令和七年の謹賀新年
あけましておめでとうございます。
豊臣亨です。
世界中、至るところでどったんばったん大騒動であります。どこぞの南半島では大統領が弾劾され、さらにその大統領代行も弾劾されたんだとか。今では政権に批判的な記事を書いたメディアは生きてはいかれぬ、くらいに情報統制が酷い有様ともなっておるようで、ますます民主政治から遠ざかっておりますが、まあ国民がそれを望んでいるのですから、微笑ましく見守ってあげればよいのです。
海岸に流れ着いても棒でつついて海に送り返し、決して助けてはいけません。みんちゅちゅぎまんせー。
また、ウクライナの状況ですが、軍事同盟に従ってどこぞの北半島が参戦、したはいいのですが、暴風などと精強部隊と言われながらも、元自衛隊員の方がいうには軍人どころかガキの集団、と一蹴されており、事実、結構な損害を出しているそうです。大体、軍の食料というのは派遣元となった国が準備するのが筋なのに、それが派遣先に頼っている時点でお話にならないんだそうで。食料の心配をしながらまともに戦えるわけがない、と。まして、どこぞの北半島はながらく休戦状態で戦争を知らず、さらに、ウクライナ戦線の最先端の戦闘状況など何も知らずにとりあえず放り出されたようで、ただただとりあえず突撃するしか知らず、ドローンなどに散々に蹴散らされているんだそうな。哀れなる次第ではありますが、独裁国に売り飛ばされた身分、つまり奴隷にも等しい身分に成り果ててしまったので、大人しく散華するか捕虜になるかを期待する他無いでしょう。
またロシアはようつべを見る限りでは非常に苦しい状態と言われながらも、今現在においても着々と侵攻を続けており、ジリ貧のウクライナの土地をじわりじわりと切り取っているのだそうで、米国やNATOの支援が遅々として進まないせいで状況は非常に悪化しておるのだそうです。
さらに、シリアでは反政府勢力があっさりと政権を打倒。反政府勢力の侵攻に政府軍はほとんどまともに戦わず、戦線離脱したとかで、ここらへんはウクライナ大統領ゼレンスキーさんとは天地の相違がありますが、これが因果応報ということなのだとか。シリアのアサド政権は非情なる圧政を敷き民衆を蹂躙しておったので、反政府勢力の伸張に国民は欣喜雀躍して迎えたのだそうな。そのシリア政権打倒の日が12月8日だそうで、日本人にとって12月8日は因縁浅からぬ日。今後中東はどうなることやら。
で、米国ではトランプが再選し、来年にまたもやトランプ政権が爆誕するようです。
トランプと言えば、ポリコレを敵視している存在だとされております。昨今、とみに共産勢力が伸張著しく、特にゲーム業界においては、現状を打破しうるある種の救世主的存在として仰がれているのだそうです。なにせ、『アサシンクリードシャドウ』『コンコード』『ゴーストオブヨウテイ』『ドラゴンエイジ』『インターギャラクティック』『ドラクエIIIリメイク』男女、ではなくルックスA、B、さらには最新作の『ウィチャー4』もポリコレ汚染されているんだとか。他にもポリコレ汚染されているゲームは多々ありますが、世間を騒がせた大作ゲームの数々が左翼に汚染されてしまった昨今、トランプによって赤狩りが行われるのではないか、この狂ったポリコレ汚染に旋風を巻き起こしてくれるのではないか、と期待されているようです。
こうして世界を見ましても非常に激動、動揺著しい気がいたしますが、では肝腎の日本はどうでしょう。
世上を騒がせたといいますと、クマ問題でしょうか。自治体や警察の要請を受けた猟友会でしたが、要請によって発砲したにも関わらず、危険行為であったとして猟銃の所持取り消しの判決が高裁によって出ました。2021年では地方裁判所にて猟友会になんの過失もないという、真っ当なる判決があったにも関わらず、ほとんどと言いますか、こじつけ言いがかり、いやはっきり言えば陰謀としか言いようがない判決が高裁から出てしまい、猟銃の所持許可が取り消されてしまったのです。これまで、クマ駆除をほとんどほったらかしにし、民間のボランティア団体に過ぎない猟友会に駆除を丸投げしていたにも関わらず、この判決が出たことによって、正式に猟友会は駆除に対し拒否を通告。クマが出ても誰も駆除しない、という事態が惹起されるに至ったわけです。
