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左翼の没落

すいません。張景恵ちょうけいけいだと思ってましたが王永江の間違いでした。お詫びして訂正いたします。202412/31



 お客様の中に、秋はいらっしゃいませんか……?? _ノ乙(、ン、)_


 ……いやまあ、例年10月の下旬までは暑いのは分かってはいましたけどねぇ。それでも暑い。_ノ乙(、ン、)_ 9月の初めに涼しくなるから秋が早めにやってくるのかと思わせておいて、夏が続くという。それ一番精神にくるやつや~。



 さて。今回は少し珍しく『西洋の没落』っぽい題名で、一席ぶってみましょう。とは申せ、これまで申し上げてきたことを言い直すといいますか、焼き直しをするだけですのでそこまで物珍しさはないです。


 昨今、左翼イデオロギーの異常さが水際立ってきた感がありますが、なにゆえ、左翼人種は失敗するのか、ということを思想的に見てみたいと思いまする。


 まずはそれがしの以前のお話、2018年頃の「敬」のお話を蒸し返したいと思います。また、安岡先生のお話をたくさん引用させていただいておりましたので、復習の意味も兼ねて、ぺたりと貼り付けておきたいと思います。




「人生の五計」困難な時代を生き抜く「しるべ」 PHP文庫。p132




「今まで家庭という時に、共通した長い、久しい欠陥の一つは「愛」が専ら説かれて、「敬」ということがなくなってきておるということです。子供というものは、本能的に分けて言うならば母に愛・慈愛、父に権威・尊敬・敬慕、こういう念を本能的にもっておるものである。


 私はよく言うのですが、人間と単なる動物とを区別する最も根源的なボーダーライン、境界の大事なものは何か。これを失くすれば、人間は人間の形をした獣になってしまう。これあるによって、人間が万物の霊長であるという境界を成す大事なものは何かというと、


 それは「敬」と「恥」であります。


 愛ではない。


 愛というものは、これは発達した動物になるとある程度もっている。特に高等動物となると十分に認められる。人間に根本的に大切なものは愛よりもむしろ「敬」と「恥」、この二つであって、これを失うと、人間はあきらかに動物並になる。人間という獣になる。しかも他の動物がもっておらぬ知識だの才能だのといういろいろなものをもっているから、これはどうにも難物になる。


 その獣類から人間を進歩せしめた造化の秘密とは何か。造化が長い間かかって努力して、天地の心を立つ。天地が長い幾億年もの造化の苦労を積んで、ようやく人間というものを創造した。内面的に言うならば、心霊の世界というものを開いた。


 つまり平たく言うならば、心を立てた。天地のために心を立つ、あるいは天地心を立つを成す。


 その心の最も人間的なもの、他の動物と違うキーポイントは「敬」と「恥」であります。


「敬」するということは、自ら敬し、人を敬するということ。


 敬という心はより高きもの、より大いなるもの、偉大なるものに対して生ずる。つまり、人間が進歩向上の心をもっておることだ。その人間が本具しておる進歩向上の徳によって、人間は自ずから、進歩向上の対象を創造する。創ることに対して、敬という心が生ずるのである。だから、進歩向上する人は、必ず偉大なる目標に向かって進まんとする。


 その進歩向上せしめる的になる者に対して、われわれは敬の心を生ずる。敬するということを分からない者には進歩がない、向上がない。


『論語』にもあります。


子遊(しゆう)、孝を問う。 子の曰く、 今の孝は()()く養うを()う。 犬馬に至るまで皆な()く養うこと有り。 敬せずんば何を以てか別たん」


 と。


 ただの愛だけでは動物でもあるもので、敬が生じなければいかんと力説しておる。カントの道徳哲学というものは言い換えれば「敬の哲学」と言うてよろしい。カントにしても、フィヒテにしてもそれは言える。この敬とそして恥、敬することと恥ずることが、一番人間の基本的、根源的な徳であります。敬することによって向上がある。恥ずることによって規律、自ら律するという規律というものがある。この敬するということを建前とすれば、これが展開するとやがて信仰・宗教というものが発達し、恥ずるという内省的なものが建前となると、道徳というものになってゆく。


