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『善の研究』を読んだ。十の巻



 さて、世間様がずいぶんかまびすしいですね。


 なにやら国民的アイドルであったタレントが大炎上の上に大炎上し、いよいよ廃業にまで追い込まれたのだとか。それに絡んでとある大テレビ局も大企業含むスポンサーが逃散しどえらいこっちゃな状態なのだとか。


 米国ではトランプ再選、そろそろロシア侵攻も和平に至りそうな機運も聞こえてきそうな気配、どこぞの半島では現職大統領が不当なる法根拠を以て逮捕されるという珍事も起こっている状況で、世界はあいも変わらずもどったんばったん大騒ぎですね。


 今年は乙巳いっしの年であり、旧弊・因循姑息を打破し、雄々しく新しい秩序を打ち立てなければいけない年でもあるわけで、ここでこういう悪を断ち切れず来年にまでずるずると尾を引きますと非常にまずいことになるわけで、日本の旧弊・宿痾しゅくあに鉄槌を下せるのかどうかが気になるところではありますね。


 一応、『善の研究』も読むところによっては面白いわけでw こういうご時世だからこそ己を高める好材料が欲しいところです。前回のキタロー氏の肝となる箇所をもう一度みてみますと、



「価値的判断の本である内面的要求と実在の統一力とは一つであって二つあるのではない。存在と価値とを分けて考えるのは、知識の対象と情意の対象とを分かつ抽象的作用よりくるので、具体的真実在においてはこの両者は元来一つであるのである。


 すなわち、善を求め善にうつるというのは、つまり自己の真を知ることとなる。合理論者が真と善とを同一したのも一面の真理を含んでいる。しかし、抽象的知識と善とは必ずしも一致しない。この場合における知るとはいわゆる体得の意味でなければならぬ」



 自身の価値を決める大元となるもの。それは、自分が憧れるもの、自分の理想と、それを実現する力、理想を成し遂げる自身の意志、こころざし、この二者ではあるがこれらは別個にあるものではありません。ひとつであります。


 自身を良くする、自身を成長・進化させるこころざし、というのは、自分自身の本当を知ることであります。それは例えば、多くのおなごとヤりまくる人生が至上なものではない、とはっきりと悟ること、それを会得・体得することです。



 ということですね。


 仏教的な悟りに憧れることと、悟りを開こうという意志は、これは別個に独立して存在するものではなく、矛盾するものでもなく、己の中にひとつのものとして存在しているのであります。そしてそれを成し遂げる、本気で悟りを目指すのなら、そのためにはまず、己を知ることが重要であります。西洋の古いことわざにも、


『汝自身を知れ』


 という言葉があります。ソクラテスも座右の銘としたそうですが、それくらい大事な言葉であり真理であります。まず、己を知らねば始まりません。自分の人生を終わらせることできますが、始めることはできません。


 悲しいかな、現代社会には己を知っている人はほとんどいないので、数多のおなごとヤりまくる人生こそ至上! と信じて疑わない人々で溢れかえっている、という、ただそれだけであります。


 そうやって始まってもいない、己の人生をはやばやと終了させているわけです。


 もし、本当に、「善を求め善にうつるというのは、つまり自己の真を知ること」ということが分かってくれば、ほっといたって勝手に教えを求めるようになります。正しい教えを。


 まあ、それまでは何十回だって人生をやり直すのも乙なものでしょう。



 というところで『善の研究』を読んだ。十の巻、読んでみましょう。p334




(一)




「前にはまず善とはいかなるものでなければならぬかを論じ、善の一般の概念を与えたのであるが、これより我々人間の善とはいかなるものであるかを考究し、これが特徴を明らかにしようと思う。


 我々の意識は決して単純なる一の活動ではなく、種々なる活動の綜合であることは誰にも明らかなる事実である。してみると、これらの種々なる要求の中で、いずれの要求を充たすのが最上の善であるか。我々の自己全体の善とはいかなるものであるかの問題が起こってくる。


 我々の意識現象には一つも孤独なるものがない。必ず他と関係の上において成立するのである。一瞬の意識でもすでに単純ではない。その中に複雑なる要素を含んでいる。しかして、これらの要素は互いに独立せるものではなくして、彼此ひし関係上において一種の意味をもったものである。ただに一時の意識がかくの如く組織せられてあるのみではなく、一生の意識もまたかくの如き一体系である。自己とはこの全体の統一に名づけたのである」




 さて、長々と善とはいかん。と語ってきましたし、かつ善に関する概念を論じてきましたが、これからはそういう概念からいよいよ一歩歩を進め、われわれにとって善を行うとはなにか、を考え、つまびらかにしたいと思います。


