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『善の研究』を読んだ。九の巻



 おこんばんはです。豊臣亨です。


『善の研究』を読んだ。九の巻、見てまいりましょう。


 さてはて、善に向き合う世界中の人類の哲学的命題をつれづれと眺めてきたキタロー氏ですが、いよいよ善とは、善を行うとはどういうことか、核心に至ります。p323




「すでに善についての種々の見解を論じかつその不充分なる点を指摘したので、おのずから善の真正なる見解はいかなるものであるかが明らかになったと思う。


 我々の意志が目的とせなければならない善、すなわち我々の行為の価値を定むべき規範はどこにこれを求めねばならぬか。かつて価値的判断の(もと)を論じた所にいったように、この判断の本はぜひこれを意識の直接経験に求めねばならぬ。


 善とはただ意識の内面的要求より説明すべきものであって外より説明すべきものでない。単に事物はかくあるまたはかくして起こったということより、かくあらねばならぬということを説明することはできぬ。真理の標準もつまる所は意識の内面的必然であって、アウグスチヌス(アウグスティヌス。358年~430年。三位一体などを提起した古代ローマ帝国時代のキリスト教神学者)やデカート(デカルト。1596年~1650年。我思う、故に我ありと言ったフランスの哲学者)の如き最も根本に立ち返って考えた人は皆ここより出立したように、善の根本的標準もまたここに求めねばならぬ。


 しかるに、他律的倫理学の如きは善悪の標準を外に求めようとしている。かくしては、到底善の何故になさざるべからざるかを説明することはできぬ。合理説が意識の内面的作用の一つである理性より善悪の価値を定めようとするのは、他律的倫理学説に比して一歩を進めたものということはできるが、理は意志の価値を定べきものではない。


 ヘフディング(ヘフディング。1843年~1931年。『近世哲学史』を著したデンマークの哲学者)が「意識は意志の活動をもって始まりまたこれをもって終わる」といったように、意志は抽象的理解の作用よりも根本的事実である。後者が前者を起こすのではなく、反って、前者が後者を支配するのである。


 しからば、快楽説は如何、感情と意志とはほとんど同一現象の強度の差異といってもよいくらいであるが、前にいったように、快楽はむしろ意識の先天的要求の満足より起こるもので、いわゆる衝動、本能という如き先天的要求が快不快の感情よりも根本的であるといわねばならぬ」




 さて、善についていろいろ見てきましたし、その出来損ない具合もみてきましたので、かえって反面教師となってくれたといえるでしょう。


 われわれの心が目的としなければいけない、善。すなわち、われわれが踏み行うべき行為を決定すべき規範、規律はどこから見出さなければいけないでしょうか。それはつまり、われわれの心の直接の経験に求めなければいけません。


 善とは、ただただ心が自ずから欲するものであるべきであり、外から加えられるものであっては仕方ありません。こうしたいとか、だからこうなったということではなく、こうすべきだ、こうしなければならない、ということで心が何故善に向かうか、人はなにゆえ善人であろうとするかということを求めるべきではありません。


 この世の真理の原則も、つまり、心が求めるから、であり、アウグスティヌスもデカルトも、心の根本を見つめ直した人々は、己の欲する所に従ったのであり、善の根本もここにあると思います。


 しかし、他律的倫理学では、善悪の標準を自分の外にあるとします。そんなことではどうして人は善人になろうとするのか、ということは説明することはできず、自動的に、どうして人は善に従って生きなければならないか、いうなれば、どうして罪を犯してはならないか、ということもやはり説明することはできません。


 合理説が、人は理性に従って善も悪もなしうるのだ、と説明を試みるのは他律的倫理学説よりはマシだとはいえ、理性では自由気ままで勝手気ままなる人間の意志を固定するものではありません。言い換えるなら、誰もが認める善人でも悪事を犯す事は起こり得るし、誰もが目を背ける悪人でも善を行うことはあるものです。


