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不可知論



 おロシア侵攻から丸2年。もはや中共肺炎並に日常化しつつある感がありますね。ですが、北朝鮮が正式(?)に参戦し、いよいよ第三次世界大戦の様相を呈してきました。また、おロシアの影響低下を受けてシリアの反政府組織が反攻作戦を強めつつあるともいいますし、ま~よくわからん情勢です。


 また、ドイツなどがこれまでの手厚かった支援を打ち切る代わりに、ウクライナ国内で兵器工場を立ち上げ戦闘車両製造などに舵を切り替えているのだとか。それってつまり、これまでは無償な支援でしたがこれから純粋な商取引、すなわち金儲けになってゆくんでしょうかね。まあ、国家たるもの、常に損得を計算して動くのは当然のことでしょうが、ウクライナ相手に足元見た商売をしているのではないかという疑念も起こってきますし、本当にこれからどうなってゆくのか、おロシアが暴発しないで内部崩壊してくれるか、プー太郎が失脚するのが一番なんでしょうけど、世界情勢は悪くなることはあっても良くなることがないという感じでうんざりすることばかりでございます。



 おこんばんはです。豊臣亨です。


 今晩は不可知論。いやなに、ようつべの動画で岡田斗司夫氏がこういう趣旨の発言があったもので、今回はそれをネタにしたいと思います。といっても、旧聞に属する話題になるのでいまさら取り上げるのはいささか恐縮な所はありますがw


 そのようつべの動画は岡田斗司夫ゼミの#546回のお話のこと。とあるリスナーさんが「岡田氏は無神論者と聴きましたが、なにゆえ無神論者なのか?」と質問を投げたところ、それに対して岡田氏が答えたのがこの不可知論ですね。自分は無神論者ではない、不可知論者だ、と。


 つまり、神がいないとも言えないし、神がいるとも言えない。


 そんなこと分かりっこないんだから、肯定のしようも否定のしようもないじゃまいか。という理屈のようです。


 その後に続けて岡田氏がいうには、もし神がいて、真理というものがあるのなら、神たるものそれを全人類に教えることは出来るはず。神なんだからそれくらいはしたっていいじゃないか。そんなことすら怠ける無能を、神として信じることは出来ないし、そんな宗教団体だのに属するいわれはない、とのことです。


 普段の岡田氏はジブリ作品やガンダム作品など様々な批評、解説などで非常に理知的で深く鋭い洞察を示しておりなるほどと、うならされることも多いのですが、しかしこれを聞いて、ことこれに関しては、岡田氏にしては非常に幼稚な物言いだな、と思いましたね。いかにも左翼的な、自分勝手で幼稚な物言いです。


 真理を知っているんだろ? 神なんだから。だったらそれをタダで教えろよ、というのは、


 甘い汁を吸ってるんだろ? 為政者なんだから。だったらそれを俺にもよこせよ、といっている革命論者のたわごとと五十歩百歩に、わたしには見えるんですよね。


 こういう左翼思考に脳みそ毒された人間は、真理というものを、なにやら特別な権利とか財宝などというもののように思っていて、そして、神はそれを独占していて、人間にはその権利・財宝から一切を秘匿し隠蔽している、などというふうに思っているから、神たるもの真理をタダで教えて当然。むしろ、それをしない怠け者の言う事なぞ聞くいわれはない、という思考になるのでしょうか?