また、埼玉県川口市問題もあります。川口市に難民として居住するクルド人が、時には犯罪を犯しているにも関わらず、警察は取り締まらない。行政はむしろクルド擁護派と散々な模様です。一部のクルド人はトルコ政府からテロ支援団体であると言われているにも関わらず、これを養護しているのです。
これだけでしょうか。どうしてどうして。
とある外務大臣によって中華に対する短期滞在ビザをこれまで3年5年としていたのを、10年間何度でも利用できるように改めるそうで、これによって漢人が好き放題日本に来ることになるそうです。すでに、北海道の土地を漢人が買い占めているとの話もありますし、また、中華もこれまで好調ムードから一転、マンションバブル崩壊、習近平の独裁にも陰りが出、寝そべり族という、家を買わない、車を買わない、結婚しない、子どもを作らない、最低限の生活に満足し、資本主義者の奴隷・社畜となることを拒否するという人々も公然と出始めているとかで、中華もこれから悪化してゆく未来が見えている昨今なので、治安の良い日本に逃げてくる漢人が激増することが予想されております。
まあ、かくいうわたしも寝そべり族の一人になるので、こういう流れは歴史的に見ますと必然と言えるでしょう。孔子様いわく、
【邦に道あるに、貧しく且つ賤しきは恥なり。邦に道なきに、富み且つ貴きは恥なり】
国家が正しく、秩序も道徳も確立されているのに、貧乏で底辺にいるのは恥である。
国家が間違っており、治安も人心も荒廃しているのに、富裕になり高い地位にいるのは恥である。
これが東洋人が元来受け継ぐ思想なのであり、今の漢人は原点に立ち返っていると言えるでしょうし、もう少し言いますと寝そべり族は、老荘思想族といえるでしょう。「足るを知る」もっともっとと求め貪るのではなく、現状に満足し、安心する。これが老荘思想の基本なのであり、そこらへんはさすが中華といえなくもないのかも。まあ、それで論語でも学ぶほどに向上心があれば、見上げたものですがw
それはともかく、世界は非常に不安動揺しており、日本は劣化に劣化を重ね続けている、という状況でしょうか。では、去年の干支を振り返ってみましょう。
2024年の干支は甲辰(きのえ・たつ)でした。
「甲はよろいで、鱗―よろいをつけた草木の芽が、その殻を破って頭を少し出したという象形文字で、これを人事に適用しますと、旧体制が破れて、革新の動きが始まるということを意味しておる。そこでこれを実践的に考えると、この自然の機運に応じて、よろしく旧来のしきたりや陋習を破って、革新の歩を進めねばならぬということになるのであります」
「「辰」という字は、これは説文学上から言うと会意文字(既存の複数の漢字を組み合わせて作られた文字のこと)で、理想に向かって辛抱強く、かつ慎重に、いろいろの抵抗や妨害と闘いながら歩を進めてゆくという意味であります。辰の厂の次に書いてある二は、上・天・神・理想を表す指事文字(形で表すことが難しい物事を点画の組み合わせによって表して作られた文字のこと、なのだとか)で、振・伸・震と相通ずる意味を持っている」
なので、
「だから甲辰の意味するところは、ちょうど春になって、新芽が古い殻から頭を出すのであるが、まだ余寒が厳しくて、勢いよくその芽を伸ばすことができないと同じように、旧体制の殻を破って、革新の歩を進めなければならぬのであるが、そこにはいろいろの抵抗や妨害があるために、その困難と闘う努力をしながら、慎重に伸びてゆかなければならぬということであります。
つまり革新的歩みを進めるに当たっての外界の妨害や抵抗、それとの交渉、動揺を表しておる。したがってこれは、自然の機運と共に、人間の使命・実践の問題であります」
です。甲はかいわれでありまして、新しい芽吹きであり、辰は振・伸・震とありますように、物事の成長、促進であります。甲辰はこれまでの因習的しがらみから脱して新しい動きを見せる、その端緒。始まりなわけです。
はて、何が始まっていたんだろう。