 ヘフティングが「意識は意志の活動をもって始まりまたこれをもって終わる」といったように、こうすべきとか、こうあるべき、というふわっとした理解では人は動かず、こうしたい、ああしたいというもっと直接的な理由で人は動くのです。意志が意識を芽生えさせるというよりも、意識が意志を支配するのであります。


 では快楽説ではどうでしょう。感情というも意志というも、心の働きという点においてはほぼほぼ同じものといって差し支えありませんが、前にも申した通り、腹が減ったとか、あのねーちゃんかわええなぁとかいう、本能的な心の働きが先んずるものであり、そこに善だの悪だのという感情も理性も意志も追いついては来きません。




 といったところでしょうか。


「真理の標準もつまる所は意識の内面的必然」


 これは言い換えますと、吉田松陰先生の句、




【かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂】




 といってよいのかも知れません。これは、幕末動乱の頃、先生が日本にやってきた米国の船に乗り込もうとするも密航を幇助してしまえば外交関係に大きな傷が入ることを危惧した米国側によって拒否され、幕府に捕縛された時に詠んだうたとされます。密航という重罪を犯してでも、境地に陥った日本を救うにはこれしかない、と思い詰めた松陰先生の魂の叫びとも言えるでしょう。まあ、これはちょっと極端な例にはなりますが、しかし、孔子様はこうおっしゃっておいでです。




【70にして心の欲する所に従って矩をこえず】




 70歳になって、したいように振る舞っても、法に触れるような行いはしなくなった。




 というお言葉ですが、孔子様ですら、好き勝手に振る舞っても法に触れるような行いをしなくなるのに70歳までかかった、ということでありまして(まあ、2500年も前の中華で、70歳まで生きられた、ということに驚きを禁じえませんがw)孔子様ですら心が進化、成長するのにそこまで時間を要すると仰せなのに、そんじょそこらの人間がそんな簡単に行えるでしょうか。「真理の標準もつまる所は意識の内面的必然」と、キタロー氏はさも当然のことのように言ってますが、それがどれほど大変なことを言っているか、本当に本人は分かっているのでしょうか。まあ、次。p325




「それで、善は何であるかの説明は意志そのものの性質に求めねばならぬことは明らかである。意志は意識の根本的統一作用であって、ただちにまた実在の根本たる統一力の発現である。


 意志とは他のための活動ではなく、己自らのための活動である。意志の価値を定むる根本は意志そのものの中に求むるより外はないのである。意志活動の性質は、先に行為の性質を論じた時にいったように、その根柢(こんてい)には先天的要求(意志の素因)なるものがあって、意識の上には目的観念として現れ、これによりて意識の統一するにあるのである。


 この統一が完成せられた時、すなわち理想が実現せられた時我々に満足の感情を生じ、これに反した時は不満足の感情を生ずるのである。行為の価値を定むるものは一にこの意志の根本たる先天的要求にあるので、よくこの要求すなわち吾人(ごじん)の理想を実現し得た時にはその行為は善として賞讃せられ、これに反した時は悪として非難せられるのである。


 そこで善とは我々の内面的要求すなわち理想の実現、換言すれば、意志の発展完成であるということとなる。かくの如き根本的理想にもとづく倫理学説を活動説という。


 この説はプラトー(プラトン。紀元前427~紀元前347。古代ギリシャの哲学者。ソクラテスの弟子。アリストテレスの師匠)アリストテレース(アリストテレス。前384~前322)に始まる。特にアリストテレースはこれにもとづいて一つの倫理を組織したのである。氏に従えば、人生の目的は幸福である。しかし、これに達するには快楽を求むるにあらずして、完全なる活動によるのである」




「意志は意識の根本的統一作用であって」


 それってあなたの憶断ですよね? と言いたいので訳さずw


「感情と意志とはほとんど同一現象の強度の差異といってもよいくらいである」といいながら、舌の根も乾かぬ内に、意識が統一されたら意志になる、という。何が違うのか、わたしにはさっぱりわやですわ。こういうのは、カントの『道徳形而上学原論』を読んだ時にでてきた屁理屈、