 とすれば、宗教と道徳とはもともと一体のものであって、建前が違うだけのものである。宗教という時には敬が主になって、つまり表立って、恥ずるという道徳はその中に含まれる。道徳という時には恥ずることから生ずるところのいろいろの規律というものが表に立って、敬するという宗教のほうが中に入る。もともと一体のものの表現の相違にすぎないんで、宗教と道徳を截然(せつぜん)と二つに分けるという考え方は概念の遊戯であります。


 これらのことが日本語には実によく表現され、しかも使いこなされておる。まさに日本語の特徴の一つである。敬するということは、すなわち偉大なる目標をもつ、進歩向上の目標をもつということですから、そこで敬するということを知ると、その敬の対象に近づこうとする。できるならば、それに親しみ、一つになろうとする。


 そこで敬する、敬うということを日本語で「参る」という。


 神に参る、仏に参る。


 これがだんだん普遍化して「父の家に参ります」という具合になった。やがて「何々して参ります」とも使われるようになった。非常にいい言葉であります。


 西洋で男女が愛する。ラブとか、リーベンとかいう言葉がたくさんありますが、日本では「参る」といういうのです。西洋の「愛する」という言葉の中には敬がない。


 日本語は愛することを参るという。例えば「俺はあの女に参った」と言う。これは女を愛することよりも、もっと進んで、あの女は偉いと、自分は頭が下がるということなんです。だから「愛している」なんて言うのでは駄目で、「参った」と言わなければ本当の愛ではない。ことに女が男に参ったというより、男が女に参ったというのが面白い。面白いと言うてはおかしいが、味が深い。だから、結婚も、愛しているからと言うぐらいの結婚では、これは動物的であって駄目なんである。双方が相討って「参った」ということになって初めて本当の結婚が成り立つわけなんであります。


 それは、まだいいが、日本語でもっと感服するのは勝負をして負けた時に「参った」と言うことです。これは絶対に他の国にない。日本語独特の値打ちのある言葉です。たいてい勝負をして負けたら、悔しい。憤慨、自嘲、いろいろそういう嚙んで吐き出すような言葉が多い。一番下劣なのは「クソッ」とか「畜生」とか何とか言う。失敗をし、相手に負けたら「クソッ」とか「畜生」なんて言うやつはだいたい駄目だと思っていい。ところが日本人は「参った」と言う。参ったと言うことは、負けた相手を偉いと認識、感服することです。これはいい言葉です。


 この頃の思想家とか、評論家、ことに進歩的文化人なんていうのは、こういうことが一つも分かっていない。敬すれば参る。参るという以上はどうしてもなるべく側へ近づきたい。いわゆる親しみたい。側にいって何でも努めたい。いわゆる灑掃(さいそう)(掃除のこと。灑掃の労をいとわずとかいう)でも承りたい、これを(はべ)る、()すると言う。


「はべる」あるいは「はんべる」


 参れば(はべ)りたい。そして、単に側へ近づき、共に暮らしたいばかりでなく、もう本当に参るというと、何もかも要らなくなる、


 すべてを捧げたくなる。


 それを「祭る」という。


 侍るとか、祭らうとか、日本人は何かというと、「(つかまつ)る」「(たてまつ)る」とみんな「まつる」と表現する。漢字でもよく表しております。


 例えば、最も典型的なものは「(さい)」という文字。これは食うもののない原始人が命を支える大事な肉(月)を右手(∋)でもって、神に自分の命の糧を奉るという意味である。「示」は神棚で、神を示します。祭祀とよく言うが、「祀」という字は(ほこら)という字と同じ意味で、その人が亡くなっても、亡き人にいますが如く仕えることを言う。