 とんでもない誤謬、とんでもない幼稚な物言いです。


 この、人間と、神、つまるところデウスが、完全に乖離した、隔絶した、むしろ敵対すらしている、などという思考にこそ左翼思考がモロ出しになっているのであり、度し難い誤謬なんです。もう少し言いますと、八百万の神々がおわす日本からすれば、なんで人と神とを対立的に、相対的に見ようとするのか、ざっくりで言えば、どうして人と神の関係を、キリスト教的にしか思考できないのかが分からない。


 東洋人は、なかんずく、日本人は氏子と氏神の関係なんです。


 言うなれば、人と神様は家族なんです。


 恐れ多くも我が皇室の皇祖をたどればやがて神様に行き着くように、人は神とつながっているわけです。まあ、今の日本人でこういう物言いをする人はいないでしょうが、亡くなられたご先祖様とのつながりを指して、「ご先祖様が草葉の陰から見ている」というのです。

 

 人の世とあの世、黄泉の国は実はつながっているのであり、こちらからはよくは見えないが、あちらからはよく見えている。見守ってもらっている、というふうに解釈するわけです。だから本来、正しい日本人ならご先祖様に対して恥ずかしい行動はとれない、と考えるのであり、それが「ご先祖様が草葉の陰から見ている」になるのであり、別の言い方をすれば「お天道様が見ている」になるのです。


 ちなみに、こういう感覚は日本人に限ったことではなく、中華でも大昔の君子にはこういう感覚がありまして、それを「四知」と言います。


 これは、中華は後漢の時代の楊震(ようしん)という方のお話。ある時、この楊震さんにお世話になった王密(おうみつ)が賄賂を渡そうとした。中華でも日本の江戸時代でも賄賂は社会通念の常識でしたから、これをやましいなどと思う人のほうが少なかったわけですが、楊震さんはこれをきっぱりとつっぱねた。そこで王密が、いえいえ誰も見ていませんから、といいますと、楊震さんがおっしゃったのが、この有名な「四知」。




【天知る、地知る、我知る、汝知る。なんぞ知ることなしといわんや】




 天の神も、地の神も、わたしも、そしてそなたも、知っているではないか。どうしてこれが内密のことだと言えようか。



 

 ということです。


 まあ、あの中華の地でここまで信心深い人もそうそういないでしょうが、確かに君子はおわした。ちなみに、四知といいますが、大事なのは「自分が知っている」ということであります。自分が賄賂を知っている。自分はそんなやましいことなどに加担したくない。どうしてお前はわたしによこしまなことをそそのかすのか、という気概であり、自分を大切に思うからこそ、そんな悪の道には決して踏み入れない、という覚悟なわけですね。


 そして、自分が知っているからこそ、ほぼ自動的に神様が知ることとなる、という信心がそこにあるわけです。


 中華でも、そして、日本ならなおさらこういう信心があってしかるべきなのに、目に見えないから、などと言い出すのはこれまでの日本の歴史をすべてないがしろにする、いかにも左翼的な思考と言えるでしょう。


 特に、明治以降の日本人はこういう西洋的な、左翼的な思考に脳みそ毒されてしまって、元来日本人が持っていた、東洋的な、日本的な感覚、信仰心を喪失してしまう傾向にはありますが、しかし、言論を以てする人間だったら、これくらいの歴史認識はあってしかるべきである、とわたしは思います。


 目に見えないなら信じられない、という物言いは、自分の眼の前にいる親や兄弟に、血がつながっているか遺伝的につながりがあるか証明されない限り赤の他人として対処する、と言っているようなもので、これがどれほど幼稚な物言いか考えると良いと思う。


 また、信じるとか、信じないとか言っているのは、学問をするものとしては初歩の初歩であり、それは例えるなら、




【上士は道を聞かば、勤めてこれを行う。中士は道を聞けば、あるがごとくなきがごとし、下士は道を聞けば、大いにこれを笑う。 笑わざれば以って道と為すに足らず】




 この中士の、あるがごとく、なきがごとし、というのが岡田氏の、いるんだかいないんだかわからん、という状況です。現代人としては理性的な、公平な物言い、と言えないこともないのですが、以前にも言いましたが、このあるんだかないんだかわからん、というのは結局のところ信じていないわけであり、上士の側から見れば、中士も下士も「道」を信じていないという点で五十歩百歩なんです。