「感性界とは、五感でもって認識できる現象などのことで、悟性界とは、単純に思考能力と言っていいかも。可想界とは、理性やら思考能力でのみ、認識できる超感覚的な世界のこと」



 というあたりで、こういう哲学者というのは、妄想を言語化しないと死ぬ生物だと理解しているので、だからキタロー氏がうにゃうにゃ言ってても右から左に聞き流しております。とは申せ、


「そこで善とは我々の内面的要求すなわち理想の実現、換言すれば、意志の発展完成であるということとなる。かくの如き根本的理想にもとづく倫理学説を活動説という」


 孔子様が、70歳になってようやく勝手気ままに振る舞っても法を犯さなくなった、とおっしゃった通り、人間というのは、自身が求める限り心を成長させるわけですが、それを活動説というようです。それは、快楽を求めるのではなく、知情意、知性・感情・意志をまったからせる、円満なる完成を求めるものである、と。ここらへんは、古代ギリシャ哲学は東洋思想となんら違いはないと言えるでしょうか。ではお次。p326




「世のいわゆる道徳家なる者は多くこの活動的方面を見逃している。義務とか法則とかいって、いたずらに自己の要求を抑圧し、活動を束縛するのをもって善の本性と心得ている。もちろん、不完全なる我々はとかく活動の真意義を解せず岐路に陥る場合が多いのであるから、かかる傾向を生じたのも無理ならぬことであるが、一層大なる要求を攀援(はんえん)(物にすがってよじ登ること)すべきものがあってこそ、小なる要求を抑制する必要が起こるのである。


 いたずらに要求を抑制するのは反って善の本性に(もと)ったものである。善には命令的威厳の性質をも具えておらねばならぬが、これよりも自然的好楽というものが一層必要なる性質である。いわゆる道徳の義務とか法則とかいうのは、義務あるいは法則そのものに価値があるのではなく、反って大なる要求にもとづいて起こるのである。


 この点より見て善と幸福とは相衝突せぬばかりでなく、反ってアリストテレースのいったように善は幸福であるということができる。我々が自己の要求を充たすまたは理想を実現するということは、いつでも幸福である。善の裏面には必ず幸福の感情を伴うの要がある。


 ただ快楽説のいうように意志は快楽の感情を目的とするもので、快楽がすなわち善であるとはいわれない。快楽と幸福とは似て非なるものである。幸福は満足によりて得ることができ、満足は理想的要求の実現に起こるのである。


 孔子が「飯疏食、飲水、曲肱而枕之、楽亦在其中矣(疏食(そし)(くら)い、水を飲み、(ひじ)を曲げてこれを枕とす。楽しみまたその中に在り)」といわれたように、我々は場合によりては苦痛の中にいてもなお幸福を保つことができるのである。真正の幸福は反って厳粛なる理想の実現によりて得らるべきものである。


 世人は往々自己の理想の実現または要求の満足などいえば利己主義または我儘主義と同一視している。しかし、最も深き自己の内面的要求の声は我々にとりて大なる威力を有し、人生においてこれより厳かなるものはないのである」




 世上のいわゆる道徳家という連中は、オークがこの意志のまったき完成を見逃しています。


 義務だの規則だのと、いたずらに自分の好物を抑圧、抑制し、禁欲生活こそ善の本性であると、悦に入っているものがいます。もっとも、未熟なわれわれのこと、心の円満なる完成なんて崇高な理想を理解できず、小利・小欲に走って無用な懊悩を抱えることも多いのでありますから、そういう禁止、禁則の意識を生じさせることも仕方のないことかも知れません。ですが、大いなる活動を行うに、ありがたい手助けがあってこそ、小利・小欲に打ち勝つことが出来るのであります。


 むやみやたらと禁止・禁欲を強いるのはかえって人間の心身を損なうものであります。善を行うに、善というものには、あれかし! という偉大さがなければいけませんが、ですがその中には、好きだから、楽しいからそれをするのだ、という人間の心を好転させる要素が不可欠でありまして、道徳の義務とか規則とかいうもの、そのものに偉大さがあるのではなく、好きだから、楽しいから行う、という点にこそ、善を行う本質があるのであります。