 これは東洋道徳精神というか、東洋の人間精神の非常に本質的なものであります。


「侍る」に対応する言葉は「(さぶら)ふ」「(さぶら)ふ」ということである。


 こういう敬の道徳に徹して生きようとした階級が、つまり「武士」であります。だから武士のことを「さむらい」と言う。侍とは敬する者に参って、それに(はべ)り、(さぶら)い奉ると言うことである。


 一命を捧げて、それに近侍していくという道、それがすなわち「武士道」であります。侍とはそういう心、道を本体とした階級であります。


(中略)


 だから、敬というものが大事なんで、子供はもう純真であるから、本能的に敬の心をもつ。愛は動物の昔から、もとより本能的に備えている。だから「敬愛」でなければいかん。あるいは「愛敬」でなければいかんのであります。これを切り離すといけません。家庭では、子供は自ずから父に敬を抱き、また敬を求める。そして母は愛の対象としておる。それなのに、昨今の児童研究、児童教育学、あるいは社会学、心理学、いろいろの方面からの家庭問題についての議論はきわめてナンセンスである。


 家庭というと、専らこれは安息所で母の座、母が大事である、子供を育てるのはすべて母・愛だと言う。古来から英雄、偉人の母はみんな偉かったと、親父は抜きになってしまっとるんです。家庭の居候みたいになって、高等居候的立場にある。親父どももまた家庭というものは、家族の安息所、休憩所のように考えている。そして、家庭へ帰るというと、おおよそ不敬だ、自ら不敬の存在になってきたわけであります。


(中略)


 程度の差こそあれ、世の男ども、親父どもは、だいたい家庭は安息所と心得て、家に帰ったら、どうも暴君ぶりというよりは、だらしのないところを見せる。安心して、うち寛ぐ。うち寛ぐのはいいけれども、うち崩れてはいかん。


 子供のほうは幼いほど、親父を敬の対象としているわけだ。それだから、子供は親父の大きな帽子をかぶったり、大きな親父の靴を引きずって歩いたりする。


 これを目のない、心のないお母さんたちは可愛いいたずらだと思っている。大きな間違いであります。


 ユーモラスにのみこれを見て、指を差してワーワー笑って、言わば可愛がる。子供は何もおどけてやっとるんじゃない。子供ながらに、親父の帽子をかぶり、親父の靴を履いて、親父たらんとしておるんです。だからよく似合うとか、何とか褒めてやればいいものを、この子供はもうユーモラスだとか、おどけてるとか、何とか批評する。あるいは愛護かもしらんが、こういう愛護は無知の愛護というものである。


(中略)


 ここに現代日本の悲劇というのか、滑稽というのか、堕落というものがある。


 ともかく精神的に堕落しとるということは、こういう些事でも分かる。だから、まことに荷が重いけれども、親父というものは、これはやはり家庭にあって、自ずから敬の対象でなければならん。子供が接して、自ずから敬する親にならんといかん。


「レーデン・アンディ・ドイッチェ・ナシオン」


 つまり「ドイツ国民に告ぐ」という大講演でフィヒテでやはり「敬」の大切さを説いておる。「愛する」ということばかり言っておってはいかん。家庭で大事なのは父の敬である。「父子の間の敬である」ということを言うておるが、これはもう東洋では、古来通説、自明の理であります。


 分業すれば、父の敬、母の愛、そこで不幸にして一方が欠けると、面倒である。その場合には、父が敬と愛と両方の対象にならなければいかん。逆に母が父を兼ねなければならんというのは、母にとっては大変な重荷だ。非常に難しいことだけれども、これは大事なことであります。


 いずれにしても、子供の「敬」の対象である父の存在は健全な家庭の欠くべからざる要であります。そのためには、言葉とか鞭で子供に対して要求したり説教したりする前に、父自身が子供から「敬」の対象たるにふさわしい存在たることが肝腎です。父の存在そのものが、子供に本能的に敬意を抱かしめる、彼の本能を満足させる存在であること、それが父たるもののオーソリティであります。