物事が顕在化するのはちょっと時間がかかりますので、実は2024年にこういう動きがあったんだ~! ということが後から分かればよいのですが、今のところ、こと日本に関してはな~んにも新しい、革新的な動きがあったようには思われません。世界的に見て明らかに刷新が、維新が求められているご時世なのに、それを敏感に察し動けるような人が、団体が、いずこにあったのか。それどころか、旧弊に堕落し、汲々と私腹を肥やすことばかりに費やし、国家のため、おおやけのために動ける人材が払底したとき、どこぞの南半島のお話は、決して他人事ではない事になるでしょう。
さて多事多難の日本ですが、今年の干支は何でしょうか。今年もありがたく『干支の活学 人間学講話』 安岡正篤著 プレジデント社刊 から伺ってまいりましょう。p41
「乙巳 ―昭和四十年
因循姑息にケリをつけて勇敢に進む年
新年早々からいろいろな会合に臨み、内外の情報を聞きますと、今年は本当に重大な真剣な動きが至るところにうかがわれます。したがってそれに対して我々はできるだけ正しい見識と勇気と以て善処しなければならぬ、ということが心ある人々に共通に感ぜられておる。このことをまず注意しなければならぬと思うのであります。
私はよく新年の集まりに、というよりもむしろ暮れに、政界・財界、その他いわゆる実際家と言われる方々から新しい年の干支について聞かれるのでありますが、その干支で申しましても、実際の動きと照らし合わせて今年の干支はいっそう意義の深いのを覚えるのであります。
今年の干支は乙巳(きのと・み)であります。
巳という字はよく已・己と間違いやすいのでありますが、これは頭が上にくっついております。「み」は訓でありまして、音は「し」であります。
したがって乙巳は、「いつみ」ではなくて、「いっし」であります。これはいったいどういう意味を持っておるのかと申しますと、順序としてまず去年の干支から説明いたさねばなりません。
去年は甲辰でありました。「甲」という字は、今まで寒さのために殻をかぶっておった草木の芽が、その殻を破って頭を出したという象形文字であります。したがってSein 存在、あるがままで申しますと、春になって草木が殻を破って芽を出す(日本語ではこれを甲拆という)という自然現象を表す。Sollen 当為、人間のなすべき行為で申しますと、旧体制の殻を破って創造を伸ばせ、ということを教えておるわけであります。
支の「辰」は震と同じ意味で、易の六十四卦の震為雷、即ち雷の卦を表すものであります。非常に騒がしい動揺がある。けれどももう一つ実がない。まかり間違えば、思いがけない変動・災禍を生ずる。
そこで、甲と辰とが組み合わされると、旧体制を脱して創造の新しい歩を進めるが、まだ外の寒気が強くて抵抗が多いために、思うように伸びない。いい気になるというと、とんだ失敗をする、禍を蒙る。だから気を付けて進んでゆかなければならぬ、ということになるわけであります。
乙の意味
それが今年になると、去年の甲辰で出した芽が、まだ外界の抵抗が強いために、真っ直ぐに伸びないで屈折しておる。乙という字は草木の芽が曲がりくねっておる象形文字であります。だから新しい改革創造の歩を進めるけれども、まだまだ外の抵抗力が強い。しかしいかなる抵抗があっても、どんな紆余曲折を経ても、それを進めてゆかねばならぬということであります。
巳の意味
乙巳の巳は、動物の象形文字であります。説文学で申しますと、今まで冬眠をしておった蛇が春になって、ぼつぼつ冬眠生活を終って地表に這い出す形を表しておる。即ち従来の地中生活・冬眠生活を終って、新しい地上活動をするということで、従来の因習的生活に終りを告げるという意味がこの文字であります。その意味で已む(やむ)にひとしい。
乙巳の意義
したがって乙巳という年には、いかに外界の抵抗力が強くとも、それに屈せずに、弾力的に、とにかく従来の因習的生活にけりをつけて、雄々しくやってゆくのだ、とこういう意味を表すわけです。文字というものは面白いもので、そういう弾力的な創造的な発展の精神がなくて、悪がたまりに固まってしまった、というのが己という文字であります。自己になってしまうわけです。
