大陸の吉田松蔭「文中子」(一)
きっつい風邪をひいて結局五日ほど高熱が出、いまだにその影響抜けやらずな豊臣亨でございます。おこんばんはです。皆様も悪質な風邪はひかれませぬよう。ー人ー。
さてさて「文中子」さん。
わたしのブログでも2015/07/06に紹介させていただいたのですが、何分にも最初の頃でしたのであんまり長文引用するのもなぁ、と思い短い文章だけで済ませてしまったのですが、どうにもこの御方が気になって仕方ない。
というわけで今回は「文中子」さんをやり直してみたいと思います。
何と言ってももはや長文引用もお手の物(笑)ですので今回も安岡先生の書を長文引用させていただいて、のんびりと見てみませう。
こういうお方をしみじみと味識いたしますと本物の儒家と申しますか、本物の思想家というものがわかるのであります。
こういう人があってこそ初めて時代というのは率いられる、人の世は進化をするのであって現実に拘泥し、わかった顔をして曲学阿世で世を堕落させる似非為政者とは次元がそもそも違うということが分かるかと思います。
今の世には、チャイナやコリアは儒教があったから駄目だったんだ、的なことを言うものがいるそうですが、そういうのは本当の儒教とか儒家とかを真面目に学問をしたことがない不真面目なもののたわごとであります。大体、日本の江戸時代は儒教があるからあそこまで長年の太平を実現できたといって過言ではない。武士の支配とは一面軍事政権ではありますが、文を代表するのも武士であって文とはそれすなわち儒教に他ならない。士農工商という身分制度も、儒教を体現する武士が平民を治めるという秩序を維持する社会構造であります。その江戸時代に、偉大なる儒家、儒学者がたくさんいたことも逸することのできない事実であります。
また、少しでも学問を学んだのなら、孔子様や王陽明先生など真摯に人生を生きられた方の伝記を伺うだけで自分もそうあらねばならん、と思えるはず。そうならない、ただ軽々しく悪口を言うだけの人間は真面目な人生を生きていないのでしょう。哀れではありますが、自分でそう選んだのなら仕方ありますまい。
よりよい自分の人生を生きたいと思うのならば、こういう本物の人に触れて、静かに、確かに、自分を養うほかない。
では参りましょう。
老荘思想家のおっさんは語らない(笑)。
伺うのはいつもの安岡先生の書「禅と陽明学〈上〉人間学講話」 プレジデント社 p264
王通〈文中子〉
「これは見逃すことのできない人であります。この人と、その思想学問、教化を尋ねると、儒教というものを新たに味得することができます。それが王通(隋代の学者。字は仲淹、号は文中子。五八四~六一八)であります。文中子に『中説』という書があります。これは文中子の弟子が編纂したものです。今日はその書物の中から感銘すべき箇条を二十箇条ほど摘出して、これを紹介しようと思います。
この文中子は王陽明(王守仁。号は陽明。明中期の学者・政治家。陽明学の始祖。一四七二~一五二八)の弟子が編した『伝習録』の中に出てきます。陽明門下の顔回といわれる人がいました。その名を徐愛という。徐愛はどういうものか、非常に若死にをした。顔回その人も若死にであったが、徐愛も若死にをして陽明をたいへん悲しませた。この徐愛が陽明に、韓退之(韓愈。字は退之。唐の思想家・文学者。七六八~八二四)と文中子とを挙げて陽明の感想を尋ねる。その時に陽明が非常にはっきりと、「韓退之はあれだけ有名な人だが、要するに文人の雄に過ぎない」と言っております。まあ今日でいうならば、知識人、文化人の偉い人間に過ぎない。
しかし文中子については、「これは賢儒である。韓退之とは比較にならない」と言っております。
こういう批評はなかなかできないものですが、王陽明ともあろう人が、これだけはっきりと断定しているのは、よほど見るところがあるからであろうと思います。
この人は吉田松陰によく似ていると申しますか、むしろ吉田松陰とは比較にならないほど広大な人ですから、吉田松陰の方が彼に似ているといったほうが妥当であるかも知れません。
とにかく隋の吉田松陰といってよいような、非常に弟子から崇拝され、またその門から非常に人材が輩出しました。唐という革命王朝の建設に当たって活躍した、幾多の人傑がこの門下から出ているといわれる人です。