 だから、父の存在、父の言動そのものが子供を知らず知らずに教化する。簡単に言えば、父の存在・父の姿、行動が子供が本能的に真似するものでなければならぬ。


 そうなれば、父たるものは子供の前で大あぐらをかいて、下品な言葉で怒鳴ったりするようなことが一番いけない。本当は子供が起きた時には、父親がもうちゃんと起きて正座しておるとか、親父の前へ出たら、子供は自ずからにして姿・形を正す。父の言葉が自ずから子供を服せしむという風でなければいかん。しかるに、そんなことは封建的でいかんとか何とかくだらない低級な理屈をつけて、一緒にふざけたり怒鳴ったりすることが人間的進歩的であるふうに考えたこれまでの習慣は大変な間違いであったと言わなければなりません。


 それなら二六時中、親父はしゃちほこばっていなければならぬといけないかと言うと、そんなものじゃない。その中に春風駘蕩たるところも、ユーモアもあるわけです。



 細川幽斎(一五三四~一六一〇)はその晩年、(せがれ)の忠興(一五六四~一六四五)が来た時は、まったく寛いでくだけた態度で応対したが、六丸という幼い孫が来た時は、ちゃんと姿勢を正して慇懃(いんぎん)に会った。家老が、


「ご当主に対してはあんなにくだけてご引見なさるのに、お孫さんにはどうしてそんなに形を改めてお会いになりますか」


 と聞くと、幽斎は、


「もう倅はできてしまったものだから、それでよい。孫はこれからものになるのじゃから、こちらも敬して会わねばいかんのだ」


 と言ったので、家老が感服したという話があります。


(中略)


 そうして生まれた児童というものは、これは人生の曙である。清く、明るく、健やかなるを(たっと)ぶ。胎児をだんだん育ててみると、それは実証できるけれども、まず明かりにというものに敏感になるんです。それから清潔ということ、清いということに非常に敏感です。昨晩、私たちの座談の席で、豚の話が出たんでありますが、世間は豚というと不潔なもののように思うておる。ところが豚は非常に清潔を好む。豚を飼うには豚を清潔に養ってやらなきゃならんということは専門家がみなよく知っておる。


 人間の子供もそうです。清く、明るいということが、人間のあらゆる徳の最も根本的な徳です。そこに古代神道(しんとう)の非常なデリカシーがある。微妙な貴い点がある。


 清く、(あか)きとか、さやけくとかいう言葉がそれである。したがってその時は、非常に静かです。静まっておるから、清く、明るく、静かということは、神道(しんとう)の眼目であります。子供を育てるのはそうでなければなりません。清く、明るく、健やかなるを(たっと)ぶ。


 子供を不潔にして育てたりなんかしてはいかん。そうすると、大きくなって必ず不潔をやる。汚職だとか、涜職(とくしょく)だとかいうようなことをやるのは、みんなこの頃からの悪縁である。清く、明るく、静かに育てたらそんなことはできない。してはいかん、しては法に触れる、分かったら大変だ、などということで取り締まることでは、これはもうそもそも堕落であります。


 そうではない、不潔には耐えられん、汚いことはできんというのが本当の道徳。


 これは大いに子供の時の育ちに関係する」




 いつもながら、安岡先生のお言葉には襟を正させられるものがございます。こんな偉大なお方のお言葉が、今の日本にはまったく生きていない、活かされていない。……いやまあ、今の日本にはそれがお似合いかな。それはともかく、「敬」というのは、理想精神をもった人間が、必ず備えるものであり、逆に言えば、理想なんぞない下らない人間には、人を敬する、などという精神がございません。


 昨今、とみに有名になったうびソフト。日本にリスペクトして、などといいながらまったく敬意のかけらもないことがネット界隈では文字通り、連日取り上げられております。


 むか~し、「誠意大将軍」、と揶揄された犯罪者がおりましたが、口にするだけで一向に行動と一致しない、ということほど腹が立つといいますか、侮蔑、ひんしゅくを買うことは世の中にはありませんが、このうびソフトの行動こそ、敬意というものを徹底的に欠いた、人としてもっとも侮蔑されるべき存在であることは言うまでもありませんが、2018年にもお話したとおり、この「敬」という、人を敬う、という精神は、己を敬うものである、ということであります。