 信じるとか信じないという、そういう初歩的な段階を遥かに超え、それを当たり前のものとして受け止め、受け入れ、勤めてこれを行えるようになる、これこそが真理とも言えますし、悟りとも言っても良いのですが、悲しいかな中士には分からない。真理を理解できるほどに学問が進んでいないし、学問する気もない。分からないから信じない。信じないから学問しない。学問しないから分からないという堂々巡り。で、おためごかしに、いるともいないとも言えないんだから、不可知論だ、などとやっているわけです。真理を理解する能力もない、素直な心根もない、そのくせ、タダで真理をよこせ、と言う。


 岡田氏自身は、自分は左翼ではない、などと言っているのですが、左翼であるにせよ左翼ではないにせよ、思考の仕方が◯っと左翼なのだ、ということに気がついたほうが良いのですけどね。


 わたしがこれまで生きてきて、書籍やようつべなどで左翼人士の言説を伺ってはっきり分かったことは、左翼は絶対に東洋思想に近づかないんですよね。岡田氏にせよ、小林よしのり氏にせよ(今は何を言っているのかぜんぜん知りませんが)少なくともそれなりに言論を行う人間であっても、論語とか孟子、王陽明先生などから必死こいて叡智をいただこう、智慧をお借りしようという痕跡を見たことがないですね。


 何故かとつれづれ考えまするに、東洋思想とは、わたしがこれまで迂愚ながら学んできた学問の中で最も真理に近い学問なんです。いえ、真理そのものとも言ってよいです。だから、この東洋思想を馥郁(ふくいく)と受け継いでいた、西郷隆盛公とか、山田方谷先生、山岡鉄舟さんなどは仏教なども相まって悟りに至られた方だと思います。


 そして、東洋思想の最も厳粛な原理は、自分自身を反省する、ということです。一言で言いますと、省。省す。


 己を省みる。


 なので、己を省みたら、いろいろと無駄なことがわかるので、


 省く。


 いらないもの、いらないことをはぶく。断舎離する。


 こうして非常にシンプルに、しかし、大事なもの大切なものを、




(いつ)を抱いてよく離るること無からんか】




 一は道。道は真理。その大事な、大切な真理から片時も離れない。忘れない。




 となるわけです。そして、東洋思想においてさらに重要なことは、反省するからこそ、自反(じたん)(ネットではじはん、と出てきますが反物という言葉もありますし、じたんの方が好きかなw)、すべて己に帰す、ということでありすべて自分が身につける、会得する、体得する、ということです。知識人に昔からよくいる、この前言っていたことと今言っていることが違うだとか、言っていることと行いが違う、などというのは東洋思想ではもっとも恥ずべき行為であることを知るべきであります。なのでわたしは徹頭徹尾、人は神になるために生きている、という発言から一歩も動いていないつもりです。細かいことが違うのは学問が進んで理解が深まってきたからであり、根っこはぜんぜん動いていないです。


 東洋思想は厳粛であり、自分の人生すべてを使ってそれを自分自身のものにする、会得・体得するという思想なのであり、言行一致、知行合一、が東洋思想なのであります。


 左翼人士はつまりは、そうではないんです。


 現在のもっとも左翼的人士の極北で言いますと、ロシアのプーチンとか中共の習近平、北の豚まん、これらの人間が気にするのは物質的豊かさであり、自身の権力であり名声であり物理的な力強さです。


 財力とか、権力とか、兵力とか、数字とか「目に見える」ものだけを信ずるんです。目に見えないものを理解する能力がないんです。プーチンにせよ習近平にせよ豚まんにせよ、目に見えないもの=信ずる価値のないもの、なのです。だから、現実に固執する。現金とか権力とかに拘泥する。


 だから彼らは、「人間」以上にはなれないんです。人間以上は彼らには存在しないんです。目には見えないんですから。だから、彼らには信仰とか信心とかがない。神を、デウスを信じるということは、人間以上の存在があることを認めることであり受け入れることになるから、彼らは絶対に神を信じないわけです。