 さて、われわれの意識とは、決して機械的な、単調な活動ではなく、起きて、ご飯を食べ、学校や職場に行き、お風呂に入って就寝する、そういう様々な日常の円満なひとつの調和であることは誰でも首肯できるものと思います。そうなりますとどうしても、こういう日々の生活の中で、様々な選択肢といいますか、決断、判断を求められる一瞬、一瞬が起こってくるわけですが、どういう生き方をするのかが自分にとっての最上で最良の人生であるといえるか、調和ある善とはどういう生き方か、という問題が起こってきます。


 われわれがこうして生きて意識するということに、孤立しているものはありません。様々なものとつながり、相対して相関しているものであります。例えば、通勤や通学で電車などに乗っているとき、車窓から景色を見るだけでも、そこには本人ですらすべてを意識できない様々な想像・連想が生まれているのであります。


 それが対人関係におけるものなら、その一瞬、一瞬のひらめきや思いつきはとうてい語り尽くせぬでしょう。そういういろいろな出来事の中で、意識の中で人間は己の人生を生きる。自分、とはこういう人生の連続性、総合をいうのであります。




 さて、キタロー氏はいよいよ善とは何か、という考察から、善を行う、という段階に至ろうとおっしゃるようですね。その前段として何をいうか。人間一人の意識も、んな単純なものじゃないっすよ、と。複雑な連関の中に人の意識はあるんすよ、と。


 あ、はい。


 次w p335




(二)




「してみると、我々の要求というのも決して孤独に起こるものではない。必ず他との関係上において生じてくるのである。我々の善とはある一種または一時の要求のみを満足するのいいでなく、ある一つの要求はただ全体との関係上において始めて善となることは明らかである。例えば、身体の善はその一局部の健康でなくして、全身の健全なる関係にあると同一である。それで、活動説より見て、善とはまず種々なる活動の一致調和あるいは中庸ということとならねばならぬ。我々の良心とは調和統一の意識作用ということとなる。


 調和が善であるというのはプラトーの考えであった。氏は善を音楽の調和にたとえておる。英のシャフツベリ(1671~1713。道徳哲学者。人間は利己的であると同時に社会全体の調和のために人を愛することができると説いた)などもこの考えを取っておる。また、中庸が善であるというのはアリストテレースの説であって、東洋においては『中庸』の書にも現れている。アリストテレースはすべて徳は中庸にあるとし、例えば、勇気は粗暴と怯弱きょうじゃくとの中庸で、節倹は吝嗇りんしょくと浪費の中庸であるといった。よく子思(しし)(紀元前492~紀元前431。孔子様のお孫さん。中庸は子思さんの作とか)の考えに似ている。また、進化論の倫理学者スペンサー(1820~1903。イギリスの哲学者。ダーウィンの『種の起源』を読んで、自然選択説を適者生存説と言い換えたんだとか)の如きが、善は種々なる能力の平均であるといっているのも、つまり同一の意味である」



 

 そうしますと、われわれの欲望や向上心というものも、ひとりでにおこるものではありません。必ず、様々なものとのやりとりにおいて発生するのです。われわれが善を行うとは、一食の食事のようにぱっと起こって満足できるようなたぐいのものではなく、それは大きく言うと歴史とか人類史、民族史などのように連続性、永遠性をもってはじめて満足できるようなたぐいのものなのであります。


 たとえば、体の健康とはたった一箇所だけ健康ならそれでよいのではなく、体全体が健康でなければならないのであるのと同様に、自分だけ善に進んでおれば満足なのではなく、それはひいては民族や国全体に波及することを自ずと望むことであり、そうしてはじめて中庸を得るのであり、円満なる調和なのであります。


 調和が善であるというのはプラトーの考えでした。彼は善を音楽の調和にたとえています。イギリスのシャフツベリなどもこの考えです。また、中庸が善であるというのはアリストテレスの説であり、『中庸』にも見ることが出来ます。


 アリストテレスはすべて徳は中庸にあるとし、例えば、勇気は粗暴と臆病との中庸であり、節約はドケチと浪費の中庸であるといっております。これも子思ししの考えに似ていますね。また、進化論の倫理学者スペンサーが、善とは様々な能力の平均であるといっているのも、つまり同様であります。




 今回は短め。短いですがなかなか内容は濃い。


「身体の善はその一局部の健康でなくして、全身の健全なる関係にあると同一である。それで、活動説より見て、善とはまず種々なる活動の一致調和あるいは中庸ということとならねばならぬ。我々の良心とは調和統一の意識作用ということとなる」


『攻殻機動隊』の中のセリフで、


「世の中に不満があるなら自分を変えろ。それが嫌なら、耳と目を閉じ、口を噤んで孤独に暮らせ」


 というものがありますね。これは攻殻機動隊SACの一話目で草薙素子がいうセリフですね。当初は体制側といいますか、いかにも公安らしいセリフをはくんですね。でもまあなんやかんやあって素子は笑い男に同調して反体制的に動くわけですがw 