 他者を敬うことによって、自身もそれに準ずる、敬われるに値する存在である、ということを自身から発する、行動する、ということであるわけで、自身を敬える人間は、他者も敬える、他者を敬える人間は、自身をも敬う、ということなのです。


 そして、こういう左翼が何故自沈するかと言えば、間違いなく、他者を敬うことを知らないからであり、そして自動的に、自分自身を敬うことを知らないのであります。


 とはいえ、多くの左翼共は、自分自身を大事にしている、と思っておるでしょう。しかし、そこのところがはなはだしい思い違いなのであり、そして、左翼が恐らく一生かかっても気が付かない、理解できない部分なのであります。多くの左翼は、自分は大事にするが、他者なんぞないがしろにしても良い、と思っておるでしょう。他者をないがしろにしても自分自身さえ大事にしておれば、それで万事、事はなると思っておる。むしろ、それが正解であるとすら思っておる。


 ですが、それこそが思い違いなのであり、そして、左翼には絶対に理解できない精神なのであります。


 そして、それはマルクズなどの人物をみれば火を見るより明らかであります。マルクズのような人間は、他者から金を借りてでも豪奢な生活を欲しました。金を湯水のごとく蕩尽し、なくなったらまた金の無心をする。そのような生活を恥とすることよりも、金を貸さないものに烈火の如く怒る。むしろ、金を持っている人間に激しく嫉妬し、そういう人物を革命によって引きずり下ろすことを考える。そういうどクズが、マルクズです。


 自分を利することだけを考え、他者を利するにはどうすればよいか、など考えたこともない人生。それがマルクズであり、劣化マルクズである左翼分子です。


 孔子様は、かつてこう申されました。




【利によって行えば怨み多し】




 もう、たったこの一言で左翼という存在が論破されているわけですが、利益とは、自分を弥増すものであると同時に、他者をもいや増すものでなければならない。そうでなければ、怨みを買って、その後に何が起こるか分かったものではない。それは、何か復讐されるかも知れない、というだけではないわけで、例えば、一帯一路で中共が諸外国に結局のところ不利益ばかりを及ぼしているから、それらの国はもはや中共に頼ろうとしなくなるであろうということ。


 やはり共産国家に頼るのはだめだ、とばかりに今度は米国に靡く可能性が飛躍的に増大するわけで、そうなったらせっかくの同盟国、利益共有国が、歴然たる敵国になる可能性が高まるわけです。まあ、確実にそうなってゆくでしょう。自分自身さえよければそれでよい、という政策によって、せっかくの味方が次々に敵側に流れてゆくわけですから、中共の行いは、自身を利するように見えて、実際は利敵行為なわけです。


 うびソフトの株価がイーグルダイブしていることをみても明らかなように、NHKや朝日新聞の信用が地に落ちているように、すべて、自身を利するように奴らには見えているのでしょうが、それらは結局のところ、自身を不利にしているばかりなのですが、悲しいかな、分からない。何故、そんな簡単なことが分からないのか。つまり、それが理想精神を持たないということなのであります。「敬」という、理想精神、向上心をもった人間なら、必ず気づくこと、分かることが分からないというのが左翼という存在なわけです。


 孔子様はこう申されました。




疏食(そし)(くら)いて水を飲み、肱を曲げてこれを枕とす。楽しみもまた、その中に在り。不義にして富み且つ貴きは、我においては浮雲の如し】




 質素な食事をし、ひじを曲げてそれを枕として寝る。普通の人間なら嫌がるような生活であろうと、真の楽しみというものはその中におのずからあるものだ。かえって、悪事を働いて高い階級に位置し、贅沢に生きることはわたしにとってはいつ消え去るか分からない不安な生活と言える。