 そういう点から言えば、善と幸福は、矛盾する性質のものではなく、むしろ、アリストテレスの言ったように、善は幸福であるということができます。われわれが理想を追い求めるということは、幸福なのです。善の裏側には、幸せであるという気持ちが必要なのであります。


 ただ、快楽説のいうように、快楽を求めるのが意志であるからとて、快楽が善であるとは言えません。快楽と幸福は、同じ方向性に見えますが、心の段階に差異があるのです。


 孔子様が、粗末なご飯を食べ、水を飲み、自分のヒジを枕にして眠る。しかして、そんな生活にも楽しみというものはあるのだ、とおっしゃられたように、われわれは、状況によっては苦痛の中にあってもそれでも、幸福でいられることができるのです。本当の幸福は、本当の理想を追い求める人にこそ、得られるものなのであります。


 世の中の人は、自分の理想などといえば、利己主義だのわがまま勝手と思うものが多いようですが、ですが、自分の心の奥底から沸き起こる、本質的な理想の追求こそが、われわれに本当の力を与え、人生においてこれに勝るものはないのであります。




 同意w


 ここは、間然するところなし(ケチのつけようもない)。孟子も、




【天のまさに大任をこの人に降さんとするや、必ずまずその心志を苦しめ、その筋骨を労し、その体膚(たいふ)を餓えしめ、その身を空乏(くうぼう)にし、行いにはその為すところを仏乱(ふつらん)す】



 

 天が、まさしく大いなる仕事をその人に任せようとする時は、必ずその人の心や志を砕き、過労にし、窮乏させ、失意落胆させ、やることなすこと失敗させる。何故ならそれでこそ、人の精神が鍛えられるからである。




 といい、西郷隆盛公も、『南洲翁遺訓』の29で、




「道を行ふ者は、もとより困厄(こんやく)に逢ふものなれば、如何なる艱難の地に立つとも、事の成否身の死生(など)に、少しも関係せぬもの也。事には上手下手有り、物には出来る人出来ざる人有るより、自然心を動す人も有れども、人は道を行ふものゆゑ、道を踏むには上手下手も無く、出来ざる人も無し。故に只管(ひたすら)道を行ひ道を楽み、若し艱難に逢ふて之れを凌がんとならば、弥弥(いよいよ)道を行ひ道を楽む可し。(われ)壮年より艱難と云ふ艱難に(かか)りしゆゑ、今はどんな事に出会ふとも、動揺は致すまじ、夫れだけは仕合せ也」




 己の理想を成し遂げんとする人は、避けようがなく困難苦難に巡り合うものであるものであるから、どのような艱難辛苦に陥ろうとも、物事の成否や、自身の生死などには少しも気にしてはいけません。物事には、うまく出来ることや出来ないこともあり、人にも有能、無能とあり、不安動揺に悩まされることもありますが、人という生き物は、理想を成し遂げんがために生まれてきたのであり、理想を成し遂げるに、うまいも下手もなし、元来、理想を行えない、などという人もいるはずはありません。よって、ただただひたむきに理想をかかげ、邁進し、楽しんで、もし、艱難辛苦にぶち当たって、これを乗り切ろうと思うのならば、ますますもって楽しんで理想に邁進しましょう。かくいうわたしも若い頃より、ありとあらゆる艱難辛苦に巡り合ってきたので、いまさら不安動揺することはありません。それだけは……幸せでしょうかね?w




 とおっしゃられているように、キタロー氏のいう、「真正の幸福は反って厳粛なる理想の実現によりて得らるべきものである」「最も深き自己の内面的要求の声は我々にとりて大なる威力を有し、人生においてこれより厳かなるものはないのである」という言葉は、孔子様、孟子、隆盛公などがまさしくおっしゃることである、ということであります。


 そして、『南洲翁遺訓』などを読んで驚くべきことは、約200年前の隆盛公と孔子様や孟子は、つまり、同じレベルの偉人である、ということです。


 おっしゃることをつれづれ拝見するに、これらの方々のおっしゃることは異口同音と申すべきであり、同じ高さから発せられている言葉である、ということが分かります。これが東洋の学問の偉大なところですね。「道を行ひ道を楽」む方々は、やがて同じ境地に至るのであります。もちろん、安岡先生もこの境地におられるわけですね。