 これこそ「かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂」なわけで、そこに善が、正義があるのなら動かざるを得ない、行動、発言せざるを得ないわけで、そこに病巣があるのならそれを摘除しないわけにはいかないといいますか。悪を指弾せねばやまないといいますか。


 日本全体のことを思えばこそ、自身の信念を貫き通さねばならないというこころざしなわけですね。


 第一話に素子にこのセリフを言わせておきながら、最終的に笑い男になって悪を暴く、というのが面白いわけで。まあだから公安9課殲滅の憂き目に合うのもお話の流れとしては興味深いw


 それはともかく、もうひとつ大事なのが、この「中庸」。中庸の庸は用で、用いる。中を用いるということですね。そして何度も申し上げますが、中は何も真ん中、という意味だけではなく、中には一段進化する、という意味があります。


 これは折中、という言葉を見ますとわかりやすいです。ネットで折中を調べますと、「両方の極端を捨て、ほどよいところをとること」と出てきますが、これは間違いですw よく折中案とかいって程よいところに落ち着くもんだと思ってしまいますが、それは正しくは妥協案であって、そんなものは折中ではありません。


 何故なら、折中には、折る、という言葉があるからです。折るとはなにか。悪を折るのです。A案とB案を見比べたときに、明らかにA案が善である、B案は悪であるとはっきり分かったときに、何をするか。B案を折るんです。ぽっきりと。善をすすめて、悪をつぶすんです。これが本来の折中です。


 中という字にはそういう、善をすすめる、という意味がきちんとあるわけです。では次。p337




(三)




「しかし、単に調和であるととか中庸であるとかいったのでは未だ意味が明瞭でない。調和とはいかなる意味における調和であるか、中庸とはいかなる意味においての中庸であるか。意識は同列なる活動の集合ではなくして統一せられたる一体系である。その調和または中庸ということは、数量的の意味ではなくして体系的秩序の意味でなければならぬ。しからば、我々の精神の種々なる活動における固有の秩序はいかなるものであるか。


 我々の精神もその低き程度においては動物の精神と同じく単に本能的である。すなわち、目前の対象に対して衝動的に働くので、全く肉欲によりて動かされるのである。しかし、意識現象はいかに単純であっても必ず観念の要求をそなえている。それで、意識活動がいかに本能的と言っても、その背後に観念活動が潜んでおらねばならぬ。


 いかなる人間でも白痴の如き者にあらざる以上は、決して純粋に肉体的欲望をもって満足するものではない。必ずその心の底には観念的欲望が働いている。すなわち、いかなる人もなんらかの理想を抱いている。


 守銭奴の利を貪るのも一種の理想より来るのである。つまり、人間は肉体の上において生存しているのではなく、観念の上において生命を有しているのである。ゲーテのすみれという詩に、野の菫がわかき牧女に踏まれながら愛の満足を得たというようなことがある。これがすべての人間の真情であると思う。


 そこで、観念活動というのは精神の根本的作用であって、我々の意識はこれによりて支配せらるべきものである。すなわち、これにより起こる要求を満足するのが我々の真の善であるといわねばならぬ。しからば、さらに一歩を進んで、観念活動の根本的法則とはいかなるものであるかといえば、すなわち理性の法則ということとなる。理性の法則というのは観念と観念との間の最も一般的なるかつ最も根本的なる関係を言い表したもので、観念活動を支配する最上の法則である。そこでまた理性というものが我々の精神を支配すべき根本的能力で、理性の満足が我々の最上の善である。


 何でも理に従うのが人間の善であるということになる。シニック(キニク学派・犬儒学派)やストイック(ストア学派)はこの考えを極端に主張したもので、これがためにすべて人心の他の要求を悪として排斥し、理にのみ従うのが一の善であるとまでにいった。しかし、プラトーの晩年の考えやアリストテレースでは理性の活動より起こるのが最上の善であるが、またこれより他の活動を支配し統御するのも善であるといった」




 とは申せ、ただ調和とか中庸といってもこれだけでは分かりづらい。調和とは、どういう意味で調和か。中庸とはどういう意味で中庸か。


 意識は、一本道にあるものではなく様々な生活の中で起こったり消えたりする連続性であります。そこにいう調和、中庸というのは、多い少ないとか、そういう数値的なものではなく人間生活を締めくくる法・規則でなければなりません。そうしますと、人間の生活における調和・中庸とはどういうものでしょうか。


 われわれの心も、若いうちは動物とかわりありません。腹が減ったとか眠いとかそういうものです。ですが、人間の意識はそういう動物的欲求をはるかに超えて向上心をもっていないといけません。誰であれ、身体障害者でないのなら、動物的欲求だけに満足できるものではありません。必ずそこにはなんらかの向上心をもっているのです。