 こういう言葉もあります。




【士、道に志して、悪衣悪食を恥ずる者は、未だ与に(はか)るに足らず】




 こころざしを持つものでありながら粗末な衣服、粗末な食事を恥ずかしいと思うような者とは、重大な議論を交わせることはできない。




 理想精神をもつものなら、貧困にそこまでこだわらない。むしろ、悪事を働くだとか、見栄だの体裁だの、表面を取り繕って中身がないことの方によほどこだわらねばならない。


 こだわるポイントが精神のレベルが上がれば上がるほど違ってゆく、ということですね。理想があるのなら、多少の貧困になどこだわる理由はない。いえ、言い切ってしまえば、貧乏でも良い。最悪、顔回(がんかい)さんのごとく、飢えるか栄養失調で死んでも良い。そんなことより、己の精神が堕落することのほうが許せぬ。己の命の保全より、己という人間が、他者を踏みにじって屁とも思わぬ下衆に成り果てるほうがよほど我慢がならぬ。


 それが人間のレベルが上がるということであり、その真逆をゆくのが左翼という人種であります。


 そして、理想精神という観点から見れば、左翼、共産主義者という人種は、資本主義の敵、のように振る舞っているようですが、実際にはこの両者にはさほどの違いなど無いことが分かるでしょう。


 目先の利益に固執し、見栄を張り、自身の豊かさのみを追い求める。


 米国の現実と何が違うのでしょう。もう少し言えば、わたしから見れば、こういう左翼のほうがよほど自身の金にこだわる、固執する、薄汚い銭ゲバに見えます。いえ結局のところ、資本、自由主義といえど、社会、共産主義といえど、同じく両者が西洋イデオロギーから発したものである以上、そんなに大差など無い。理屈と膏薬はどこにでもつく、というように、この両者の違いなど屁理屈のレベルであって、孔子様や儒教などの東洋思想から見れば、愚にもつかない概念のお遊戯にしか過ぎない、ということが分かるのであります。


 そして、そんな愚にもつかないお遊戯ではない、本物の、実践的な理想を目指したのが東洋思想であり、ほとんどの人が知らないであろう隋の末、唐の始まりの時代にいたであろうとされる伝説的な儒学者たる、文中子さん。この方の言葉に、東洋思想の精髄がある、と言っても過言ではないです。名を王通おうつうさんといい、文中子は号。唐の時代の主要なメンバーに教育を施したとされる、中華の吉田松陰先生といわれるほどのお方です。


 こういう言葉があります。




【天下を以て一民の命を(あなど)らず】



 

 (あなど)らず、または、()えず。天下という大義のためといえど、たった一人の民衆の命であろうと軽んじない。


 大義のための小事とか些事、とか言ってすぐに人を殺すのはしょせん左翼風情に過ぎない。本当の理想はどれほどの大義であろうと一人の犠牲すら甘受しない。それがやむを得ない犠牲であったとしても、最初から織り込み済みでは東洋思想としては低級。


 しゃらくせぇw と嗤う人もいるでしょうが、日本においてはその理想が実現した時があったように思います。


 例えば、江戸城無血開城。


 錦の御旗を押し立てた官軍率いるのは、かの西郷隆盛公。そして、その交渉にあたったのは、一刀正伝無刀流という流派を起こした剣聖にして大悟徹底した、まさしく、剣禅一如を体現した山岡鉄舟さん。


 今の我々は、江戸城と言えば、無血に開城した、という歴史事実しか知りませんが、恐らく、その当時の人は、いよいよ江戸幕府も鎌倉幕府と同じ末路をたどることになるだろうと思っていたことでしょう。江戸城につめた武士たちは、いざ鎌倉、とばかりに城を枕に討ち死に、それが誉れ、と思っていることだろう、と。


 しかし、そうはなりませんでした。


 勝海舟から委託を受けた鉄舟さんは、西郷さんがいる官軍本営へ、お供を連れただけで、「幕臣、山岡鉄太郎まかり通る!」と大音声でずんずん突き進んだのだとか。その、あまりの堂々とした威風に官軍の兵士たちも驚き恐れてまったく手出しができなかったそうな。そして、西郷さんの帷幕にたどりついて開城の交渉にあたった。