とにかく今年は、この乙巳の干支のとおり、ありきたりの、意気地のない、あるいはだらしのない、ごまかしの生活に見切りをつけて、勇敢に溌剌とやってゆかなければなりません。
(中略)
「年頭決然滞事を一掃すべし」――滞っておることを一掃せよということがありました。つまりけじめをつける、片づけるということです。これをうまくやらぬと、来年の丙午(ひのえ・うま)は反対勢力が旺盛になるのでありますが、その抵抗力に圧倒されることになる。いま抵抗はどちらかと言うと、あまり外にはっきり現れておりませんが、それが外にはっきり出てきて、四つに取り組むということになるわけです。
史実にみる乙巳の年
この乙巳という干支は六十干支の中でも、特別な組み合わせの干支でありまして、たいへん面白い意味ばかりでなく、また実に多事なのであります。これをわが国の歴史の事実に徴して申しますと、一回り遡って前の乙巳の年というと、これは明治三十八年になる。この年には、当時の政治家は野党でもたいそう賢明でありまして、前年の三十七年に開戦した日露戦争に乙巳の文字どおりけりをつけて、どうやら勝ち戦というかかっこうをつけることに成功いたしました。
もしあの時、今度の戦争のようにずるずるべったりやっておったとしたら、おそらくもうその時に敗戦の経験をしておったに違いないでありましょう。しかしさすがに当時の日本は、国民も偉かったが、指導者も人材がそろっておりまして、したがって心がけも出来ておりましたので、むしろ勝った勝ったといい気になっておった国民を抑えて、どうにか戦局を結びました。まさに乙巳の干支のとおりにやってのけたわけであります。
なお面白いのはその後であります。即ちその年の十二月には日韓関係にけりをつけまして、これにはずいぶん議論もあり、いろいろな抵抗もありましたけれども、それらを排除して日韓協定を締結し、そして統監府を設置して、伊藤博文の就任となったのであります。
この頃新聞を注意しておられるとよく出てまいりますが、韓国野党側が「昔の乙巳条約(第二次日韓協約。もしくは日韓保護条約。韓国が日本の保護国となった)を繰り返されるようなことになっては承知せんぞ」と盛んに朴政権を脅かしております。これはその時の条約を言っておるわけでありますが、奇しくもただ今、再び日韓会談(日韓基本条約。国交正常化の会談)が進行中であります。しばらく停滞しておりましたけれども、新しい代表の任命と共にまた動き出しまして、なんとしても今年はこれを解決するということで、両国政府共に今苦心しておるのであります。が、しかしこれはなかなか難しい問題であります。
もう少し遡って大きい例を拾いますと、徳川家康が征夷大将軍となって天下の大勢にけりをつけて、とにかくいろいろ議論がありましたけれども、秀忠をニ代将軍に押し立てて、徳川政権に新しい体制を進めたのが慶長十年(1605)の乙巳の年でありました。
さらに遡って文治元年(1185)、源頼朝が屋島、壇ノ浦に平家を滅ぼし、全国に守護・地頭を設置して、いわゆる鎌倉幕府の政治体制というものを確立いたしました。この年がやはり乙巳の年であります。
もっと遡って、有名な大化の改新(645)もやはり乙巳の年に行われておりますし、百済から渡来した仏像を物部守屋が堀江に投げ込んで、新しいいろいろな問題を起こす原因を開いたのも、この乙巳の年であります。
とにかく干支の意味するとこから申しましても、歴史の実例から申しましても、乙巳は容易ならざる年であることを暗示しておるのでありまして、したがって今年は従来の何もせぬ主義の因循姑息ということにけりをつけて、いかなる抵抗とも闘って、思い切って革新の歩を進めてゆかねばならない。そういう意義深い年回りになるわけであります。これは国家ばかりではありません。自分たちの事業にしても、あるいは自分たちの私生活にしましても、すべてに通ずる問題であります。
さて、そうなるとどうして改革・革新の歩を進めてゆくか。やはり根性を直すほかにはありません。根性という言葉はあまり上品な言葉ではありませんが、民衆の間に自然に発生してくる言葉というものは微妙なものでありまして、なかなか味のあるよい文字でもあります。