 守銭奴が金をむさぼるのも、それも一種の向上心であります。つまり、人間はただ生きているのではありません。向上心を満足させるために生きているのです。ゲーテの菫という詩に、野になる菫が若い牧場の娘に踏まれながら愛情を感ずるということがあり、わたしはこれが人間の真心だと思います。


 そこで、向上心というものは人間の精神の根本的な作用であり、我々の意識はこの向上心に支配されるべきであります。すなわち、向上心を満足させるということこそ、われわれ人間の真の善であると言わなければなりません。ではさらに一歩進めて、向上心の根本的法則とはなにかといえば、それこそ理性の法則ということとなります。


 理性の法則とは、金銭欲とか信仰心とか様々な人間の向上心を司るもののいち表現であり、理性こそが向上心の最上位にあるものであり、つまりは、理性を満足させることこそ、われわれの目指す最上の善であると言えるでしょう。 


 そうしますと、とりあえず理性に従うのが善であるということになります。犬儒学派やストア学派は、これを実に極端に言い放ったものであり、なので理性以外の欲をすべて悪と断じました。ですが、プラトンの晩年の考えやアリストテレスは理性が最上であると考え、かつ、その理性によって己自身を締めくくるのが一番の善だと考えました。




「守銭奴の利を貪るのも一種の理想より来る」ということで、キタロー氏のいう理想とは、意地汚いまでの金銭欲も理想という範疇に含めるようであります。そして、その理想や観念活動の最上位の統括するものが理性であり、それをすすめると、「理性の満足が我々の最上の善である」となるようです。


 プラトンやアリストテレスのごときもこの理性こそが重要であると認識していたようではありますが、しかし、わたしのような人間は理性といわれても素直には腑に落ちないんですよね。何故かといいますと、人間の理性といってそれが何やら崇高なある種の絶対性、神聖性を持っているかのようにいい出したのが、いわゆる進歩主義であるからです。


 進歩主義というのは、人間のこの現在の文化や科学が、さらにその理性によって洗練され、よりよい未来を作ってゆくという思考であったわけですが、実際にはそんなことは絶対に有り得なくて、一握りの権力者、資本家によってますます富は独占され、『南洲翁遺訓』の11にある、



「実に文明ならば、未開の国に対しなば、慈愛を本とし、懇懇説諭して開明に導く可きに、左は無くして未開蒙昧の国に対する程むごく残忍の事を致し己れを利するは野蛮ぢや」



 のお言葉通り、世界はグーグルやアマゾン、アップルという、いわゆる「GAFAM」などによって富や知識は独占され、いわゆる情弱を食い物にしてますます肥え太っているわけで、「未開蒙昧の国に対する程むごく残忍の事を致し己れを利する」が現在進行形で行われているわけです。これが世界の現状であり、白人まんせーな世界なわけであります。理性というのはキタロー氏も言っているように、そこには金銭欲も支配欲も権勢欲も性欲もすべてひっくるめて保有しているのいいなわけで、北の豚まんだの、中共のシュウインペーだの、ロシアのプー太郎だの、日本のある種の連中だの、その理性というおためごかしの下に各種の欲を蠢かせているわけで、そんな理性とやらを鵜呑みにするわけにはいかないんですよね。理想ならともかく。


 あと、「ゲーテのすみれという詩に、野の菫がわかき牧女に踏まれながら愛の満足を得たというようなことがある。これがすべての人間の真情であると思う」ここの箇所がわたしにはさっぱりわからんw


 なんだろう、自分の性的嗜好を暴露するのやめてもらっていいッスか? って思うw ではお次w p340




(四)




「もし我々の意識が種々なる綜合により成っていて、その一が他を支配すべきように構成せられてあるものならば、活動説における善とは右にいった如く理性に従うて他を制御するにあるといわねばならぬ。しかし、我々の意識は元来一の活動である。その根柢こんていにはいつでも唯一の力が働いている。知覚とか衝動とかいう瞬間的意識活動にもすでにこの力が現れている。


 さらに進んで、思惟、想像、意志という如き意識的活動に至れば、この力が一層深遠なる形において現れてくる。我々が理性に従うというのも、つまりこの深淵なる統一力に従うの意に外ならない。しからずして、抽象的に考えた単に理性というものは、かつて合理説を評したところに述べたように、なんらの内容なき形式的関係を与うるにすぎないのである。


 この意識の統一力なるものは決して意識の内容を離れて存するのではない、反って意識内容はこの力によって成立するものである。もちろん、意識の内容を個々に分析して考うる時は、この統一力を見出すことはできぬ。しかし、その綜合の上に厳然として動かすべからざる一事実として現れるのである。例えば、画面に現れたる一種の理想、音楽に現れたる一種の感情の如きもので、分析理解すべきものではなく、直覚自得すべきものである。しかして、かくの如き統一力をここに各人の人格と名づくるならば、善はかくの如き人格すなわち統一力の維持発展にあるのである」