 恐らく、これを勝海舟自身が交渉したとしても同様の無血の結果に至った可能性はあるでしょう。交渉相手が西郷さんですから。しかし、この時、海舟は江戸城を離れられなかったといいます。なんでかといいますと、江戸城の中はまさしく幕臣でひしめいており、先祖代々の御恩に今こそ報いる時、という血気にはやりまくっていたそうで、海舟が離れると一気に暴走してしまう恐れがあったそうな。だから、鉄舟さんに交渉を委託したんですね。


 このような方々のおかげもあって、江戸城が炎に包まれることは回避されたわけですが、そうはならなかった事実もあります。その後の戊辰戦争や会津戦争。自身の手柄に目がくらんだ世良修蔵らのような人物によって戦争に向かって突き進んでゆくこととなるのです。そして、世良は恨みを買って暗殺されます。


 理想をもって生きている人はむやみやたらと戦端を開くことをよしとはしない。誰であろうと血が流れることをがえんじない。が、そうではない小人は欲に目がくらんでなんでもする。出来ることならなんだってする。これはいつでもそうですが、幕末、明治には確かに西郷さんとか鉄舟さんのような理想精神を備えた方がおられたわけです。日本には確かに、理想を以て旨とする偉人がおわしました。


 そして、その小人のもっとも顕著なるものが左翼と言えるでしょう。


 こういう、2500年も昔から歴然とあった理想精神は左翼にはありません。


 先ほど申した、孔子様や安岡先生のお言葉が、左翼には見向きもされない。これこそが、理想精神を失ったということの証左と言えるでしょう。特に、安岡先生は昭和の終わりまで大活躍された方であったにもかかわらず。


 今の日本では、安岡正篤(やすおかまさひろ)、というわれてもあんまりピンとこないでしょうが、安岡先生は、東京帝国大学を卒業後、卒業論文の『王陽明研究』が話題を呼び、それが縁で海軍大将であった八代六郎氏に、わしは貴方の弟子になるとまで言わしめ、そこから政財官軍やご皇室、日本の上層部のありとあらゆる層に支持者を得、ナチスの幹部と会談し、満州の諸葛孔明と言われた、王永江(おうえいこう)氏と一見して肝胆相照らし、マッカーサーからはA級戦犯と目されるも、蒋介石が安岡先生は立派な方であるから処罰してはならない、電報を打ったと言われます。


 その当時の第一級の人物と列せられるほどの人でありながら、今の日本ではほぼ空気。左翼が日本の言論、マスコミ、教育を支配しているからある意味、当然と言えるかも知れません。知れませんが、ある程度世に名を知られたほどの人物でも安岡先生や東洋思想の重要性を理解している人はほとんどいない。少なくとも、わたしが見ている範囲において、東洋思想の重要性を理解している左翼は一人もいないですね。


 例えば、小林よしのり氏。


『戦争論』などを上梓した漫画家として、その界隈ではとみに有名な方で、わたしもずいぶんと学ばさせていただきました。当初は左翼思想家であったそうですが、第二次大戦、大東亜戦争などを学ぶうちに中道になった、などと自認する方です。今は知りませんが、少なくともわたしが知っている限りでは東洋思想を重視しているような雰囲気は一切なかったですね。


 この小林よしのり氏に東洋思想が身につけば、鬼に金棒じゃね? と思っていた時期がわたしにもありました。


 なので、当時はゴー宣道場なるものがありまして、その道場に参加したものです。で、道場員たちが参加するメンバーチャットなどで学問の重要性を説き始めたのですが、そうしたら、んな座学はよそでやれ。と道場員に言われる始末です。


 ほんの少し道場員などをみて思った、気づいたのが、彼らもやはり、東洋思想の重要性など知りもしない。論語など読みもしないし、気にもしない。興味もない。中には読んでいる人もいましたが、ほとんどの人は興味ない。そういうのがすぐにわかってゴー宣道場に参加することを即座にやめまして、なのでこういう座学をやっているわけですw