ただ考証学者にいわせると異論があります。それは、これほどの人であるにもかかわらず、遺著がほとんど残っていない。五経に擬した遺著があったということになっているが、それが一つも伝わっていない。またこれほどの人であるから、もっといろいろの書物に語られていなければならないのに、あまりに語られていない。考証学者にいわせると、その他いろいろと問題があります。
しかしそれに対する駁論もありますが、いずれにしても、それほどの人であるにもかかわらず、後世にいろいろの文献が残っていない。しかしながら調べてみると、やはり厳としてその存在を否定することができない偉大な人であります。
この人に残されたものはただ一つ、『文中子』(正式には『中説』)という、弟子たちが『論語』に擬して編纂したものだけです。読んでみるとおかしいほど『論語』に擬している。そういうところは厭味といえば厭味といえるんですが、しかし熟読してみると実に格調の高い本です。さすがと思われる。そしてこれはまた儒教というものの真精神を躍如として表していることは確かであります。これを老荘や佛教、禅と比べてみると、それぞれの特色がはっきりわかる」
名、字、諱、諡の区別
「この人は姓は王、名は通、字は仲淹という。仲とあるからこれは次男坊に相違ない。この人のお父さんは字は伯高、だから、これは長男ですね。未子だったら叔とか季とかついている。お父さんの名は王隆です。
これは余談というか参考ですが、名というものは生まれるとつけられる。その人の独自のものです。それに字というものを後になってつける。それを名を直接いうことは失礼であるから、本人に敬意を表してつけたのが始まりであります。だから人を呼ぶ時には字を呼ぶのが本当なんです。ところがだんだん、これは周代から始まっているんですが、後世になると自分で字をつけるようになった。それから今度は諱〈忌名〉というもの、これは死んで後、生前の名を避けてつけたもの、死んだ後呼ぶ名です。特にその人に敬意を表してつけたのが諡です。
名、字、諱、諡と四つあるわけです。字はだいたい後世になって乱れたけれども、原則として名に関連してつける。例えば(孔子の弟子の)顔回は字が回、名が淵である。淵であるから水が回流する。そこで回という字をつけられているわけですが、王通もそうで、淹というのは「ひろい」という意味である。あるいは「ひたす」という意味もある。「淹すに学を好むを以てす」(『礼記』儒行)という言葉があるが、また淹通という言葉もある。ひろく通ずることをいいます。通ですから、そこで淹という字を取ったものと考えられる。死んで後、弟子が「文中子」と諡いたしました。
これはいうまでもなく、『易』の坤の卦の「黄裳元吉、文中に在るなり」という言葉から取ったものである。乾を父の卦とするならば、坤は母の卦である。即ち物を生み育てる。万物を生み育てる力、徳を表したもので、その一番大事なのは第五爻であります。
この物を生み育てる母の如く物を生み育てるという徳の一番の眼目、主眼はどこにあるかというと、「文中に在るなり」。
文というものが中になければならない。外に出てはいけない。これが文中であります。
坤の卦にはまた「黄裳元吉」とある。
この黄色というのは坤を代表する色である。事実その通りであります。光の学問が発達して、太陽光線が分析されると七色に分かれる。その七色の中で黄色が一番、物をよく育てるということが証明された。波長からいうと、赤色、橙色、黄色、緑色、青色、藍色、紫色となるが、その光線を種子とか芽に照射して比較研究してみると、黄色光線を当てた時が一番よく伸びる。確かに黄裳元吉である。
だから万物の生成化育を旨とする王者は、すべて黄色を、着物にしても、壁にしても、屋根の瓦でも用いている。宮殿のことを黄屋という。こういう物を生み育てるという徳を持つものは、文が中になければならない。
綾、飾り、つまり中にあるところの理想に向かって進歩向上する徳、それの発揚がつまり文明文化であります。
そういう綾、飾りというもの、価値のあるものを中に持たなければならない。外に出してしまってはいけない。これが文中であります。だから例えば、母、したがって女性はいいものを持っていればいるほど中に保っておく。いい徳を、いい才能を、いい頭脳を、そういう徳、智慧、能力、才能、芸能、そういったようなものがあればあるほど中にもたなければならない。外にだしてはいけないというのであります。