 もし、われわれの意識が様々な日常生活の合計、総合のうえに成り立っていて、例えば理想といったあるひとつが他を支配すべきものとしてあるとしますと、活動説における善とはいま申し上げたように、理性によって様々な欲などを制御しているといえるでしょう。ですが、われわれの意識とは元来、混沌たる本質的な活動であり、知覚とか衝動とかいう精神状態にもこの、混沌たる本質的性質があるのです。


 もう少しいいますと、思惟、想像、意志というような精神活動にもなりますと、この混沌たる本質的活動がますます発揮されてきます。われわれが自身の理性に従うというのも、混沌たる本質的活動、つまり、「四時の序」と言うように、春が来れば必ず次には夏が来る、夏が来れば必ず次には秋になるように、決して遡らず、とどまらず、永遠に突き進むべき無限の向上心とか、春になれば様々な生物が活動を始めるような、生成化育、この天と地が両両相まって万物を産み、育てる力といったように、人間の精神活動の根柢には、必ず、この神に至らんとする無限の向上心、神を敬する無量の信仰心があるのであって、そうではなく、概念のお遊戯によって作り上げられた理性というものは、前に合理説で申したように、画餅にすぎなくなるのです。


 この、意識の向上心というものは、決して今言ったような内容を離れたところにあるのではありません。もっと言えば、人間の意識というのは本来、こういう向上心、信仰心によって立派に生育するのであります。そして、当然、意識の内容をバラバラに分解・解剖して見たときに、その中に向上心も信仰心も見ることは出来ないでしょう。それは、人間の日々の生活の中にしっかりと息づいているものなのであって、例えば、絵画に奇跡的に描かれたある種の理想や、音楽の中に込められた人の琴線に触れる情感であるようなもので、そういったものは分解・解剖して理解できるものなのではなく、会得・体得するたぐいのものなのであります。そして、そういう統一力、向上心を名付けるのならば、各人の人格、と言えるでしょうし、人が行うべき善とは、人格の完成にある、と言えるでしょう。




 といったところでしょうか。


 ここはキタロー氏も、理性とただ言ったところでそれは大したものではなく、人間の理想精神を離れたところにはない、ときっぱりと断言しておりますね。


 ただ、キタロー氏の言う、「我々の意識は元来一の活動である」の「一」とは何かと考えたときに、わたしは老荘思想的に考えました。老子には、「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず」とあり、この一、二、三、というのは概念といいますか仮の名づけでありまして、老荘思想的には「一」は混沌とか、この世界そのものとか、本質とかと判断するものであります。キタロー氏がどういう意味で言ったのかはなんともいいかねてしまいますが、「その根柢こんていにはいつでも唯一の力が働いている。知覚とか衝動とかいう瞬間的意識活動にもすでにこの力が現れている」という文脈から判断すると、当たらずとも遠からず、ってところかなと思っております。


 そして、東洋的に一、とか言う時は、そこには無限の向上とか、生成化育とか、天地が万物を産み育む創造力とか、そういうことを言うのでありまして、


「思惟、想像、意志という如き意識的活動に至れば、この力が一層深遠なる形において現れてくる。我々が理性に従うというのも、つまりこの深淵なる統一力に従うの意に外ならない」


 とキタロー氏が「深遠なる統一力」と言っているのも、無限の向上とか、生成化育とか、この世の本質的エネルギーを言っているのだとわたしは判断しました。


 なので、キタロー氏が理性、というものには、人間精神を向上せしめる厳粛な意義がそこにはあるのであり、機械的な、解剖学的な概念のお遊戯の果に厳粛な意義は消え去ってしまってもはやそこには存在しない、と言っているわけですね。なので、大きく例えていいますと、キタロー氏のいう「各人の人格」、というものは、東洋的な精神性と、西洋的な分析力、こういうものが調和・中庸して始めて成立するものである、と言って良いかもしれません。が、過言かもしれませんw でもまあ、文脈的にはそういう風に理解・解釈してもおかしくはないと思いますw ではお次。p342




(五)




「ここにいわゆる人格の力とは単に動植物の生活力という如き自然的物力を指すのではない。また本能という如き無意識の能力を指すのでもない。本能作用とは有機作用より起こる一種の物力である。


 人格とはこれに反し意識の統一力である。しかし、かくいえばとて、人格とは各人の表面的意識の中心として極めて主観的なる種々の希望の如きものをいうのではない。これらの希望は幾分かその人の人格を表すものであろうが、反ってこれらの希望を没し自己を忘れたる所に真の人格は現れるのである。