 これは明治以降の日本人の特徴と言えるかも知れません。


『禅の研究』で見ても分かるように西田キタロー氏も、一応目を通してはいるようですが、儒教や東洋思想の重要性などかけらも理解していないことは明らかですね。


 これがわたしにはさっぱり分からない。


 例えば、般若心経に興味がない仏教徒がいたらどう思うであろうか。


 旧約聖書、新約聖書になんの興味もない、知りもしないし読む気もない、などというキリスト教徒がいたらどう思うか。


 今を生きるわたしの信仰に過去の文献などなんの価値もない、という信念をもった人もいるやもですが、しかし、それでもそんな人は信用するには値しない。どうせたいしたことないんだろうなぁ、と思う他はない。


 そう思った時に、日本の思想、哲学を語ろうという時に、東洋の思想を何も知りもしない。興味もない。という人物は、これは一体どういうことだ?? 『善の研究』と、大風呂敷を広げておきながら、西洋のことは学んだようですが、父祖伝来の東洋思想に何の関心も抱いていないというのはどういうことなのだ??


 日本の歴史を網羅しようと思ったらまず初めに神話から初めて、旧石器時代や縄文時代、それから弥生、古墳と学んでゆくはずなのに、どうしてこれが東洋の思想・哲学となったとたん、儒教や老荘思想だけはぽっかり穴が空いてしまうのだろう?? 自分たちのご先祖様がなにを学び、何を考え、その当時の政治を行ったのか、と考えたら東洋思想を学ぶ他はないはず。少なくとも江戸時代までは儒教はちゃんとあったわけですし。老荘思想は仏教に隠れていたそうですが、それでも確かにあった。


 なのに、どうして日本の思想、哲学、政治を語る人間は東洋思想になんの興味もないのだろう。


 わたしにはさっぱり分からない。


 新しい一万円札のお顔となられた渋沢栄一さんも、それを見るときに、ただただ成功者という面だけをみて、なにゆえ成功したのか、どういうバックボーンがあってあのように成り上がったのか、ということまでちゃんと着目しているでしょうか。『論語と算盤』にも着目しているでしょうか。


 明治以降の日本は、西洋の文化が入ってきたら東洋に関しては、まさしく、呪いにかかったかのように、興味が失われてしまったわけです。それこそ、新しいものが良い、古いものは悪い、と古くなってしまった衣服を捨て去るかのように東洋思想・哲学を遺棄してしまったわけです。


 とんでもない思い違いです。


 こと、思想・哲学に関しては、新しいか、古いかではありません。


 正しいか、間違っているか。です。


 ポリコレだのDEIだの、左翼は新語を生み出すことには得意のようですが、間違っているものを受け入れるわけにはいきません。


 孔子様はこうもおっしゃっておいでです。




【異端を(おさ)むるはそれ害のみ】




 異端とは、間違った学問のこと。間違った学問を学ぶことは百害あって一利もない、と孔子様は仰せです。


 まあ、世界が、日本が、本当の正しい道を選ぶのはまだまだ時間がかかるようですが。


 孟子はこう言っていますね。




【自らに顧みて(なお)くんば千万人といえども我ゆかん】




 自分が正しいという確信があるのならば、千万人が敵と回ろうとも構わない。




 これもまた、左翼人種には決して無い理想精神です。理想があれば、この確信があれば、左翼には染まりません。


 とはいえ、世界の風潮はまだまだ左翼傾向が強い。一応、対局を自称しているはずの米国ですら左翼の巣窟と化しているわけですから、世界から左翼が一掃されるにはまだ一世紀か二世紀かもっとか時間はかかるでしょう。しかし、これだけは間違えることはない。それは、絶対に、左翼は没落する、自滅する、ということを。



 とまあ、左翼の没落を語ってみた、ところで今宵はこれまで。


 したらばな~。






『うたわれるもの』OP・EDを聴きながら。


 怪獣大決闘!!


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