王者また然りです。王者という者は、自分の才智、芸能を衒うようではいけない。渾然として中に湛えるものでなければならない。それが坤徳である。それが発して乾徳になる」
王通の父〈王伯高〉
「王通のお父さんの王隆〈王伯高〉という人がやはり非常に偉い人であります。これは親代々そういう傾向にあったものと見えて、隋の文帝(隋の初代皇帝。姓名は楊堅。五四一~六○四)が非常にこの人を尊重しました。漢の高祖(劉邦。前二四七~前一九五)を教えた陸賈(漢代初期の政治家)という人がいるが、これは『新語』という書物を出している。文帝は伯高を自分の陸賈であるとまで称している。直言を忌まなかった人で、文帝をつかまえて「あなたはまことにお偉い人だけれども、学問をしないのが欠点だ」とずけずけ言っております。
今時の偉い人たちも、みな偉いには相違ないが学問をしませんね。今の日本の偉い人は、いわゆる知識、技能はあるけれども、徳を養う学問をしない。文帝にとってもやはりそこが痛いところであって、それをずけずけ言っている。それにもかかわらず、非常に尊重されたが、結局田舎に帰った。故郷は山西省の龍門で、そこへ引っ込んで隠棲してしまった。
だいたい隠君子系統の人です。王通も全然世に出なかった。それはまあ時勢というものと併せ考えなければならない。乱世に出て野心家の有象無象と腕くらべをするということが嫌だったんでしょう」
隋の文帝
「王通は初めから出なかった。そして学問と教育に没頭して、世間的野心の全然なかった人です。そういう意味もあって文中子と諡したのですが、この隋の文帝という人はなかなか名君です。隋というとみな煬帝(隋の二代皇帝。姓名は楊廣。五六九~六一八)を思い出す。煬帝は文帝の次男でありまして名前を廣という。兄に勇というのがいる。姓は楊、文帝は楊堅というのであります。
この文帝は、揚子江北の後周(北周の別名。中国南北朝時代の北朝の一つ。宇文覚が建国。五代で隋に滅ぼされる。五五六~五八一)の大宰相になった人であり、そして天下を簒奪した人物でありますが、政治家としては非常に偉い人であります。やはり当代の王朝を開いただけの人であって、内政、外交の両面にわたって、非常に有能な卓越した人であり、政治家としては偉かった。けれども非常に気の毒な人で、家庭的には恵まれなかった。
第一その夫人が中国歴史上これ以上ないといわれるくらいの妬婦、やきもちやきの奥さんだった。これはどうも困ったろうと思う。中国の歴史を読んでみると、やきもちやきの婦人が多い。だいたい英雄の婦人というものは妬婦が多い。まあそうかも知れませんね。英雄色を好むといって、とかく英雄というものは女性に対しては行儀が悪いから、自然にそうなるのかも知れませんが、その文帝の夫人というのは就中極端な妬婦です。文帝が愛した婦人を片っ端から殺している。苗字は独孤という。いかにもやきもちやきにふさわしい、独り孤なりと書いて独孤という。
このやきもちやきの残忍な夫人の次男の廣というのが、これがなかなか奸雄で、さしもの難物の母をすっかり丸めた。だからこの青年、只者ではないことがわかる。それはいいけれども、お母さんを丸めただけではなく、非常な野心家でありまして、結局これが同志と部下をうまく操縦して、だんだん勢力を振るって、兄の太子およびその子供が七人かあったんですが、これを全部殺して、おまけに父皇帝が病気で寝ているのを毒殺して地位を盗んだ。
これが名高い煬帝であります。煬てい、といわないで、日本では煬だいといっておりますね。これは非常な奸雄ともいうべき人間、しかし人間のスケールは、政治家としては非常に大きかった人物です。当時としては毛沢東そこのけの大土木事業を盛んに行って、殊に黄河と淮河との間に無数の運河をつけたり、中国の交通行政の上でも一時期を画した人であります。
しかしこういう人ですから非常な独裁者であり、乱交も多かった。殊に遼東方面から朝鮮へかけて大遠征をやって、そのために非常な財政難に陥り、苛斂誅求をやりました。その末期になりますと至る所で農民の反乱が起こった。これに乗じて野心家が至る所で蜂起して、隋末の大動乱になった。そして結局、離宮で臣下の宇文化及(隋の反臣。六一八年、煬帝を殺し帝位につくが、翌年殺される。?~六一九)に殺されるんです。その時、ちょうど五十歳であった。まだ若くして非命に斃れた。