根本と性というのですから、さきほど申したような悪がたまりに固まった、利己的・打算的な、唯物的・機械的な考え方ではいけません。どうしても根性を直してかからなければ、またそういうことのできる人物に依らなければ直りません。
そこでそういうことがいつとなく提唱されるようになってまいりまして、この辺で一つ精神を打ち込まなければならぬ、人物を鍛えなければならぬということが、もっとも鈍感だと定評のありました文部行政にまで及んでまいりました。そして中央教育審議会が「期待される人間像」というような報告を出しては、はっきりと従来の考え方・行き方に対してこうなければならぬ、という所信を発表したのであります。いささか遅きに過ぎますけれども、為すは為さざるより勝るで、決して今からでも遅くはありません。
しかしこれは少々題が悪い。期待される人間像や理想像などという題では物論(物議)を招くに違いない。それよりも「期待される自覚」とか「現代文明の批判」とかと題を変えた方がよかったと思うのであります。いちいちもっともな内容ではあるけれども、理想像などと言ったのではぴったりしない。理想像というものは血が通っておらなければならぬ、情熱、感激がなければならぬ。大勢寄って、比較検討し、それを統合して記述した、などというものは理想像にはなりません。その辺がちょっとピントが外れておるように思うのであります。
が、いずれにしても為さざるよりはましでありまして、今まで右顧左眄(右見たり左見たりして決断できないこと)しておったような人々も、これによって相当自身を持つに至ったと思うのであります。これも従来の行き方にあきたらずして、新しい感覚・精神・行動力をもって為すあらんとする動きのいい例でありますが、とにかく国家的には政策もそれに応じて直してゆかねばなりません。
と同時に家庭的にも個人的にも因循姑息を排して、それぞれやってゆかなければならない。考えてみると個人的にはみなそうでありますが、時勢に負けてしまったというか、あきらめてしまったというか、心の中ではそれでは困ると思っておっても、自分たちはもう古くなったとか、今の若い者にはかなわぬとか、何とか言ってはっきりと自分の思想・信念をうち出さない、妥協的である。この因循姑息がどれくらい子供たちを誤り、家庭を暗くし、社会を毒したか。これは量るべからざるものがあるのであります。
これからは一つ中央教育審議会の報告ではないが、個人として、家庭人として、社会人として、日本人として、堂々と考え、堂々と行ってゆくことがもっとも必要であります。これをやりませんと、日本の国民生活も、また日本の国家生活も容易ならぬ頽廃・混乱に陥って、それこそ来年は丙午の干支のとおり厄介なことになることは明らかであります。
民衆と指導階級
世界の学界・思想界のもっとも優れた人々の論ずるところを少し注意しておるとすぐわかりますが、従来のような自堕落な意気地のない議論に別れを告げて、非常にはっきりと自分の信念や見識を述べておりますし、またそういう行動が方々に活発に起こってきております。
それらの議論の一つに、「リーダーズ・ダイジェスト」の正月号の最後に「見事に祖国を救ったブラジル国民」といった題の記事があります。
これはご承知のようにブラジルが、まったく共産党の宣伝工作・浸透作戦に骨の髄までしゃぶられてしまって、政府機関も麻痺してしまっておったのを、国民の中の有識の士が敢然と決起して、見事に祖国を救ったあの去年四月のブラジル革命(1964年3月31日に保守派と結んだカステロ・ブランコ将軍は機先を制してクーデターを実施した(wikiより))の記事であります。
それを読むと、ときどき、はて、これはブラジルのことか、日本のことか、と感心するくらい実感にあふれておりますが、この革命によって中共の新華社通信の派遣員などみな捕まっております。そしてブラジルは死刑がありませんが、この国の極刑に科せられておる。中共がブラジルの共産革命にいかに強力な指導をしておったか、これを見てもよくわかるのであります。