 東洋思想はそれらとは真逆に、神や、真理をあっさりと、無邪気に、受け入れることのできる思想だと言えるでしょう。東洋思想ではよく「天」といいますが、天とは人格的な神を想像するものでありまして、孔子様が、




【天は我を(ほろ)ぼせり、天は我を喪ぼせり】




 と、顔回さんの死を受けて激しく慟哭されたのも、人格的な神の存在を受け入れていたからですね。そして、この神を受け入れる、ということが大事なのですが、人の上に神がある、ということは人間以上の高い存在がある、人間以上の秀でた叡智が、人間以上の優れた次元が存在している、ということを受け入れることであり、そして、神を目指すということは、人間以上のより優れた存在になること、より崇高な存在になりたい、ということに他なりません。先程申した、西郷隆盛公や山田方谷先生、山岡鉄舟さんなど、こういった東洋思想を受け継いだ方々が、物質的な豊かさにそこまでこだわらなかったことも、つまり、人間という目に見える物質より遥かに格上の存在があることを知っており、自身もそれに類する存在になることを自覚されていたから、なわけです。


 そしてなにゆえ、日本人が世界的に見てもモラルが高く優れた民族であるかと言えば、人と神様の距離が近いから、とも言えるでしょう。左翼には思いもよらないことでしょうが、日本人にとって神様はすぐそばにおわす存在なわけです。


 神社には神様がおわすわけですし。


 神社なんて日本中にいっぱいありますし。


 どこにおわすかさっぱり分からんデウスとは違い、目には見えないとは言っても、神社には神様がおわし、その神社が日本中いたるところにあるわけですから、神様が見えていると言うのとそこまで大差はないわけです。


 どだい、目に見えないから信じる価値がないと言うのなら、正月になろうと初詣には行かんでしょう。


 それが利己的な、我がまま勝手な願い事であるにせよ、叶えてくれるかどうか分からないにせよ、そこに神様がおわして人の願い事を聞いてくれる、と思っているからこそ、日本人はわざわざ正月に神社に行くわけです。お金をお賽銭箱に納めるわけです(お金を投げるのは大変失礼なので絶対にやめようw)。


 神様がすぐそばにおわす、と信じるから、言わず語らず、日本人は自分より遥かに優れた、偉大な存在があることを知っているわけです。考えるわけです。また、仏教的な輪廻転生とか因果応報という教えもあるから、人間という存在以上のものになろうとできるわけです。


 もう少し言えば、キリスト教において、創造主、被造物、と人間を神の作り物、と規定したことによって、人間は絶対にデウスにはなれない、と規定したことによって、人間は人間以上の存在になるという道を自ら閉ざした、と言ってもよいでしょう。人間とデウスはぜんぜん別個のものであり、決して同じものとして認めないことによって、人間がデウスのような偉大な存在になる可能性を自ら摘んでしまったわけです(カール・ヒルティとかあの辺りの偉人は別個w)。


 氏子、氏神で人は死ねば神になる、と無邪気に信じる日本人とは間逆なんです。


 キリスト教的に思考してしまうと、人間は決して人間以上にはなれないのです。神様のように、偉大な存在を目指すという思考がすっかりなくなってしまうのです(カール・ヒルティとか、以下同文)。あるのはただ、死後、デウスに裁かれるという審判があるのみなのです。


 だから無神論、などという思考に至る。


 どこにいるんだか分からん存在のくせに、死後、俺を裁判にかけるだと? ふざるな暴君め! 