この六朝末期から隋にかけての非常な頽廃と動乱の時代に、王通もその父〈王隆〉も愛想を尽かして、文帝からそれほど尊重されながら、衣を振るって故山に帰臥してしまった。
そういう遺風を受けて全然世に出ずして道を楽しみ、書を著わし、弟子を教えて顔回と同じように年わずかに三十二、あるいは三十四と思われますが、三十そこそこで亡くなった。
吉田松蔭も数えて三十で亡くなった。そういう意味でもよく似ておりますね。だいたいそういう人であります。ここでテキスト〈『中説』〉に入りましょう」
【子不豫なり。江都變あるを聞き、泫然として興きて曰く、生民乱に厭くや久し。天それ、或は将に堯舜の運を啓かんとす。吾れ焉に與らざるは命なり】
「「子不予なり」普通ではない、楽しまない、つまり病気ですね。文中子が病気であった。そころが偶々「江都変あるを聞き」、これは煬帝が暗殺された(西暦六一八年)ということです。
さしもの煬帝が殺されたということを聞いて、「泫然として興きて曰く」、はらはらと涙を流して寝床に起き上がって曰く、「生民乱に厭くや久し。天それ、或は将に堯舜の運を啓かんとす。吾れ焉に与らざるは命なり」これがその時の言葉であります」
儒教の生命
「長い間いわゆる南北朝に分かれて天下が動乱を続けてきたのですが、もう民衆は乱に厭いて久しい。物窮まれば通ずで、これから立派な政治が行われる運を開こうとしているのかも知れない。しかしその新たなる堯舜の運、新たな意義ある立派な時代が開けようとしている時に、自分が直接これに与る(関与する)ことはできないというのは、これは命というものである。いかにも若くして聡明な、多感多情の天才的な熱血男児の面目が躍動していますね。
こういう天下国家、あるいは時代、その大いなる流れ、そういうものに情熱を持つ、そういうことが儒教の生命です。このような時代を超越しようとか、あるいはそういう時代に無関心であるとかいうのは老荘や佛教系統に多い。儒教、儒士というものは、あくまでも時代、人間、政治というものに高い情熱を覚える。それが一つの生命でなければならない。
つまり儒教の一つの特色は、どこまでもリアルであるということ。アイディアル(理想主義)というものが文中子の中にある。まず第一に、どこまでも現実に徹する。非常に現実的、実際的、社会的、政治的である。これが特色です。この時代的・社会的・民族的な熱血、情熱なくして儒というものを論ずることはできない。またそれでなければ儒とはいえない。
この短い一節が、陽明が「文中子は賢儒なり」といった一つの特色を表すものである。
別の所で彼はまたこういうことを言っている」
「子曰く、悠々として素餐する者、天下皆是なり。王道いづくよりして興らんや」
「こういう場合の悠々はいい意味ではありません。何もしないでのんべんだらりとしていることをいう。悠々に二つある。つまりいい意味は、落ち着き払って迫らぬことである。悪い意味は、のんべんだらりと何もしないこと。のんべんだらりと役にも立たないのにただ飯を食っているというのが素餐。ただ飯を食っているというのが見渡す限り今日の世の中の有様である。
「天下皆是なり」これでは「王道いづくよりして興らんや」王というのにはいろいろの意味があります。詳しくいえば王の一字だけでも何時間でも説ける。最も面白い意味は、天地人を一貫したもの、という意味を表すという。この解釈はなかなか哲学的である。あるいは「王は往なり」。天下の人心がそこへ帰往する、これが王である。あるいは王というもは玉を糸で結んだという字だ。原始的には玉の象形文字であるともいう。その他いろいろありますが、こういうのは面白い解釈であります。いずれにしても天下万民がこれに帰往するような徳を持った人が主、そういう徳をもって天下万民を帰往させる、懐けるというのが王道である。
そういう王道というような、人間の理想的な道がこれではどこから興るであろうか、興りようがない。いずれを見ても、のんべんだらりとしてただ飯を食っている有様である。そういう無為の時代に対する慨嘆である。