 さらばとて、カントのいったような全く経験的内容を離れ、各人に一般なる純理の作用という如きものでもない。人格はその人その人によりて特殊の意味をもったものでなければならぬ。真の意識統一というのは我々を知らずして自然に現われ来る純一無雑の作用であって、知情意の分別なく主格の隔離なく独立自全なる意識本来の状態である。


 我々の真人格はかくの如き時にその全体を現わすのである。故に、人格は単に理性にあらず、欲望にあらず、いわんや無意識衝動にあらず、あたかも天才の神来(しんらい)(神が降りてきた、というような神がかったインスピレーション)の如く各人の内より直接に自発的に活動する無限の統一力である(古人も道は知、不知に属せずといった)。


 しかして、かつて実在の論に述べたように、意識現象が唯一の実在であるとすれば、我々の人格とはただちに宇宙統一力の発動である。すなわち、物心の別を打破せる唯一実在が事情に応じある特殊なる形において現われたものである。


 我々の善とはかくの如き偉大なる力の実現であるから、その要求は極めて厳粛である。カントも、「我々が常に無限の歎美(たんび)(感動して褒め称えること)と畏敬とをもって見るものが二つある、一は上にかかる星斗爛漫せいとらんまんなる天と、一は心内における道徳的法則である」といった」




 ここで、いわゆる人格の優れた点というのは、単に動物や植物のもつ能力をいうのではありません。また、火事場のクソ力とでも称すべき無意識からおこる潜在能力をいうのでもありません。火事場のクソ力と言っても、物理法則を無視するものでもないですしね。


 人格とは、いま言ったものとは違い人間精神の無限の向上心であります。しかし、だからといって、人格とはその人の目指す先、例えば、孔子様にようになりたいだとか、海賊王に俺はなる! だとか、希望をいうのではありません。もちろん、それを目指す人はその人の如くになろうとはするでしょうが、本当の人格とは、そういう希望とか憧れといったものをポロリと忘れた地点、己すら忘れ去った地平に、真の人格は現れるのであります。


 だからといって、カントのいったような経験とか体験とかを離れ、ア・プリオリというような先天的な性質というものでもありません。人格とは、その人その人の人生において最上の意義をもったものでなければいけません。本当の人間精神の完成とは、知らず知らずのうちに心に去来する、よく運動選手が感得するゾーンとでも称すべき精神状態であります。


 われわれの本当の人格とは、こういう無意識の地平の先に至るものであります。ただ単に理性にあらず、欲望にあらず、ましてや無意識に発する欲望でもない。あたかも、神が降りてきた天啓ような、そうとしか言いようのない理解であります。


 そして、前に実在論で述べたように、われわれの精神が、この世界に唯一の存在であるとするならば、われわれの人格とは、ただちにこの茫漠たる宇宙そのものとも言えるでしょう。いわゆる物質界・精神界という区別すら超越する唯一の存在が、奇跡的にこの世界に存在しているといえるのであります。宇宙そのものが、人という形をなしているとも言えるかもしれません。


 われわれにとっての善とは、こういう次第の偉大なる発現でありますから、本来、人間が生きるということは極めて厳粛であります。カントも言いました。「常に無限の感嘆と畏敬を込めて見るものがふたつある。ひとつは星星がきらめく夜空であり、ひとつは我が心だ」と」




 キタロー氏もいよいよ熱論って感じで気合が入ってますね。


 ただ、こうしてみますと、それって悟りじゃね? って思うんですがキタロー氏は悟りに親でも殺されたのか、決してこういう精神状態を悟りであるなどとは言わないんですよねぇw 西洋哲学に脳みそ毒され過ぎて仏教思想・仏教哲学はスピリチュアルであるとのそしりをうけるとでも思ったかな?w


 それはともかくとしまして、いよいよキタロー氏の熱論も佳境に入ってまいりましたが、この前は人間の向上心の最上を「理想」であるといいましたが、それをさらに歩を進めまして、「各人の人格」と名づけたようであります。これは、カントのようなア・プリオリ、誰にでも先天的に付与された性質、とかそういうものではなく、その人その人の人生において、その人が至る最上の精神のことのようであります。


 それこそまさしく悟りというべきでありますが、まあよいでしょう。


 なので、あの人にはわかるが、その人には分からん。というような状態でありまして、これを聞いてわたしが連想したのが『論語と算盤』なんですよね。特に、渋沢栄一さんと西郷隆盛公とのお話のところ。



 ep.121 『論語と算盤』の丸写し。六、



 にあるお話なのですが、要約しますと、ある時、渋沢さんのお住いに大西郷が訪問された。何ですかと伺うと、「相馬藩の興国安民法」を残してほしい、というものでありました。渋沢さんはこの時、日本国家の税制に関して考えておられていた時であったので、相馬藩から懇請された西郷さんが、せっかくの良法なので残してはいかがか? と言われたわけですね。


