。これは孔子様の成長を回顧したお言葉であり、安岡先生いわく、これは誰にでも起こり得ることなのだそうです。
わたしは、およそ十五歳で学問で立身することを志した。
三十歳で自立した。
四十歳で人生から迷いが消えた。
五十歳で自分の人生は天から与えられたものであったと知った。
六十で耳に痛いことを言われても素直に従えるようになった。
七十で好き勝手に振る舞ったとしても世間のルールや規範から外れることがなくなった。
いまどきでも、不惑に達しました~などという言い方をすることがあるように、ここは現代でも残っている論語と言えるでしょう。
そして、大事なこと。
孔子様は、70歳になったときに自覚されたわけです。そして、孔子様は73か74歳というその当時としては(約2500年前)ずいぶん長生きをされたわけですが、つまり、亡くなられる数年前にこの境地に達せられたわけであり、孔子様をもってしても人間の完成には70年はかかる、とおっしゃられているととらえてもよいでしょう。
キタロー氏は物我渾然一体を例えるのに、孔子様のお言葉を引用したのでしょうけど、語るに落ちた気はしないでもないですw
あと、こういう無我の境地に至った言葉、天童正覚(1091~1157 宋の時代の曹洞宗の禅僧)の偈(禅僧が悟りの境地を詩に託して明らかにするもの)に素敵なものがあるのでみてみましょう。
夢幻、空華
六十七年
白鳥、湮没(沈めて姿を消すこと)して
秋水、天に連なる
夢か、幻か。病眼の前にただよう幻の華、幻覚か。六十七年の人生であった。我が心は、空の碧にも、水の青にも染まらず浮かんでいた白鳥であったが、いまふっとその姿を没す。その後はただ、水天一碧。秋の空の碧、秋の湖面の青が溶け合うように、ただただ広がるばかりである。
天童正覚は、自身の死を悟ると、下山して檀家さんにあいさつし、その後山に戻っていつもとかわらぬ食事をし、沐浴し、衣服を着替え、後事を託し、偈を書いて遷化されたとか。
もう、すべてにおいて力みがないですよね。すべて自然。あるがまま。
これが真! 至誠! 主客未分の純粋経験! と力みまくってるキタロー氏も、しょうもない西洋哲学なんぞ学んでいる暇があったら、まずは東洋に学ぶべきなんです。特に、昔の中華の禅僧の逸話には「不落因果・不昧因果」とか面白いお話があるのでそういうところから学ぶべきなんです。言っても詮無きことですけどw まあ、好意的に見るならこの青臭さこそがキタロー氏のこれからの成熟を期待できる余地なのかも知れない(誰目線なんだ?)。
また、王陽明先生の最後のお言葉も自然です。
お弟子さんが王陽明先生に、最後にお言葉をたまわりたく、とおっしゃられたら、先生は、
「わが心光明。はたまた、何をかいわんや」
とおっしゃられた。
もう、これまでさんざんわたしが我が人生をもって語ってきたではありませんか。あとは、皆さんでしっかりおやんなさい。という意味でしょうね。
何も遺すことがない。何も遺す必要がない。
人生を精一杯生きてきた王陽明先生だからこそ、言えるお言葉でしょう。
わたしも、70歳まで生きて臨終を悟った時に、こう言える人間になりたいものであります。それまで生き残れるか、がわたしにとっては大変大きな問題ではありますがw
あと、結論としまして善行為だの善行だのいいながら、ほぼほぼ例え話ばっかで具体的な実践には一切触れていない、ということには留意しておくべきでありましょう。-人-
といったところで、『善の研究』を読んだ。十一の巻はこれにておしまい。
したらば。
だんご大家族を聴きながら。
だんご。だんご。だんご。だんご。だんご。だんご大家族。