今でもそういう気が実際しますね。「悠々として素餐する者、天下皆是なり」艱難克己する風がどこにもない。末法の時代をよく著している。老荘や佛教の表現とだいぶ違っています。
【楚、難作る。使を遣して子を招く。子往かず。使者に謂ひて曰く、我が為に楚公に謝せよ。天下崩乱す。至公血誠に非ざれば安んずる能わず。苟くもその道に非ずんば、禍の先と為ることなし】
「「楚、難作る」。その隋の末期に至る所で動乱に乗じて野心家が盛んに現れた。いわゆる革命反乱の所在に勃興した中に、「楚、難作る」とありますから、これはおそらく今日の江西省鄱陽湖付近ですね。江西省の南昌とか廬山といったあの辺りが、つまり昔の楚であります。
そこに林士弘(鄱陽の人。隋末、操師乞とともに蜂起した。?~六二二)という豪傑が起こった。これは後失敗して殺されますが、その林士弘が王通に渡りをつけたのか、あるいは林士弘などが騒動を起こしたので、その地方の有力者、実力者が王通に助けを求めたのか、どちらか」
至公血誠
「「楚、難作る。使を遣して子を招く。子往かず。使者に謂ひて曰く、我が為に楚公に謝せよ」。私の代わりに一つ楚公に挨拶してもらいたい。「天下崩乱す」。天下が崩れ乱れる。「至公血誠に非ざれば安んずる能わず」。この血誠という言葉が後世よく使われる。誠は大事です。しかし血の通った誠でなければ、抽象的な誠、元気のない誠、生命のない誠ではしようがない。
「至公血誠に非ざれば安んずる能わず。苟くもその道に非ずんば、禍の先と為ることなし」どうしても止むに止まれない、それが必然にゆくべき道であるというならば、それはいかに禍を蒙ってもいたしかたない。やらねばならない。そうではないのに進んで禍を買う、即ち禍の先となる、自分が先頭に立って禍を招くようなことはすべきではない。だいたいこういう天下崩乱した時に、いい加減な人間が飛び出していって何の役に立ちますか。徒らに禍を蒙るだけのことである。この天下の崩乱を苟くもいかなる禍を蒙っても救うというのは、至公血誠でなければだめだ。
これは実に見識が透徹していますね。現在も誠の人はたくさんいる。ただ残念なことに血の気が足りない。いわゆる至公血誠でない。これはよほど血のたぎった誠でないとどうにもならない。と言われてみると、これは我々も痛いところです。その次も同じです」
【李密、王覇の略を問ふ。子曰く、天下を以て一民の命を易らず。李密出づ。子、賈瓊に謂ひて曰く、天下を乱さん者は必づ是の夫ならん。災を幸とし、禍を念ひ、強を愛して、勝を願ふ。神明與せざるなり】
「李密、王覇の略を問ふ」。この李密(隋末期の反乱指導者。五八二~六一八)もなかなか面白い男です。これも隋の末期に出た梟雄、奸雄の代表的な一人であります。家産を散じて大いに士を集め、またつとめて『孫子』『呉子』『六韜三略』といった兵書を読んだ。そして王者気どりで、いつも黄牛に乗って、牛の角に書物をぶら下げて、特に項羽伝を愛読したというんだから、項羽を以て任じたようですね。このことから彼の風貌をしのぶことができる。
たいていは漢の高祖(劉邦。前二四七~前一九五)の方を真似るものですが、高祖ではなくて項羽(秦の末期、劉邦と天下を争った一方の雄。前二三二~前二○二)を愛したというのだから、これはよほどロマンティックなところがあったに相違ない。
項羽というのは部下とも相抱き、相擁すようなところがあるかと思うと、怒ると何もかもみんなぶちこわしてしまうというような破壊性もあり、また反面に例の虞美人などと熱烈な恋愛をするというような、非常にロマンティックな者だが、漢の高祖となると、徳川家康みたいなもので、一筋縄ではゆかない。まことに老獪無双、見ようによれば堅実にして乗ずる隙のない人物。だから見物人からいうならば、家康だの漢の高祖などというのはあまり面白くない。それよりは欠点だらけ、しかしなんともいえない長所のある秀吉や項羽の方が面白い。
李密は大いに項羽を愛して、ひそかに自ら擬しておったのかもしれない。隋末の動乱に乗じて相当勢力を張ったが、運悪く山西の太原の方の鎮台(地方方面軍の長官)をしていた唐の高祖〈李淵、唐の太宗の父〉、この倅の李世民〈後の太宗〉、そういう英雄にぶつかったものだからやむを得ず、伊達政宗が豊臣秀吉に降ったようなもので、とうとう唐に降り、後に謀略の嫌疑で殺されたというような人物です」