 こんなことができるのは東洋だけでしょうね。2500年前の偉人と、200年前の偉人が同じ偉大さであるわけですから。そう思いますと、西洋に、キリストと同じ発言ができた人が何人いたでしょうね。そして、だからこそ、隆盛公が明治政府内で疎まれたこともわかる気がしますね。なにせ、




【君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず】




 な人が自分の近くにいたらどう思うでしょうね。明治には燦然と輝く偉人たちがひしめき合っていたわけですが、しかし、孔子様クラスの隆盛公から比ぶれば小人といってしまってもしょうがないレベルな人々であったわけです。そんな、今孔明ならぬ、今孔子が近くにいたら、そりゃ煙たいでしょう。同して和さない小人たちからすれば。


 だから、隆盛公は明治新政府から排斥されたわけです。孔子様と同じように。本物の、至高の偉人から、まさしくケチのつけようもないド正論をはかれたら、そりゃ追い出したくもなるのでしょう。もしくは、美人が、自分の隣に不細工をおいてその引き立て役とするといわれるように、本物の偉人が近くにいたら、自分の俗臭が嫌でも臭ってくるわけですから、どれほど惨めな気分を味わうことになるでしょうね。


 偉人は嫉妬心なんておくびにも出しませんが、小人は簡単に吐露する。


 そしてますます差がつく。


 差がついているのは偉人のせいではなく、自分のせいなんだけど、そんなことに気がつくんなら初めから小人なんてやってない。「若し艱難に逢ふて之れを凌がんとならば、弥弥道を行ひ道を楽む」なんて出来ようはずもないから、臭いものに蓋をするがごとく、偉人を排斥する。追い出す。その場しのぎをする。


 大昔からの、日本人の宿痾(しゅくあ)でしょう。


 まあ、それはともかく、東洋の学問こそが偉人への最短キップ、ということです。ではお次。p327




「さて善とは理想の実現、要求の満足であるとすれば、この要求といい理想というものは何から起こってくるので、善とはいかなる性質のものであるか。意志は意識の最深なる統一作用であってすなわち自己そのものの活動であるから、意志の原因となる本来の要求あるいは、理想は要するに自己そのものの性質より起こるのである。


 すなわち、自己の力であるといってもよいのである。我々の意識は思惟、想像においてもまたいわゆる知覚、感情、衝動においても皆その根柢(こんてい)には内面的統一なるものが働いているので、意識現象はすべてこの一なる者の発展完成である。しかして、この全体を統一する最深なる統一力が我々のいわゆる自己であって、意志は最もよくこの力を発表したものである。


 かく考えてみれば、意志の発展完成はただちに自己の発展完成となるので、善とは自己の発展完成であるということができる。すなわち、我々の精神が種々の能力を発展し円満なる発達を遂げるのが最上の善である(アリストテレースのいわゆるentelechie(エンテレケレイア。完全現実態)が善である)。


 竹は竹、松は松と各自その天賦(てんぷ)を十分に発揮するように、人間が人間の天性自然を発揮するのが人間の善である。スピノーザ(スピノザ。1632~1677。オランダの哲学者。汎神論、神は神として存在するのではなく、世界そのものが神、という考え方をした、んだとか。これがやがて無神論になった、んだとか)も「徳とは自己固有の性質に従ごうて働くの(いい)に外ならなず」といった」




 またでましたね。「意志は意識の最深なる統一作用」これまたしちめんどくさいことを言っておりますが、ここで大事なことは、


「意志の発展完成はただちに自己の発展完成となるので、善とは自己の発展完成であるということができる。すなわち、我々の精神が種々の能力を発展し円満なる発達を遂げるのが最上の善である」