 で、その時の渋沢さんが、西郷さんに、だったらそんなに貴方がおっしゃる興国安民法が何なのかご承知か、と問うと、西郷さんは、「ソレハ一向に承知せぬ」とのこと。それに対する渋沢さんの返しがこちら。



「どんなものかも知らずに、これを廃絶せしめぬようにとの御依頼ははなはだもって腑に落ちぬわけであるが、御存知なしとあらば致し方がない、私から御説明申し上げよう」



 例えて言うならば、いままさに日本国の税制を制定している真っ最中のプロ中のプロに向かって、ド素人が、しかも陳情に参っておきながらその内容すら把握していないだ? 正気か? くらいの勢いでしょうw で、知らんと言うのなら教えてやる、と説明しますと、西郷さんも、おおそんないいものならますます残すべきですな、とおっしゃる。で、それに対する切り返しがこちら。



「西郷参議におかせられては、相馬一藩の興国安民法は、大事であるによってぜひ廃絶させぬようにしたいが、国家の興国安民法はこれを講ぜずに、そのままに致しおいても差し支えないとの御所存であるか、承りたい。


 いやしくも一国を双肩に担われて、国政料理の大任に当たらるる参議の御身をもって、国家の小局部なる相馬一藩の興国安民法のためには御奔走あらせらるるが、一国の興国安民法を如何にすべきかについての御賢慮なきは、近頃もってその意を得ぬ次第、本末転倒のはなはだしきものである」



 相馬藩ごとき小藩の税制についてはご執心のご様子ですが、日本国の税制については何も知らんという有り様ですかな? そもそも、参議という国家の中枢におられるご身分なら、気にすべきは日本国全体のことではありますまいか。それを相馬ごときにかかずらわって日本のことをとんとご存じないとは、これは一体どういう次第でありますや。



 と言われてしまい、「言無かりき」とばかりに西郷さんはすごすごと帰ってしまった、というお話ですね。立場的には倒幕側の西郷さんと、佐幕側の渋沢さんであり、しかも西郷さんは薩摩藩ですからもっと上。にもかかわらず、ド正論パンチで西郷さんをぶっ飛ばされたわけですw しかし、だからといって西郷さんが何の見識も了見もない凡愚なわけがなく、『南洲翁遺訓』をみますと、西郷さんが危惧されたとおりに日本はだめになっていったわけであります。


 つまり何がいいたいかと言いますと、渋沢さんはまさしく江戸時代から明治に切り替わる、日本という国家の中枢にあたる税制について取り組まれているのであり、それには誰であろうと、まさしく大西郷であろうと間違っているとならば正論パンチでぶっ飛ばすだけの見識、胆識が必要なのであり、まさしく渋沢さんはそれらを備えられた、なくてはならない大人物であったわけです。しかし、西郷さんの偉大さは、相馬藩という小藩に懇願されたら応じてしまう、まさしく、キタロー氏のいう、



「希望を没し自己を忘れたる所に真の人格は現れる」



 というさらなる大人物であったわけです。渋沢さんも、西郷さんも、日本にとって欠かすことの出来ない大事な、大切な方だったわけですが、これはお二人の求められた、己に求められた高さの違いなんです。見る視野が違うんです。


 渋沢さんは、今まさしく、眼前の日本を見据えていないといけない方だったわけです。


 西郷さんは、未来も含めた日本全体を見通しておられたわけです。そして、己という欲も我もないから、頼まれれば応じてしまうのですが、まさしくその一事こそ、自己を忘れた真の人格であることの何よりの証拠と言えるでしょう。遺訓の30に、



「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人」



 というのがありまして、これは山岡鉄舟さんのことだとされますが、何のことはない、西郷さんもまさしく自分のお言葉のとおりの人だったわけです。己を忘れる人であるから、そのはるか先まで見通すことが出来たわけです。渋沢さんはある意味近視眼的な、直近の問題に当たられてその解決にあたる方であった。西郷さんは日本という国の遥かな未来にまで憂慮されるお方であったわけです。


 そして『論語と算盤』を読んでびっくりしたのが、渋沢さんのこの塩対応に、渋沢という人物をもってすら、大西郷は計り知れなかったのかな、と思うところなんですよね。この文脈を伺いますと、大西郷を叱っておるといいますか、なじっておりますが、これはいうなれば、自分というものをもたない大西郷に対し、自身の保身を図ったかのような願い事を押し付けた相馬藩にこそ、その責があるべきであるのに、そんなことはまったく文中には言及がなく、ただただ、大西郷を正論パンチでぶっ飛ばしているということに、驚きを禁じ得ないんですよね。