天下を以て一民の命を易らず
「「李密、王覇の略を問う」。王道、覇道のあらましを尋ねた。そうすると王通曰く、「天下を以て一民の命を易らず」あるいは易えずでもよろしい。王通というものは、たとえ天下の為といえども一民の命を軽んじない。天下の為だから一人の人間ぐらい殺したって、犠牲にしたってなんでもないというのは王道ではない。天下の為といえども、たった一人の人間の命さえ決して軽々しくしない。これと取り替えない。これは非常な名言である。古来しばしば王道を論ずる時に引用される言葉です。「天下を以て一民の命を易らず」あるいは「一民の命に易へず」軽々しく取り扱わないという時は命を易らず。
ここらがマルクス・レーニン主義だとか、レーニン・スターリン主義とか毛沢東イズムだとかいうものと違うところだ。彼らは天下の為とあらば一民はおろか、万民を物ともしない。天下を以てすれば万民の命を易る。天下を以て万民の命に易えて悔いざるものである。そこに東洋革命精神と近代西欧革命精神と大いに違うところがある」
房杜 姚宋
「「李密出づ」。”何をいうか”というわけだ。そんなことを言っておって天下を取れるか。「子、賈瓊に謂ひて曰く」。この賈瓊という人がまた非常に偉い人です。後に唐の太宗の代、唐の太宗といえば房玄齢、杜如晦という大宰相(これを房杜という)、それから玄宗の時代に姚崇、宋璟という名宰相がいて(これを姚宋という)、この房杜、姚宋は名宰相、大宰相の典型としてよく引き合いに出される。賈瓊はこの房玄齢、杜如晦と並び称せられた人物であります。この賈瓊という人も弟子であったらしい。
「子、賈瓊に謂ひて曰く、天下を乱さん者は必づ是の夫ならん。災を幸とし、禍を念ひ、強を愛して、勝を願う。神明與せざるなり」災難を幸いとし、禍を考える。強を愛して勝を願っている。これは神が許さない。奸雄というものは天下が乱れなければ手足を伸ばす所がない。つまり世の中が乱れなければ頭角を表すことができない。腕を振るうことができない。だから野心家に禁物は平和です。
野心家は世の中が乱れなければどうにもならない。くだらない地位に甘んじて、こつこつと月給をもらってあくびをしながら暮らさなければならない。世の中が引っくり返るので頭角を表すことができる。乱を念うというのは野心家の常です。したがって大衆心理からいうならば、あまり長く平和が続いて、決まりきってくると面白くない。民、みな乱を念うということになる。
あまりきちんと世の中が型にはまってしまって、しかもその中に人間がぎっしり詰まっていると、どうにも手足の伸ばしようがない。大の男もろくなことはできん。月給といってもたかが知れているし、金を使おうといってもろくに使えない。仕事をしようにも仕事はない。そうなってくると理屈を抜きにして乱を思う。つまり破壊的になってくる。そうでなければデカダンになる。あるいは神経衰弱になる。それが極まってくると、何ということなく、やがて革命だとかなんとか、いわゆる乱を思うことになる。
そんな中から風雲児、奸雄などというのが出てきて、ムッソリーニとなり、ヒットラーとなり、スターリンとなり毛沢東となる。なり損ねた者はうやむやに消しとんでしまうが、その中の何人かが成功するというわけだ。これはしかしよくない政治の責任でもある。そういう乱を好むということは「神明与せざるなり」で、みな果たして終わりがよくない」
ここらでよかろうかい。
いかがでしたでしょうか。
ほぼ全部抜粋で、さすがにタイピングが上達してきた今日このごろではあります。一万文字程度の文章ですが、身にしみるような教えが随所にあったのではないでしょうか。
大体、儒教のお話をしている最中に光線のお話ができるものが、日本に学者先生が何人いるかは存じませんがそうそういやしないだろうと思うのであります。
こういうところ、奥深い東洋の古典を極めていながら、現代科学や医学にも精通しておられるところに、安岡先生の魅力を感じるところでありましてわたしなんぞは一読して今に至るも私淑致しておるものでございます。