 一人の人間が理想をかかげ、その理想に邁進し、成長し、進化し、老成させる。これが、善である。と、キタロー氏はいうわけですね。


 ここにきて、結局のところ、善というものは、その人が心に掲げる理想に期待する外無い、と言っているわけです。


 つまり、世界的に、これこそが善である! という、規定すべき、規約すべきものなどはない、とはっきりいっているわけですが、しかし、考えてみますとそう結論づけざるを得ないのも事実でありましょう。人の世の歴史を見ますと、後漢とか、大唐帝国とか大清帝国とか、中華においても理想的で偉大な帝国を築いてきたにもかかわらず、結局これらが時代を経れば堕落し、外敵の侵入をはねのけるだけの溌剌はつらつたる精神、国力を失ってしまうのも、結局のところ、個々人の理想に期待する外無い、わけですからね。


 まあ、歴史的にみるのならば、創業の時代には理想精神が勇躍するも、それが安定してきますと、かつて溌剌としてあったはずの理想精神が滞り、淀んでくるに従って理想を失うものと言えるでしょうが。


 そういう点において裏読み(?)しますと、世界が民主政とか帝政とか、共和制などどのような政治体制を築こうとも、結局のところ、そこに携わる人間の理想いかんにかかっているのであり、政治体制の違いなどは些末な問題でしかない、と言えるでしょう。なので、帝政、王政よりは民主政の方がマシ、などといっても目くそ鼻くその問題でしか無い、といえるでしょう。


 事実、現在の中共は世界の地獄を現出しつつあるわけですが、しかし、トップダウンで迅速に支配者の意志が実現するのは確かに羨ましいものがあります。が、それはその案や政策が、素晴らしいものであったならば、の話であって、例えば三峡ダムがいつ決壊するのかがたびたび噂されておりますし、余りに余りまくったマンション乱立問題や、中華の各地に高速鉄道網を築いたは良いが、ぜんぜん利用客がおらず恐ろしい赤字になっているとか、そのトップダウンによって様々なことを行ったは良いが、ことごとくが失敗し、後世にとんでもない傷跡を残すことは必定であります。


 では日本はどうかといえば、日本の政治家は、米帝様や中共、北から鼻薬をかがされた連中でひしめいており、自分の国のために動こうという政治家などそうそういないことはつとに有名であり、国のトップがそんな有り様だから、日本人もそれにならって自分さえ良ければそれで良い、という風潮が長期的に、支配的になっておるわけで、明治の頃の理想精神はどこへやら、いまや沈殿して腐りまくってヘドロとなり異臭を放っておる有り様。何がきっかけで崩壊に向かうのか分かったものではない、という情勢です。これが確かにキタロー氏のいう、


「我々の精神が種々の能力を発展し円満なる発達を遂げるのが最上の善である」


 にあることは否めない事実でありましょう。


 とまれ( )(ともあれ)お次。p329




「ここにおいて善の概念は美の概念と近接してくる。美とは物が理想の如くに実現する場合に感ぜらるるのである。理想の如く実現するというのは物が自然の本性を発揮する(いい)である。


 それで花が花の本性を現じたる時最も美なるが如く、人間が人間の本性を現じた時は美の頂点に達するのである。善はすなわち美である。たとい行為そのものは大なる人性の要求から見てなんらの価値なきものであっても、その行為が真にその人の天性より出でたる自然の行為であった時には一種の美感を()くように、道徳上においても一種寛容の情を生ずるのである。ギリシャ人は善と美を同一視している。この考えは最もよくプラトーにおいて現れている。


 また、一方より見れば善の概念は実在の概念とも一致してくる。かつて論じたように、一つの者の発展完成というのがすべて実在成立の根本的形式であって、精神も自然も宇宙も皆この形式において成立している。してみれば、今自己の真実在と一致するのが最上の善ということになる。そこで、道徳の法則は実在の法則の中に含まれるようになり、善とは自己の実在の真性より説明することができることとなる。


 いわゆる価値的判断の本である内面的要求と実在の統一力とは一つであって二つあるのではない。存在と価値とを分けて考えるのは、知識の対象と情意の対象とを分かつ抽象的作用よりくるので、具体的真実在においてはこの両者は元来一つであるのである。