 となる。キリスト教という構造の中に、無神論という思考の種が埋まっているわけです。少なくとも、日本人が日本の中で生きている限り、無神論なんて荒唐無稽な妄想は起こりっこないでしょう。いえ、たとえ起こったとしても、国ごと無神論になるなんてことはあり得ません。


 つまり、左翼人士というのは、こういういかにも西洋的な、創造主と被造物という、決して両者を同じものとして考えることの出来ない、隔絶され、相対化された関係性でしか物事をとらえられないから、暴君たるデウスを否定し、デウスを否定することによって人間以上の存在を否定し物質的な視野でしか物事をとらえられないから、だから、人間の成長というものが、「目に見えるもの」で止まる。


 以前のお話で、キタロー氏が、善を行うのは結局のところ、個々人の理想によるしかない、というのもそういうことであります。左翼人士の理想は「目に見えるもの」ですべて止まっておるわけです。そして、東洋思想は遥か彼方、目には決して見えない遠大なる理想を「視て」おるわけです。


 そして、この思想というも信仰というも、ある意味、理想精神から発するものであるわけです。以前のお話では「向上心」といいましたね。心が成長するに従って、それに付随して道徳も、信仰も成長するものであります。


 道徳心はあるが信仰心はない。


 信仰心はあるが道徳心はない。


 そんなことは人間の心にはあり得ません。道徳心と信仰心は不即不離であります。もし、どちらかがあるとすれば、それはその者にはどちらもありません。決して。


 わたしで例えますと、わたしも昔は初詣にもいかないようなぐうたらな生き物でしたが、学問が進めば進むほど、初詣にも当然のように行くようになりましたし、むしろいかないといけない気になりますし、スピリチュアル系のようつべあー(ユーチューバー)さんがおっしゃるからと、昨今は毎朝起きたら神様にお水を捧げるようになりましたし(実際には家の神様・歳神様は精霊なのだそうですね)、お茶を飲む時はまず先に神様に捧げるようになりましたし、ご飯を炊いたらまずもって神様に捧げる。こうして神様を敬うということは、かえって、自分自身を敬うことにもつながるのであります。


 キタロー氏が、



「さて善とは理想の実現、要求の満足であるとすれば、この要求といい理想というものは何から起こってくるので、善とはいかなる性質のものであるか。意志は意識の最深なる統一作用であってすなわち自己そのものの活動であるから、意志の原因となる本来の要求あるいは、理想は要するに自己そのものの性質より起こるのである。


 すなわち、自己の力であるといってもよいのである。我々の意識は思惟、想像においてもまたいわゆる知覚、感情、衝動においても皆その根柢こんていには内面的統一なるものが働いているので、意識現象はすべてこの一なる者の発展完成である。しかして、この全体を統一する最深なる統一力が我々のいわゆる自己であって、意志は最もよくこの力を発表したものである」



 と言っているのは、平たく言えば「わたしが理想を求めれば求めるほど、それはわたしの力になる。思惟とか想像、知覚、感情、衝動、これらが渾然一体となって純化し、昇華し、意識や意志力として結実する」と言っているわけですが、わたしの学問が進めば進むほど、それは信仰にもゆき渡り、実際の行動にも現れるということであります。それが理想、向上心なわけです。


 神を信じる、ということは、神に至る向上心をその者にもたらし、


 神を否定するということは、「目に見える」レベルしか向上しない、ということになります。


 そして最後に、左翼人士の、最大にして最悪の過ちは、西洋如きから自身の魂となるべき思考を(らっ)して来た、引っ張ってきた、という点に尽きる、と言ってもよいのであります。……まあ、こんなことをいうのは世界でもわたしだけでしょうけど、でも、わたしはブログを始めた当初から西洋なんて大した事ないw って言い切ってきました。そして、いよいよ世界の歴史がそれを証明するようになって来た、と思うのも世界でわたしだけでしょうか。



 わたしはただ、眼前にある事実に言及するのみであります。-人-


 

 といったところで、今宵はこれまで。


 したらばな~。







『最高の片想い』を聴きながら。


 アニメとか全然見てないくせに、この歌だけはめちゃくちゃ好きなんですよね~。




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