ところが、その捕らえられた中共の連中のために弁護や陳情をしよう、と日本の弁護士会のある人物がのこのこブラジルまで出かけてゆこうとした。政府が旅券の発行を拒否すると、それではカナダ行きの旅券をくれという。それも拒否されると、今度はパリ行きの旅券を申請する。パリからブラジルへ潜入する心算と見えますが、今、識者の間で物笑いになっております。この間も外国のプレス・クラブの友人に招かれて懇談した時に、幾人もの外国の記者が口をそろえて「日本には我々に解釈のつかぬピントの外れたのがいますね……」と言って笑っておりましたが、実際そのとおりであります。
外国の学者の中にも、日本へやって来て、日本の指導階級の中にあまりにも国民の常識とかけ離れた議論をする者が多いというのは、いったいこれはどうしたことだろうか、と言って首をかしげるものが多い。常識というものは大事なものであるが、しかし民衆は教養が低いから、民衆の常識にはしばしば洗練されぬものがある。その民衆の常識を良識にまで磨き上げてゆくのが指導階級であるのに、日本の指導階級にはかえって立派な民衆の常識に矛盾するような、それを傷つけるようなことを平気で言う者が多すぎる。「いったい日本の教育はどうなっておるのであろうか」とこういうことを論じておる人もあります。まことに恥ずかしいことであります。
そういう俗な、あるいは間違った考え方や議論を勇敢に排除して、なんとしても日本の維新をやってゆきたいものであります。間もなく明治維新百年になりますが、だいぶあちらこちらで明治維新を記念して、これを、また新たにしようという意欲が出てまいりました。これも一つの時代の活発な動きだと思います。まことに結構なことでありまして、乙巳の年を乙巳の干支の教うるがごとくに活発にやってゆきたいと念ずる次第であります」
こうして拝読いたしますと、日本の政治というのは昭和四十年から60年たった今に至るも、少しも成長・進化していないということにつくづくと気付かされるのであります。
そして、安岡先生にはまことに申し訳ないことながらも、日本の政権が、為政者が、国内の左翼勢力ときっぱりと手を切って敢然と、米国とも適切な距離感を保って自主独立の歩を進める、などという道筋は欠片も見えてこないのでありまして、来年の丙午にはもしかすると日本は中共に乗っ取られるのではないか、という心配すら起こってしまうのであります。
まあ、それまでに中共が革命でも、内乱でも起こってくれれば幸いではありますが、しかし、敢然と、截然と、自分たちでなんとかしてゆこう、ではなく他国の情勢を右顧左眄して、なんとかなんね~かなと願うような、僥倖を期待するような主体性のないようでは全くもって頼りないのであり、主体性の無さで言えば先進国の中で日本は随一であろうと思われるわけで、はっきり言って今の日本に期待する要素はなにもないのであります。
しかし、よそはよそ。うちはうち。
他所様がそうだからといって、自分までそうなるのは精神の自殺に他なりません。溌剌たる精神を失ってはいけません。心が荒んでしまってはせっかくいただいた人生が台無しであります。
世の中がどうであれ、国がどうであれ、世の人々がどうであれ、イデオロギーがどうであれ、今の自分を生きているのは自分だけであります。自分の人生を進化させられるのは自分だけなのであるから、日々学んでまいりたいと思うのであります。
まあ、まずは日本人たるもの、日本人だけが行う初詣にもうでましょう。初詣、をwikiをみますとこう書いてあります。
「初詣・初詣でとは、年が明けてから初めて神社や寺院などに参拝する行事。一年の感謝を捧げたり、新年の無事と平安を祈願したりする。初参・初参りともいう。参拝者数はメッカの大巡礼を越す世界最大級の宗教行事」
この時、日本は世界最大級の信仰国になるわけです。
神々に、それが欲であれなんであれ、お願いを聞いていただく、という一年でもっとも神々を身近に感じる瞬間であります。どのように言われようが日本人は世界でももっとも信心深い民族なのであります。それをせっかくなのでもっとすすめて、
お天道様が見ている
と思うくらいになれば、日々を正しく、誇り高く生きられるのであります。
そして、だからこそ思う。
日本に、大和の民に、幸あれ。
2025年、多事多難はすでに分かっていること。ならばこれにめげないように胸を張って参りましょう。-人-