では振り返って大切なところをみてみなすと、文中子さん、王通さんがどれほど偉大な儒家、思想家、であるかがおわかりいただけたのではないでしょうか。まだここでは始まりなので(二)の部で本格的にテキストを見るつもりですが、真心でもって教えを述べるところはまさしく吉田松陰先生を彷彿とさせるといいますか、まあ、時代的には文中子さんの方がはるかに先に生まれた方ですが、相通ずるところがあるかと思います。
こういう、至公血誠、本当の血の通った暖かな、人間味にあふれる至誠に触れたら、思わず襟を正さねばならないでしょうね。吉田松陰先生もそうですが、こういう方に教えていただきたかったなぁ、と思うところでございます。
「子不豫なり。江都變あるを聞き、泫然として興きて曰く、生民乱に厭くや久し。天それ、或は将に堯舜の運を啓かんとす。吾れ焉に與らざるは命なり」
この一文が特に好きなところでして、吉田松陰先生も時代に先んじて日本をなんとかせねばと、ほとばしる熱情のままに脱藩どころか出国を企てたけれども見つかって捕まり、しかも言い逃れせず処断されてしまうわけです。文中子さんも同様、今まさにこの動乱の果てに堯舜の運が啓けようとしているのかも知れない。古代からの本質的な王道政治が行われようとしているのかも知れない、今まさにこの時、是が、非であろうともそこに参画して王道を推進せねばならないのに、ところが、病気で自身の命すら思うにままならない。それもまた、運命、天命であろうか、とはらはらと落涙された、というところに非常に感激を覚えますね。
わたしなら逆に、このまま死ぬなら、つまりはもう生きなくていいわけだ。ああよかった。せいせいした。とでも言うところですが、ここに儒教の、儒家の、本当の思想家の偉大さに触れる気がするのですよね。
こういうお方があってこそ、人の世は本当に救われるのでありましょう。
今の世の中、まあ、これはこれで面白いのでありますがどうにも本当の教え、真剣に人間を生きようという誠実さ、切実さがなく、ただ表層、見た目だけ、人の目だけ気にして中身がないのが多くて疲れるといいますか、白けるといいますか、アホらしいといいますか、どうにも腹を割って自分をさらけ出したくなるような出会いというものがない。
生きておっても張り合いもなければ、己を尽くして分かり合おうという緊張とか高揚もない。
まさしく、「子曰く、悠々として素餐する者、天下皆是なり。王道いづくよりして興らんや」でありまして、こんなことをしておってはただ無駄に時間だけが過ぎて、ただ無駄に年を食って、何もできずに何もなせずに老いさらばえてゆくばかりではありますが、さりとて自分にできることなど限られているのも事実。
現状できることは、学問をして己を少しでもましな生き物にしようというぐらいであります。
そして、これぞ本当の思想家だと思える言葉が、この「天下を以て一民の命を易らず」ですね。
この言葉を聞いて思い返すのが東京都知事。かつて人気の絶頂にあって、政界に進出するのかとその機微を伺われ、大連合を組むかといった時、「リベラルは排除します」といった発言をして一挙にその声望を失ったことがありましたね。おかげですっかり過ぎたる野心は鳴りを潜めた模様ではありますが、これこそ、天下を以て一民の命を易るものなわけですね。
ああいった人物にも、こういう本当の学問が存在していないというわかりやすい証拠であります。
大事の前の小事、些事として人の命をなんとも思わず、切って捨てるようでは王道ではない。本当の王道は目的のために手段を選ばないことではないのであります。死力を尽くし、至誠を尽くして、すべての命を救う。すべての命を育む。慈しむ。これこそが王道であり、今の日本の日常では欠片でも伺うことのできないものであります。しかし、実は日本でこそ真の王道は完成されていたのだと、改めて気付かされるのであります。儒教というものを生み出しながら、チャイナやコリアが、永遠に真の王道を進めない、理解し得ないのもこの、歴史の違い、皇室の差なのであります。
日本だけが真の王道を歩んできたし、そして、この後も王道を歩んで行けるのも世界で唯一、日本のみ。このことをもう少し誰もが理解出来ると、今この時、日本人であること日本人として生を受けたことに心から感謝できるのでありましょうが。
すべて失ってから初めて本当の価値が分かる、なんてことがないといいのですけどね。
では、大陸の吉田松蔭「文中子」(一)はこれくらいにしておきましょう。
したらば。