 すなわち、善を求め善に(うつ)るというのは、つまり自己の真を知ることとなる。合理論者が真と善とを同一したのも一面の真理を含んでいる。しかし、抽象的知識と善とは必ずしも一致しない。この場合における知るとはいわゆる体得の意味でなければならぬ。


 これらの考えはギリシャにおいてプラトーまたインドにおいてウパニシャッド(古代インド哲学)の根本的思想であって、善に対する最深の思想であると思う(プラトーでは善の理想が実在の根本である、また、中世哲学においても「すべての実在は善なり」という句がある)」




 こうしてみてきますと、善の考え方と、美の考え方はぴったりとくっついてきます。そも、美とはそのものが最上の理想を成し遂げたときにこそ感ずるものであります。理想を成し遂げるとは、その物がその物のもつ能力を全開放した状態のことを指します。


 例えば、花がなぜ美しいかといえば、その花がみずからのもつ能力をすべて使って花開いているから美しいのであり、同様に、人間が人間のもつもっとも理想的、本質的であった時にその人は美しいのであります。


 善を行う人は美しいのであります。


 たとえ、日常的な行動のひとつひとつが、高邁なる理想の見地からすれば大したものではなかったとしましても、その人が、素直な、真心のこもった日々を送っているのであればその人のことを美しく感じるように、道徳の見地からしても小さなキズ、罪をあげつらおうとは思わないものです。古代ギリシャ人は善と美を同一視しています。この考えはプラトンがもっとも表現しています。


 また、見方によれば善の捉え方は、その物の本質の捉え方とも一致します。前に申した通り、その人、その物の成長・進化というのがその物の本質の根本であり、精神も、自然も、宇宙も、本質的には成長・進化の過程といえます。


 そうしてみますと、今の自分自身の本質を、自分自身ではっきりと自覚するのがその人にとっての最上の善といえるでしょう。そうしますと、道徳というのも、その物の本質の中に自然とありふれてくるのであり、善とはすなわち、自分自身の本質を見つめ直すことなのだ、ということが出来るでしょう。


 心が求めるものと、その物の本質とは、本来ひとつなのであります。


 例えば、多くの人は神や仏に憧れますが、その人と、神や仏は、本来ひとつなのであってふたつあるのではありません。「即身成仏」であるはずなのですが、金銭や社会的地位や名誉などに囚われて、これらを分離してしまうのであります。


 すなわち、善を行うということは、自身の本質を知ることなのであります。合理論者が善と本質を同一視したのも一面、真実ではあります。が、概念のお遊戯的な神と、自分自身の中にある本物の神性は同じものではありません。ひたむきに理想に邁進した時に、本質を得るのであります。それをただ知るのではなく、見識を超えて胆識に至る。腹で、体で知るのであります。


 これらの考えは古代ギリシャのプラトンにおいても、古代インド哲学のウパニシャッドにおいても同様であり、ただ知識で知るのではなく、体で、善を行うのであります。




 と、大胆な意訳を行ってみましたが、合ってるかな?w


 まあ、いかにも哲学的なうにゃうにゃした言い回しではなく、わかりやすい言い回しを模索しましたらこうなりましたw


 とはいえ、実に大切なことを言っているので、ここは逸することの出来ない文章であります。


「いわゆる価値的判断の本である内面的要求と実在の統一力とは一つであって二つあるのではない。存在と価値とを分けて考えるのは、知識の対象と情意の対象とを分かつ抽象的作用よりくるので、具体的真実在においてはこの両者は元来一つであるのである」


 ここが非常に哲学的な言い回しで、隔靴掻痒(かっかそうよう)な気持ちになってしまうのですが、「内面的要求と実在の統一力とは一つであって二つあるのではない」とは、「内面的要求」というのは、自分が憧れるもの、自分の理想と解釈できます。「実在の統一力」というのは、それを実現する力、理想を成し遂げる自身の根性、気合、などと捉えることが出来るかと。