 そして、おそらくですが、渋沢さんは『南洲翁遺訓』をご存知ではなかったのではないかと思います。『南洲翁遺訓』は、庄内藩の方が、薩摩に引退された西郷さんを追いかけて、そのお言葉を拾い集めた遺訓、なわけで1889年(明治22年)に日本国憲法の発布と同時に西郷さんの名誉が回復されて発行されているものです。


『論語と算盤』が発行されたのが1916年(大正5年)であるわけですが、遺訓に関する言及はなかったことをみますと、文中で日本の行く末を案じられた渋沢さんが、遺訓を読んだとしたら言及しないとは考えられないので、最後まで読んでいなかった可能性が高いのではないかと思います。


 西郷隆盛公のwikiを伺いますと、その中で渋沢さんは西郷さんのことを、



「賢愚に超越した大人物であって、平常は至って寡黙を守り、滔々と弁ぜられるなどという事は無かったので、外観によっては果して達識の人であるか、また愚鈍な人であるか、凡人には一寸分からない程であった」


「その一身の利害を没却して、他の為めに計るという寛仁の態度は、維新三傑の内でも特に大西郷にその著しきを見る。しかし後日になって冷静に考えて見ると、大西郷は余りに仁愛に過ぎて、遂にその身を誤らるるに到ったと云わなければならぬ。彼の明治十年の乱が起ったなぞも、畢竟大西郷が部下や門弟に対し余りに仁愛に過ぎた結果であって、仁愛過ぐる余り、その一身をも同志の仲間に犠牲として与えられたので、遂に彼の如き始末となったのであると察せられる」



 とおっしゃられているので、このご発言がいつ頃のことなのかはわかりかねますが、西郷さんを理解されておられるご様子です。ですが、「後日になって冷静に考えて見ると」という言葉があるのを見てもわかるように、その当時には思いも及ばぬものであったようです。


 ましてや、明治十年の乱、西南戦争は、不満武士を反乱勢力として粛清をたくらんだのは明治政府の方であり、西郷暗殺も企てていたという話もあります。それを、「その身を誤らるるに到った」と解釈してよいのかはわかりかねてしまいます。西郷さんと渋沢さんは、西郷さんから「『今晩豚の肉を煮るから、一つ晩飯を食べていかないか』などと勧められ、同じ豚鍋に箸を入れて食事をともにしたこともあった」という、いわゆる同じ釜の飯を食った仲であり、その当時を生きた人々にしかわからぬ事情などもあるでしょうが、社会的成功こそ人間にとっての成功であり、戦争によって腹を切ったことを「身を誤った」と考えているのかと思いますと、わたしとしては渋沢さんは非常に近視眼的な、別の言い方をすれば、いかにも西洋文明的な、功利主義的な視野でものを語っておられるのかなとは、思ってしまいますね。


 そうやって、明治は邪魔者を粛清し、西洋文明的に国を作っていったわけで、そうして出来上がった現代日本人は、数多のおなごとヤりまくることこそ至上、と考えるような人間でひしめくような国になったわけですから、妻妾同居をやった渋沢さんはこれをどう思うのか、あの世で聞いてみたい気はしますw


 そう考えれば、ますますもって正しい教えは欠かしてはならないはずですが、こうして渋沢さんと西郷さんをみても明らかなように、キタロー氏のいう、「各人の人格」というのは、その人が、自分自身の求める自分なわけです。


 つまり、渋沢さんは、西郷さんのような人格を求めていなかった。だから、渋沢さんには大西郷は測りかねた。自分以上の高さのことなど、わかるはずもありませんから。同様に、かつては安岡教学、影の宰相ともてはやされた(?)安岡正篤先生も、没すと同時に多くの日本人から忘却されたのも、つまりは、誰も安岡先生の高みなど求めていなかったことの証左であります。


 テレビや意馬心猿の人物の排斥を叫ぶ人間は数多いても、精神革命を叫ぶものはいない。ということです。


 こういうお話もありますね。イエス・キリストがとある村を通りかかった時、ある不倫をした女性に対し村人が私刑をくわえようとしていたので、キリストは、「もし、この中にこれまでの人生で一切罪を犯したことのないものがいるのなら、わたしのもつ石をそこなおなごにぶつけなさい」といった。


 村人はすごすごと帰ってしまった。


 人に物を言うには、それ相応の資格がいる、ということですが、今の日本はどんな塩梅でしょうね。といったところで、『善の研究』を読んだ。十の巻はこれまで。



 したらば。







『ユーベルブラッド』のOP・EDを聴きながら。


 GARNiDELiAさんの歌を久しぶりに聴きますね。さすがの歌唱力。GARNiDELiAさんはわたしの中では『アニメガタリズ』のOPが一番好きかなw




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