「存在と価値とを分けて考えるのは、知識の対象と情意の対象とを分かつ抽象的作用よりくる」


 人間というのは、実に誤解されておりますが、元来、とても尊いものであります。人とは、小さい神であるとも言えるでしょう。しかし、人が成長するに従って、ものの価値を知ったり認識したり、日常を生きて失敗したりくじけたりすることによって、自分自身を非常に卑下すると言いますか、とてつもなく卑小で矮小な存在だと決めつけてしまいますが、それは知識の上での自分と、本来あるべき自分を分け隔ててしまう気持ちから、もしくはそういう習慣や慣れや他の人々がそうであるからという理由で、自分自身を自分自身で見下してしまうのですが、元来、人という生き物は非常に神聖で、ありがたい存在であります。


 なにゆえ、人が悪事をなすかといえば、まさしく、「存在と価値とを分けて考えるのは、知識の対象と情意の対象とを分かつ抽象的作用」によって、自分自身を見下してしまうからに他なりません。自分自身という存在に対し、その本来あるべき価値を見捨ててしまい、世間的な、これまでの常識的な俗悪的な知識から、本来あるべき自分が欲する心という情意が、分離してしまうから、人は善から、神や仏から背を向けてしまうのであります。


 わたしがこういったブログを開陳するその当初から、人間は何故生きるか、それは神や仏になるためだ、と言っているのは、こういう次第であります。


 それを、無駄知識、概念のお遊戯に止めるのではなく、血となり、肉となり、骨となるまで学問し、思索し、日常化させる必要があるのであります。


 『礼記』という書物に、「四焉(しえん)」というものがあります。「(これ)(しゅう)し、焉を(おさ)め、焉に息し、焉に遊ぶ」といいます。焉とは学問のこと。学問を学んだら、それを忘れないようにすること。そして息をするように学問する。つまり日常化する。そして学問を遊ぶ。遊ぶように学問できるようになったら本物だということです。これがキタロー氏のいう、「内面的要求と実在の統一力」であり、内面的要求とは理想のこと、そして実在の統一力とはその理想を実現させる己の力のこと、それら理想を掲げ、勇往邁進し、楽しんで行えるようになると、四焉に至るということですね。


 つまるところ、理想を掲げたのならそれを行うのは当然自然のこと、と言えるでしょう。


 何故か。それが天然自然の人という生き物だから、と言い切って良い。


 では何故世の人々は理想すら持たないのか? それは知らんw まあ、そこまで学問が行き届いていないからでしょうw


 ちなみに、米国大統領のリンカーンはこういう言葉を残しています。



「人間、40にもなれば自分の面構えに責任がある」



 顔じゃないです。面構えです。ってか、英語でちゃんと面構え、って言ったかどうかまでは知りませんけどw 顔は生まれた時に親からもらったものですが、面構えは、その人の日常の考え方や学問の出来不出来が、言わず語らず浮かび上がってくるものであります。「目は口ほどのものをいう」とも言いますが、人間の顔は、本人が自覚している以上に自分の魂を反映しているものであります。


 だから、それを見る者からすれば、下手に言葉をかわすまでもなく、その人を見通しているものなのであります。


 東洋と言えど西洋と言えど、本質を知る人はあい通ずるものなのです。そして、結局のところ、人生とは、



「人は道を行ふものゆゑ、道を踏むには上手下手も無く、出来ざる人も無し。故に只管(ひたすら)道を行ひ道を楽み、若し艱難に逢ふて之れを凌がんとならば、弥弥(いよいよ)道を行ひ道を楽む可し」



 が、心から分かればそれで十分なものである、と言えるでしょう。学問をきちんとすれば、自ずと、分かるものであります。-人-


 といったところで、『善の研究』を読んだ。九の巻はこれまで。



 したらばな~。




『ぷにるはかわいいスライム』のOP・EDを聴きながら。


 特にEDは中毒性が高いw 本家本元には、迫力という点ではある意味当然及ばないものの、でも元々が素晴らしい曲であるので聴き応えがありますねぇw ちょっと、「チモシーラップ」に通じるものがあるかな?w


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